古文書

2025年11月27日 (木)

南串山村馬場庄屋定書等控帳(長崎県雲仙市)~やっと完成


以前から多少紹介をしていた南串山の庄屋さんの古文書(こもんじょ)。何といいますか、10名程度の会員で足かけ14年の解読。まだまだ、手つかずの古文書も沢山あるのですが、一応区切りがついたところで本にしようかと会長さんからの提案で、ここ2,3年は初めから読み返し訂正に訂正を重ね、やっと、出版にこぎつけました。全ページで600頁になるので、「原文、翻刻文」で1冊、「読み下し文」で1冊の2冊にしようとしたのですが、印刷代が高く「読み下し文」をCDに焼き込みにしました。

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普通、出版されている庄屋さんの文書は、日記みたいに書いてあるのが多いのですが、この庄屋さんの古文書は年貢、農業、漁業、火事への対応、神社、寺、往来手形、和算etcと多岐にわたっており、私たち庶民の生活に密接な事柄が読み取れられます。

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江戸時代、庄屋さんが地元のお医者さんに描いてもらった南串山の絵図。面白い所があるので、徐々にご紹介を。


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現在、島原半島で庄屋さん関係の古文書で出版されているのが、南串山の「古記録抜書帳」。旧有田村庄屋の「石橋家記録」、多比良村の「永代日記」、そして今回出版の南串山村馬場庄屋の「定書等控帳」。これらを読むと、各村内の状況のみで無く、島原半島の村々のつながりも読み取れ、車も無い交通不便な時代の島原半島内の交流がうかがわれます。

島原半島は松平忠房公が入部し36ヶ村に定められ、明治以降変遷をし1市16町になり、大合併で3市になりました。ただ、1市16町時代と違い、各町競い合った1市16町の熱気、交流が薄れた感じがします。もう一度、古文書を読み、考えながら、地域の連携について考える時代ではないかと思うのですが・・・


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各写真はクリックすると拡大します。

2025年8月 3日 (日)

遊女は読み書きができたのか?~NHK大河ドラマ「べらぼう」より

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上の左はNHK大河ドラマ「べらぼう」の一場面。蔦屋重三郎が遊郭に貸本を持って行き、遊女が本を選んでいる場面。右、同じような場面が川島雄三監督の「太陽幕末伝」にもあり、小沢昭一扮する貸本屋が品川の女郎屋の遊女のところに本を持って行き、遊女が本を選んでいる場面。

この場面を見て、ふと、遊女は本を読むことができたのかと思ったのです。「べらぼう」で遊女が読んでいる本を拡大すると、何やら”絵”みたいなのが見え、絵草紙なら下のようなものであり、ホンマに読むことができたのかと思い調べると、遊女の方読み書きができたのですね。営業用ですが。現在なら「ア~ラ、最近、来ないわね、さみしいワ~」などとスマホで連絡をできますが、当時としては手紙しか手段が無い。また、落語の「三枚起請」にもあるように起請文も書いていました。太夫あたりになると「べらぼう」にもでてくるように、大名の方などもお客にきて、芸能、和歌、文学、遊戯等々の教養も身につける必要があり、遊郭では読み書きも学ばせていたようです。


なお、手紙の文章は考えるのは難しく、遊女のための手紙の書き方の手本もあります。「遊状(女)案文」。「しばし来ぬ客へ遣る文」等などものせてあります。詳しくは国立国会図書館で「江戸時代の恋文」で検索を。なお、Amazonで「遊女案文」で調べるとKindleで読めます。興味のある方は・・・

ということで、遊女の方、下にあるような絵草紙も読めたのではありますね。


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2023年9月19日 (火)

落語「紀州」の原典は松浦静山「甲子夜話」?

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「紀州」という落語があります。次のような話です。


七代将軍家継が急死。後継の候補が尾張か紀州。


後継ぎを決める際、尾州公が江戸城へ登城するとき、鍛冶屋の「トンテンカン・トンテンカン」の音がして、これが尾州公には「テンカトル・テンカトル」と聞こえ、縁起が良いと。


さて、尾州公、評定の席で後継ぎに推挙されたとき、大物に見せたいために「余は徳薄くして・・・」と固辞。もう一回、推挙されると思うも、予想外に紀州公への問い。紀州公も始めは「余は徳薄くして・・・」と辞退するかと思いきや「しかしながら・・・」と次期将軍を引き受けてしまいます。

