古絵葉書・写真

2021年1月13日 (水)

「謎の探検家 菅野力夫」~若林純著

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世界探検家」を名乗る”菅野力夫”氏です。

明治末~昭和初期まで、シベリア、中国、東南アジア、インド、南アフリカ、ハワイ、南米まで8回に渡り探検をおこなっています。


現代から見れば、たいしたことは無い、とも思われるような”探検”ですが、旅行会社も格安飛行機どころかロクに飛行機も無く、インターネットもないので現地の情報もつかめない時代、ということを思えば、大変な事業であったと思われます。


若林純氏は右の絵葉書を古書店で見つけ、衝撃を受けたのが”菅野力夫”を調べるきっかけになったそうです。なお、この絵葉書が、若林純氏の著書の表紙になっています。

氏は、”菅野力夫”の親戚を当たり、そこで遺品のアルバム、写真、新聞記事等々を入手し、それを元に本を書き、その写真等がこの本に収められています。


”菅野力夫”の時代は辛亥革命、孫文の活動等があった時代であり、菅野力夫は頭山満の書生になっており、その墓の表には頭山満の揮毫による「菅野力夫之墓」の文字、裏は元福島県知事・宮田光男の寄贈文が刻まれているそうです。


第1回目の旅行は金銭面でも苦労したらしく、まだ九州を無銭旅行中、新聞にも載っており「旅中は絵葉書を売りて生計をたて・・」「宿屋が何処も断るので仕方がないから寺に泊まり或いは野宿もしました。」というような状況。


第3目の旅行からは経費の面でも安定したらしく、ハワイで世界探検に関する講演会を82回おこない、4万ドル(昭和34年で1,500万円)を得たそうです。


この講演会の様子は若林氏の本に多数書かれていますが、「聴衆なんと800余人、午後7時に始まり、得月楼芸妓春子の琵琶歌、南海県湖水の浪花節を間に挟んで、12時まで延々と5時間、獅子吼し雄弁をふるい聴衆を魅了した。」そうです。人を魅了する力、話術があったことと思われます。なお、この時、講演をしながら四国を自転車で走破したそうです。


なお、上の絵葉書は第3回目の絵葉書に含まれていますが、第3回目の旅行については2種類の絵葉書集があり、そのうちの「第2」の中に含まれ、ペルーでの写真になります。

「インカ帝国ルリン宮殿の廃墟にて 世界探検家 菅野力夫 西班牙の猛将フランシスコ・ピサロの浸入(西暦1531より同35年に亘る)によって大虐殺されるインカ帝国良民の屍は数百年の星霜を経たる今日なお荒寥たる砂漠の中に累々たる。・・・」と説明があります。

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第3回目の2種類の絵葉書です。

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下の写真は第2回目の旅行に出発する日比谷公園の様子です。菅野氏は自転車を利用していますが、この自転車は宮田製作所より提供された”アサヒ号”でイギリス式アサヒスペシャル号を改造したものだそうです。

「世界無銭徒歩旅行者菅野力夫氏悲痛ナル告別演説ヲ試ム(大正三年八月一日於日比谷公園)」とあります。


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なお、大正4年7月16日、長崎で、長崎4紙主催講演会ををおこなっております。「東洋日の出新聞」は長崎市では有名な「ツル茶ん」の所にあり、店の前には「孫文先生縁故之地」の説明版があります。東洋日の出新聞社主・鈴木天眼が辛亥革命以前に孫文を土蔵にかくまっていたそうです。

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   (「謎の探検家 菅野力夫」より)

菅野力夫は生前の時は新聞等に紹介され、かなり有名であったそうですが、絵葉書は沢山残っているものの著作等、自分で書いたものが無く、そのため若林氏によれば、忘れられたのでは無いかとのことでした。せめて、講演会の記録でも残っていればとも思うのですが・・・




2021年1月 8日 (金)

「雲仙ゴルフ場」への道~長崎県雲仙市雲仙

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絵はがきの説明は「長崎縣温泉(注:うんぜん)公園ゴルフ塲(じょう)通路」。ゴルフ場に行く道ですね。英文で「Unzenpark,nagasakiken」。写っている人の背丈からみると、意外と広い道に思えます。各写真はクリックするとはっきり見えます。

雲仙のゴルフ場は、「大正2年〇『県営ゴルフ場』〇『県営テニスコート』開設」となっています。


下の左の写真は「昭和7年頃、ゴルフ場に集まるタクシー」となっています。右の写真は時代が分かりませんが、背景の風景を見るとゴルフ場。
思ったよりというより、こんなに雲仙のゴルフ場にタクシーが集まるものかと?

