古文書

2021年7月29日 (木)

古文書の畳たみ方

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上の文書(もんじょ)は「宗門改」で熊本藩のもの。多分、家老に提出したものだと思われます。

昔の書簡、文書等を見ると、きれいに畳まれているものが多数見受けられます。上の写真、下の方が広げたもの。上の長細いのが、同様な文書を畳んだもの。器用に畳んでいるのが分かると思います。こんな小さいところにばかり気がつくので、出世はできませんでしたが・・・(^_^)。


某日、史学で古文書を専攻し大学院にいった方と話しをしていて、この事を思い出し、「昔の人って書簡など畳むのが上手ですね」。と言ったら「あれ、簡単ですよ」、「・・・(T_T)?・・・端っこから上手に畳むのって、大変でしょう?」。


「いえいえ、こうして丸めて、そのままペシャンコにして・・・」


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「広げれば、出来上がり」ですって。試してみたら、「ほんまや~!!!」。でした。

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時代劇で「上意でござる」とかいって、パラリと広げる場面があります。アレって、どう折ってるんだろうか思い、折り目を調べるべく、ネットで「家康さん書状」を画像で調べると・・・各自、学習を。

現代、文字の所を折るな、という方もいますが、こんな長いものを書く方いませんよね。まして、今や横書き、PCで書き印刷、メールでのやりとり。昔の文書を見て、書いた人がどんな人物だったのか、想像するって楽しいですよ。


2021年6月 7日 (月)

第8回 「えんがわ・一畳の資料館★古文書あれこれ」&「有馬晴信の書簡(複製)」~雲仙市千々石町

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(クリックするときれいに見えます)

きまぐれで始めた「えんがわ一畳のきまぐれ資料館」。第8回を迎えました。

今回は、「古文書(こもんじょ)あれこれ」と「有馬晴信の書簡(複製)」の展示です。「古文書」は、歴史の資料となる古い文書です。


2019年「千々石・小浜等の明治・大正・戦前の古(こ)絵はがき」」に始まり「アニメと挿絵原画の世界」「島原・天草の乱絵図と軍記類」「栗原玉葉・森川青坡・正月用引札の世界」「長崎・江戸の古地図と明治・大正・戦前の長崎の古絵はがき」「キリシタン禁制の高札」「栗原玉葉と長崎古版画の世界」。


こうしてみると、一貫性がないですね。テーマがばらばら、まさに「きまぐれ」な感じ。


以前書いたように、古文書研究会に入って勉強していますが、やはり本物が見たく、お安いのをボチボチ集めていたら少したまったので展示をしてみました。


集めてみて一番多かったのが「離縁状」、俗に「三行半(みくだりはん)」。これ、7枚ほどありました。どうも、離婚願望があったのかと。この三行半のほか、このブログでも紹介した往来手形、五人組帳、宗門改帳、奉公人請書等々。他にもあったのですが、なにせ一畳の展示ケースの中の展示で限界ですね。説明資料も思ったようには準備出来ませんでした。なにせ、展示の古文書、読めるのは”三行半”だけ。


チラシの一番上の写真の矢印「傘連判状」です。一揆のときなど首謀者が分からないように、このように書きます。一揆に関係あるかと思って、古文書に詳しい方に読んでもらったら、一揆とは直接には関係ないようでした。


なお、名前の文字の書体を見たら、同一人物による感じでした。印判も立派なものですが、印鑑のプロの方のブログで「五人組帳」の印鑑について書いたものがあり、最後に「使用者と印文の名が違うものが多い気がします」、という事だそうです。→こちらをクリック


なお、9月1日に入れ替えをします。「有馬晴信の書簡(複製)」。


千々石ミゲルは当地で生まれ、”天正遺欧少年使節”として、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルティノと共に、切支丹大名有馬晴信、大友宗麟、大村純忠の名代としてローマに派遣されました。


千々石ミゲル帰国後、有馬晴信はローマへお礼の書簡送りましたが、これを京都大学が買い取り複製で出版しています。書簡中「きりしたん衆伴天連に対し障害をなされ」と、関白秀吉の伴天連追放令をうかがわせるフレーズもあります。
こちらは、9月下旬まで展示予定。

