古絵葉書・写真

2020年9月15日 (火)

歴史を語る「絵葉書」~雲仙市千々石川

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最近、又、千々石川の写真を入手しました。集まりかかれば集まるもんですが。

下から二段目の絵葉書は下流から撮ったものですが、上の写真は上流から撮ったものです。 飛び石が上流(手前)と下流(向こう側)に見えます。


現在、上流の飛び石は大きいものの、途中から切れてしまっています。下流側の飛び石は、見えはするものの、よく見ないと分からない感じです(以前紹介したかな?)。


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一番上の写真の飛び石と飛び石の間が近いので、現場に行ってみたら意外と近い事が分かります。上が上流の、下が下流の飛び石。

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一番上の写真、家の屋根が瓦なので近い時代ではないかと思われます。

現在、古文書研究会に入って勉強をしていますが、南串山の庄屋さんの文書(もんじょ)に、山が串のよう見えるから、「串山」という名前が付けられたなど書いてあります。もし、この文書がなかったら「串山」の名前の謂われが分かったかどうか、2~300年前の文書です。


以前書いたとおり、下の一番右の葉書は明治41年の年賀状に使われたものですから、それ以前の風景ものだとおもわれます。左の2枚の写真も明治時代だと推察されます。


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明治45年が109年前。人生100年時代、100年はあっという間です。

この絵葉書が残っていなかったら、このような橋が架かっていたことは分からなかったと思います。昔を知り、今を伝えていくことが必要だと思うのです。絵葉書に歴史ありです。


【追記】


忘れていました。上流の飛び石の写真を撮っていたら、婆様がいたので話しを聞いたら、この飛び石を渡ったところに祭りの御旅所があり、祭りの行列はこの飛び石を渡って行ったそうです。


ホンマかいなと思って、カミサンにきいたら「渡ったよ」と、で、もう一人50年配の女性に聞いたら「私も渡ったよ、小さいとき渡りきれなくて、川に落ちたけど」と言う話しでした。


祭りの参加人数は昔に比べれば、少なくなったそうですが、下のように沢山のひとがいますが、本当に渡ったんですかね。


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いつ頃まで渡っていたのか詳しくは分かりませんでした。

当然、他人が知っていると思っても、話しをしてくれないと分かりません。今の子どもは、この飛び石の事も知らないと思います。


昔を知る方も段々と亡くなっています。今の時代、記憶より、何らかの形で記録を残す、話しを伝えていく事が必要だとつくづく感じました。


2020年8月31日 (月)

千々石海岸の外人さん~絵葉書をよく見れば

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以前、千々石にあった「千々石ホテル」の事をかきました→こちらをクリック。

上は「千々石ホテル」発行の絵葉書集ですが、右は千々石ホテルの裏側みたいで、下に写っている石垣は現在もあります。


このホテルは上の表紙に見るように、外国人向けだということが分かります。千々石は海岸と松原が美しく、また、雲仙、小浜に行くにも便利で、外人が遊びに来ていたと言われています。


雲仙の絵葉書には外国人が写ったものが多く残されていますが、千々石の絵葉書などには外国人の姿が写されたものがありません。ただ、長崎歴史博物館にロシア人の雲仙、小浜等の旅行案内書があり、この中の千々石海岸風景に外国人(旅行案内の著者?)が写っているのがありましたが、掲載するには手続きが面倒なのでいつの日にか・・・


さて、千々石、小浜を中心に絵葉書を集めていますが、島原半島で絵葉書が多いのが雲仙、小浜、次いで、島原と千々石が同じ程度と、千々石の絵葉書が多いのが意外です。他の町村のものはほとんどありませんでした。


雲仙、小浜に行く途中なのでそのせいかなどとは思いますが、はやり、千々石は風光明媚で外国人が訪れていたせいかなどと思いはするのですが。


絵葉書が少し溜まってきたので、整理をしていたら下の絵葉書が目にとまり、一番上が千々石海岸、真ん中が雲仙絹笠山の測候所(いまはありません)、一番下が雲仙のゴルフ場。


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おやっと思って千々石海岸を拡大すると、外人さんですね。男性1名、女性3名。写真はクリックすると拡大しますが、特に女性の服装、帽子を見ると外人さんだと分かります。時代がいつなのかは判断できないのが残念ですが。いずれにしても、外国人が訪れていたことが分かります。

海岸の家は茅葺きになっています。右手の山は、釜山、猿葉山。遠くにみえるのが雲仙岳。


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古い絵葉書はよく見ると、いろんな発見があって楽しいものです。



2020年8月29日 (土)

「千々石の松原」と「長崎福田の千本木松原」~こんな間違いも!

