歴史

2021年2月24日 (水)

島原「具雑煮」起源への多少の疑問

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具雑煮。ですね。島原の郷土料理で農林水産省選定の郷土料理百選にも選ばれているそうです。

中の具材が白菜、おモチ、鶏肉、卵焼き、春菊、焼き穴子等々たくさん入っているので「具雑煮」とか。正月、ハレの日にも食べているそうです。島原市内の食堂でも供されています。


もっとも、長崎市内でも雑煮には具は沢山入っていて、「長崎事典」では「長崎雑煮」として紹介されています。主なところを書いてみると


「菜」「鰤」「餅」の三種類が基本。清汁は鰹節、昆布、椎茸、酒しお、薄口醤油。具は五種、七種、九種、十三種。丸餅は焼いて、塩魚は鰤、アラ、鯛のどれか、かまぼこは紅白二種類、海老かまぼこは自家製、鶏団子は韓国渡りの鶴の身、鴨、雉子で自家製。これに里芋、筍、くわい、椎茸、結び昆布、干しナマコ、唐人菜を用いるのが特徴。ということで、これは、上高八重子著「ながさき・あまから」に載っているそうです。


面白いのが、菜をのせて名(菜)をあげる、食べないで名(菜)を残す、という縁起もあるそうです。


ただ、これは昔の旧家の話しではないかと思います。ウチの母も良い家のお嬢さんではありましたが、確かに、”これでもか”というほど具材は入れておりましたが、これほどではありませんでした。


閑話休題。某日、オクサマが二日ほど留守だったので、昼ご飯は面倒臭いのでお店に行ってみたら、冷凍の具雑煮とレンチンの具雑煮があったので買ってきて食しました。冷凍は具材が少なく、白菜も少々煮すぎかな?という感じ。レンチンは意外と具材も入っていて、焼いたお餅も3個ほどで、まあまあかな。


で、冷凍具雑煮の裏に具雑煮の説明が書いてあり、これ、ネットで調べると具雑煮の元祖、島原市の「姫松屋」さんの具雑煮の説明もほぼ同じで、他にも、島原市の観光情報、しまばらの観光案内、旅する長崎学、農林水産省も同じような書き方でしたが、読んで見ると、なんとなく???何ですね。


紹介してあるものの概略は


・江戸時代に起こった島原の乱に(具雑煮が)由来

・天草四郎率いる3万7千の一揆軍が、幕府軍との攻防の末、原城へと籠城
・その際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、山や海から様々な材料を集めて雑煮を作り、栄養をとりながら約3ヶ月も戦った

ということで、代表として、元祖「姫松屋」の説明は→こちらをクリック


ここで、違和感にとらわれたのが、「餅」という文字、「山や海から様々な具材を集めて」という表現。


原城に籠もった人数については、古文書、現代の研究者でいろいろあるようです。逃げ出した者もあるようで、一揆の初めと、落城の時では違っているということは言えると思います。寛政15年2月17日、岡山藩聞書には「原城篭城の人数は二万四千八百人という」。まあ、計算がやりやすいように大負けに負けて、2万人としてみます。


一揆の初期の頃は、一揆軍は籠城を覚悟していたのか、島原あたりから米を運んだ記録もあり、最初は食べ物はある程度あったと思われます。


ですが、具雑煮の説明に「餅」を、とありますが、一日何食食べたのかは分かりませんが、籠城を決め、食べ物の心配もあり、城の中で畑仕事をするわけでもなく、仮に一日一食だとして、餅を1個づつ食べたとしても、1日2万個。10日で20万個、30日で600万個、3ヶ月で1,800万個。毎日、餅を食べるわけでもないとして、半分でも3ヶ月間で900万個。こんな大量な餅を持ち込める訳では無いでしょう。


山や海から材料を集めたともありますが


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赤丸印が天草四郎が立て籠もっている本丸。このように囲まれた中で、山や海から2万人もの材料を集められるのか?もちろん海には幕府軍の船がいます。山と言えば野草、海と言えば魚と海藻。はたして、2万人の人間の「栄養をとりながら」という事が可能なのか。

一揆の終盤になりますが、「島原日記」、一揆軍の生け捕りにされた者の言葉「・・・城内二兵糧無御御座候由申候」。又、「嶋原天草日記」には「・・・伊豆守・左門令而使割賊之腹、其腹中有青蒼之物、依粮末困乏而食麦葉歟」とあり、一揆軍の腹を割いたところ青蒼のものがあったので、麦の葉を食べていたことが分かります。


