古文書

2022年3月31日 (木)

鯛の「おかしら」付き

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庄屋さんの書いたもので、お武家さんの書いたものとは違い読みにくい。というより、いまだに、ほとんど読めません。

読んでいると上のようなところがありました。最初の字は「尾」次の字は「頭」です。


漢字のクイズで「鯛のおかしら付きの『おかしら』はどう書きますか」というのがあります。「お(御)頭」「尾頭」とありますが、正解は「尾頭」。



広辞苑によれば


【尾頭付】尾も頭もついたままのさかな。神事・祝事になどに用いる。「鯛のー」



一応このことは知っていたのですが、実際にこうして書かれたものを読むと、なんとなくうれしくなり、こんなところにも古文書の面白さを感じます。

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左が「尾頭付き」、右が「お頭付き」。尾が無いのでは絵になりませんね。


2022年2月15日 (火)

「日本八景」~なぜ阿蘇ではなかったのか?

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上は以前にも紹介をした、谷文晁の「日本名図会」より、雲仙岳と阿蘇山です。

どちらが立派かというと、身びいきで「雲仙」ですね。


しかし、下のような見立相撲(江戸末期とみられ、山、川、橋等を相撲取りの位に見立てて評価したもの)では、阿蘇が大関、雲仙は前頭筆頭。ついでに、温泉効能も貼っておきます。同じく、前頭です。当時は、実力最高が「大関」です。「横綱」の称号については→こちらをクリック


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いうこともあり、日本八景に選ばれるのは「阿蘇」でも良いのではないかと思っていたら、下の本に事情が書いてありました。

下の本は「日本八景」を文人が訪れ、紀行文を書いたものです。雲仙は「菊池幽芳(作家、大阪毎日新聞記者、取締役、相談役)」が訪れています。中々に面白い紀行文で、機会があった読んでみて下さい。


で、後書きに日本八景の選考について詳しく書いてあります。その中に、なぜ阿蘇山が選ばれなかったの記述があり、下記の通りです。


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「・・・九州の山なら、どうして阿蘇が出てないのか。調べてみると、この企画が発表された昭和2年の4月に阿蘇山は噴火している。風景の評価は、天変地異が起こると除外されたりるするので、後世になると、当時の時代背景を知る必要がある」ということで、阿蘇は選には入らなかったそうです。

それなら、阿蘇が噴火しなかったらとの疑問もありますが、投票に関しては「一部の地域で、集中的な地元投票がおこなわれだした。」とも書いてあり、仄聞によると雲仙(長崎県)
でも同様であったとか。

実力=人気と限らないのが、世の常です。



2022年1月20日 (木)

「下戸」とはどんな人?~庄屋さんの古文書より★コロナワクチン第3回接種予約情報

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庄屋さんの古文書です(クリックすると拡大します)。

問題のところ赤の矢印から次の頁の矢印、特に赤いカッコの「下戸」が問題になります。


青いカギ括弧あたり


一 小頭之儀大酒ヲ好ミ又ハ不人柄者ニテハ・・・


とあります。島原藩の村方機構は1996(寛文9)年、松平忠房入部後の検地の実施によって整備されたそうです。

現代、自治会組織として会長さん、副会長さん、書記さん、会計さん、班長さんなどもあると思いますが、この時期、藩主→代官→村方三役(庄屋・乙名・組頭)として、
一応定式的な縦の関係で支配されていたそうです。庄屋さんの古文書では「筆者」もいるようです。ここでは「桝取」という役もあったみたいで、多分、年貢を納入するのに関わる役割だったようです。

さて、上の文は小頭さんが大酒で、人柄が悪い人は間違い等があるので、人柄を見立てて取り計らえということです。次に「桝取」について書いてあるのですが


桝取ノ義ハ下戸ニテ実体ノ者ヲ・・・

とあるのですが、ここで「下戸」とあるので、研究会一同頭を抱えることになるのです。前に「大酒」とあるので、みんな「下戸」は酒を飲まない者と考えたのですが・・・


「実体」とありますが、現代の「じったい」では無く、「じってい」と読んで、真面目、実直、正直等の意味があり、「じったい」は哲学用語らしいので、ここでは「じってい」。


