歴史

2019年9月10日 (火)

「明智光秀五百年の孤独」宮崎正弘著~重箱の隅をつつくような事でスミマセン

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来年のNHKドラマが明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」だそうです。NHKの説明では謎の前半生に光があてられるそうです。が、はやり興味あるのは信長殺害の謎でしょう。これには多種多様な説があり、Wikipediaをみても、どれが本当か分からない。

大河ドラマが明智光秀のせいか、光秀に関する小説、評論が増えてきました。事実は一つ解釈は百通り、といった感じ。
この本の著者の宮崎氏は、光秀に関わりのある土地を回って検証を重ねています。

最初に有名な「愛宕百韻」の「ときは今天が下しる五月哉」の解釈からはいりますが、この解釈は覚えている限りでは、初めて読んだ解釈になります。詳しく書くとネタバレになるので、各自読んでネ。


氏は時の歴史の把握から信長殺害について、いろんな説をなで切りにしながら謎に迫ります。ただ、この説が正しいかどうかは読者の判断によるでしょうが、ご一読を。


さて、今日はこの本に書いてある事について「重箱に隅をつつくような事で」氏が書いている本論とは、まったく関係の無いことです。


氏の本に「なにしろ本能寺の変では近衛邸の屋根から御所に弓を放ったという尾ひれのついた話も京では庶民が噂した。近衛邸から本能寺まで弓も鉄砲も届くはずはなく、近いとされる二条御所との距離は三百メートル以上、弓の射程はせいぜい五十メートルである。」との記述があり、この「距離は三百メートル以上、弓の射程はせいぜい五十メートルである。」の所。特に気になるのが「弓の射程はせいぜい五十メートルである」。


「射程」の定義をどうとらえるか、単に届く距離のことなのか、的に当てることなのかですが、「近衛邸の屋根から御所に弓を放った」と書いてあり、人を狙ったとか書いてないので、単純に届くかどうかの問題と思います。


さて、弓の競技では近的競技と遠的競技があり、近的競技は距離が28メートル、的は直径36センチ。遠的競技は距離が60メートル、的は直径1メートル。


といことは、「弓の射程はせいぜい五十メートル」ということはありません。とくに「せいぜい」ということはありません。的が直径1メートルなら、人の身長が160センチ~170センチが普通だと考えると、五十メートルは十分に的として狙える距離です。


以前、九十九間堂の弓通しの事を書きましたが、あれは軒の下の廊下に座って弓を射ちますが、距離は約120メートル。120メートルは弓を上に向けて射てば、多分ある程度練習をした方は届くと思いますが、三十三間堂には庇があり高さが4.5メートル~5.3メートル、幅が2.6メートル、ということは普通の弓では庇にあたるので、強い弓を使います。


昔、和弓で「射流し」という距離を競う競技があったそうですが、一位は300メートル飛ばしたそうです。ですから、三十三間堂に使ったような強い弓で名手が射れば300メートルは十分に届く距離でしょう。


ちなみに、今は亡くなりましたが弓をやっていた方が、数十年前、矢がどれくらい飛ぶか弓を上に向けて射ったところ、弓道場を越え隣の学校の運動場へ飛んでいき、慌てて追っかけたそうです。休日で誰もいなかったそうですが、かなりの距離です。


なお、どれくらい強いかフライパンをぶら下げ28メートルの所から射ったら、穴があいたそうです。よい子の皆さんも、悪い子の皆さんも絶対に真似をしないように。


以前、私、アーチェリーをしていましたが、90メートルの的を射ち、矢を的の所に取りに行ったところ、私の矢が一本見当たらず、隣の的の人から「この矢誰のですか」との声があり、見れば私の矢でした。とにかく、遠くを狙うのは難しい。女性のハートを狙うのより・・・



2019年8月29日 (木)

「宮本武蔵」と「オリンピック」の微妙な関係・・・

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          (宮本武蔵自画像・島田美術館蔵・熊本県指定文化財~Wikipediaより)

島原・天草の乱で宮本武蔵が参戦していたことは以前に紹介しましたが、多少調べ直しをしていたら、武蔵の書いた物に、ご存じ「五輪書」というのがあります。が、あれ?「五輪」とはなんぞやと?


