古絵葉書・写真

2021年8月28日 (土)

橘神社の絵葉書~戦前の千々石最後の絵葉書?

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上の絵葉書は橘神社です。基本、今と同じ姿です。裏側の消印に「17.8.24」とあるので昭和17年8月2日に出された葉書です。なお、書面中「大東亜戦争は皇国の連続勝星・・・」と書いてあり、時代を感じさせます。

前にも書いたとおり絵葉書を集めていますが、島原半島で一番多いのが雲仙、次が小浜、次いで千々石と島原が同じくらい。ところが、橘神社が名所にもかかわらず、現在、これ一枚しか見つけられませんでした。


千々石には”千々石ホテル”という外人向けのホテルもありました。千々石に泊まり海岸で遊ぶ、千々石を拠点として小浜、雲仙に行ったようです。


絵葉書は訪れた所の記念として買っていきます。現在はスマホ、デジカメがあるので観光地の絵葉書はほとんど見受けられません。千々石の絵葉書は、ある時期から見受けられないようになったようです。これは、多分、雲仙鉄道と関係があるように思われます。


左は千々石の絵葉書で一番古い物。明治41年に使われています。右は雲仙鉄道の線路が見えません。カラー写真ということを考えれば、戦後のものです。

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雲仙、千々石、雲仙鉄道に関し簡単にまとめてみました。

■1877年(明治10) 温泉(雲仙)、このころから九州各地より外国人の避暑、登山が増え始める。(湯けむりの記憶より)

■1883年(明治16) 小地獄に雲仙初の純洋式の「下田ホテル」を建てる。(他説あり・湯けむりの記憶より)
■1893年(明治26) 茂木~小浜間、不定期に蒸気船あり(?)。(ブログ・日記のようなものです)→こちらをクリック
■1899年(明治32) 茂木~小浜間、定期路線(?)(ブログ・日記のようなものです)
■1908年(明治41) 千々石千本松原の絵葉書。(上の絵葉書)
■1909年(明治42) 「雲仙案内」に”千々石ホテル”の宣伝掲載。(雲仙お山の情報館展示場に展示)→こちらをクリック
■1911年(明治44) 温泉(雲仙)、日本初の「県立温泉公園}。(湯けむりの記憶)
 乗合自動車、小浜~雲仙。
■1912年(大正元) 小浜村有志、自動車屋開業。小浜~雲仙、愛野、諌早、口之津。(湯けむりの記憶)
■1913年(大正2) 小浜~茂木に定期連絡船就航(湯けむりの記憶)。雲仙は避暑のロシア人が多く年間700名。        自動車屋「小浜自動車株式会社」へ。他に「温泉自動車株式会社」あり。
■1916年(大正5) 千々石~温泉(雲仙)間の自動車道路完成。 
■1923年(大正12) 温泉鉄道、愛野~千々石間開通。
■1927年(昭和2) 小浜鉄道、千々石~小浜間開通。
(雲仙鉄道が写り込んだ絵葉書が数点あり。)
■1934年(昭和9) 雲仙国立公園制定。 
■1983年(昭和13)  雲仙鉄道解散。
■1942年(昭和17)  橘神社の絵葉書。(上の絵葉書)

なお、岡山俊直氏の「雲仙温泉における明治期の歴史資料の特殊性とその活用」(→こちらをクリック)の中に1889年(明治22年)の長崎から雲仙に至る交通の事が書いてあります(North China Herard紙1889年9月28日号より紹介)。それによると・・・


1)長崎から千々石まで人力車、千々石から山道で雲仙

2)長崎から網場まで人力車、網場から船で千々石、船で小浜、小浜から山道で雲仙
3)長崎から網場まで陸路、網場から船で千々石、千々石から山道で雲仙

茂木~小浜への船便は時代、船会社に違いがあるようですが、以前にも紹介しましたが、千々石にも寄っていました。手前の矢印が福石様、向こうの船が茂木~小浜を結ぶ船。


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ということを考えれば、千々石が雲仙、小浜へ至るポイントになっていることが分かります。

さて、どれほど外人客が多かったかというと、前にも書きましたが「島原鉄道100年史 」によれば「当時は夏ともなると、全国各地や中国の上海から避暑にやってくる外人客が多く、英語を話せなければ駅長がつとまらなかったというわけだ。同駅には当時の名残を示すように、朽ち果てた木製の洋式トイレがいまも残っている」(注:現在はありません)。


ところが、国鉄を利用する場合、諫早駅で島原鉄道に乗り換え、愛野駅で雲仙鉄道へ乗り換え、小浜駅(肥前小濱駅)は小浜の温泉街から2㎞程度離れていて、歩くか、自動車を雇うという不便さ。昭和2年~7年まで、諌早~小浜まで直通の時期はありましたが。


