歴史

2019年12月19日 (木)

「麒麟がくる」~NHK出版

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ご存じのように、いろいろありましたが、来年1月19日から明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」が始まります。

前回「いだてん」は見事コケましたが、NHK大河ドラマが今まで時代劇ばかりだったので、ずっと見ていた方、なんとなく違和感があったのだと思います
、私は最終回まで見ていました。

さて、上の本、まだ全部読んだわけでは無く、拾い読みしましたが、ドラマの「麒麟がくる」のノベライズではなく、表紙に書いてあるように「明智光秀の活躍した時代を最新研究を踏まえ徹底研究」という本で、あくまで「麒麟がくる」を見るための「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック」、参考書になります。


戦国武将というと、あちらについたり、こちらについたり、裏切りあり、謀反あり、謀略あり、妻だけでなく側室もありと姻戚関係も複雑なところがあるので、一応はこの本を読んで大河ドラマを見た方がベターかと。


一応主な目次だけあげておきます。


「『麒麟がくる』時代考証担当 小和田哲男と歩く舞台地」「明智光秀『麒麟がくる』人物相関図」「光秀の生涯」「最新研究 追跡・光秀の足跡」「新視点 光秀とその時代」「光秀の同時代武将最新情報」「物語のなかの光秀を追う」等々。各章それぞれ専門の方が書いておられます。


ミネルバ日本評伝選通巻200巻刊行記念でシンポジウム「明智光秀と『本能寺』の謎」が開催されたそうですが、ここ、ざっとしか書いてありませんが、呉座勇一氏の「織田信長の『天下』抗争」と「明智光秀の焦慮」という視点から本能寺の姿を見直し、信長と光秀が対照的な人物だったという通俗的な「前提」を批判する視点を示したそうです。


それに対し、光秀が「信長の非道を阻止する」ために本能寺の変を起こしたとみる小和田哲男氏が、自説への批判に反論する場面がみられた。


ということで、ここのところ、もう少し詳しく書いて欲しかったナ。


明智光秀については、まだまだ謎があり、呉座氏と大和田氏の見解にも見られるように、専門家でも解釈の違いがあり、特に織田信長に対する反乱に関しては様々な意見もあり、これ、ドラマでどのような解釈で描いていくのか、NHKさん、えらく難しい人物を主人公に選んだものだと思います。


2019年12月 3日 (火)

「決算!忠臣蔵」「『忠臣蔵』の決算書」と「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む」

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映画「決算!忠臣蔵」は先週の金曜日に封切りだったみたいですが、以前書いたように、私、昔の画面が広い映画館で映画を見ていたので、最近の小さな画面の映画館では映画を見た気にもなれず、一回見に行ったきりで、多分この映画も行かないと思いますが、本は読みました。

左の本が、山本博文氏が書かれた「『忠臣蔵』の決算書」、これを元に映画が作られ、右の本が映画をノベライズした本。著者は映画監督の中村義洋氏。


もちろん、中村監督は映画を元にして書いていますから、山本氏の「忠臣蔵」を分析した本とは違いますが、中村監督の映画、本も山本氏の本を基本にしたものです。


この「忠臣蔵」、今までの「忠臣蔵」を描いた本、映画とまったく違った観点、「お金」の面から描いています。「討ち入り」にかかった経費はもちろんですが、廃藩になったとき、いくらお金が残っていたのか、藩士の割賦金(退職一時金)まで書かれています。


なお、例えば一両が現代どれくらいの金額なのかは、なかなか難しい面があり、比べる基本になるのも、米価にするか、職人の一日の手間賃にするかで違ってきているようです。この本では、当時の蕎麦一杯の値段「十六文」を現代の蕎麦の値段、大体「480円」として計算をしています(多少安いような感じもしますが、山本氏が本を書いたのが2012年だからこんなもんかな?)。


なお、底本として大石内蔵助が遺した「預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)」を中心にして書かれています。この「預置候金銀請払帳」は山本氏の本の一番後ろに載せてあります。あまり、長いものではありません。


