古絵葉書・写真

2020年1月18日 (土)

「時計塔」があったげな・マジで~長崎市浜町★長崎の古絵葉書④

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最近古絵葉書を集めて、「諏訪神社の『靑銅の大鳥居』」「『蛍茶屋』と『一の瀬橋』」「『浦上駅』が『長崎駅』」ということで紹介をしましたが、浜町の絵葉書を見ると何やら時計塔が写っていて、あれ?時計塔があったけ?

ということで、長崎の写真集をあせってみると、下の写真、「ふるさと思い出の写真集 明治大正昭和 長崎」(越中哲也・白石和男共編)に載っていて、ただ、この時計塔については「現在の長崎第一の繁華街浜の町通りで、時計塔が写っているのが珍しい、大売り出しのときには一割引がはやった時期である」との説明で、どこの店屋の時計塔かは書いてありません。

もう一冊の本「アルバム長崎百年 長崎浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」(ながさき浪漫会)にも載っていて、横型の写真ですが、風景、歩いている人が同じなので、同じ写真からとったものだと思われます。こちらの説明は「浜の町商店街と思われますが今と比べれば道路が少し狭い感じもします。このころの浜の町の表店(おもてだな)の道路は三間二尺(約六メーター)でした。当時としては勿論、大通りでした。 大正時代」となっているのですが、時計塔については何も触れてありません。

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最後に見つけたのが「アルバム長崎百年 華の長崎」(ブライアン・バークガフニ編著)。さすが、ブライアンさん。説明は「浜の町鉄橋方面を臨む。右手は佐々木時計の時計台。左の洋風建築は活動写真常設館『喜楽館』。屋根越しに長崎県庁が見える。」ということで、この時計塔「佐々木時計」の時計塔でした。

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で、佐々木時計がどこにあったかというと「長崎浜の町繁盛記」に「明治末期浜の町」ということで「市丸茂の記憶図」というのが載っており、本当は左右に長いのですが、私のスキャナーでは入りきれないので、主な部分だけ載せると(クリックすると拡大します)、緑の所、右から「岡政呉服店(後の岡政デパート)」「長崎警察署」「石丸文行堂」。赤いところ一番右が「佐々木時計店」。このころもう一軒時計屋さんがあったみたいで左の赤の所が「谷口時計店」。

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「浜の町繁盛記」には明治の終わりの本通を中心とした主な商店の紹介がしてありますが、時計店として「佐々木時計店 佐々木熊吉 東浜町35」「谷口時計店 谷口三郎 同11」の記載がありました。

昭和10年の図では見当たらず、この頃は店が無かったのではないかと思われます。昭和36年の浜市商店連合会加盟店では時計店として「岡本時計店」と「稲田時計店」が載せてありました。


佐々木時計店の時計塔、残っていれば名物になっていたと思うのですが・・・



2019年12月16日 (月)

「浦上駅」が「長崎駅」???~「長崎駅」の変遷

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上の写真は「長崎駅開業110周年」の記念乗車券と共に配られたカバーです。一番後ろに、写真でいえば、一番左になりますが長崎駅の変遷が書いてあり、長崎駅に関係するところだけ抜き出してみます。

明治30年(1897)  7月22日 長与ー長崎間開通。長崎駅(現浦上駅)開業。

明治38年(1905)  4月 5日 浦上ー長崎間開通。現在地にて長崎駅開業。従来の長崎駅は浦上駅に改称。
大正 元年(1912) 10月21日 新駅舎(2代目駅舎)
昭和20年(1945)  8月 9日 原子爆弾投下により駅舎焼失。8月末(仮駅舎完成)まで防空壕等で執務。
昭和24年(1949)  3月 9日 新駅舎(3代目駅舎)完成。三角屋根の異国情緒漂う駅舎に。
昭和63年(1988) 11月22日 長崎駅リニューアル。
平成10年(1998) 11月17日 新駅舎(4代目駅舎)完成。
平成12年(2000)  9月21日 新ビルアミュプラザ長崎グランドオープン。
平成17年(2005)  4月 5日 長崎駅開業100周年。
平成27年(2015)  4月 5日 長崎駅開業110周年。

ということで、このカバーは2015年に発行されたものです。


駅舎の説明として、右のページ、左上から「初代 長崎駅」(この写真は長崎大学附属図書館蔵になっています)その下が、「2代目 長崎駅」、右に行って上が「3代目 長崎駅」、下が「4代目 長崎駅」。


