歴史

2020年9月18日 (金)

「島原藩下屋敷」のお隣さん

400dpi

以前、島原藩江戸屋敷について三回ほど書きました。

→こちらをクリック   →こちらもネ  →もう一つ、こちらもヨ


江戸絵図を見ながら二点ばかり、おや?っと思うことがあったので調べてみました。上の江戸図、矢印が島原藩下屋敷の場所です。各絵図はクリックすると大きくなります。


一つは島原藩下屋敷のお隣は誰なのよ、と言うことと、「下屋敷」は正式には「抱屋敷」ではなかったかの疑問です。


最初の方について、島原藩のザックリとした説明です。


島原半島周辺を有馬氏が押さえ、最初は日野江藩。「日野江城」と後年「島原・天草の一揆」の舞台となる「原城」がありました、現在の南島原市。

有馬晴信の時代、晴信は「岡本大八事件」で死罪。本来は一家断絶の所、晴信の子「直純」の妻が家康の養女であったためか、一時日野江城藩主を継ぐも、延岡藩へ転封、その後、子の清純の時代糸魚川に移封、その後越前丸岡藩へ移封(ここ、大事だから覚えておいてください)、明治まで続きます。


島原藩は一時幕府領となるも、松倉重政が藩主となり、子の勝家の悪政により「島原・天草の乱」勃発。勝家は切腹は許されず、大名として恥になる斬首刑。


次に高力家が二代、次に松平(深溝)家が五代、次に戸田家が二代、次に松平(深溝)家が戻ってきて明治まで続きます。

ということで、島原藩主として「有馬系」と「松平系」になります。

さて、江戸図の方ですが、実際の江戸図、復刻、国立国会図書館のデジタルコレクションをあせること数枚。

年代順に行くと、左が亨保年間左の矢印が「有馬トノモ」、右が「有馬左右門(?)」。右の図「松平トノモ」「有馬??」、「有
馬??」については後で分かりましたが、これは後ほど。

   Photo_20200918184301 Photo_20200918184401 

寛政時代の図。「松平とのも」と、これ残念ながら読めませんが下の段「左」と「へ」は読めそうです。青の矢印は先日紹介した「千代ヶ崎」です。

Photo_20200918184701

天保時代の図。「松平とのも」「有馬???」。「???」の所、古文書専門の方に読んでもらったら「さへのえ」ではないかとのことでしたが、正確には分かりませんでした。
嘉永時代の図。「松平とのも」と「あり馬??」。「??」はまったく読めません。

007 400dpi_20200918185301

と見ていって、面倒だから調べるの止めようかと思ったら2枚の図が手に入り、左の図「松平とのも」と「あり馬外吉」。もう片方が明和六年(1796)の図。「松平大和」「有馬大之進」。

ここを手がかりに調べると「松平家」は官職名「主殿守(とものもかみ)」がほとんどですが後期の初代松平藩主「松平忠恕」の官名が「主殿守、大和守、飛騨守」となっているので左の図は「大和守」の時代だったと思われます。


丸岡藩第四代目藩主が「有馬允純」。幼少名が「有馬外吉」。この殿様、生まれが1747年、藩主として跡を継いだのが1757年。わずか10歳の時と考えると、まだ幼少名を使っていたのかもしれません。


次が「有馬誉純」で幼少名「有馬大之進」。生まれが1769年、父の跡を継いだのがなんと1772年。何回計算しても「3歳」の時に家督を継いだことになり、父親と同じでまだ幼少名を使っていたのでしょう。


Photo_20200918185701 Photo_20200918185702

丸岡藩主の官名を見ると「左衛門守」が多いようです。「さえもん(ざえもん)」、律令時代は「さひょうえ」と言っていたようです。有馬晴信は「左衛門太夫」、直純は「左衛門太夫・左衛門佐」を使っています。

「有馬左右門」は「ありまさえもん」とも読め、「さへのえ」も「さひょうえ」ではないかと思います。発音は時代によって変わっているので、しかとは言えませんが。


忘れていました。上から二番目の左の「有馬??」は「有馬日向」ですね。第三代目「有馬孝純」の官職名が「日向守」。


上のような事から、下屋敷「島原藩主松平家」のお隣は「丸岡藩主有馬家」でした。


なんと、肥前島原の昔の藩主「有馬家」とその後の島原藩主「松平家」の藩主がお隣とは、話し合ったわけでは無いと思いますが・・・


なお、この地は以前書いたように江戸の名勝地でもあり、景色を眺めつつ、お隣同士酒を酌み交わし「その後の島原はどうでござる」など話している図を楽しく思い浮かべるのですが。


