歴史

2022年4月27日 (水)

千々石ミゲル清左衛門供養碑建立~雲仙市千々石町天満宮

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長崎県の方はTV、新聞等で報じられご存じだと思います。昨年夏、千々石ミゲルの墓所の最終の4次発掘調査が実施されました。

先日、千々石ミゲルの子孫、発掘調査に携わった方などが参集し、千々石の天満宮において、千々石ミゲル清左衛門供養碑建立式が行われました。
発案、発起人は第1次~4次発掘まで尽力された町田義博氏。

供養碑の一番上の文字、「千々石・ドン・ミゲル」は千々石ミゲルの自筆を彫ったものだそうです。


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建立場所は千々石ミゲルの父千々石大和守直員が祀られている天満宮拝殿の横。

右は、千々石ミゲルの墓発見に最初から尽力された大石一久先生。宮司は橘神社の橘宮司。橘中佐の子孫です。


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右の写真は千々石ミゲルの子孫の浅田昌彦氏。

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千々石ミゲルの碑が建立された意義。天満宮の歴史などを貼っておきます。

供養碑の土台はコンクリートで固められていますが、土台のなかに、墓が発掘された折発見された千々石ミゲルの遺骨の一部が納骨されています。


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千々石ミゲルの父、千々石大和守直員が龍造寺に討たれた後、数百年の時空を越え、父が祀られた神社に、千々石ミゲルの供養碑が建立され、遺骨の一部が納骨されたという事は、非常に意義が深いことだと思います。

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オマケです。龍造寺に攻め落とされた釜蓋城の抜け穴?といわれているものです。



2022年4月14日 (木)

参勤交代のお値段~島原から江戸へ

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「超高速!参勤交代」。面白い映画でした。と同時に、参勤交代の大変さを実感した映画です。

参勤交代は諸大名に金を使わせ、力を付けさせないようにさせた施策だと高校の時習ったような記憶があります。


島原藩は江戸から遠い所にあり、関東の諸藩よりは費用がかかったと思います。下の二冊の本に島原~江戸への費用の事が書いてあり、いつも同じ道、同じ人数でいったわけではないらしいのです。


肥前街道の陸路。九州路の長洲へ渡航して肥前街道へと合流する道。なお、下関から江戸までも陸路もあり、嶋原藩豊州領長洲から瀬戸内海を航し、大阪から東海道の道を用いたこともあったそうです。


人数も元禄14年では90名、天保9年では64名。なお、旅装も粗略にしたこともあるそうです。


ということで、一概にには言えないこともあり、また、江戸時代の通貨を現代のお金に換算することが困難なことは以前書いたことがあります。


このような事を加味しながら、高木氏は次のように書いておられます。



以上の記録から推測の域を出ないが、概して往復五千両は必要であったのではないかと考える。

五千両を石に換えれば約五千石となる。一石は四斗入りの一俵の二俵半に当たることから、五千石は一万二千五百俵となる。然して平成十八年現在、米一俵(中質米の米価)一万五千円程度であるから、一万二千五百俵の値段は一億八千七百五十万円となる。
従って、現在の金に概算して参勤交代に要する費用は一億八千万円~二億円程度であったのではないかと考える。


島原~江戸の参勤交代の費用がいかに莫大であったかが分かります。これなら、参勤交代が大名の力をいかに削いでいたのかが分かります。


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2022年3月14日 (月)

時代劇の嘘


ネットで調べ物をしていると、江戸時代に蕎麦屋、居酒屋などには机は無かったという記事がありました。


草子本を貸し出しているので、何か無いかと考えて、ネットの画像で検索してみました。


例の如く下の画像はクリックすると拡大します。


左は「時代劇 画像」で検索、右は「江戸時代 居酒屋」で検索したもの。で、比べると本当に江戸時代の飲食店に「机」は無かったのです。


なぜ机があるようになったのか、映画なのか、演劇なのか、歌舞伎なのか等々と調べると面白かな?と言うことでボチボチと調べることに。


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さて、いよいよ「カムカムエブリバディ」もラストに近づきました。

