古文書

2020年6月26日 (金)

「江戸の備忘録」★磯田道史著より~「家康の庭訓」「江戸の鉄砲管理」

Img_20200626_0001

磯田道史氏は「武士の家計簿」で有名になり、映画化もされました。古文書に書いてある事を、分かりやすく解説している本が多数あります。

この「江戸の備忘録」は朝日新聞の土曜版に連載された文章を基にしたものだそうです。ですから、一つ一つのトピックスは2~3ページほどで、読みやすいものになっています。


ただし、磯谷氏の後書きによれば「歴史のトピックスを、一見、何の脈絡もなく、ならべたようなように見えるかもしれないが、そうではない。広く深く、日本史を見渡せるような、いってみれば『歴史の肝』になる話しだけを、かなり厳しい目で選んだつもりである。表面上は、楽しく選んでいるが、日本史の重要人物や決定的要素を、意識的に選んで書き込んである。」という本です。60のトピックが並んでいます。


さて、全部は紹介できないので、徳川家康さんの話しと、少し気になるところがあるので・・・


「家康の庭訓」(注;庭訓は親が子どもに教える教訓)。少しばかりまとめて書きます。


家康は自分の子どもに泳ぎを学ばせていたそうです。「天下の主たりとても、常々熟練せでかなわざるは、騎馬と水泳なり」(東照宮御実紀附録)。


騎馬と水泳、「この二つは人に代はらしむる事のならわざるものなり」。〈戦は常に勝つとは限らない。負け戦もある。負け戦になると、どんな偉い大将でも馬に乗り、泳いで逃げなくてはならない。しかし、こればかりは、家臣に代わってもらうわけにはいかない。だから、乗馬と水泳教育は絶対必要だというのである。〉ということだそうです。

剣術教育には冷淡で、「大将のつとめは、逃げること」。「天下のぬしたるもの、大名などは必ずしも自ら手を下して人をきるにおよばす。」〈もし敵に出会ったら家来が討つべきで、将軍や大名に剣の修行は『いらぬ』と言った。〉と言うことだそうです。

確かに、負け戦の時、大将が剣を取ってチャンバラをして討ち取られたら、それで、ジエンドですが、逃げ延びれば再興の機会もあると。


三代目・家光、水戸黄門さんも、わずか十二歳で江戸の〈浅草川〉を何度も泳いで往復したそうです。家康の孫、尾張藩二代目・徳川光友も泳ぎが上手く、「五つ六つの御時より勝川・谷田川へ毎日出て泳いだ。」そうです。なお、その時の「お弁当は焼食に香の物、焼味噌ばかり」であったそうです。


「江戸の鉄砲管理」


「生類をめぐる政治」(塚本学)には次のように書いてあるそうです。


「豊臣秀吉の刀狩り後にも、江戸時代の民衆は大量の鉄砲を保有、武士よりたくさん持っていた。仙台藩に四千丁、紀州藩に八千丁、長州藩では四千丁が民間にあったという。この三藩で当時の国内人口の二十分の一だったことから、全国では数十万丁の鉄砲があったのは確実である。」もちろん、各藩では「鉄砲改」めなどをしています。


さて、島原藩の各村にはどれくらいあったのかと思い調べました。これには島原藩が各村を調べた「島原大概様子書」があり、男女の数、馬牛の頭数、暮らし向き、石高、寺社、古跡等々の事がかいてありますが、宝永四年に完成、その後たびたび改正されています。これに、各村の鉄砲の数が書いてあり、文政六年改で現雲仙市だけ見ると・・


「土黒村・鉄砲拾挺(内威筒七挺・猟師筒七挺)」(以下、”
鉄砲”は略。威筒は威鉄砲で害獣を追い払うための空砲)「西郷村・拾三挺・威筒八挺・猟師筒五挺」「伊古村・記載なし」「伊福村・三挺但威筒」「三室村・貮挺但猟師筒」「守山村・鉄砲なし猟師貳人猪鹿を猟」「山田村・四挺・貳挺威筒・貳挺猟師筒」「野井村・四挺・貳挺威筒・貳挺猟師筒」「愛津村・壹挺但威筒」「千々石村・拾三挺・拾壹挺威筒・三挺猟師筒(ママ)」「小浜村・五挺・内三挺威筒・貳挺猟師筒」「北串山村・拾挺・内五挺威筒・五挺猟師筒」「南串山村・九挺威筒・七挺威筒・貳挺猟師筒」(島原半島史・林銑吉著)