最後の給金と退職金が「一万九千六百十九両」今の「約23億円」。これを藩士300名で割ると「約七百八十万」ほどだそうです。もちろん藩士の階級によって違いがあります。なお、大石内蔵助は受け取らなかったそうです。


「討ち入り費用総額」が「七百両」現在のお金で、「約8400万円」だったそうです。この打ち明けについては、両方の本に書かれています。


なお、中村氏の本には「古参の小野寺十内(年収千十五万)や間喜兵衛(年収四百六十二万円)」など書いてありますから、これを見ていけば、どれくらい偉かったか、下っ端だったのか等がわかり便利です。映画でも年収は画面下の方に書いてあるとの話でしたが、見ていないので不明。


さて、買ってきた本にカバーがかかっていたので、はいでみたら、下のような地味な本でした。


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話変わって、たまたま「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む(編集・鬼頭勝之★発行者・舟橋武志★発行所・ブックショップ「マイタウン」)」という本を手に入れました。

「『忠義画像』は『義士四十六(ママ)傑画像由来』によれば、京都紫野の瑞光院(現在は境内に浅野長矩と赤穂義士の塔と赤穂浪士の塔と遺髪を収めた塚がある)にあった四十六の義士の終焉の正像(細川家が贈る)を写したものという。その画像は面目・毛髪少しも本人に違うところがなかった。しかし、質素かつ精密でないので、義士十七回忌(享保四年・一七一九)に当たり、討ち入り時の姿で描き、瑞光院に寄付しようとしている人がいて、この未完成の作品を写したのが本作品である、と記されている。」ということです。


パラパラとめくり4ページほどコピーしましたが、よく見ると槍、薙刀などを持った人が多く、刀を持った人は少ない。


記憶によれば、何かの本に、鉄砲が現れるまで、なんの武器で負傷したのか研究した人がいて(死亡者については当時は検死官はおらず、死屍累々を一人一人調べ記録すのは不可能)、まあ、負傷者の数と死亡者の数は比例するのかなとは思いますが、殺傷した武器として、矢、槍、薙刀、投石が多く刀は少なかったそうです。


刀は槍などがなくなった時の最終手段。また、当時は「首級を取る」といって首を切り取るためのものだそうです。余談ですが、後年に至り切り取った首をぶら下げて戦うのは不便で、耳や鼻を削いだそうです。ただ、耳は両方あるので一人打ち取って両方の耳を持ってくると2人分になるので、秀吉は朝鮮出兵のとき「人は両耳あり。鼻、すなわち一つなり。鼻を割りきて首級に変へん」という指令を出したそうです。


また、武田信玄が小荒間合戦の時に、武田方は「・・・・敵の武将は首級を、兵卒は左の耳を袋に入れて持って来い、その中身によって恩賞を与える」と激をとばしたそうです(「耳鼻削ぎの日本史★清水克之著」:なおこの本には「アイヌ間に行われし鼻削ぎの刑はこれを最後とする」という写真が載っていて、鼻削ぎがどのようなものかが分かります)。


閑話休題。

この図には鉄砲は載っていませんが、「決算書!忠臣蔵」には最後の武器調達の時、どんなに金が無かったのかが書いてありますが、鉄砲は高いので買えなかった、のではなく、暗い中、鉄砲を撃てば誰に当たるか分からない、というより、当時は火縄銃だったので、入り乱れて切り合いをしているのに、悠長に弾込めなどはできなかったのでしょう。また、鉄砲の音は大きいので近所迷惑で、騒音防止条例に違反します。

で、狭い所で切り合いするので刀は使いにくく、槍でつくほうが手っ取り早かったのだと思いますが・・・


というようなことを考えると、「弓」をもった人物もあり、使いにくいのではないかと思いますが、この弓がどのようなときに使う予定だったのかは、小説に書いてあります。


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下の表が、誰がどのような武器を使ったのかの一覧で、「表門側」と「裏門側」に分かれ、持っていた「武器」のほかに、氏名、年齢、役職、石高まで書いてありました。ボケて見にくいのですが、クリックするとキチンと読めるようになります。多分。