で、「長崎駅」がなぜ「浦上駅」かというと、このころ長崎駅の敷地は海の中でした。下の地図は長崎文献社から刊行された「長崎惣町復元図」。


この地図、昔の地図に、よく見ないと分からないぐらい薄く、現在の地図が重ねて書いてあります。


赤の〇印が「長崎駅」、緑の〇印が「ホテルニュー長崎」。「現長崎駅」は「浦上駅が長崎駅」といっていた頃は、まだ、埋め立て造成の最中でした。


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で、長崎駅に関しては上の写真のほかに下のような写真等があります。

左は「ふるさとの思いで写真集 明治大正昭和 長崎」(越中哲也・白石和男共編★図書刊行社)。説明としては「長崎の鉄道は九州鉄道株式会社の手によって明治三八年四月五日開通し、この駅が長崎駅として現在地に建設された。そして、この駅舎は大正二年(注:大正元年の間違いか?)国鉄の手により改築された。」となっています。


右が、「長崎駅開業88周年記念」のオレンジカード。要するに「米寿」の記念です。


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下は同時に発売された「長崎駅開業88周年記念自由席特急券」。真ん中に「祝 米寿」の文字。右下に説明文で「明治三八四月開業当時の長崎駅」。ということなら、この駅舎が2代目でいいのでは無いのか?一番上の写真にも載せてないのはなぜかと思って調べたら「長崎県事典・産業社会編★長崎文献社」に以下のように書いてありました。

「港湾埋め立て工事が完成した翌明治38年日露戦争に必要な軍需品輸送の円滑化のため臨湾延長線の設置が急がれ現長崎駅所在地に仮駅舎が設けられた。同年四月開業、ここが長崎駅となり従来の長崎駅を浦上駅と改めた。仮庁舎の長崎駅は大正元年十月二十一日、本庁舎(木造二階建て)竣工とともに新庁舎に移転、・・・」ということで、この建物はあくまで「仮庁舎」ということで、カットされていたという事です。でも、なんとなく、この駅舎の写真もったいないナ。


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ということだったのですが、左の写真(長崎大学附属図書館蔵)が初代の駅舎になりますが、もう一枚、右の絵葉書「長崎停舎塲(場)」「Rallway Station at Nagasak」と書いてあります

多分現浦上駅(旧長崎駅)だと思うのですが、同じようでも屋根の違い、煙突の違い、柵の有無など違っており、どうなんでしょう?ただ、右の写真は「明治四十二年」のスタンプが押してあり、このころは「浦上駅」は「長崎駅」から「浦上駅」に改称されていたはずなのですが・・・昔の絵葉書にスタンプを押したということも考えられるのですが、これについては謎でした。


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各写真、ボケていますが、クリックするとはっきり見えます。


2019年11月25日 (月)

「蛍茶屋」と「一の瀬橋」~長崎の古絵葉書②

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橋は「一の瀬橋」で、このことについては以前書いたので→こちらをクリック

今回は「蛍茶屋」の事です。長崎に19歳まで暮らし上京し、その後30歳でUターンしましたが、この蛍茶屋、電車の停留所があるので名前は知っていたのですが、恥ずかしながら、いわれは知りませんでした。


「長崎事典 風俗文化編 改訂版」(長崎文献社)に次のように書いてありました。


蛍茶屋(ほたるぢゃや)

現在、蛍茶屋という所には、昔、蛍茶屋という料亭があった。矢上への街道筋一ノ瀬橋のたもとである。初代は甲斐市左衛門といい天保八に没しているから一八三〇年代には蛍茶屋は存在していた。
大正時代まで続きその後はなくなった。江戸時代には、市中の人々はよくここに来て清宴(ママ)を催した。旅立ちの人を見送り、ここで別離の杯をくみかわしたりした。(中略)夏は蛍が飛び交う閑静な場所であったので蛍茶屋の名前がある。

さて、一番上の絵葉書「1906」の年号、もう片面には「長崎 39.11.18」のスタンプが押してあり、西暦1906年は明治39年でピッタリになります。もっとも、10年前の絵葉書を使う方もあり、この絵葉書が明治39年であるかどうかは確定できませんが、明治39年以前の絵葉書であることは確実です。


