歴史

2020年11月 6日 (金)

②「一切経の滝」と「稚児落しの滝」~雲仙二つの滝★稚児落しの滝編

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左の絵はがきは以前ブログに載せた写真。例によって、いつの頃の絵葉書かは分からなかったのですが、横浜に「絵葉書写真館」という所があり、そこをあせくっていたら(ネットで)、たまたま同じ絵葉書があって、幸いなことに上の方にスタンプが押してあり、「雲仙公園」「15.5.22(?)」「登(?)山記念」とあり絵葉書の説明は「長崎縣温泉公園稚児落の滝」とあるので、この絵葉書は明治44年~昭和9年の間に撮された写真です。

なお、この滝の歴史については以前書いているので、それを参考に→こちらをクリック


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写真の下の方の石に注意をすると、全部の写真にこの石が共通して見られます。

上の左の写真は「(雲仙の名勝)傳説に悲しき稚児落の滝」(英文の説明も有り)の説明あり。右の写真は「(雲仙)稚児落しの滝」の説明。あとは英文の説明。この2点については年代不明。


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左の写真は「(雲仙公園の名勝)傳説悲しき稚児落の瀧」、下の方に「(日本八景)C」の説明有り。日本八景に選ばれたのが昭和2年ですから、この後だということは分かりますが・・・

右の写真は「國立公園 雲仙 稚児落しの瀧の美観」。ありがたいことに裏に「昭和26年6月9日 雲仙岳登山記念」とあります。ただ、国立公園に制定されたのが昭和9年、写真の説明が、左から右書きと、「国」が「國」ということを考えれば戦前に作られた絵葉書だとも考えられます。


私がここを訪れたのは20年くらい前だったと思います。千々石から雲仙にいたる道の途中、「稚児落しの滝」という小さな案内版があったので、そこから入っていきましたが、あまり良い道ではなく、滝かな?と思う所はありましたが、写真のように水が流れ落ちるという風景ではありませんでした。


考えて見れば、ここは雲仙の別所に「加持川」(別所には700の僧房があり修行をしていた所で「加持祈祷」の「加持」と関係があります、多分)を堰き止めて「別所ダム」が作られています。竣工が1968年(昭和42)ですから、それ以降は満水時以外はあまり水が流れていなかったのだと思います、ですがね、近年、ここの写真が何枚かネットで見られ、あまり年月日は分からないのですが、その中に2010年の写真があり、これ結構水が流れ落ちています。→こちらをクリック

滝は雨の状態、放流等によって流れ落ちる風景が変りますが、こんなに流れているとは思いませんでした。

なお、上の写真を見ると女性の方、子供まで普通の服装で写っています。足元を見ても、ごく普通の靴。だということは、この頃は誰でも気軽に入れた所だと思われます。


このあたり、近年、道が拡張され、そのとき通りかかったら「立ち入り禁止」の札がありましたが、現在は案内表示、立ち入り禁止の札も無く、ガードレールに塞がれているようでした。歴史がある滝なので、整備をしたらどうなのかとは思いますが、以前のような滝があるのかどうかは不明です・・・危険な状態みたいなので、皆さんは立ち入らないように。


【追加】

この滝については「白雀」という謡曲があり、今まで埋もれていたのですが、平成27年島原城天守閣50周年記念の時、謡が復曲され披露されています。

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2020年11月 4日 (水)

①「一切経の滝」と「稚児落としの滝」~雲仙二つの滝★一切経の滝編

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雲仙には二つの滝があります。「一切経の滝」と「稚児落としの滝」。


この滝の事を書こうかと思っていたら、二つとも以前紹介したことがあるんですね。歳取ると、忘れることが多くて。で、やめようかと思ったのですが、古い絵葉書が手に入り、紹介方々。なお以前の記事は→こちらをクリック。詳しくは、こちらに書いているので参照してください。

上が雲仙の旅館街と付近の地図になります。大正13年に発行された、「温泉を繞(めぐ)りて★杉村廣太郞著」なので大正13年の雲仙の様子がよく分かります。クリックするとキレイに大きく見えます。

