歴史

2020年7月 4日 (土)

二つの「千々石橋」~雲仙市千々石町

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某日、下の白黒の葉書を手に入れ、私、地場産ではないため、千々石生まれ、千々石育ちの、昔美人だったと思われる方に「これ、千々石橋?」と聞いたら「千々石橋は国道にある方でしょう」とのご返事。

上の写真、向こう側が国道にある橋。昔、雲仙鉄道が走っていた所です。手前の橋は、島原街道の道で、島原から田代原を通り千々石を通り森山町唐比に到る街道にかかっています。


一応、橋の名前を見てみると、上の国道の橋、「千々石橋」「竣工 昭和29年7月」。


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島原街道に架かる橋「千々石橋」「竣工 平成7年7月」。

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ということで、おかしいじゃありませんか。同じ町内に同じ橋の名前。

困るでしょう、「千々石橋の所で待っているよ」と約束をし、彼女が国道の橋、彼氏が旧街道の橋。すれ違いで「君の名は」(古いな~)の悲劇になるじゃないですか。もっとも、今は携帯があるので大丈夫でしょうが。私も、若いときに携帯があったら、もっと違う人生になっていたかなと、橋のたもとで思いました。

ということで、少し調べました。


下の左の写真は千々石町の”老人クラブ連合会”で作った「千々石町 懐かしいふるさと写真集」(平成4年刊)。説明には「大正12年 千々石橋渡り初め式(先頭は椿山家)」となっています。現在の橋は右の写真になり、架け替えたことは一目瞭然。


で、「千々石町郷土誌」(平成10年刊)によれば、「千々石橋」と「新千々石橋」の記載があり・・・


「千々石橋」、架設年月が昭和29年1月。即ち、国道に架かっている橋。

「新千々石橋」同じく平成7年8月(ママ)。街道に架かる橋。(多分、橋に書いてある7月が正解なのではないかと思うのですが・・・)。これでなんとなく納得?。

当然、「新千々石橋」が先に架かっているので「千々石橋」。国道筋が新しいので「新千々石橋」ではないかと思うのですが、理由は分かりません。


下の地図は「明治33年測図及び則図の縮尺昭和17年第2回修正則図及び及び修正則図の縮図同25年応急修正」です。

千々石橋あたりを拡大しました。


千々石町郷土誌には「大正12年温泉軽便鉄道(千々石~愛野)開通」。「大正15年 小浜鉄道(千々石~北村)開通」(ここら辺、多少の疑問あり)。となっており、温泉軽便鉄道の千々石駅は国道の「千々石橋」の愛野寄りにあり、小浜鉄道が着工されるまでは、国道の鉄橋はありません。

国道は雲仙鉄道(昭和8年温泉軽便鉄道と小浜鉄道が合併)が廃止されたのが昭和13年ですから、この後、鉄路が道路になり、鉄橋が橋になったのではないかと思われます。


地図の赤丸、上が国道の「千々石橋」。下の赤丸が街道の「千々石橋」。茶色の矢印が「国道」。緑の道路は片側が実線、片側が点線なので、「道幅2米以上の町村道」ですから昭和25年頃には、国道と町村道が混在していたことが分かります。 


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左が大正12年の橋の渡り初め。右が現在の橋。作り替えたのが分かります。

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下の絵葉書は時代が分かりませんが、裏をみたら英語で走り書きがありました。

この風景、千々石橋の近くにしかありません。大正12年の橋とは違うことが分かります。特に橋脚の所、木で作ったものだと思われます。上の方は木製なのか、土を固めたものかは分かりません。


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下は旧家から出てきた絵葉書で、年賀葉書に使っていて「明治41年1月1日」の日付があります。「千々石川畔ノ松並木」とありますから、この風景、千々石橋の近くだと思われます。

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現在の千々石川、橋の上から撮りましたが、松の様子など見ると、今も同じですね。

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明治42年の絵葉書、赤丸の所、何やら橋みたいなので拡大してみました。赤丸の所なんとなく、橋脚みたいな感じです。

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さて、問題なのがこの「千々石橋」という名称。

明治12年の「千々石村村史」には、「中島橋」「上町橋」「金谷下ノ橋」「同上ノ橋」「大門橋」との記載があり、後者の4つの橋は全然該当地区でなく、ただ、「中島橋」に「木造三等道ニ属ス 村ノ西北千々石川ノ下流二架ス 長九間幅壱丈水ノ深四尺海潮橋下に到ル」との記載があり、また、「千々石史談第三号」に郷土史家関良孝氏の書かれたものには、明治12年の千々石村村史を引用しながら「中島橋(千々石橋のこと・・・」との記載があり、「中島橋」が「千々石橋」であったかと思われます。なお、この橋は海からそう遠くないところにあり、「・・海潮橋下二到ル」とはピッタリします。