今後の進展にはイロイロな意見があるようですが、先日の予行画像でるいが岡山の雉真家を訪れる画面。両手に袋包みを持っている件で、「骨壺?」「手土産の回転焼き?」と意見が分かれているようですが・・・


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今日、るいの回転焼屋に算太さんが現れたのを見ると、多分、算太さんの「遺骨」だと思うのですが、いよいいよ目が離せない展開になりました。



2022年3月 6日 (日)

島原藩士の税金

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「島原藩の経済」、「島原藩の仕組み」などを書かれた、故高木繁幸先生が「島原風土記」に書かれた”島原藩の1805年の支配機構と役職ー史料・文化二丑年藩中人数割によるー” の中で少し興味のある事が書いてありました。

江戸時代、武士の給与は切米、扶米等あるのですが、ザックリと書きます。


江戸時代、一日の労賃は玄米五合が基準、これが一人扶持。一ヶ月で一斗五升、一年で一石八斗。時代劇に”十人扶持の侍”というようなセリフがありますが、これで、よく分かりますね。


さて、江戸時代、普通の藩は五公五民。収入の5割が税金、5割が自分の取り前。収入の半分が税金というと、今よりヒドイですね。


御武家さんの場合もこれが適応され、収入の二分の一しか手取りがありませんでした。
今でいえば、40万の給与の人は、手取り20万です。キツいですね。

ところが島原藩の場合は島原・天草の乱、雲仙岳の噴火ということもあり、非常に財政が逼迫して、六公四民。六割が税金でした。

さてお侍さんの場合は、「当島原藩の場合、例えば百石取りの家臣は六公四民であるから実際は四十石が支給されるのだが、当時は藩主の勝手向不如意ということで借上げが行われていたため、四十石以下しか支給されていないこと。」
ということで、武士といえど島原藩は厳しい税金ではありました。

これは多分家老などの重職にも適応されたみたいで、ということは、税金を納めていないのはお殿様だけということになるのかな?


2022年1月 4日 (火)

ダルマさんなのだが・・・★あてにならない附録(橘神社年始予定)

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なんとも面白い掛軸を拝見しました。男性はその風貌、耳輪等から見てダルマさん。後で紹介しますが、箱書きにも「達磨」と書いてあります。女性はどう見てもオカメ(おたふく)さんですね。

達磨(だるま)さんは、中国禅宗の開祖とされるインド人仏教僧だそうです。悟りを開くまで壁面に向かって座ること九年。「面壁九年」です。


昔は、「ダルマさんが転んだ」などといって遊びました。選挙の時、選挙事務所に飾ってあり、当選すると目を入れます。


絵は、素人目ですが細部に至るまで良く描けています。足袋が紐で結んでありますが、これは「紐足袋」だそうです。今も使っているような感じですが、江戸末期末期までは使われたようです。


ダルマさんが持っている品物がヤカンにハタキに火箸。しっかりと手を握っているところを見ると、なんとなく駆け落ち風です。


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右上に書かれている画賛の文書、書いた方が「⚫庵主」。出だしの「如是」はお経の最初に書かれている言葉で”かくのごとく”。

最後の「咄々(とつとつ)」は、舌打ちをするさま、怒ったり、驚いたりするさま、驚いて嘆声を発するさま(大辞林)などがあるようです。漢文の素養が無く、画賛の意味が分からなく残念。


絵の署名の所に「袖華」とあり「東京文化財研究所」のホームページには「中田袖華」として載っていましたが同一人物かどうか不明。→こちらをクリック


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箱書で表に「達磨入廛垂手(だるまにってんすいしゅ)画賛」「廛(てん)」は「市内の平民の宅地。すまい、やしき・商品を貯蔵する倉庫・店舗」等々だそうです。