「酒を飲まない者」で「真面目な者を」という事になり、なんとなくおかしいですね。酒を飲まなくとも横領したり、セクハラしたりする人いますね。ということで「下戸」を調べたら・・


律令制の時代、各家の人数や資産で階級が決まっていたそうです。上から「大戸」「上戸」「中戸」「下戸」とあり、「下戸」が最下級であったそうです。


「大戸」は一戸に8人以上の正丁(21~60歳の男子)がいる戸。「上戸」は6,7人の正丁。「中戸」は4人の正丁。「下戸」は3人以下。これによって課税額が違ったようです。(出典により人数の違いがあります)


で、ですね、婚礼の時、酒を飲む量が階級によって決められていたそうで、上戸が8瓶、下戸が2瓶であったそうです。これにより、酒を飲めない人が「下戸」と呼ぶようになったという話です。これには、諸説あるようですが。


ということで、庄屋さんの「下戸」は酒を飲めない者ではなく、「位が低く」ても「正直」なということになり、これにて一件落着になりました。


【コロナワクチン第三回接種予約情報】

今週の18日に第3回目のワクチン接種予約の通知が来ました。予約状況を見ると、地元のお医者さんが、2月1,2,3,4日、各日12名、合計48名の枠が有り、全部が空いていました。

何があるのか分からないので、第一日目は注意をして、三日目に打つようにしました。.

オクサマは第1,2回目はワタクシより少し遅れて接種したのが影響したのか、20日に通知がきましたが、地元のお医者さんでは予約ができず、隣町の病院に予約が取れました。

スマホで予約をしましたが、慣れない方にはチト無理ですね。

最初に連絡票に個人番号があったので書き入れ、次に暗証番号があったので、前の暗証番号を入れたのですがハネられました。2,3回やってもダメだったので、よく読むと下の方に小さな字で、前の暗証番号はリセットされたので、最初に生年月日を入れるようにということでした。その後、新しい暗証番号を入れ直し、やっと予約ができる状態になります。ここのところ、分かりにくかった。ということもあるので、注意書きはよく読んで予約を。



2021年12月 1日 (水)

「みを(miwo)」★”AIくずし字認識ソフト”を使ってみて

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以前から書いているように、古文書研究会で勉強していますが、まったく予習も復習もしていないので3年たってもロクに読めません。

2,3年前だったか、くずし字解析ソフトができるらしいという話があり、その頃、1字くらいなら読み取れるソフトがあったので試してみても思うようには読み取れませんでした。


先日、ニュースでかなり古文書がよめるソフトが開発されたという事を知り、インストールしてみました。ちなみに私はiPhoneを使っているので、App Storeから「みを」というAppを
入手。無料です。「みを」の開発等々については→こちらをクリック

どれくらい認識できるのか、さっそく試してみました。


上の左の文書は江戸時代の定めになります。この冊子は江戸時代に発行された版木本。この手の冊子は寺子屋などでも使われたらしいのですが、きれいな手本のような文字です。


これを、スマホのカメラで読み取り認識させたものが右の緑の文字になります。


間違いが「兄弟」。「兄第」になっています。間違いが一字だけ。


これは手本みたいな文字なので、離縁状(三行半)を読み取らせ、認識させました。この文書は実際のものです。


「義」が「き」。「此度」が「中漬」。「者」が読み取れず。「候」が読み取れず。「江」が「候」。「座」が「産」。「件」が「竹」。


間違いが40字のなかで8文字。ということはテストでいうと80点。十分に合格です。


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離縁状も読みやすい字でした。というところで、現在解読中の庄屋さんが書いた、地方文書(じかたもんじょ)。丁寧に書いたところもありますが、この部分、読みづらいというより、私はまったく読めません。