さて、明日は楽しい「2回目 コロナワクチン接種」の日です。報告をしますので、お楽しみに。



2021年5月 1日 (土)

ん?「三會町」?~三會町「宗門改繪踏帳」

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上は島原市の「三会町」の「宗門御改繪踏帳」。これ、島原の「三会町」かな?と調べると、寺の名前が書いてあるページがあり、安養寺、善法寺、専念寺、妙光寺、正覚寺。他にもお寺の名前がありましたが、全部島原半島のお寺で、この「三会町」というのが、島原市の三会ということで間違いないという事が分かります。

「宗門改」は全国的におこなわれていますが、特に島原半島は、島原・天草一揆が起こった所でキリシタンにはピリピリしています。普通は「宗門御改帳」ですが島原半島では「宗門改絵踏帳」「宗門改影踏(かげふみ・えいふみ)帳」。

「踏絵」については、安高啓明氏「踏絵を踏んだキリシタン」(吉川弘文館)が参考になるかと。


下は信州小糠郡芝生田村(多分?)宗旨御改帳」。昔は、各戸どこかの寺に属していました。檀家制度、寺請制度。詳しくは→こちらをクリック。特に「禁教令と寺請制度」の所を読んで下さい。


「宗門改帳」の内容は右のようになっています。禅宗城光院がお寺。久八さん一家の事が書いてあり、久八さんは45歳、女房の名前は無く36歳、娘さんが多がさん14歳・・・ということで書いてあります。


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さて、実は一番上の表紙を見ていると、アレ?三会の江戸時代の名前は「三會町」ではなく「三會村」ではないかと。三会について書いた本があるので調べて見ても「三会町」の記載はありませんでした。

余談ですが、大正7年、文部省だったかが各小学校に郷土誌を作らせています。左はその復刻版。意外と面白い歴史が書いてあるところがあり、長崎県の方で自分の所の郷土誌が読みたい方は、長崎歴史博物館1階のリファレンスルームに置いてあります。一応、ホームページの「資料検索」で「大正7年 郷土誌」で検索をして係員の方にお尋ねを。


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で、「三會町」ってなんなのさ、と思っていたのですが、先日より調べ物で「上井覺兼日記」を読んでいると次のような記述がありました。


ちなみに、上井覺兼は島津家の家臣。龍造寺隆信が島原に攻め入ったとき、有馬晴信が島津家に助けを求め、その折り島原での沖田畷の戦いに加わっています。戦いに勝ち島原のあちらこちらを巡察しています。(上井覺兼については→こちらをクリック ついでにこちらもクリック)


天正12年3月24日の部分、ただ一ヵ所ですが「・・・昨日三重(ルビ『會』とあり)之町・・・」とあります。後ろの部分には「三江」、単に「三會」の記載です。


なお「三會村物語」には「美江」「三戸(へ)」「三重」「三江」とも言われているようですが「昔は発音のまま当て字として書いたものが多い・・・」と言うことだそうです。城(島原城)の「見える村」、「見え村」という解釈して無意味ではあるまい、とか。


さて、上井覺兼日記の「三重(會)之町」、「之」が無ければ単純に「三重(會)町」で良いのですが、「之」が入るとどうなんでしょう。他の町は「神代・伊福・森山」と「町村」名は省略してあります。ということは単に「三重(三會)
」というのが正しいとは思うのですが、それでは宗門改影踏帳の「三會『町』」はナンなのさ?と悩みますね。もう少しお時間を・・・m(_ _)m。

「宗門改絵踏帳」の表紙に、印がベタベタ押してありますが、お寺の印と比較するとほとんど一致しています。多分、内容の確認をしたものだと推測するのですが。また、2ページばかり裏に書いた物があり、反故紙を利用しています。この「宗門改帳」は、「写」だったと思われます。


2021年4月19日 (月)