バスなら長崎から直通ということもあって、温泉鉄道は昭和13年をもって廃止。


ということで、雲仙、小浜に行く場合、千々石に寄る必要も無く、そのため千々石を写した絵葉書が少なくなったのでは無いかと思うのですが。なお、大正時代の絵葉書は他にも見受けられます。


雲仙鉄道廃線後の絵葉書を探しているのですが、現在、最初の橘神社の絵葉書以外は見つかっていません。なお、橘神社は昭和15年に建立、絵葉書は昭和17年に使われているので、この絵葉書は橘神社建立直後に撮ったものと思われます。

ということで、この橘神社の絵葉書が戦前の千々石における最後の絵葉書ではないかと思われるのですが。


:「湯けむりの記憶」~西暦2000年(平成12年)記念:雲仙公園ビジタセンター運営協議会発行



2021年8月 1日 (日)

雲仙も暑かった ( ̄。 ̄;)

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昨日は暑かったので涼もうと思って雲仙まで出かけました。ですが、暑かった。もう少し上の仁田峠まで行けば涼しいとは思うのですが。

上の左の写真、現在の姿です。赤丸が温泉神社の鳥居。赤の矢印が湯煎餅の「遠江屋(とうとうみや)」さん。車が停まっているところが有料駐車場。


右の写真、バスが止まっていますが島鉄(島原鉄道)バスの発着所。後ろの建物が多分待合所だと思われます。現在はなくなり駐車場になっています。バスを見るとボンネットバスでは無いので1960~1970年以降か?左の矢印の方向に温泉神社の鳥居があります。


下が、昭和9年以前の姿。赤丸が温泉神社の鳥居。左の緑の矢印の所、何やら山門みたいな感じがします。なお、ここらあたりが現在の有料駐車場。現在、この左手の方に満妙寺の釈迦堂があります。


緑の矢印の後ろが空き地、畑ですが、右の写真では庭になっているので、こちらが左より新しい風景。


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満妙寺へ上がる階段。一番上の左の写真はこの階段の上から撮ったものです。左に島鉄バスのバス停。

右は写真集「雲仙」(雲仙岳後援會刊)に掲載されたもの。なんとか情報館で聞いたところ、左の階段の所ではないか、ということですが詳細は不明。


どう見ても、寺院みたいな感じですが看板は「自動車切符発売所」。多分、昔の満妙寺かな?

看板には、会社名が「小浜自動車株式会社」。行き先がローマ字で、小浜、千々石、諌早、長崎、島原。なお「BUS OR HIRE」と書いてあります。小浜自動車はハイヤーも持っていて営業をしていました。

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見て、ビックリしました。以前は左のような姿(GoogleEarthより)で、山門に「雲仙山 満妙寺」「開山 大宝元年」と書いてあったのですが、現在は水道施設工事中、発注者が雲仙市。あと、どうするんでしょう?

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遠江屋」さん。今では、手焼きで煎餅を焼くのは、ここだけになってしまいました。赤丸、煎餅の種をいれて挟んで焼きますが、この時、種が多少溢れ、煎餅の耳ですね。この部分が美味しいのです。通はここを好みます。

昔は、ここだけ切り取って売っていたのですが、今は焼き立てで耳付きを売っていました。これって絶品ですよ。行かれるときは電話で確認を。

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お盆前ですね。駕籠立て場の所、舗装工事をした記念碑です。少し前までは草に覆われていたのですが、ピカピカのツルツルになっていました。普段から、きれいにしてもらいたいものです。

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下の写真は「雲仙」に載っていた写真ですが、「寄氣塲茶屋(よけばちゃや)展望」となっていて写真の右下、かすかに藁屋根が見えます。

以前から場所が気になっていたのですが、雲仙~千々石の道をよく見ていったら、こちらでした。とはいっても、道路は拡張工事で、以前とはかなり違って道がくねっていて、上の道路、下の道路でも同じような風景になるのでピンポイントでは分かりません。


この道に、一軒ポツンと家があったのはあったのですが・・・


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ということで、雲仙も暑く涼めませんでしたが、久しぶりの雲仙でした。

思い出したので。先日、雲仙でオクサマ関係の兄弟会をしました。雲仙市のナンチャラキャンペーンを利用し、一万円の補助があったみたいで、手出し1000円くらい。結構なお料理でした。全員下戸で(私はドクターストップ)大の大人5名でビール一本ですみました。もちろん”ノンアルコールビール”でした(^_^)。

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2021年7月26日 (月)

