古文書

2021年4月12日 (月)

島原藩「松平主殿頭忠房公」の評価

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島原に疎い方のためにザッとですが・・・

島原は最初有馬氏が治めていました。居城は日野江城(現南島原市北有馬町)。有馬晴信が岡大八事件で死罪。
しばらく幕府領になりますが、次の松倉重政氏は島原城を築きます。重税とキリシタン弾圧をおこないますが、息子の勝家はどうしようないバカ息子で、島原・天草の乱を引き起こします。

次に高力氏が治めます。息子隆長時代に改易。次に深溝(ふこうず)松平氏の松平氏が福知山藩から入府。以後5代にわたり島原を治めます。前期松平になります。初代が松平忠房公。


次に、戸田氏が2代にわたり治めますが、再び松平氏が8代にわたり治め明治になります。ということで、島原半島でお殿様というと一般に「松平氏」になります。


で、血縁ではありませんが、自分のとこのお殿様というと、なんとなく気になるじゃありませんか。ということで、「江戸最高の名君はだれだ?」という文句に引かれ上の本を買いました。


松平忠房公といえば島原半島の安定化に努め、文学を愛し貴重な資料を集め、現在松平文庫に収められいます。また、江戸時代唯一の海外貿易港であった長崎の監督を命じられ、西国大名の監視も命じられていたという話もあり、幕府からも重用されています。ということあり、「名君」の一人に挙げられていまいかとは思ったのですが、残念ながら、でした。上の右の表が「名君ベスト30」です。クリックすると拡大します。


九州では、福岡藩主黒田長政、佐賀藩主鍋島直正、熊本藩主細川重賢、薩摩藩主島津斉彬。なお、平戸藩主松浦静山がベスト15位に入っていますが、あの人「甲子夜話(かっしやわ)」なんてすごい本書いているからナ。→こちらをクリック


「暴君・暗君ワースト10」も書いてありますが、松倉勝家などが載っているかと思ったら、ベスト10には入っておらず、「不行跡・乱心などが原因で改易された主な藩主」に上に書いた「高力隆長」が入っており「苛政」が原因です。地元では、松倉氏が悪政をした人物として有名なのですが。


なお、暴君・暗君のベスト1はなんと「浅野長矩(ながのり)」。あの松の廊下で吉良上野介に斬りかかった方。理由としては「悲劇の主人公のように見えて、実は江戸史上最悪の暗君といえる。」となっております。


その他、本書には「大名家の衝撃事件ファイル」など紹介してあり、なかなか面白い読み物でした。

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上の左の本は「武士の家計簿」で有名になり、TVなどでもよく見かける”磯田道史”氏が書かれた「殿様の通信簿」。ネタ本は右の「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」。

磯田氏によれば「『土芥寇讎記』は、書物というより、むしろ幕府隠密の『秘密諜報』で、公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもの、という説がある。」というものです。「土芥寇讎記」を翻刻し出版された金井圓氏によれば、書かれた時期が元禄三(1690)だそうで、当時の大名234人の人物評価を載せた希有な書物、だそうです。

磯田氏の本に松平公の事が書いてないかと思ってAmazonから取り寄せましたが、残念ながらでした。ただ、氏の知識と古文書の深読みには”さすが”という思いがします。

水戸光圀の”圀”はなぜ”國”を使わなかったのか。また、悪所通いをしたとあるが、その裏にはなにがあるのか?