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という事で、「忠臣蔵」に興味のある方は、映画を見て、中村氏の小説を読んで、本格的には山本氏の本を読むのがベターだと思います。

なお、中村氏の小説には討ち入りの様子は書かれてありません。お金が中心の物語だから。ただ、少し肩透かしを食った感じで、コミカルな討ち入りの様子も読みたかったな・・・




 

2019年11月13日 (水)

「橋の裏表(入口・出口)」

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いつも橋を通るたび、橋の名前が片方が漢字、片方が平仮名になっているのは、何でだろうと思っていたら、たまたま「長崎浜の町繁盛記」(田栗奎作著・発行所 浜市商店連合会・非売品)という、浜町の起こりから昭和55年程度まで書いた本を読んでいると、橋の表裏について下記のように書いてありました。橋の裏表といっても、上と下ではありません。出口、入り口と表現したものもあります。

「・・・橋の裏表はふつう、漢字のある方が表、平仮名の橋名柱が裏となっている。この表裏は城または氏神を中心として決めたものとしていわれ、城下町でない長崎では奉行所を中心にしたようだ。大橋(注:現鉄橋)も築町側が表で、浜の町側は裏になる。明治元年の鉄橋のときも、『銕橋』という漢字の橋名柱は、やはり築町側に建てられた。」

さて、この橋の付け方は現在違っていて、Wikipediaの「橋名板」でググってください。一応下記のように書いてありますが、「国土国交省の道路橋示方書などに基準が示されるているものではなく、自治体などの発注者が仕様書などに定めている場合が多い」ということで、各自治体で違っているようです。

・道路起点側から見て左側に「漢字表記の橋名」

・道路起点側から見て右側に「交差する河川(鉄道)などの地名物」
・道路終点側から見て左側に「ひらがな表記の橋名」
・道路終点側から見て右側に「竣工年月」

ですが、徳島県では「県庁に向かって」「県庁を背にして」それぞれの左右に、「漢字表記」「竣工年月」「ひらがなの橋名」「河川名等」を書いているそうです。


原則「橋名」「竣工年月」「道路橋仕方書(年度)」「活荷重」「使用鋼材」「事業主体」「設計及び製作・施工会社名等」「将来の維持管理に最低限必要な事項」を記載しなければならないそうです。が、見たところ、全部書いてあったかな?
あとは、各自、地元の橋を調べてください。

なにはともあれ、「城または氏神を中心として決めた」というのが、好きだな~(*^^)v。



2019年9月23日 (月)

「光秀★沖方丁・池波正太郎・山田風太郎・新田次郎・植松三十里・山岡荘八著・細谷正充編」&「光秀の定理★垣根京介著」

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来年のNHK大河ドラマの主人公が明智光秀ということもあり、先頃「明智光秀五百年の孤独」を紹介しましたが、あと2冊ほど読んでみたので、ご紹介を。

「光秀」は6名の作家による短編集。


植松三十里「ガラシャ 謀反人の娘」のみ書き下ろし。沖方丁「純白(しろき)き鬼札」、池波正太郎「一代の栄光―明智光秀」、山田風太郎「忍者明智十兵衛」、新田次郎「明智光秀の母」、山岡荘八「生きていた光秀」はすでに発表されたものを細谷正充氏が編集したもの。


池波正太郎「一代の栄光ー明智光秀」は歴史読み物。沖方丁「純白き鬼札」は歴史小説。あとは、昔風にいえば「大衆小説」のジャンルか?