一番最後の赤丸「乙名中」ですが「こ房し」になっています。「し」は「中」の中棒が下まで流れていった所を読んだものだと思います。。あとは私には読めないので、皆さんで読んでみて下さい。これ、赤点以前ですね。というより、試験も受けさせてもらえないランクだと思います。


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こうしてみると、きれいに書かれた文書は思ったより認識ができました。崩れた文字はまだまだのようです。ただ、まだデーターとした文字が地方文書まで行ってはいないのでは無いかと思います。

AIの近年の進歩は著しく、チェスがAIに負け、まさかと思われた将棋がAIに破れ、絶対と思われた碁が遅れを取りました。ですから一番最後のような文書も、いつの日か解読されるのではないかと期待しています。


現在の使い方としては、ある程度解読できた文書はそれを元にして、誤読、不明な部分は前後の文から推測し、辞書などを使い解読すれば良いのではないかと思います。


もっとも、まったく読めない方には無理な話で、現在では、やはり基礎から学ばないと「みを」使いこなすのは無理かと思われます。


一番下の画像は「みを」の画面になります。使い方は思ったよりも簡単でした。古文書に興味のある方は一度使って見てください。まだまだ完璧なものではありませんが、役にたつ部分もあるとは思います。

あと一つ.一番上の定めの文書。読みのルビが振ってあり、私が赤字で書き込んだ部分があるので、これが認識に邪魔になるのではないかと思っていたのですが、まったく影響がありませんでした。これには、ビックリしました(゜ロ゜)。



2021年11月 2日 (火)

「肥前國高来郡之内三拾三箇村壹分四拾間之圖」に見る論地について

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先日、古文書研究会で勉強していると、上のような文書(もんじょ)がありました。下手な字で薄く書いてあるのは私が書いたもので、無視して下さい。


元禄八亥年北有馬村より当村

野方境論合候間御裁許


概略書くと、元禄八年、北有馬村より野方(高地などの開墾したところ・高台の耕作に適しないところ【大辞林】)の境につき論合(論じ合うこと・論争)があったが、代官所(多分)より裁許(申し出の是非を判断して許可を与える)があった。



以前、小浜から南串山を通り雲仙に至る所に「論所原」という場所があることを書きました→こちらをクリック


昔は土地の境がハッキリせず、村と村でどちらのものか論争しています。上の古文書はそういうことが書かれています。


古文書を読んで、島原半島にどれくらいの「論所」の地があったのか、少し興味があるので調べてみました。


下は文久3年に書かれた絵図です。「肥前國高来郡之内三拾三箇村壹分四拾間之圖」です。白いところは佐賀藩飛び地、佐賀藩神代領。島原藩の領地ではありません。なお、地図の現物は旧家にあり、どのような事情か複製(印刷物)がでていて、公的な所で2ヵ所、数人の個人所有があるようです。ブログに載せているのは印刷物なので、文字が分かりにくいと思います。

色い付箋を貼ったところが「論地」。ほとんど山間地で土地の境が分かりにくかったものと思われます。

古文書の南串山と北有馬の「論地」は赤の矢印のところ。今の論所原に当たります(多分間違いありません)。


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左がその部分を拡大したもの「北有馬村・南串山村・論地」が分かると思います。

右は「田代原」。島原~千々石に至る街道の途中にあります。ここは千々石村と土黒(ひじくろ)村、土黒村と多比良(たいら)村の論地が見られます。
なお、千々石においては郷土誌等、この論地の事はまったく書いてありません。

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もう少し見てみると山田村と野井村。現在の吾妻町と愛野町になります。

右は沢山あるので、書きませんが山間部ですね。


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千々石の場合、この論地については、まったく分かりません。というより、庄屋さんの子孫の方が、家に残されているものを全部廃棄をしたらしいのです。ただ、千々石の庄屋さんが、論地について書いたかは不明ですが。