ということを読むと、一揆軍は餓死同様だった事がわかります。


嶋原・天草の乱については、まだまだ諸説あるようです。一揆に加わった者もキリシタン、関ヶ原の戦い後の浪人等々あるようですが、島原藩主松倉親子の圧政で追い詰められた農民の抵抗だったのが一番の原因だたと思います。


原城に籠もった一揆軍は山田右衛門(やまだえもさく)一人を残して、一人残らず殺されたと言われています。


餓死寸前まで原城に籠もり、最後まで圧政に対して戦った人々に対し、「・・・栄養を取りながら約3ヶ月間も戦った」という表現には、いささか疑問を持ちました。

(参考文献「原史料で綴る 天草島原の乱
」「天草四郎と島原の乱」鶴田倉造編・著)



2021年2月17日 (水)

「銭マス」(江戸時代)について

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「銭マス」。「マス」は「升」「枡」「桝」と書くようです。

お金を数えるとき、硬貨が沢山あると一枚一枚数えるのは面倒なので、この銭マスにザラッと硬貨を入れると、マス目のところに硬貨が入り、入りきらないものをふるい落とします。これで、マス目に入った金額が一発で分かります。

上の銭マスは「LION」の文字が入っているので、現代の銭マス。「硬貨升」とも言っていたようです。私が小さいとき、銀行だったか、郵便局だったかで見た覚えがあります。

この「銭マス」は江戸時代にも使われており、下の写真、一番左は「LION」製。右の4個は江戸時代のものです。うち、右の3個は同じ種類のものです。


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下の銭マス。横のマス目が8、縦のマス目が10。裏には「一朱銀五両」とあるので、「一朱銀」を数える銭マス。

先日、「江戸時代の貨幣」をブログに書いたとき、江戸時代は基本四進法だと書きました。一両=二分金✕2枚=一分銀(一分金)✕4枚=一朱銀✕16枚。


ということで、一番上の横のマス目は8マスですから、2列で16枚が入ります。。一朱銀16枚が一両。横二列で一両になります。縦に10マス目ですから、10÷2でこのマス目を二朱銀で全部埋めると五両になります。


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下の写真、これは、多少考えました。よく見ると、横に5マス目、縦に8マス目。え~、5マス目ってアリ。ということで考えると、縦に8マス目なので、4✕2。

で、この銭マスは「弐分金 廿(二十)両」とあるので、2分金を数える銭マスとは分かります。で、縦が8マス目だから、2分金が2枚で一両、縦マスで2分金8枚で4両。横のマス目が5で、4両×5=20両。という事になります。


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この銭マスの造りが実に見事で、左が真鍮、右が木造りになりますが、これだけの細工をするのは腕のある職人だと思われます。

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左の真鍮の銭マスの裏側「萬延二歳 辛酉正月吉日 新調」。左は「壱朱銀五両枡」。万延二年は辛酉の年、1861年ですから、160年前。なお、万延は2年までで、2月19日に文久に改元。

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銭マスについての資料がほとんどなく、いつ始まったのか、種類はどれほどあるのか等は不明ですが、これを持っている人物は、かなり儲かっているお店なのかなと想像しました。

思い出しましたが、大江健三郎氏に「万延元年のフットボール」という小説がありましたネ。



2021年2月 7日 (日)

江戸時代の貨幣体系~ザッとですが・・・m(_ _)m

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前に、江戸時代の貨幣について2,3回ほど書きましたが、体系的で無いため、分かりにくかったと思います。私の方も、十分に把握できてない面もありますが、少し、まとめて書いてみます。多少の間違いはあるかと思いますが、そこは聡明な皆様でご判断を。

下の写真の貨幣については本物も偽物もあります。


偽物については、現代の土産物、学校教材などで作られたものもあります。江戸時代に作られた本物の偽物もあります(^o^)。ただ、江戸時代の偽物については、これはこれで、価値があり、集めておられる方もあるとか。