もう一点ですが、「抱屋敷」か「下屋敷」か。


島原藩主の事跡を書いた「深溝世紀」、寛永12年12月の所に「因老中板倉内膳正重矩、請買目黒長峰之地為別墅、報可」とあり、又、「新編武蔵野風土記稿」にも「松平主殿守抱屋敷当村中目黒上大崎三田等四村入會ノ土地ナリ」とあり、抱屋敷の気がするのですが地図では「●」がついており、これは「下屋敷」を表すのですが、私が「抱屋敷」と「下屋敷」の概念がはっきりしないので、これは今後の研究として・・・・


なお、本文は時代合わせ等をしていなくて間違いもあるかと思います。今日の所はこのへんで、長々とお付き合いありがとうございました<(_ _)>。



2020年9月15日 (火)

歴史を語る「絵葉書」~雲仙市千々石川

Img_20200915_0002

最近、又、千々石川の写真を入手しました。集まりかかれば集まるもんですが。

下から二段目の絵葉書は下流から撮ったものですが、上の写真は上流から撮ったものです。 飛び石が上流(手前)と下流(向こう側)に見えます。


現在、上流の飛び石は大きいものの、途中から切れてしまっています。下流側の飛び石は、見えはするものの、よく見ないと分からない感じです(以前紹介したかな?)。


P7280299

一番上の写真の飛び石と飛び石の間が近いので、現場に行ってみたら意外と近い事が分かります。上が上流の、下が下流の飛び石。

P7280332

一番上の写真、家の屋根が瓦なので近い時代ではないかと思われます。

現在、古文書研究会に入って勉強をしていますが、南串山の庄屋さんの文書(もんじょ)に、山が串のよう見えるから、「串山」という名前が付けられたなど書いてあります。もし、この文書がなかったら「串山」の名前の謂われが分かったかどうか、2~300年前の文書です。


以前書いたとおり、下の一番右の葉書は明治41年の年賀状に使われたものですから、それ以前の風景ものだとおもわれます。左の2枚の写真も明治時代だと推察されます。


Img_20200829_0001_20200915194901 Img_20200829_0003_20200915194401 Img_20200702_0003  

明治45年が109年前。人生100年時代、100年はあっという間です。

この絵葉書が残っていなかったら、このような橋が架かっていたことは分からなかったと思います。昔を知り、今を伝えていくことが必要だと思うのです。絵葉書に歴史ありです。


【追記】


忘れていました。上流の飛び石の写真を撮っていたら、婆様がいたので話しを聞いたら、この飛び石を渡ったところに祭りの御旅所があり、祭りの行列はこの飛び石を渡って行ったそうです。


ホンマかいなと思って、カミサンにきいたら「渡ったよ」と、で、もう一人50年配の女性に聞いたら「私も渡ったよ、小さいとき渡りきれなくて、川に落ちたけど」と言う話しでした。


祭りの参加人数は昔に比べれば、少なくなったそうですが、下のように沢山のひとがいますが、本当に渡ったんですかね。


Photo_20200915214001 Photo_20200915214101

いつ頃まで渡っていたのか詳しくは分かりませんでした。

当然、他人が知っていると思っても、話しをしてくれないと分かりません。今の子どもは、この飛び石の事も知らないと思います。


昔を知る方も段々と亡くなっています。今の時代、記憶より、何らかの形で記録を残す、話しを伝えていく事が必要だとつくづく感じました。


2020年9月 9日 (水)

「一分銀」の桜の事

P9091156

「一分銀」です。表と裏。一分銀四枚で一両小判一枚になります。このことは、いずれまとめるつもりです。

裏面の「銀座常是」については→こちらをクリック(大黒常是の項になります)


古銭の事を調べようと思っていたら、下の小冊子を見つけました。普通、一分銀というと一種類だと思うじゃありませんか。ところが、書体の違い、作りの違いによって何種類かあるようで「一朱銀」にいたっては126種類(「一朱銀」収集の手引き:茨城貨幣研究会 八木明男著)もあるそうです。


下の本を読んでいたら、「一分銀の分類方法」が書いてあり、書体の特徴、「定」極印、側面の仕上げの状態を見る方法もあるそうですが、上の一分銀を見ると、周囲に20個の桜が打刻されています。一分銀は作られた時期により「天保」「安政」「明治」の三種類に大別されるそうです(それ以外もあるようですが)。


この桜が一つ逆に打刻(逆桜)されているそうですが、この、位置により天保、安政、明治が分かるそうです。


下の右の図、赤の部分に逆桜があると安政の時代、緑の部分が明治、青の部分が天保だそうです。


Img_20200909_0002 Img_20200909_0001_20200909194101

「逆桜の位置が表裏とも上二段にあるときは安政一分銀、表の最下段、裏の三段が天保一分銀のゾーンです。ただし、全ての組み合わせが見つかっているわけではありません。」ということだそうです。

