歴史

2018年8月 1日 (水)

「慶巌寺の山門」について~長崎県諫早市

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先日、お箏の六段と慶巌寺のことを書きましたが、ふと思い出したことがあるので。実は、この山門、このお寺を作った時に作ったのではありません。

下は諌早神社(旧名・四面宮)。じつは、この山門はここにあったのです。

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行って見たら、神社に向かって左側、神社の老朽化のため建て直しみたいで、右側には立派な庭園があったそうですが、それも復元するようです。

この新神社を建てるところ、以前は空き地でした。明治2年の神社明細帳調をみると、何か建物があるような図面でした。

諌早神社の由来が書いた看板がありましたが、赤線のところ、「明治時代の神仏判然令により、並祀していた荘厳寺は分離されることとなり、本尊などは近くの寺院に移設。その際に、社名を四面宮(注:しめんぐう)から『諌早神社』と改称した。」ということで、諌早神社の中に荘厳寺が並祀されていたことが分かります。

「諌早を歩く~山口八郎著」には「明治元年の神仏分離令によって、荘厳寺は廃され、本尊の阿弥陀三尊像は安勝寺に、総ケヤキ造りの山門は慶巌寺に、お寺の什器類は、行基ゆかりの竹崎観音寺に移されました。寺の境内にあった諸石仏は、𡧃都墓地の入り口に移し並べてあります。」と書いてあります。

なお、四面宮の本社は雲仙の温泉神社。四面宮は、千々石、吾妻町、有家町、そしてここ、諌早神社が四面宮ですが、現在、諌早以外は「温泉神社」と改名をしています。

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こちらは、山門を裏から見たところ。

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下は、旧諫早市郷土館の「解説シート(歴史編)」に載っている慶厳寺の説明です。

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この荘厳寺の山門については「高城の史蹟~山口祐造著・諌早高城会発行」に詳しく書いてあり、要略すると、荘厳寺は諌早家の始祖龍造寺家晴公が入部して四面宮の神殿、拝殿を改築し、さらに祈祷寺として荘厳寺を建立したので荘厳寺は四面宮の神宮寺となり、家晴公は寺領米として、毎年二十七石を給したそうです。

前に書いたように荘厳寺は解体されますが、山門だけは残っていて、山門だけ残しているのも不自然だということで、山門も壊そうとしたところ、慶厳寺でこのことを聞き、話し合い、慶厳寺へ解体移築したのが、明治27年11月。

両側の仁王像を解体修理したところ、「延宝三年(1675年)、京都柳馬場二条上寺町、大仏師法橋康祐作」と墨書いてあったそうです。

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良い木鼻ですね。

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両脇の欄間彫刻は浜辺の老松と打寄せる波を象り、日本様式。楼門の柱は丸柱で、禅寺の四角柱のような雄々しさはなく、優しい風情を湛えているそうです。

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どうにもわからないのが、山門の入り口のすぐ上の彫り物。

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上側は諌早家の家紋「上り藤」。下が、お猿さんみたいなのですが、なにか意味があるのでしょうが、調べましたが分かりませんでした。

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慶厳寺の駐車場には磨崖仏が彫ってありますが、ひょっと見ると数字が彫ってあって、「32.7,25」。何だろうと、思ったら、昭和32年の諌早大水害の日。
死者、行方不明539名、負傷者1,476名、家屋破損2,221戸・・・被害総額、当時約87億円(現時点に換算すると415億円)

随分高いところに書いてあって多分、水害時の水位が刻んであるのでしょう。災害の大きさが分かります。

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お世話になった本
「高城の史蹟~山口祐造著・高城会発行」「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 諌早~諌早史談会編著者」「諌早を歩く~山口八郎著」「諌早史談~田中為市著」「諌早郷土館開設シート(歴史編)」「諌早市史~昭和33年発行」



2018年7月30日 (月)

「深溝世紀」に見る潜伏キリシタン

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「深溝世紀」。「ふこうずせいき」と読みます。

で、これが何かというと、「深溝世紀 現代語訳 巻四 孝公(家忠)編 上 島原図書館・郷土史を学ぶ会」の「『深溝世紀』解題」として、郷土史家の松尾卓次先生が次のように書かれています。

「藩政奉還によって島原藩が消滅することになったので、歴代藩主の業績や藩内外の出来事をまとめて、後世へ伝えることにした。
そこで島原藩庁は明治三年に編集局を設置して、藩校稽古館教授・渡部政弼(太平)を主任に選び、その編集事業にとりかかった。藩日記や家譜など書記録を元に作業を進め、家中にも呼び掛けて旧記の提出を求めるなど精力的に務め、明治五,六ごろには一応終了している。島原藩主はかって深溝松平氏と称していたことから、書名を「深溝世紀」となずけた。」という事で、全二五巻、一五冊にまとめられています。