裏の方に「⚫庵主」ですが、掛軸の紹介で「一庵主」とあったので、多分「⚫」は「一」だと思います。

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「入鄽垂手」について調べたら、「十牛図」(悟りに至る10の段階を10枚の図で表したもの。真の自己が牛の姿で表されている→こちらをクリック)にあり、最後の図が「入鄽垂手」(廛、鄽も同意語)で、「悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへと導く必要がある」と言うことだそうです。

なお、「入鄽垂手」の図には布袋腹でボロをまとった人物も見られ、なんとなく達磨を思わせる姿です。また、「十牛図」は禅に関係があります。


私的解釈ですが、「達磨」さんがボロボロの服を着て、見れば爪も伸ばし放題。「入鄽垂手」は十牛図の最後の部分なので、達磨が面壁九年、悟りを開いた姿だとも思われます。

おかめさんは神話の世界などにも関係あるようですが、我々にとっては親しみ深い女性。蕎麦にも「おかめ蕎麦」があります。いわば、世俗を代表する女性といっても良いかもしれません。


という事と、「十牛図」との関係を考えれば、達磨さんが悟りを開き、世俗の世界(=おかめさん)に戻り、「人々に安らぎを与え、悟りへと導く」絵だと思うのですが。如何でしょうか???。

【あてにならない附録~橘神社年始の予定】

いつもなら、神社の境内に予定表があるのですが、今年は見当たらなく聞いた範囲での予定です。詳細は神社まで。

1月 7日(金) 七草粥振る舞い 時刻不明
1月11日(火) 鏡開き 焼き餅振る舞い 時刻不明
1月20日(木) 橘神社大寒禊
2月13日(日) 大門松解体



2021年11月 2日 (火)

「肥前國高来郡之内三拾三箇村壹分四拾間之圖」に見る論地について

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先日、古文書研究会で勉強していると、上のような文書(もんじょ)がありました。下手な字で薄く書いてあるのは私が書いたもので、無視して下さい。


元禄八亥年北有馬村より当村

野方境論合候間御裁許


概略書くと、元禄八年、北有馬村より野方(高地などの開墾したところ・高台の耕作に適しないところ【大辞林】)の境につき論合(論じ合うこと・論争)があったが、代官所(多分)より裁許(申し出の是非を判断して許可を与える)があった。



以前、小浜から南串山を通り雲仙に至る所に「論所原」という場所があることを書きました→こちらをクリック


昔は土地の境がハッキリせず、村と村でどちらのものか論争しています。上の古文書はそういうことが書かれています。


古文書を読んで、島原半島にどれくらいの「論所」の地があったのか、少し興味があるので調べてみました。


下は文久3年に書かれた絵図です。「肥前國高来郡之内三拾三箇村壹分四拾間之圖」です。白いところは佐賀藩飛び地、佐賀藩神代領。島原藩の領地ではありません。なお、地図の現物は旧家にあり、どのような事情か複製(印刷物)がでていて、公的な所で2ヵ所、数人の個人所有があるようです。ブログに載せているのは印刷物なので、文字が分かりにくいと思います。

色い付箋を貼ったところが「論地」。ほとんど山間地で土地の境が分かりにくかったものと思われます。

古文書の南串山と北有馬の「論地」は赤の矢印のところ。今の論所原に当たります(多分間違いありません)。


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左がその部分を拡大したもの「北有馬村・南串山村・論地」が分かると思います。

右は「田代原」。島原~千々石に至る街道の途中にあります。ここは千々石村と土黒(ひじくろ)村、土黒村と多比良(たいら)村の論地が見られます。
なお、千々石においては郷土誌等、この論地の事はまったく書いてありません。

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もう少し見てみると山田村と野井村。現在の吾妻町と愛野町になります。

右は沢山あるので、書きませんが山間部ですね。


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千々石の場合、この論地については、まったく分かりません。というより、庄屋さんの子孫の方が、家に残されているものを全部廃棄をしたらしいのです。ただ、千々石の庄屋さんが、論地について書いたかは不明ですが。

南串山の場合は、庄屋さんの子孫の方が古文書を保管され、家を解くとき郷土史研究会に寄贈され、それを古文書研究会で解読をし、論地のいきさつが解決に至るまで分かるわけです。地図と照らし合わせれば場所も分かります。