「札」について~「往来手形」の補足

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先日、往来手形について紹介しました→こちらをクリック

その折り、往来手形には将棋の駒の形のは見当たらない、との事を書きましたが、職業に関する「札」については、多少見受けられます。


上の右が将棋の駒形の職業に関する「札」だと思われます。「薬種仲間」とあるので、薬に関する鑑札。宝暦十庚辰年十月とあるので、261年前のものです。


左は「豆腐」の文字があるので、豆腐屋さんのものでしょう。横に「寛政六甲寅年十一月」とあるので、227年前。両方とも焼き印が押してあります。


下は裏側になります。


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さて、島原藩のことですが「長崎県史 資料編 第2」、島原藩「村方號令纂集便覧」の部。「札の部」に「札」の事が載せてあり、「札」として「糀室札」「目籠札」「肴盬札」「酒出店札」「社人納札之札」「鳥殺生札」「掃除人御門出入札」「古手賣札」等々の文字が見えます。

なお、札については「目籠札六角印」「殺生札山形之焼印」「城下二入諸商札ハ、丸之焼印」と書いてあるので、焼印はあったようです。形については見受けられませんでしたが「寸法ハ當春中相触置候・・」とあるので、決まっていたみたいです。


また、「札」については「・・・且口銭之儀者(ハ)、酒株ハ口銭なし、酒出店小賣札壹ヶ年四匁五分宛、糀室札壹ヶ年二貮拾貮匁五分宛、糀小賣札は壹ヶ年二七匁五分宛・・・」と書いてあるので、「札」については口銭を取られたみたいです。


口銭については「島原藩の経済・高木繁幸氏著」に「小物成(諸運上・口銭)について」の所、「田畑にかけられる本年貢を『物成』とか『本途物成』とか呼ぶが、それ以外の雑年貢を総称して『小物成』と言った。」と説明してあります。

なお、島原藩の「札」については、各市の資料館を見て回ったのですが、現在の所、見つけることが出来ませんでした。


2021年4月12日 (月)

島原藩「松平主殿頭忠房公」の評価

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島原に疎い方のためにザッとですが・・・

島原は最初有馬氏が治めていました。居城は日野江城(現南島原市北有馬町)。有馬晴信が岡大八事件で死罪。
しばらく幕府領になりますが、次の松倉重政氏は島原城を築きます。重税とキリシタン弾圧をおこないますが、息子の勝家はどうしようないバカ息子で、島原・天草の乱を引き起こします。

次に高力氏が治めます。息子隆長時代に改易。次に深溝(ふこうず)松平氏の松平氏が福知山藩から入府。以後5代にわたり島原を治めます。前期松平になります。初代が松平忠房公。


次に、戸田氏が2代にわたり治めますが、再び松平氏が8代にわたり治め明治になります。ということで、島原半島でお殿様というと一般に「松平氏」になります。


で、血縁ではありませんが、自分のとこのお殿様というと、なんとなく気になるじゃありませんか。ということで、「江戸最高の名君はだれだ?」という文句に引かれ上の本を買いました。


松平忠房公といえば島原半島の安定化に努め、文学を愛し貴重な資料を集め、現在松平文庫に収められいます。また、江戸時代唯一の海外貿易港であった長崎の監督を命じられ、西国大名の監視も命じられていたという話もあり、幕府からも重用されています。ということあり、「名君」の一人に挙げられていまいかとは思ったのですが、残念ながら、でした。上の右の表が「名君ベスト30」です。クリックすると拡大します。


九州では、福岡藩主黒田長政、佐賀藩主鍋島直正、熊本藩主細川重賢、薩摩藩主島津斉彬。なお、平戸藩主松浦静山がベスト15位に入っていますが、あの人「甲子夜話(かっしやわ)」なんてすごい本書いているからナ。→こちらをクリック


「暴君・暗君ワースト10」も書いてありますが、松倉勝家などが載っているかと思ったら、ベスト10には入っておらず、「不行跡・乱心などが原因で改易された主な藩主」に上に書いた「高力隆長」が入っており「苛政」が原因です。地元では、松倉氏が悪政をした人物として有名なのですが。