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   (「2005 小浜町80周年記念誌」より)           (「雲仙お山の情報館」提供)

雲仙への自動車道路の写真はあちらこちら見られるのですが、ゴルフ場への道を撮したものは少なく、下は以前にも紹介したゴルフ場付近の道が写っている写真。

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 (「雲仙」昭和2年・雲仙岳後援会発行)             (「雲仙お山の情報館」提供)

下はGoogleEarthの写真で、赤の丸が「ゴルフ場」、緑の丸が「温泉街」、「A」が温泉街からゴルフ場にいたる道、「B」は島原にいたる道。「C」は国見町にいたる道。

「B]と「C」の付近には旅館はありません。ということで、一番上の写真は「A」の道のどこかと思われます。


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現在の「A]の道。片側が崖、もう片側が川、多分「加持川」か?こちらはゴルフ場に向かうところの写真です。一番上の写真とは逆になっていますから、ゴルフ場に向かうのを向こう側から撮ったものですが、写真には裏表逆に焼いたものや、この間紹介した「長崎福田の千本松原」が千々石の松原だったりで、昔の写真は良く見ないと、というところもあるのですが・・・

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上の写真、いつ頃撮られたかですが、考えてみるとゴルフ場横を通って、温泉街に行くには、島原~雲仙の道路が完成していないと通れないわけで・・・

「湯煙の記憶・雲仙国立公園年表」(国立公園ビジターセンター運営協議会)には「1922(大正11年)〇温泉(雲仙)~島原間に自動車道路完成」となっていますが、「雲仙の歴史・長崎県発行(昭和59年3月)」には「雲仙ー島原間自動車道路は、大正12年に完成しており・・・」という記述があります。少し違いがあります。


ところがですね、同書をよく読んでみると、「4)公園の管理と道路、公園事業の推進」の「二、自動車道路、その他の道路整備」の所に「・・・大正元年にはゴルフ場まで、大正5年までには普賢への登山道路が改修された・・・」と書いてありました。「改修」がどのようなものであったのか、気にはなるのですが。


ゴルフ場の開設が「大正2年」で、道路が「大正元年」なら、道路が先にできたことになりますが、考えれば工事の時は、現場までの工事用の取り付け道路が必要なので、ヒョッとしたら、とも考えられます。いずれにしても、上の絵はがきの道路は、作られたか改修された道路かはハッキリしませんが、広さからみると、少なくとも大正5年には作られた道路だと思われます。

大正13年、杉村廣太郞氏の「温泉嶽を繞りて」に温泉街からゴルフ場に至る風景が書いてあり・・・

「・・・昨夜見た古湯の町を、出外れて右に折れ(注:多分、旧東洋館あたりか)自動車の通ふ廣い道路を行くと、やがて一方が山で、一方に谷深く樹立を透かして、清らかな水が巌間を流れている加持川が見える。この川も又温泉(うんぜん)名所の一つで幽邃閑雅な仙境である。・・・」


多分、上の写真が撮られた年月は分かりませんが、杉村氏の書かれたような情景であったのでしょう。いまは、単なる道路になりましたが。この写真、どこで撮られたか、いずれ調べて見ようとは思っています。


2020年12月17日 (木)

「西海橋」接合直前

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西海橋はご存じの通り、佐世保市針尾島と西海市西彼町に架かる橋で、陸の孤島と呼ばれた西彼杵半島と佐世保市を結ぶ橋で、これにより西彼杵半島の産業等の振興が進みます。

昭和26年着工、昭和30年竣工・供用開始。この写真は接合直前に撮影したそうです。

絵葉書の下に書いてある説明が読みにくいので、下に写して書いておきます。


西海橋アーチは昭和29年12月17日午後3時両側から接合され、昭和30年1月9日午後1時半から竹山建設相を迎え、アーチ打止式が挙行されました。写真は接合直前に撮影したところ。


