古文書

2018年5月12日 (土)

「お・て・も・と」~古文書へのお誘い

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お箸ですね。

古文書を習い始めて一年、未だもって全然読めません。もっとも、予習、復習していないから、当たり前ですが。

さて、先日、食堂に入ったところ、上のようなお箸がでてきました。字を見てあれ?と思いました。良く見ると、下の写真。くずし字ですね。

一番上から「御」、次が「手」、次が少し難しく「茂」、ここまでは分かると思いますが、最後の文字「登」のくずし文字です。「登」と書いて、「『のぼ』る」。または「『登』山」の「登」で、「と」。この場合は「と」。

続けて読めば「お・て・も・と」。「お手元」、「お箸」のことです。で、なぜ「お箸」が「お手元」なのか、調べると。辞書にもハッキリ書いてありません。

最終手段でネットで「箸」を調べると、諸説あってハッキリはしません。

「お手元」は、「三省堂大辞林」に「〔食膳の手前にあることからいう〕料理屋で、箸(はし)」と言うことで、考えれば、たしかに料理が出てきたとき、一番手前(手元)にありますね。

なお、ネットで調べると、「皓星社」より「隠語大辞典」というのがあり、その中で「花柳界にて箸のことをいふ。箸は端に音が通じて縁起が悪いから、かついでお手元といつたものである」ということで、何となく納得。

さて、古文書を読むと当て字が多く、「阿そび=あそび」、以前書いた「村なく(ムラなく)」とか色々ありますが、「三くだり半からはじめる古文書入門~高木侃著」によれば「江戸時代の『ひらがな』は、同じ『ひらがな』でも1つの形だけとは決まっておらず、複数の形があったのです。『あいうえお、かきくけこ・・・・』といった50音が現在の形に決まったのは、明治33年(1900)のことでした。」

ということで、「阿そび」などと書けば、明治33年以前は○でしたが、明治33年以降は×になります。「お手元」も、今の試験で、「御手茂登」と書けば×になります。

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皆さんの回りにも、良く見ると、古文書に通じる「くずし文字」が見つかるかもしれませんよ。最も「夜露死苦」はありませんが。



2018年3月27日 (火)

「山田右衛門作口書」~参考になれば・・・

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以前、「山田右衛門作」について書きましたが、島原・天草一揆の資料に関しては、各藩の所有の資料が主で、一揆軍の書いた資料としては、矢文、そして、山田右衛門作の「口書」(他、いろいろな呼び方があります)しかなく、この方面に興味のある方、調べてみようという方のために、参考になる書籍の紹介をしてみたいと思います。

「口書」については、中身を読むと、違う所もあり、どれが原典かは?です。とは言っても、全部付け合わせて、読んだ分けでは無いのですが。

■「キリシタン遺物の研究」~竹村覚著

昭和39年発行、少し古い本になります。

こちらの本には、「口書」は載せてありませんが、「南蛮絵師山田右衛門作」と言うことで、右衛門作について書いてあります。

左の写真は、「山田右衛門作屋敷跡」と、下の写真、後ろの標柱には「山田右衛門作墓」と書いてありますが、著者の竹村氏は「おそらくは供養塔であろう」と書かれています。

現在は「供養塔」になっています。下の右の写真は現在の姿ですが、卍の彫り物は薄くなっています。見たところ、卍の上の所、梵語みたいなのが彫ってあるような気がするのですが、拓本を採れば分かるのですが。

建物は、島原の乱は1637~1638年ですから、多分、建て替えられたものと思いますが・・・現在は、車のガレージになっています。

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下の写真は同書に載せてある、「大屋港入船図(伝山田右衛門作)」の絵画。白黒写真ですが、多分、色彩画だと思います。ただ、あくまで「伝」です。

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■「原史料で綴る 天草島原の乱」~鶴田倉造著

1000ページを越える本で、乱が起こってからの各藩のやりとり、江戸表への書状、平戸オランダ商館長クーケルバッケルの日記(原城の一揆軍を海上から大砲で撃った人物)、城内からの矢文の文、宮本武蔵が参戦し怪我をし有馬左衛門佐(キリシタン大名有馬晴信の子・晴純・最初キリシタン後転教)に宛てた手紙等々載せてあります。