南串山の場合は、庄屋さんの子孫の方が古文書を保管され、家を解くとき郷土史研究会に寄贈され、それを古文書研究会で解読をし、論地のいきさつが解決に至るまで分かるわけです。地図と照らし合わせれば場所も分かります。


現在、古い家の建て替えの時、古文書が出てきても読めないから燃やした、という話しを聞くことがあります。ですが、上に書いたように貴重なものがあります。現在、島原半島3市には学芸員が勤務しているので、持ち込めば読んでもらえると思います。ぜひ、昔のものは簡単に廃棄をしないように。


2021年7月29日 (木)

古文書の畳たみ方

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上の文書(もんじょ)は「宗門改」で熊本藩のもの。多分、家老に提出したものだと思われます。

昔の書簡、文書等を見ると、きれいに畳まれているものが多数見受けられます。上の写真、下の方が広げたもの。上の長細いのが、同様な文書を畳んだもの。器用に畳んでいるのが分かると思います。こんな小さいところにばかり気がつくので、出世はできませんでしたが・・・(^_^)。


某日、史学で古文書を専攻し大学院にいった方と話しをしていて、この事を思い出し、「昔の人って書簡など畳むのが上手ですね」。と言ったら「あれ、簡単ですよ」、「・・・(T_T)?・・・端っこから上手に畳むのって、大変でしょう?」。


「いえいえ、こうして丸めて、そのままペシャンコにして・・・」


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「広げれば、出来上がり」ですって。試してみたら、「ほんまや~!!!」。でした。

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時代劇で「上意でござる」とかいって、パラリと広げる場面があります。アレって、どう折ってるんだろうか思い、折り目を調べるべく、ネットで「家康さん書状」を画像で調べると・・・各自、学習を。

現代、文字の所を折るな、という方もいますが、こんな長いものを書く方いませんよね。まして、今や横書き、PCで書き印刷、メールでのやりとり。昔の文書を見て、書いた人がどんな人物だったのか、想像するって楽しいですよ。


2021年6月 7日 (月)

第8回 「えんがわ・一畳の資料館★古文書あれこれ」&「有馬晴信の書簡(複製)」~雲仙市千々石町

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(クリックするときれいに見えます)

きまぐれで始めた「えんがわ一畳のきまぐれ資料館」。第8回を迎えました。

今回は、「古文書(こもんじょ)あれこれ」と「有馬晴信の書簡(複製)」の展示です。「古文書」は、歴史の資料となる古い文書です。


2019年「千々石・小浜等の明治・大正・戦前の古(こ)絵はがき」」に始まり「アニメと挿絵原画の世界」「島原・天草の乱絵図と軍記類」「栗原玉葉・森川青坡・正月用引札の世界」「長崎・江戸の古地図と明治・大正・戦前の長崎の古絵はがき」「キリシタン禁制の高札」「栗原玉葉と長崎古版画の世界」。


こうしてみると、一貫性がないですね。テーマがばらばら、まさに「きまぐれ」な感じ。


以前書いたように、古文書研究会に入って勉強していますが、やはり本物が見たく、お安いのをボチボチ集めていたら少したまったので展示をしてみました。


集めてみて一番多かったのが「離縁状」、俗に「三行半(みくだりはん)」。これ、7枚ほどありました。どうも、離婚願望があったのかと。この三行半のほか、このブログでも紹介した往来手形、五人組帳、宗門改帳、奉公人請書等々。他にもあったのですが、なにせ一畳の展示ケースの中の展示で限界ですね。説明資料も思ったようには準備出来ませんでした。なにせ、展示の古文書、読めるのは”三行半”だけ。


チラシの一番上の写真の矢印「傘連判状」です。一揆のときなど首謀者が分からないように、このように書きます。一揆に関係あるかと思って、古文書に詳しい方に読んでもらったら、一揆とは直接には関係ないようでした。