なんとなく、大丈夫かよ?という感じ。


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上が完成したところです。完成直後、父に連れられて長崎からバスで来た覚えがあります。歩いて渡りましたが、デッカいという感じで、橋の下にちょうど渦巻きができる時間帯で、感動したと言うより、渦に巻き込まれたらどうしようと恐怖感を覚えました(泳げないから)。

上の写真は、「長崎県立西海公園」のホームページから借用をしました。


2020年11月26日 (木)

「雲仙ゴルフ場」の池

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先日、雲仙の紅葉状況を紹介したとき、最後に絵葉書にあるゴルフ場の池を紹介しました。→こちらをクリック

実は、このゴルフ場の横を通り通勤すること4年。この池には気づかず、アレ、ここに池があったけと思い、気になったので、手持ちの絵葉書を見ると、結構池が写り込んでいるんですね。なにか書き込んだ様子のもあるのですが。


下の絵葉書の〇印、これならなんとなく納得。右の絵葉書はモロ写真ですから、修正のしようがなく、意外と小さく写っていますが、周囲をよく見ると水が溜まったあとがあり、雨上がりの後などもう少し水が溜まったと思われます。


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極めつけがこれで、多分ゴルフ場が作ったと思われる絵葉書、チャンと1コースの横に池が書いてあり、しかもコースの半分くらいの大きさ、ということは一番上の絵葉書に写り込んだ池も、まんざら嘘では無いなと。

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ゴルフ場には、わざと池などを作って人を困らせるコースがあるとか。私、ゴルフはしたことがありませんが「風の大地」などを読み、意外と知識だけはあるのです。沖田圭介、34歳と9ヶ月、現在、セント・アンドリュースで土砂降りの雨の中健闘をしております。ということで、こんな所に池があるのは、ゴルフには関係ない。ということくらいは私にも分かります。

考えると家からゴルフ場まで30分程度なので、見に行って確認した方が早いなと。で、行ってみるとゴルフ場の端っこの方にありました。ゴルフ塲には入れないので、外から写真を撮りましたが意外と奥行きが深い池でした。矢印は仁田峠に行く道路の昔の料金徴収所だったところ。


見た所、水が流れ入る所はなく、多分雨水が溜まったところかな?と思わせる感じでした。ですから、雨が降らないときは水が干上がって「空池」?


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なお、池の所を見ていくと写真のような溝があり、ゴルフコースから見ると、多分、池がここらまで来るので排水のためかな、という感じでした。

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以上のようなことから、絵葉書の池は、昔はまんざら嘘では無かったような。



2020年11月24日 (火)

小浜(雲仙市)海岸埋め立て工事写真~初公開

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以前にも紹介しましたが、昔の小浜温泉は辺鄙なところで、湯大夫の本多西男氏が自費を投じ、埋め立て工事を明治28年に着工、第2工事を明治38年に着工し明治43年完成しています。上の写真が埋め立て工事の写真です、時々、小浜の紹介に載せてあります。残念ながら年月が分かりません。

これを撮したのが地元の写真屋さんで、工事関係の写真で同じような風景を三枚撮っています。原版はガラスの乾板のネガですが保存が悪かったせいか、ひびで割れたり、カビが生えたりしています。下の写真は本邦初公開です。


上の写真と左の写真は波がひどい状態、工事の様子から同じ日に撮影されたものだと推察されます。右の写真は波も立って無く、工事の人もなく、潮の具合、写真を撮った位置も違っているので、他の日に撮った可能性もあります。


さて、右の写真を拡大して見ると3点ばかり気になりました。赤丸と緑の丸印。各写真はクリックすると拡大します。


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一番奥の赤丸印、拡大すると左の写真。右は「一角楼」を撮した絵葉書。屋根に一角楼のローマ字がかすかに見えます。明治22年に開業、現在「浜観ホテル」になっています。海岸線がきれいに整備されていますから、左の写真よりかなり時代が後になりますが、窓、屋根の形等々似ているような感じで、多分「一角楼」だと思われます。この建物は、別の2枚にも写り込んでいます。