前に書いた「浅野長矩」。舞台、映画、小説などでは素晴らしいお殿様として描かれてしますが、なぜ暗君と書かれてあるのかなどは目からうろこでした。

さて、「土芥寇讎記」に”松平忠房公”が載っていました。長いので、要点だけ・・・前半が隠密の多分報告で、後半が幕府の高官の意見だと思われますが

「政道順ナル故、家士心易シ。風俗落付、民間二寛(ゆたか)也。」・・・「忠房公ハ、勇気ヲ宗トシ、才智発明也。心意気淳直ニシテ、法ヲ不背、行跡穏順ニ、仁政ヲ施シ、家民ヲ哀憐スル事深シ。忠義ヲ立ント欲シ、勤候ヲ専ラトセラルト云へリ。


と書いてあり、意味が分からなくとも字を見れば、謹厳実直、誠実、真正直、真摯、生真面目、品行方正、石部金吉というような文字が頭をよぎるのですが・・・とにかく悪所通いなどは無かったようですが、「土芥寇讎記」の最後に、「辺国(島原の事)タルニ依テ、人民喧(かまびす)キ事多シト聞フ、心得アルベキ事ナリ。」とあり、「喧しい」は「やかましい。かしましい。」という意味があり、島原は狭いので悪所通いなどしたら週刊文春に載って「人民喧シ」ですヨ。と言うことで、真面目にしていたのかな、と思います。

忘れていました、忠房公の官位は”従四位下”。吉良上野介が”従四位下”。浅野長矩が”従五位下”で浅野さんよりは官位は上になります。どうでも良いことですが・・・(^^;)。



2021年4月 7日 (水)

「往来手形」について

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「通行手形」「往来手形」「関所手形」など呼び方はイロイロとありますが、多少違いはあるようです。

上は、Googleで「通行手形」の画像を検索したもので、多いのが将棋の駒の形のもの。赤の矢印が古文書。将棋の駒形は見ると、全部、観光地の土産物です。江戸期における通行手形、往来手形、関所手形にはこの形のものは見当たりません。


下の本は往来手形等について書かれた本ですが、古文書についての事のみが書かれています。駒形のものについては、書かれてありません。


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Googleの映像で青印は尼崎藩のものだそうですが、「御門通札」。尼崎城に入るため発行された通行証だそうです。他に「御厠通札」「夜行札」「御城内尿取札」などがあるそうですが、今、大きな会社に入るときなど首にぶら下げる証明書で、関所などで使う手形とは違っています。限られた目的のものです。
こちらを参照

「札」については、職業鑑札などが残っています。


島原藩の資料を見ていくと「目籠札六角印焼印」「殺生札者(は)山形之焼印」などと書いてあり、「札」には色々な種類がある事が分かります。


下は、3枚の札の裏表ですが「通行手形」の文字が見えます。ただ、「天明(?)二壬寅年年限通行手形」とか書いてあるので、限定的なものだと思われます。


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さて、Goggleの映像で「往来手形」で検索すると、下のような古文書が沢山見られます。下に一つだけあげておきます。翻刻は下記の通りですが、行替の時等、画面が乱れるのでベタ打ちしています。

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往来手形之事

因州八上郡池田村佐平治申者宗門

禅宗當寺旦那二紛無御座候
依志願四国遍路罷出候間所々
御関所無相違御通し可被下候若又
日々行暮候節一宿等奉賴候猶又病死
仕候節者其所之御作法を以御取斗
可被下候其節此方江者不及御沙汰
依而往来手形一札如件

文化七年 因劦八上郡奥谷村

申ノ十月日   天佑寺(印)

国々御関所

御役人衆中村々在々

村々在々
御役人衆中



書いてある事は


①氏名

②どこの寺の檀家か
③旅の目的はなにか(この場合は四国遍路)
④関所を問題なく通して欲しい
⑤日暮れで困ったときは宿泊を頼みたい
⑥病死した時はその土地の作法で処理をして欲しい、その折りは、こちらには連絡不要

「江戸のパスポート」に実例が書いてあり・・・簡略して書けば


「すぎ」という女性が西国巡礼のため出国。途中仲間とはぐれ、足を痛めて困窮しているところを小田村の農民に保護される。

その後小屋を建て、養生したが回復せず、所持金も無かったため、自力では帰国できず国元への送還を願い出た。
小山田村では、藩役人に事情を記した届書きを提出し、許可を得て、宿場と村々をつないでの移送(町在継送)で送り返すことになった。