なお、名前の文字の書体を見たら、同一人物による感じでした。印判も立派なものですが、印鑑のプロの方のブログで「五人組帳」の印鑑について書いたものがあり、最後に「使用者と印文の名が違うものが多い気がします」、という事だそうです。→こちらをクリック


なお、9月1日に入れ替えをします。「有馬晴信の書簡(複製)」。


千々石ミゲルは当地で生まれ、”天正遺欧少年使節”として、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルティノと共に、切支丹大名有馬晴信、大友宗麟、大村純忠の名代としてローマに派遣されました。


千々石ミゲル帰国後、有馬晴信はローマへお礼の書簡送りましたが、これを京都大学が買い取り複製で出版しています。書簡中「きりしたん衆伴天連に対し障害をなされ」と、関白秀吉の伴天連追放令をうかがわせるフレーズもあります。
こちらは、9月下旬まで展示予定。

さて、明日は楽しい「2回目 コロナワクチン接種」の日です。報告をしますので、お楽しみに。



2021年5月 1日 (土)

ん?「三會町」?~三會町「宗門改繪踏帳」

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上は島原市の「三会町」の「宗門御改繪踏帳」。これ、島原の「三会町」かな?と調べると、寺の名前が書いてあるページがあり、安養寺、善法寺、専念寺、妙光寺、正覚寺。他にもお寺の名前がありましたが、全部島原半島のお寺で、この「三会町」というのが、島原市の三会ということで間違いないという事が分かります。

「宗門改」は全国的におこなわれていますが、特に島原半島は、島原・天草一揆が起こった所でキリシタンにはピリピリしています。普通は「宗門御改帳」ですが島原半島では「宗門改絵踏帳」「宗門改影踏(かげふみ・えいふみ)帳」。

「踏絵」については、安高啓明氏「踏絵を踏んだキリシタン」(吉川弘文館)が参考になるかと。


下は信州小糠郡芝生田村(多分?)宗旨御改帳」。昔は、各戸どこかの寺に属していました。檀家制度、寺請制度。詳しくは→こちらをクリック。特に「禁教令と寺請制度」の所を読んで下さい。


「宗門改帳」の内容は右のようになっています。禅宗城光院がお寺。久八さん一家の事が書いてあり、久八さんは45歳、女房の名前は無く36歳、娘さんが多がさん14歳・・・ということで書いてあります。


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さて、実は一番上の表紙を見ていると、アレ?三会の江戸時代の名前は「三會町」ではなく「三會村」ではないかと。三会について書いた本があるので調べて見ても「三会町」の記載はありませんでした。

余談ですが、大正7年、文部省だったかが各小学校に郷土誌を作らせています。左はその復刻版。意外と面白い歴史が書いてあるところがあり、長崎県の方で自分の所の郷土誌が読みたい方は、長崎歴史博物館1階のリファレンスルームに置いてあります。一応、ホームページの「資料検索」で「大正7年 郷土誌」で検索をして係員の方にお尋ねを。


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で、「三會町」ってなんなのさ、と思っていたのですが、先日より調べ物で「上井覺兼日記」を読んでいると次のような記述がありました。


ちなみに、上井覺兼は島津家の家臣。龍造寺隆信が島原に攻め入ったとき、有馬晴信が島津家に助けを求め、その折り島原での沖田畷の戦いに加わっています。戦いに勝ち島原のあちらこちらを巡察しています。(上井覺兼については→こちらをクリック ついでにこちらもクリック)


天正12年3月24日の部分、ただ一ヵ所ですが「・・・昨日三重(ルビ『會』とあり)之町・・・」とあります。後ろの部分には「三江」、単に「三會」の記載です。


なお「三會村物語」には「美江」「三戸(へ)」「三重」「三江」とも言われているようですが「昔は発音のまま当て字として書いたものが多い・・・」と言うことだそうです。城(島原城)の「見える村」、「見え村」という解釈して無意味ではあるまい、とか。