山田風太郎の小説は明智光秀が忍者というより妖術使い。なにせ、切り取られた腕が又生えるというお話。首まで生えます。山田風太郎らしい小説。新田次郎「明智光秀の母」、植松三十里「ガラシャ 謀反人の娘」は題名の通り、直接明智光秀を描いたものではなく、その周辺の人物を描きながら光秀に光をあてたもの。山岡荘八「生きていた光秀」。光秀については、生きていたという説もあります。


はやり、短編では光秀の全体像は見えませんが、まあ、光秀のこんな一面もあるのかな?と気楽に読むのには良いかもネ。


「光秀の定理」は以前、本屋さんに並んでいたもので、厚いのとお値段の関係で買うのを迷っていましたが、文庫本で出ていたので買ってみました。作者がお隣の諫早市出身、高校がウチの愚娘と同じ学校だということもありますが・・・以前紹介しましたが、「室町無頼」を読んで意外と面白かったということもあります。


物語は最初、愚息(愚かな息子、男性のあそこの事)と名乗る坊主が出てきますが、ただし、普通の坊主ではありません。道筋でバクチで稼いでいるが、四つのお椀に三個の石を、各お椀に一個づつ入れ、空のお椀を当てるという変わったバクチ。もちろん最後に勝つのは愚息。この、勝ち方が後日、光秀の戦いに使われ、それが光秀の出世に結びついていきます。

それと、玉縄新九郎という剣の道を求める武士が出てきます。もっとも、金がなく辻斬りをしますが、ここで愚息との出会いがあり、また、新九郎が辻斬りをしようとした相手が、なんと光秀。

ということで、これより、この三人の奇妙な関係ができますが、愚息、新九郎の助力が光秀の出世のきっかけになっていきます。


物語には本能寺の場面は出てきませんが、どうして光秀が謀反を起こしたのか、最後の章で愚息、新九郎が考えますが、果たしてこれが正解かどうかは読者の方が考える事でしょう。


「定理」という題に関しては若干抵抗があり、また、史実として読む方は反発されると思いますが、小説として読むなら、スピード感があり、変わった切り口で、面白く、分厚い本もあっという間に読めました。




2019年9月10日 (火)

「明智光秀五百年の孤独」宮崎正弘著~重箱の隅をつつくような事でスミマセン

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来年のNHKドラマが明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」だそうです。NHKの説明では謎の前半生に光があてられるそうです。が、はやり興味あるのは信長殺害の謎でしょう。これには多種多様な説があり、Wikipediaをみても、どれが本当か分からない。

大河ドラマが明智光秀のせいか、光秀に関する小説、評論が増えてきました。事実は一つ解釈は百通り、といった感じ。
この本の著者の宮崎氏は、光秀に関わりのある土地を回って検証を重ねています。

最初に有名な「愛宕百韻」の「ときは今天が下しる五月哉」の解釈からはいりますが、この解釈は覚えている限りでは、初めて読んだ解釈になります。詳しく書くとネタバレになるので、各自読んでネ。


氏は時の歴史の把握から信長殺害について、いろんな説をなで切りにしながら謎に迫ります。ただ、この説が正しいかどうかは読者の判断によるでしょうが、ご一読を。


さて、今日はこの本に書いてある事について「重箱に隅をつつくような事で」氏が書いている本論とは、まったく関係の無いことです。


氏の本に「なにしろ本能寺の変では近衛邸の屋根から御所に弓を放ったという尾ひれのついた話も京では庶民が噂した。近衛邸から本能寺まで弓も鉄砲も届くはずはなく、近いとされる二条御所との距離は三百メートル以上、弓の射程はせいぜい五十メートルである。」との記述があり、この「距離は三百メートル以上、弓の射程はせいぜい五十メートルである。」の所。特に気になるのが「弓の射程はせいぜい五十メートルである」。


「射程」の定義をどうとらえるか、単に届く距離のことなのか、的に当てることなのかですが、「近衛邸の屋根から御所に弓を放った」と書いてあり、人を狙ったとか書いてないので、単純に届くかどうかの問題と思います。


さて、弓の競技では近的競技と遠的競技があり、近的競技は距離が28メートル、的は直径36センチ。遠的競技は距離が60メートル、的は直径1メートル。


といことは、「弓の射程はせいぜい五十メートル」ということはありません。とくに「せいぜい」ということはありません。的が直径1メートルなら、人の身長が160センチ~170センチが普通だと考えると、五十メートルは十分に的として狙える距離です。