なお、「中島橋」の名称については、この川は「中島」という地区も通っており、「中島橋」というのも、うなずけるところです。

ということで、この橋は架け替えがあるとはいえ、明治12年には存在していたことが分かります。

「島原藩主 長崎監視の道」(島原殿さん道の会刊)に「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房を召して『長崎の事務を監察せよ』と命じました。忠房は参観の前後、長崎を巡視して直接その詳細を将軍に報告していました。」と書いてあり、この本の地図を見れば、松平忠房公はこの道を通っていたと思われます。

お殿様を駕籠から下ろし、川を渡らせるとは考えにくく、多分、江戸時代から橋があったのではないかと想像するのですが・・・

今日は多少お疲れ気味で、乱文でしたm(_ _)m。



2020年6月26日 (金)

「江戸の備忘録」★磯田道史著より~「家康の庭訓」「江戸の鉄砲管理」

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磯田道史氏は「武士の家計簿」で有名になり、映画化もされました。古文書に書いてある事を、分かりやすく解説している本が多数あります。

この「江戸の備忘録」は朝日新聞の土曜版に連載された文章を基にしたものだそうです。ですから、一つ一つのトピックスは2~3ページほどで、読みやすいものになっています。


ただし、磯谷氏の後書きによれば「歴史のトピックスを、一見、何の脈絡もなく、ならべたようなように見えるかもしれないが、そうではない。広く深く、日本史を見渡せるような、いってみれば『歴史の肝』になる話しだけを、かなり厳しい目で選んだつもりである。表面上は、楽しく選んでいるが、日本史の重要人物や決定的要素を、意識的に選んで書き込んである。」という本です。60のトピックが並んでいます。


さて、全部は紹介できないので、徳川家康さんの話しと、少し気になるところがあるので・・・


「家康の庭訓」(注;庭訓は親が子どもに教える教訓)。少しばかりまとめて書きます。


家康は自分の子どもに泳ぎを学ばせていたそうです。「天下の主たりとても、常々熟練せでかなわざるは、騎馬と水泳なり」(東照宮御実紀附録)。


騎馬と水泳、「この二つは人に代はらしむる事のならわざるものなり」。〈戦は常に勝つとは限らない。負け戦もある。負け戦になると、どんな偉い大将でも馬に乗り、泳いで逃げなくてはならない。しかし、こればかりは、家臣に代わってもらうわけにはいかない。だから、乗馬と水泳教育は絶対必要だというのである。〉ということだそうです。

剣術教育には冷淡で、「大将のつとめは、逃げること」。「天下のぬしたるもの、大名などは必ずしも自ら手を下して人をきるにおよばす。」〈もし敵に出会ったら家来が討つべきで、将軍や大名に剣の修行は『いらぬ』と言った。〉と言うことだそうです。

確かに、負け戦の時、大将が剣を取ってチャンバラをして討ち取られたら、それで、ジエンドですが、逃げ延びれば再興の機会もあると。


三代目・家光、水戸黄門さんも、わずか十二歳で江戸の〈浅草川〉を何度も泳いで往復したそうです。家康の孫、尾張藩二代目・徳川光友も泳ぎが上手く、「五つ六つの御時より勝川・谷田川へ毎日出て泳いだ。」そうです。なお、その時の「お弁当は焼食に香の物、焼味噌ばかり」であったそうです。


「江戸の鉄砲管理」


「生類をめぐる政治」(塚本学)には次のように書いてあるそうです。


「豊臣秀吉の刀狩り後にも、江戸時代の民衆は大量の鉄砲を保有、武士よりたくさん持っていた。仙台藩に四千丁、紀州藩に八千丁、長州藩では四千丁が民間にあったという。この三藩で当時の国内人口の二十分の一だったことから、全国では数十万丁の鉄砲があったのは確実である。」もちろん、各藩では「鉄砲改」めなどをしています。


さて、島原藩の各村にはどれくらいあったのかと思い調べました。これには島原藩が各村を調べた「島原大概様子書」があり、男女の数、馬牛の頭数、暮らし向き、石高、寺社、古跡等々の事がかいてありますが、宝永四年に完成、その後たびたび改正されています。これに、各村の鉄砲の数が書いてあり、文政六年改で現雲仙市だけ見ると・・