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   (各写真はクリックするとハッキリと拡大します)

上の絵葉書は先日「二つの『千々石橋』」ということで紹介した物です。→こちらをクリック


下は裏側で「Bridge Chijiwa Japan」と英文で書いてあります。絵葉書として使ったかどうかは疑問なのですが。


絵葉書としては「日本の千々石の橋」ということで書いてもあり、風景も千々石川そのままでなので信じていたらですね。


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下のような絵葉書を見つけ、上の写真より下流で撮ったのか、と思って説明を見たら、なんと「長崎福田千本松原の景」となっているんで、ビックリしました(°0°)。

で、また、私、チョンボして間違えたかと思い何人かの人に聞いたら、「これ、千々石でしょう」という事だったので、よく比較すると特徴的なのが二本の松の傾き加減、橋の様子は一緒です。一緒の風景ということは分かります。


長崎の福田というと福田遊園地(正式名称:長崎遊園地)があったところで、小さい頃は2,3回遊びに行きましたが、「千本木松原」などは見たこともありませんでした。


しかし、心配は心配だったので、福田の地域センターに問い合わせると、歴史に詳しい方がいるので聞いてみますと、親切な対応をしていただきました。


2,3日後、連絡をいただき、福田にはこの風景はないとの事で、やはり「千々石」が正解でした。絵葉書屋さんの間違いでしょうが、こんな事もあるのですね。


あちらこちらの、史跡の看板の説明、町の歴史のパンフレット等々を見ると、時々間違いが見受けられます。皆さんも、ちゃんと書いてあるから正しい、とは思わないように。


この絵葉書も、私が手にして調べなかったら「福田」と思われ続けていたでしょう。


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現在、福田の千本松原の松は松食い虫で枯れてしまっているそうです。下の絵葉書はかっての「福田の千本松原」の風景に間違いないとの事でした。なんとも、良い風景ですね。

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2020年8月20日 (木)

長崎県「小浜~雲仙」の登山道路~古写真より

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雲仙に車で登る道路は増えましたが、主な道路は島原、千々石(以前は狭い道でしたが、拡張して使う人も多くなりました)、そして、小浜から登る道路があります。

一応、小浜道路の関係あるところを書けば、


・慶応 3年(1867)4月29日イギリス人二人、茂木・小浜を経て雲仙登山、小地獄にて逮捕され長崎へ護送。

・明治22年(1895)小浜~温泉(うんぜん・雲仙)間登山車道建設が始まる。
・明治43年(1910)千々石水力発電所が発電を開始。小浜の町の夜に美観を添える。
・明治44年(1911)温泉、日本初「県立温泉(うんぜん)公園」として発足。
             温泉・小浜に電灯がともる。
             英国人ジョン・フィンドレー氏、スチュードベイカー(車名)にて温泉(雲仙)にくる。
             乗合自動車(5人乗り)も小浜~温泉(雲仙)間を走る。運賃一人20銭。
・大正11年(1922)小浜~温泉(雲仙)間にバス運行。
・大正15年(1026)小浜~温泉(雲仙)間の自動車道路が完成。
・昭和 9年(1934)雲仙が国立公園に指定。「温泉(うんぜん)公園」を「雲仙公園」に統一変更。

読んでみると、自動車道路が完成する前に、車は通っていたことが分かります。


上と下の絵葉書、似ているようで多少違いがあります。電柱の数、標識の内容。


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上の写真より、電柱が増えています。家の形、ガードレールは一緒かな、という感じ。

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標識を拡大したら、左は「Road to Unzen」のみ、右は「温泉公園」の文字が入っているので、明治44年以降だと分かります。 道路工事は明治22年に始まるので、一番上の写真は明治22年から、「県立温泉公園」に指定された明治44年の間かな、という気もするのですが・・・