下の一分銀、表の下段の右端「逆桜」。裏の下段右から二番目が逆桜。と言うことは「天保一分銀」だと分かります。


Photo_20200909193501 Photo_20200909193401

表の二段目の左、裏の一段目が逆桜で「安政一分銀」だと分かります。

Photo_20200909193701 Photo_20200909193702

と言うようなことを考えながら見ていくと、古銭にはまりそうで怖いですね。他にも調べると面白い事があり、追々とご紹介を。

(参考資料・文、図引用「『一分銀』収集の手引き(入門編)定量銀研究会 桜野 鼓音編」より)




2020年9月 5日 (土)

「江戸の家計簿」★磯田道史監修~江戸のお値段・今のお値段

Img_20200905_0001

よく、江戸時代の一両は、今のいくらにあたるのか、ということが話題になります。

以前にも書いたように、イロイロと難しい問題があり、一口には言えない、ということになります。


磯谷氏、「武士の家計簿」で一般の方にも知られるところとなりましたが、「江戸の家計簿」の、「まえがき」と「本書における江戸時代のお金の計算方法」の所を読めば、どうして一口に言えないのかがよく分かります。


以下、磯谷氏の本から要約してみます。


「まえがきー江戸時代の貨幣制度」


・江戸時代、金貨、銀貨、銅貨、紙幣(注:藩札)があり、「三貨制度」といい、また、地域によっても異なっていたそうです。


・なお、名古屋と金沢を結んだ東側の東日本は金の貨幣を使い、西日本は銀の貨幣が流通をし、原因として東日本は金を産出しているところが多い、西日本は銀山が多かった。
また、西日本は古くより大陸と繋がっており、明・清の時代には中国では銀が流通をしており、西日本では銀遣いになったそうです。ということだそうです。

続けて「一両は6万円?それとも30万円?」ということになるわけですが・・・


「本書における江戸のお金の計算方法」ということで。


ひとつの目安として米の価格に基づいて換算する方法。磯谷氏は「現代価格」と呼んでいます。

2007年度の農林水産省統計に基づき、米5㎏を2100円で換算。米一石(約150㎏)=金一両は大体6万3000円。

もう一つの目安は労働に対する賃金で換算する方法。「現代感覚」と呼んでいます。

現代の大工見習いの平均賃金は1万5000円。江戸時代の大工見習いが、1石=1両を稼ぐためには20日間働く必要がある。1石=1両は、1万5000円×20日で30万。

比較して書くと下のようになります。

「現代価格」(現代の米5㎏あたり2,100円”2007年農林水産省統計に基づく”換算)

(米)1石=(金)1両=(銀)60匁=(銭)4,000文=(現在の価格)63,000円

「現代感覚」(現代の大工見習いの日当1万5000円として換算)

(米)1石=(金)1両=(銀)60匁=(銭)4,000文=(現代の価格)300,000円

となり、この驚くべき差額。これで、一口には言えないということが分かると思います。


この本は「第1章 江戸時代の収入①武士編」「第2章 江戸の収入②農民・町民編」「第3章 江戸時代の物価①食品編」「第4章江戸時代の物価 ②料理・嗜好品・雑貨編」「第5章 江戸時代の文化と経済」からなり立っていますが、第3、4章は「現代価格」で算出、第1、2章は「現代感覚」で算出、第5章は両方の計算法を用いたそうです。


本の内容は帯に書いてあるようなことですが、詳しくは本をお読みください。定価800円+税で、江戸の経済通になれます。なお、台風10号直撃で停電が予想され、場合によってはしばらくお休みカモです、m(_ _)m。




2020年9月 2日 (水)

これが「一文銭(寛永通宝)」なのか

P9021079

古文書を勉強して3年ばかり、相変わらず全然読めず・・・予習復習をまったくしていないので当たり前ですが。古文書の中に、上のように

一 鶏卵 大       掛目 十三匁

一 同  中通例     同  十匁
一 同  ひよこ玉子 小 同  六匁三分
一 野鴨玉子     小 同  廿弐匁

などと書いてあり、なんとなく分かるのではありますが、では、どういう貨幣を使ってたのよ?というと、全然分からず古銭を少々集めてみました。

なお、大判・小判も買ってみようかと思ったのですが、カタログを見ると一番お高いのが「100,000,000円」。お安いのでも超10万以上というので止めました。紀伊國屋文左衛門のようにキャバクラに行ってばらまけばモテるだろうとは思っていたのですが。