「大波止に玉はあれども大砲なし」~長崎の七不思議

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先日から、長崎の中華街、新地の事を調べようと「長崎實録大成」を読んでいたら「鉄之石火矢玉 一 大波止坂際に有之」とあり、これ、長崎の七不思議の一つで、ここに書かれている古絵葉書を持っていたのを思い出したので。

長崎の七不思議はー

①寺もないのに大徳寺 ②平地なところ丸山と ③古いお宮を若宮と ④桜もないのに桜馬場 ⑤北にあるのを西山と ⑥大波止に玉はあれども大砲なし ⑦シャンと立ったる松の木を下り松とは これで七不思議。 というものです。


さて、「長崎實録大成」に「右鉄玉の事諸ノ𦾔記に其説ヲ出サス」というところを見ると、これ以前には、文書として残っていないことが分かり「賤夫等の傳説に・・・」と言うことなので、伝説に伝えられているのみ、ということがうかがえます。

この本は長崎文献社から出版されいますが、入手しにくいので、そのまま写してみます。なお、校訂は丹羽漢吉氏、森永種夫氏です。写し間違いはご容赦のほどを。


鉄之石火矢玉 一 大波戸坂際に有之

廻リ五尺六寸程

右鉄玉の事諸ノ𦾔記二ソノ説ヲ出サス。賤夫等ノ傳説二、蠻人(ポルトガル?)我國ノ威ヲ顕サント彼國ヨリ持來レリト云。或ハ日本ヨリ蠻船ヲ可撃沈用意也ト云。又一説二島原一揆籠城ノ節、於彼地土中二穴ヲ堀リ抜キ、籃硝數百斤ヲ以テ此玉ヲ打出スへキ支度二鑄造セリト云。其説何レモ虚蕩ニシテ信用成難シ。暫ク其ノ概(おおむね)ヲ擧ル而耳(のみ)


ということです。


内容は①南蛮人が自分の威を示すため持ってきた ②日本が南蛮船を撃沈するため ③島原一揆の城(原城)を地中に穴を堀り(砲身として)
、攻撃するため、ということです。ただ、いずれの説も信用できないが概ねの事を挙げる。というものです。

以下、丹羽漢吉氏著「史談切り抜き帳 第2巻」によれば、寛政4年4月21日に綿密な計測がなされ

1 火玉 周1.758m 重量554.7㎏ 
2 同台 高0.273m 0.712m
3 惣髙 0.788m

丹羽勘吉氏が鉄の比重を元に計算すると920㎏のはずが、554.7㎏しかないので中空か、又は。軽い金属を混ぜているかと思われたそうですが、時の市立博物館長の越中哲也氏によれば、中空になっているはずとのことで、鉄で出来ているとして計算すると、厚さは10㎝余りになるそうです。ですが、中空の玉をつくるには、当時、その技術と施設を考えれば大変なことだと思われます。なお、この玉を打ち出す大砲を考えると、巨大な砲身が必要だと思われ、当時の技術としては無理でしょう。


越中哲也氏が、なぜに玉が中空であったかを知っていたのかという疑問がありますが、多分、叩いてみたのではないかと推測しております。


さて、①②③説の中で、一番多く語られているのが③の島原一揆に関係するもの。これについては「長崎港草」「長崎名勝図絵」にもあるらしく、城(原城)の近くに穴を堀り、そこに玉と火薬を詰めて飛ばす、というもの。だそうですが、あの玉を飛ばすのにどれだけの火薬がいるのか、また、城近くから飛ばすというとは打ち上げになるので、無理。かえって、重箱山あたりからは城内が見え、打ち下ろす感じになるので、こちら方がベターだとは思うのですが。


諸説考えるに、どれも無理があるようで、はやり”謎は謎”のまま、ああだ、こうだ、と話しをするのが良策かとも。謎が解けると「長崎の六不思議」になり、七不思議という熟語はありますが、六不思議という熟語はなく、なんとなく、間が抜けた感じになるので、ここは事実が分かったとしても、知らんふりして「長崎の七不思議」にしておいた方が良いのでは。


余談ながら、玉の回りが五尺六寸ですが。花火で一番大きいのが四尺玉だそうです。外径120㎝、重さ420㎏、上がる高さ700~750m、お値段260万円。らしいです。



2021年7月20日 (火)

雲仙岳「普賢神社」~古絵葉書より

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       (写真はクリックすると拡大します)

平成新山の噴火により、普賢神社は灰に埋もれてしまいました。仁田峠の登山口に仮拝殿が建てられ、その後、普賢岳の山頂付近に新しい普賢神社が建立されたそうです。恥ずかしながら、見落としておりました。→こちらをクリック