左の矢印が「稚児落としの滝」、右の矢印が「一切経の滝」、真ん中の大きな円が地獄と旅館がある所。


今回入手した絵葉書が下の2点。左は「大日本国立公園」の文字があるので、国立公園に制定されたのが昭和9年ですからそれ以降の風景。右は「長崎温泉(うんぜん)公園の瀧」とあり、長崎県立温泉公園は、明治44年に開設で昭和9年から国立公園ですから、この間の風景。


左の写真を見ると、いかにも「立派な滝!」と思いがちですが、右の写真、赤丸印の所に人が写っているので、滝の大きさが分かると思います。特に滝の右側の岩。特徴があるので一緒の滝だということが分かります。


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左の絵葉書、右が「稚児落としの滝」。左が今回紹介している「一切経の滝」。二つ並べているのは、なんとも珍しい。右の写真は前にも紹介しましたが、外人さんが滝の所を締め切ってプールにして遊んでいるところ(「雲仙お山の情報館」提供)。

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一切経の滝、稚児落としの滝は本、ネットなどで紹介され有名なのですが、千々石の方と話していると「稚児落としの滝はナンね」とか、「行ったことはナか」などと言われる方が多いみたいです。稚児落としの滝は、古い絵葉書が意外と多く残されています。残念ながら現在行くことができないので、次回、絵葉書でお楽しみを。



2020年10月19日 (月)

「先用後利」~志の輔落語VS北日本新聞社

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最近YouTubeで落語を聞くのが日課になっており、先日、志の輔さんの「先用後利」を聞きました。

よくできた落語で、最初古典落語かと思ったのですが、志の輔さんの故郷・富山県愛から作った新作です。前半がお笑い、後半が人情話的な噺です。


富山といえば私たちの時代では「置き薬」屋さん。家に薬を置き、半年くらいで再び来て使った薬の精算をし、古い薬は交換します。この時、紙風船を置いていきますが、これが楽しみでした。


志の輔さんの落語。時は江戸時代、まだ「置き薬」が知られていない頃。紙屋さんの支店の番頭さんが留守の時、富山の置き薬屋さんが来て薬を置いていきます。


丁稚さんから、半年後に来て料金は使っただけの薬の代金を払う、古い薬は入れ替える、という話を聞いて、「おかしいじゃないか、そんな商売はない!」と丁稚を叱りつけます。番頭さん、どこがおかしいのかをコンコンと説明しますが、ここのところ面白く、考えて見れば確かに番頭さんの言うことが正しい。


半年後、富山から置き薬さんが訪れ、番頭さんがいきさつを聞くと・・・


富山藩二代目藩主・前田正甫(まさとし)公は体が弱く、特に腹が悪くいつも薬(反魂丹・はんごんたん)を持っていた。


時は元禄三年。三春(福島県)藩主・秋田河内守が江戸城内にて腹痛を訴え苦しみ、これを見た正甫公がいつも持っていた薬を与えたところ、腹痛が治まった。これを見ていた諸国の大名、我が藩でもこの薬を広げてもらいたいと。


その後、正甫公、皆を集めて反魂丹を国中に届けてもらいたい、ただ、売りに行くのでは無い。まずはお届けする、使っていただき、よく効く薬だと信用していただき、次に伺ったとき使った分だけの代金をいただく。先に用いてもらい、信用していただき、後からお金をいただく。お殿様は「先用後利」だといった。ということで、国中に薬を届けているという事なのです。


もう一つ、越中富山には立山信仰があり、一人でも多くの者を救った者は極楽浄土にいけるという信仰があり、この信仰とお殿様の教えを支えに国中を回っている。


というお話で、実に心を打つ話しではありました。で、北日本新聞社から出版された「先用後利」という本があったので、読んでみると、いろいろな史料から「反魂丹」が出てくるのは明治時代からで、上の話は疑いがあるということでした。が、「この伝説は県民の多くに信じられ、歴史上の揺るぎない事実のように受け止められている。」と言うことです。ネットを見ても、ほとんどが志の輔さんの噺と一緒です。ただ、事実は違っているようですが。


他に色々な歴史の絡みがあり、一口でいうと「いろいろあった」ということであります。詳しく知りたい方は「先用後利」をお読みください。


以下は近代の噺ですが、この富山の置き薬屋さん、薬を売るだけではなく、北海道の開拓者の所に行っては「・・・仏壇一つとっても僻地では、ミカン箱に祀っているところが多く、私らは真宗や禅宗の法話をしてあげたら、喜ばれましてね・・・」「・・・業者からのお礼としてよく民謡を披露しました。」こともあったそうです。