右の写真、標柱の小さな看板の文字が全然分からす残念なのですが、縦に書かれた文字、多分「二十歳(才)以下の人は酒を飲んではなりません?????をお通り下さい」と読めるのですが、小浜は飲み屋さんが多かったので「二十歳以下の人は・・・」と書いたのかな?「????をお通り下さい」は、どこを通るのか気になるのですが・


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下の写真は、明治2年発行の「雲仙」(雲仙岳後援會発行)からの写真で、小浜~雲仙間の道路です。今は立派な道路になっていますが、昭和の初めの姿は舗装もなかったということですね。

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「雲仙お山の情報館」から提供していただいた写真です。時代は分かりませんが、戦後ですね。こんな洒落たバスもあったんですね。左はゴルフ場横。中の写真、真ん中の少し上に白っぽい所が見えますが、ゴルフ場と思われます。ということは、バスが走っているところは温泉街から仁田峠までの循環道路。右の写真は完全に循環道路。おっかない所を走っていたんですね。

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このバス、もったいないですね。今、レトロ時代、このバス復活させたら、絶対に評判になると思うのですが。

以上、「雲仙お山の情報館」写真。「湯けむりの記憶(西暦2000年・平成12年記念)」(雲仙市ビジターセンター協議会発行)。「小浜史談」(小浜町史談編集委員会刊)を参考にしました。




2020年7月19日 (日)

「雲仙の競馬場」~諏訪の池・ゴルフ場にあったげな

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諏訪の池は雲仙と少し離れた所にありますが、雲仙国立公園内にあります。

上の写真は「2005年 小浜町80周年記念誌」から。説明は「大正中期 諏訪の池」と書いてありますが、2年ほど前、新しい資料が見つかり、同じような写真が4枚ほどコピーしてあり、風景、人物等ほとんど一緒です。

こちらの資料の表紙には「昭和6年度 諏訪池競馬大会 受付簿 国際乗馬協會」となっており、「昭和六年六月十六日撮影 諏訪公園乗馬クラブ於諏訪池公園神社東方競馬場 当村旧四月十月十日の坂上(注:現南島原市北有馬町坂上)金比羅神社の祭りの際諏訪池に於て草競馬が行われた」との記述があります。

なお、昭和52年7月 長崎県小浜町観光課発行の「国立公園 雲仙観光圏」には、「中池の周囲は競馬場として毎年四月及び十月に行われた。(明治から昭和初期頃が盛況であった。) 池の際は無数の桜樹であり春季の競馬をして、美しき桜花千里、一瞬の駿馬、勇ましき騎士の姿、どう観ても花下の競馬として浮きだったものだという。・・・」と書いてあります。

また、大正15年8月に関善太郎氏により書かれ発行された「雲仙小濱風土記」によれば「・・・中池の周囲は競馬場で、毎年四月及び十月に之を挙行する。彼方此方から駿足を誇らんとて、乃至は威勢よき騎士の競争ぶりを見んとて近縣より見物人多し。(中略)春季の競馬は、適ど(ちょうど)櫻花が咲きも残らず、散りも初めずてふころに行はるゝ。而して競争の行はるゝ毎に、歡呼拍手の湧く度毎に、花は驚いて片々と馬蹄の跡を飾る。實にや、美しき櫻花千里・・・・・一瞬の駿馬・・・・勇ましき騎士の姿・・・・どう觀ても花下の競馬を見ては浮立たずにゐられない。」と、いささか美文調ですが、雰囲気は出ていると思います。


上の三つの資料を読むと、昭和6年の新資料が出てきましたが、それ以前、明治、大正期から行われていたと思われます。随分賑わったようです。この、諏訪の池の中池の周囲をジョギングしたことがありますが、本格的な競馬ができるようなコースではありません。祭り、桜の時期に行われた、お楽しみの草競馬だったと思われます。


さて、諏訪の池の競馬を調べているときに、雲仙のゴルフコースで競馬があったとの記述を見たことがあり、最近になって、やっと一枚の写真を手に入れました。説明は「長崎縣 空池原競馬ノ光景」。

写真の現像が悪く、はっきり分かりませんが、真ん中から左側に何やら走っているような・・・・

雲仙は外人さんが沢山宿泊に来た歴史があり、多分、外人さんが思い立って、お遊びに実行したのだとは思いますが、詳しく書いたものが無く、実態は不明ですが見物人は多いですね。競馬場のコースも狭いことが分かります。