現在、古い家の建て替えの時、古文書が出てきても読めないから燃やした、という話しを聞くことがあります。ですが、上に書いたように貴重なものがあります。現在、島原半島3市には学芸員が勤務しているので、持ち込めば読んでもらえると思います。ぜひ、昔のものは簡単に廃棄をしないように。


2021年8月21日 (土)

原城=春城の名称について

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江戸時代の街道絵図に「原城」のことを「春城」と書いてあるのを見かけます。

左は「大日本道中細見・三河屋鉄五郎版」。残念ながら年代は分かりませんが、赤の四角の所「春城」と書いてあります。

右は「大日本早引細見絵図・天保13年改版 絵圖屋庄八版」(1847年)。同じく「春城」と書いてあります。

「春城」の左側に「古城」と書いてありますが、有家町にある地区の名前です。

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まったく書いてないのもあります。左は、大日本早引道中版 天保八酉11月再版(1837年)。

右は、鳥飼市兵衛版 寛保四年大増補日本道中行程(1743年)。こちらは「古城」とありますが、有家町の古城ではなく、「原城」のことです。下の方に「ソクノ コモリタル 所(「所」はくずし字にて表記)」(賊の籠もりたる所)とあります。

以前、原城の名前は「原之城」「有馬城」「志自岐原城」「春城」「日暮城」とあり、これについて調べると書きましたが、やはり詳しくは分かりませんでした。で、一応調べた分で、今回は主に”春城”に絞ります。

⚫長崎県大百科事典には「有明海に面して東南に突き出た「ハルの島」といわれた岬を利用して築かれた平山城。(長崎新聞社発行)

⚫北肥戦誌(九州治乱記)には「抑々(そもそも)肥前國髙來島志自岐原。城主有馬越前入道随意齋仙岩と申すは・・・」。北肥戦記(別名『九州治乱記』)は、佐賀藩士馬渡俊継が正徳年間(7711~1716)に編纂。(青潮社・1995年発行)

⚫新編藩翰譜には「原の城は有馬家の旧領なりき、それへ賊徒の立て籠りしなり。但し、原の字は、はると云ふべし。西国の方言なりと云う。」。藩翰譜は新井白石が慶応5年(1600)~延宝8年(1680)の諸家337家の由来・事跡を書いた本。完成が元禄15年(1702)。
(新人物往来社・昭和52年発行)。

⚫佐野彌七左衛門覚書には「・・・原の城の名古来所の者春の城と申候へとも上使御下次原の城と何れも申候故所の者も原の城と申候事」。佐
野彌七左衛門は当時の島原領主松倉氏の家臣で、物頭を勤め、禄四百石を食む・・・(島原半島史・林銑吉著より)。

なお、本によっては、一揆以前は城の名前は無かったと書いてあるのもあります。また「勝茂公(佐賀藩主)御年譜」によれば「有馬ノ古城原ノ城へ・・・」ともあります。長崎県事典では「ハル」」と書いてありますが、出典は不明。北肥戦記には「肥前國高來島志自岐原。城主・・・」とあるので、「志自岐原城」と考えられ無いこともない。

さて、島原半島に住んでいる方はお分かりですが、当地方では「原(はら)」のことを「はる」と発音するところもあります。「原」が一番最後につく時は「ばる」とも発音します「弘法原(こうぼうばる)」。「原」一字の小字がありますが、これは「はる」。千々石に「古賀原(こがばる)」がありますが、通称「原(はる)」。全部が「はる」ではなく、「はら」と読むのもあります、同じ小字でも「赤原(あかばる)」「塚原(つかはら)」。

ですから、藩翰譜には「西国の方言なり」とはありますが、一概に言えないのではないかと・・・PCで「はる」と打ち込んでも「原」ともでます。

神田千里氏の「島原の乱」には、「原城はもともと『はるのしろ』と呼ばれていたものが、島原の乱のために幕府の鎮圧軍がやってきた後、『はらのしろ』と呼ぶようになったと伝えてられる(『佐野弥七左衛門覚書』)」とあります。上に引用した内容と大体同じです。