なお、富山の薬売りさんは兼業農家が多く、各地を回っているため農業の知識もあったようで「・・・(売薬さんは)牛耕を東北地方に広めただけではなく、県内に農業の知識を持ち込んだことが十分、考えられる」。「富山県は全国的にみて稲の品種が多い。『種もみを広めたのが売薬さんであったように、種の品種もあちらこちらから持ち込んだ』という農業関係者は多い。」。このように、薬売りさんは薬だけではなく、文化を伝える、また、農業の振興にも関わってことも見受けられます。その他、諸々の事も書いてありますが、キリがないので・・・

さて、かようなことから志の輔さんの噺がひっくり返されそうで、私としては本を読みながら戸惑ったのでありますが、まあ、噺、伝説は楽しみ、事実は事実として勉強すれば良いのだ、と割り切って考える事に。でも何か、志の輔さんカワイソウ(・_・、)。あ!志の輔さんの噺きいてネ。YouTubeでロハで聞けます。


(文の引用は、志の輔さんの落語「先用後利」、北日本新聞社「先用後利」より)



2020年9月30日 (水)

卵の値段~ああ!またも勘違い・・・

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以前に、江戸時代の貨幣のことを書きました。

江戸時代、貨幣としては「金貨」「銀貨」「銅貨」がありました。「お江戸の意外な『モノ』の値段(中江克己著)」と「日本貨幣カタログ(日本貨幣商共同組合(2020版)」より、概略説明すると。


「金貨」は「数計貨幣」。一定の形状・量目を持ちその価値を示す数字、刻印があり、貨幣価値を保障された貨幣。単位は「両」「分」「朱」。小判を想像すれば分かると思います。


「銀貨」は「秤量(ひょうりょう・しょうりょう)貨幣」。品位、量目を検査して計って用いる。「貫」「匁」「分」。

下の写真の大きな方は「丁銀(イミテーションです)」。端数は丁銀を切って使っており、元和期になって端数計算に便利なように小重量銀貨である「豆板銀(写真の小さい銀貨)」が作られるようになったそうです。

「銅貨」は補助貨幣。以前説明した「一文銭」。


一番上の写真は、先日も載せましたが庄屋さんが書いたもの。


最初に卵の数値が書いてあります。古文書には時々モノの値段が書いてあるものがあり、「小平市史料村入用」には亨保5年9月6日に「たまこ五つ 代十五文」とあり、卵一個が三文。「庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし(成松佐恵子著)」には「卵10ヶ」として嘉永年間には「174~33(文)」とあり、卵一個が約17文~33文ですね。なお、出版された本では「江戸の卵は1個400円(丸田勲著)」などがあります。


貨幣の価格には時代の差もありますが、現代の価格に直す場合、基準を米で換算するか労働価値にするかで「江戸の家計簿」に見るように、一両が約6万円から30万円かという大きな違いが出てくるわけです。(こちらを→クリック) 

卵の値段になりますが「江戸の卵は400円」では文化文政期の一文を20円にしています。ですから小平市では卵1個が60円、「庄屋日記に見る・・・」では卵1個が約25文として500円。小平市ではいやに安いですね。

で、こちらの庄屋さんでは「鶏卵」が「十三匁」になっています。「匁」を使うのは「銀」になるので、一匁は「江戸の卵・・・」では、一匁「2000円」。ということは、13(匁)✕2000(円)=26,000円。ということは、いくら何でも無いでしょう。


ということで、考える事3日。ふと考えると、古文書に書いてあるのは、モノの値段ばかりですが、「匁」には「お金の単位」とは別に「物の重さ」の単位があるなと、1匁は3.756521グラムで、大体3.76グラムとすると、13(匁)✕3.76グラム=48.88グラム。家の卵の重さを量ると55グラム。これなら納得できますね。まったく、私の勘違いでした。


ということで、こちらの庄屋さんが書いたのは値段ではなく重さのことでした。値段を書いた庄屋さんはいますが、何のために卵の重さを計ったんでしょう?よほど閑だったか、科学する心を持った方なのか?迷惑な話でした。もっとも、日本広しといえど、卵の重さを計って書いているのは、この庄屋さんだけではないかと思うのですか・・・どんな方でしょう?