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空池は今もゴルフ場の中にあります。「からいけ」、「そらいけ」と書かれた絵葉書があります。私自身はここに水が溜まったのを見たことがないのですが、地元の方に聞いたら、雨の時などは水が溜まることがあるそうです。

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   (地図はマピオンより)


左の写真は「長崎縣温泉(うんぜん)公園 空池原ゴルフコース」「6.8.13」日付のスタンプがあります。

雲仙は明治44年に県営温泉(うんぜん)公園として開設。昭和9年に国立雲仙公園公園として指定されますから「6.8.13」は当然「大正6年」。なお、ゴルフコースは大正2年に開設ですから、ゴルフコースで牛や馬を飼っていたことが分かります。

赤丸の所、外の写真を見ると、ゴルフ場内の「休憩場」と説明がしてありましたが、比べると同じでした。なお、札の原、白雲の池などでも牛、馬、羊などを飼っていました。


右の写真は「長崎縣温泉公園 から池とゴルフ場」の説明。空池に水が溜まった状態。後ろの左側の山、左右の写真を比べれば同じだと思われます。


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話しが横道にそれましたが、ゴルフ場で放牧とは、なんともノンビリしたもので、ゴルフボールが牛さんや馬さんに当たったらどうするんでしょう。


2020年7月 4日 (土)

二つの「千々石橋」~雲仙市千々石町

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某日、下の白黒の葉書を手に入れ、私、地場産ではないため、千々石生まれ、千々石育ちの、昔美人だったと思われる方に「これ、千々石橋?」と聞いたら「千々石橋は国道にある方でしょう」とのご返事。

上の写真、向こう側が国道にある橋。昔、雲仙鉄道が走っていた所です。手前の橋は、島原街道の道で、島原から田代原を通り千々石を通り森山町唐比に到る街道にかかっています。


一応、橋の名前を見てみると、上の国道の橋、「千々石橋」「竣工 昭和29年7月」。


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島原街道に架かる橋「千々石橋」「竣工 平成7年7月」。

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ということで、おかしいじゃありませんか。同じ町内に同じ橋の名前。

困るでしょう、「千々石橋の所で待っているよ」と約束をし、彼女が国道の橋、彼氏が旧街道の橋。すれ違いで「君の名は」(古いな~)の悲劇になるじゃないですか。もっとも、今は携帯があるので大丈夫でしょうが。私も、若いときに携帯があったら、もっと違う人生になっていたかなと、橋のたもとで思いました。

ということで、少し調べました。


下の左の写真は千々石町の”老人クラブ連合会”で作った「千々石町 懐かしいふるさと写真集」(平成4年刊)。説明には「大正12年 千々石橋渡り初め式(先頭は椿山家)」となっています。現在の橋は右の写真になり、架け替えたことは一目瞭然。


で、「千々石町郷土誌」(平成10年刊)によれば、「千々石橋」と「新千々石橋」の記載があり・・・


「千々石橋」、架設年月が昭和29年1月。即ち、国道に架かっている橋。

「新千々石橋」同じく平成7年8月(ママ)。街道に架かる橋。(多分、橋に書いてある7月が正解なのではないかと思うのですが・・・)。これでなんとなく納得?。

当然、「新千々石橋」が先に架かっているので「千々石橋」。国道筋が新しいので「新千々石橋」ではないかと思うのですが、理由は分かりません。


下の地図は「明治33年測図及び則図の縮尺昭和17年第2回修正則図及び及び修正則図の縮図同25年応急修正」です。

千々石橋あたりを拡大しました。


千々石町郷土誌には「大正12年温泉軽便鉄道(千々石~愛野)開通」。「大正15年 小浜鉄道(千々石~北村)開通」(ここら辺、多少の疑問あり)。となっており、温泉軽便鉄道の千々石駅は国道の「千々石橋」の愛野寄りにあり、小浜鉄道が着工されるまでは、国道の鉄橋はありません。

国道は雲仙鉄道(昭和8年温泉軽便鉄道と小浜鉄道が合併)が廃止されたのが昭和13年ですから、この後、鉄路が道路になり、鉄橋が橋になったのではないかと思われます。


地図の赤丸、上が国道の「千々石橋」。下の赤丸が街道の「千々石橋」。茶色の矢印が「国道」。緑の道路は片側が実線、片側が点線なので、「道幅2米以上の町村道」ですから昭和25年頃には、国道と町村道が混在していたことが分かります。 