という事を見れば、仙台、紀州、長州に比べれば、こちらの地方では鉄砲の数が少ないことが分かります。向こうみたいに大きな戦が無かったせいなのか?理由はよく分かりません。


ということで、この本、手軽に読め、「秀吉の艶書」「仮設トイレの祖・徳川光友」「二宮金次郎の離婚」「百二十五年眠っていた『平成』」「結婚と離婚の日本史」「貧乏神の研究」など興味ある事項も並んでいるので、ご一読を。



2020年4月29日 (水)

「お宝発見?」~庄屋分家屋敷調査

Img_5925

以前書いたように、古文書研究会に入って勉強をしています。入会して3年、ほとんど読めません。まあ、復習予習を全然していないので、当たり前ですが・・・

ここの庄屋さんの家は住んで継ぐ人が無く、家を解体する際、史談会の方に役立つ物があればということで、調べたら庄屋さんが書いた古文書が大量にでてきて、それを解読しているところです。


庄屋さんには分家があり、この家も住んで継ぐ人もなく解体するという事ですが、古文書があるという話しで4,5名で調査をしました。


左が母屋。外側は改修したと思われます。奥の方は深く、かなりの部屋数がありました。右が蔵。両方とも電気が止めてあり、懐中電灯を頼りに大変でした。


Img_5463 Img_5465

母屋の一階は布団などがひいてあり、こたつもそのままでしたが、かなり荒れていました。

二階に2部屋ほどあり、奥が天井裏で、物置に使った物か、お膳が大量に、衣服なども置いてありましたがボロボロ。


昔の建物だけあり、大きな梁。今の家には、こんな太い物を使ったところはありません。ここを調査。


Img_5453 Img_5452

下が母屋からの収穫品。

Img_5467

で、蔵の方ですが一階はガランとしていましたが、農具などの納屋に使っていたのか、多少農具が残っていました。

二階に登ったら天井に穴が空いていて、おっかなびっくり調べましたが、ほとんどめぼしい物はなく、帰ろうとしたら「これはなに?」と声がして、それが、一番上の写真。


なにかというと、”襖”です。襖の表が破れてしまって、下張りが飛び出ています。昔「四畳半襖の下張」なんていうのがありましたが、それとは関係なく、古文書が使われていました。


全部貼ってあるので内容がよく分かりませんでしたが、一枚だけパラリとはずれたので、読んでみると江戸時代中期の「宗門改」。

襖は、多分その時代の物ではなく、分家にも古い文書が大量にあり、後年襖の張り替えの時に使った物だと思われます。

あとなにが貼ってあるのかは、まず剥がしてみないと分かりませんが、大変な作業になると思われます。どんな文書が出てくるかのか楽しみです

NHK大河ドラマの”明智光秀”の書状などが出てくれば「お宝発見」になるのですが・・・(^o^)




2020年3月 7日 (土)

雲仙市小浜町にあった「肥前温泉災記」について

Img_20200307_0001

3月1日まで、南島原市と西南学院大学博物館連携特別展が開催されたときのチラシです。

寛永14年(1637)の島原一揆、寛政4年(1792)眉山が崩壊し津波が起こった島原大変の貴重な資料が展示され、また、この一揆、災害に伴う慰霊碑が各所に建てられていますが、その拓本も展示されていました。


今日は、このチラシに使われた絵についてです。


この絵は「肥前温泉災記」に載っている絵です。下の絵がチラシに使われているのが分かると思います。実はこの絵は色がついているのですが・・・


チラシには「『肥前温泉災記』肥前島原松平文庫蔵」となっていますが、この資料、実は小浜町(現雲仙市小浜町)にあった古文書です。これが、島原の松平文庫に所蔵された経過がほとんど知られていないので、一応記録にしておきます。


Img_20200307_0006Img_20200307_0002_20200307192701

この経過については、右の小冊子「肥前温泉災記の解説」に書かれています。なお。この小冊子には左の「肥前温泉災記」の読み下し文も付いていています。書いたのは、元小浜教育長(町村合併のため、小浜町最後の教育長になります)のT氏。

詳しく書けば長くなるので、概略を書いてみます。氏名はイニシャルのみにしてます。


T氏(以下T氏と標記)が教育長の昭和50年代後半、町内のKという食堂の経営者A氏がT氏を訪れ「肥前温泉災記」を持ってこられたそうです。T氏は小浜町の文化財だから大切にするようにと、一部コピーをされそうです(多分この頃、カラーコピーが役場に無かったのか、白黒のコピーです)。