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ちょっと変わった「豆板銀」。「大黒銀」と呼ばれています。下の二つの丸が「俵」、向かって左が「小槌」、右が「福袋袋」、上は被り物。真ん中は「政」の字。昔とは思えないデザイン化したもの。この豆板銀は両面に大黒様が彫ってあり、「両面大黒」といって縁起物だそうですが、多分イミテーションかな?・・・・(^o^)

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2020年9月18日 (金)

「島原藩下屋敷」のお隣さん

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以前、島原藩江戸屋敷について三回ほど書きました。

→こちらをクリック   →こちらもネ  →もう一つ、こちらもヨ


江戸絵図を見ながら二点ばかり、おや?っと思うことがあったので調べてみました。上の江戸図、矢印が島原藩下屋敷の場所です。各絵図はクリックすると大きくなります。


一つは島原藩下屋敷のお隣は誰なのよ、と言うことと、「下屋敷」は正式には「抱屋敷」ではなかったかの疑問です。


最初の方について、島原藩のザックリとした説明です。


島原半島周辺を有馬氏が押さえ、最初は日野江藩。「日野江城」と後年「島原・天草の一揆」の舞台となる「原城」がありました、現在の南島原市。

有馬晴信の時代、晴信は「岡本大八事件」で死罪。本来は一家断絶の所、晴信の子「直純」の妻が家康の養女であったためか、一時日野江城藩主を継ぐも、延岡藩へ転封、その後、子の清純の時代糸魚川に移封、その後越前丸岡藩へ移封(ここ、大事だから覚えておいてください)、明治まで続きます。


島原藩は一時幕府領となるも、松倉重政が藩主となり、子の勝家の悪政により「島原・天草の乱」勃発。勝家は切腹は許されず、大名として恥になる斬首刑。


次に高力家が二代、次に松平(深溝)家が五代、次に戸田家が二代、次に松平(深溝)家が戻ってきて明治まで続きます。

ということで、島原藩主として「有馬系」と「松平系」になります。

さて、江戸図の方ですが、実際の江戸図、復刻、国立国会図書館のデジタルコレクションをあせること数枚。

年代順に行くと、左が亨保年間左の矢印が「有馬トノモ」、右が「有馬左右門(?)」。右の図「松平トノモ」「有馬??」、「有
馬??」については後で分かりましたが、これは後ほど。

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寛政時代の図。「松平とのも」と、これ残念ながら読めませんが下の段「左」と「へ」は読めそうです。青の矢印は先日紹介した「千代ヶ崎」です。

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天保時代の図。「松平とのも」「有馬???」。「???」の所、古文書専門の方に読んでもらったら「さへのえ」ではないかとのことでしたが、正確には分かりませんでした。
嘉永時代の図。「松平とのも」と「あり馬??」。「??」はまったく読めません。

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と見ていって、面倒だから調べるの止めようかと思ったら2枚の図が手に入り、左の図「松平とのも」と「あり馬外吉」。もう片方が明和六年(1796)の図。「松平大和」「有馬大之進」。

ここを手がかりに調べると「松平家」は官職名「主殿守(とものもかみ)」がほとんどですが後期の初代松平藩主「松平忠恕」の官名が「主殿守、大和守、飛騨守」となっているので左の図は「大和守」の時代だったと思われます。


丸岡藩第四代目藩主が「有馬允純」。幼少名が「有馬外吉」。この殿様、生まれが1747年、藩主として跡を継いだのが1757年。わずか10歳の時と考えると、まだ幼少名を使っていたのかもしれません。


次が「有馬誉純」で幼少名「有馬大之進」。生まれが1769年、父の跡を継いだのがなんと1772年。何回計算しても「3歳」の時に家督を継いだことになり、父親と同じでまだ幼少名を使っていたのでしょう。


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丸岡藩主の官名を見ると「左衛門守」が多いようです。「さえもん(ざえもん)」、律令時代は「さひょうえ」と言っていたようです。有馬晴信は「左衛門太夫」、直純は「左衛門太夫・左衛門佐」を使っています。