で、ネットオークションで安いのを集めてみました。偽物も入っていますが。


P9021048

下が一番有名でお安い「寛永通宝(かんえいつうほう)」。一文銭です。銅、鉄で鋳造され、明治2年まで200年ばかり庶民の銭として使われ、日本各地で作られたそうです。

これを見ながら懐かしかったですね。今は靴のサイズを㎝で表しますが、昔は靴のサイズを「文」で表わしていました。一文銭が約2.4㎝。これが何枚並ぶかで、サイズを表わします。靴サイズ24㎝の方は10文になります。私が小さいときはまだ「文」で言っていた記憶があります。ジャイアント馬場の「16文キック」を思い出します。


銭形平次も一文銭を投げていました。落語の「時蕎麦」でも一文銭が登場します。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)、オヤジ何時(なんどき)だい・・・」
と。ご存じない方はYouTubeで「ジャイアント馬場」さんも「時蕎麦」も「銭形平次」も見られます。一文銭は庶民のお金です。

Photo_20200902193401 Photo_20200902193402

なお、「寛永通宝」を見ていると少し大きく、重たいのがあり、アレ?と思って裏返したら、波の模様がありました。調べたら四文銭だそうです。

ちなみに、銭形平次と言えば大川橋蔵、八千草薫さんが有名ですが、北大路欣也さんも演じています。投げ銭を見たら波模様が入っていたので、北大路さんは四文銭を使っているのですね。もったいない。


Photo_20200902193403 Photo_20200902193601

他のをあせっていると、下のようなのが入っていて、よく見ると「宝永通宝」という銭で、宝永5年十文銭として鋳造され、裏面に「永久世用」とあり、左斜めの所「珍」の字が小さく刻印されています。

Photo_20200902193602 Photo_20200902193603

まだバリエーションがあるのですが、キリがないので・・・

古銭であまり程度が良いのでなけらば、まとめて千円もしないで手に入ります。実物を手に取って眺めれば楽しいですよ。




2020年8月22日 (土)

第6回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」~キリシタン禁制の高札

P8221032 Img_20200807_0003

今回で6回を迎えました。千々石関係の古絵はがき、島原・天草の乱の資料、アニメ・挿絵の原画、栗原玉葉、長崎関係の古地図と古絵はがき、そして今回が「キリシタン禁制の高札」。

キリシタン高札については、先日から書いているので、こちらを→クリック こちらも→クリック


高札はケースの外に出しているので、博物館の展示とは違い、間近に見られます。読み方、内容の説明も置いておりますので、ご利用を。


大きな高札場は浮世絵などにも登場しますが、上の右の絵図、南串山の古地図を見ると、庄屋さんの家の横に、「御高札」と描いてあります。なお、よく見ると石垣が組まれ、高札は柵の中に立てられています。


以前紹介しましたが、庄屋さんの古文書を読むと、出火のとき、最初に高札場、郷蔵を守るように書いてあり、高札がいかに重要なものであったかが理解できます。


コロナの影響で、人を集めるチラシをどうしようか考え、一ト月ばかり延ばしましたが、町内は来週の初め配布する予定です。

市外の方は場所が分からないとのことで、チラシの一番下に写真を入れました。
チラシはクリックすると拡大しますので、ご覧下さい。

Img_20200822_0002_20200822203701

なかなか本物を間近に見られることはないので、是非のお越しを。10月末まで展示をする予定ですが、「きまぐれ」なので延期するかもデス。


2020年8月17日 (月)

「仙石秀久」と「長崎奉行」と「島原・天草一揆」~徒然なるままに

Img_20200814_0001

以前、宮下英樹氏の仙石秀久についての作品にのことをよく書いていました。久しぶりに本屋さんに行ったら、並んでいたので思い出し、買って来ました。

先日より「キリシタン訴人の褒賞金」のことを書き、長崎奉行の長谷川権六について調べたのですが、その時、ついでに長崎奉行の一覧をみていると、長崎事典に、「第十一代奉行 仙石大和守久隆」となっており、仙石といえば珍しい名前で調べてみたら、千石秀久の7男さんでした。


奉行としては寛永十二年に榊原飛騨守と二人体制の奉行になります。わずか一年で馬場三郎左衛門と交代(長崎實録大成)。


長崎辞典では最後に「在任短期間で特記すべき事項なし。」とは書いてありますが、秀久さんの子どもさんなので調べてみると、實録大成の仙石久隆の所に、かの「金鍔次兵衛」さんの事が書いてありました。「金鍔次兵衛」については以前書いていました→こちらをクリック ついでに→こちらをクリック 。


「次兵衛ト云う邪宗門(中略)但此者平日金鍔ノ脇指ヲ指タル故、異名ヲ金鍔次兵衞ト云。同十四丁丑年六月訴人有テ召捕之。」ということは、仙石久孝さんが異動した後のことになりますが、気になるのが「訴人有テ」という所で、先日「訴人褒賞制」の事を書いたばかりですが、この「訴人」の方、莫大な褒賞金は貰えたのでしょうか?