「土黒村・鉄砲拾挺(内威筒七挺・猟師筒七挺)」(以下、”
鉄砲”は略。威筒は威鉄砲で害獣を追い払うための空砲)「西郷村・拾三挺・威筒八挺・猟師筒五挺」「伊古村・記載なし」「伊福村・三挺但威筒」「三室村・貮挺但猟師筒」「守山村・鉄砲なし猟師貳人猪鹿を猟」「山田村・四挺・貳挺威筒・貳挺猟師筒」「野井村・四挺・貳挺威筒・貳挺猟師筒」「愛津村・壹挺但威筒」「千々石村・拾三挺・拾壹挺威筒・三挺猟師筒(ママ)」「小浜村・五挺・内三挺威筒・貳挺猟師筒」「北串山村・拾挺・内五挺威筒・五挺猟師筒」「南串山村・九挺威筒・七挺威筒・貳挺猟師筒」(島原半島史・林銑吉著)

という事を見れば、仙台、紀州、長州に比べれば、こちらの地方では鉄砲の数が少ないことが分かります。向こうみたいに大きな戦が無かったせいなのか?理由はよく分かりません。


ということで、この本、手軽に読め、「秀吉の艶書」「仮設トイレの祖・徳川光友」「二宮金次郎の離婚」「百二十五年眠っていた『平成』」「結婚と離婚の日本史」「貧乏神の研究」など興味ある事項も並んでいるので、ご一読を。



2020年5月 1日 (金)

「上り坂 下り坂 まさか」~映画「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています」

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今、TVドラマの「相棒」を最初から見ています。ところがですね、昨日お店にいったら、DVD、CDコーナがロックアウト。コロナのせいですね。

で、前から気になっていた「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。」をAmazonのPrime Videoでみました。私、会員なのでロハです。


この映画のなかで「上り坂 下り坂 まさか」というセリフがあり、洒落たセリフだなと思いネットで調べたら、結婚式の挨拶や有名な方も使っているみたいです。


誰が言った言葉か調べてみると、毛利元就が「厳島合戦」の時使ったというブロブがあり→こちらをクリック、またNHK大河ドラマ「毛利元就」(脚本・永井路子。第41回 厳島奇襲)にも使われらしく→こちらをクリック、永井路子さんには「山霧~毛利元就の妻」という作品があり、多分こちらに出ているのではないかと思うので、読んでみようかと思っています。


この場合の「まさか」は「魔坂」です。言い得て妙ですね。お寺の方は、この言葉を仏様の教えに結びつけているようですが・・・

今のコロナウイルスも現代社会の「まさか」ですね。


映画「家に帰ると妻が必ず妻が死んだふりをしています」。最初はコメディかと思っていたら、最後に妻がなぜ「死んだふり」をしているのかが明かされ、これにはホロリ(・_・、)でした。



 

2020年4月29日 (水)

「お宝発見?」~庄屋分家屋敷調査

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以前書いたように、古文書研究会に入って勉強をしています。入会して3年、ほとんど読めません。まあ、復習予習を全然していないので、当たり前ですが・・・

ここの庄屋さんの家は住んで継ぐ人が無く、家を解体する際、史談会の方に役立つ物があればということで、調べたら庄屋さんが書いた古文書が大量にでてきて、それを解読しているところです。


庄屋さんには分家があり、この家も住んで継ぐ人もなく解体するという事ですが、古文書があるという話しで4,5名で調査をしました。


左が母屋。外側は改修したと思われます。奥の方は深く、かなりの部屋数がありました。右が蔵。両方とも電気が止めてあり、懐中電灯を頼りに大変でした。


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母屋の一階は布団などがひいてあり、こたつもそのままでしたが、かなり荒れていました。

二階に2部屋ほどあり、奥が天井裏で、物置に使った物か、お膳が大量に、衣服なども置いてありましたがボロボロ。


昔の建物だけあり、大きな梁。今の家には、こんな太い物を使ったところはありません。ここを調査。


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下が母屋からの収穫品。

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で、蔵の方ですが一階はガランとしていましたが、農具などの納屋に使っていたのか、多少農具が残っていました。

二階に登ったら天井に穴が空いていて、おっかなびっくり調べましたが、ほとんどめぼしい物はなく、帰ろうとしたら「これはなに?」と声がして、それが、一番上の写真。


なにかというと、”襖”です。襖の表が破れてしまって、下張りが飛び出ています。昔「四畳半襖の下張」なんていうのがありましたが、それとは関係なく、古文書が使われていました。


全部貼ってあるので内容がよく分かりませんでしたが、一枚だけパラリとはずれたので、読んでみると江戸時代中期の「宗門改」。

襖は、多分その時代の物ではなく、分家にも古い文書が大量にあり、後年襖の張り替えの時に使った物だと思われます。

あとなにが貼ってあるのかは、まず剥がしてみないと分かりませんが、大変な作業になると思われます。どんな文書が出てくるかのか楽しみです

NHK大河ドラマの”明智光秀”の書状などが出てくれば「お宝発見」になるのですが・・・(^o^)




2020年4月23日 (木)

