古絵葉書・写真

2020年7月 4日 (土)

二つの「千々石橋」~雲仙市千々石町

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某日、下の白黒の葉書を手に入れ、私、地場産ではないため、千々石生まれ、千々石育ちの、昔美人だったと思われる方に「これ、千々石橋?」と聞いたら「千々石橋は国道にある方でしょう」とのご返事。

上の写真、向こう側が国道にある橋。昔、雲仙鉄道が走っていた所です。手前の橋は、島原街道の道で、島原から田代原を通り千々石を通り森山町唐比に到る街道にかかっています。


一応、橋の名前を見てみると、上の国道の橋、「千々石橋」「竣工 昭和29年7月」。


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島原街道に架かる橋「千々石橋」「竣工 平成7年7月」。

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ということで、おかしいじゃありませんか。同じ町内に同じ橋の名前。

困るでしょう、「千々石橋の所で待っているよ」と約束をし、彼女が国道の橋、彼氏が旧街道の橋。すれ違いで「君の名は」(古いな~)の悲劇になるじゃないですか。もっとも、今は携帯があるので大丈夫でしょうが。私も、若いときに携帯があったら、もっと違う人生になっていたかなと、橋のたもとで思いました。

ということで、少し調べました。


下の左の写真は千々石町の”老人クラブ連合会”で作った「千々石町 懐かしいふるさと写真集」(平成4年刊)。説明には「大正12年 千々石橋渡り初め式(先頭は椿山家)」となっています。現在の橋は右の写真になり、架け替えたことは一目瞭然。


で、「千々石町郷土誌」(平成10年刊)によれば、「千々石橋」と「新千々石橋」の記載があり・・・


「千々石橋」、架設年月が昭和29年1月。即ち、国道に架かっている橋。

「新千々石橋」同じく平成7年8月(ママ)。街道に架かる橋。(多分、橋に書いてある7月が正解なのではないかと思うのですが・・・)。これでなんとなく納得?。

当然、「新千々石橋」が先に架かっているので「千々石橋」。国道筋が新しいので「新千々石橋」ではないかと思うのですが、理由は分かりません。


下の地図は「明治33年測図及び則図の縮尺昭和17年第2回修正則図及び及び修正則図の縮図同25年応急修正」です。

千々石橋あたりを拡大しました。


千々石町郷土誌には「大正12年温泉軽便鉄道(千々石~愛野)開通」。「大正15年 小浜鉄道(千々石~北村)開通」(ここら辺、多少の疑問あり)。となっており、温泉軽便鉄道の千々石駅は国道の「千々石橋」の愛野寄りにあり、小浜鉄道が着工されるまでは、国道の鉄橋はありません。

国道は雲仙鉄道(昭和8年温泉軽便鉄道と小浜鉄道が合併)が廃止されたのが昭和13年ですから、この後、鉄路が道路になり、鉄橋が橋になったのではないかと思われます。


地図の赤丸、上が国道の「千々石橋」。下の赤丸が街道の「千々石橋」。茶色の矢印が「国道」。緑の道路は片側が実線、片側が点線なので、「道幅2米以上の町村道」ですから昭和25年頃には、国道と町村道が混在していたことが分かります。 


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左が大正12年の橋の渡り初め。右が現在の橋。作り替えたのが分かります。

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下の絵葉書は時代が分かりませんが、裏をみたら英語で走り書きがありました。

この風景、千々石橋の近くにしかありません。大正12年の橋とは違うことが分かります。特に橋脚の所、木で作ったものだと思われます。上の方は木製なのか、土を固めたものかは分かりません。


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下は旧家から出てきた絵葉書で、年賀葉書に使っていて「明治41年1月1日」の日付があります。「千々石川畔ノ松並木」とありますから、この風景、千々石橋の近くだと思われます。

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現在の千々石川、橋の上から撮りましたが、松の様子など見ると、今も同じですね。

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明治42年の絵葉書、赤丸の所、何やら橋みたいなので拡大してみました。赤丸の所なんとなく、橋脚みたいな感じです。