さて、雲仙の絵葉書は多いものの、普賢神社の絵葉書はあまり多くないようです。


上の絵葉書、普賢神社をモロに撮した一番古い絵葉書(
写真)だと思われます。ロシア人が書いた旅行案内に、同じようなものがあるのですが、所有権の為に残念ながら、ここに載ることが出来ません。

さて、一番上の絵葉書、「長崎縣温泉(うんぜん)公園」とあります。

雲仙が「長崎縣温泉公園」として発足したのが明治44年(1911)、「雲仙」国立公園に指定されたのが昭和9年(1927)なので、明治44年~昭和9年の間の絵葉書だと思われます。


なお発行が「古湯油屋商店」と印刷されていますが、地元の方に聞いたら、名前を変えて営業しているとのこと。この「古湯油屋商店」の絵葉書は良く見かけます。


次の3点が一番出回っている絵葉書。ただ、神社の写真を見るとむき出しの石祠が見えているので、上の絵葉書と同時代ではないかと思われます。説明の「温泉岳」が「温泉缶」になっていて、間違いですね。

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右の色つき絵葉書は写真を白黒に印刷し、それに手作業で彩色をし、絵はがきにした「手彩色絵葉書」。

同じ写真だと思います。巫女さんらしき人物が、こちらを向いて立っているのもまったく同じ。こちらの絵葉書にも、むき出しの石祠が見えます。


右は「2.5.12」文字、説明に「長崎縣温泉公園」とあるので、大正2年か昭和2年か迷いますが、いずれにしても昭和2年以前に撮られた写真です。左も「長崎縣温泉公園」とあります。


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下は、スタンプ、説明に、「温泉」でなく「雲仙」また「國立」の文字があり、昭和9年以降と思われます。ただ、左のスタンプは登山記念のスタンプで、昭和14年の登山記念だと分りますが、絵葉書自体はいつ作られたものかは不明です。

拝殿、鳥居の所と比べてみると、右の方が新しいと感じます。仔細に眺めると、建物の後ろに何やら石祠があるような。ということは、この建物、拝殿ですかネ?


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左は鳥居に「昭和貮年」とあるので、一目瞭然。絵葉書には、「温泉」でなく「雲仙」と書いてあるので、写真自体は昭和9年以降に撮られた可能性も考えられます。昭和2年は雲仙岳が「日本新八景」に選ばれた年です。

右は「國立公園」なので昭和9
年以降。

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右の絵葉書には「雲仙小唄」の歌詞が書いてあります。「なさけ深江にヨ・・・こころは千々石/駒にナー火を焚く普賢岳」。

これ、4番の歌詞ですが絵葉書が普賢神社なので、この部分を利用したと思われます。


出だしは


襟は湯染めでヨー/袂は躑躅/裾はなー/千鳥の波模様

滝のしぶきにヨー/湯靄がかかる/新湯ナー/湯町は曇り空 (以下略)

という歌詞ですが、作詞が「西岡水朗」さん。長崎の詩人。昭和5年に発表され、注目されたそうです。多くの歌手の作詞を手がけています。

YouTubeで調べると戦時歌謡ですが、高倉健さんとか小林旭さんも歌っています。「男なら」。

男なら男なら

未練残すな昔の夢に
もとをただせば裸じゃないか 度胸一つで押してゆけ
男ならやってみな →こちらをクリック

少し脱線をしました<(_ _)>。

上の絵葉書の年代、あくまで私の意見です。あまり、信じないように。


(追伸)

■絵葉書の作られた年代について。

古い絵葉書は、使われた事が無いものが多く、スタンプ等が無く、作られた年代不明の物が多いです。
上の鳥居の絵葉書、鳥居に「昭和貮年」と彫ってありますが、昭和2年以降、昭和10年に写真が撮られ、絵葉書が作られたかもしれず、その間、例えば昭和5年に社殿が改修された場合は「昭和2年の姿」と書くのは間違いになります。
判断材料として、雲仙の場合は「温泉(うんぜん)」から「雲仙」に変わっている、「温泉公園」か「雲仙公園」か、説明の字は右書きか左書きか、「國立」か「国立」か。また、他の絵葉書、写真があったら、それとの比較。等々と考えるのですが。難しいですね。私の説明も、判断が誤ったものがあるかもです。



2021年5月29日 (土)

「篭立場」?「駕立場」?「籠立場」?雲仙市

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上の絵葉書は、多分、明治の終りの頃のものだと思われます。雲仙市小浜町からお山雲仙の途中の「かご立場(たてば)」です。