尾州公が城から下るとき、再び鍛冶屋の音が「テンカトル・テンカトル」と聞こえる。「おかしいな」と思っていると、鍛冶屋の親方が、焼けた鉄を水に入れると・・・・・・・・・・「キシュー(紀州)」。・・・・・というお話しなのです。

さて、この落語にはネットなどあちらこちらに説明が書いてある事なのですが、松浦静山の随筆「甲子夜話」の「第十七巻」に納められているというのです。

松浦静山と言えば長崎の平戸藩の藩主、ワタシも長崎県人なので、一応あたってみました。「甲子夜話 第十七巻」には二十五条のエピソードが収められていますが、読んでみて「無かった」んです。

ほかに、何かあるんかい?ということで「甲子夜話」を図書館から借りてきました。「甲子夜話」は平凡社東洋文庫に収められ、正篇六巻、続編八巻、三篇六巻の20冊です。これ、全部読みました。「目次」だけですが。甲子夜話の場合は目次を読めば、どのような事が書いてあるか大体は分かります。結局、この話は見つけきれませんでした。


一つだけ「続篇十七巻」に「落咄(おとしばなし)」というのがあり、「落咄」といえば落語に関係するのですが、これにも「紀州」の噺は載っていませんでした。

ということで、どなたかご存じならばコメント欄に書き込みをお願いいたします。

 

2023年8月24日 (木)

ちょっと大変~古文書(こもんじょ)の出版に向けて

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前にも書いたように、古文書研究会で勉強をしています(が、落ちこぼれ状態です)。

昨年末、会長さんより、読んでいるものがまとまってきたので出版をしようか、というお言葉でした。

で、大体のページ数を勘定するとなんと500頁あまり。原文のコピー、翻刻分(原文を読めるようにしたもの)で大体350頁程度、これに読み下し(現代文に直したもの)と解説で150~200頁。

一度、翻刻分、読み下し文は読み直して訂正はしていたものの、本にするとなるとキチンとしようと読み直しをしているのですが、改めて読むとケアレスミスが多く、時間がかかっています。


上の写真、パソコンの右が古文書の現物を拡大コピーしたもの。下が翻刻文。その左が読み下し文。


最初、翻刻分と読み下し文を比べ間違っているところをチェック。これを、パソコンに入力。どちらが正しいかを原文と比較。それを、再度パソコンに入力。


現代文なら簡単なのですが、原文自体も地方文書(じかたもんじょ)なので書き方が非常にわかりにくい部分もあり、これで時間がかなりかかります。少し急ぎたい事情もあるのですが、今年いっぱい原稿が上がるかと思っていたら、多分、来年まではかかりそうです。

テキストが多いため、5分割して検討をしていますが、上の写真はNo3。あと、No4とNo5があり、これを思うと、夏毎日暑いのにゾクゾクして寒気がします。

ただ、お武家さんの文書(もんじょ)とは違い、庶民の生活に近い文書なので興味を引く部分が沢山あります。



2023年8月10日 (木)

NHK朝ドラ「らんまん」を見ながら・・・

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左の写真、万太郎の妻寿恵子さんが妊娠中食欲が無く、友達の藤丸次郎が芋を油で揚げ塩を振っている場面。

この、塩の振り方、SNSに現れる右の人物の真似ですね。どこかのレストランのオーナーシェフみたいですが、肉に塩を振りかけるとき、必ずこのポーズです。

脚本にこのポーズの指示があったのかどうかは分りませんが、多分、藤丸次郎役の前原さんがアドリブで演じたと思うのですが・・・この場面の事をSNSあたりで誰かが出すだろうと思ったのですが、出ていないので紹介まで。

下の場面、万太郎と寿恵子さんの最初の子が亡くなり、寿恵子さんの食事も喉が通らないとき、同じ長屋に住む倉木隼人が卵を持ってくる場面。

今では「卵」はさして珍しいものではなく、養鶏場で大量に生産され安価で手に入りますが(物価高で値段が上がりましたが・・・)、昔は栄養があり高価なので、病気見舞いにもつかわれました。ワタシも、昭和三十年代だったか、幼稚園生の時病気にかかり、卵を病気見舞いにいただきました。

さて、江戸時代役人様が村々を巡回した折、手土産に「卵」を渡す事もあったようで、美濃国安八郡西条村の庄屋さんの日記(「庄屋日記にみる江戸時代の世相と暮らし」・成松佐恵子著 ミネルヴァ書房刊)に次のように書かれています。


文政七年宗門改の節、役人に対して「まず御肴料として金100疋が水引をかけて包まれたほか、籠に入れた玉子50個と煎茶一斤が贈られた。」・・・他村に廻って再度寄り出立の折「その際定例の玉子の土産物を下役に渡すのを失念したため、後に催促の書状が届くという一幕もあった。」


ということで、卵が昔はどんなに貴重なものであったかが分ると思います。古文書研究会に入って、庄屋さんの記録を勉強していますが、偉い方の文書(もんじょ)と違って、庶民に近い生活が記録してあって面白いですよ。


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2022年11月26日 (土)

古文書解読にセンスは必要なのか?