これだけかと思って念のため「新訂 寛政重修諸家譜」(続群書類従完成會刊)を調べたら、下のような文が目に付きました。


(寛永)九年細川越中守忠利肥後國をたまふにより、十月十六日仰せをうけて板倉内膳正重昌に副て熊本に至る。


「板倉内膳重昌」といえば、「島原・天草の乱」で討ち死にした大将ですが、仙石久隆さん、城の引き渡しの時、板倉重昌の副史としてお供しているのですね。


さて、板倉重昌のことですが、「島原の乱とキリシタン」(五野井隆史著)より要約すれば、板倉重昌は一万五千石の小大名。重昌に付けられた石谷貞清は寛永十年に目付となり、上総・相模・甲斐三国のうち1500石を知行。


この、「知行の少ない両人の人選は、幕府が島原一揆を簡単に鎮圧できると楽観視していたことを示していた。」ということなのですが、板倉重昌が選ばれたのは「寛永九年に細川忠利・忠興が熊本城に、小笠原忠眞が小倉に配置換えの時、上使を命じられ城引渡しの役を務めた。このことが、彼の島原派遣決定の理由になったという(岡田章雄『天草四郎』)」。ということなのですが・・・仙石久隆を調べるついでに「寛政重修諸家譜」を見ると、板倉重昌について次のような事もかいてありました。


(寛永)九年肥後國熊本城を細川越中忠利に、同国八代を細川三齋(忠興)に、肥前國小倉の城を小笠原右近大夫忠眞に、同国中津城を小笠原信濃守長次に、同国高田城を松平丹後守重直に、豊後國杵築城を小笠原壹岐守忠知にたまふにより、十月十六日にかの國々におもむき、城引渡の役をつとむ。


ということで、熊本、小倉のみならず、思ったより多くの九州の城の引渡役を務めたことが分かります。多分、このことが九州各藩の事情を良く知っているという事で、上使に選ばれた一番の理由だと思うのですが・・・


十四年十一月九日肥前國嶋原有馬の古城に、切支丹の賊徒盾籠ときこえしにより、誅伐の上使をうけたまわりて、有馬におもむき、十五年正月朔日賊徒等を惣攻のとき、原城出丸の塀際において討死す。年五十一。

なんとなく、徒然なるままに調べているうちに、仙石秀久→長崎奉行 仙石久隆→島原・天草一揆 板倉重昌と繋がり、歴史って面白いですね。



2020年8月15日 (土)

「島原の乱」と「京都遊廓島原」の希薄な関係&「コンビニぶらり!ラッキー3つ!!」

Photo_20200815191201

以前より、島原・天草一揆の拠点「原城」の名前の由来・歴史を調べていたのですが、その折り、京都の遊廓「島原」の名前と島原の乱の「島原」とが関係あるというネットの情報があり、出典、根拠なども書いてなく、またネットデマかと思いつつも2冊ばかり本を読んでみました。

なお、こちら、島原・天草一揆の本場なので、数名の人にこの話をしても、知らないということでした。


「三大遊廓」。著者は”堀江宏樹”氏。作家・歴史エッセイスト。著書が「乙女の日本史」「乙女の日本史 文学篇」「女子のためのお江戸案内」等。


「地名で読む京の町(上)(下)」。著者は”守谷尅久”氏。主な経歴として、京都市史編纂所研究員、京都大学人文科研究所講師、京都市歴史資料館初代館長等。著作が「『花』が語る日本史」「京医師の歴史」「京都の祭り暦」「京都暮らしの大百科」等。


両氏が京都の「島原」について書いてある所だけ抜き書きします。


その前に、一応の歴史として、京都の遊郭は最初は天正17年、豊臣秀吉が認可して設けられ、場所は二条通りの寺町から柳馬場にかけて、二条柳町と呼ばれる。


二条城が築かれたため、二条通は大手筋と位置付けられ、遊郭が洛南の荒地六条通の新地町に移され、六条柳町・六条三筋町と呼ばれた遊郭で、「新屋敷」と呼ばれる。この地も東本願寺の寺内町で人口の密集のより再度の移転。


寛永17年、突如、洛北朱雀野への移転が命じられる。


森谷氏の書かれたものを抜粋しましたが、堀江氏の本では、もう少し内情が書かれています。なお、「突如、洛北朱雀野への移転が命じられる」がキーポイントになります。


堀江氏の本より・・・・・・

・・・板倉重宗(注:当時の京都所司代。なんと、島原・天草の乱で討ち死にした板倉重昌の兄。)によって指示された移転先は、京都の西端の「朱雀野」という、ずいぶんと鄙びた場所だったのです。さらにあまりに急な命令だったため、1641(寛永18)年の引越作業の騒動は、まるで「島原乱の如し」と話題になりました。
島原の正式地名は「西新屋敷」ですが、以降、島原遊郭と呼ばれるようになったのはこういう理由と経緯があったからです。