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さて、手前の赤丸印ですが、真ん中の文字が「川」に見え、「川」が付く旅館といえば「柳川屋」。斎藤茂吉が泊まった宿屋さんと「小浜史談」には書いてありますが、「伊勢屋」に泊まったと書いたものもあります。

小浜温泉については「長崎県衛生公害研究所(現県保健研究センター?)」発行の「温泉誌」(昭和62年発行・「長崎県温泉誌」で検索すると読むことができます)に詳しく、昭和10年に「伊勢屋」「柳川屋」があるものの、その後は「柳川屋」記載がなし。


小浜の温泉宿の変遷については、まとまって書いたものが無く、旅館の買収等もあったみたいで、詳しくは現在調べているので、また後日。


昔の小浜温泉は右の写真に見られるように甕(かめ)みたいな所で入浴をしていました。


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ここで面白いのが青〇印の所。拡大すると下のような風景です。よく見ると皆さん裸です。横たわっている人も見えます。この場所は、まだ海水が入り込んでいます。こんな場所でパンツ脱いでこんな格好していると、今なら警察が飛んできますヨ。

考えられるのは、ここに温泉が湧いているのではないかということです。「温泉誌」に、小浜温泉について書いてある本などが紹介してあり、次のような文がみられます。

「(小浜は)孤立した温泉で満潮時には海水につかってしまう風変わりなものである。音もたてずに沸騰することもなく、石の地面から湧出て、そこから近くの温泉場に導かれる・・・」「・・・非常に奥深い源泉は時として高潮の間、海の水で浸される。源泉の湯は、露天に存在する石でできた三つの浴槽に引湯され、それはただ茅ぶきの小さな屋根で覆われているだけである。・・・」「・・・(小浜は)海湾二瀕(ひん)す泉は岩際及海中処々二湧出シ・・・」


という事で、この場所にお湯が湧出していたのではないかと思われます。なんとも、のんびりした風景。


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2020年11月19日 (木)

どちらが本当・・・とネコちゃん

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先日より本の整理をしていたら、左の写真が本の間に入っていました。

古本で買った本の中に入っていた写真で、品行方正な私が買った覚えも無く、多分古本屋さんに本を売った方の写真かと・・・(^^;)


この写真は「7年目の浮気」の一場面で、地下鉄の通気口の上にマリリン・モンローが立ち、地下鉄の電車が通ったとき、風が通風口から吹き上がり、スカートがめくれ上がった場面です。


この写真には多くのパターンがあり、後ろにカメラマンがいるので映画の撮影では無く、スチール写真を撮っているところですね。


で、イロイロと調べてみると、下のようなレーコードのジャケットがありました。多分、輸入盤みたいで、アメリカで発売された物と思われます。明らかに左右が逆ですが、上の左の写真はブロマイド、下の写真はレコードのジャケットなので、ブロマイドは逆に焼き込んだな、とは思っものの、よく見ると後ろのカメラマン。左手でカメラを持っています。ということは、右手でシャッターを切っているということになります。もう一人のカメラマンも右手でシャッターを切っているのが分かります。ということは、右利きの人が多いのでブロマイドの方が正解で、レコードのジャケットが逆版。


古い絵葉書を集めていると、時々逆版のものを見ることがありますが、レコードのジャケットに左右反対のものを載せるとは、アメリカ人はザッとしているというか、おおらかというか・・・


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今日、お伺いした家のネコちゃんです。お歳は17歳で人間でいえば80歳くらいだそうです。見事なヒゲ、元首相村山富市さんを思わせる眉毛。鼻から口にかけての白いところ、逆ハートです。逆さまに見ればハート印が分かります。眼光鋭く、貫禄さえ漂っていました。

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2020年11月 6日 (金)

②「一切経の滝」と「稚児落しの滝」~雲仙二つの滝★稚児落しの滝編

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左の絵はがきは以前ブログに載せた写真。例によって、いつの頃の絵葉書かは分からなかったのですが、横浜に「絵葉書写真館」という所があり、そこをあせくっていたら(ネットで)、たまたま同じ絵葉書があって、幸いなことに上の方にスタンプが押してあり、「雲仙公園」「15.5.22(?)」「登(?)山記念」とあり絵葉書の説明は「長崎縣温泉公園稚児落の滝」とあるので、この絵葉書は明治44年~昭和9年の間に撮された写真です。