その後、平成3年、雲仙の普賢岳に噴煙が上った頃、島原市長の代理として、島原市教育委員会社会教育係長K氏がA氏宅を訪れ、「お宅に保存されている『肥前温泉災記』は、島原市にとって重要な文化財です。是非、譲って下さいませんか」と言うことで、A氏が無償で提供されたそうです。


T氏は話を聞いて「私は『しまった。』と悔しがりました。私はA氏家の家宝として手放されないと思ったので当てがはずれてしまいました。」と書かれています。


その後、A氏の所には、当時の島原市長鐘ヶ江管一氏の感謝状と記念品が贈られたそうです。
というような経過で、現在は島原図書館の二階にある松平文庫に所蔵されています。

なお「肥前温泉災記」の最後には次のように書かれています。

天保庚子(注:天保11年・1840)年春日借覧大原氏所蔵之書
謄写 三月四十五校原本謬誤多矣他日得善本校正 濱貞彛(?)
絵図 勝之助写

となっているので、この他に「善本」が別にあることが分かります。

なお、絵図の「勝之助」については、T氏が調べられたらしく「尾崎勝之助 千八百五年~定江戸詰 十三石二人扶持」と書かれています。

Img_20200307_0004  Img_20200307_0005  

T氏は十年過ぎてから、松平文庫を訪れ「肥前温泉災記」を手に取ってみられたそうです。難しくて読めなかったそうですが、瑞穂町の郷土史家T先生を訪れた時、辞書などを紹介され、それから2年をかけ、右の「肥前温泉災記の解説」を書かれたそうです。読んでみて、大変な仕事だったことが分かります。

島原市がこの本の存在をどうして知ったのかは不明ですが、この古文書が残っていれば、雲仙市の貴重な資料になっていだろうと思えば残念な事です。



2020年2月 6日 (木)

「鳥居の数え方」~庄屋さんの古文書より

Img_20200206_0001_20200206194901

古文書研究会に入って二年。まだまだ思ったとおり読めません。

昨日、予習をしていると、赤の四角のところ「石鳥居 壱表」って書いてあるんですね。

最初は読み飛ばしましたが、途中で、あれ?鳥居の読み方は「基」ではなかったか?鳥居の数え方は「広辞苑」にも載ってないので、ネットで調べたら、やはり「基」しかありません。

この「基」という読み方古くからあったみたいで、「大鳥大明神書ー延喜22年(922)4月5日・和泉国大鳥神社流記帳『鳥居肆記〈略〉社前後各一』」(ネット「数え方単位事典」より)とあるそうですから、随分古くから使われていたと思われます。


鳥居については不明なところが多いみたいですが、呼び方として「鳥居」「鶏居」「花表」「鳥井」「花居」「華門」「華表」「鶏栖」「八宿」「華極」「天門」(「鳥居 百話百説」川口謙二・池田孝・池田政弘著」)といろいろあるようです。


さて、何故に庄屋さんが「基」ではなく「表」を使ったのか。一時、島原半島の神社を回った時、江戸期の鳥居は「石華表」と彫ったものが多く見受けられました。


辞書で「鳥居」を引けば、最後の方に「華表」と載っています。「華表」を引けば「鳥居」と載っています(安い辞書には載っていません、多分)。ということで、「石華表」は「石」で造った「鳥居」という事になります。


「華表」についてはいろいろ論議がありますが、詳しくは「鳥居の研究」(根岸榮隆著・第一書房)の「鳥居とは何か」の所を読んでください。


この文書を書いた庄屋さんの村(町)の神社の鳥居も、ご多分に漏れず、「石華表」と彫られていました。


ここからは、私的な推論ですが「基」という数え方は、当時まだ地方までは普及してなかった。庄屋さんは鳥居の数え方で「石華表」という文字を見て、「表」という字を鳥居の数え方に当てはめたのではないか。ですから、「石手水盤」「石灯籠」については単に「壱ツ」「四ツ」としか数えていません。


これが正しいかどうかは分かりませんが、庄屋さんの文書を読みながらの推理でした。古文書は読んでいくと面白いですよ。あなたも如何。




2020年1月26日 (日)