以前、九十九間堂の弓通しの事を書きましたが、あれは軒の下の廊下に座って弓を射ちますが、距離は約120メートル。120メートルは弓を上に向けて射てば、多分ある程度練習をした方は届くと思いますが、三十三間堂には庇があり高さが4.5メートル~5.3メートル、幅が2.6メートル、ということは普通の弓では庇にあたるので、強い弓を使います。


昔、和弓で「射流し」という距離を競う競技があったそうですが、一位は300メートル飛ばしたそうです。ですから、三十三間堂に使ったような強い弓で名手が射れば300メートルは十分に届く距離でしょう。


ちなみに、今は亡くなりましたが弓をやっていた方が、数十年前、矢がどれくらい飛ぶか弓を上に向けて射ったところ、弓道場を越え隣の学校の運動場へ飛んでいき、慌てて追っかけたそうです。休日で誰もいなかったそうですが、かなりの距離です。


なお、どれくらい強いかフライパンをぶら下げ28メートルの所から射ったら、穴があいたそうです。よい子の皆さんも、悪い子の皆さんも絶対に真似をしないように。


以前、私、アーチェリーをしていましたが、90メートルの的を射ち、矢を的の所に取りに行ったところ、私の矢が一本見当たらず、隣の的の人から「この矢誰のですか」との声があり、見れば私の矢でした。とにかく、遠くを狙うのは難しい。女性のハートを狙うのより・・・



2019年8月29日 (木)

「宮本武蔵」と「オリンピック」の微妙な関係・・・

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          (宮本武蔵自画像・島田美術館蔵・熊本県指定文化財~Wikipediaより)

島原・天草の乱で宮本武蔵が参戦していたことは以前に紹介しましたが、多少調べ直しをしていたら、武蔵の書いた物に、ご存じ「五輪書」というのがあります。が、あれ?「五輪」とはなんぞやと?


「五輪」というと思い出すのが「五輪塔」。下のような物です。供養塔、墓の事です。

下から「地輪」「水倫」「火倫」「風鈴」「空倫」といい、密教に関係があり「地」「水」「火」「風」「空」という思想があるそうです(ここの説明は、難しいので自学して下さい(^^)~)。五輪塔もこれにちなむものです。
 
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                   (Wikipediaより)

宮本武蔵の「五輪書」もこれに基づき「地の巻」「水の巻」「火の巻」「風の巻」「空の巻」の五巻でなり立っています。

さて、オリンピックのシンボルマークは五大陸を表す5つの輪からなり立っています。
日本の場合、オリンピックを「五輪」と表現することがあります、「五輪音頭」「五輪代表選手」「五輪選考会」等々。


で、Wikipedia「近代オリンピック」の項を読んでいると下のような記事がありました。



五輪は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵『五輪書』の書名を由来として、読売新聞記者の川本信正が1936年に考案した訳語である。本人は「以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著『五輪書』を思い出し、とっさに『五輪』とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた」と述べている。



このことは、読売新聞2013年9月12日付け新聞の記事「オリンピックを『五輪』と呼ぶのはなぜですか。また、『パラリンピック』とはどういうどういう意味ですか。」という所に載せてあるそうです。


ということで、「オリンピック」と「宮本武蔵」微妙な所で関係があったといえるような・・・・



2019年8月18日 (日)

第116回「なつぞら」~「商売〼〼繁盛」について

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なっちゃんの後ろの貼り紙「商売〼〼繁盛」と書いてあります。「〼」は「枡」を記号化したもので「ます」と読みます。ですから、貼り紙の文字は「商売ますます(益々)繁盛」と読みます。言葉遊びの一種です。
そのほか「空き家あり〼(ます)」「冷やし中華あり〼」などと使い、多分皆様も、あちらこちらで見かけることがあると思います。
ただですね、「〼タ●ー●●ン」などと使わぬように。ここ、分かる方は分かるし、分からない方は分からないと思いますが・・・・