「島原藩江戸屋敷」~下屋敷(?)について・其の二★ちょっと脱線

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く下屋敷のことについて書きたいのですが、資料と地図の整理がついていないので、今日は”ちょっと脱線”します。

上の図は以前「島原藩江戸屋敷はどこだ」に使いましたが、少し付け加えがあるので・・・


赤の丸印が島原藩のお殿様の上屋敷。「松平とのも」と書いてありますが、正式には「松平主殿頭(まつだいらとのものかみ)」。

数寄屋橋を渡ったところに、何やら四角なところがあります。城には真っ直ぐは入られないように、門のところに枡形といって四角に囲んだ所があり、ここで、攻め入った兵は曲がりながら攻め入るので混乱をし、上から矢を放ったり投石をします。数寄屋橋を渡ったところの四角には、これに属するものだと思われます。江戸城の橋を見ると、渡った所全部にこの四角いのが描かれていました。青の丸印「南町奉行所」です。たぶん、桜吹雪のオジチャンの勤務先です。この頃はいたのかどうかは不明ですが・・・

さて、島原藩松平家は「深溝松平家」になり、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つで、松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となります(Wikipediaより)。


下図、江戸城の近くだけを撮して見ましたが(萬延元年版の江戸図)、「松平」(紋所があるのが上屋敷・上屋敷だけ印を付けました)というのが多いのに気づきます。今まで、これ全部、島原藩松平氏と一緒の徳川家のご親戚かと思っていたのですが、江戸屋敷を調べるに当たり数冊本を読んでいたら、「重ね地図で読み解く大名屋敷の謎・歴史探訪家 竹内正浩著(宝島社新書)」に次のように書いてありました。


江戸周辺の大名のほとんどが、親藩・御家門もしくは譜代大名だった。有力な外様大名は徳川家と縁組みを交し、松平姓を賜っていた。明治になると、松平姓を捨て、本姓に復帰した旧大名家も多く、また歴史の教科書でも、毛利や薩摩といった姓で掲載されているため違和感を覚えるが、江戸期の大名は「松平」だらけでだったのである。たとえば毛利家は松平大膳太夫、島津は松平薩摩守、前田家は松平加賀守といった具合である。


ということで、なぜ「松平」が多いかという謎が分かりました。城から離れた所にも「松平」の文字があります。


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徳川家康は、松平竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と名前が変わるわけです。いくら有力な外様大名で縁組みを交わしたとは言え「徳川」姓は名乗れないので、松平姓を名乗ったのだとは思います。私の考えですが。

さて、以前から「松平」から「徳川」に変えたのは、なぜかと考えてはいたのですが、今日、本屋さんに下のような本が置いてあり、1500円+税で、年金生活で金は無く、本を買ってくるとカミサンから「又、買って来て!!」と怒られるのを予感しつつ、マンガ本だという事もあり(近頃は目がかすんで活字は読みにくい)買って来たら、これがビンゴで「松平」から「徳川」に変えた経緯が書いてありました。まだ全部読んでいませんが、次の通りです。


「中国では前の王朝を滅ぼして新たに皇帝になった者が何人かいるが、皇帝たちは『徳があった』ことになっている。徳があったからこそ天下がとれた。天がそれを祝福したと考える。徳川家康は朱子学の考えが分かっていて、松平から改姓する際に、『徳』川と名乗ったんだ。」


という事で、これにて一件落着。


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とは思うのですが、改名の経過はWikipediaの「徳川家康」の所に書いてあるので合わせて、ご参照下さい。

さて、「下屋敷(?)」まで、資料集めがはかどらず、結論までどれくらいかかるかは不明ですが、お付き合いのほどを<(_ _)>。



2020年4月20日 (月)

「島原藩江戸屋敷」~下屋敷(?)について・其の一

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以前「島原藩江戸屋敷はどこだ?」(→こちらをクリック)ということで紹介をしましたが、別件で調べ直していると、特に下屋敷について面白い事があったので、2、3回に分けて書いてみます。

上の写真はWikipedia「島原藩」に載っていた写真。左は数寄屋橋門と書いてありますが、昔の江戸の絵図を見ると、数寄屋橋門のすぐ左に「島原藩上屋敷」があるので、多分大きな屋根がそうなのではないかと推測できます。島原藩江戸屋敷は明治大学の前身「明治大学法律学校」として使われましたが、数寄屋橋公園の近くに「明治大学発祥の地」として記念碑が建てられています。左の写真の大きな建物は旧日劇。(下の写真はGoggleEarthより)


上の右の写真は「旧島原藩邸中屋敷黒門」となっていますが、島原藩中屋敷は慶応大学三田キャンバスになります。なお、「慶應義塾百年史」328ページには中に入ったところの写真が載っています。