「五輪」というと思い出すのが「五輪塔」。下のような物です。供養塔、墓の事です。

下から「地輪」「水倫」「火倫」「風鈴」「空倫」といい、密教に関係があり「地」「水」「火」「風」「空」という思想があるそうです(ここの説明は、難しいので自学して下さい(^^)~)。五輪塔もこれにちなむものです。
 
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                   (Wikipediaより)

宮本武蔵の「五輪書」もこれに基づき「地の巻」「水の巻」「火の巻」「風の巻」「空の巻」の五巻でなり立っています。

さて、オリンピックのシンボルマークは五大陸を表す5つの輪からなり立っています。
日本の場合、オリンピックを「五輪」と表現することがあります、「五輪音頭」「五輪代表選手」「五輪選考会」等々。


で、Wikipedia「近代オリンピック」の項を読んでいると下のような記事がありました。



五輪は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵『五輪書』の書名を由来として、読売新聞記者の川本信正が1936年に考案した訳語である。本人は「以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著『五輪書』を思い出し、とっさに『五輪』とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた」と述べている。



このことは、読売新聞2013年9月12日付け新聞の記事「オリンピックを『五輪』と呼ぶのはなぜですか。また、『パラリンピック』とはどういうどういう意味ですか。」という所に載せてあるそうです。


ということで、「オリンピック」と「宮本武蔵」微妙な所で関係があったといえるような・・・・



2019年8月18日 (日)

第116回「なつぞら」~「商売〼〼繁盛」について

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なっちゃんの後ろの貼り紙「商売〼〼繁盛」と書いてあります。「〼」は「枡」を記号化したもので「ます」と読みます。ですから、貼り紙の文字は「商売ますます(益々)繁盛」と読みます。言葉遊びの一種です。
そのほか「空き家あり〼(ます)」「冷やし中華あり〼」などと使い、多分皆様も、あちらこちらで見かけることがあると思います。
ただですね、「〼タ●ー●●ン」などと使わぬように。ここ、分かる方は分かるし、分からない方は分からないと思いますが・・・・

さて、ここで若干問題があります、枡は「☐」で良いのではないか、「☐」の中の斜線はなんなのさ?という事です。


ウィキペディアで「〼」を調べると下記のように書いてあります。


・・・この用例は(注:〼を「ます」と読むこと)は江戸時代にかなり多かったが現代になってからは使用頻度は少なくなった・・・


下は私が所持している尾張藩の一升枡です。明治から現代まで150年あまり、と考えるとそれ以前の物だと分かります。もちろん、江戸時代のものです。


ご覧のように斜めに金具が入っているのが分かります。これで「商売ますます繁盛」は「商売☐☐繁盛」ではなく、「商売〼〼繁盛」という事が分かると思います。江戸時代の「〼」の記号をいまでも使っているという事です。


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この斜めの棒は「弦鉄」といい、米を計るとき上を平らにするため、「斗掻き(とかき)」「枡掻き(ますかき)」「枡掛き」という木の棒を使いますが、この時、掻きやすいように取り付けられたものだそうです。


小泉袈裟勝氏は「ものと人間の文化史36 枡(ます)」(法制大学出版局刊)で弦鉄の使用について疑問を書いておられます。詳しく書けば長々なるので、「枡」について研究されたい方は一読のほどを。この弦鉄がある枡を「つるかけ」「つるかけます」といいます。


さて、この私の尾張藩の枡と同じ尾張藩の枡が「東洋計量史資料館」置いてあり(ただし「弦鉄無し」)、以下のような説明になっています。


「資料名・品名★新京枡(徳川家康・尾張藩)」「年代★江戸時代」「収集者★東洋計器(株)土屋泰秀)「製造元・国★日本(名古屋)」「サイズ★口広:四寸九分 底深:二寸七分」「用途★米(年貢)」「要旨★徳川家康が定めた公定枡の規格で造られた尾張藩の焼印があり新京枡。京枡より約3%多く入れられるよう作られている」。これも一升枡です。

なお、枡は大きさをごまかされない様に「枡改」をしています。


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上の写真、左が尾張藩の焼き印、右は中の方まで焼き印が押してありますが、これは中に貼りものなどして、容量の不正を防ぐため。年貢などのときにごまかされないための予防。

下の左の写真、底板とその上の板に契印みたいに焼き印を押していますが、これも枡の改造防止のためでしょう。

下の右の写真、底の焼き印ですが、枡の大きさを焼き印しています。写真では分かりにくいですが「四寸九分」「二寸七分」。一升枡の大きさです。真ん中の丸いのは多分「穀用」ではないかと思われます。なお、「液用」の枡もありました。酒とか油などを計ります。大きさが「四寸九分」「二寸七分」で「東洋計量史資料館」に置いてあるものと同じ大きさですから、「新京枡」になります。