で、この橋のたもとの家が本当に「蛍茶屋」かどうかですが、ブライアン・マークガフニ氏著「花の長崎 秘蔵絵葉書コレクション」に3枚ほど写真が載せてあり、2点ばかりコピーしたのが下の写真。赤〇印のところ。家の様子がちうんですね。上の写真は2階建てで、かなり大きい、下の写真は、私の絵葉書と一緒で、ごく普通の様子の家。
(良く見たら、私の絵葉書とブライアンさんの下の絵葉書、説明の文字が違いますが、写真は一緒ですね)


もっとも、年代が違い家を作り替えたのか、写真を撮るときの角度で、大きな家の方が写らなかったのかは不明ですが。


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調べていくと、柴多一雄氏著「長崎古写真紀行」(長崎文献社刊)と「長崎浪漫」(ながさき浪漫会・長崎文献社刊)に全く同じ写真が載っており、この橋が一の瀬橋で、赤〇印の所、多分看板だろうと思って、拡大したらビンゴで「蛍茶屋」と読め、やはり、一の瀬橋のふもとに「蛍茶屋」があったんですね。

できれば、蛍をながめつつ彼女と杯を交わしたかったな思った次第ですが・・・


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電車の停留所「蛍茶屋」はここから取ったんですね。やはり、長崎の人間は風流ですね。




2019年11月16日 (土)

「諏訪神社」青銅の大鳥居~長崎の古絵葉書①

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諏訪神社の最初の大鳥居が昔は「青銅の大鳥居」だったんですって。写真の下の説明にも「長崎諏訪國幣中社靑銅の大鳥居」と書いてあります。

最近は、おとしよりが少なくなってきて、昔の事を調べるのが難しい時代になりました。代わりに、記憶より記録という事で、千々石の昔の写真を集めようと思っても、意外と集まらず、代わりに明治、大正、戦前の絵葉書を集めたら、千々石の絵葉書は思いのほか多く、島原半島では、雲仙がダントツ、次いで小浜、島原と千々石がどっこいどっこいで、千々石の絵葉書も大体集め、「千々石絵葉書物語」ということで、小冊子でも作ってみようとは思っているのですが、現在は思っているだけですが・・・


さて、古絵葉書も面白く、長崎の古絵葉書も集めてみたら、珍しいものもたくさんあり、多少のご紹介をしていきたいと思います。なお、長崎については各種写真集、資料があるのですが、調べると年代等違っているところもあり、一緒にご紹介を。


上の写真、皆さんご存じの諏訪神社の大鳥居ですが、これ、青銅製なんです。


なお、長崎大学の付属図書館が「幕末・明治期古写真」がネットでも検索でき→こちらをクリック


神社の鳥居の順番については、くぐる順で、最初が一の鳥居、二番目が二の鳥居、三番目が三の鳥居と普通は数えますが、人によっては、神社に近い方から、一の鳥居、二の鳥居・・・という順になると言う人もいます、が、諏訪神社の場合は、長崎大学の古写真の説明によると、「諏訪神社の鳥居は建設順に順番がつけられている」ということだそうです。長崎の皆さんで確認してください。


話を元に戻して、この青銅の鳥居については、「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 長崎 越中哲也・白石和男共編」と「アルバム長崎百年 華の長崎 長崎の絵葉書コレクション ブライアン・バークガフニ編著」(「華の長崎」には多くの絵葉書が載せてありますので、興味ある方はご覧下さい)に載せてあり、「ふるさとの思い出写真集」には「諏訪神社(1) ー青銅の大鳥居ーこの大鳥居は天保六(一八三五)年に作られ明治七年八月の台風で倒壊している。・・・」とあり「華の長崎では」もう少し詳しく書いてあり、明治7年の台風倒壊までは一緒ですが「・・・募金により同25年に三菱造船所に発注され再建。その後『唐金の鳥居』として長崎名物になったが、太平洋戦争中の金属回収により供出された。」ということで、まことに残念なことでありました。もし、そのままなら、これも長崎名物のひとつだったのでしょうが・・・

なお、Wikipediaでは「1893年(明治26年)6月11日に1874(明治7年)の台風で倒壊した靑銅大鳥居が再建される。」となっており、再建年月日が1年ばかりズレてはいるのですが・・・発注が明治25年なのかな?


ただ、この写真が、最初の鳥居か、再建されたものかは不明です。



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