さて、ここで若干問題があります、枡は「☐」で良いのではないか、「☐」の中の斜線はなんなのさ?という事です。


ウィキペディアで「〼」を調べると下記のように書いてあります。


・・・この用例は(注:〼を「ます」と読むこと)は江戸時代にかなり多かったが現代になってからは使用頻度は少なくなった・・・


下は私が所持している尾張藩の一升枡です。明治から現代まで150年あまり、と考えるとそれ以前の物だと分かります。もちろん、江戸時代のものです。


ご覧のように斜めに金具が入っているのが分かります。これで「商売ますます繁盛」は「商売☐☐繁盛」ではなく、「商売〼〼繁盛」という事が分かると思います。江戸時代の「〼」の記号をいまでも使っているという事です。


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この斜めの棒は「弦鉄」といい、米を計るとき上を平らにするため、「斗掻き(とかき)」「枡掻き(ますかき)」「枡掛き」という木の棒を使いますが、この時、掻きやすいように取り付けられたものだそうです。


小泉袈裟勝氏は「ものと人間の文化史36 枡(ます)」(法制大学出版局刊)で弦鉄の使用について疑問を書いておられます。詳しく書けば長々なるので、「枡」について研究されたい方は一読のほどを。この弦鉄がある枡を「つるかけ」「つるかけます」といいます。


さて、この私の尾張藩の枡と同じ尾張藩の枡が「東洋計量史資料館」置いてあり(ただし「弦鉄無し」)、以下のような説明になっています。


「資料名・品名★新京枡(徳川家康・尾張藩)」「年代★江戸時代」「収集者★東洋計器(株)土屋泰秀)「製造元・国★日本(名古屋)」「サイズ★口広:四寸九分 底深:二寸七分」「用途★米(年貢)」「要旨★徳川家康が定めた公定枡の規格で造られた尾張藩の焼印があり新京枡。京枡より約3%多く入れられるよう作られている」。これも一升枡です。

なお、枡は大きさをごまかされない様に「枡改」をしています。


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上の写真、左が尾張藩の焼き印、右は中の方まで焼き印が押してありますが、これは中に貼りものなどして、容量の不正を防ぐため。年貢などのときにごまかされないための予防。

下の左の写真、底板とその上の板に契印みたいに焼き印を押していますが、これも枡の改造防止のためでしょう。

下の右の写真、底の焼き印ですが、枡の大きさを焼き印しています。写真では分かりにくいですが「四寸九分」「二寸七分」。一升枡の大きさです。真ん中の丸いのは多分「穀用」ではないかと思われます。なお、「液用」の枡もありました。酒とか油などを計ります。大きさが「四寸九分」「二寸七分」で「東洋計量史資料館」に置いてあるものと同じ大きさですから、「新京枡」になります。

なお、島原半島の南串馬場庄屋の古文書に「枡改」の所に「弐寸七分 壱升」などの文字も記されてありますから、島原藩もこの「新京枡」を使ったことが分かります。

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枡については最初からこの大きさではなく、信長時代、豊臣時代、徳川時代と段々統一され、最終的にはこの新京枡が公認の枡になっています。

なお、江戸時代に京都と江戸で枡を専売した機関として「枡座」がありますが、東国は「樽屋」、西国は「福井家」。この両家で枡を造り枡改めを実施しますが、枡の製造を自藩で行うところもあり、枡座の完全な製造・販売の独占体制は不可能であったようです。越後高田藩、紀州藩などが藩は独自に枡を作っていたそうです。


下の写真は京都市が行った「福井家旧蔵 京枡座関係資料調査報告書」の中の1ページです。「弦鉄」のない枡もありますが、このように「弦鉄」が使われたものがたくさん載せてありました。


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枡については上に紹介した、小泉袈裟勝氏の「枡(ます)」と京都市の報告書を参考にしましたが、興味のある方はご一読を。小泉袈裟勝氏の本は少し大きな図書館にあると思いますが、京都市の報告書は入手しにくく、京都の図書館あたりには置いてあると思うのですが・・・

以上、長々と書きましたが、私自身も消化できないところもあり、分かりにくかったかと思います。「なつぞら」の「商売〼〼繁盛」を見て、以前調べていたものを思い出したので・・・<(_ _)>



2019年7月12日 (金)