「入増盛算」を読み解く~河鍋暁斎・勝文斎合作

Photo_20200125202101Photo_20200125202201Photo_20200125202301

河鍋暁斎と勝文斎合作の「入増盛算」。恵比寿さんとお多福さんと大黒さん。縁起の良い組み合わせで、「入」も「増」も「盛」も縁起の良い言葉。「入増盛算」は「いりぞうますざん」「いりますせいざん」等、何種類かあるみたいですが、熟語としても辞書には載っていないので、確たる読み方は分かりません。明治期の作品になります。

この錦絵には調べると二種類あるみたいで、右下の作者名がこれでは「惺々暁斎」、これは河鍋暁斎のこと。もう一つは「勝文斎」と書いたのがありますが、理由は調べましたが、分かりませんでした。また、これを利用した引き札(昔のチラシ、ポスター)もあります。


書いてあるのを読むと、最初は分からなかったものの、「読み解く」まではいきませんが、多少は分かってきました。


「木材の間を 三厘」、多分、木材すなわち、木が植わっているところは「山林(さんりん)」。

「火を起こすを 七厘」、そのものズバリで、火を起こすのを「七輪(しちりん)」。「七輪」の値段が「七厘」という話もどこかで読んだ覚えがあります。
「水っぽい酒は 四圓」、「圓」は「円」の旧字。水っぽい酒では「四円(よえん・酔えん)」。
「東京は日本の 壱」、多分、東京は日本「一(いち)」という意味か?
「本因坊ハ 五」、本因坊といえば「碁」。
「女の大やくハ 三」、「三と三並んで女の大厄」は「寅さん」の「啖呵売」のでセリフ。女性の大厄は33歳で「三」と関係あり。
「富岡ハ 八万」、富岡といえば「八幡宮(はちまんぐう)」。
「寝てくらすは 壱升」、「一生(いっしょう)寝て暮らしたい」ものですが・・・・
「はな風ひきハ 八九升」、鼻風邪をひいたら「ハックション」。
「千葉周作ハ 一斗」「宮本無三四ハ(宮本武蔵?) 二斗」、千葉周作は「一刀(いっとう)流」、宮本武蔵は「二刀(にとう)流」。 

「から鉄砲ハ 五斗」とはなんでしょう?私、すでに空鉄砲になっているので、気になります。


読んで見れば、語呂合わせ、現代流にいえば「オヤジギャグ」。でも、こうやって、縁起のいい絵と組み合わせてみると面白いですね。


まだ、意味不明のところがありますが、しばらくこの錦絵で遊んでみようと思います。なお、字の読み方の間違い、解釈の誤りもあるとは思いますが、ご愛敬でお許しのほどを。なお、パソコンでは出ない字もありました。


絵はクリックすると拡大するので、皆様も意味を考えて、お楽しみのほどを。



2019年12月 3日 (火)

「決算!忠臣蔵」「『忠臣蔵』の決算書」と「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む」

Img_20191202_0001 Img_20191202_0003

映画「決算!忠臣蔵」は先週の金曜日に封切りだったみたいですが、以前書いたように、私、昔の画面が広い映画館で映画を見ていたので、最近の小さな画面の映画館では映画を見た気にもなれず、一回見に行ったきりで、多分この映画も行かないと思いますが、本は読みました。

左の本が、山本博文氏が書かれた「『忠臣蔵』の決算書」、これを元に映画が作られ、右の本が映画をノベライズした本。著者は映画監督の中村義洋氏。


もちろん、中村監督は映画を元にして書いていますから、山本氏の「忠臣蔵」を分析した本とは違いますが、中村監督の映画、本も山本氏の本を基本にしたものです。


この「忠臣蔵」、今までの「忠臣蔵」を描いた本、映画とまったく違った観点、「お金」の面から描いています。「討ち入り」にかかった経費はもちろんですが、廃藩になったとき、いくらお金が残っていたのか、藩士の割賦金(退職一時金)まで書かれています。


なお、例えば一両が現代どれくらいの金額なのかは、なかなか難しい面があり、比べる基本になるのも、米価にするか、職人の一日の手間賃にするかで違ってきているようです。この本では、当時の蕎麦一杯の値段「十六文」を現代の蕎麦の値段、大体「480円」として計算をしています(多少安いような感じもしますが、山本氏が本を書いたのが2012年だからこんなもんかな?)。


なお、底本として大石内蔵助が遺した「預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)」を中心にして書かれています。この「預置候金銀請払帳」は山本氏の本の一番後ろに載せてあります。あまり、長いものではありません。