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さて、問題なのがこの「千々石橋」という名称。

明治12年の「千々石村村史」には、「中島橋」「上町橋」「金谷下ノ橋」「同上ノ橋」「大門橋」との記載があり、後者の4つの橋は全然該当地区でなく、ただ、「中島橋」に「木造三等道ニ属ス 村ノ西北千々石川ノ下流二架ス 長九間幅壱丈水ノ深四尺海潮橋下に到ル」との記載があり、また、「千々石史談第三号」に郷土史家関良孝氏の書かれたものには、明治12年の千々石村村史を引用しながら「中島橋(千々石橋のこと・・・」との記載があり、「中島橋」が「千々石橋」であったかと思われます。なお、この橋は海からそう遠くないところにあり、「・・海潮橋下二到ル」とはピッタリします。


なお、「中島橋」の名称については、この川は「中島」という地区も通っており、「中島橋」というのも、うなずけるところです。

ということで、この橋は架け替えがあるとはいえ、明治12年には存在していたことが分かります。

「島原藩主 長崎監視の道」(島原殿さん道の会刊)に「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房を召して『長崎の事務を監察せよ』と命じました。忠房は参観の前後、長崎を巡視して直接その詳細を将軍に報告していました。」と書いてあり、この本の地図を見れば、松平忠房公はこの道を通っていたと思われます。

お殿様を駕籠から下ろし、川を渡らせるとは考えにくく、多分、江戸時代から橋があったのではないかと想像するのですが・・・

今日は多少お疲れ気味で、乱文でしたm(_ _)m。



2020年5月24日 (日)

「ネガからポジへ」~NEGAVIEW PROを使って見たら(小浜風景)

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今はデジタルで写真を撮るのでフィルムはいりませんが、昔は白黒写真の場合、フィルムを使い写真を撮り、ネガフィルムを印画紙に焼き付け、白黒反転させていました(カラーの場合は同じ手順のネガフイルム、そのまま色がでるリバーサルフイルムもあり)。

で、この度、雲仙・小浜の写真を数点手に入れましたが、これがガラスの乾式フィルム。ネガ・ポジを反転させる機器は持っているのですが、これ、35㎜フィルムしか使えず、私の入手したものは12㎝✕16㎝で、とうてい利用できません。


昔は卒業式の記念写真など撮るとき、カメラの大きな箱に黒布を被せ、乾板をセットして、「はい~、レンズの所から鳩が出ますよ、1,2,3」とやっていました。この頃は、「ピース」などの言葉はありません。


写真屋さんに持っていったのですが、今は昔の現像機が無いとかで、スキャンしたり、LEDビューアーを使いカメラで撮ったりしましたが面倒くさいので、何か無いかと探していたらYouTubeに、簡単にネガからポジへ変換できる「NEGAVIEW PRO」(カラーのネガでも利用できます)というAPPの紹介があって、便利そうなのでAPPストアーで、400円弱であったので入手しました。


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使い方は簡単で、ビュアーもしくはタブレットを利用して、画面を消し光度を最高に上げ、その上にネガをのせアプリを起動させ、スマホで撮ります。画面の調整もできます。

左がネガ、右がポジに直したところ。昔、フィルムで撮った写真、家に写真のネガが残ってい
ると、ちょっとチェックするのに便利です。パソコンに取り込めるので、データにすると永久保存版ができます。

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入手した写真板を3枚ほどポジ写真に直してみました。

一番上の写真、小浜の海岸の埋め立てです。小浜の湯元、本多西男氏が小浜の発展のため、自費を投じ明治28年に埋め立てを始めています。明治44年に埋立て五千坪が竣工(小浜町史談より)。


上の写真、向こう側が完成しているようなので、明治40年頃かなとは思いますが・・・


下の写真は堤防の所だと思いますが、旅館などの所はかなり整備されています。


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同じく堤防の所ですが、沖の大きな船、茂木から小浜へ通う客船ですね。多分。

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あと十数枚残っているのですが、場所が特定できないので、そのうち調べに行こうかと思っていますが、小浜は近年も埋め立てがされており、なかなか難しいですね。

なお、写真板は保管が悪かったのか、ごらんの通りカビがはえたり、幕面が裂けたりで保管が大変です。


2020年5月16日 (土)

第五回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」

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「えんがわ・一畳の気まぐれ資料館」も5回目を迎えました。

4月に準備はしていたのですが、コロナの緊急事態の影響で、人を集めるのはどうかという事でPRを控えていたのですが、市内の公共施設も使用ができるようになり、長崎県も緊急事態を緩和したので、一月半の遅れになりましたが、今日からPRをします。