森谷氏の本より・・・・・・・

寛永17年(1640年:堀江氏の本では”寛永18年”)突如、洛北朱雀野への移転が命じられたのである。・・・・外周には土塀が設けられ・・・外界と隔絶されることになった。突如の移転命令による引っ越し騒ぎを、その数年前に勃発した島原の乱の混乱になぞらえて、「島原」と呼ぶようになったとか、堀に囲まれた新遊郭が島原城に似ていたからとも、たんに新地が島状になっていたからとも、命名の由来は例によって数説が伝えられている。

という事で、堀江氏は「島原・天草一揆」という説のみ、森谷氏は「・・・例によって数説が伝えられている。」と慎重な態度。多分、作家・エッセイストと学者という立場の違いでしょうが。大体の筋道は一緒です。

いずれの本も根拠、出典などが分からず、多分言い伝えなだけなのか、はっきりしないので「希薄な関係」にしました。

なお、遊郭の急な移転を命じたのが、島原・天草一揆で死んだ松倉重昌の兄重宗。この遊郭が「島原」と呼ばれるようになったというのには、なにか因縁めいたものを感じます。


森谷氏の本は「祇園 八坂神社ー栗飯にまつわる祇園祭、誹謗しあうおけらまつり・・・」など京都の各地についてのまじめな話です。


堀江氏の本は「遊女のヘアケア」「『つねる』と男は本気になる」「遊女が好んで用いた体〇」など面白い話が書いてあります。もちろん真面目なところもありますが・・・どちらの本を読むかは、自分の興味にあるほうを。


Photo_20200815191202 Photo_20200815191203 

今日、コンビニに行ったら、ラッキーなことが3つばかり。

「冷感マスク」については話ばかりで、こちら方面では実物は見たことがありませんでした。やっと、本物を手に入れることができました。一人一点だったので、明日、また買いに行く予定です。


「キリンレモン 無糖」が置いてありました。今年は、炭酸水が流行っているようですが、私も炭酸水を愛飲しています。以前より、キリンレモンの「無糖」が発売され、社長さんが自信をもって宣伝していたのですが、こちらではついぞ見かけることが無く、田舎では・・・と無念な思いをしていたのですが、やっと入荷していました。お味ですか?もったいなくて、まだ飲んでおりません。


「食べマス」が置いてありましたミニオンの「ボブ」さんですね。あと2種類あるとかで、また、明日行ってみます。


Photo_20200815191301

これで、一週間は幸せに暮らせます。今日は本当にラッキーな日でした。

大事なことを書き忘れていました。九州の片隅で起こった島原・天草一揆の事が京都まで伝わっていたという事は、この一揆がいかに大事件だったのかが分かります。以前、八代市立博物館、南島原市で天草・島原の乱の展示会があり、図録の題が「天草・島原の乱 徳川幕府を震撼とさせた120日」でした。まさに、その通りだったのでしょう。



2020年8月 5日 (水)

「キリシタン訴人の報償金」と長崎の濃密な関係

Photo_20200803191901

長崎の高札場風景。上は「長崎虫眼鏡」より。(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)

説明には


右之御制札

七串 桜町之辻
壱串 江戸町大波戸
弐串 おらんだ出島
三串 浦上村山王前
三串 長さきむら
四串 小せとむら

とありますが「串」の意味が分かりません。高札の数かと思ったのですが、「桜町」に7本は多すぎるような。


なお、下の図は「長崎名勝圖繪」(昭和6年発行・長崎史談會発行)より「出島」です。丸印のところが高札場だったと思われます。


Photo_20200803192501

さて、話しが少し込み入ってきますが、「踏み絵を踏んだキリシタン」(安高啓明著・吉川弘文館発行)に下のように書いてありました。

キリシタン訴人褒賞の制札は、各地の主要高札場に掲げられた。長崎では、毎月一日から五日まで嘱託銀が置かれ、寛永三年には、銀三〇〇枚の現物が置かれている(「長崎実録大成」)。これが天和元年になると、五〇〇枚と増額して置かれるようになり、周辺三町から番人が配された。


ということで、ほんまに現物を置いたのかと思い「長崎實録大成」を読んで見ると(下書きと、ブロブにアップしたとき行がズレるのでベタで書きます。)