なお、島原半島の南串馬場庄屋の古文書に「枡改」の所に「弐寸七分 壱升」などの文字も記されてありますから、島原藩もこの「新京枡」を使ったことが分かります。

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枡については最初からこの大きさではなく、信長時代、豊臣時代、徳川時代と段々統一され、最終的にはこの新京枡が公認の枡になっています。

なお、江戸時代に京都と江戸で枡を専売した機関として「枡座」がありますが、東国は「樽屋」、西国は「福井家」。この両家で枡を造り枡改めを実施しますが、枡の製造を自藩で行うところもあり、枡座の完全な製造・販売の独占体制は不可能であったようです。越後高田藩、紀州藩などが藩は独自に枡を作っていたそうです。


下の写真は京都市が行った「福井家旧蔵 京枡座関係資料調査報告書」の中の1ページです。「弦鉄」のない枡もありますが、このように「弦鉄」が使われたものがたくさん載せてありました。


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枡については上に紹介した、小泉袈裟勝氏の「枡(ます)」と京都市の報告書を参考にしましたが、興味のある方はご一読を。小泉袈裟勝氏の本は少し大きな図書館にあると思いますが、京都市の報告書は入手しにくく、京都の図書館あたりには置いてあると思うのですが・・・

以上、長々と書きましたが、私自身も消化できないところもあり、分かりにくかったかと思います。「なつぞら」の「商売〼〼繁盛」を見て、以前調べていたものを思い出したので・・・<(_ _)>



2019年7月12日 (金)

「えんがわ・一畳の展示館」第二弾!!★島原・天草の乱絵図と軍記類の展示

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前にも書きましたが、ゆで野菜のマルニさんが、加工場の開き部屋を解放して、「えんがわ」ということで、地域の人が自由に使えるようにしておられるので、一畳ほどの展示ケースを作り、場所をお借りして、いろいろと展示することにしています。


第一弾は、千々石の古絵はがきを展示しましたが、時々行ってみると高齢者の方が懐かしそう見ておられました。


第二弾は「島原・天草の乱絵図と軍記類の展示」です。

島原市、南島原市には結構資料があり、世界登録遺産とやらで盛り上がっているのですが、雲仙市には(個人所有は分かりませんが)何もなく、なんとなく寂しくもあり、それで「島原・天草の乱」を選んでみました。といっても、わずか一畳ですから展示の限界もありというところですが・・・


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目玉が島原・天草の乱の原城攻めの陣図。そして、チラシ右側の、月岡芳年作「天草四郎」の錦絵(紙がもろくなっているのでコピーにて展示)。明治初期の作品です。

普通、天草四郎といえばマントを羽織ったりした美少年が描かれるのですが、これは、全くの武将の姿。


乱後約230年、しかも江戸と遠く離れた島原半島で乱を起こした天草四郎が長い年月、人々に語り続けられ、英雄として見られていたのかが感じられます。マントを羽織った少年のイメージと比較すれば面白いですね。なぜ、芳年がこのような姿を描いたのか、興味深い事です(紙がもろくなっているのでコピーにて展示)。


なお、ほかにも珍しい絵入り軍記もあります。

島原・天草の乱を勉強したい方のために参考図書も置いていますので、えんがわ内にてご覧下さい。


八代市立博物館の図録「天草・島原の乱~徳川幕府を震撼させた120日」には、乱に参加した宮本武蔵(もちろん、幕府方です)のその折りの書状の写真などものっています。

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「えんがわ」は千々石郵便局のすぐ近くで、郵便局から雲仙の方を見ると、すぐ近くに看板・旗が見えます。展示は9月末までを考えています。


なお、ゆで野菜の直売もしており、料理の手間が省けますから便利です。一度お試しを。



2018年12月21日 (金)

「高札」の取扱について

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昨年7月30日に、この高札「『キリシタン禁制』の高札」と言うことで、書きました。

昨日、M村の庄屋日記を読んでいると、(私は他人が読んでいるのを聞くだけですが・・・・)