なお、一番上の図は「日本銀行貨幣博物館 発行『貨幣博物館』(昭和62年発行)」より取りました。クリックすると大きく分かりやすくなります。


下の貨幣、裏に「銀座常是」と極印がしてありますが、意味については→こちらを参照 もう一つ


江戸時代は「銀貨」「金貨」「銭貨」の三貨制になり、これが現代の我々からすれば分かりにくくなります。


右は「銭貨」。まとめて紐に通してあります。「銭緡(ぜにさし)」。一文銭が100枚、ですが96枚で100文として通用。四文は手数料だったらしいです。また、2,3,4の数で割り切れ便利で普及したとか、「九六銭」「九六百」とも(「貨幣博物館」より)。


4000文~6000文が1両になります(時代によって、貨幣価値が変わっています)。ですから、この束が40本~60本が一両になります。


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一朱金が手に入りませんでした。一朱金16枚で一両。左は二朱金。二朱金2枚で一分金、二朱金8枚で一両。

一分金が無く、一分金2枚で二分金。右が二分金で、二分金2枚で一両。一両はお高く手に入りませんでした。

訂正です。左も「二分金」でした。「二朱金」は入手出来ませんでした。


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下は銀貨、左が一朱銀、一朱銀16枚で一両。

二朱銀が無く、二朱銀8枚で一両。二朱銀2枚で右の一分銀。一分銀4枚で一両。

ということになります。上の図で確認を。間違っているところもあるかと思いますが・・・


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前にも書きましたが、下が「丁銀」と「豆板銀」。

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上の図にはありませんが、「南鐐(なんりょう)銀」。「以南鐐八片換小判一両」ですから、この貨幣8枚で一両。右は「以十六換一両」ですから、16枚で一両。

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下は丁銀、豆板銀の量目を計る「分銅」。後藤四郎兵衛家しか作るのが許されなかったそうです。詳しくは→こちらをクリック 。 汚れていたので、ブラシやら、コンパウンドを使って磨いたら、右のようにきれいになりました。


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とまあ、何やら江戸時代の貨幣の難しいこと。基本、四進法を頭に置いて下さい。




2021年2月 2日 (火)

今日は「医療費」の整理と「恵方巻」

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昨日から、年末の医療費の申告の整理をしています。

心臓病、爪水虫、神経症とこれは月に一回の診察。巻き爪の治療、肝臓の観察、前立腺の経過観察、歯の検診、これは2,3ヶ月に一回。緑内障、白内障の診察は半年に一回。昨年は久しぶりの大腸ガン健診、最近はボ~とすることが多く、物忘れがひどく、脳外科での診察。と、これだけの診療費の請求書の整理をすると大変ですヨ。おまけに、薬の方は調剤薬局で、領収書は別になります。


まとめているとき、薬剤薬局の領収書に、時々上のようなQRコードが付いたのがあって、多分薬屋さんの整理に使うのかな?と思っていたのですが、スマホで読み取ると下のような画面が出てきました。


最近は黒塗りの書類が多いようなので、白塗りにしてみました。上の左のQRコードは下の左の画面。自分の氏名、薬局の名前、責任者、病院名、担当医、処方された薬名。


右のQRコードは朝だけ1回薬を飲み、90日分もらいましたから、その事ですね。


このQRコードが付いた処方箋ははまだまだ少ないものの、これに副作用、飲むときの注意など書いてあったら、まだ便利になるのかな、とは思いました。


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今日は「恵方巻」の日です。どうも「節分」「豆まき」の方の影が薄れつつあります。昔、鉄筋コンクリート作りの県営アパートに住んでいて、1棟で24軒ばかりあり、他の部屋の音など聞こえて、節分の日は「鬼は外、福は内」の声が聞こえたものですが、最近は聞こえることが少なくなりました。

「節分」は2月3日で定着をしていますが、今年は2月2日が節分になります。これについては、国立天文所暦計算室のトピックスに書いてあります→こちらをクリック。


「節分」「恵方巻」についていろいろと書いてみようかと思ったら2015年3月3日に書いていたので→こちらをクリック。


この中で、偉そうに「商業ベースにのりたくないので、コンビニでは買いませんでした」などと書いておりましたが、今年は「セブンイレブン」で買っちゃいました(-_-)。


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入江相政(すけまさ)氏編の「宮中歳時記」に「節分の豆まき」について書いてありました。1979年(昭和54年)の本ですから、随分前の本ですが、この頃には、宮中での豆まきはすでに廃れていたそうですが、「後水尾院当時年中行事」にその頃の情景が描写されているそうですが・・・