御高札並嘱託銀

一 慶長ノ頃ヨリ大波戸地内二御高札塲ヲ建置ル。寛永三年(1626)切支丹訴人為嘱託銀三百枚被掛之。(嘱託銀三百枚とあるは百枚の誤りかの・・・の注有り)
一 延實八年(1680)八月豊後町掛リ水溜リノ所二土石ヲ埋メ、左右垣ヲ埋メ、左右石垣ヲ築、御高札塲被引移之。
柵内 入二間二尺寸 長六間四尺二寸
但晝番一名  夜番三人宛相勤シム
一 天和元年(1682)嘱託銀二百枚相增、都合五百枚ト成ル。(以下略)

ということで、年代などを合わせると「踏み絵を踏んだキリシタン」が「長崎實録大成」を参考にしたことが分かります。


ここで「嘱託銀」というのがよく理解できないので、Wikipediaで調べると


嘱託銀(しょくたくぎん、そくたくぎん)は、江戸幕府が犯罪に関する密告を奨励するために出した報償金制度である。特にキリシタン取締りのために出された物(訴人報償制、そにんほうしょうせい)が知られており、これに限定する場合もある。


とあります、が、「概要」の所を読んで、エ~!ホンマかいなと思いました。以下の通りです。


1618年(注:元和4年)頃、長崎奉行を務めた長谷川権六がキリシタン弾圧のため市中に銀の延棒30枚を掲げてキリシタンや宣教者の密告を奨励したといわれている。1626年(注:寛永3年)に銀100枚へと増加された。これは長谷川独自の政策であったが、島原の乱後の1633年(注:寛永10年)鎖国令制定の際に江戸幕府においても正式に採用されて全国に広がる。(以下略)


ということで、長崎が「キリシタン訴訟人の報償金制度」のルーツということになります。


参考文献として「重松一義『嘱託銀』(『国史大事典7』、吉川弘文館、1986)」「清水紘一『嘱託銀』(『日本歴史大事典2』、小学館、2000年」「『日本史総合辞典』東京書籍 林陸朗 村上直 髙橋正彦 鳥海靖 1991年11月10日初版発行」と3冊の本があげられていました。ということは、このWikipediaの説明を書いた人は原典を読んだものではなく、3冊の事典、辞典を孫引きしたことが分かり、調べついでに3冊の本を読んでみました。


「国史大辞典7」には


しょくたくぎん 嘱託銀 江戸時代、切支丹(伴天連)禁令強化の一手段として用いられた伴天連訴人奨励のための懸賞金。そくたく・嘱託銀とも呼び記される。寛永三年(1626)長崎ではじめて行われ、同十年の鎖国令により全国へ拡大適用。訴人へ銀百枚と増額。同十五年以降は鎖国令と別に、諸国高札場に伴天連訴人には銀二百枚を与える旨の高札が掲げ、その徹底が図られた。


とあり、参考図書が「新村出『日本吉利支丹文化史』『新村出全集6』」「海老沢有道『日本キリシタン史』」「清水紘一『キリシタン訴人制度について』(キリシタン研究 19)」。本当はこちらの参考図書まで読まないといけないのですが、図書館にも置いて無いのでパス。


「日本史歴史大事典2」には~「そくたくぎん」にて標記。主なところだけ書き抜きます。


嘱託銀 そくたくぎん 犯罪密告奨励のための報償銀。・・・キリシタン摘発時の報償銀が最高額であった。同褒賞銀制度の起源は一六一八年(元和元年)頃、長崎奉行長谷川権六によって市中の要所に延棒が陳列され、同地の潜伏する宣教師の密告が奨励された。・・・島原・天草一揆後諸国のキリシタン根絶に乗り出した幕府により、全国令として布達(1641年)。


参考文献として「清水紘一『訴人褒賞制について』(キリシタン研究第十九輯)


「日本史総合辞典」~この辞典は分野別に分けて書かれてあり「キリスト教の禁止と島原の乱」に「訴人報償制」として記載。


訴人報償制〔そにんほうしょうせい〕 ・・・密告人に対しては報奨金を与える政策をとった。元和4年(1618)長崎で初めて開始されたと考えられ、島原の乱のち全国的に適用されるようになった。・・・(参考文献記載なし)


この長谷川権六については「長崎事典」に次のように書かれています。


長谷川権六郎守直(はせがわごんろくろうもりなお) 生没年出自共に不詳。4代目奉行。・・・長崎奉行に存在した時期も慶長十九年十二月~寛永三年(長崎奉行歴代略譜)。元和元年(1615)~寛永二年二年(1625)「長崎実録大成」。また、元和二年(1616)(柳営補任)など不同である。寛政重修書家譜には、長谷川権六らしき人物は全く記載がなく見当たらない。


なお、〈事績〉としてキリシタンと関係ある所を書けば「①宗門人別帳をつくる。」とあり、あとキリシタン教徒を処刑したとあるばかりで、キリシタン訴人報償については記載なし。