今回は、安永7年、242年前の長崎之絵図と、寛正年間、220、30年前の江戸の絵図と、長崎市の明治~戦前の古絵葉書の展示になります。


長崎之絵図は博物館等に時々展示してありますが、ケースの中で小さくしか見えませんが、こちらはすぐ近くで見られます。

なお、現在の地図をもとに、アーケード、新地、元岡政、思案橋等の場所など分かるように書き入れています。今の地図と比べれば、この頃長崎駅の場所は海の中でした。


江戸の絵図は島原藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷の位置を図示しており、上屋敷は現在の数寄屋橋公園、中屋敷は慶応大学、下屋敷は中目黒にありました。安政6年の復刻版の地図を置いているので、こちらは自由に広げてご覧下さい。


「島原藩江戸屋敷」についてはブログに2回ばかり載せていて、あと2回ばかり載せる予定です。ご覧いただく展示の地図を見るときの参考になるかと思います。→こちらをクリック →こちらもクリック


長崎の古絵はがきは、このブログにも登場したものもありますが、昔の長崎市の姿と比べれば面白いかと思います。手持ちの絵葉書はまだあったのですが、場所の制約で全部は展示できませんでした。残念。

展示は6月末までを考えていますが、なにしろ”気まぐれ”なので、延期するかもしれません。


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前回の「栗原玉葉・森川青坡・正月用の引札」展は意外に人気があり、市内はもちろん市外の方も訪ねてこられ、盛況でした。ご来場の皆様には感謝申し上げます。特に「栗原玉葉」は地元出身の画家でありながら、 現物を見る機会も少ないので再度展示をしたいと思っています。

「えんがわ」は千々石郵便局の近くにあります。


 

2020年2月18日 (火)

「諏訪神社の神馬」~諏訪神社★長崎の古絵葉書⑤

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「神馬(じんめ・しんば・かみうま)」。昔は本当の馬を奉納してたそうですが、金がかかるし、貰った方も飼育に手がかかるしということで、馬を奉納する代わりに、馬の絵を描いて奉納をしたそうです。正月に願い事を書いて奉納する「絵馬(えま)」の起こりだそうです(多分、ここは、皆さんで調べてみてください)。

諏訪神社の神馬像。この神馬像は「アルバム長崎百年 華の長崎」(ブライアン・バークガフニ著)に「靑銅の神馬は、長崎製鉄所(現・三菱長崎造船所)の創業記念として明治3年に奉納された」ということですが、残念ながら「太平洋戦争中の金属回収により供出された」そうです。


現代の神馬は、「北村西望」102歳の時の作品。昭和天皇御在位60年を記念して、昭和60年に奉納されたものです。


で、上の写真は長坂を登った中門と拝殿の間の広場ということが分かると思います。写真で、柵の有り無し(左の写真後ろの方に柵らしき物が見えますが・・・)、灯籠の形が違いますが、右の写真の灯籠は新しいものと思われます。


で、もう二枚絵葉書を手に入れましたが、場所が違うんですね。「アルバム長崎百年 華の長崎」には「昭和3年に諏訪公園口に移された。」とは書いてあるのですが、左の写真赤丸印が「神馬」。後ろの建物どう見ても「月見茶屋」。ただ、月見茶屋の所に鳥居があるかどうか、記憶にございません、でしたのですが、諏訪神社のホームページの「境内散策」の所に「境内全図」の絵図があり、月見茶屋の所にちゃんと鳥居が描かれていました。と言うことで、この神馬、月見茶屋の所に移されていたことが分かります。

もっとも、少し行った所から左に下ると「諏訪公園(現長崎公園)」ですが・・・

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下の写真が「長崎公園」。長崎公園のFacebookによると「明治6年に太政官布16号の配布により公園に制定された」そうです。太政官布16号による全国21の公園は日本でも最古の公園だと言われているそうです。

最初は「諏訪公園」。明治22年に維持管理を県から市に委譲され、翌年市設公園として「長崎公園」と改名されたということです。

絵葉書には「諏訪公園の一部」となっているので、明治23年以前の絵葉書だとは思うのですが、未だに「諏訪公園」といってる方もいるので、どうなんでしょう・・・?