なお、暴君・暗君のベスト1はなんと「浅野長矩(ながのり)」。あの松の廊下で吉良上野介に斬りかかった方。理由としては「悲劇の主人公のように見えて、実は江戸史上最悪の暗君といえる。」となっております。


その他、本書には「大名家の衝撃事件ファイル」など紹介してあり、なかなか面白い読み物でした。

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上の左の本は「武士の家計簿」で有名になり、TVなどでもよく見かける”磯田道史”氏が書かれた「殿様の通信簿」。ネタ本は右の「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」。

磯田氏によれば「『土芥寇讎記』は、書物というより、むしろ幕府隠密の『秘密諜報』で、公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもの、という説がある。」というものです。「土芥寇讎記」を翻刻し出版された金井圓氏によれば、書かれた時期が元禄三(1690)だそうで、当時の大名234人の人物評価を載せた希有な書物、だそうです。

磯田氏の本に松平公の事が書いてないかと思ってAmazonから取り寄せましたが、残念ながらでした。ただ、氏の知識と古文書の深読みには”さすが”という思いがします。

水戸光圀の”圀”はなぜ”國”を使わなかったのか。また、悪所通いをしたとあるが、その裏にはなにがあるのか?


前に書いた「浅野長矩」。舞台、映画、小説などでは素晴らしいお殿様として描かれてしますが、なぜ暗君と書かれてあるのかなどは目からうろこでした。

さて、「土芥寇讎記」に”松平忠房公”が載っていました。長いので、要点だけ・・・前半が隠密の多分報告で、後半が幕府の高官の意見だと思われますが

「政道順ナル故、家士心易シ。風俗落付、民間二寛(ゆたか)也。」・・・「忠房公ハ、勇気ヲ宗トシ、才智発明也。心意気淳直ニシテ、法ヲ不背、行跡穏順ニ、仁政ヲ施シ、家民ヲ哀憐スル事深シ。忠義ヲ立ント欲シ、勤候ヲ専ラトセラルト云へリ。


と書いてあり、意味が分からなくとも字を見れば、謹厳実直、誠実、真正直、真摯、生真面目、品行方正、石部金吉というような文字が頭をよぎるのですが・・・とにかく悪所通いなどは無かったようですが、「土芥寇讎記」の最後に、「辺国(島原の事)タルニ依テ、人民喧(かまびす)キ事多シト聞フ、心得アルベキ事ナリ。」とあり、「喧しい」は「やかましい。かしましい。」という意味があり、島原は狭いので悪所通いなどしたら週刊文春に載って「人民喧シ」ですヨ。と言うことで、真面目にしていたのかな、と思います。

忘れていました、忠房公の官位は”従四位下”。吉良上野介が”従四位下”。浅野長矩が”従五位下”で浅野さんよりは官位は上になります。どうでも良いことですが・・・(^^;)。



2021年4月 7日 (水)

「往来手形」について

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「通行手形」「往来手形」「関所手形」など呼び方はイロイロとありますが、多少違いはあるようです。

上は、Googleで「通行手形」の画像を検索したもので、多いのが将棋の駒の形のもの。赤の矢印が古文書。将棋の駒形は見ると、全部、観光地の土産物です。江戸期における通行手形、往来手形、関所手形にはこの形のものは見当たりません。


下の本は往来手形等について書かれた本ですが、古文書についての事のみが書かれています。駒形のものについては、書かれてありません。


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Googleの映像で青印は尼崎藩のものだそうですが、「御門通札」。尼崎城に入るため発行された通行証だそうです。他に「御厠通札」「夜行札」「御城内尿取札」などがあるそうですが、今、大きな会社に入るときなど首にぶら下げる証明書で、関所などで使う手形とは違っています。限られた目的のものです。
こちらを参照

「札」については、職業鑑札などが残っています。


島原藩の資料を見ていくと「目籠札六角印焼印」「殺生札者(は)山形之焼印」などと書いてあり、「札」には色々な種類がある事が分かります。


下は、3枚の札の裏表ですが「通行手形」の文字が見えます。ただ、「天明(?)二壬寅年年限通行手形」とか書いてあるので、限定的なものだと思われます。


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さて、Goggleの映像で「往来手形」で検索すると、下のような古文書が沢山見られます。下に一つだけあげておきます。翻刻は下記の通りですが、行替の時等、画面が乱れるのでベタ打ちしています。