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◆以前、お琴の先生同士、話をしていました・・・

「入門した方で、良く『六段』は、どれくらいしたら弾けるのかと聞かれて困るんですよね。」「そうなんですよね。半年で弾ける方もいるし、何年も弾けない方もいるし・・・」「センスの問題なんですよね・・・」「そうなんですよね・・・」


◆TVのバラエティー番組で20年ばかりバイオリンを習ったという方が引きましたが・・・


聞けたものではありませんでした。


◆ワタシ、碁を少し習っていたました。で、教えてくれという方がいたので教えましたが・・・


最初は、TVでも見ながら適当に打っても勝っていたのですが、半年ばかりしたら手も足もでなくて、ボロ負けをし、碁を止めました。


◆大学~大学院で古文書を勉強した方が次のような話をしていました・・・

「大学に入学して、すぐに古文書を読める人もいたし、4年間勉強しても、あまり読めない人もいたし、センスの問題だと思うんですよね。」


さて、古文書研究会に入って5年ばかり、で、ほとんど読めません。ワタシより半年ばかり遅く入った方、ベラベラです。

まあ、イロイロと考えると古文書解読にも、センスが必要な気もするのですが、もう少し頑張ってみようかと考えています。

2022年7月30日 (土)

「因果物語」の雲仙地獄について

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「因果物語」全三巻の仮名草子本。作者は鈴木正三。勝手に平仮名本が刊行されていたため、弟子たちが1661年に正本として発表。

内容は鈴木正三が見聞した諸国の怪異譚。仏教談義な材料として怪異譚、因果を収集したもの。


このなかに、雲仙の地獄を記述したものがあります。この本については国立国会図書館デジタルコレクションで見る事ができます。上の写真はそれから取った物です。


右が初めの部分「十四 生きながら扡ごくに沈みし出家の事」。

物語は、豊後の町人、肥前の出家、牢人の三名が温泉(うんせい)に行ったとき、出家が煮湯の湧き出でるところに指を差し入れたが熱くもなく、ただ、煮え湯から指を引き出したとき堪えがたい熱さが。また、その指を煮え湯に入れれば熱さが止む。また、指を引き出せば耐えがたい熱さ。とかくするうちに、引き出されず次第に深く入り、腕を差し入れるようになり、引き出せば、また、熱く。後には総身をみな入れて、頭、目だけを出すようになり、ついに底に沈みけり。

という物語なのです。


さて、話は別にして、最初の部分「肥前の国嶋原という所に、温泉(うんせい)が嶽とて・・・」と書いてあります。「温泉(うんせい)」とは書いてありますが、「肥前の国嶋原」とあるので、現「雲仙(うんぜん)
」です。

「雲仙」は昔「温泉」と書いて「うんぜん」と読んでいましたが、「うんせい」という読みもあったのでしょうか?


もっとも「千々石」を「千々岩」と書いた江戸時代の街道図、戦前の地図なども残っているので、地名は意外とラフな表現もあるようなのですが。

左の図が最後の頁になりますが赤丸の所、頭だけを出した人物が書いてあります。


下の絵図「雲仙お山の情報館」所蔵の雲仙の絵図で、何回か紹介しましたが、地獄が沢山書いてあります。ただ、上の地獄がどこなのかは不明。


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2022年7月 1日 (金)

雲仙「温泉神社二ノ鳥居」について②

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昨日、雲仙の温泉神社の二ノ鳥居について書きましたが、少し気になって「肥前國髙來郡温泉山の圖」を調べて見ました。

この図については、「しまばらふるさと再発見」で松平文庫長根井浄先生が「江戸時代の地獄は満妙寺一乗院が案内権を持っており、いろいろな説話が語れていました。」と語られ、確か先生の以前のお話しでは、その折り、この絵図で説明をしていたとのことでした。いわば、観光パンフレットですね。

現在、数冊の本で印刷物が紹介をされています。比べてみて違いは見受けられますが、基本同じです。なお、本物は版木で摺ったものです。


下は「雲仙お山の情報館」所蔵のものですが、片面が「雲仙國立公園決定紀念祝賀 島原郷土史料展覽會」となっていて、絵図は版木の印刷ではなく、いずれかの絵図の模写だと思われます。


