古文書

2019年12月 3日 (火)

「決算!忠臣蔵」「『忠臣蔵』の決算書」と「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む」

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映画「決算!忠臣蔵」は先週の金曜日に封切りだったみたいですが、以前書いたように、私、昔の画面が広い映画館で映画を見ていたので、最近の小さな画面の映画館では映画を見た気にもなれず、一回見に行ったきりで、多分この映画も行かないと思いますが、本は読みました。

左の本が、山本博文氏が書かれた「『忠臣蔵』の決算書」、これを元に映画が作られ、右の本が映画をノベライズした本。著者は映画監督の中村義洋氏。


もちろん、中村監督は映画を元にして書いていますから、山本氏の「忠臣蔵」を分析した本とは違いますが、中村監督の映画、本も山本氏の本を基本にしたものです。


この「忠臣蔵」、今までの「忠臣蔵」を描いた本、映画とまったく違った観点、「お金」の面から描いています。「討ち入り」にかかった経費はもちろんですが、廃藩になったとき、いくらお金が残っていたのか、藩士の割賦金(退職一時金)まで書かれています。


なお、例えば一両が現代どれくらいの金額なのかは、なかなか難しい面があり、比べる基本になるのも、米価にするか、職人の一日の手間賃にするかで違ってきているようです。この本では、当時の蕎麦一杯の値段「十六文」を現代の蕎麦の値段、大体「480円」として計算をしています(多少安いような感じもしますが、山本氏が本を書いたのが2012年だからこんなもんかな?)。


なお、底本として大石内蔵助が遺した「預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)」を中心にして書かれています。この「預置候金銀請払帳」は山本氏の本の一番後ろに載せてあります。あまり、長いものではありません。


最後の給金と退職金が「一万九千六百十九両」今の「約23億円」。これを藩士300名で割ると「約七百八十万」ほどだそうです。もちろん藩士の階級によって違いがあります。なお、大石内蔵助は受け取らなかったそうです。


「討ち入り費用総額」が「七百両」現在のお金で、「約8400万円」だったそうです。この打ち明けについては、両方の本に書かれています。


なお、中村氏の本には「古参の小野寺十内(年収千十五万)や間喜兵衛(年収四百六十二万円)」など書いてありますから、これを見ていけば、どれくらい偉かったか、下っ端だったのか等がわかり便利です。映画でも年収は画面下の方に書いてあるとの話でしたが、見ていないので不明。


さて、買ってきた本にカバーがかかっていたので、はいでみたら、下のような地味な本でした。


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話変わって、たまたま「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む(編集・鬼頭勝之★発行者・舟橋武志★発行所・ブックショップ「マイタウン」)」という本を手に入れました。

「『忠義画像』は『義士四十六(ママ)傑画像由来』によれば、京都紫野の瑞光院(現在は境内に浅野長矩と赤穂義士の塔と赤穂浪士の塔と遺髪を収めた塚がある)にあった四十六の義士の終焉の正像(細川家が贈る)を写したものという。その画像は面目・毛髪少しも本人に違うところがなかった。しかし、質素かつ精密でないので、義士十七回忌(享保四年・一七一九)に当たり、討ち入り時の姿で描き、瑞光院に寄付しようとしている人がいて、この未完成の作品を写したのが本作品である、と記されている。」ということです。


パラパラとめくり4ページほどコピーしましたが、よく見ると槍、薙刀などを持った人が多く、刀を持った人は少ない。


記憶によれば、何かの本に、鉄砲が現れるまで、なんの武器で負傷したのか研究した人がいて(死亡者については当時は検死官はおらず、死屍累々を一人一人調べ記録すのは不可能)、まあ、負傷者の数と死亡者の数は比例するのかなとは思いますが、殺傷した武器として、矢、槍、薙刀、投石が多く刀は少なかったそうです。


刀は槍などがなくなった時の最終手段。また、当時は「首級を取る」といって首を切り取るためのものだそうです。余談ですが、後年に至り切り取った首をぶら下げて戦うのは不便で、耳や鼻を削いだそうです。ただ、耳は両方あるので一人打ち取って両方の耳を持ってくると2人分になるので、秀吉は朝鮮出兵のとき「人は両耳あり。鼻、すなわち一つなり。鼻を割りきて首級に変へん」という指令を出したそうです。


また、武田信玄が小荒間合戦の時に、武田方は「・・・・敵の武将は首級を、兵卒は左の耳を袋に入れて持って来い、その中身によって恩賞を与える」と激をとばしたそうです(「耳鼻削ぎの日本史★清水克之著」:なおこの本には「アイヌ間に行われし鼻削ぎの刑はこれを最後とする」という写真が載っていて、鼻削ぎがどのようなものかが分かります)。