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往来手形之事

因州八上郡池田村佐平治申者宗門

禅宗當寺旦那二紛無御座候
依志願四国遍路罷出候間所々
御関所無相違御通し可被下候若又
日々行暮候節一宿等奉賴候猶又病死
仕候節者其所之御作法を以御取斗
可被下候其節此方江者不及御沙汰
依而往来手形一札如件

文化七年 因劦八上郡奥谷村

申ノ十月日   天佑寺(印)

国々御関所

御役人衆中村々在々

村々在々
御役人衆中



書いてある事は


①氏名

②どこの寺の檀家か
③旅の目的はなにか(この場合は四国遍路)
④関所を問題なく通して欲しい
⑤日暮れで困ったときは宿泊を頼みたい
⑥病死した時はその土地の作法で処理をして欲しい、その折りは、こちらには連絡不要

「江戸のパスポート」に実例が書いてあり・・・簡略して書けば


「すぎ」という女性が西国巡礼のため出国。途中仲間とはぐれ、足を痛めて困窮しているところを小田村の農民に保護される。

その後小屋を建て、養生したが回復せず、所持金も無かったため、自力では帰国できず国元への送還を願い出た。
小山田村では、藩役人に事情を記した届書きを提出し、許可を得て、宿場と村々をつないでの移送(町在継送)で送り返すことになった。

なお、国元への送還を認められたのは、往来手形を所持していたからであったそうです。「往来手形」の内容は上に書いている「往来手形」とほとんど同じ内容です。


江戸時代、「往来手形」について、ただ単に関所を通るときに使ったものだと思っていたのですが、このような事があったことは思っても無いことでした。なかなか、面白い仕組みです。


さて、往来手形、関所手形というと最初書いたように将棋の駒の形を思い出すのですが、誰が考えたんでしょう?「チコちゃんに叱られる!」では、観光土産の「ペナント」を考えた人の事が放送されました。きっと、この将棋の駒形の往来手形、関所手形は観光みやげに考えたと思うのですが・・・(-_-)。



2021年3月21日 (日)

「山武士神社」の「宮崎九郎右衛門」について

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以前、日野江城の麓にある「山武士神社」の「千々石里正 宮崎九郎右衛門延髙」の名前が刻まれている石祠について書きました→こちらをクリック。

庄屋の名称については、時代、地方によって違いがあるようですが、「里正」「名主」「肝煎」が見受けられます。

この「宮崎九郎右衛門」についての手がかりが、下の「旧有田村庄屋 石橋家記録」にありました、有田村は南島原市有家町の蒲河名、山川名、尾上名にあたります。


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以前から書いているように「南串山村」の庄屋さんの古文書を読んでいますが、この中で「土黒(ひじくろ)」(雲仙市国見町の一部)の事が詳しく書かれている部分があります。南串山の庄屋さんと、土黒の庄屋さんとは仲が良かったと感じられます。

ザッと位置関係を書くと、上の青丸が土黒がある国見町、下の青丸が南串山。


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さて、この「石橋家記録」に次のような記録があります。「天保きのへ午年」、「甲午」ですから「天保5年・1834年」。

一 同年 五月十三日 妹 タマ 千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門 養娘二 いたし 同村 城台源次兵衛 倅へ嫁し申し候。


有田村庄屋さんの妹が、千々上村庄屋さんへ養女に行き、千々石の城台源次兵衛の息子に嫁にいった、ということですが、庄屋さんの養女が普通の家に嫁ぐはずもなく、庄屋の次が乙名になり、橘中佐の祖先は江戸時代「城台(城代)」を名乗って乙名であったとの記録もあり、ここらあたりがクサイと思っているのですが・・・


地図、上の赤丸が千々石、下の赤丸が有家町(有田がある所)。


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下が天保9年4月(1838)の記録。6月10日の所に「御 巡検使」の文字があるので、島原藩からの宗門改、年貢等の関係か?