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で、本論ですが、この下屋敷について「江戸名所図絵」の「千代が崎」のところに、島原藩主松平候の名前が見え、説明文は以下の通りです(ちくま学芸文庫・新訂江戸名所図会3より)。

千代が崎 
渋谷宮益町より、目黒長泉律院へ行く道の傍ら、芝生の岡を言ふ。佳景の地にして永峯に属せり。絶景観というは、松平主殿候の別荘の号にして、閑寂無為自然にその地に応ず。(注:下線は私が引いたもの、「主殿(とのも)」は島原藩主松平公の官職名)


下が千代が崎の図。


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上の図、右上の説明文です。

千代が崎
 行人坂の北、永峯松平主殿候別荘の後ろ、中目黒の方へ少し下るところなり。初め鑓が崎といひしを、後に千代が崎と改められしといふ。主殿候構いの旧邸にして池の傍らに衣掛け松といふあるは、新田義興の室、義興矢口の渡しにて最後のことを聞きかなしみに絶えず、この池に身を投ぐるといへり。絶景観といへるもこの別荘の号なりとぞ。


下が萬延元年の江戸図より、該当のところの図。「松平ともの」は「松平主殿」。


島原藩といえば「六公四民」。年貢の六割が藩に取られ、四割が自分の取り分。いってみれば6割が税金で取られていました。で、お殿様は優雅に暮らされていたことが分かります。


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目黒区のネットで「目黒の地名 千代が崎」ということで紹介されています(→こちらをクリック)。少しく気になるところもあるので・・・

「・・・また千代が崎には、こんなエピソードも残されている『松平主殿頭の屋敷内に三基の異様な灯ろうががあった。この灯ろうは大正15年に大聖院(名黒区目黒三丁目1地番)に移されたのだが、それが十字架をした切支丹灯ろうであることがわかり、この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになった』のである。・・・」


「切支丹灯ろう」は「織部灯ろう」のことで、この灯ろうはキリシタンとは関係ありません。「風間書房刊『キリシタン研究・第二部論攷篇 松田毅一著』の中の「第四章 織部灯籠とキリシタン宗門」において、織部灯籠がなぜキリシタン灯籠といわれ始めたのかが詳しく書かれています。目黒区のネットの記事、早く直したほうが良いのではないかと思うのですが。


閑話休題。

江戸時代の地図を何枚か眺め、ネットで調べ裏付けを取ると、あと二つばかり、おや?っと思ったことがあり、現在調査中なので、後日、またネ<(_ _)>。




2020年4月15日 (水)

「四面宮ものがたり」

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昨日の長崎新聞。「『四面宮ものがたり』知って」と書いてあり、四面宮といえば、地元の温泉神社の事で、昔の人は今でも「おしめんさん」などと言っている方もいます。ということで、さっそく神社へ行っていただいてきました。

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パンフレットを作った理由として、四面宮の歴史などを紹介し、島原半島や諌早市の地域活性化などにつなげようと、県神社庁が作成をし「(各地の)神社のルーツを知り、郷土愛を育むことにつながれば」ということもあるようです。

なお、最近参拝者の減少、後継者不足の課題もあるということで、観光協会などと連携をし、「御朱印ツアーや島原半島の観光名所を絡めた神社巡りツアーを形にできれば。目指すところは一つのブーム化。神社へ来る人を増やし、地域振興や交流人口の増加を図る上で、パンフレットを最初の一手にしたい」ということだそうです。


「ツアー」「ブーム」「地域振興」「交流人口の増加」などという言葉を聞けば、なんとなく観光名所を売り込むような感じ。「神社」の本質はどうしたのさ?という感じでですが・・・

私、ウォーキングの時、良く神社にお参りをしていますが、心静かにお参りをしているとき、ツアーのお客さんがドットきて「わ~すごいパワースポット」「心が洗われるわ~」「宝くじに当たるようにお参りしよう~」とか横でペチャクチャ騒がれる、とですね・・・


とはいっても、パンフレットを読むと実に分かりやすく紹介してあります。雲仙が山岳信仰で栄えたこと、中国に修行に渡るとき雲仙岳が「日本山」と呼ばれたこと、四面宮の誕生についてなど書かれてあります。


「四面宮ものがたり」が手に入らない方は、「shimengu-jinja.jp」で、あちらこちらをクリックすると、パンフレットがそのまま載っています→こちらをクリック


さて、ひとつ気にかかるのが、「四面信仰は島原半島を中心に広がっていきます。四面宮は、諌早市、雲仙市、島原市、南島原市、そして佐賀県にも次々に建立されていきました」というところで、四面宮は最初、島原半島の現南島原市の有家町、雲仙市の千々石町、吾妻町、諌早市に建立されました。