「天皇は、折櫃(おりびつ)に入った豆を取って三度お打ちになり、次に勾当(こうとう)が殿中からお湯殿の上まで豆打ちをする。さらに天皇はお歳の数だけ豆を召し上がり、追儺香をお嗅になる。追儺香には薬草の白朮(おけら)が用いられ、その悪臭によって体内の邪気が追い出されると信じられていた。」


読んで見ると、私たちの家とは違い、優雅な豆まきです。ただ「後水尾天皇」は1596年生まれで、400年以上昔になりますが、この頃から、歳の数だけ豆を食べていたとは面白いですね。これにも、いわれが有るのでしょうが、各自調べてください。




2020年11月 6日 (金)

②「一切経の滝」と「稚児落しの滝」~雲仙二つの滝★稚児落しの滝編

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左の絵はがきは以前ブログに載せた写真。例によって、いつの頃の絵葉書かは分からなかったのですが、横浜に「絵葉書写真館」という所があり、そこをあせくっていたら(ネットで)、たまたま同じ絵葉書があって、幸いなことに上の方にスタンプが押してあり、「雲仙公園」「15.5.22(?)」「登(?)山記念」とあり絵葉書の説明は「長崎縣温泉公園稚児落の滝」とあるので、この絵葉書は明治44年~昭和9年の間に撮された写真です。

なお、この滝の歴史については以前書いているので、それを参考に→こちらをクリック


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写真の下の方の石に注意をすると、全部の写真にこの石が共通して見られます。

上の左の写真は「(雲仙の名勝)傳説に悲しき稚児落の滝」(英文の説明も有り)の説明あり。右の写真は「(雲仙)稚児落しの滝」の説明。あとは英文の説明。この2点については年代不明。


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左の写真は「(雲仙公園の名勝)傳説悲しき稚児落の瀧」、下の方に「(日本八景)C」の説明有り。日本八景に選ばれたのが昭和2年ですから、この後だということは分かりますが・・・

右の写真は「國立公園 雲仙 稚児落しの瀧の美観」。ありがたいことに裏に「昭和26年6月9日 雲仙岳登山記念」とあります。ただ、国立公園に制定されたのが昭和9年、写真の説明が、左から右書きと、「国」が「國」ということを考えれば戦前に作られた絵葉書だとも考えられます。


私がここを訪れたのは20年くらい前だったと思います。千々石から雲仙にいたる道の途中、「稚児落しの滝」という小さな案内版があったので、そこから入っていきましたが、あまり良い道ではなく、滝かな?と思う所はありましたが、写真のように水が流れ落ちるという風景ではありませんでした。


考えて見れば、ここは雲仙の別所に「加持川」(別所には700の僧房があり修行をしていた所で「加持祈祷」の「加持」と関係があります、多分)を堰き止めて「別所ダム」が作られています。竣工が1968年(昭和42)ですから、それ以降は満水時以外はあまり水が流れていなかったのだと思います、ですがね、近年、ここの写真が何枚かネットで見られ、あまり年月日は分からないのですが、その中に2010年の写真があり、これ結構水が流れ落ちています。→こちらをクリック

滝は雨の状態、放流等によって流れ落ちる風景が変りますが、こんなに流れているとは思いませんでした。

なお、上の写真を見ると女性の方、子供まで普通の服装で写っています。足元を見ても、ごく普通の靴。だということは、この頃は誰でも気軽に入れた所だと思われます。


このあたり、近年、道が拡張され、そのとき通りかかったら「立ち入り禁止」の札がありましたが、現在は案内表示、立ち入り禁止の札も無く、ガードレールに塞がれているようでした。歴史がある滝なので、整備をしたらどうなのかとは思いますが、以前のような滝があるのかどうかは不明です・・・危険な状態みたいなので、皆さんは立ち入らないように。


【追加】

この滝については「白雀」という謡曲があり、今まで埋もれていたのですが、平成27年島原城天守閣50周年記念の時、謡が復曲され披露されています。

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2020年11月 4日 (水)

①「一切経の滝」と「稚児落としの滝」~雲仙二つの滝★一切経の滝編

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雲仙には二つの滝があります。「一切経の滝」と「稚児落としの滝」。


この滝の事を書こうかと思っていたら、二つとも以前紹介したことがあるんですね。歳取ると、忘れることが多くて。で、やめようかと思ったのですが、古い絵葉書が手に入り、紹介方々。なお以前の記事は→こちらをクリック。詳しくは、こちらに書いているので参照してください。