説明に、左は「温泉(うんぜん)山中膓籠立場」。右は「駕立塲之全景」。実はこの場所が多少問題になっておりまして・・・


下が、現在一般に「かご立場」と紹介されている場所。端の方に、雲仙までこれに乗っていった、というレプリカが置いてあります。これは「駕立場」の表示があり、下の説明版に「小浜ライオンズクラブ20周年記念事業」とあります。


実は、この場所が上の絵葉書の場所なのかの問題があり、調べて大体わかったのですが、この件はまた詳しく書きます。


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上の場所のすぐ近く、バス停と道路舗装の完成記念の碑と「かご立場」の看板があります。

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左が島原バスの停留所「篭立場」。右は多分その筋の方が作ったと思われる「駕立場」の看板。

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「籠立場」「駕立場」「篭立場」と三種類の言い方がありましたが、どれが正解でしょう。

「立場(たてば)」は、街道の途中、特に坂道など難所の所で、ひと休憩する所。ですから「籠」「駕」「篭」と違いを調べればいいという事になります。


辞書とか、ネットで調べてザックリ書くと、

「籠」は、竹や藤や針金など線状の物で編んだり組んだりした器物。
「駕」は、これ一字で「かご」の読みは無く、音読みで「ガ」、呉音、漢音で「カ」。意味は、馬の首にくびきを装着する、馬を車につなぐ、またがる、のる、馬車、車に乗る、というのもあるので、何となく近いようですが、一字で「かご」はありません。
「篭」は、土を入れて運ぶもっこ。物を入れる竹製の器等々。

それでは、何が正解なのサ・・・というと、辞書には「駕籠」、「乗物の一種」。ウイキペディアにも「駕籠」とあるので、これが正解だと思われます。


いつも、お世話になっている「近世風俗志(守貞謾稿)」(江戸時代の風俗史の基本文献)にも「駕籠」として「かごと訓ず。今川貞世が鹿苑義満の厳島での記に・・・」というのもありました。


で、結局、今の「かご立場」の標記は全部間違いということになります。多分ですね。


あちらこちらに看板が立っていて、どの場所が正解かというと、地区の方に聞いたところ、ここ一帯を「かご立場」ということで、どこに立ててもウソではないと言えますネ。


ということで、一番上写真は「かご立場の茶屋」というのが正解だと思うのですが、これについては、又、後日。

今日は、急いで書いたので間違いがあると思いますが、その時はm(_ _)m、ごめんネ。



2021年5月 8日 (土)

「千々石海岸」「小浜海岸」の昔の姿~古絵葉書より

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(各写真はクリックすると拡大します)

最近は古絵はがきに凝っていて、また、2枚ばかり絵葉書を入手しました。右側は以前紹介したかと思いますが、千々石にあった、外人向けの旅館「千々石ホテル」が作った絵葉書です。

左側が新らしく手に入れた写真。「硫黄くさき雲の去来や湯町やど」と俳句などが書いてあります。


絵葉書の向こうの海岸に崖が見えますが、「千々石断層」。この、海岸線の所を汽車が走っていました。現在は道路が通っていますが、近年でも、台風などが来ると石が転げ落ちてきて、通行不可。多分、鉄道も通れなかったことがあったかと思われますが、この鉄道については記録がほとんどありません。


下の写真が現在の千々石海岸。まったく、違った姿になっています。


さて、絵葉書の裏に文が書いてあって、多少面白いので・・・


「北高来郡 諌早村」。おや?諌早は「北高来郡」だっけ、と思って調べたら→こちらをクリック。で、間違いありませんね。番地の書き方が「北高来郡 諌早村」って、これで届く時代があったんですね。

赤線の部分、「温泉は雨計で」とありますが、「温泉は雨ばかりで」と読みます。「伊勢屋尓投宿」の「尓」は「に」。「伊勢屋に投宿」です。古文書には良く出てくる表現です。

消印の日付を見ると最初の数字が「7」ですが、大正か昭和は不明です。郵便切手が趣味の方は、切手と消印を見ると分かると思うのですが。


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下の左が今回入手した小浜海岸の絵葉書。右は以前手に入れたもの。

青の矢印左側が茂木からの客船。比べれば左の船が古いことは一目瞭然。昔、小浜には船を横付けする桟橋がないので、船を沖に停め、お客さんを小舟で運んでいました。右の青の矢印。


一番下の左の絵葉書、以前紹介をした「一角楼」(現浜観ホテル)。赤の丸が排水溝だと思われます。三つの写真を比べれば排水溝の位置、形は同じです。ということから、上の2点の写真、赤の矢印が「一角楼」だと思われます。