閑話休題。

この図には鉄砲は載っていませんが、「決算書!忠臣蔵」には最後の武器調達の時、どんなに金が無かったのかが書いてありますが、鉄砲は高いので買えなかった、のではなく、暗い中、鉄砲を撃てば誰に当たるか分からない、というより、当時は火縄銃だったので、入り乱れて切り合いをしているのに、悠長に弾込めなどはできなかったのでしょう。また、鉄砲の音は大きいので近所迷惑で、騒音防止条例に違反します。

で、狭い所で切り合いするので刀は使いにくく、槍でつくほうが手っ取り早かったのだと思いますが・・・


というようなことを考えると、「弓」をもった人物もあり、使いにくいのではないかと思いますが、この弓がどのようなときに使う予定だったのかは、小説に書いてあります。


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下の表が、誰がどのような武器を使ったのかの一覧で、「表門側」と「裏門側」に分かれ、持っていた「武器」のほかに、氏名、年齢、役職、石高まで書いてありました。ボケて見にくいのですが、クリックするとキチンと読めるようになります。多分。

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という事で、「忠臣蔵」に興味のある方は、映画を見て、中村氏の小説を読んで、本格的には山本氏の本を読むのがベターだと思います。

なお、中村氏の小説には討ち入りの様子は書かれてありません。お金が中心の物語だから。ただ、少し肩透かしを食った感じで、コミカルな討ち入りの様子も読みたかったな・・・




 

2018年5月12日 (土)

「お・て・も・と」~古文書へのお誘い

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お箸ですね。

古文書を習い始めて一年、未だもって全然読めません。もっとも、予習、復習していないから、当たり前ですが。

さて、先日、食堂に入ったところ、上のようなお箸がでてきました。字を見てあれ?と思いました。良く見ると、下の写真。くずし字ですね。

一番上から「御」、次が「手」、次が少し難しく「茂」、ここまでは分かると思いますが、最後の文字「登」のくずし文字です。「登」と書いて、「『のぼ』る」。または「『登』山」の「登」で、「と」。この場合は「と」。

続けて読めば「お・て・も・と」。「お手元」、「お箸」のことです。で、なぜ「お箸」が「お手元」なのか、調べると。辞書にもハッキリ書いてありません。

最終手段でネットで「箸」を調べると、諸説あってハッキリはしません。

「お手元」は、「三省堂大辞林」に「〔食膳の手前にあることからいう〕料理屋で、箸(はし)」と言うことで、考えれば、たしかに料理が出てきたとき、一番手前(手元)にありますね。

なお、ネットで調べると、「皓星社」より「隠語大辞典」というのがあり、その中で「花柳界にて箸のことをいふ。箸は端に音が通じて縁起が悪いから、かついでお手元といつたものである」ということで、何となく納得。

さて、古文書を読むと当て字が多く、「阿そび=あそび」、以前書いた「村なく(ムラなく)」とか色々ありますが、「三くだり半からはじめる古文書入門~高木侃著」によれば「江戸時代の『ひらがな』は、同じ『ひらがな』でも1つの形だけとは決まっておらず、複数の形があったのです。『あいうえお、かきくけこ・・・・』といった50音が現在の形に決まったのは、明治33年(1900)のことでした。」

ということで、「阿そび」などと書けば、明治33年以前は○でしたが、明治33年以降は×になります。「お手元」も、今の試験で、「御手茂登」と書けば×になります。

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皆さんの回りにも、良く見ると、古文書に通じる「くずし文字」が見つかるかもしれませんよ。最も「夜露死苦」はありませんが。



2018年3月27日 (火)

「山田右衛門作口書」~参考になれば・・・

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以前、「山田右衛門作」について書きましたが、島原・天草一揆の資料に関しては、各藩の所有の資料が主で、一揆軍の書いた資料としては、矢文、そして、山田右衛門作の「口書」(他、いろいろな呼び方があります)しかなく、この方面に興味のある方、調べてみようという方のために、参考になる書籍の紹介をしてみたいと思います。

「口書」については、中身を読むと、違う所もあり、どれが原典かは?です。とは言っても、全部付け合わせて、読んだ分けでは無いのですが。

■「キリシタン遺物の研究」~竹村覚著

昭和39年発行、少し古い本になります。

こちらの本には、「口書」は載せてありませんが、「南蛮絵師山田右衛門作」と言うことで、右衛門作について書いてあります。

左の写真は、「山田右衛門作屋敷跡」と、下の写真、後ろの標柱には「山田右衛門作墓」と書いてありますが、著者の竹村氏は「おそらくは供養塔であろう」と書かれています。

現在は「供養塔」になっています。下の右の写真は現在の姿ですが、卍の彫り物は薄くなっています。見たところ、卍の上の所、梵語みたいなのが彫ってあるような気がするのですが、拓本を採れば分かるのですが。