なお、この滝の歴史については以前書いているので、それを参考に→こちらをクリック


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写真の下の方の石に注意をすると、全部の写真にこの石が共通して見られます。

上の左の写真は「(雲仙の名勝)傳説に悲しき稚児落の滝」(英文の説明も有り)の説明あり。右の写真は「(雲仙)稚児落しの滝」の説明。あとは英文の説明。この2点については年代不明。


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左の写真は「(雲仙公園の名勝)傳説悲しき稚児落の瀧」、下の方に「(日本八景)C」の説明有り。日本八景に選ばれたのが昭和2年ですから、この後だということは分かりますが・・・

右の写真は「國立公園 雲仙 稚児落しの瀧の美観」。ありがたいことに裏に「昭和26年6月9日 雲仙岳登山記念」とあります。ただ、国立公園に制定されたのが昭和9年、写真の説明が、左から右書きと、「国」が「國」ということを考えれば戦前に作られた絵葉書だとも考えられます。


私がここを訪れたのは20年くらい前だったと思います。千々石から雲仙にいたる道の途中、「稚児落しの滝」という小さな案内版があったので、そこから入っていきましたが、あまり良い道ではなく、滝かな?と思う所はありましたが、写真のように水が流れ落ちるという風景ではありませんでした。


考えて見れば、ここは雲仙の別所に「加持川」(別所には700の僧房があり修行をしていた所で「加持祈祷」の「加持」と関係があります、多分)を堰き止めて「別所ダム」が作られています。竣工が1968年(昭和42)ですから、それ以降は満水時以外はあまり水が流れていなかったのだと思います、ですがね、近年、ここの写真が何枚かネットで見られ、あまり年月日は分からないのですが、その中に2010年の写真があり、これ結構水が流れ落ちています。→こちらをクリック

滝は雨の状態、放流等によって流れ落ちる風景が変りますが、こんなに流れているとは思いませんでした。

なお、上の写真を見ると女性の方、子供まで普通の服装で写っています。足元を見ても、ごく普通の靴。だということは、この頃は誰でも気軽に入れた所だと思われます。


このあたり、近年、道が拡張され、そのとき通りかかったら「立ち入り禁止」の札がありましたが、現在は案内表示、立ち入り禁止の札も無く、ガードレールに塞がれているようでした。歴史がある滝なので、整備をしたらどうなのかとは思いますが、以前のような滝があるのかどうかは不明です・・・危険な状態みたいなので、皆さんは立ち入らないように。


【追加】

この滝については「白雀」という謡曲があり、今まで埋もれていたのですが、平成27年島原城天守閣50周年記念の時、謡が復曲され披露されています。

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2020年11月 4日 (水)

①「一切経の滝」と「稚児落としの滝」~雲仙二つの滝★一切経の滝編

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雲仙には二つの滝があります。「一切経の滝」と「稚児落としの滝」。


この滝の事を書こうかと思っていたら、二つとも以前紹介したことがあるんですね。歳取ると、忘れることが多くて。で、やめようかと思ったのですが、古い絵葉書が手に入り、紹介方々。なお以前の記事は→こちらをクリック。詳しくは、こちらに書いているので参照してください。

上が雲仙の旅館街と付近の地図になります。大正13年に発行された、「温泉を繞(めぐ)りて★杉村廣太郞著」なので大正13年の雲仙の様子がよく分かります。クリックするとキレイに大きく見えます。

左の矢印が「稚児落としの滝」、右の矢印が「一切経の滝」、真ん中の大きな円が地獄と旅館がある所。


今回入手した絵葉書が下の2点。左は「大日本国立公園」の文字があるので、国立公園に制定されたのが昭和9年ですからそれ以降の風景。右は「長崎温泉(うんぜん)公園の瀧」とあり、長崎県立温泉公園は、明治44年に開設で昭和9年から国立公園ですから、この間の風景。


左の写真を見ると、いかにも「立派な滝!」と思いがちですが、右の写真、赤丸印の所に人が写っているので、滝の大きさが分かると思います。特に滝の右側の岩。特徴があるので一緒の滝だということが分かります。