左の写真の消印が「2」となっており、海岸線がきれいに整備されているのを見ると昭和初期かと思われます。


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右が「一角楼」。現在の商店街通りになります。

写真、絵葉書で一番難しいのが年代の推定。絵葉書は使用済みなら大体分かるのですが・・・現在、千々石の絵葉書の整理をしていますが、小浜はその後整理をしていきたいと思います。整理が出来たら紹介をいたします。


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2021年4月23日 (金)

「別所ダム・鴛鴦(おしどり)の池」について~雲仙市雲仙

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上はダムカードで、国交省と独立行政法人水資源機構で作成されているものらしく、ダムを訪問した方に配布しているそうです。大きさはクレジットカードの大きさ。長崎では各地の振興局で配布になっているみたいです→こちらをクリック。

各写真・図はクリックすると拡大します。

このダムカードは雲仙にある2020年4月の「別所ダム」の航空写真になります。ダム建設当時の知事が「鴛鴦(おしどり)の池」と名付けたので、昔から「池」と思っている方もいるようですが・・・赤丸の所にダムがあります。

雲仙は昔、修験道のメッカで中心が満妙寺。「行基」が温泉(うんぜん)山大乗院満妙寺を開山したと言われています。本寺が満妙寺になるので、別所は多少離れているので「別所」の地名になったのではないかと(多分)。


この地には700の僧坊があり、瀬戸石原に300の僧坊があったと言われています。なお、瀬戸石原は島原藩主松平氏が制札を立てていたので「札の原」とも呼ばれています。


「小浜史談」によれば、この「別所」は「4万坪の平地であって各所に水が湧き水田になっていた。」という所です。この平地の中に「加持川」が流れていました。「加持祈祷」の「加持」なので、僧坊があったとの話しに通じています。別所ダムはこの加持川をせき止め水を溜めたところです。


下の左の写真「別所ヨリ數ノ子山ヲ望ム」と書いてあるので、水につかる前の姿だと思われます。右は「札の原」。


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以前、この別所に「プール」があったことは紹介をしました→こちらをクリック

調べてみると他に「バンガロー」などもあったみたいで、下に旅館の案内図などを2つばかり載せました。


左の図、一番左の矢印が千々石へ通じる道。真ん中の矢印「プール」があり、緑の丸印、昔の「東洋館旅館」になります。

右の図、一番左の矢印と隣の矢印が「千々石」への道。上の矢印「プール」と「雲仙釣魚場」と書いてあります。赤の丸印「雲仙バンガロオ」です。下線の部分が「別所」と書いてあります。

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下が「雲仙バンガロオ」のパンフレット。

以前から、この別所を通っていた「加持川」の写真を探していたのですが、このパンフレットの緑の囲んだ部分、どう見ても「川」ですね。たぶんこれが「加持川」だと思われます。

右の下の写真、案内図には「雲仙釣魚場」となっていますが、案内には「鱒の釣堀(バンガロオ樹林地内)」となっていますが「鱒」なんかを養殖なんかしていたんでしょうか?川にいたとは考えられないのですが・・・


なお、「雲仙小濱自動車會社 直營」と書いてありますが、小浜町史談によると「大正元年小浜有志数名の共同で自動車屋が始まった。」とあり、翌年、本多親宗(小浜湯大夫)氏が社長となり株式會社に、昭和10年に「雲仙小濱自動車株式會社」に改名。ということで、このバンガローができたのは昭和10年以降になります。

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下は以前紹介した「古地図散歩」から。

一番上は現在の写真。真ん中は1961年~1969年の航空写真。一番下は上と真ん中の写真を重ねた写真。


赤い矢印が「雲仙浄化センター」。緑の矢印が千々石への道。


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赤い矢印が「雲仙プール」。緑の矢印が「浄化センター」があるところ(この頃はまだありません)。茶色の矢印に道が見えます。多分、これが昔の道で、青印のところに直線の道が見えますが、多分、バンガローが出来たときに整備されたのではと思われます。あくまで、個人的な意見ですが。

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下が上の2枚の写真を重ねたところ。上の赤い矢印がプール。こうしてみれば、今のダムのどこにプールがあるか分かります。下の矢印が「雲仙浄化センター」。と言うことで、現在、バンガローと直線道路はダムの中です。

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なお、別所ダムの下に「稚児落しの滝」がありますが、これについては→こちらをクリック ついでにこちらもクリック

下の2枚の写真は千々石に通じる道から古湯方面を撮った写真で、左は絵葉書、右は長崎県発行の「国立公園『雲仙』指定50周年記念 雲仙の歴史」に載っている写真です。


なお、矢印の山の稜線を比べれば同じ山だと分かります。右の写真は左の場所からカメラを左に向けたことが分かります。ただ、写真を撮った場所、時代が一緒かどうか分からないので一概には比べられません。