この公園、入場料がロハなので小さいときによく来たものでした。懐かしい~(^_^)v。


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2020年1月18日 (土)

「時計塔」があったげな・マジで~長崎市浜町★長崎の古絵葉書④

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最近古絵葉書を集めて、「諏訪神社の『靑銅の大鳥居』」「『蛍茶屋』と『一の瀬橋』」「『浦上駅』が『長崎駅』」ということで紹介をしましたが、浜町の絵葉書を見ると何やら時計塔が写っていて、あれ?時計塔があったけ?

ということで、長崎の写真集をあせってみると、下の写真、「ふるさと思い出の写真集 明治大正昭和 長崎」(越中哲也・白石和男共編)に載っていて、ただ、この時計塔については「現在の長崎第一の繁華街浜の町通りで、時計塔が写っているのが珍しい、大売り出しのときには一割引がはやった時期である」との説明で、どこの店屋の時計塔かは書いてありません。

もう一冊の本「アルバム長崎百年 長崎浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」(ながさき浪漫会)にも載っていて、横型の写真ですが、風景、歩いている人が同じなので、同じ写真からとったものだと思われます。こちらの説明は「浜の町商店街と思われますが今と比べれば道路が少し狭い感じもします。このころの浜の町の表店(おもてだな)の道路は三間二尺(約六メーター)でした。当時としては勿論、大通りでした。 大正時代」となっているのですが、時計塔については何も触れてありません。

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最後に見つけたのが「アルバム長崎百年 華の長崎」(ブライアン・バークガフニ編著)。さすが、ブライアンさん。説明は「浜の町鉄橋方面を臨む。右手は佐々木時計の時計台。左の洋風建築は活動写真常設館『喜楽館』。屋根越しに長崎県庁が見える。」ということで、この時計塔「佐々木時計」の時計塔でした。

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で、佐々木時計がどこにあったかというと「長崎浜の町繁盛記」に「明治末期浜の町」ということで「市丸茂の記憶図」というのが載っており、本当は左右に長いのですが、私のスキャナーでは入りきれないので、主な部分だけ載せると(クリックすると拡大します)、緑の所、右から「岡政呉服店(後の岡政デパート)」「長崎警察署」「石丸文行堂」。赤いところ一番右が「佐々木時計店」。このころもう一軒時計屋さんがあったみたいで左の赤の所が「谷口時計店」。

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「浜の町繁盛記」には明治の終わりの本通を中心とした主な商店の紹介がしてありますが、時計店として「佐々木時計店 佐々木熊吉 東浜町35」「谷口時計店 谷口三郎 同11」の記載がありました。

昭和10年の図では見当たらず、この頃は店が無かったのではないかと思われます。昭和36年の浜市商店連合会加盟店では時計店として「岡本時計店」と「稲田時計店」が載せてありました。


佐々木時計店の時計塔、残っていれば名物になっていたと思うのですが・・・



2019年12月16日 (月)

「浦上駅」が「長崎駅」???~「長崎駅」の変遷

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上の写真は「長崎駅開業110周年」の記念乗車券と共に配られたカバーです。一番後ろに、写真でいえば、一番左になりますが長崎駅の変遷が書いてあり、長崎駅に関係するところだけ抜き出してみます。

明治30年(1897)  7月22日 長与ー長崎間開通。長崎駅(現浦上駅)開業。

明治38年(1905)  4月 5日 浦上ー長崎間開通。現在地にて長崎駅開業。従来の長崎駅は浦上駅に改称。
大正 元年(1912) 10月21日 新駅舎(2代目駅舎)
昭和20年(1945)  8月 9日 原子爆弾投下により駅舎焼失。8月末(仮駅舎完成)まで防空壕等で執務。
昭和24年(1949)  3月 9日 新駅舎(3代目駅舎)完成。三角屋根の異国情緒漂う駅舎に。
昭和63年(1988) 11月22日 長崎駅リニューアル。
平成10年(1998) 11月17日 新駅舎(4代目駅舎)完成。
平成12年(2000)  9月21日 新ビルアミュプラザ長崎グランドオープン。
平成17年(2005)  4月 5日 長崎駅開業100周年。
平成27年(2015)  4月 5日 長崎駅開業110周年。

ということで、このカバーは2015年に発行されたものです。


駅舎の説明として、右のページ、左上から「初代 長崎駅」(この写真は長崎大学附属図書館蔵になっています)その下が、「2代目 長崎駅」、右に行って上が「3代目 長崎駅」、下が「4代目 長崎駅」。