「曽我亦左衛門」「近藤勘七郎」「大久保勘三郎」の名前があり、各々「北有馬村庄屋宅 御宿」「同村 願心寺 御宿」「南有馬村庄屋宅御宿」とあり、これが島原藩の役人。なお、北有馬は地図の赤線下線の所。


各々、多分世話役であったろう「亭主」「脇亭主」として名前が書かれてあり、「同村 願心寺 御宿」(願心寺は以前、天井絵で紹介→こちらをクリック)には・・・(写真はクリックするとハッキリ読めます)


「(亭主)千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門」「脇亭主 同村 松尾三郎兵衛」と書かれており、わざわざ遠くの千々石から北有馬まで、手伝いに来ているわけですが、これで、北有馬の「山武士神社」の石祠と「宮崎九郎右衛門」とが結びつきました。

 
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地図を見ながら、庄屋さん同士、お近くでは無く、離れた庄屋さんが仲が良いとは面白いところです。

残念ながら、千々石の庄屋さんの子孫の方が古文書を全部焼いたとかで、こちらには記録がまったく残っていません。もし残っていたら庄屋さん同士の関係がもっと分かっていたものと思われるのですが。皆さんも、家にある古い文書は大切にして下さい。


2020年12月13日 (日)

「剱岳─線の記」★髙橋大輔著

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新田次郎の「劔岳ー点の記」を読まれた方、映画で見られた方は多いと思います。

未踏峰だと思われた剱岳に三角点を立てるべく、明治時代、
測量官・柴崎芳太郎氏が挑み登頂するも、山頂には錫杖と鉄剣が置かれていて、すでに登頂者がいた、という物語でした。

この「剱岳ー線の記」には、この錫杖と鉄剣を誰が置いたかを検証するノンフィクションです。著者
はロビンソン・クルーソーの居住地跡を発見した冒険家・髙橋大輔氏。

氏は下のような設問を設定し、謎に挑んでいきます。

「いつ」「誰が」「どのように(山頂をきわめたか)」「どの(ルートは)」「どこに(山頂のどこに錫杖頭と鉄剣を置いたのか)」「なぜ(山頂に立とうとしたのか)」

険しい山、今のようにルートも無く、装備も無い時代、何のためにという疑問は誰しも持ったことだと思います。


そのため、色々なルートを考え、また、剱岳に関する本(最後に参考図書が書いてあります)を調べ、土地に残る地名等を調べルートを設定し、地元の人、研究者の支援を得て、実際に5回剱岳に挑み謎に挑んでいきます。


あまり書くとネタばれになるので止めますが、初登攀した人物が、現代人のように「山があるから」「山が好きだから」登った、ということではなく、もっと深い意味があったことが書いてあります。


そして、このことが、平安時代に剱岳を開山した人物と柴崎芳太郎氏が明治期に剱岳に登頂し、そこに錫杖と刀剣を見つけた事が必然であり、この本の題が「剱岳ー点の記」ではなく「剱岳ー線の記」である事の意義が最後に書いてあります。


新田次郎氏の本に「槍ヶ岳開山」という本があり、槍ヶ岳に初登攀した修行僧・播隆について書いてあるそうですが、この人物も剱岳に初登攀した人物と同じような感じなので、この本、いつか読んでみようと思っています。


なお、剱岳に残された錫杖の杖頭、刀剣の写真(立山博物館所蔵)も載せてありますので、興味のある方はお読みください。




 

2020年9月 9日 (水)

「一分銀」の桜の事

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「一分銀」です。表と裏。一分銀四枚で一両小判一枚になります。このことは、いずれまとめるつもりです。

裏面の「銀座常是」については→こちらをクリック(大黒常是の項になります)


古銭の事を調べようと思っていたら、下の小冊子を見つけました。普通、一分銀というと一種類だと思うじゃありませんか。ところが、書体の違い、作りの違いによって何種類かあるようで「一朱銀」にいたっては126種類(「一朱銀」収集の手引き:茨城貨幣研究会 八木明男著)もあるそうです。