上が雲仙の旅館街と付近の地図になります。大正13年に発行された、「温泉を繞(めぐ)りて★杉村廣太郞著」なので大正13年の雲仙の様子がよく分かります。クリックするとキレイに大きく見えます。

左の矢印が「稚児落としの滝」、右の矢印が「一切経の滝」、真ん中の大きな円が地獄と旅館がある所。


今回入手した絵葉書が下の2点。左は「大日本国立公園」の文字があるので、国立公園に制定されたのが昭和9年ですからそれ以降の風景。右は「長崎温泉(うんぜん)公園の瀧」とあり、長崎県立温泉公園は、明治44年に開設で昭和9年から国立公園ですから、この間の風景。


左の写真を見ると、いかにも「立派な滝!」と思いがちですが、右の写真、赤丸印の所に人が写っているので、滝の大きさが分かると思います。特に滝の右側の岩。特徴があるので一緒の滝だということが分かります。


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左の絵葉書、右が「稚児落としの滝」。左が今回紹介している「一切経の滝」。二つ並べているのは、なんとも珍しい。右の写真は前にも紹介しましたが、外人さんが滝の所を締め切ってプールにして遊んでいるところ(「雲仙お山の情報館」提供)。

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一切経の滝、稚児落としの滝は本、ネットなどで紹介され有名なのですが、千々石の方と話していると「稚児落としの滝はナンね」とか、「行ったことはナか」などと言われる方が多いみたいです。稚児落としの滝は、古い絵葉書が意外と多く残されています。残念ながら現在行くことができないので、次回、絵葉書でお楽しみを。



2020年10月19日 (月)

「先用後利」~志の輔落語VS北日本新聞社

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最近YouTubeで落語を聞くのが日課になっており、先日、志の輔さんの「先用後利」を聞きました。

よくできた落語で、最初古典落語かと思ったのですが、志の輔さんの故郷・富山県愛から作った新作です。前半がお笑い、後半が人情話的な噺です。


富山といえば私たちの時代では「置き薬」屋さん。家に薬を置き、半年くらいで再び来て使った薬の精算をし、古い薬は交換します。この時、紙風船を置いていきますが、これが楽しみでした。


志の輔さんの落語。時は江戸時代、まだ「置き薬」が知られていない頃。紙屋さんの支店の番頭さんが留守の時、富山の置き薬屋さんが来て薬を置いていきます。


丁稚さんから、半年後に来て料金は使っただけの薬の代金を払う、古い薬は入れ替える、という話を聞いて、「おかしいじゃないか、そんな商売はない!」と丁稚を叱りつけます。番頭さん、どこがおかしいのかをコンコンと説明しますが、ここのところ面白く、考えて見れば確かに番頭さんの言うことが正しい。


半年後、富山から置き薬さんが訪れ、番頭さんがいきさつを聞くと・・・


富山藩二代目藩主・前田正甫(まさとし)公は体が弱く、特に腹が悪くいつも薬(反魂丹・はんごんたん)を持っていた。


時は元禄三年。三春(福島県)藩主・秋田河内守が江戸城内にて腹痛を訴え苦しみ、これを見た正甫公がいつも持っていた薬を与えたところ、腹痛が治まった。これを見ていた諸国の大名、我が藩でもこの薬を広げてもらいたいと。


その後、正甫公、皆を集めて反魂丹を国中に届けてもらいたい、ただ、売りに行くのでは無い。まずはお届けする、使っていただき、よく効く薬だと信用していただき、次に伺ったとき使った分だけの代金をいただく。先に用いてもらい、信用していただき、後からお金をいただく。お殿様は「先用後利」だといった。ということで、国中に薬を届けているという事なのです。


もう一つ、越中富山には立山信仰があり、一人でも多くの者を救った者は極楽浄土にいけるという信仰があり、この信仰とお殿様の教えを支えに国中を回っている。


というお話で、実に心を打つ話しではありました。で、北日本新聞社から出版された「先用後利」という本があったので、読んでみると、いろいろな史料から「反魂丹」が出てくるのは明治時代からで、上の話は疑いがあるということでした。が、「この伝説は県民の多くに信じられ、歴史上の揺るぎない事実のように受け止められている。」と言うことです。ネットを見ても、ほとんどが志の輔さんの噺と一緒です。ただ、事実は違っているようですが。