で、「長崎駅」がなぜ「浦上駅」かというと、このころ長崎駅の敷地は海の中でした。下の地図は長崎文献社から刊行された「長崎惣町復元図」。


この地図、昔の地図に、よく見ないと分からないぐらい薄く、現在の地図が重ねて書いてあります。


赤の〇印が「長崎駅」、緑の〇印が「ホテルニュー長崎」。「現長崎駅」は「浦上駅が長崎駅」といっていた頃は、まだ、埋め立て造成の最中でした。


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で、長崎駅に関しては上の写真のほかに下のような写真等があります。

左は「ふるさとの思いで写真集 明治大正昭和 長崎」(越中哲也・白石和男共編★図書刊行社)。説明としては「長崎の鉄道は九州鉄道株式会社の手によって明治三八年四月五日開通し、この駅が長崎駅として現在地に建設された。そして、この駅舎は大正二年(注:大正元年の間違いか?)国鉄の手により改築された。」となっています。


右が、「長崎駅開業88周年記念」のオレンジカード。要するに「米寿」の記念です。


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下は同時に発売された「長崎駅開業88周年記念自由席特急券」。真ん中に「祝 米寿」の文字。右下に説明文で「明治三八四月開業当時の長崎駅」。ということなら、この駅舎が2代目でいいのでは無いのか?一番上の写真にも載せてないのはなぜかと思って調べたら「長崎県事典・産業社会編★長崎文献社」に以下のように書いてありました。

「港湾埋め立て工事が完成した翌明治38年日露戦争に必要な軍需品輸送の円滑化のため臨湾延長線の設置が急がれ現長崎駅所在地に仮駅舎が設けられた。同年四月開業、ここが長崎駅となり従来の長崎駅を浦上駅と改めた。仮庁舎の長崎駅は大正元年十月二十一日、本庁舎(木造二階建て)竣工とともに新庁舎に移転、・・・」ということで、この建物はあくまで「仮庁舎」ということで、カットされていたという事です。でも、なんとなく、この駅舎の写真もったいないナ。


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ということだったのですが、左の写真(長崎大学附属図書館蔵)が初代の駅舎になりますが、もう一枚、右の絵葉書「長崎停舎塲(場)」「Rallway Station at Nagasak」と書いてあります

多分現浦上駅(旧長崎駅)だと思うのですが、同じようでも屋根の違い、煙突の違い、柵の有無など違っており、どうなんでしょう?ただ、右の写真は「明治四十二年」のスタンプが押してあり、このころは「浦上駅」は「長崎駅」から「浦上駅」に改称されていたはずなのですが・・・昔の絵葉書にスタンプを押したということも考えられるのですが、これについては謎でした。


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各写真、ボケていますが、クリックするとはっきり見えます。


2019年11月25日 (月)

「蛍茶屋」と「一の瀬橋」~長崎の古絵葉書②

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橋は「一の瀬橋」で、このことについては以前書いたので→こちらをクリック

今回は「蛍茶屋」の事です。長崎に19歳まで暮らし上京し、その後30歳でUターンしましたが、この蛍茶屋、電車の停留所があるので名前は知っていたのですが、恥ずかしながら、いわれは知りませんでした。


「長崎事典 風俗文化編 改訂版」(長崎文献社)に次のように書いてありました。


蛍茶屋(ほたるぢゃや)

現在、蛍茶屋という所には、昔、蛍茶屋という料亭があった。矢上への街道筋一ノ瀬橋のたもとである。初代は甲斐市左衛門といい天保八に没しているから一八三〇年代には蛍茶屋は存在していた。
大正時代まで続きその後はなくなった。江戸時代には、市中の人々はよくここに来て清宴(ママ)を催した。旅立ちの人を見送り、ここで別離の杯をくみかわしたりした。(中略)夏は蛍が飛び交う閑静な場所であったので蛍茶屋の名前がある。

さて、一番上の絵葉書「1906」の年号、もう片面には「長崎 39.11.18」のスタンプが押してあり、西暦1906年は明治39年でピッタリになります。もっとも、10年前の絵葉書を使う方もあり、この絵葉書が明治39年であるかどうかは確定できませんが、明治39年以前の絵葉書であることは確実です。