さて、上井覺兼日記の「三重(會)之町」、「之」が無ければ単純に「三重(會)町」で良いのですが、「之」が入るとどうなんでしょう。他の町は「神代・伊福・森山」と「町村」名は省略してあります。ということは単に「三重(三會)
」というのが正しいとは思うのですが、それでは宗門改影踏帳の「三會『町』」はナンなのさ?と悩みますね。もう少しお時間を・・・m(_ _)m。

「宗門改絵踏帳」の表紙に、印がベタベタ押してありますが、お寺の印と比較するとほとんど一致しています。多分、内容の確認をしたものだと推測するのですが。また、2ページばかり裏に書いた物があり、反故紙を利用しています。この「宗門改帳」は、「写」だったと思われます。


2021年4月19日 (月)

「札」について~「往来手形」の補足

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先日、往来手形について紹介しました→こちらをクリック

その折り、往来手形には将棋の駒の形のは見当たらない、との事を書きましたが、職業に関する「札」については、多少見受けられます。


上の右が将棋の駒形の職業に関する「札」だと思われます。「薬種仲間」とあるので、薬に関する鑑札。宝暦十庚辰年十月とあるので、261年前のものです。


左は「豆腐」の文字があるので、豆腐屋さんのものでしょう。横に「寛政六甲寅年十一月」とあるので、227年前。両方とも焼き印が押してあります。


下は裏側になります。


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さて、島原藩のことですが「長崎県史 資料編 第2」、島原藩「村方號令纂集便覧」の部。「札の部」に「札」の事が載せてあり、「札」として「糀室札」「目籠札」「肴盬札」「酒出店札」「社人納札之札」「鳥殺生札」「掃除人御門出入札」「古手賣札」等々の文字が見えます。

なお、札については「目籠札六角印」「殺生札山形之焼印」「城下二入諸商札ハ、丸之焼印」と書いてあるので、焼印はあったようです。形については見受けられませんでしたが「寸法ハ當春中相触置候・・」とあるので、決まっていたみたいです。


また、「札」については「・・・且口銭之儀者(ハ)、酒株ハ口銭なし、酒出店小賣札壹ヶ年四匁五分宛、糀室札壹ヶ年二貮拾貮匁五分宛、糀小賣札は壹ヶ年二七匁五分宛・・・」と書いてあるので、「札」については口銭を取られたみたいです。


口銭については「島原藩の経済・高木繁幸氏著」に「小物成(諸運上・口銭)について」の所、「田畑にかけられる本年貢を『物成』とか『本途物成』とか呼ぶが、それ以外の雑年貢を総称して『小物成』と言った。」と説明してあります。

なお、島原藩の「札」については、各市の資料館を見て回ったのですが、現在の所、見つけることが出来ませんでした。


2021年4月12日 (月)

島原藩「松平主殿頭忠房公」の評価

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島原に疎い方のためにザッとですが・・・

島原は最初有馬氏が治めていました。居城は日野江城(現南島原市北有馬町)。有馬晴信が岡大八事件で死罪。
しばらく幕府領になりますが、次の松倉重政氏は島原城を築きます。重税とキリシタン弾圧をおこないますが、息子の勝家はどうしようないバカ息子で、島原・天草の乱を引き起こします。

次に高力氏が治めます。息子隆長時代に改易。次に深溝(ふこうず)松平氏の松平氏が福知山藩から入府。以後5代にわたり島原を治めます。前期松平になります。初代が松平忠房公。


次に、戸田氏が2代にわたり治めますが、再び松平氏が8代にわたり治め明治になります。ということで、島原半島でお殿様というと一般に「松平氏」になります。


で、血縁ではありませんが、自分のとこのお殿様というと、なんとなく気になるじゃありませんか。ということで、「江戸最高の名君はだれだ?」という文句に引かれ上の本を買いました。