「大宝元年(701)には温泉神の分身末社として、山田神(吾妻町)、有江神(有家町)、千々石神(千々石町)、伊佐早神(諌早市)に勧請されたという。」(島原半島の歴史★松尾卓治監修)。


「『史籍集覧』『歴代鎮西要略』によれば大宝元年、(701)温泉山、温泉神社の分身末社として千々石、伊佐早(諌早)、山田、有江(有家)の神、四ヵ所勧請とある。」(有家町郷土誌)


とあり、「四面宮縁起」には「一宮東方・・・・二宮南方・・・・三宮西方・・・・四宮者(注:読みは「は」)北方」と言うように、雲仙の四面宮を中心に四つの末社があったことが分かります。「諌早市史」には「・・・・一の宮は千々石、二の宮は山田、三の宮は諌早、四の宮は有家であり、その神殿の方向は正しく各社共にその通りである」との記述があります。


ということで、「四面宮」の最初の四つの神社の場所を明記してほしかったと思います。


さて、神仏分離の関係で「四面宮」が「筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)」に変更されたのが明治三年。島原藩主の業績、出来事を書いた「深溝世紀」には次のように書いてあります。


明治三年の部分。「十四日、神佛の混淆するを判ちてこの号を改む。温泉山四面宮は、筑紫国魂神社と曰い、五社神明宮は、延宝神社と曰い、祇園牛頭天王は八雲神社と曰い、山王社は日枝神社と曰い・・・」というように各神社の名前もかなり変えられており、神社の本来の事を知りたいのなら、昔の名前を調べることが必要になります。


千々石の「温泉神社」の場合には、以前にも紹介しましたが、明治八年の「神社明細調帳」には「・・・本称四面宮祭木仏明治二己巳年旧島原藩除木仏改社号祭日九月十九日」とあり、現在の「温泉神社」は「四面宮」といい、神社に「木仏」が祭ってあり、「神社」に「仏」ですから、神仏混交の神社であったことが分かります。明治二年に仏様が除かれ社号が変えられています。

さて、谷文晁の「日本名山圖」をみていたら「雲仙岳」と書いてありました。この頃は普通「温泉(うんぜん)嶽」と呼んでいたのですが、谷文晁さん「うんぜん」と聞いたので「温泉」と書かずに「雲仙」と書いたのかな?

「雲仙」「温泉」については、以前「温泉(うんぜん)から雲仙へ」で書いたので興味ある方は読んで下さい→こちらをクリック



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2020年3月 7日 (土)

雲仙市小浜町にあった「肥前温泉災記」について

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3月1日まで、南島原市と西南学院大学博物館連携特別展が開催されたときのチラシです。

寛永14年(1637)の島原一揆、寛政4年(1792)眉山が崩壊し津波が起こった島原大変の貴重な資料が展示され、また、この一揆、災害に伴う慰霊碑が各所に建てられていますが、その拓本も展示されていました。


今日は、このチラシに使われた絵についてです。


この絵は「肥前温泉災記」に載っている絵です。下の絵がチラシに使われているのが分かると思います。実はこの絵は色がついているのですが・・・


チラシには「『肥前温泉災記』肥前島原松平文庫蔵」となっていますが、この資料、実は小浜町(現雲仙市小浜町)にあった古文書です。これが、島原の松平文庫に所蔵された経過がほとんど知られていないので、一応記録にしておきます。


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この経過については、右の小冊子「肥前温泉災記の解説」に書かれています。なお。この小冊子には左の「肥前温泉災記」の読み下し文も付いていています。書いたのは、元小浜教育長(町村合併のため、小浜町最後の教育長になります)のT氏。

詳しく書けば長くなるので、概略を書いてみます。氏名はイニシャルのみにしてます。


T氏(以下T氏と標記)が教育長の昭和50年代後半、町内のKという食堂の経営者A氏がT氏を訪れ「肥前温泉災記」を持ってこられたそうです。T氏は小浜町の文化財だから大切にするようにと、一部コピーをされそうです(多分この頃、カラーコピーが役場に無かったのか、白黒のコピーです)。


その後、平成3年、雲仙の普賢岳に噴煙が上った頃、島原市長の代理として、島原市教育委員会社会教育係長K氏がA氏宅を訪れ、「お宅に保存されている『肥前温泉災記』は、島原市にとって重要な文化財です。是非、譲って下さいませんか」と言うことで、A氏が無償で提供されたそうです。


T氏は話を聞いて「私は『しまった。』と悔しがりました。私はA氏家の家宝として手放されないと思ったので当てがはずれてしまいました。」と書かれています。


その後、A氏の所には、当時の島原市長鐘ヶ江管一氏の感謝状と記念品が贈られたそうです。
というような経過で、現在は島原図書館の二階にある松平文庫に所蔵されています。