「出火」の時にどうするか書いてあり


一 出火ノ折者(は)御高札場郷蔵(年貢米の一時保管倉)付近辺堅ク相守(あいまもり)其余ハ庄屋元へ懸付(かけつけ)火防き可申候・・・

と言うことで、一番先に守るのは、高札と郷蔵であり、高札がいかに大事にされていたかが分かります。

この高札は正徳元年ですから307年前になりますが、字があまりにも新しく、このことについては以前書きましたが、
「江戸時代のお触れ(藤井穰治著)」によると

高札は「・・・・年号の変わるたびに高札が書き改められ(中略)また文字の見えないものは書き改めることを命じることによって、キリシタン高札は大名領内にも幕府・公儀の高札として定着した。」と書いてあり、書き直されたことも大いにあるわけです。

このことについては、島原藩飛び地領が豊前豊後国境にあり、島原半島では三万八千石、飛び地領で二万七千六百石、合わせて六万五千九百石余りになります。

この、飛び地領の橋津組大庄屋・本多政辰により政務のため編纂された「執睨録」に高札について以下の文章が見られました。


●御高札御墨入願之事

 (略)

「右村々御高札場、風受強、其上木陰二御座候故、打雨ニ文字薄相成、難相分御座候間、何卒御墨入被成下候様出申候、此段相叶候様、宜被仰上可被下候、以上。」と言うことで、御代官宛に橋津左源太(庄屋)から願い出が出ています。

要するに、高札が雨風等にさらされ、文字が薄くなり、見やすいように墨入れをして良いかということを、奉行の許可をもらう願いです。

これらを読むと、高札がいかに大切だったものかということがよく分かります。現代の自治会の掲示版とはダンチですね。


参考:
「M村庄屋日記」「江戸時代のお触れ(藤井穰治)」「執睨録(別府大学附属博物館)」






2018年8月 1日 (水)

「慶巌寺の山門」について~長崎県諫早市

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先日、お箏の六段と慶巌寺のことを書きましたが、ふと思い出したことがあるので。実は、この山門、このお寺を作った時に作ったのではありません。

下は諌早神社(旧名・四面宮)。じつは、この山門はここにあったのです。

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行って見たら、神社に向かって左側、神社の老朽化のため建て直しみたいで、右側には立派な庭園があったそうですが、それも復元するようです。

この新神社を建てるところ、以前は空き地でした。明治2年の神社明細帳調をみると、何か建物があるような図面でした。

諌早神社の由来が書いた看板がありましたが、赤線のところ、「明治時代の神仏判然令により、並祀していた荘厳寺は分離されることとなり、本尊などは近くの寺院に移設。その際に、社名を四面宮(注:しめんぐう)から『諌早神社』と改称した。」ということで、諌早神社の中に荘厳寺が並祀されていたことが分かります。

「諌早を歩く~山口八郎著」には「明治元年の神仏分離令によって、荘厳寺は廃され、本尊の阿弥陀三尊像は安勝寺に、総ケヤキ造りの山門は慶巌寺に、お寺の什器類は、行基ゆかりの竹崎観音寺に移されました。寺の境内にあった諸石仏は、𡧃都墓地の入り口に移し並べてあります。」と書いてあります。

なお、四面宮の本社は雲仙の温泉神社。四面宮は、千々石、吾妻町、有家町、そしてここ、諌早神社が四面宮ですが、現在、諌早以外は「温泉神社」と改名をしています。

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こちらは、山門を裏から見たところ。

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下は、旧諫早市郷土館の「解説シート(歴史編)」に載っている慶厳寺の説明です。

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この荘厳寺の山門については「高城の史蹟~山口祐造著・諌早高城会発行」に詳しく書いてあり、要略すると、荘厳寺は諌早家の始祖龍造寺家晴公が入部して四面宮の神殿、拝殿を改築し、さらに祈祷寺として荘厳寺を建立したので荘厳寺は四面宮の神宮寺となり、家晴公は寺領米として、毎年二十七石を給したそうです。

前に書いたように荘厳寺は解体されますが、山門だけは残っていて、山門だけ残しているのも不自然だということで、山門も壊そうとしたところ、慶厳寺でこのことを聞き、話し合い、慶厳寺へ解体移築したのが、明治27年11月。

両側の仁王像を解体修理したところ、「延宝三年(1675年)、京都柳馬場二条上寺町、大仏師法橋康祐作」と墨書いてあったそうです。

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良い木鼻ですね。

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両脇の欄間彫刻は浜辺の老松と打寄せる波を象り、日本様式。楼門の柱は丸柱で、禅寺の四角柱のような雄々しさはなく、優しい風情を湛えているそうです。