なお、国元への送還を認められたのは、往来手形を所持していたからであったそうです。「往来手形」の内容は上に書いている「往来手形」とほとんど同じ内容です。


江戸時代、「往来手形」について、ただ単に関所を通るときに使ったものだと思っていたのですが、このような事があったことは思っても無いことでした。なかなか、面白い仕組みです。


さて、往来手形、関所手形というと最初書いたように将棋の駒の形を思い出すのですが、誰が考えたんでしょう?「チコちゃんに叱られる!」では、観光土産の「ペナント」を考えた人の事が放送されました。きっと、この将棋の駒形の往来手形、関所手形は観光みやげに考えたと思うのですが・・・(-_-)。



2021年3月21日 (日)

「山武士神社」の「宮崎九郎右衛門」について

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以前、日野江城の麓にある「山武士神社」の「千々石里正 宮崎九郎右衛門延髙」の名前が刻まれている石祠について書きました→こちらをクリック。

庄屋の名称については、時代、地方によって違いがあるようですが、「里正」「名主」「肝煎」が見受けられます。

この「宮崎九郎右衛門」についての手がかりが、下の「旧有田村庄屋 石橋家記録」にありました、有田村は南島原市有家町の蒲河名、山川名、尾上名にあたります。


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以前から書いているように「南串山村」の庄屋さんの古文書を読んでいますが、この中で「土黒(ひじくろ)」(雲仙市国見町の一部)の事が詳しく書かれている部分があります。南串山の庄屋さんと、土黒の庄屋さんとは仲が良かったと感じられます。

ザッと位置関係を書くと、上の青丸が土黒がある国見町、下の青丸が南串山。


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さて、この「石橋家記録」に次のような記録があります。「天保きのへ午年」、「甲午」ですから「天保5年・1834年」。

一 同年 五月十三日 妹 タマ 千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門 養娘二 いたし 同村 城台源次兵衛 倅へ嫁し申し候。


有田村庄屋さんの妹が、千々上村庄屋さんへ養女に行き、千々石の城台源次兵衛の息子に嫁にいった、ということですが、庄屋さんの養女が普通の家に嫁ぐはずもなく、庄屋の次が乙名になり、橘中佐の祖先は江戸時代「城台(城代)」を名乗って乙名であったとの記録もあり、ここらあたりがクサイと思っているのですが・・・


地図、上の赤丸が千々石、下の赤丸が有家町(有田がある所)。


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下が天保9年4月(1838)の記録。6月10日の所に「御 巡検使」の文字があるので、島原藩からの宗門改、年貢等の関係か?

「曽我亦左衛門」「近藤勘七郎」「大久保勘三郎」の名前があり、各々「北有馬村庄屋宅 御宿」「同村 願心寺 御宿」「南有馬村庄屋宅御宿」とあり、これが島原藩の役人。なお、北有馬は地図の赤線下線の所。


各々、多分世話役であったろう「亭主」「脇亭主」として名前が書かれてあり、「同村 願心寺 御宿」(願心寺は以前、天井絵で紹介→こちらをクリック)には・・・(写真はクリックするとハッキリ読めます)


「(亭主)千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門」「脇亭主 同村 松尾三郎兵衛」と書かれており、わざわざ遠くの千々石から北有馬まで、手伝いに来ているわけですが、これで、北有馬の「山武士神社」の石祠と「宮崎九郎右衛門」とが結びつきました。

 
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地図を見ながら、庄屋さん同士、お近くでは無く、離れた庄屋さんが仲が良いとは面白いところです。

残念ながら、千々石の庄屋さんの子孫の方が古文書を全部焼いたとかで、こちらには記録がまったく残っていません。もし残っていたら庄屋さん同士の関係がもっと分かっていたものと思われるのですが。皆さんも、家にある古い文書は大切にして下さい。


2020年12月13日 (日)