最後の給金と退職金が「一万九千六百十九両」今の「約23億円」。これを藩士300名で割ると「約七百八十万」ほどだそうです。もちろん藩士の階級によって違いがあります。なお、大石内蔵助は受け取らなかったそうです。


「討ち入り費用総額」が「七百両」現在のお金で、「約8400万円」だったそうです。この打ち明けについては、両方の本に書かれています。


なお、中村氏の本には「古参の小野寺十内(年収千十五万)や間喜兵衛(年収四百六十二万円)」など書いてありますから、これを見ていけば、どれくらい偉かったか、下っ端だったのか等がわかり便利です。映画でも年収は画面下の方に書いてあるとの話でしたが、見ていないので不明。


さて、買ってきた本にカバーがかかっていたので、はいでみたら、下のような地味な本でした。


Img_20191202_0002 Img_20191202_0004

話変わって、たまたま「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む(編集・鬼頭勝之★発行者・舟橋武志★発行所・ブックショップ「マイタウン」)」という本を手に入れました。

「『忠義画像』は『義士四十六(ママ)傑画像由来』によれば、京都紫野の瑞光院(現在は境内に浅野長矩と赤穂義士の塔と赤穂浪士の塔と遺髪を収めた塚がある)にあった四十六の義士の終焉の正像(細川家が贈る)を写したものという。その画像は面目・毛髪少しも本人に違うところがなかった。しかし、質素かつ精密でないので、義士十七回忌(享保四年・一七一九)に当たり、討ち入り時の姿で描き、瑞光院に寄付しようとしている人がいて、この未完成の作品を写したのが本作品である、と記されている。」ということです。


パラパラとめくり4ページほどコピーしましたが、よく見ると槍、薙刀などを持った人が多く、刀を持った人は少ない。


記憶によれば、何かの本に、鉄砲が現れるまで、なんの武器で負傷したのか研究した人がいて(死亡者については当時は検死官はおらず、死屍累々を一人一人調べ記録すのは不可能)、まあ、負傷者の数と死亡者の数は比例するのかなとは思いますが、殺傷した武器として、矢、槍、薙刀、投石が多く刀は少なかったそうです。


刀は槍などがなくなった時の最終手段。また、当時は「首級を取る」といって首を切り取るためのものだそうです。余談ですが、後年に至り切り取った首をぶら下げて戦うのは不便で、耳や鼻を削いだそうです。ただ、耳は両方あるので一人打ち取って両方の耳を持ってくると2人分になるので、秀吉は朝鮮出兵のとき「人は両耳あり。鼻、すなわち一つなり。鼻を割りきて首級に変へん」という指令を出したそうです。


また、武田信玄が小荒間合戦の時に、武田方は「・・・・敵の武将は首級を、兵卒は左の耳を袋に入れて持って来い、その中身によって恩賞を与える」と激をとばしたそうです(「耳鼻削ぎの日本史★清水克之著」:なおこの本には「アイヌ間に行われし鼻削ぎの刑はこれを最後とする」という写真が載っていて、鼻削ぎがどのようなものかが分かります)。


閑話休題。

この図には鉄砲は載っていませんが、「決算書!忠臣蔵」には最後の武器調達の時、どんなに金が無かったのかが書いてありますが、鉄砲は高いので買えなかった、のではなく、暗い中、鉄砲を撃てば誰に当たるか分からない、というより、当時は火縄銃だったので、入り乱れて切り合いをしているのに、悠長に弾込めなどはできなかったのでしょう。また、鉄砲の音は大きいので近所迷惑で、騒音防止条例に違反します。

で、狭い所で切り合いするので刀は使いにくく、槍でつくほうが手っ取り早かったのだと思いますが・・・


というようなことを考えると、「弓」をもった人物もあり、使いにくいのではないかと思いますが、この弓がどのようなときに使う予定だったのかは、小説に書いてあります。


Photo_20191203181701 Photo_20191203181702

Photo_20191203184401 Photo_20191203184601

下の表が、誰がどのような武器を使ったのかの一覧で、「表門側」と「裏門側」に分かれ、持っていた「武器」のほかに、氏名、年齢、役職、石高まで書いてありました。ボケて見にくいのですが、クリックするとキチンと読めるようになります。多分。