佐野彌七左衛門は島原天草一揆に実際に参加をしているので、これが一番正確なのではないかと思います。


地図を見て、面白い事に原城の本城の「日野江城」がありません。


地図は乱後100年のものです。また、島原から遠く離れた江戸に「”春”城」ということで伝わっていたという事は、興味深いと思います。軍記物に「春城」の名称があり、それを写したものかと思い2~3冊見たのですが、ありませんでした。

下の絵、左は天草四郎の絵。書いたのは”月岡芳年、天保10年(1839)~明治25年(1892)。右は”豊原国周”、天保6年(1835)~明治37年(1900)。右上に”天草四郎時貞・尾上菊五郎”、左上に”千々輪五郎左エ門・市川團十郎”。乱後200年以上の絵になります。絵自体は、何となく奇異な感じですが、地図と同じく江戸という土地に武将、忠臣蔵かと思われる姿で描かれているのも面白いと思います。この絵は、国会図書館デジタルコレクションに所蔵されています。

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いつものごとく、まとまらない話になりましたが、他にも、原城の名前について書いてある本もあるので、又改めて分かりやすく書いてみたいと思います。


2021年5月 1日 (土)

ん?「三會町」?~三會町「宗門改繪踏帳」

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上は島原市の「三会町」の「宗門御改繪踏帳」。これ、島原の「三会町」かな?と調べると、寺の名前が書いてあるページがあり、安養寺、善法寺、専念寺、妙光寺、正覚寺。他にもお寺の名前がありましたが、全部島原半島のお寺で、この「三会町」というのが、島原市の三会ということで間違いないという事が分かります。

「宗門改」は全国的におこなわれていますが、特に島原半島は、島原・天草一揆が起こった所でキリシタンにはピリピリしています。普通は「宗門御改帳」ですが島原半島では「宗門改絵踏帳」「宗門改影踏(かげふみ・えいふみ)帳」。

「踏絵」については、安高啓明氏「踏絵を踏んだキリシタン」(吉川弘文館)が参考になるかと。


下は信州小糠郡芝生田村(多分?)宗旨御改帳」。昔は、各戸どこかの寺に属していました。檀家制度、寺請制度。詳しくは→こちらをクリック。特に「禁教令と寺請制度」の所を読んで下さい。


「宗門改帳」の内容は右のようになっています。禅宗城光院がお寺。久八さん一家の事が書いてあり、久八さんは45歳、女房の名前は無く36歳、娘さんが多がさん14歳・・・ということで書いてあります。


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さて、実は一番上の表紙を見ていると、アレ?三会の江戸時代の名前は「三會町」ではなく「三會村」ではないかと。三会について書いた本があるので調べて見ても「三会町」の記載はありませんでした。

余談ですが、大正7年、文部省だったかが各小学校に郷土誌を作らせています。左はその復刻版。意外と面白い歴史が書いてあるところがあり、長崎県の方で自分の所の郷土誌が読みたい方は、長崎歴史博物館1階のリファレンスルームに置いてあります。一応、ホームページの「資料検索」で「大正7年 郷土誌」で検索をして係員の方にお尋ねを。


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で、「三會町」ってなんなのさ、と思っていたのですが、先日より調べ物で「上井覺兼日記」を読んでいると次のような記述がありました。


ちなみに、上井覺兼は島津家の家臣。龍造寺隆信が島原に攻め入ったとき、有馬晴信が島津家に助けを求め、その折り島原での沖田畷の戦いに加わっています。戦いに勝ち島原のあちらこちらを巡察しています。(上井覺兼については→こちらをクリック ついでにこちらもクリック)