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どうにもわからないのが、山門の入り口のすぐ上の彫り物。

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上側は諌早家の家紋「上り藤」。下が、お猿さんみたいなのですが、なにか意味があるのでしょうが、調べましたが分かりませんでした。

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慶厳寺の駐車場には磨崖仏が彫ってありますが、ひょっと見ると数字が彫ってあって、「32.7,25」。何だろうと、思ったら、昭和32年の諌早大水害の日。
死者、行方不明539名、負傷者1,476名、家屋破損2,221戸・・・被害総額、当時約87億円(現時点に換算すると415億円)

随分高いところに書いてあって多分、水害時の水位が刻んであるのでしょう。災害の大きさが分かります。

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お世話になった本
「高城の史蹟~山口祐造著・高城会発行」「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 諌早~諌早史談会編著者」「諌早を歩く~山口八郎著」「諌早史談~田中為市著」「諌早郷土館開設シート(歴史編)」「諌早市史~昭和33年発行」



2018年7月30日 (月)

「深溝世紀」に見る潜伏キリシタン

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「深溝世紀」。「ふこうずせいき」と読みます。

で、これが何かというと、「深溝世紀 現代語訳 巻四 孝公(家忠)編 上 島原図書館・郷土史を学ぶ会」の「『深溝世紀』解題」として、郷土史家の松尾卓次先生が次のように書かれています。

「藩政奉還によって島原藩が消滅することになったので、歴代藩主の業績や藩内外の出来事をまとめて、後世へ伝えることにした。
そこで島原藩庁は明治三年に編集局を設置して、藩校稽古館教授・渡部政弼(太平)を主任に選び、その編集事業にとりかかった。藩日記や家譜など書記録を元に作業を進め、家中にも呼び掛けて旧記の提出を求めるなど精力的に務め、明治五,六ごろには一応終了している。島原藩主はかって深溝松平氏と称していたことから、書名を「深溝世紀」となずけた。」という事で、全二五巻、一五冊にまとめられています。

上は「深溝世紀 巻十七巻 靖公」。「靖公」は「松平忠憑(ただより)」。明和八年~文政二年(1771~1819年)。

キリシタンは、江戸時代に密かにキリスト教を信仰する人を「潜伏キリシタン」。明治になり、信仰が自由になり、教会に戻れるものを祖先からの教えで、自分たちだけでキリシタン信仰を守っている方を、立場によって違いますが、「かくれキリシタン」「隠れキリシタン」といいます。

禁教時代、隠れてキリスト教を信仰し、バレた場合は、一般的に拷問、死罪など思い出すのですが、上の本を読んでいると、次のような記述がありました。

原文は漢文ですが、読み下し文に直してあります。

「天草郡大江等三村の民(餘の二村の名は不詳)密かに天主教(注:キリスト教)を奉ず。幕府公事方勘定奉行(松平兵庫頭)をして命を伝えて之を検治せしむ。公(注:松平忠憑)即ち吏を遣わして其の民を捕まえて糾明せしむ。皆曰く、『我が輩は祖考の遺言に遵いて之を奉ずるのみ。敢て他心あるに有るに非ざるなり』と。公其の愚昧にして法禁を犯すを憐み、其の状を上申するに寛典を乞う。之を聴(ゆる)す。因って其の祭る所の天守像を収め、各々をして改心して旦那寺の宗法を守らしめ、更めて影踏(注:踏み絵)を命じて復た其の罪を問わず。

ということで、潜伏キリシタンにも関わらず、祖先からの遺言で、それを守って他心はない。という事で、これを「憐み」、天守像(キリストの像)を捨て、旦那寺(キリシタンで無いという証拠に、各寺に属し、家族全員の名前、年齢を地方によって違いますが、「宗門改帳」に書き、また、普通、年一回、踏み絵をします)に属し、改めて踏み絵をし、その罪を問わなかった。ということで、こんなこともあるのだなと、改めて感じた次第です。

ただ、転びキリシタンの場合は誓詞に血判を押させ、キリシタン切支丹類族帳に記載され、男性は6代(7代と記されているものもあり)、女性の場合は3代まで監視され、年2回の届け出、踏み絵が義務づけられ、転びキリシタン当人は、火葬されていたのですが、そこまで許されたのかどうか、この文章だけでは判断がつきませんでした。