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左の絵葉書、右が「稚児落としの滝」。左が今回紹介している「一切経の滝」。二つ並べているのは、なんとも珍しい。右の写真は前にも紹介しましたが、外人さんが滝の所を締め切ってプールにして遊んでいるところ(「雲仙お山の情報館」提供)。

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一切経の滝、稚児落としの滝は本、ネットなどで紹介され有名なのですが、千々石の方と話していると「稚児落としの滝はナンね」とか、「行ったことはナか」などと言われる方が多いみたいです。稚児落としの滝は、古い絵葉書が意外と多く残されています。残念ながら現在行くことができないので、次回、絵葉書でお楽しみを。



2020年11月 2日 (月)

「鼠島(海水浴場)」~鼠島の思い出など&西郷四郎

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上の絵葉書を入手した頃、ご縁があったのか、田栗奎氏が書かれた「長崎遊泳協会六十五年誌ー鼠島年代記ー」(長崎遊泳協会記念誌編纂委員会)という本を読むことができました。出版が昭和四十三年になっているので、50年近く前の本になります。下の3点の写真は、この本より転写したものです。

上の写真は長崎港から汽船に引かれて鼠島に着いた「団平船」。思いもかけず、この絵葉書を手に入れましたが「8.7.28」の消印があるので、多分昭和8年の事かと思われます。私たちの時は確かポンポン船だった気がするのですが。


長崎で年配の方は覚えているかと思います。といっても、私は小学校の4年~5年生の時に行ったばかりですが。なにせ、半世紀ばかり昔のことで、おぼろげな記憶ですが・・・

学校の生徒は木札(定期券)を買って通っていました。鼠島には2ヵ所泳ぐところがあって、片方は一般客、もう片方が長崎遊泳協会が子供たちに水泳を教えていました。

上の写真の水着をつけている子供がかぶっている水泳帽子、各々違っています。確か段級があって、帽子で区別をしていました。木札を持った子供は長崎遊泳協会の場所で水泳を習わなければならなかったのですが・・・教え方が厳しく、私は悪い子なので、一般客のところで遊んでいました。時々、見回りが来るので、水泳帽子は海水パンツの中に隠していました。


ウチのオヤジもここで水泳を習って、メチャ高段でした。戦時中、ビルマに派遣され上陸寸前、乗っている船が魚雷に当たり沈没して一晩海の中を漂っていたそうですが、無事だったのは、ここで習った水泳が役にたったのだと思います。


で、私は遊んでばかりいたので未だもって、まったく泳げません。大人になってスイミングスクールに通ったのですが、顛末は以前書いたので→こちらをクリック。もっとも、あのスイミングスクールも潰れていました。


鼠島の一番の思い出は、この本にも書いてある”ハジキ豆”のことで、布の袋の中にハジキ豆を入れて泳いでいると、豆がだんだんふやけて柔らかくなり、ちょうど良い塩加減になり美味しくいただけました。あと、イベントがあって、大名行列、御神輿かつぎ、兜を着けての泳ぎ、立ち泳ぎをしながら大きな板に書を書いたり、沖の小舟に棹を立て、その上に日の丸の扇を付け立ち泳ぎをしながら矢で射貫く。那須与一ですね。那須与一のようには当たりませんでしたが・・・


下の写真が鼠島。現在は埋め立てられているそうですが、一部浜辺が残っているそうです。


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下の写真は明治42年の写真。真ん中の髪の長い方が主任師範の町野晋吉氏だそうですが、すごいオーラ。回りの青年達のバキバキした体、羨ましい~。

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下の写真の矢印が「西郷四郎」。小柄(身長153㎝~158㎝の説)だとは聞いていたのですが、こうしてみると確かに小柄。この体で、講道館の四天王とは信じられません。最近は「西郷四郎って知ってる?」と聞いても「誰よそれ」などと言う方が多く、悲しい思いをしていますが「姿三四郎のモデル!」を言うと「あ~」となんとなく、分かったような・・・