天正12年3月24日の部分、ただ一ヵ所ですが「・・・昨日三重(ルビ『會』とあり)之町・・・」とあります。後ろの部分には「三江」、単に「三會」の記載です。


なお「三會村物語」には「美江」「三戸(へ)」「三重」「三江」とも言われているようですが「昔は発音のまま当て字として書いたものが多い・・・」と言うことだそうです。城(島原城)の「見える村」、「見え村」という解釈して無意味ではあるまい、とか。


さて、上井覺兼日記の「三重(會)之町」、「之」が無ければ単純に「三重(會)町」で良いのですが、「之」が入るとどうなんでしょう。他の町は「神代・伊福・森山」と「町村」名は省略してあります。ということは単に「三重(三會)
」というのが正しいとは思うのですが、それでは宗門改影踏帳の「三會『町』」はナンなのさ?と悩みますね。もう少しお時間を・・・m(_ _)m。

「宗門改絵踏帳」の表紙に、印がベタベタ押してありますが、お寺の印と比較するとほとんど一致しています。多分、内容の確認をしたものだと推測するのですが。また、2ページばかり裏に書いた物があり、反故紙を利用しています。この「宗門改帳」は、「写」だったと思われます。


2021年4月19日 (月)

「札」について~「往来手形」の補足

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先日、往来手形について紹介しました→こちらをクリック

その折り、往来手形には将棋の駒の形のは見当たらない、との事を書きましたが、職業に関する「札」については、多少見受けられます。


上の右が将棋の駒形の職業に関する「札」だと思われます。「薬種仲間」とあるので、薬に関する鑑札。宝暦十庚辰年十月とあるので、261年前のものです。


左は「豆腐」の文字があるので、豆腐屋さんのものでしょう。横に「寛政六甲寅年十一月」とあるので、227年前。両方とも焼き印が押してあります。


下は裏側になります。


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さて、島原藩のことですが「長崎県史 資料編 第2」、島原藩「村方號令纂集便覧」の部。「札の部」に「札」の事が載せてあり、「札」として「糀室札」「目籠札」「肴盬札」「酒出店札」「社人納札之札」「鳥殺生札」「掃除人御門出入札」「古手賣札」等々の文字が見えます。

なお、札については「目籠札六角印」「殺生札山形之焼印」「城下二入諸商札ハ、丸之焼印」と書いてあるので、焼印はあったようです。形については見受けられませんでしたが「寸法ハ當春中相触置候・・」とあるので、決まっていたみたいです。


また、「札」については「・・・且口銭之儀者(ハ)、酒株ハ口銭なし、酒出店小賣札壹ヶ年四匁五分宛、糀室札壹ヶ年二貮拾貮匁五分宛、糀小賣札は壹ヶ年二七匁五分宛・・・」と書いてあるので、「札」については口銭を取られたみたいです。


口銭については「島原藩の経済・高木繁幸氏著」に「小物成(諸運上・口銭)について」の所、「田畑にかけられる本年貢を『物成』とか『本途物成』とか呼ぶが、それ以外の雑年貢を総称して『小物成』と言った。」と説明してあります。

なお、島原藩の「札」については、各市の資料館を見て回ったのですが、現在の所、見つけることが出来ませんでした。


2021年4月12日 (月)

島原藩「松平主殿頭忠房公」の評価

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島原に疎い方のためにザッとですが・・・

島原は最初有馬氏が治めていました。居城は日野江城(現南島原市北有馬町)。有馬晴信が岡大八事件で死罪。
しばらく幕府領になりますが、次の松倉重政氏は島原城を築きます。重税とキリシタン弾圧をおこないますが、息子の勝家はどうしようないバカ息子で、島原・天草の乱を引き起こします。

次に高力氏が治めます。息子隆長時代に改易。次に深溝(ふこうず)松平氏の松平氏が福知山藩から入府。以後5代にわたり島原を治めます。前期松平になります。初代が松平忠房公。


次に、戸田氏が2代にわたり治めますが、再び松平氏が8代にわたり治め明治になります。ということで、島原半島でお殿様というと一般に「松平氏」になります。


で、血縁ではありませんが、自分のとこのお殿様というと、なんとなく気になるじゃありませんか。ということで、「江戸最高の名君はだれだ?」という文句に引かれ上の本を買いました。