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左が大正12年の橋の渡り初め。右が現在の橋。作り替えたのが分かります。

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下の絵葉書は時代が分かりませんが、裏をみたら英語で走り書きがありました。

この風景、千々石橋の近くにしかありません。大正12年の橋とは違うことが分かります。特に橋脚の所、木で作ったものだと思われます。上の方は木製なのか、土を固めたものかは分かりません。


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下は旧家から出てきた絵葉書で、年賀葉書に使っていて「明治41年1月1日」の日付があります。「千々石川畔ノ松並木」とありますから、この風景、千々石橋の近くだと思われます。

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現在の千々石川、橋の上から撮りましたが、松の様子など見ると、今も同じですね。

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明治42年の絵葉書、赤丸の所、何やら橋みたいなので拡大してみました。赤丸の所なんとなく、橋脚みたいな感じです。

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さて、問題なのがこの「千々石橋」という名称。

明治12年の「千々石村村史」には、「中島橋」「上町橋」「金谷下ノ橋」「同上ノ橋」「大門橋」との記載があり、後者の4つの橋は全然該当地区でなく、ただ、「中島橋」に「木造三等道ニ属ス 村ノ西北千々石川ノ下流二架ス 長九間幅壱丈水ノ深四尺海潮橋下に到ル」との記載があり、また、「千々石史談第三号」に郷土史家関良孝氏の書かれたものには、明治12年の千々石村村史を引用しながら「中島橋(千々石橋のこと・・・」との記載があり、「中島橋」が「千々石橋」であったかと思われます。なお、この橋は海からそう遠くないところにあり、「・・海潮橋下二到ル」とはピッタリします。


なお、「中島橋」の名称については、この川は「中島」という地区も通っており、「中島橋」というのも、うなずけるところです。

ということで、この橋は架け替えがあるとはいえ、明治12年には存在していたことが分かります。

「島原藩主 長崎監視の道」(島原殿さん道の会刊)に「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房を召して『長崎の事務を監察せよ』と命じました。忠房は参観の前後、長崎を巡視して直接その詳細を将軍に報告していました。」と書いてあり、この本の地図を見れば、松平忠房公はこの道を通っていたと思われます。

お殿様を駕籠から下ろし、川を渡らせるとは考えにくく、多分、江戸時代から橋があったのではないかと想像するのですが・・・

今日は多少お疲れ気味で、乱文でしたm(_ _)m。



2020年5月24日 (日)

「ネガからポジへ」~NEGAVIEW PROを使って見たら(小浜風景)

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今はデジタルで写真を撮るのでフィルムはいりませんが、昔は白黒写真の場合、フィルムを使い写真を撮り、ネガフィルムを印画紙に焼き付け、白黒反転させていました(カラーの場合は同じ手順のネガフイルム、そのまま色がでるリバーサルフイルムもあり)。

で、この度、雲仙・小浜の写真を数点手に入れましたが、これがガラスの乾式フィルム。ネガ・ポジを反転させる機器は持っているのですが、これ、35㎜フィルムしか使えず、私の入手したものは12㎝✕16㎝で、とうてい利用できません。


昔は卒業式の記念写真など撮るとき、カメラの大きな箱に黒布を被せ、乾板をセットして、「はい~、レンズの所から鳩が出ますよ、1,2,3」とやっていました。この頃は、「ピース」などの言葉はありません。


写真屋さんに持っていったのですが、今は昔の現像機が無いとかで、スキャンしたり、LEDビューアーを使いカメラで撮ったりしましたが面倒くさいので、何か無いかと探していたらYouTubeに、簡単にネガからポジへ変換できる「NEGAVIEW PRO」(カラーのネガでも利用できます)というAPPの紹介があって、便利そうなのでAPPストアーで、400円弱であったので入手しました。


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使い方は簡単で、ビュアーもしくはタブレットを利用して、画面を消し光度を最高に上げ、その上にネガをのせアプリを起動させ、スマホで撮ります。画面の調整もできます。