「えんがわ・一畳の展示館」第二弾!!★島原・天草の乱絵図と軍記類の展示

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前にも書きましたが、ゆで野菜のマルニさんが、加工場の開き部屋を解放して、「えんがわ」ということで、地域の人が自由に使えるようにしておられるので、一畳ほどの展示ケースを作り、場所をお借りして、いろいろと展示することにしています。


第一弾は、千々石の古絵はがきを展示しましたが、時々行ってみると高齢者の方が懐かしそう見ておられました。


第二弾は「島原・天草の乱絵図と軍記類の展示」です。

島原市、南島原市には結構資料があり、世界登録遺産とやらで盛り上がっているのですが、雲仙市には(個人所有は分かりませんが)何もなく、なんとなく寂しくもあり、それで「島原・天草の乱」を選んでみました。といっても、わずか一畳ですから展示の限界もありというところですが・・・


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目玉が島原・天草の乱の原城攻めの陣図。そして、チラシ右側の、月岡芳年作「天草四郎」の錦絵(紙がもろくなっているのでコピーにて展示)。明治初期の作品です。

普通、天草四郎といえばマントを羽織ったりした美少年が描かれるのですが、これは、全くの武将の姿。


乱後約230年、しかも江戸と遠く離れた島原半島で乱を起こした天草四郎が長い年月、人々に語り続けられ、英雄として見られていたのかが感じられます。マントを羽織った少年のイメージと比較すれば面白いですね。なぜ、芳年がこのような姿を描いたのか、興味深い事です(紙がもろくなっているのでコピーにて展示)。


なお、ほかにも珍しい絵入り軍記もあります。

島原・天草の乱を勉強したい方のために参考図書も置いていますので、えんがわ内にてご覧下さい。


八代市立博物館の図録「天草・島原の乱~徳川幕府を震撼させた120日」には、乱に参加した宮本武蔵(もちろん、幕府方です)のその折りの書状の写真などものっています。

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「えんがわ」は千々石郵便局のすぐ近くで、郵便局から雲仙の方を見ると、すぐ近くに看板・旗が見えます。展示は9月末までを考えています。


なお、ゆで野菜の直売もしており、料理の手間が省けますから便利です。一度お試しを。



2018年12月21日 (金)

「高札」の取扱について

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昨年7月30日に、この高札「『キリシタン禁制』の高札」と言うことで、書きました。

昨日、M村の庄屋日記を読んでいると、(私は他人が読んでいるのを聞くだけですが・・・・)

「出火」の時にどうするか書いてあり


一 出火ノ折者(は)御高札場郷蔵(年貢米の一時保管倉)付近辺堅ク相守(あいまもり)其余ハ庄屋元へ懸付(かけつけ)火防き可申候・・・

と言うことで、一番先に守るのは、高札と郷蔵であり、高札がいかに大事にされていたかが分かります。

この高札は正徳元年ですから307年前になりますが、字があまりにも新しく、このことについては以前書きましたが、
「江戸時代のお触れ(藤井穰治著)」によると

高札は「・・・・年号の変わるたびに高札が書き改められ(中略)また文字の見えないものは書き改めることを命じることによって、キリシタン高札は大名領内にも幕府・公儀の高札として定着した。」と書いてあり、書き直されたことも大いにあるわけです。

このことについては、島原藩飛び地領が豊前豊後国境にあり、島原半島では三万八千石、飛び地領で二万七千六百石、合わせて六万五千九百石余りになります。

この、飛び地領の橋津組大庄屋・本多政辰により政務のため編纂された「執睨録」に高札について以下の文章が見られました。


●御高札御墨入願之事

 (略)

「右村々御高札場、風受強、其上木陰二御座候故、打雨ニ文字薄相成、難相分御座候間、何卒御墨入被成下候様出申候、此段相叶候様、宜被仰上可被下候、以上。」と言うことで、御代官宛に橋津左源太(庄屋)から願い出が出ています。