さて、先日ネットで論文を拾ったのですが、残念ながら、著者等を記録してなく、「キリシタン高札が最初に建てられたのは寛三年であった」と書いてあり、注の所に「『長崎叢書』増補長崎略史下巻七百頁所携寛永3年の条」と書いてありますが、これ、最初の「長崎実録大成」に書かれてある、「寛永三年(1626)キリシタン訴人・・・」と年代がピッタリ合うという事で、多分、このことだと思われます。


さて、長谷川権六の次の奉行は「永野河内守」で「長崎實録大成」には就任が「寛永三丙寅(1626)」になっており、長谷川権六には寛永3年の記載もあるので、ひょっとして、月までは分かりませんが、この年に「水野河内守」と交代した可能性もあります。


ただ、「長崎實録大成」の「永野河内守」に「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之。」との記載があり、初めに引用した「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之」と同じで、多分、「長谷川権六」と書かれているのは「水野河内守」ではないかと思ったりするのですが・・・


いずれにしても、「キリシタン訴人報償金制」「キリシタン禁制の高札」は長崎が発祥の地で濃密な関係があったような・・・長崎の歴史書は多く、また、出版されていないのもあので、不明な点は多くありますが、論文をいろいろ読むと、最後にこう書かれているのが多いようです「今後の研究を待ちたい」。私も、今後の研究を待ちたいと思います。


最後に、この褒賞金についてですが、銀300枚とか、200枚とか書かれていますが、江戸時代、貨幣は変動相場制、また、比較を大工の手間賃にするのか、米価にするのかなど一概にはいえませんが、ネット検索すると「3,400万」とか「3,500万」とか書かれたものがあり、とにかく、当時では想像できない金額だと思われます。


この、報賞金が払われたかどうかは、探してみましたが見当たらなく、ただ一つ「長崎剳記」に次のように書かれていました。


一 明暦三年(1657)酉十月十一日二、大村ノ百姓、長崎

     酒屋町ノ池尻理左衛門所ニテ、大村二切支丹宗門ノ
     者出来候由、申候。理左衛門、御奉行黒川与兵衛(注:16代長崎奉行)二申上、
   銀十三貫目、為御褒美被下候事。

という事で、報奨金は払われていたようです。この「銀13貫目」がいくらになるのかは、調べてみてください。


以前にも、高札の事を書きましたが、庄屋さんの書いたものに出火の時には高札場を守れという事が最初に書いてあり、高札はそれほど大切だったことが分かります。


下は、庄屋さんの所にあった絵地図ですが、大きな赤丸のところ。赤の矢印が庄屋さん宅、すぐ横に「御高札」と書いてあり、周りは柵に囲まれています。多分、各地の庄屋宅の所にもあったと思われます。


Img_20200803_0001 

長々とまとまらないまま書きました。この件に関しては、長崎の歴史を書いた本を読み解かなければいけないのですが、今回はこれにて一応終了。多分、誤字、脱字も多いと思われますが、お許しあれm(__)m。

 


2020年8月 2日 (日)

「切支丹禁制高札」を読む

P7280356

「高札」については以前2回ほど書きました。

1→こちらをクリック
2→こちらをクリック

今回、「気まぐれ資料館」に展示をするので、内容説明のため読んでみました。多少、間違いもありますがお許しあれ。

なお、上の写真、下の説明文とも、クリックするとはっきり見えます。


Img_20200802_0001


意味は概略ですが


キリシタン(注:切支丹・吉利支丹・きり志たん・貴哩志丹、時代により色々な表現があります)は従来から禁止されている
不審な者があれば申し出でよ
褒美として

バテレン(司祭・神父)を訴えた者には 銀500枚

イルマン(修道士)を訴えた者には 銀300枚
キリシタンに立ち帰った者を訴えた者には 同じく(銀300枚)
同宿(教会の世話人)・キリシタンの者を訴えた者には 銀100枚

を与える


隠して他の者より分かった場合には、名主(庄屋)、5人組まで共に罪に問われる



他の人より訴えられ、バレた場合は名主、5人組まで罰せられるとは、厳しい。


さて、報償金の額を現代のお金に直すのは難しく、江戸時代、価格の変動があり、比較として大工の手間賃にするか、米の値段にするかで違いもあり、ということですがネットで検索すると「銀500枚は3,500万」「銀500枚は3,400万」「銀1枚は160gの重さで、これは庶民の約1ヶ月分の賃金に相当し、非常に高額な賞金である事が分かります」などと書いてありました。


なお、高札場は各村にもありましたが、下の絵は都会の高札場。左は三代目広重の「東京三十六景  日本橋御高札」。右は作者、場所不明。

Img_20200801_0002 P7310573

次回は、キリシタンを訴えたときの報償金と長崎の密接な関係を。多分。・・・夏バテしてなかったら・・・



より以前の記事一覧

フォト
2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