左がネガ、右がポジに直したところ。昔、フィルムで撮った写真、家に写真のネガが残ってい
ると、ちょっとチェックするのに便利です。パソコンに取り込めるので、データにすると永久保存版ができます。

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入手した写真板を3枚ほどポジ写真に直してみました。

一番上の写真、小浜の海岸の埋め立てです。小浜の湯元、本多西男氏が小浜の発展のため、自費を投じ明治28年に埋め立てを始めています。明治44年に埋立て五千坪が竣工(小浜町史談より)。


上の写真、向こう側が完成しているようなので、明治40年頃かなとは思いますが・・・


下の写真は堤防の所だと思いますが、旅館などの所はかなり整備されています。


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同じく堤防の所ですが、沖の大きな船、茂木から小浜へ通う客船ですね。多分。

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あと十数枚残っているのですが、場所が特定できないので、そのうち調べに行こうかと思っていますが、小浜は近年も埋め立てがされており、なかなか難しいですね。

なお、写真板は保管が悪かったのか、ごらんの通りカビがはえたり、幕面が裂けたりで保管が大変です。


2020年5月16日 (土)

第五回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」

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「えんがわ・一畳の気まぐれ資料館」も5回目を迎えました。

4月に準備はしていたのですが、コロナの緊急事態の影響で、人を集めるのはどうかという事でPRを控えていたのですが、市内の公共施設も使用ができるようになり、長崎県も緊急事態を緩和したので、一月半の遅れになりましたが、今日からPRをします。


今回は、安永7年、242年前の長崎之絵図と、寛正年間、220、30年前の江戸の絵図と、長崎市の明治~戦前の古絵葉書の展示になります。


長崎之絵図は博物館等に時々展示してありますが、ケースの中で小さくしか見えませんが、こちらはすぐ近くで見られます。

なお、現在の地図をもとに、アーケード、新地、元岡政、思案橋等の場所など分かるように書き入れています。今の地図と比べれば、この頃長崎駅の場所は海の中でした。


江戸の絵図は島原藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷の位置を図示しており、上屋敷は現在の数寄屋橋公園、中屋敷は慶応大学、下屋敷は中目黒にありました。安政6年の復刻版の地図を置いているので、こちらは自由に広げてご覧下さい。


「島原藩江戸屋敷」についてはブログに2回ばかり載せていて、あと2回ばかり載せる予定です。ご覧いただく展示の地図を見るときの参考になるかと思います。→こちらをクリック →こちらもクリック


長崎の古絵はがきは、このブログにも登場したものもありますが、昔の長崎市の姿と比べれば面白いかと思います。手持ちの絵葉書はまだあったのですが、場所の制約で全部は展示できませんでした。残念。

展示は6月末までを考えていますが、なにしろ”気まぐれ”なので、延期するかもしれません。


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前回の「栗原玉葉・森川青坡・正月用の引札」展は意外に人気があり、市内はもちろん市外の方も訪ねてこられ、盛況でした。ご来場の皆様には感謝申し上げます。特に「栗原玉葉」は地元出身の画家でありながら、 現物を見る機会も少ないので再度展示をしたいと思っています。

「えんがわ」は千々石郵便局の近くにあります。


 

2020年2月18日 (火)

「諏訪神社の神馬」~諏訪神社★長崎の古絵葉書⑤

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「神馬(じんめ・しんば・かみうま)」。昔は本当の馬を奉納してたそうですが、金がかかるし、貰った方も飼育に手がかかるしということで、馬を奉納する代わりに、馬の絵を描いて奉納をしたそうです。正月に願い事を書いて奉納する「絵馬(えま)」の起こりだそうです(多分、ここは、皆さんで調べてみてください)。

諏訪神社の神馬像。この神馬像は「アルバム長崎百年 華の長崎」(ブライアン・バークガフニ著)に「靑銅の神馬は、長崎製鉄所(現・三菱長崎造船所)の創業記念として明治3年に奉納された」ということですが、残念ながら「太平洋戦争中の金属回収により供出された」そうです。


現代の神馬は、「北村西望」102歳の時の作品。昭和天皇御在位60年を記念して、昭和60年に奉納されたものです。


で、上の写真は長坂を登った中門と拝殿の間の広場ということが分かると思います。写真で、柵の有り無し(左の写真後ろの方に柵らしき物が見えますが・・・)、灯籠の形が違いますが、右の写真の灯籠は新しいものと思われます。