「有馬左右門」は「ありまさえもん」とも読め、「さへのえ」も「さひょうえ」ではないかと思います。発音は時代によって変わっているので、しかとは言えませんが。


忘れていました。上から二番目の左の「有馬??」は「有馬日向」ですね。第三代目「有馬孝純」の官職名が「日向守」。


上のような事から、下屋敷「島原藩主松平家」のお隣は「丸岡藩主有馬家」でした。


なんと、肥前島原の昔の藩主「有馬家」とその後の島原藩主「松平家」の藩主がお隣とは、話し合ったわけでは無いと思いますが・・・


なお、この地は以前書いたように江戸の名勝地でもあり、景色を眺めつつ、お隣同士酒を酌み交わし「その後の島原はどうでござる」など話している図を楽しく思い浮かべるのですが。


もう一点ですが、「抱屋敷」か「下屋敷」か。


島原藩主の事跡を書いた「深溝世紀」、寛永12年12月の所に「因老中板倉内膳正重矩、請買目黒長峰之地為別墅、報可」とあり、又、「新編武蔵野風土記稿」にも「松平主殿守抱屋敷当村中目黒上大崎三田等四村入會ノ土地ナリ」とあり、抱屋敷の気がするのですが地図では「●」がついており、これは「下屋敷」を表すのですが、私が「抱屋敷」と「下屋敷」の概念がはっきりしないので、これは今後の研究として・・・・


なお、本文は時代合わせ等をしていなくて間違いもあるかと思います。今日の所はこのへんで、長々とお付き合いありがとうございました<(_ _)>。



2020年9月15日 (火)

歴史を語る「絵葉書」~雲仙市千々石川

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最近、又、千々石川の写真を入手しました。集まりかかれば集まるもんですが。

下から二段目の絵葉書は下流から撮ったものですが、上の写真は上流から撮ったものです。 飛び石が上流(手前)と下流(向こう側)に見えます。


現在、上流の飛び石は大きいものの、途中から切れてしまっています。下流側の飛び石は、見えはするものの、よく見ないと分からない感じです(以前紹介したかな?)。


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一番上の写真の飛び石と飛び石の間が近いので、現場に行ってみたら意外と近い事が分かります。上が上流の、下が下流の飛び石。

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一番上の写真、家の屋根が瓦なので近い時代ではないかと思われます。

現在、古文書研究会に入って勉強をしていますが、南串山の庄屋さんの文書(もんじょ)に、山が串のよう見えるから、「串山」という名前が付けられたなど書いてあります。もし、この文書がなかったら「串山」の名前の謂われが分かったかどうか、2~300年前の文書です。


以前書いたとおり、下の一番右の葉書は明治41年の年賀状に使われたものですから、それ以前の風景ものだとおもわれます。左の2枚の写真も明治時代だと推察されます。


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明治45年が109年前。人生100年時代、100年はあっという間です。

この絵葉書が残っていなかったら、このような橋が架かっていたことは分からなかったと思います。昔を知り、今を伝えていくことが必要だと思うのです。絵葉書に歴史ありです。


【追記】


忘れていました。上流の飛び石の写真を撮っていたら、婆様がいたので話しを聞いたら、この飛び石を渡ったところに祭りの御旅所があり、祭りの行列はこの飛び石を渡って行ったそうです。


ホンマかいなと思って、カミサンにきいたら「渡ったよ」と、で、もう一人50年配の女性に聞いたら「私も渡ったよ、小さいとき渡りきれなくて、川に落ちたけど」と言う話しでした。


祭りの参加人数は昔に比べれば、少なくなったそうですが、下のように沢山のひとがいますが、本当に渡ったんですかね。


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いつ頃まで渡っていたのか詳しくは分かりませんでした。

当然、他人が知っていると思っても、話しをしてくれないと分かりません。今の子どもは、この飛び石の事も知らないと思います。


昔を知る方も段々と亡くなっています。今の時代、記憶より、何らかの形で記録を残す、話しを伝えていく事が必要だとつくづく感じました。


2020年9月 9日 (水)

「一分銀」の桜の事

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「一分銀」です。表と裏。一分銀四枚で一両小判一枚になります。このことは、いずれまとめるつもりです。

裏面の「銀座常是」については→こちらをクリック(大黒常是の項になります)