上は「深溝世紀 巻十七巻 靖公」。「靖公」は「松平忠憑(ただより)」。明和八年~文政二年(1771~1819年)。

キリシタンは、江戸時代に密かにキリスト教を信仰する人を「潜伏キリシタン」。明治になり、信仰が自由になり、教会に戻れるものを祖先からの教えで、自分たちだけでキリシタン信仰を守っている方を、立場によって違いますが、「かくれキリシタン」「隠れキリシタン」といいます。

禁教時代、隠れてキリスト教を信仰し、バレた場合は、一般的に拷問、死罪など思い出すのですが、上の本を読んでいると、次のような記述がありました。

原文は漢文ですが、読み下し文に直してあります。

「天草郡大江等三村の民(餘の二村の名は不詳)密かに天主教(注:キリスト教)を奉ず。幕府公事方勘定奉行(松平兵庫頭)をして命を伝えて之を検治せしむ。公(注:松平忠憑)即ち吏を遣わして其の民を捕まえて糾明せしむ。皆曰く、『我が輩は祖考の遺言に遵いて之を奉ずるのみ。敢て他心あるに有るに非ざるなり』と。公其の愚昧にして法禁を犯すを憐み、其の状を上申するに寛典を乞う。之を聴(ゆる)す。因って其の祭る所の天守像を収め、各々をして改心して旦那寺の宗法を守らしめ、更めて影踏(注:踏み絵)を命じて復た其の罪を問わず。

ということで、潜伏キリシタンにも関わらず、祖先からの遺言で、それを守って他心はない。という事で、これを「憐み」、天守像(キリストの像)を捨て、旦那寺(キリシタンで無いという証拠に、各寺に属し、家族全員の名前、年齢を地方によって違いますが、「宗門改帳」に書き、また、普通、年一回、踏み絵をします)に属し、改めて踏み絵をし、その罪を問わなかった。ということで、こんなこともあるのだなと、改めて感じた次第です。

ただ、転びキリシタンの場合は誓詞に血判を押させ、キリシタン切支丹類族帳に記載され、男性は6代(7代と記されているものもあり)、女性の場合は3代まで監視され、年2回の届け出、踏み絵が義務づけられ、転びキリシタン当人は、火葬されていたのですが、そこまで許されたのかどうか、この文章だけでは判断がつきませんでした。



2018年7月23日 (月)

歴史は漫画で!~「鍋島直正★佐賀県編著・太神美香漫画」「逆説の日本史★井沢元彦著・千葉きよかず漫画」

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以前に書いたように、「歴史は漫画で」ですね。

とにかく暑いので、最近は文字より漫画ばかりで読んでいますが、すこしボケ気味か前のページは、まったく忘れてしまっている状態。

さて、「鍋島正直」は、第10代目肥前佐賀藩主。佐賀県といえば何となく「ジミ」という感じがします。「はなわ」さん(生まれは埼玉県→千葉県→佐賀県ですが、佐賀出身を名乗っています)、吉野ヶ里、陶磁器、サガン鳥栖、虹の松原、秀吉が築城した名護屋城、バルーンフェスタ、私が以前お世話になった嬉野温泉と思い出すままに書けば、いろいろありますがやはり「ジミ」という感じは拭えません。

実は佐賀県の事は以前調べて、意外と思っているのとは違うなとは思っていたのですが、この本を読んで認識を新たにしました。

幕末、明治の著名人として、大隈重信、外交官の副島種臣、日本赤十字の産みの親の佐野常民、近代法制度の基礎を作った江藤新平、初代文部卿の大木喬任がいます。特筆べきは、島義勇。なんと「北海道開拓の父」と呼ばれているそうです。

後書きによれば、「日本の産業革命は佐賀から始まった」ということで、「日本初の実用蒸気汽船は佐賀藩が作った」など、医学面なども先進地だったそうです。

この佐賀藩が表に出なかったのは、「直正が確立した佐賀藩の軍事力は、あくまで国防のためのものであり、直正は内戦に使用することにはためらいがあった。」「当時、大政奉還までの佐賀藩は、尊皇攘夷派とも公武合体派とも手を組まず、中立をたもっていた。よって、倒幕という括りでは薩摩、長州、土佐のように有名人がいない。」ということで、佐賀はなんとなく「ジミ」という感じがするのでしょうが、中身は先進地だということが分かる一冊です。

「逆説の日本史」は、週間ポスト連載で1192回になります。伊沢氏のものは時々は読んで、面白いとは思っていたのですが、なにせ既に数十巻でているので、いまさらとは思っていたのですが、こんど、コミック版が出ていたので読んだら、よく分かりました。