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・ダムの竣工/完成年度については資料により、1965~1969年、1963年~1968年、1961~1968年とバラつきがあります。

参考資料

・小浜町史談~小浜町
・千々石町郷土誌~千々石町
・国立公園「雲仙」指定50周年記念 雲仙の歴史~長崎県
・湯けむりの記憶~雲仙公園ビジターセンター運営協議会
・DAMーDATA(ダムカード)


2021年1月13日 (水)

「謎の探検家 菅野力夫」~若林純著

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世界探検家」を名乗る”菅野力夫”氏です。

明治末~昭和初期まで、シベリア、中国、東南アジア、インド、南アフリカ、ハワイ、南米まで8回に渡り探検をおこなっています。


現代から見れば、たいしたことは無い、とも思われるような”探検”ですが、旅行会社も格安飛行機どころかロクに飛行機も無く、インターネットもないので現地の情報もつかめない時代、ということを思えば、大変な事業であったと思われます。


若林純氏は右の絵葉書を古書店で見つけ、衝撃を受けたのが”菅野力夫”を調べるきっかけになったそうです。なお、この絵葉書が、若林純氏の著書の表紙になっています。

氏は、”菅野力夫”の親戚を当たり、そこで遺品のアルバム、写真、新聞記事等々を入手し、それを元に本を書き、その写真等がこの本に収められています。


”菅野力夫”の時代は辛亥革命、孫文の活動等があった時代であり、菅野力夫は頭山満の書生になっており、その墓の表には頭山満の揮毫による「菅野力夫之墓」の文字、裏は元福島県知事・宮田光男の寄贈文が刻まれているそうです。


第1回目の旅行は金銭面でも苦労したらしく、まだ九州を無銭旅行中、新聞にも載っており「旅中は絵葉書を売りて生計をたて・・」「宿屋が何処も断るので仕方がないから寺に泊まり或いは野宿もしました。」というような状況。


第3目の旅行からは経費の面でも安定したらしく、ハワイで世界探検に関する講演会を82回おこない、4万ドル(昭和34年で1,500万円)を得たそうです。


この講演会の様子は若林氏の本に多数書かれていますが、「聴衆なんと800余人、午後7時に始まり、得月楼芸妓春子の琵琶歌、南海県湖水の浪花節を間に挟んで、12時まで延々と5時間、獅子吼し雄弁をふるい聴衆を魅了した。」そうです。人を魅了する力、話術があったことと思われます。なお、この時、講演をしながら四国を自転車で走破したそうです。


なお、上の絵葉書は第3回目の絵葉書に含まれていますが、第3回目の旅行については2種類の絵葉書集があり、そのうちの「第2」の中に含まれ、ペルーでの写真になります。

「インカ帝国ルリン宮殿の廃墟にて 世界探検家 菅野力夫 西班牙の猛将フランシスコ・ピサロの浸入(西暦1531より同35年に亘る)によって大虐殺されるインカ帝国良民の屍は数百年の星霜を経たる今日なお荒寥たる砂漠の中に累々たる。・・・」と説明があります。

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第3回目の2種類の絵葉書です。

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下の写真は第2回目の旅行に出発する日比谷公園の様子です。菅野氏は自転車を利用していますが、この自転車は宮田製作所より提供された”アサヒ号”でイギリス式アサヒスペシャル号を改造したものだそうです。

「世界無銭徒歩旅行者菅野力夫氏悲痛ナル告別演説ヲ試ム(大正三年八月一日於日比谷公園)」とあります。


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なお、大正4年7月16日、長崎で、長崎4紙主催講演会ををおこなっております。「東洋日の出新聞」は長崎市では有名な「ツル茶ん」の所にあり、店の前には「孫文先生縁故之地」の説明版があります。東洋日の出新聞社主・鈴木天眼が辛亥革命以前に孫文を土蔵にかくまっていたそうです。

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   (「謎の探検家 菅野力夫」より)

菅野力夫は生前の時は新聞等に紹介され、かなり有名であったそうですが、絵葉書は沢山残っているものの著作等、自分で書いたものが無く、そのため若林氏によれば、忘れられたのでは無いかとのことでした。せめて、講演会の記録でも残っていればとも思うのですが・・・




2021年1月 8日 (金)

「雲仙ゴルフ場」への道~長崎県雲仙市雲仙

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絵はがきの説明は「長崎縣温泉(注:うんぜん)公園ゴルフ塲(じょう)通路」。ゴルフ場に行く道ですね。英文で「Unzenpark,nagasakiken」。写っている人の背丈からみると、意外と広い道に思えます。各写真はクリックするとはっきり見えます。

雲仙のゴルフ場は、「大正2年〇『県営ゴルフ場』〇『県営テニスコート』開設」となっています。


下の左の写真は「昭和7年頃、ゴルフ場に集まるタクシー」となっています。右の写真は時代が分かりませんが、背景の風景を見るとゴルフ場。
思ったよりというより、こんなに雲仙のゴルフ場にタクシーが集まるものかと?