松平忠房公といえば島原半島の安定化に努め、文学を愛し貴重な資料を集め、現在松平文庫に収められいます。また、江戸時代唯一の海外貿易港であった長崎の監督を命じられ、西国大名の監視も命じられていたという話もあり、幕府からも重用されています。ということあり、「名君」の一人に挙げられていまいかとは思ったのですが、残念ながら、でした。上の右の表が「名君ベスト30」です。クリックすると拡大します。


九州では、福岡藩主黒田長政、佐賀藩主鍋島直正、熊本藩主細川重賢、薩摩藩主島津斉彬。なお、平戸藩主松浦静山がベスト15位に入っていますが、あの人「甲子夜話(かっしやわ)」なんてすごい本書いているからナ。→こちらをクリック


「暴君・暗君ワースト10」も書いてありますが、松倉勝家などが載っているかと思ったら、ベスト10には入っておらず、「不行跡・乱心などが原因で改易された主な藩主」に上に書いた「高力隆長」が入っており「苛政」が原因です。地元では、松倉氏が悪政をした人物として有名なのですが。


なお、暴君・暗君のベスト1はなんと「浅野長矩(ながのり)」。あの松の廊下で吉良上野介に斬りかかった方。理由としては「悲劇の主人公のように見えて、実は江戸史上最悪の暗君といえる。」となっております。


その他、本書には「大名家の衝撃事件ファイル」など紹介してあり、なかなか面白い読み物でした。

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上の左の本は「武士の家計簿」で有名になり、TVなどでもよく見かける”磯田道史”氏が書かれた「殿様の通信簿」。ネタ本は右の「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」。

磯田氏によれば「『土芥寇讎記』は、書物というより、むしろ幕府隠密の『秘密諜報』で、公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもの、という説がある。」というものです。「土芥寇讎記」を翻刻し出版された金井圓氏によれば、書かれた時期が元禄三(1690)だそうで、当時の大名234人の人物評価を載せた希有な書物、だそうです。

磯田氏の本に松平公の事が書いてないかと思ってAmazonから取り寄せましたが、残念ながらでした。ただ、氏の知識と古文書の深読みには”さすが”という思いがします。

水戸光圀の”圀”はなぜ”國”を使わなかったのか。また、悪所通いをしたとあるが、その裏にはなにがあるのか?


前に書いた「浅野長矩」。舞台、映画、小説などでは素晴らしいお殿様として描かれてしますが、なぜ暗君と書かれてあるのかなどは目からうろこでした。

さて、「土芥寇讎記」に”松平忠房公”が載っていました。長いので、要点だけ・・・前半が隠密の多分報告で、後半が幕府の高官の意見だと思われますが

「政道順ナル故、家士心易シ。風俗落付、民間二寛(ゆたか)也。」・・・「忠房公ハ、勇気ヲ宗トシ、才智発明也。心意気淳直ニシテ、法ヲ不背、行跡穏順ニ、仁政ヲ施シ、家民ヲ哀憐スル事深シ。忠義ヲ立ント欲シ、勤候ヲ専ラトセラルト云へリ。


と書いてあり、意味が分からなくとも字を見れば、謹厳実直、誠実、真正直、真摯、生真面目、品行方正、石部金吉というような文字が頭をよぎるのですが・・・とにかく悪所通いなどは無かったようですが、「土芥寇讎記」の最後に、「辺国(島原の事)タルニ依テ、人民喧(かまびす)キ事多シト聞フ、心得アルベキ事ナリ。」とあり、「喧しい」は「やかましい。かしましい。」という意味があり、島原は狭いので悪所通いなどしたら週刊文春に載って「人民喧シ」ですヨ。と言うことで、真面目にしていたのかな、と思います。

忘れていました、忠房公の官位は”従四位下”。吉良上野介が”従四位下”。浅野長矩が”従五位下”で浅野さんよりは官位は上になります。どうでも良いことですが・・・(^^;)。



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