下の本を読んでいたら、「一分銀の分類方法」が書いてあり、書体の特徴、「定」極印、側面の仕上げの状態を見る方法もあるそうですが、上の一分銀を見ると、周囲に20個の桜が打刻されています。一分銀は作られた時期により「天保」「安政」「明治」の三種類に大別されるそうです(それ以外もあるようですが)。


この桜が一つ逆に打刻(逆桜)されているそうですが、この、位置により天保、安政、明治が分かるそうです。


下の右の図、赤の部分に逆桜があると安政の時代、緑の部分が明治、青の部分が天保だそうです。


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「逆桜の位置が表裏とも上二段にあるときは安政一分銀、表の最下段、裏の三段が天保一分銀のゾーンです。ただし、全ての組み合わせが見つかっているわけではありません。」ということだそうです。

下の一分銀、表の下段の右端「逆桜」。裏の下段右から二番目が逆桜。と言うことは「天保一分銀」だと分かります。


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表の二段目の左、裏の一段目が逆桜で「安政一分銀」だと分かります。

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と言うようなことを考えながら見ていくと、古銭にはまりそうで怖いですね。他にも調べると面白い事があり、追々とご紹介を。

(参考資料・文、図引用「『一分銀』収集の手引き(入門編)定量銀研究会 桜野 鼓音編」より)




2020年9月 2日 (水)

これが「一文銭(寛永通宝)」なのか

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古文書を勉強して3年ばかり、相変わらず全然読めず・・・予習復習をまったくしていないので当たり前ですが。古文書の中に、上のように

一 鶏卵 大       掛目 十三匁

一 同  中通例     同  十匁
一 同  ひよこ玉子 小 同  六匁三分
一 野鴨玉子     小 同  廿弐匁

などと書いてあり、なんとなく分かるのではありますが、では、どういう貨幣を使ってたのよ?というと、全然分からず古銭を少々集めてみました。

なお、大判・小判も買ってみようかと思ったのですが、カタログを見ると一番お高いのが「100,000,000円」。お安いのでも超10万以上というので止めました。紀伊國屋文左衛門のようにキャバクラに行ってばらまけばモテるだろうとは思っていたのですが。


で、ネットオークションで安いのを集めてみました。偽物も入っていますが。


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下が一番有名でお安い「寛永通宝(かんえいつうほう)」。一文銭です。銅、鉄で鋳造され、明治2年まで200年ばかり庶民の銭として使われ、日本各地で作られたそうです。

これを見ながら懐かしかったですね。今は靴のサイズを㎝で表しますが、昔は靴のサイズを「文」で表わしていました。一文銭が約2.4㎝。これが何枚並ぶかで、サイズを表わします。靴サイズ24㎝の方は10文になります。私が小さいときはまだ「文」で言っていた記憶があります。ジャイアント馬場の「16文キック」を思い出します。


銭形平次も一文銭を投げていました。落語の「時蕎麦」でも一文銭が登場します。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)、オヤジ何時(なんどき)だい・・・」
と。ご存じない方はYouTubeで「ジャイアント馬場」さんも「時蕎麦」も「銭形平次」も見られます。一文銭は庶民のお金です。

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なお、「寛永通宝」を見ていると少し大きく、重たいのがあり、アレ?と思って裏返したら、波の模様がありました。調べたら四文銭だそうです。

ちなみに、銭形平次と言えば大川橋蔵、八千草薫さんが有名ですが、北大路欣也さんも演じています。投げ銭を見たら波模様が入っていたので、北大路さんは四文銭を使っているのですね。もったいない。


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他のをあせっていると、下のようなのが入っていて、よく見ると「宝永通宝」という銭で、宝永5年十文銭として鋳造され、裏面に「永久世用」とあり、左斜めの所「珍」の字が小さく刻印されています。

Photo_20200902193602 Photo_20200902193603

まだバリエーションがあるのですが、キリがないので・・・

古銭であまり程度が良いのでなけらば、まとめて千円もしないで手に入ります。実物を手に取って眺めれば楽しいですよ。




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