古銭の事を調べようと思っていたら、下の小冊子を見つけました。普通、一分銀というと一種類だと思うじゃありませんか。ところが、書体の違い、作りの違いによって何種類かあるようで「一朱銀」にいたっては126種類(「一朱銀」収集の手引き:茨城貨幣研究会 八木明男著)もあるそうです。


下の本を読んでいたら、「一分銀の分類方法」が書いてあり、書体の特徴、「定」極印、側面の仕上げの状態を見る方法もあるそうですが、上の一分銀を見ると、周囲に20個の桜が打刻されています。一分銀は作られた時期により「天保」「安政」「明治」の三種類に大別されるそうです(それ以外もあるようですが)。


この桜が一つ逆に打刻(逆桜)されているそうですが、この、位置により天保、安政、明治が分かるそうです。


下の右の図、赤の部分に逆桜があると安政の時代、緑の部分が明治、青の部分が天保だそうです。


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「逆桜の位置が表裏とも上二段にあるときは安政一分銀、表の最下段、裏の三段が天保一分銀のゾーンです。ただし、全ての組み合わせが見つかっているわけではありません。」ということだそうです。

下の一分銀、表の下段の右端「逆桜」。裏の下段右から二番目が逆桜。と言うことは「天保一分銀」だと分かります。


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表の二段目の左、裏の一段目が逆桜で「安政一分銀」だと分かります。

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と言うようなことを考えながら見ていくと、古銭にはまりそうで怖いですね。他にも調べると面白い事があり、追々とご紹介を。

(参考資料・文、図引用「『一分銀』収集の手引き(入門編)定量銀研究会 桜野 鼓音編」より)




2020年9月 5日 (土)

「江戸の家計簿」★磯田道史監修~江戸のお値段・今のお値段

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よく、江戸時代の一両は、今のいくらにあたるのか、ということが話題になります。

以前にも書いたように、イロイロと難しい問題があり、一口には言えない、ということになります。


磯谷氏、「武士の家計簿」で一般の方にも知られるところとなりましたが、「江戸の家計簿」の、「まえがき」と「本書における江戸時代のお金の計算方法」の所を読めば、どうして一口に言えないのかがよく分かります。


以下、磯谷氏の本から要約してみます。


「まえがきー江戸時代の貨幣制度」


・江戸時代、金貨、銀貨、銅貨、紙幣(注:藩札)があり、「三貨制度」といい、また、地域によっても異なっていたそうです。


・なお、名古屋と金沢を結んだ東側の東日本は金の貨幣を使い、西日本は銀の貨幣が流通をし、原因として東日本は金を産出しているところが多い、西日本は銀山が多かった。
また、西日本は古くより大陸と繋がっており、明・清の時代には中国では銀が流通をしており、西日本では銀遣いになったそうです。ということだそうです。

続けて「一両は6万円?それとも30万円?」ということになるわけですが・・・


「本書における江戸のお金の計算方法」ということで。


ひとつの目安として米の価格に基づいて換算する方法。磯谷氏は「現代価格」と呼んでいます。

2007年度の農林水産省統計に基づき、米5㎏を2100円で換算。米一石(約150㎏)=金一両は大体6万3000円。

もう一つの目安は労働に対する賃金で換算する方法。「現代感覚」と呼んでいます。

現代の大工見習いの平均賃金は1万5000円。江戸時代の大工見習いが、1石=1両を稼ぐためには20日間働く必要がある。1石=1両は、1万5000円×20日で30万。

比較して書くと下のようになります。

「現代価格」(現代の米5㎏あたり2,100円”2007年農林水産省統計に基づく”換算)

(米)1石=(金)1両=(銀)60匁=(銭)4,000文=(現在の価格)63,000円

「現代感覚」(現代の大工見習いの日当1万5000円として換算)

(米)1石=(金)1両=(銀)60匁=(銭)4,000文=(現代の価格)300,000円

となり、この驚くべき差額。これで、一口には言えないということが分かると思います。


この本は「第1章 江戸時代の収入①武士編」「第2章 江戸の収入②農民・町民編」「第3章 江戸時代の物価①食品編」「第4章江戸時代の物価 ②料理・嗜好品・雑貨編」「第5章 江戸時代の文化と経済」からなり立っていますが、第3、4章は「現代価格」で算出、第1、2章は「現代感覚」で算出、第5章は両方の計算法を用いたそうです。