で、この橋のたもとの家が本当に「蛍茶屋」かどうかですが、ブライアン・マークガフニ氏著「花の長崎 秘蔵絵葉書コレクション」に3枚ほど写真が載せてあり、2点ばかりコピーしたのが下の写真。赤〇印のところ。家の様子がちうんですね。上の写真は2階建てで、かなり大きい、下の写真は、私の絵葉書と一緒で、ごく普通の様子の家。
(良く見たら、私の絵葉書とブライアンさんの下の絵葉書、説明の文字が違いますが、写真は一緒ですね)


もっとも、年代が違い家を作り替えたのか、写真を撮るときの角度で、大きな家の方が写らなかったのかは不明ですが。


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調べていくと、柴多一雄氏著「長崎古写真紀行」(長崎文献社刊)と「長崎浪漫」(ながさき浪漫会・長崎文献社刊)に全く同じ写真が載っており、この橋が一の瀬橋で、赤〇印の所、多分看板だろうと思って、拡大したらビンゴで「蛍茶屋」と読め、やはり、一の瀬橋のふもとに「蛍茶屋」があったんですね。

できれば、蛍をながめつつ彼女と杯を交わしたかったな思った次第ですが・・・


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電車の停留所「蛍茶屋」はここから取ったんですね。やはり、長崎の人間は風流ですね。




2019年11月16日 (土)

「諏訪神社」青銅の大鳥居~長崎の古絵葉書①

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諏訪神社の最初の大鳥居が昔は「青銅の大鳥居」だったんですって。写真の下の説明にも「長崎諏訪國幣中社靑銅の大鳥居」と書いてあります。

最近は、おとしよりが少なくなってきて、昔の事を調べるのが難しい時代になりました。代わりに、記憶より記録という事で、千々石の昔の写真を集めようと思っても、意外と集まらず、代わりに明治、大正、戦前の絵葉書を集めたら、千々石の絵葉書は思いのほか多く、島原半島では、雲仙がダントツ、次いで小浜、島原と千々石がどっこいどっこいで、千々石の絵葉書も大体集め、「千々石絵葉書物語」ということで、小冊子でも作ってみようとは思っているのですが、現在は思っているだけですが・・・


さて、古絵葉書も面白く、長崎の古絵葉書も集めてみたら、珍しいものもたくさんあり、多少のご紹介をしていきたいと思います。なお、長崎については各種写真集、資料があるのですが、調べると年代等違っているところもあり、一緒にご紹介を。


上の写真、皆さんご存じの諏訪神社の大鳥居ですが、これ、青銅製なんです。


なお、長崎大学の付属図書館が「幕末・明治期古写真」がネットでも検索でき→こちらをクリック


神社の鳥居の順番については、くぐる順で、最初が一の鳥居、二番目が二の鳥居、三番目が三の鳥居と普通は数えますが、人によっては、神社に近い方から、一の鳥居、二の鳥居・・・という順になると言う人もいます、が、諏訪神社の場合は、長崎大学の古写真の説明によると、「諏訪神社の鳥居は建設順に順番がつけられている」ということだそうです。長崎の皆さんで確認してください。


話を元に戻して、この青銅の鳥居については、「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 長崎 越中哲也・白石和男共編」と「アルバム長崎百年 華の長崎 長崎の絵葉書コレクション ブライアン・バークガフニ編著」(「華の長崎」には多くの絵葉書が載せてありますので、興味ある方はご覧下さい)に載せてあり、「ふるさとの思い出写真集」には「諏訪神社(1) ー青銅の大鳥居ーこの大鳥居は天保六(一八三五)年に作られ明治七年八月の台風で倒壊している。・・・」とあり「華の長崎では」もう少し詳しく書いてあり、明治7年の台風倒壊までは一緒ですが「・・・募金により同25年に三菱造船所に発注され再建。その後『唐金の鳥居』として長崎名物になったが、太平洋戦争中の金属回収により供出された。」ということで、まことに残念なことでありました。もし、そのままなら、これも長崎名物のひとつだったのでしょうが・・・

なお、Wikipediaでは「1893年(明治26年)6月11日に1874(明治7年)の台風で倒壊した靑銅大鳥居が再建される。」となっており、再建年月日が1年ばかりズレてはいるのですが・・・発注が明治25年なのかな?


ただ、この写真が、最初の鳥居か、再建されたものかは不明です。



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