「剱岳─線の記」★髙橋大輔著

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新田次郎の「劔岳ー点の記」を読まれた方、映画で見られた方は多いと思います。

未踏峰だと思われた剱岳に三角点を立てるべく、明治時代、
測量官・柴崎芳太郎氏が挑み登頂するも、山頂には錫杖と鉄剣が置かれていて、すでに登頂者がいた、という物語でした。

この「剱岳ー線の記」には、この錫杖と鉄剣を誰が置いたかを検証するノンフィクションです。著者
はロビンソン・クルーソーの居住地跡を発見した冒険家・髙橋大輔氏。

氏は下のような設問を設定し、謎に挑んでいきます。

「いつ」「誰が」「どのように(山頂をきわめたか)」「どの(ルートは)」「どこに(山頂のどこに錫杖頭と鉄剣を置いたのか)」「なぜ(山頂に立とうとしたのか)」

険しい山、今のようにルートも無く、装備も無い時代、何のためにという疑問は誰しも持ったことだと思います。


そのため、色々なルートを考え、また、剱岳に関する本(最後に参考図書が書いてあります)を調べ、土地に残る地名等を調べルートを設定し、地元の人、研究者の支援を得て、実際に5回剱岳に挑み謎に挑んでいきます。


あまり書くとネタばれになるので止めますが、初登攀した人物が、現代人のように「山があるから」「山が好きだから」登った、ということではなく、もっと深い意味があったことが書いてあります。


そして、このことが、平安時代に剱岳を開山した人物と柴崎芳太郎氏が明治期に剱岳に登頂し、そこに錫杖と刀剣を見つけた事が必然であり、この本の題が「剱岳ー点の記」ではなく「剱岳ー線の記」である事の意義が最後に書いてあります。


新田次郎氏の本に「槍ヶ岳開山」という本があり、槍ヶ岳に初登攀した修行僧・播隆について書いてあるそうですが、この人物も剱岳に初登攀した人物と同じような感じなので、この本、いつか読んでみようと思っています。


なお、剱岳に残された錫杖の杖頭、刀剣の写真(立山博物館所蔵)も載せてありますので、興味のある方はお読みください。




 

2020年9月 9日 (水)

「一分銀」の桜の事

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「一分銀」です。表と裏。一分銀四枚で一両小判一枚になります。このことは、いずれまとめるつもりです。

裏面の「銀座常是」については→こちらをクリック(大黒常是の項になります)


古銭の事を調べようと思っていたら、下の小冊子を見つけました。普通、一分銀というと一種類だと思うじゃありませんか。ところが、書体の違い、作りの違いによって何種類かあるようで「一朱銀」にいたっては126種類(「一朱銀」収集の手引き:茨城貨幣研究会 八木明男著)もあるそうです。


下の本を読んでいたら、「一分銀の分類方法」が書いてあり、書体の特徴、「定」極印、側面の仕上げの状態を見る方法もあるそうですが、上の一分銀を見ると、周囲に20個の桜が打刻されています。一分銀は作られた時期により「天保」「安政」「明治」の三種類に大別されるそうです(それ以外もあるようですが)。


この桜が一つ逆に打刻(逆桜)されているそうですが、この、位置により天保、安政、明治が分かるそうです。


下の右の図、赤の部分に逆桜があると安政の時代、緑の部分が明治、青の部分が天保だそうです。


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「逆桜の位置が表裏とも上二段にあるときは安政一分銀、表の最下段、裏の三段が天保一分銀のゾーンです。ただし、全ての組み合わせが見つかっているわけではありません。」ということだそうです。

下の一分銀、表の下段の右端「逆桜」。裏の下段右から二番目が逆桜。と言うことは「天保一分銀」だと分かります。


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表の二段目の左、裏の一段目が逆桜で「安政一分銀」だと分かります。

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と言うようなことを考えながら見ていくと、古銭にはまりそうで怖いですね。他にも調べると面白い事があり、追々とご紹介を。