建物は、島原の乱は1637~1638年ですから、多分、建て替えられたものと思いますが・・・現在は、車のガレージになっています。

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下の写真は同書に載せてある、「大屋港入船図(伝山田右衛門作)」の絵画。白黒写真ですが、多分、色彩画だと思います。ただ、あくまで「伝」です。

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■「原史料で綴る 天草島原の乱」~鶴田倉造著

1000ページを越える本で、乱が起こってからの各藩のやりとり、江戸表への書状、平戸オランダ商館長クーケルバッケルの日記(原城の一揆軍を海上から大砲で撃った人物)、城内からの矢文の文、宮本武蔵が参戦し怪我をし有馬左衛門佐(キリシタン大名有馬晴信の子・晴純・最初キリシタン後転教)に宛てた手紙等々載せてあります。

島原・天草の乱を調べるのに必読の書でしょうが、1000ページ超すとですね・・・

■「島原半島史 中巻」~林銑吉著

写真では上巻になっていますが、「島原・天草の乱」関係は「中巻」に書いてあります。

こちらの公民館図書室には、上・中・下あるはずなのですが、中巻は「島原・天草の乱」のためか、ほとんど行方不明です。

なお、この本に載っているのは、「山田右衛門佐(と書いてあるのもあります)口書写」。所有者は、有家町の郷土史家の方。これも「写」になります。

■「天草・島原天草軍記集」

あくまで「軍記集」で、一級資料とはいえませんが、「天草騒動」「天草土賊城中話」「十時三弥助書上之写」「島原記」「嶋原一揆松倉記」「嶋原天草日記」「山田右衛門作以言語記」とかがまとめて入っていて、お買い得です。

「山田右衛門作以言語記」は「山田右衛門作物語」になっており、あくまで「物語です」。

口書の方は、「天草土賊城中記」になっていますが、これは最後をみると「・・・本書無題名蓋寛永天草賊所帰歸?降山田右衛門作者之口語也」ということです。

ただ、ざっと読んだところ、「山田右衛門作以言語記」は「続々群書類聚第4巻史伝部3(オンデマンド版)」に同文が載っているので、これからの写しだと思います。

なお、
「島原記」には「山田右衛門作就御尋申上候覚」としても載っていますが、これは、「島原記録第四目録」としての中にも多少違うところはあるものの、内容的には同じものが載っていました。

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というところで、本物はどれでしょう?山田右衛門作は松平信綱に江戸まで連れてこられます。多分、江戸で「口書」されたものでしょうが。

最初を読んでみると、「今度島原吉利支丹おこり候・・・・」「今度島原切支丹発申候・・・」「今度吉利支丹發候次第之儀ハ・・・」と「切支丹」が強調されています。

島原・天草一揆については、いまだにキリシタン説、百姓一揆説等々ありますが、山田右衛門作は原城内で暮らし、参加者はキリシタンだけでは無いのを知っているはずなのですが、これではハッキリ、キリシタンが原因だと断定している感じです。

なお、この後、寺請制度(後日、詳しく説明します)などが制度化され、庶民はこれに縛られていくのですが、何となく「口書」には、信綱の影が見えるのですが・
・・・・

2018年3月17日 (土)

「嶋原合戦記」について



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「嶋原合戦記」の中巻、下巻で、軍記物。嶋原・天草一揆の事が書いてある版木本です。下巻に「題簽(だいせん・題名など書いた、表紙に貼ってあるある紙、「中巻」がそうです)。これが無いのと有るのでは少し価値が違います。

全巻揃いはなかなか入手できません。これが私に読めるかというと、日本語だから読めますが、くずし字辞典片手に、一日一行くらいかかるでしょう。

一揆の討伐に参加した各藩に残っている、一級の資料ではありませんが、後ろを見ると「宝永元甲申六月吉旦」と書いてあり、1704年に書かれたものだと分かります。

嶋原・天草一揆が寛永14~15年(1637~1638年)ですから、一揆終結後66年後に書かれていると言うことです。

66年というと、あの一揆ですから人々の記憶から完全に消えず、原城もまだ荒れ果てたままの姿だと思われます。

さて、この古文書を買ったのは、


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絵入りで、なかなか面白く、

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特に、左のページ、破れた一揆軍の打ち首が並んでいますが、一番上の首、若くて、髪が長いところを見ると、「天草四郎」でしょう。下に並んだ首は各指揮者だと思います。

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先日ブログに載せた、一揆軍の唯一の生き残り、江戸初期の南蛮画家、「山田右衛門作(えもさく)」ですが、下の赤丸印のところ、ちゃんと載っております。

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右衛門作は、松平信綱に江戸に連れて行かれ、その後の消息は不明で、いろいろ言われていますが、軍記物であっても、これだけ書かれてあるところをみれば、それだけ名を知られていたと言うことができると思います。



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