なお「肥前温泉災記」の最後には次のように書かれています。

天保庚子(注:天保11年・1840)年春日借覧大原氏所蔵之書
謄写 三月四十五校原本謬誤多矣他日得善本校正 濱貞彛(?)
絵図 勝之助写

となっているので、この他に「善本」が別にあることが分かります。

なお、絵図の「勝之助」については、T氏が調べられたらしく「尾崎勝之助 千八百五年~定江戸詰 十三石二人扶持」と書かれています。

Img_20200307_0004  Img_20200307_0005  

T氏は十年過ぎてから、松平文庫を訪れ「肥前温泉災記」を手に取ってみられたそうです。難しくて読めなかったそうですが、瑞穂町の郷土史家T先生を訪れた時、辞書などを紹介され、それから2年をかけ、右の「肥前温泉災記の解説」を書かれたそうです。読んでみて、大変な仕事だったことが分かります。

島原市がこの本の存在をどうして知ったのかは不明ですが、この古文書が残っていれば、雲仙市の貴重な資料になっていだろうと思えば残念な事です。



2019年12月19日 (木)

「麒麟がくる」~NHK出版

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ご存じのように、いろいろありましたが、来年1月19日から明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」が始まります。

前回「いだてん」は見事コケましたが、NHK大河ドラマが今まで時代劇ばかりだったので、ずっと見ていた方、なんとなく違和感があったのだと思います
、私は最終回まで見ていました。

さて、上の本、まだ全部読んだわけでは無く、拾い読みしましたが、ドラマの「麒麟がくる」のノベライズではなく、表紙に書いてあるように「明智光秀の活躍した時代を最新研究を踏まえ徹底研究」という本で、あくまで「麒麟がくる」を見るための「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック」、参考書になります。


戦国武将というと、あちらについたり、こちらについたり、裏切りあり、謀反あり、謀略あり、妻だけでなく側室もありと姻戚関係も複雑なところがあるので、一応はこの本を読んで大河ドラマを見た方がベターかと。


一応主な目次だけあげておきます。


「『麒麟がくる』時代考証担当 小和田哲男と歩く舞台地」「明智光秀『麒麟がくる』人物相関図」「光秀の生涯」「最新研究 追跡・光秀の足跡」「新視点 光秀とその時代」「光秀の同時代武将最新情報」「物語のなかの光秀を追う」等々。各章それぞれ専門の方が書いておられます。


ミネルバ日本評伝選通巻200巻刊行記念でシンポジウム「明智光秀と『本能寺』の謎」が開催されたそうですが、ここ、ざっとしか書いてありませんが、呉座勇一氏の「織田信長の『天下』抗争」と「明智光秀の焦慮」という視点から本能寺の姿を見直し、信長と光秀が対照的な人物だったという通俗的な「前提」を批判する視点を示したそうです。


それに対し、光秀が「信長の非道を阻止する」ために本能寺の変を起こしたとみる小和田哲男氏が、自説への批判に反論する場面がみられた。


ということで、ここのところ、もう少し詳しく書いて欲しかったナ。


明智光秀については、まだまだ謎があり、呉座氏と大和田氏の見解にも見られるように、専門家でも解釈の違いがあり、特に織田信長に対する反乱に関しては様々な意見もあり、これ、ドラマでどのような解釈で描いていくのか、NHKさん、えらく難しい人物を主人公に選んだものだと思います。


2019年12月 3日 (火)

「決算!忠臣蔵」「『忠臣蔵』の決算書」と「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む」

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映画「決算!忠臣蔵」は先週の金曜日に封切りだったみたいですが、以前書いたように、私、昔の画面が広い映画館で映画を見ていたので、最近の小さな画面の映画館では映画を見た気にもなれず、一回見に行ったきりで、多分この映画も行かないと思いますが、本は読みました。

左の本が、山本博文氏が書かれた「『忠臣蔵』の決算書」、これを元に映画が作られ、右の本が映画をノベライズした本。著者は映画監督の中村義洋氏。


もちろん、中村監督は映画を元にして書いていますから、山本氏の「忠臣蔵」を分析した本とは違いますが、中村監督の映画、本も山本氏の本を基本にしたものです。


この「忠臣蔵」、今までの「忠臣蔵」を描いた本、映画とまったく違った観点、「お金」の面から描いています。「討ち入り」にかかった経費はもちろんですが、廃藩になったとき、いくらお金が残っていたのか、藩士の割賦金(退職一時金)まで書かれています。


なお、例えば一両が現代どれくらいの金額なのかは、なかなか難しい面があり、比べる基本になるのも、米価にするか、職人の一日の手間賃にするかで違ってきているようです。この本では、当時の蕎麦一杯の値段「十六文」を現代の蕎麦の値段、大体「480円」として計算をしています(多少安いような感じもしますが、山本氏が本を書いたのが2012年だからこんなもんかな?)。