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   (「2005 小浜町80周年記念誌」より)           (「雲仙お山の情報館」提供)

雲仙への自動車道路の写真はあちらこちら見られるのですが、ゴルフ場への道を撮したものは少なく、下は以前にも紹介したゴルフ場付近の道が写っている写真。

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 (「雲仙」昭和2年・雲仙岳後援会発行)             (「雲仙お山の情報館」提供)

下はGoogleEarthの写真で、赤の丸が「ゴルフ場」、緑の丸が「温泉街」、「A」が温泉街からゴルフ場にいたる道、「B」は島原にいたる道。「C」は国見町にいたる道。

「B]と「C」の付近には旅館はありません。ということで、一番上の写真は「A」の道のどこかと思われます。


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現在の「A]の道。片側が崖、もう片側が川、多分「加持川」か?こちらはゴルフ場に向かうところの写真です。一番上の写真とは逆になっていますから、ゴルフ場に向かうのを向こう側から撮ったものですが、写真には裏表逆に焼いたものや、この間紹介した「長崎福田の千本松原」が千々石の松原だったりで、昔の写真は良く見ないと、というところもあるのですが・・・

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上の写真、いつ頃撮られたかですが、考えてみるとゴルフ場横を通って、温泉街に行くには、島原~雲仙の道路が完成していないと通れないわけで・・・

「湯煙の記憶・雲仙国立公園年表」(国立公園ビジターセンター運営協議会)には「1922(大正11年)〇温泉(雲仙)~島原間に自動車道路完成」となっていますが、「雲仙の歴史・長崎県発行(昭和59年3月)」には「雲仙ー島原間自動車道路は、大正12年に完成しており・・・」という記述があります。少し違いがあります。


ところがですね、同書をよく読んでみると、「4)公園の管理と道路、公園事業の推進」の「二、自動車道路、その他の道路整備」の所に「・・・大正元年にはゴルフ場まで、大正5年までには普賢への登山道路が改修された・・・」と書いてありました。「改修」がどのようなものであったのか、気にはなるのですが。


ゴルフ場の開設が「大正2年」で、道路が「大正元年」なら、道路が先にできたことになりますが、考えれば工事の時は、現場までの工事用の取り付け道路が必要なので、ヒョッとしたら、とも考えられます。いずれにしても、上の絵はがきの道路は、作られたか改修された道路かはハッキリしませんが、広さからみると、少なくとも大正5年には作られた道路だと思われます。

大正13年、杉村廣太郞氏の「温泉嶽を繞りて」に温泉街からゴルフ場に至る風景が書いてあり・・・

「・・・昨夜見た古湯の町を、出外れて右に折れ(注:多分、旧東洋館あたりか)自動車の通ふ廣い道路を行くと、やがて一方が山で、一方に谷深く樹立を透かして、清らかな水が巌間を流れている加持川が見える。この川も又温泉(うんぜん)名所の一つで幽邃閑雅な仙境である。・・・」


多分、上の写真が撮られた年月は分かりませんが、杉村氏の書かれたような情景であったのでしょう。いまは、単なる道路になりましたが。この写真、どこで撮られたか、いずれ調べて見ようとは思っています。


2020年12月17日 (木)

「西海橋」接合直前

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西海橋はご存じの通り、佐世保市針尾島と西海市西彼町に架かる橋で、陸の孤島と呼ばれた西彼杵半島と佐世保市を結ぶ橋で、これにより西彼杵半島の産業等の振興が進みます。

昭和26年着工、昭和30年竣工・供用開始。この写真は接合直前に撮影したそうです。

絵葉書の下に書いてある説明が読みにくいので、下に写して書いておきます。


西海橋アーチは昭和29年12月17日午後3時両側から接合され、昭和30年1月9日午後1時半から竹山建設相を迎え、アーチ打止式が挙行されました。写真は接合直前に撮影したところ。


なんとなく、大丈夫かよ?という感じ。


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上が完成したところです。完成直後、父に連れられて長崎からバスで来た覚えがあります。歩いて渡りましたが、デッカいという感じで、橋の下にちょうど渦巻きができる時間帯で、感動したと言うより、渦に巻き込まれたらどうしようと恐怖感を覚えました(泳げないから)。

上の写真は、「長崎県立西海公園」のホームページから借用をしました。


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