松平忠房公といえば島原半島の安定化に努め、文学を愛し貴重な資料を集め、現在松平文庫に収められいます。また、江戸時代唯一の海外貿易港であった長崎の監督を命じられ、西国大名の監視も命じられていたという話もあり、幕府からも重用されています。ということあり、「名君」の一人に挙げられていまいかとは思ったのですが、残念ながら、でした。上の右の表が「名君ベスト30」です。クリックすると拡大します。


九州では、福岡藩主黒田長政、佐賀藩主鍋島直正、熊本藩主細川重賢、薩摩藩主島津斉彬。なお、平戸藩主松浦静山がベスト15位に入っていますが、あの人「甲子夜話(かっしやわ)」なんてすごい本書いているからナ。→こちらをクリック


「暴君・暗君ワースト10」も書いてありますが、松倉勝家などが載っているかと思ったら、ベスト10には入っておらず、「不行跡・乱心などが原因で改易された主な藩主」に上に書いた「高力隆長」が入っており「苛政」が原因です。地元では、松倉氏が悪政をした人物として有名なのですが。


なお、暴君・暗君のベスト1はなんと「浅野長矩(ながのり)」。あの松の廊下で吉良上野介に斬りかかった方。理由としては「悲劇の主人公のように見えて、実は江戸史上最悪の暗君といえる。」となっております。


その他、本書には「大名家の衝撃事件ファイル」など紹介してあり、なかなか面白い読み物でした。

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上の左の本は「武士の家計簿」で有名になり、TVなどでもよく見かける”磯田道史”氏が書かれた「殿様の通信簿」。ネタ本は右の「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」。

磯田氏によれば「『土芥寇讎記』は、書物というより、むしろ幕府隠密の『秘密諜報』で、公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもの、という説がある。」というものです。「土芥寇讎記」を翻刻し出版された金井圓氏によれば、書かれた時期が元禄三(1690)だそうで、当時の大名234人の人物評価を載せた希有な書物、だそうです。

磯田氏の本に松平公の事が書いてないかと思ってAmazonから取り寄せましたが、残念ながらでした。ただ、氏の知識と古文書の深読みには”さすが”という思いがします。

水戸光圀の”圀”はなぜ”國”を使わなかったのか。また、悪所通いをしたとあるが、その裏にはなにがあるのか?


前に書いた「浅野長矩」。舞台、映画、小説などでは素晴らしいお殿様として描かれてしますが、なぜ暗君と書かれてあるのかなどは目からうろこでした。

さて、「土芥寇讎記」に”松平忠房公”が載っていました。長いので、要点だけ・・・前半が隠密の多分報告で、後半が幕府の高官の意見だと思われますが

「政道順ナル故、家士心易シ。風俗落付、民間二寛(ゆたか)也。」・・・「忠房公ハ、勇気ヲ宗トシ、才智発明也。心意気淳直ニシテ、法ヲ不背、行跡穏順ニ、仁政ヲ施シ、家民ヲ哀憐スル事深シ。忠義ヲ立ント欲シ、勤候ヲ専ラトセラルト云へリ。


と書いてあり、意味が分からなくとも字を見れば、謹厳実直、誠実、真正直、真摯、生真面目、品行方正、石部金吉というような文字が頭をよぎるのですが・・・とにかく悪所通いなどは無かったようですが、「土芥寇讎記」の最後に、「辺国(島原の事)タルニ依テ、人民喧(かまびす)キ事多シト聞フ、心得アルベキ事ナリ。」とあり、「喧しい」は「やかましい。かしましい。」という意味があり、島原は狭いので悪所通いなどしたら週刊文春に載って「人民喧シ」ですヨ。と言うことで、真面目にしていたのかな、と思います。

忘れていました、忠房公の官位は”従四位下”。吉良上野介が”従四位下”。浅野長矩が”従五位下”で浅野さんよりは官位は上になります。どうでも良いことですが・・・(^^;)。



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