(参考資料・文、図引用「『一分銀』収集の手引き(入門編)定量銀研究会 桜野 鼓音編」より)




2020年9月 2日 (水)

これが「一文銭(寛永通宝)」なのか

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古文書を勉強して3年ばかり、相変わらず全然読めず・・・予習復習をまったくしていないので当たり前ですが。古文書の中に、上のように

一 鶏卵 大       掛目 十三匁

一 同  中通例     同  十匁
一 同  ひよこ玉子 小 同  六匁三分
一 野鴨玉子     小 同  廿弐匁

などと書いてあり、なんとなく分かるのではありますが、では、どういう貨幣を使ってたのよ?というと、全然分からず古銭を少々集めてみました。

なお、大判・小判も買ってみようかと思ったのですが、カタログを見ると一番お高いのが「100,000,000円」。お安いのでも超10万以上というので止めました。紀伊國屋文左衛門のようにキャバクラに行ってばらまけばモテるだろうとは思っていたのですが。


で、ネットオークションで安いのを集めてみました。偽物も入っていますが。


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下が一番有名でお安い「寛永通宝(かんえいつうほう)」。一文銭です。銅、鉄で鋳造され、明治2年まで200年ばかり庶民の銭として使われ、日本各地で作られたそうです。

これを見ながら懐かしかったですね。今は靴のサイズを㎝で表しますが、昔は靴のサイズを「文」で表わしていました。一文銭が約2.4㎝。これが何枚並ぶかで、サイズを表わします。靴サイズ24㎝の方は10文になります。私が小さいときはまだ「文」で言っていた記憶があります。ジャイアント馬場の「16文キック」を思い出します。


銭形平次も一文銭を投げていました。落語の「時蕎麦」でも一文銭が登場します。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)、オヤジ何時(なんどき)だい・・・」
と。ご存じない方はYouTubeで「ジャイアント馬場」さんも「時蕎麦」も「銭形平次」も見られます。一文銭は庶民のお金です。

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なお、「寛永通宝」を見ていると少し大きく、重たいのがあり、アレ?と思って裏返したら、波の模様がありました。調べたら四文銭だそうです。

ちなみに、銭形平次と言えば大川橋蔵、八千草薫さんが有名ですが、北大路欣也さんも演じています。投げ銭を見たら波模様が入っていたので、北大路さんは四文銭を使っているのですね。もったいない。


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他のをあせっていると、下のようなのが入っていて、よく見ると「宝永通宝」という銭で、宝永5年十文銭として鋳造され、裏面に「永久世用」とあり、左斜めの所「珍」の字が小さく刻印されています。

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まだバリエーションがあるのですが、キリがないので・・・

古銭であまり程度が良いのでなけらば、まとめて千円もしないで手に入ります。実物を手に取って眺めれば楽しいですよ。




2020年6月26日 (金)

「江戸の備忘録」★磯田道史著より~「家康の庭訓」「江戸の鉄砲管理」

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磯田道史氏は「武士の家計簿」で有名になり、映画化もされました。古文書に書いてある事を、分かりやすく解説している本が多数あります。

この「江戸の備忘録」は朝日新聞の土曜版に連載された文章を基にしたものだそうです。ですから、一つ一つのトピックスは2~3ページほどで、読みやすいものになっています。


ただし、磯谷氏の後書きによれば「歴史のトピックスを、一見、何の脈絡もなく、ならべたようなように見えるかもしれないが、そうではない。広く深く、日本史を見渡せるような、いってみれば『歴史の肝』になる話しだけを、かなり厳しい目で選んだつもりである。表面上は、楽しく選んでいるが、日本史の重要人物や決定的要素を、意識的に選んで書き込んである。」という本です。60のトピックが並んでいます。