で、もう二枚絵葉書を手に入れましたが、場所が違うんですね。「アルバム長崎百年 華の長崎」には「昭和3年に諏訪公園口に移された。」とは書いてあるのですが、左の写真赤丸印が「神馬」。後ろの建物どう見ても「月見茶屋」。ただ、月見茶屋の所に鳥居があるかどうか、記憶にございません、でしたのですが、諏訪神社のホームページの「境内散策」の所に「境内全図」の絵図があり、月見茶屋の所にちゃんと鳥居が描かれていました。と言うことで、この神馬、月見茶屋の所に移されていたことが分かります。

もっとも、少し行った所から左に下ると「諏訪公園(現長崎公園)」ですが・・・

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下の写真が「長崎公園」。長崎公園のFacebookによると「明治6年に太政官布16号の配布により公園に制定された」そうです。太政官布16号による全国21の公園は日本でも最古の公園だと言われているそうです。

最初は「諏訪公園」。明治22年に維持管理を県から市に委譲され、翌年市設公園として「長崎公園」と改名されたということです。

絵葉書には「諏訪公園の一部」となっているので、明治23年以前の絵葉書だとは思うのですが、未だに「諏訪公園」といってる方もいるので、どうなんでしょう・・・?


この公園、入場料がロハなので小さいときによく来たものでした。懐かしい~(^_^)v。


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2020年1月18日 (土)

「時計塔」があったげな・マジで~長崎市浜町★長崎の古絵葉書④

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最近古絵葉書を集めて、「諏訪神社の『靑銅の大鳥居』」「『蛍茶屋』と『一の瀬橋』」「『浦上駅』が『長崎駅』」ということで紹介をしましたが、浜町の絵葉書を見ると何やら時計塔が写っていて、あれ?時計塔があったけ?

ということで、長崎の写真集をあせってみると、下の写真、「ふるさと思い出の写真集 明治大正昭和 長崎」(越中哲也・白石和男共編)に載っていて、ただ、この時計塔については「現在の長崎第一の繁華街浜の町通りで、時計塔が写っているのが珍しい、大売り出しのときには一割引がはやった時期である」との説明で、どこの店屋の時計塔かは書いてありません。

もう一冊の本「アルバム長崎百年 長崎浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」(ながさき浪漫会)にも載っていて、横型の写真ですが、風景、歩いている人が同じなので、同じ写真からとったものだと思われます。こちらの説明は「浜の町商店街と思われますが今と比べれば道路が少し狭い感じもします。このころの浜の町の表店(おもてだな)の道路は三間二尺(約六メーター)でした。当時としては勿論、大通りでした。 大正時代」となっているのですが、時計塔については何も触れてありません。

Img_20200118_0001

最後に見つけたのが「アルバム長崎百年 華の長崎」(ブライアン・バークガフニ編著)。さすが、ブライアンさん。説明は「浜の町鉄橋方面を臨む。右手は佐々木時計の時計台。左の洋風建築は活動写真常設館『喜楽館』。屋根越しに長崎県庁が見える。」ということで、この時計塔「佐々木時計」の時計塔でした。

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で、佐々木時計がどこにあったかというと「長崎浜の町繁盛記」に「明治末期浜の町」ということで「市丸茂の記憶図」というのが載っており、本当は左右に長いのですが、私のスキャナーでは入りきれないので、主な部分だけ載せると(クリックすると拡大します)、緑の所、右から「岡政呉服店(後の岡政デパート)」「長崎警察署」「石丸文行堂」。赤いところ一番右が「佐々木時計店」。このころもう一軒時計屋さんがあったみたいで左の赤の所が「谷口時計店」。

Img_20200118_0003

「浜の町繁盛記」には明治の終わりの本通を中心とした主な商店の紹介がしてありますが、時計店として「佐々木時計店 佐々木熊吉 東浜町35」「谷口時計店 谷口三郎 同11」の記載がありました。

昭和10年の図では見当たらず、この頃は店が無かったのではないかと思われます。昭和36年の浜市商店連合会加盟店では時計店として「岡本時計店」と「稲田時計店」が載せてありました。


佐々木時計店の時計塔、残っていれば名物になっていたと思うのですが・・・



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