他に色々な歴史の絡みがあり、一口でいうと「いろいろあった」ということであります。詳しく知りたい方は「先用後利」をお読みください。


以下は近代の噺ですが、この富山の置き薬屋さん、薬を売るだけではなく、北海道の開拓者の所に行っては「・・・仏壇一つとっても僻地では、ミカン箱に祀っているところが多く、私らは真宗や禅宗の法話をしてあげたら、喜ばれましてね・・・」「・・・業者からのお礼としてよく民謡を披露しました。」こともあったそうです。

なお、富山の薬売りさんは兼業農家が多く、各地を回っているため農業の知識もあったようで「・・・(売薬さんは)牛耕を東北地方に広めただけではなく、県内に農業の知識を持ち込んだことが十分、考えられる」。「富山県は全国的にみて稲の品種が多い。『種もみを広めたのが売薬さんであったように、種の品種もあちらこちらから持ち込んだ』という農業関係者は多い。」。このように、薬売りさんは薬だけではなく、文化を伝える、また、農業の振興にも関わってことも見受けられます。その他、諸々の事も書いてありますが、キリがないので・・・

さて、かようなことから志の輔さんの噺がひっくり返されそうで、私としては本を読みながら戸惑ったのでありますが、まあ、噺、伝説は楽しみ、事実は事実として勉強すれば良いのだ、と割り切って考える事に。でも何か、志の輔さんカワイソウ(・_・、)。あ!志の輔さんの噺きいてネ。YouTubeでロハで聞けます。


(文の引用は、志の輔さんの落語「先用後利」、北日本新聞社「先用後利」より)



2020年9月30日 (水)

卵の値段~ああ!またも勘違い・・・

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以前に、江戸時代の貨幣のことを書きました。

江戸時代、貨幣としては「金貨」「銀貨」「銅貨」がありました。「お江戸の意外な『モノ』の値段(中江克己著)」と「日本貨幣カタログ(日本貨幣商共同組合(2020版)」より、概略説明すると。


「金貨」は「数計貨幣」。一定の形状・量目を持ちその価値を示す数字、刻印があり、貨幣価値を保障された貨幣。単位は「両」「分」「朱」。小判を想像すれば分かると思います。


「銀貨」は「秤量(ひょうりょう・しょうりょう)貨幣」。品位、量目を検査して計って用いる。「貫」「匁」「分」。

下の写真の大きな方は「丁銀(イミテーションです)」。端数は丁銀を切って使っており、元和期になって端数計算に便利なように小重量銀貨である「豆板銀(写真の小さい銀貨)」が作られるようになったそうです。

「銅貨」は補助貨幣。以前説明した「一文銭」。


一番上の写真は、先日も載せましたが庄屋さんが書いたもの。


最初に卵の数値が書いてあります。古文書には時々モノの値段が書いてあるものがあり、「小平市史料村入用」には亨保5年9月6日に「たまこ五つ 代十五文」とあり、卵一個が三文。「庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし(成松佐恵子著)」には「卵10ヶ」として嘉永年間には「174~33(文)」とあり、卵一個が約17文~33文ですね。なお、出版された本では「江戸の卵は1個400円(丸田勲著)」などがあります。


貨幣の価格には時代の差もありますが、現代の価格に直す場合、基準を米で換算するか労働価値にするかで「江戸の家計簿」に見るように、一両が約6万円から30万円かという大きな違いが出てくるわけです。(こちらを→クリック) 

卵の値段になりますが「江戸の卵は400円」では文化文政期の一文を20円にしています。ですから小平市では卵1個が60円、「庄屋日記に見る・・・」では卵1個が約25文として500円。小平市ではいやに安いですね。

で、こちらの庄屋さんでは「鶏卵」が「十三匁」になっています。「匁」を使うのは「銀」になるので、一匁は「江戸の卵・・・」では、一匁「2000円」。ということは、13(匁)✕2000(円)=26,000円。ということは、いくら何でも無いでしょう。


ということで、考える事3日。ふと考えると、古文書に書いてあるのは、モノの値段ばかりですが、「匁」には「お金の単位」とは別に「物の重さ」の単位があるなと、1匁は3.756521グラムで、大体3.76グラムとすると、13(匁)✕3.76グラム=48.88グラム。家の卵の重さを量ると55グラム。これなら納得できますね。まったく、私の勘違いでした。


ということで、こちらの庄屋さんが書いたのは値段ではなく重さのことでした。値段を書いた庄屋さんはいますが、何のために卵の重さを計ったんでしょう?よほど閑だったか、科学する心を持った方なのか?迷惑な話でした。もっとも、日本広しといえど、卵の重さを計って書いているのは、この庄屋さんだけではないかと思うのですか・・・どんな方でしょう?