さて、全部は紹介できないので、徳川家康さんの話しと、少し気になるところがあるので・・・


「家康の庭訓」(注;庭訓は親が子どもに教える教訓)。少しばかりまとめて書きます。


家康は自分の子どもに泳ぎを学ばせていたそうです。「天下の主たりとても、常々熟練せでかなわざるは、騎馬と水泳なり」(東照宮御実紀附録)。


騎馬と水泳、「この二つは人に代はらしむる事のならわざるものなり」。〈戦は常に勝つとは限らない。負け戦もある。負け戦になると、どんな偉い大将でも馬に乗り、泳いで逃げなくてはならない。しかし、こればかりは、家臣に代わってもらうわけにはいかない。だから、乗馬と水泳教育は絶対必要だというのである。〉ということだそうです。

剣術教育には冷淡で、「大将のつとめは、逃げること」。「天下のぬしたるもの、大名などは必ずしも自ら手を下して人をきるにおよばす。」〈もし敵に出会ったら家来が討つべきで、将軍や大名に剣の修行は『いらぬ』と言った。〉と言うことだそうです。

確かに、負け戦の時、大将が剣を取ってチャンバラをして討ち取られたら、それで、ジエンドですが、逃げ延びれば再興の機会もあると。


三代目・家光、水戸黄門さんも、わずか十二歳で江戸の〈浅草川〉を何度も泳いで往復したそうです。家康の孫、尾張藩二代目・徳川光友も泳ぎが上手く、「五つ六つの御時より勝川・谷田川へ毎日出て泳いだ。」そうです。なお、その時の「お弁当は焼食に香の物、焼味噌ばかり」であったそうです。


「江戸の鉄砲管理」


「生類をめぐる政治」(塚本学)には次のように書いてあるそうです。


「豊臣秀吉の刀狩り後にも、江戸時代の民衆は大量の鉄砲を保有、武士よりたくさん持っていた。仙台藩に四千丁、紀州藩に八千丁、長州藩では四千丁が民間にあったという。この三藩で当時の国内人口の二十分の一だったことから、全国では数十万丁の鉄砲があったのは確実である。」もちろん、各藩では「鉄砲改」めなどをしています。


さて、島原藩の各村にはどれくらいあったのかと思い調べました。これには島原藩が各村を調べた「島原大概様子書」があり、男女の数、馬牛の頭数、暮らし向き、石高、寺社、古跡等々の事がかいてありますが、宝永四年に完成、その後たびたび改正されています。これに、各村の鉄砲の数が書いてあり、文政六年改で現雲仙市だけ見ると・・


「土黒村・鉄砲拾挺(内威筒七挺・猟師筒七挺)」(以下、”
鉄砲”は略。威筒は威鉄砲で害獣を追い払うための空砲)「西郷村・拾三挺・威筒八挺・猟師筒五挺」「伊古村・記載なし」「伊福村・三挺但威筒」「三室村・貮挺但猟師筒」「守山村・鉄砲なし猟師貳人猪鹿を猟」「山田村・四挺・貳挺威筒・貳挺猟師筒」「野井村・四挺・貳挺威筒・貳挺猟師筒」「愛津村・壹挺但威筒」「千々石村・拾三挺・拾壹挺威筒・三挺猟師筒(ママ)」「小浜村・五挺・内三挺威筒・貳挺猟師筒」「北串山村・拾挺・内五挺威筒・五挺猟師筒」「南串山村・九挺威筒・七挺威筒・貳挺猟師筒」(島原半島史・林銑吉著)

という事を見れば、仙台、紀州、長州に比べれば、こちらの地方では鉄砲の数が少ないことが分かります。向こうみたいに大きな戦が無かったせいなのか?理由はよく分かりません。


ということで、この本、手軽に読め、「秀吉の艶書」「仮設トイレの祖・徳川光友」「二宮金次郎の離婚」「百二十五年眠っていた『平成』」「結婚と離婚の日本史」「貧乏神の研究」など興味ある事項も並んでいるので、ご一読を。



2020年4月29日 (水)