2018年7月23日 (月)

歴史は漫画で!~「鍋島直正★佐賀県編著・太神美香漫画」「逆説の日本史★井沢元彦著・千葉きよかず漫画」

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以前に書いたように、「歴史は漫画で」ですね。

とにかく暑いので、最近は文字より漫画ばかりで読んでいますが、すこしボケ気味か前のページは、まったく忘れてしまっている状態。

さて、「鍋島正直」は、第10代目肥前佐賀藩主。佐賀県といえば何となく「ジミ」という感じがします。「はなわ」さん(生まれは埼玉県→千葉県→佐賀県ですが、佐賀出身を名乗っています)、吉野ヶ里、陶磁器、サガン鳥栖、虹の松原、秀吉が築城した名護屋城、バルーンフェスタ、私が以前お世話になった嬉野温泉と思い出すままに書けば、いろいろありますがやはり「ジミ」という感じは拭えません。

実は佐賀県の事は以前調べて、意外と思っているのとは違うなとは思っていたのですが、この本を読んで認識を新たにしました。

幕末、明治の著名人として、大隈重信、外交官の副島種臣、日本赤十字の産みの親の佐野常民、近代法制度の基礎を作った江藤新平、初代文部卿の大木喬任がいます。特筆べきは、島義勇。なんと「北海道開拓の父」と呼ばれているそうです。

後書きによれば、「日本の産業革命は佐賀から始まった」ということで、「日本初の実用蒸気汽船は佐賀藩が作った」など、医学面なども先進地だったそうです。

この佐賀藩が表に出なかったのは、「直正が確立した佐賀藩の軍事力は、あくまで国防のためのものであり、直正は内戦に使用することにはためらいがあった。」「当時、大政奉還までの佐賀藩は、尊皇攘夷派とも公武合体派とも手を組まず、中立をたもっていた。よって、倒幕という括りでは薩摩、長州、土佐のように有名人がいない。」ということで、佐賀はなんとなく「ジミ」という感じがするのでしょうが、中身は先進地だということが分かる一冊です。

「逆説の日本史」は、週間ポスト連載で1192回になります。伊沢氏のものは時々は読んで、面白いとは思っていたのですが、なにせ既に数十巻でているので、いまさらとは思っていたのですが、こんど、コミック版が出ていたので読んだら、よく分かりました。

信長、秀吉、家康の絡みについて書いてあります。氏は歴史学者と少し視点が違っています。

しかしですね、現在、歴史の見直しがされており、鎌倉幕府は1192年ではなく、聖徳太子はいなかったとか、教科書の中身も随分変わってきているみたいです。歴史学者も間違いはあるものです。

本を読んで、秀吉がなぜ朝鮮遠征を行ったか、こうして見るとよく分かり、歴史学者の視点とは少し違っています。どう違っているかは、営業妨害になるので書きませんが、興味のある方は読んで見て下さい。

以上二冊、漫画とは思えない歴史本で、これ、学校の教材として使えば、歴史の好きな子供が増えるとは思うのですが。歴史は漫画で勉強しましょう。




2018年7月10日 (火)

長崎市「思案橋」★古写真より


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「行こうか 戻ろか 思案橋 ちょいと行って 思い切り橋」、だったかな?思案橋を渡ったところに、遊廓の丸山がありました。多分、写真の手前の方角が丸山かな?

先日、書いたように、古写真、古絵はがきを故あって集めていますが、上の写真が手に入りました。思案橋の写真です。

橋の赤丸印「志あんばし」と書いてあります。上の赤丸印「電車のりば」とあります。青い丸印は「食」「思」と書いてあります。


電車は「正覚寺下」まで続いているのですが、どこにも、その気配はなく、あれ?と思っていたのですが・・・


下の図と写真は「長崎事典・風俗文化」に載っていて、左は「大正時代の思案橋」、右は「上記(左の絵のことです)の前身、思案橋終点の建物」とあり、調べたら、大正10年・西浜町~思案橋間開通、とあり、この先、正覚寺まで電車が延びるのは昭和43年、「思案橋~正覚寺下開通」になっています。


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       (長崎文献社刊「長崎事典・風俗文化編」より)