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ちょっと変わった「豆板銀」。「大黒銀」と呼ばれています。下の二つの丸が「俵」、向かって左が「小槌」、右が「福袋袋」、上は被り物。真ん中は「政」の字。昔とは思えないデザイン化したもの。この豆板銀は両面に大黒様が彫ってあり、「両面大黒」といって縁起物だそうですが、多分イミテーションかな?・・・・(^o^)

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2020年9月18日 (金)

「島原藩下屋敷」のお隣さん

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以前、島原藩江戸屋敷について三回ほど書きました。

→こちらをクリック   →こちらもネ  →もう一つ、こちらもヨ


江戸絵図を見ながら二点ばかり、おや?っと思うことがあったので調べてみました。上の江戸図、矢印が島原藩下屋敷の場所です。各絵図はクリックすると大きくなります。


一つは島原藩下屋敷のお隣は誰なのよ、と言うことと、「下屋敷」は正式には「抱屋敷」ではなかったかの疑問です。


最初の方について、島原藩のザックリとした説明です。


島原半島周辺を有馬氏が押さえ、最初は日野江藩。「日野江城」と後年「島原・天草の一揆」の舞台となる「原城」がありました、現在の南島原市。

有馬晴信の時代、晴信は「岡本大八事件」で死罪。本来は一家断絶の所、晴信の子「直純」の妻が家康の養女であったためか、一時日野江城藩主を継ぐも、延岡藩へ転封、その後、子の清純の時代糸魚川に移封、その後越前丸岡藩へ移封(ここ、大事だから覚えておいてください)、明治まで続きます。


島原藩は一時幕府領となるも、松倉重政が藩主となり、子の勝家の悪政により「島原・天草の乱」勃発。勝家は切腹は許されず、大名として恥になる斬首刑。


次に高力家が二代、次に松平(深溝)家が五代、次に戸田家が二代、次に松平(深溝)家が戻ってきて明治まで続きます。

ということで、島原藩主として「有馬系」と「松平系」になります。

さて、江戸図の方ですが、実際の江戸図、復刻、国立国会図書館のデジタルコレクションをあせること数枚。

年代順に行くと、左が亨保年間左の矢印が「有馬トノモ」、右が「有馬左右門(?)」。右の図「松平トノモ」「有馬??」、「有
馬??」については後で分かりましたが、これは後ほど。

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寛政時代の図。「松平とのも」と、これ残念ながら読めませんが下の段「左」と「へ」は読めそうです。青の矢印は先日紹介した「千代ヶ崎」です。

Photo_20200918184701

天保時代の図。「松平とのも」「有馬???」。「???」の所、古文書専門の方に読んでもらったら「さへのえ」ではないかとのことでしたが、正確には分かりませんでした。
嘉永時代の図。「松平とのも」と「あり馬??」。「??」はまったく読めません。

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と見ていって、面倒だから調べるの止めようかと思ったら2枚の図が手に入り、左の図「松平とのも」と「あり馬外吉」。もう片方が明和六年(1796)の図。「松平大和」「有馬大之進」。

ここを手がかりに調べると「松平家」は官職名「主殿守(とものもかみ)」がほとんどですが後期の初代松平藩主「松平忠恕」の官名が「主殿守、大和守、飛騨守」となっているので左の図は「大和守」の時代だったと思われます。


丸岡藩第四代目藩主が「有馬允純」。幼少名が「有馬外吉」。この殿様、生まれが1747年、藩主として跡を継いだのが1757年。わずか10歳の時と考えると、まだ幼少名を使っていたのかもしれません。


次が「有馬誉純」で幼少名「有馬大之進」。生まれが1769年、父の跡を継いだのがなんと1772年。何回計算しても「3歳」の時に家督を継いだことになり、父親と同じでまだ幼少名を使っていたのでしょう。


Photo_20200918185701 Photo_20200918185702

丸岡藩主の官名を見ると「左衛門守」が多いようです。「さえもん(ざえもん)」、律令時代は「さひょうえ」と言っていたようです。有馬晴信は「左衛門太夫」、直純は「左衛門太夫・左衛門佐」を使っています。