「お宝発見?」~庄屋分家屋敷調査

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以前書いたように、古文書研究会に入って勉強をしています。入会して3年、ほとんど読めません。まあ、復習予習を全然していないので、当たり前ですが・・・

ここの庄屋さんの家は住んで継ぐ人が無く、家を解体する際、史談会の方に役立つ物があればということで、調べたら庄屋さんが書いた古文書が大量にでてきて、それを解読しているところです。


庄屋さんには分家があり、この家も住んで継ぐ人もなく解体するという事ですが、古文書があるという話しで4,5名で調査をしました。


左が母屋。外側は改修したと思われます。奥の方は深く、かなりの部屋数がありました。右が蔵。両方とも電気が止めてあり、懐中電灯を頼りに大変でした。


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母屋の一階は布団などがひいてあり、こたつもそのままでしたが、かなり荒れていました。

二階に2部屋ほどあり、奥が天井裏で、物置に使った物か、お膳が大量に、衣服なども置いてありましたがボロボロ。


昔の建物だけあり、大きな梁。今の家には、こんな太い物を使ったところはありません。ここを調査。


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下が母屋からの収穫品。

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で、蔵の方ですが一階はガランとしていましたが、農具などの納屋に使っていたのか、多少農具が残っていました。

二階に登ったら天井に穴が空いていて、おっかなびっくり調べましたが、ほとんどめぼしい物はなく、帰ろうとしたら「これはなに?」と声がして、それが、一番上の写真。


なにかというと、”襖”です。襖の表が破れてしまって、下張りが飛び出ています。昔「四畳半襖の下張」なんていうのがありましたが、それとは関係なく、古文書が使われていました。


全部貼ってあるので内容がよく分かりませんでしたが、一枚だけパラリとはずれたので、読んでみると江戸時代中期の「宗門改」。

襖は、多分その時代の物ではなく、分家にも古い文書が大量にあり、後年襖の張り替えの時に使った物だと思われます。

あとなにが貼ってあるのかは、まず剥がしてみないと分かりませんが、大変な作業になると思われます。どんな文書が出てくるかのか楽しみです

NHK大河ドラマの”明智光秀”の書状などが出てくれば「お宝発見」になるのですが・・・(^o^)




2020年3月 7日 (土)

雲仙市小浜町にあった「肥前温泉災記」について

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3月1日まで、南島原市と西南学院大学博物館連携特別展が開催されたときのチラシです。

寛永14年(1637)の島原一揆、寛政4年(1792)眉山が崩壊し津波が起こった島原大変の貴重な資料が展示され、また、この一揆、災害に伴う慰霊碑が各所に建てられていますが、その拓本も展示されていました。


今日は、このチラシに使われた絵についてです。


この絵は「肥前温泉災記」に載っている絵です。下の絵がチラシに使われているのが分かると思います。実はこの絵は色がついているのですが・・・


チラシには「『肥前温泉災記』肥前島原松平文庫蔵」となっていますが、この資料、実は小浜町(現雲仙市小浜町)にあった古文書です。これが、島原の松平文庫に所蔵された経過がほとんど知られていないので、一応記録にしておきます。


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この経過については、右の小冊子「肥前温泉災記の解説」に書かれています。なお。この小冊子には左の「肥前温泉災記」の読み下し文も付いていています。書いたのは、元小浜教育長(町村合併のため、小浜町最後の教育長になります)のT氏。

詳しく書けば長くなるので、概略を書いてみます。氏名はイニシャルのみにしてます。


T氏(以下T氏と標記)が教育長の昭和50年代後半、町内のKという食堂の経営者A氏がT氏を訪れ「肥前温泉災記」を持ってこられたそうです。T氏は小浜町の文化財だから大切にするようにと、一部コピーをされそうです(多分この頃、カラーコピーが役場に無かったのか、白黒のコピーです)。