本の内容は帯に書いてあるようなことですが、詳しくは本をお読みください。定価800円+税で、江戸の経済通になれます。なお、台風10号直撃で停電が予想され、場合によってはしばらくお休みカモです、m(_ _)m。




2020年9月 2日 (水)

これが「一文銭(寛永通宝)」なのか

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古文書を勉強して3年ばかり、相変わらず全然読めず・・・予習復習をまったくしていないので当たり前ですが。古文書の中に、上のように

一 鶏卵 大       掛目 十三匁

一 同  中通例     同  十匁
一 同  ひよこ玉子 小 同  六匁三分
一 野鴨玉子     小 同  廿弐匁

などと書いてあり、なんとなく分かるのではありますが、では、どういう貨幣を使ってたのよ?というと、全然分からず古銭を少々集めてみました。

なお、大判・小判も買ってみようかと思ったのですが、カタログを見ると一番お高いのが「100,000,000円」。お安いのでも超10万以上というので止めました。紀伊國屋文左衛門のようにキャバクラに行ってばらまけばモテるだろうとは思っていたのですが。


で、ネットオークションで安いのを集めてみました。偽物も入っていますが。


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下が一番有名でお安い「寛永通宝(かんえいつうほう)」。一文銭です。銅、鉄で鋳造され、明治2年まで200年ばかり庶民の銭として使われ、日本各地で作られたそうです。

これを見ながら懐かしかったですね。今は靴のサイズを㎝で表しますが、昔は靴のサイズを「文」で表わしていました。一文銭が約2.4㎝。これが何枚並ぶかで、サイズを表わします。靴サイズ24㎝の方は10文になります。私が小さいときはまだ「文」で言っていた記憶があります。ジャイアント馬場の「16文キック」を思い出します。


銭形平次も一文銭を投げていました。落語の「時蕎麦」でも一文銭が登場します。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)、オヤジ何時(なんどき)だい・・・」
と。ご存じない方はYouTubeで「ジャイアント馬場」さんも「時蕎麦」も「銭形平次」も見られます。一文銭は庶民のお金です。

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なお、「寛永通宝」を見ていると少し大きく、重たいのがあり、アレ?と思って裏返したら、波の模様がありました。調べたら四文銭だそうです。

ちなみに、銭形平次と言えば大川橋蔵、八千草薫さんが有名ですが、北大路欣也さんも演じています。投げ銭を見たら波模様が入っていたので、北大路さんは四文銭を使っているのですね。もったいない。


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他のをあせっていると、下のようなのが入っていて、よく見ると「宝永通宝」という銭で、宝永5年十文銭として鋳造され、裏面に「永久世用」とあり、左斜めの所「珍」の字が小さく刻印されています。

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まだバリエーションがあるのですが、キリがないので・・・

古銭であまり程度が良いのでなけらば、まとめて千円もしないで手に入ります。実物を手に取って眺めれば楽しいですよ。




2020年8月22日 (土)

第6回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」~キリシタン禁制の高札

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今回で6回を迎えました。千々石関係の古絵はがき、島原・天草の乱の資料、アニメ・挿絵の原画、栗原玉葉、長崎関係の古地図と古絵はがき、そして今回が「キリシタン禁制の高札」。

キリシタン高札については、先日から書いているので、こちらを→クリック こちらも→クリック


高札はケースの外に出しているので、博物館の展示とは違い、間近に見られます。読み方、内容の説明も置いておりますので、ご利用を。


大きな高札場は浮世絵などにも登場しますが、上の右の絵図、南串山の古地図を見ると、庄屋さんの家の横に、「御高札」と描いてあります。なお、よく見ると石垣が組まれ、高札は柵の中に立てられています。


以前紹介しましたが、庄屋さんの古文書を読むと、出火のとき、最初に高札場、郷蔵を守るように書いてあり、高札がいかに重要なものであったかが理解できます。


コロナの影響で、人を集めるチラシをどうしようか考え、一ト月ばかり延ばしましたが、町内は来週の初め配布する予定です。

市外の方は場所が分からないとのことで、チラシの一番下に写真を入れました。
チラシはクリックすると拡大しますので、ご覧下さい。

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なかなか本物を間近に見られることはないので、是非のお越しを。10月末まで展示をする予定ですが、「きまぐれ」なので延期するかもデス。


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