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  (雲仙お山の情報館所蔵)

下が温泉神社あたりを拡大したもの。


一番右が鎮守四面大明神。ご本尊様。その左が拝殿。


赤の矢印が鳥居。二つ鳥居があるのが分かります。右の鳥居は多分両部鳥居。両部鳥居は近くには無いので、ググってみると木製が多いようです。


さて、安政7年(1776)島原藩に提出された一乗院(満妙寺)の書上帳があり、これについて「嶽南風土記 有家町史談第4号・有家町史談会刊」に根井浄先生が「江戸時代の雲仙(温泉)・普賢岳・妙見山ー史料『温泉山起立書』の翻刻と紹介ー」という事で書かれています。


この中に、温泉神社の面積、寸法等が書かれていますが、鳥居について下記のようにかかれています。


⑤本社石壇下より石鳥居まで堅拾六間横九間 此反別四畝廿四歩

⑦木鳥居より石鳥居まで堅拾九間横貮間 この反別所壹畝九歩
⑩石壇木鳥居下
⑪石壇石鳥居下
⑫木鳥居 一 石鳥居

という事で、元来温泉神社には木の鳥居と石の鳥居があったことが分かります。


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前に書いたように、現在の二の鳥居についてまとめてみると下記のようになります。

一 1695年(元禄八年) 建立

二 1778年(安政七年) 温泉山起立書 木製と石製の二基の鳥居の記述
三 1792年(寛政四年) 雲仙岳大噴火により鳥居倒壊(あくまで推測です)
四 1851年(嘉永四年) 石鳥居のみ再建

この絵図については、1695年~1792年の雲仙の地獄の風景だといえると思います。
絵図に描いてある両部鳥居、これも現代再建できれば面白いと思うのですが。

2022年3月31日 (木)

鯛の「おかしら」付き

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庄屋さんの書いたもので、お武家さんの書いたものとは違い読みにくい。というより、いまだに、ほとんど読めません。

読んでいると上のようなところがありました。最初の字は「尾」次の字は「頭」です。


漢字のクイズで「鯛のおかしら付きの『おかしら』はどう書きますか」というのがあります。「お(御)頭」「尾頭」とありますが、正解は「尾頭」。



広辞苑によれば


【尾頭付】尾も頭もついたままのさかな。神事・祝事になどに用いる。「鯛のー」



一応このことは知っていたのですが、実際にこうして書かれたものを読むと、なんとなくうれしくなり、こんなところにも古文書の面白さを感じます。

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左が「尾頭付き」、右が「お頭付き」。尾が無いのでは絵になりませんね。


2022年2月15日 (火)

「日本八景」~なぜ阿蘇ではなかったのか?

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上は以前にも紹介をした、谷文晁の「日本名図会」より、雲仙岳と阿蘇山です。

どちらが立派かというと、身びいきで「雲仙」ですね。


しかし、下のような見立相撲(江戸末期とみられ、山、川、橋等を相撲取りの位に見立てて評価したもの)では、阿蘇が大関、雲仙は前頭筆頭。ついでに、温泉効能も貼っておきます。同じく、前頭です。当時は、実力最高が「大関」です。「横綱」の称号については→こちらをクリック


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いうこともあり、日本八景に選ばれるのは「阿蘇」でも良いのではないかと思っていたら、下の本に事情が書いてありました。

下の本は「日本八景」を文人が訪れ、紀行文を書いたものです。雲仙は「菊池幽芳(作家、大阪毎日新聞記者、取締役、相談役)」が訪れています。中々に面白い紀行文で、機会があった読んでみて下さい。


で、後書きに日本八景の選考について詳しく書いてあります。その中に、なぜ阿蘇山が選ばれなかったの記述があり、下記の通りです。


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「・・・九州の山なら、どうして阿蘇が出てないのか。調べてみると、この企画が発表された昭和2年の4月に阿蘇山は噴火している。風景の評価は、天変地異が起こると除外されたりるするので、後世になると、当時の時代背景を知る必要がある」ということで、阿蘇は選には入らなかったそうです。

それなら、阿蘇が噴火しなかったらとの疑問もありますが、投票に関しては「一部の地域で、集中的な地元投票がおこなわれだした。」とも書いてあり、仄聞によると雲仙(長崎県)
でも同様であったとか。

実力=人気と限らないのが、世の常です。



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