その後、平成3年、雲仙の普賢岳に噴煙が上った頃、島原市長の代理として、島原市教育委員会社会教育係長K氏がA氏宅を訪れ、「お宅に保存されている『肥前温泉災記』は、島原市にとって重要な文化財です。是非、譲って下さいませんか」と言うことで、A氏が無償で提供されたそうです。


T氏は話を聞いて「私は『しまった。』と悔しがりました。私はA氏家の家宝として手放されないと思ったので当てがはずれてしまいました。」と書かれています。


その後、A氏の所には、当時の島原市長鐘ヶ江管一氏の感謝状と記念品が贈られたそうです。
というような経過で、現在は島原図書館の二階にある松平文庫に所蔵されています。

なお「肥前温泉災記」の最後には次のように書かれています。

天保庚子(注:天保11年・1840)年春日借覧大原氏所蔵之書
謄写 三月四十五校原本謬誤多矣他日得善本校正 濱貞彛(?)
絵図 勝之助写

となっているので、この他に「善本」が別にあることが分かります。

なお、絵図の「勝之助」については、T氏が調べられたらしく「尾崎勝之助 千八百五年~定江戸詰 十三石二人扶持」と書かれています。

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T氏は十年過ぎてから、松平文庫を訪れ「肥前温泉災記」を手に取ってみられたそうです。難しくて読めなかったそうですが、瑞穂町の郷土史家T先生を訪れた時、辞書などを紹介され、それから2年をかけ、右の「肥前温泉災記の解説」を書かれたそうです。読んでみて、大変な仕事だったことが分かります。

島原市がこの本の存在をどうして知ったのかは不明ですが、この古文書が残っていれば、雲仙市の貴重な資料になっていだろうと思えば残念な事です。



2020年2月 6日 (木)

「鳥居の数え方」~庄屋さんの古文書より

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古文書研究会に入って二年。まだまだ思ったとおり読めません。

昨日、予習をしていると、赤の四角のところ「石鳥居 壱表」って書いてあるんですね。

最初は読み飛ばしましたが、途中で、あれ?鳥居の読み方は「基」ではなかったか?鳥居の数え方は「広辞苑」にも載ってないので、ネットで調べたら、やはり「基」しかありません。

この「基」という読み方古くからあったみたいで、「大鳥大明神書ー延喜22年(922)4月5日・和泉国大鳥神社流記帳『鳥居肆記〈略〉社前後各一』」(ネット「数え方単位事典」より)とあるそうですから、随分古くから使われていたと思われます。


鳥居については不明なところが多いみたいですが、呼び方として「鳥居」「鶏居」「花表」「鳥井」「花居」「華門」「華表」「鶏栖」「八宿」「華極」「天門」(「鳥居 百話百説」川口謙二・池田孝・池田政弘著」)といろいろあるようです。


さて、何故に庄屋さんが「基」ではなく「表」を使ったのか。一時、島原半島の神社を回った時、江戸期の鳥居は「石華表」と彫ったものが多く見受けられました。


辞書で「鳥居」を引けば、最後の方に「華表」と載っています。「華表」を引けば「鳥居」と載っています(安い辞書には載っていません、多分)。ということで、「石華表」は「石」で造った「鳥居」という事になります。


「華表」についてはいろいろ論議がありますが、詳しくは「鳥居の研究」(根岸榮隆著・第一書房)の「鳥居とは何か」の所を読んでください。


この文書を書いた庄屋さんの村(町)の神社の鳥居も、ご多分に漏れず、「石華表」と彫られていました。


ここからは、私的な推論ですが「基」という数え方は、当時まだ地方までは普及してなかった。庄屋さんは鳥居の数え方で「石華表」という文字を見て、「表」という字を鳥居の数え方に当てはめたのではないか。ですから、「石手水盤」「石灯籠」については単に「壱ツ」「四ツ」としか数えていません。


これが正しいかどうかは分かりませんが、庄屋さんの文書を読みながらの推理でした。古文書は読んでいくと面白いですよ。あなたも如何。




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