島原・天草の乱を調べるのに必読の書でしょうが、1000ページ超すとですね・・・

■「島原半島史 中巻」~林銑吉著

写真では上巻になっていますが、「島原・天草の乱」関係は「中巻」に書いてあります。

こちらの公民館図書室には、上・中・下あるはずなのですが、中巻は「島原・天草の乱」のためか、ほとんど行方不明です。

なお、この本に載っているのは、「山田右衛門佐(と書いてあるのもあります)口書写」。所有者は、有家町の郷土史家の方。これも「写」になります。

■「天草・島原天草軍記集」

あくまで「軍記集」で、一級資料とはいえませんが、「天草騒動」「天草土賊城中話」「十時三弥助書上之写」「島原記」「嶋原一揆松倉記」「嶋原天草日記」「山田右衛門作以言語記」とかがまとめて入っていて、お買い得です。

「山田右衛門作以言語記」は「山田右衛門作物語」になっており、あくまで「物語です」。

口書の方は、「天草土賊城中記」になっていますが、これは最後をみると「・・・本書無題名蓋寛永天草賊所帰歸?降山田右衛門作者之口語也」ということです。

ただ、ざっと読んだところ、「山田右衛門作以言語記」は「続々群書類聚第4巻史伝部3(オンデマンド版)」に同文が載っているので、これからの写しだと思います。

なお、
「島原記」には「山田右衛門作就御尋申上候覚」としても載っていますが、これは、「島原記録第四目録」としての中にも多少違うところはあるものの、内容的には同じものが載っていました。

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というところで、本物はどれでしょう?山田右衛門作は松平信綱に江戸まで連れてこられます。多分、江戸で「口書」されたものでしょうが。

最初を読んでみると、「今度島原吉利支丹おこり候・・・・」「今度島原切支丹発申候・・・」「今度吉利支丹發候次第之儀ハ・・・」と「切支丹」が強調されています。

島原・天草一揆については、いまだにキリシタン説、百姓一揆説等々ありますが、山田右衛門作は原城内で暮らし、参加者はキリシタンだけでは無いのを知っているはずなのですが、これではハッキリ、キリシタンが原因だと断定している感じです。

なお、この後、寺請制度(後日、詳しく説明します)などが制度化され、庶民はこれに縛られていくのですが、何となく「口書」には、信綱の影が見えるのですが・
・・・・

2018年3月17日 (土)

「嶋原合戦記」について



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「嶋原合戦記」の中巻、下巻で、軍記物。嶋原・天草一揆の事が書いてある版木本です。下巻に「題簽(だいせん・題名など書いた、表紙に貼ってあるある紙、「中巻」がそうです)。これが無いのと有るのでは少し価値が違います。

全巻揃いはなかなか入手できません。これが私に読めるかというと、日本語だから読めますが、くずし字辞典片手に、一日一行くらいかかるでしょう。

一揆の討伐に参加した各藩に残っている、一級の資料ではありませんが、後ろを見ると「宝永元甲申六月吉旦」と書いてあり、1704年に書かれたものだと分かります。

嶋原・天草一揆が寛永14~15年(1637~1638年)ですから、一揆終結後66年後に書かれていると言うことです。

66年というと、あの一揆ですから人々の記憶から完全に消えず、原城もまだ荒れ果てたままの姿だと思われます。

さて、この古文書を買ったのは、


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絵入りで、なかなか面白く、

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特に、左のページ、破れた一揆軍の打ち首が並んでいますが、一番上の首、若くて、髪が長いところを見ると、「天草四郎」でしょう。下に並んだ首は各指揮者だと思います。

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先日ブログに載せた、一揆軍の唯一の生き残り、江戸初期の南蛮画家、「山田右衛門作(えもさく)」ですが、下の赤丸印のところ、ちゃんと載っております。

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右衛門作は、松平信綱に江戸に連れて行かれ、その後の消息は不明で、いろいろ言われていますが、軍記物であっても、これだけ書かれてあるところをみれば、それだけ名を知られていたと言うことができると思います。



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