なお、底本として大石内蔵助が遺した「預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)」を中心にして書かれています。この「預置候金銀請払帳」は山本氏の本の一番後ろに載せてあります。あまり、長いものではありません。


最後の給金と退職金が「一万九千六百十九両」今の「約23億円」。これを藩士300名で割ると「約七百八十万」ほどだそうです。もちろん藩士の階級によって違いがあります。なお、大石内蔵助は受け取らなかったそうです。


「討ち入り費用総額」が「七百両」現在のお金で、「約8400万円」だったそうです。この打ち明けについては、両方の本に書かれています。


なお、中村氏の本には「古参の小野寺十内(年収千十五万)や間喜兵衛(年収四百六十二万円)」など書いてありますから、これを見ていけば、どれくらい偉かったか、下っ端だったのか等がわかり便利です。映画でも年収は画面下の方に書いてあるとの話でしたが、見ていないので不明。


さて、買ってきた本にカバーがかかっていたので、はいでみたら、下のような地味な本でした。


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話変わって、たまたま「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む(編集・鬼頭勝之★発行者・舟橋武志★発行所・ブックショップ「マイタウン」)」という本を手に入れました。

「『忠義画像』は『義士四十六(ママ)傑画像由来』によれば、京都紫野の瑞光院(現在は境内に浅野長矩と赤穂義士の塔と赤穂浪士の塔と遺髪を収めた塚がある)にあった四十六の義士の終焉の正像(細川家が贈る)を写したものという。その画像は面目・毛髪少しも本人に違うところがなかった。しかし、質素かつ精密でないので、義士十七回忌(享保四年・一七一九)に当たり、討ち入り時の姿で描き、瑞光院に寄付しようとしている人がいて、この未完成の作品を写したのが本作品である、と記されている。」ということです。


パラパラとめくり4ページほどコピーしましたが、よく見ると槍、薙刀などを持った人が多く、刀を持った人は少ない。


記憶によれば、何かの本に、鉄砲が現れるまで、なんの武器で負傷したのか研究した人がいて(死亡者については当時は検死官はおらず、死屍累々を一人一人調べ記録すのは不可能)、まあ、負傷者の数と死亡者の数は比例するのかなとは思いますが、殺傷した武器として、矢、槍、薙刀、投石が多く刀は少なかったそうです。


刀は槍などがなくなった時の最終手段。また、当時は「首級を取る」といって首を切り取るためのものだそうです。余談ですが、後年に至り切り取った首をぶら下げて戦うのは不便で、耳や鼻を削いだそうです。ただ、耳は両方あるので一人打ち取って両方の耳を持ってくると2人分になるので、秀吉は朝鮮出兵のとき「人は両耳あり。鼻、すなわち一つなり。鼻を割りきて首級に変へん」という指令を出したそうです。


また、武田信玄が小荒間合戦の時に、武田方は「・・・・敵の武将は首級を、兵卒は左の耳を袋に入れて持って来い、その中身によって恩賞を与える」と激をとばしたそうです(「耳鼻削ぎの日本史★清水克之著」:なおこの本には「アイヌ間に行われし鼻削ぎの刑はこれを最後とする」という写真が載っていて、鼻削ぎがどのようなものかが分かります)。


閑話休題。

この図には鉄砲は載っていませんが、「決算書!忠臣蔵」には最後の武器調達の時、どんなに金が無かったのかが書いてありますが、鉄砲は高いので買えなかった、のではなく、暗い中、鉄砲を撃てば誰に当たるか分からない、というより、当時は火縄銃だったので、入り乱れて切り合いをしているのに、悠長に弾込めなどはできなかったのでしょう。また、鉄砲の音は大きいので近所迷惑で、騒音防止条例に違反します。

で、狭い所で切り合いするので刀は使いにくく、槍でつくほうが手っ取り早かったのだと思いますが・・・


というようなことを考えると、「弓」をもった人物もあり、使いにくいのではないかと思いますが、この弓がどのようなときに使う予定だったのかは、小説に書いてあります。


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下の表が、誰がどのような武器を使ったのかの一覧で、「表門側」と「裏門側」に分かれ、持っていた「武器」のほかに、氏名、年齢、役職、石高まで書いてありました。ボケて見にくいのですが、クリックするとキチンと読めるようになります。多分。

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という事で、「忠臣蔵」に興味のある方は、映画を見て、中村氏の小説を読んで、本格的には山本氏の本を読むのがベターだと思います。

なお、中村氏の小説には討ち入りの様子は書かれてありません。お金が中心の物語だから。ただ、少し肩透かしを食った感じで、コミカルな討ち入りの様子も読みたかったな・・・




 

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