「有馬左右門」は「ありまさえもん」とも読め、「さへのえ」も「さひょうえ」ではないかと思います。発音は時代によって変わっているので、しかとは言えませんが。


忘れていました。上から二番目の左の「有馬??」は「有馬日向」ですね。第三代目「有馬孝純」の官職名が「日向守」。


上のような事から、下屋敷「島原藩主松平家」のお隣は「丸岡藩主有馬家」でした。


なんと、肥前島原の昔の藩主「有馬家」とその後の島原藩主「松平家」の藩主がお隣とは、話し合ったわけでは無いと思いますが・・・


なお、この地は以前書いたように江戸の名勝地でもあり、景色を眺めつつ、お隣同士酒を酌み交わし「その後の島原はどうでござる」など話している図を楽しく思い浮かべるのですが。


もう一点ですが、「抱屋敷」か「下屋敷」か。


島原藩主の事跡を書いた「深溝世紀」、寛永12年12月の所に「因老中板倉内膳正重矩、請買目黒長峰之地為別墅、報可」とあり、又、「新編武蔵野風土記稿」にも「松平主殿守抱屋敷当村中目黒上大崎三田等四村入會ノ土地ナリ」とあり、抱屋敷の気がするのですが地図では「●」がついており、これは「下屋敷」を表すのですが、私が「抱屋敷」と「下屋敷」の概念がはっきりしないので、これは今後の研究として・・・・


なお、本文は時代合わせ等をしていなくて間違いもあるかと思います。今日の所はこのへんで、長々とお付き合いありがとうございました<(_ _)>。



2020年9月15日 (火)

歴史を語る「絵葉書」~雲仙市千々石川

Img_20200915_0002

最近、又、千々石川の写真を入手しました。集まりかかれば集まるもんですが。

下から二段目の絵葉書は下流から撮ったものですが、上の写真は上流から撮ったものです。 飛び石が上流(手前)と下流(向こう側)に見えます。


現在、上流の飛び石は大きいものの、途中から切れてしまっています。下流側の飛び石は、見えはするものの、よく見ないと分からない感じです(以前紹介したかな?)。


P7280299

一番上の写真の飛び石と飛び石の間が近いので、現場に行ってみたら意外と近い事が分かります。上が上流の、下が下流の飛び石。

P7280332

一番上の写真、家の屋根が瓦なので近い時代ではないかと思われます。

現在、古文書研究会に入って勉強をしていますが、南串山の庄屋さんの文書(もんじょ)に、山が串のよう見えるから、「串山」という名前が付けられたなど書いてあります。もし、この文書がなかったら「串山」の名前の謂われが分かったかどうか、2~300年前の文書です。


以前書いたとおり、下の一番右の葉書は明治41年の年賀状に使われたものですから、それ以前の風景ものだとおもわれます。左の2枚の写真も明治時代だと推察されます。


Img_20200829_0001_20200915194901 Img_20200829_0003_20200915194401 Img_20200702_0003  

明治45年が109年前。人生100年時代、100年はあっという間です。

この絵葉書が残っていなかったら、このような橋が架かっていたことは分からなかったと思います。昔を知り、今を伝えていくことが必要だと思うのです。絵葉書に歴史ありです。


【追記】


忘れていました。上流の飛び石の写真を撮っていたら、婆様がいたので話しを聞いたら、この飛び石を渡ったところに祭りの御旅所があり、祭りの行列はこの飛び石を渡って行ったそうです。


ホンマかいなと思って、カミサンにきいたら「渡ったよ」と、で、もう一人50年配の女性に聞いたら「私も渡ったよ、小さいとき渡りきれなくて、川に落ちたけど」と言う話しでした。


祭りの参加人数は昔に比べれば、少なくなったそうですが、下のように沢山のひとがいますが、本当に渡ったんですかね。


Photo_20200915214001 Photo_20200915214101

いつ頃まで渡っていたのか詳しくは分かりませんでした。

当然、他人が知っていると思っても、話しをしてくれないと分かりません。今の子どもは、この飛び石の事も知らないと思います。


昔を知る方も段々と亡くなっています。今の時代、記憶より、何らかの形で記録を残す、話しを伝えていく事が必要だとつくづく感じました。


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