下は「東宮御成婚記念」の「日本交通分縣地図」を切り取ったものですが、大正13年4月10日のものです。

黄色の矢印、線に小さな丸印がありますが、電車の軌道です。白い丸印が遊廓の「丸山」。わざわざ「遊廓」とまで書いてあります。で、緑の矢印が「思案橋」の停留所、停留所の所に川が流れているのがわかります。ここに架かっていたのが「思案橋」(少し上の方かな?橋が見えます)。

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下は、ウィキペデアから拾った写真ですが、赤丸に「電車のりば」の看板。緑の丸印「思」「案」「食」の字。停留所の二階には食堂があり、モダンな建物だったそうで、名前は多分「思案橋食堂」ではないかと推察する次第です。

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    (「ウィキペデア」より)

と言うことで、思案橋・丸山方面には若い頃お世話になりましたが、最近は活気が無くなったとか。

私が小さい頃、時々通りましたが、昔は朝から行くと、ゲロばかりで、昔は酒を楽しむと言うより、ベロベロに酔いたいという時代でした。


現在の「思案橋電停」です。

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            (「Google Earth」より)


2018年5月26日 (土)

「島原藩 江戸屋敷」はどこだ?~古地図って面白い!

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(「横浜開港資料館編 F・ベアト写真集 1 幕末日本の風景と人々」より)

島原藩中屋敷が慶応大学の一部になっている、ということは以前から聞いてはいたのですが、それなら、上屋敷と下屋敷はどこなのさ、と思っていたら、下の「寛正 新刻 毎月改正」という地図を手に入れました。1789年、今から約200年以上のものになります。
この地図で、場所を探そうとしても、昔のくずし字で細かいところはとても無理。

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ということで、元禄九年𦾔版、萬延元年新版のレプリカの地図を手に入れたら、断然見やすく、こちらを利用。

矢印の赤が江戸城、右へ行って上屋敷、中屋敷、下屋敷。見ての通り、段々、お城からは遠ざかります。

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あと、島原市発行の、島原藩正史の「深溝世紀(ふこうずせいき)」。島原藩は松平家ですが、松平家といっても色々あり、島原藩は「深溝松平家」になります。

島原藩松平家は前期と後期になりますが、後期は最初の忠恕(ただひろ)公の官位が「従五位下  大和守」ですが、後は「従五位下 主殿頭(とのものかみ)」になります。

その「深溝世紀 巻二十一 紹公 巻二十二 哀公」の最後の頁に載っていた、切絵図。これは、「(株)人文社刊 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』」より、転載されたものだそうですが、大変助かりましたが、部分の絵図なので、江戸全体から見るとどこなのか、これには苦労しました。

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上屋敷です。「重ね扇」は島原藩松平家の家紋。矢印は「数寄屋橋」のように読めましたが自信はありません。

意外と江戸城に近いですね。江戸城の近くには親藩、譜代大名などを配置。見ていくと「松平」が多いのですが、徳川家康も以前は「松平」を名乗っています。

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中屋敷です。「松平主殿」が分かると思います。

なお、一番上の写真、右手の長い塀が「中屋敷」。政府に接収された後、慶応義塾に払い下げられ、現在の三田キャンパスになります。

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萬延の地図でみると「松平とのも」が分かると思います。矢印は「つなさか(綱坂)」。「渡辺綱」がこのあたりで生まれたそうです。「渡辺綱」は→こちらを参照

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一番苦労したのが下屋敷。「切絵図」と比較しましたが、多少違ったところもあり、といっても、地図の年代が違い、江戸には火事が多かったというのが原因かな?

回りの、「細川越中」とか「森伊豆」を目印に探しました。現目黒一丁目。私の彼女が住んでいたあたりです。

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さて、上屋敷、下屋敷の写真を探しましたが残念でした。

なお、上屋敷は明治大学の前身明治法律大学が、明治14年に上屋敷で開校をしております。丸印が「明治大学発祥の地」。矢印が「数寄屋橋
。GoogleEarthから借用しました。

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見ていくと面白いもので「吉田神道ヤシキ」。吉田神道は昔からありましたから分かりますが、「修ケンヤシキ」って何でしょう?多分「修験道者」の屋敷でしょうが・・・

右の地図「泉岳寺」。泉岳寺といえば四十七士の墓所があるところ。下の方、ルーペで見ると「義士墓」のような感じに読めました。

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と、三日ばかりかかって、ルーペ片手に地図を読んでいきましたが、その他、いろいろ気づきがあって面白いものでした。皆様も機会がありましたら、見て下さい。





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