要するに、高札が雨風等にさらされ、文字が薄くなり、見やすいように墨入れをして良いかということを、奉行の許可をもらう願いです。

これらを読むと、高札がいかに大切だったものかということがよく分かります。現代の自治会の掲示版とはダンチですね。


参考:
「M村庄屋日記」「江戸時代のお触れ(藤井穰治)」「執睨録(別府大学附属博物館)」






2018年8月 1日 (水)

「慶巌寺の山門」について~長崎県諫早市

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先日、お箏の六段と慶巌寺のことを書きましたが、ふと思い出したことがあるので。実は、この山門、このお寺を作った時に作ったのではありません。

下は諌早神社(旧名・四面宮)。じつは、この山門はここにあったのです。

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行って見たら、神社に向かって左側、神社の老朽化のため建て直しみたいで、右側には立派な庭園があったそうですが、それも復元するようです。

この新神社を建てるところ、以前は空き地でした。明治2年の神社明細帳調をみると、何か建物があるような図面でした。

諌早神社の由来が書いた看板がありましたが、赤線のところ、「明治時代の神仏判然令により、並祀していた荘厳寺は分離されることとなり、本尊などは近くの寺院に移設。その際に、社名を四面宮(注:しめんぐう)から『諌早神社』と改称した。」ということで、諌早神社の中に荘厳寺が並祀されていたことが分かります。

「諌早を歩く~山口八郎著」には「明治元年の神仏分離令によって、荘厳寺は廃され、本尊の阿弥陀三尊像は安勝寺に、総ケヤキ造りの山門は慶巌寺に、お寺の什器類は、行基ゆかりの竹崎観音寺に移されました。寺の境内にあった諸石仏は、𡧃都墓地の入り口に移し並べてあります。」と書いてあります。

なお、四面宮の本社は雲仙の温泉神社。四面宮は、千々石、吾妻町、有家町、そしてここ、諌早神社が四面宮ですが、現在、諌早以外は「温泉神社」と改名をしています。

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こちらは、山門を裏から見たところ。

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下は、旧諫早市郷土館の「解説シート(歴史編)」に載っている慶厳寺の説明です。

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この荘厳寺の山門については「高城の史蹟~山口祐造著・諌早高城会発行」に詳しく書いてあり、要略すると、荘厳寺は諌早家の始祖龍造寺家晴公が入部して四面宮の神殿、拝殿を改築し、さらに祈祷寺として荘厳寺を建立したので荘厳寺は四面宮の神宮寺となり、家晴公は寺領米として、毎年二十七石を給したそうです。

前に書いたように荘厳寺は解体されますが、山門だけは残っていて、山門だけ残しているのも不自然だということで、山門も壊そうとしたところ、慶厳寺でこのことを聞き、話し合い、慶厳寺へ解体移築したのが、明治27年11月。

両側の仁王像を解体修理したところ、「延宝三年(1675年)、京都柳馬場二条上寺町、大仏師法橋康祐作」と墨書いてあったそうです。

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良い木鼻ですね。

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両脇の欄間彫刻は浜辺の老松と打寄せる波を象り、日本様式。楼門の柱は丸柱で、禅寺の四角柱のような雄々しさはなく、優しい風情を湛えているそうです。

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どうにもわからないのが、山門の入り口のすぐ上の彫り物。

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上側は諌早家の家紋「上り藤」。下が、お猿さんみたいなのですが、なにか意味があるのでしょうが、調べましたが分かりませんでした。

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慶厳寺の駐車場には磨崖仏が彫ってありますが、ひょっと見ると数字が彫ってあって、「32.7,25」。何だろうと、思ったら、昭和32年の諌早大水害の日。
死者、行方不明539名、負傷者1,476名、家屋破損2,221戸・・・被害総額、当時約87億円(現時点に換算すると415億円)

随分高いところに書いてあって多分、水害時の水位が刻んであるのでしょう。災害の大きさが分かります。

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お世話になった本
「高城の史蹟~山口祐造著・高城会発行」「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 諌早~諌早史談会編著者」「諌早を歩く~山口八郎著」「諌早史談~田中為市著」「諌早郷土館開設シート(歴史編)」「諌早市史~昭和33年発行」



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