Scan006_20191203201201

という事で、「忠臣蔵」に興味のある方は、映画を見て、中村氏の小説を読んで、本格的には山本氏の本を読むのがベターだと思います。

なお、中村氏の小説には討ち入りの様子は書かれてありません。お金が中心の物語だから。ただ、少し肩透かしを食った感じで、コミカルな討ち入りの様子も読みたかったな・・・




 

2018年5月12日 (土)

「お・て・も・と」~古文書へのお誘い

Dsc_0113

お箸ですね。

古文書を習い始めて一年、未だもって全然読めません。もっとも、予習、復習していないから、当たり前ですが。

さて、先日、食堂に入ったところ、上のようなお箸がでてきました。字を見てあれ?と思いました。良く見ると、下の写真。くずし字ですね。

一番上から「御」、次が「手」、次が少し難しく「茂」、ここまでは分かると思いますが、最後の文字「登」のくずし文字です。「登」と書いて、「『のぼ』る」。または「『登』山」の「登」で、「と」。この場合は「と」。

続けて読めば「お・て・も・と」。「お手元」、「お箸」のことです。で、なぜ「お箸」が「お手元」なのか、調べると。辞書にもハッキリ書いてありません。

最終手段でネットで「箸」を調べると、諸説あってハッキリはしません。

「お手元」は、「三省堂大辞林」に「〔食膳の手前にあることからいう〕料理屋で、箸(はし)」と言うことで、考えれば、たしかに料理が出てきたとき、一番手前(手元)にありますね。

なお、ネットで調べると、「皓星社」より「隠語大辞典」というのがあり、その中で「花柳界にて箸のことをいふ。箸は端に音が通じて縁起が悪いから、かついでお手元といつたものである」ということで、何となく納得。

さて、古文書を読むと当て字が多く、「阿そび=あそび」、以前書いた「村なく(ムラなく)」とか色々ありますが、「三くだり半からはじめる古文書入門~高木侃著」によれば「江戸時代の『ひらがな』は、同じ『ひらがな』でも1つの形だけとは決まっておらず、複数の形があったのです。『あいうえお、かきくけこ・・・・』といった50音が現在の形に決まったのは、明治33年(1900)のことでした。」

ということで、「阿そび」などと書けば、明治33年以前は○でしたが、明治33年以降は×になります。「お手元」も、今の試験で、「御手茂登」と書けば×になります。

Dsc_0115

皆さんの回りにも、良く見ると、古文書に通じる「くずし文字」が見つかるかもしれませんよ。最も「夜露死苦」はありませんが。



2018年3月27日 (火)

「山田右衛門作口書」~参考になれば・・・

Dsc_0116

以前、「山田右衛門作」について書きましたが、島原・天草一揆の資料に関しては、各藩の所有の資料が主で、一揆軍の書いた資料としては、矢文、そして、山田右衛門作の「口書」(他、いろいろな呼び方があります)しかなく、この方面に興味のある方、調べてみようという方のために、参考になる書籍の紹介をしてみたいと思います。

「口書」については、中身を読むと、違う所もあり、どれが原典かは?です。とは言っても、全部付け合わせて、読んだ分けでは無いのですが。

■「キリシタン遺物の研究」~竹村覚著

昭和39年発行、少し古い本になります。

こちらの本には、「口書」は載せてありませんが、「南蛮絵師山田右衛門作」と言うことで、右衛門作について書いてあります。

左の写真は、「山田右衛門作屋敷跡」と、下の写真、後ろの標柱には「山田右衛門作墓」と書いてありますが、著者の竹村氏は「おそらくは供養塔であろう」と書かれています。

現在は「供養塔」になっています。下の右の写真は現在の姿ですが、卍の彫り物は薄くなっています。見たところ、卍の上の所、梵語みたいなのが彫ってあるような気がするのですが、拓本を採れば分かるのですが。

建物は、島原の乱は1637~1638年ですから、多分、建て替えられたものと思いますが・・・現在は、車のガレージになっています。

Img_20180327_0001 2

下の写真は同書に載せてある、「大屋港入船図(伝山田右衛門作)」の絵画。白黒写真ですが、多分、色彩画だと思います。ただ、あくまで「伝」です。

Img_20180327_0002

■「原史料で綴る 天草島原の乱」~鶴田倉造著

1000ページを越える本で、乱が起こってからの各藩のやりとり、江戸表への書状、平戸オランダ商館長クーケルバッケルの日記(原城の一揆軍を海上から大砲で撃った人物)、城内からの矢文の文、宮本武蔵が参戦し怪我をし有馬左衛門佐(キリシタン大名有馬晴信の子・晴純・最初キリシタン後転教)に宛てた手紙等々載せてあります。