西郷四郎は長崎遊泳協会の設立に関わっていたとは知っていたのですが、柔道家がなんでと?とは思っていたのですが、本を読んで分かりました。


明治35年7月15日の東洋日の出新聞に「鼠島も一昨日は日曜のこととて百四、五十人は集まりたれども一度も水には入らず、ウロつきいるハイカラ多く、何のために拾銭投げ出して小蒸気の煤煙をかぶりながらやって来のか更に判らず、もっとも設備の皆無のためもあるべく、端舟一隻だに用意なきは危急の場合にドーする量見にゃー」と載ったそうです。


明治38年に「瓊浦遊泳協会(後の長崎遊泳協会)設立趣意」が出され、主唱者は、東洋日の出新聞社長の鈴木天眼。役員の主だった人が発起人として名を連ねたそうですが、顧問が長崎県知事荒川義太郞。理事として、東洋日の出新聞社西郷四郎の名前も入っています。なお、庶務を同新聞社員4名が担当をしています。


ということで、長崎遊泳協会設立には”東洋日の出新聞”が大きく関わって、西郷四郎は社員ですから一翼をになっていたことが判ります。なお、社員の中でも理事は西郷四郎だけですから、新聞社の中でも重鎮だっと思われます。


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鼠島の海水浴場は昭和47年に閉鎖になりました。

西郷四郎については、私のブログでも書いていますのでご覧下さい。なお、鼠島、長崎遊泳協会の詳しい歴史については「長崎遊泳協会」のホームページをご覧下さい。→こちらをクリック

3枚の写真は「長崎遊泳協会六十五年誌」より。


 

2020年10月27日 (火)

2020/10/26「雲仙の紅葉」

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天気快晴、気温もちょうど良く、紅葉もほど良く、景色も良く、悪いのは私の体調ばかり。

休日は車が混むので、昨日、朝から出かけてみました。


左がゴルフ場の駐車場の紅葉ですが、なんとなくイヤですね、色づいてなく不安。ところが、仁田峠までの循環道路まで行くと右の写真。なんとなくホッとします。しかし、この「100円」ですね。本当は無料道路になったのでいらないんですが、以前の料金徴収所の所にはチャンと人がいるので、なんとなく「100円」払わないと悪い気がして、皆さんも見ていると払っていきますネ。「ご協力」ですから、払わなくてもいいのですが・・・


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平成新山の火砕流跡。平成2年に噴火活動が起こり、平成3年に火砕流が流れ落ちました。29年前になります。ちょうど私が車を運転していた時、空が真っ黒になり、まわりに灰が降ってきて、昼にもかかわらず前が見えなくなりヘッドライトをつけた覚えがあります。

アップで撮して見ると、まだまだ爪痕が残っています。確か草の種など蒔いたと言うことですが、この急斜面。雨が降ったら流されてしまうでしょう。


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雲仙は春がツツジ、秋は紅葉ということになります。本来ロープウェイに乗るか、歩いて登って谷を見るのがキレイなのですが、体調が悪いので駐車場から 眺めるだけにしました。

11月中旬まで見ごろだそうです。土、日曜日は多いと思うので朝早めにお出かけを。この道、一方通行なので、どんなに混んでいてもUターンはできません。


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下の左の絵葉書は霧氷が見えますから、冬の風景。裏に「昭和26年6月9日雲仙登山記念」とあり絵葉書ですから、それ以前に撮られたものでしょう。仁田峠の展望所で、今はまだ広くなっていますが、この人なんでしょう?皆さんは真似をしないように。

右はロープウェイ乗り場の上から見た絵葉書、年代は分かりません。。黄色がロープウェイ車と発着場。赤丸が仁田峠の駐車場ですが大型バスが多いのに気づきます。多分、修学旅行のバスだと思われます。赤線は駐車場へ入る車がズラリと並んでいます。こんなに賑わった時代もありました。


赤の矢印が「ゴルフ場」。ただ、上の矢印。池みたいなのが見えます。ゴルフ場の中には、以前書きましたが「空池(からいけ・そらいけ)」という所があります。現在、水は溜まっていませんが、ひどい雨の後にはこんなになるのかどうか、地元の方に聞かないと分からないので、またの機会に。


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このあと、ここ数年、紅葉で有名になった「三十路苑」に寄りましたが、進入禁止のロープが張られ、まだまだのようでした。



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