島原・天草の乱を調べるのに必読の書でしょうが、1000ページ超すとですね・・・

■「島原半島史 中巻」~林銑吉著

写真では上巻になっていますが、「島原・天草の乱」関係は「中巻」に書いてあります。

こちらの公民館図書室には、上・中・下あるはずなのですが、中巻は「島原・天草の乱」のためか、ほとんど行方不明です。

なお、この本に載っているのは、「山田右衛門佐(と書いてあるのもあります)口書写」。所有者は、有家町の郷土史家の方。これも「写」になります。

■「天草・島原天草軍記集」

あくまで「軍記集」で、一級資料とはいえませんが、「天草騒動」「天草土賊城中話」「十時三弥助書上之写」「島原記」「嶋原一揆松倉記」「嶋原天草日記」「山田右衛門作以言語記」とかがまとめて入っていて、お買い得です。

「山田右衛門作以言語記」は「山田右衛門作物語」になっており、あくまで「物語です」。

口書の方は、「天草土賊城中記」になっていますが、これは最後をみると「・・・本書無題名蓋寛永天草賊所帰歸?降山田右衛門作者之口語也」ということです。

ただ、ざっと読んだところ、「山田右衛門作以言語記」は「続々群書類聚第4巻史伝部3(オンデマンド版)」に同文が載っているので、これからの写しだと思います。

なお、
「島原記」には「山田右衛門作就御尋申上候覚」としても載っていますが、これは、「島原記録第四目録」としての中にも多少違うところはあるものの、内容的には同じものが載っていました。

Img_20180327_0003_2

というところで、本物はどれでしょう?山田右衛門作は松平信綱に江戸まで連れてこられます。多分、江戸で「口書」されたものでしょうが。

最初を読んでみると、「今度島原吉利支丹おこり候・・・・」「今度島原切支丹発申候・・・」「今度吉利支丹發候次第之儀ハ・・・」と「切支丹」が強調されています。

島原・天草一揆については、いまだにキリシタン説、百姓一揆説等々ありますが、山田右衛門作は原城内で暮らし、参加者はキリシタンだけでは無いのを知っているはずなのですが、これではハッキリ、キリシタンが原因だと断定している感じです。

なお、この後、寺請制度(後日、詳しく説明します)などが制度化され、庶民はこれに縛られていくのですが、何となく「口書」には、信綱の影が見えるのですが・
・・・・

2018年3月17日 (土)

「嶋原合戦記」について



Dsc_0203

「嶋原合戦記」の中巻、下巻で、軍記物。嶋原・天草一揆の事が書いてある版木本です。下巻に「題簽(だいせん・題名など書いた、表紙に貼ってあるある紙、「中巻」がそうです)。これが無いのと有るのでは少し価値が違います。

全巻揃いはなかなか入手できません。これが私に読めるかというと、日本語だから読めますが、くずし字辞典片手に、一日一行くらいかかるでしょう。

一揆の討伐に参加した各藩に残っている、一級の資料ではありませんが、後ろを見ると「宝永元甲申六月吉旦」と書いてあり、1704年に書かれたものだと分かります。

嶋原・天草一揆が寛永14~15年(1637~1638年)ですから、一揆終結後66年後に書かれていると言うことです。

66年というと、あの一揆ですから人々の記憶から完全に消えず、原城もまだ荒れ果てたままの姿だと思われます。

さて、この古文書を買ったのは、


Dsc_0204

絵入りで、なかなか面白く、

Dsc_0206

特に、左のページ、破れた一揆軍の打ち首が並んでいますが、一番上の首、若くて、髪が長いところを見ると、「天草四郎」でしょう。下に並んだ首は各指揮者だと思います。

Dsc_0207

先日ブログに載せた、一揆軍の唯一の生き残り、江戸初期の南蛮画家、「山田右衛門作(えもさく)」ですが、下の赤丸印のところ、ちゃんと載っております。

Dsc_0209

右衛門作は、松平信綱に江戸に連れて行かれ、その後の消息は不明で、いろいろ言われていますが、軍記物であっても、これだけ書かれてあるところをみれば、それだけ名を知られていたと言うことができると思います。



フォト
2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