信長、秀吉、家康の絡みについて書いてあります。氏は歴史学者と少し視点が違っています。

しかしですね、現在、歴史の見直しがされており、鎌倉幕府は1192年ではなく、聖徳太子はいなかったとか、教科書の中身も随分変わってきているみたいです。歴史学者も間違いはあるものです。

本を読んで、秀吉がなぜ朝鮮遠征を行ったか、こうして見るとよく分かり、歴史学者の視点とは少し違っています。どう違っているかは、営業妨害になるので書きませんが、興味のある方は読んで見て下さい。

以上二冊、漫画とは思えない歴史本で、これ、学校の教材として使えば、歴史の好きな子供が増えるとは思うのですが。歴史は漫画で勉強しましょう。




2018年7月10日 (火)

長崎市「思案橋」★古写真より


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「行こうか 戻ろか 思案橋 ちょいと行って 思い切り橋」、だったかな?思案橋を渡ったところに、遊廓の丸山がありました。多分、写真の手前の方角が丸山かな?

先日、書いたように、古写真、古絵はがきを故あって集めていますが、上の写真が手に入りました。思案橋の写真です。

橋の赤丸印「志あんばし」と書いてあります。上の赤丸印「電車のりば」とあります。青い丸印は「食」「思」と書いてあります。


電車は「正覚寺下」まで続いているのですが、どこにも、その気配はなく、あれ?と思っていたのですが・・・


下の図と写真は「長崎事典・風俗文化」に載っていて、左は「大正時代の思案橋」、右は「上記(左の絵のことです)の前身、思案橋終点の建物」とあり、調べたら、大正10年・西浜町~思案橋間開通、とあり、この先、正覚寺まで電車が延びるのは昭和43年、「思案橋~正覚寺下開通」になっています。


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       (長崎文献社刊「長崎事典・風俗文化編」より)

下は「東宮御成婚記念」の「日本交通分縣地図」を切り取ったものですが、大正13年4月10日のものです。

黄色の矢印、線に小さな丸印がありますが、電車の軌道です。白い丸印が遊廓の「丸山」。わざわざ「遊廓」とまで書いてあります。で、緑の矢印が「思案橋」の停留所、停留所の所に川が流れているのがわかります。ここに架かっていたのが「思案橋」(少し上の方かな?橋が見えます)。

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下は、ウィキペデアから拾った写真ですが、赤丸に「電車のりば」の看板。緑の丸印「思」「案」「食」の字。停留所の二階には食堂があり、モダンな建物だったそうで、名前は多分「思案橋食堂」ではないかと推察する次第です。

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    (「ウィキペデア」より)

と言うことで、思案橋・丸山方面には若い頃お世話になりましたが、最近は活気が無くなったとか。

私が小さい頃、時々通りましたが、昔は朝から行くと、ゲロばかりで、昔は酒を楽しむと言うより、ベロベロに酔いたいという時代でした。


現在の「思案橋電停」です。

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            (「Google Earth」より)


2018年5月26日 (土)

「島原藩 江戸屋敷」はどこだ?~古地図って面白い!

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(「横浜開港資料館編 F・ベアト写真集 1 幕末日本の風景と人々」より)

島原藩中屋敷が慶応大学の一部になっている、ということは以前から聞いてはいたのですが、それなら、上屋敷と下屋敷はどこなのさ、と思っていたら、下の「寛正 新刻 毎月改正」という地図を手に入れました。1789年、今から約200年以上のものになります。
この地図で、場所を探そうとしても、昔のくずし字で細かいところはとても無理。

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ということで、元禄九年𦾔版、萬延元年新版のレプリカの地図を手に入れたら、断然見やすく、こちらを利用。

矢印の赤が江戸城、右へ行って上屋敷、中屋敷、下屋敷。見ての通り、段々、お城からは遠ざかります。

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あと、島原市発行の、島原藩正史の「深溝世紀(ふこうずせいき)」。島原藩は松平家ですが、松平家といっても色々あり、島原藩は「深溝松平家」になります。

島原藩松平家は前期と後期になりますが、後期は最初の忠恕(ただひろ)公の官位が「従五位下  大和守」ですが、後は「従五位下 主殿頭(とのものかみ)」になります。

その「深溝世紀 巻二十一 紹公 巻二十二 哀公」の最後の頁に載っていた、切絵図。これは、「(株)人文社刊 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』」より、転載されたものだそうですが、大変助かりましたが、部分の絵図なので、江戸全体から見るとどこなのか、これには苦労しました。

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上屋敷です。「重ね扇」は島原藩松平家の家紋。矢印は「数寄屋橋」のように読めましたが自信はありません。

意外と江戸城に近いですね。江戸城の近くには親藩、譜代大名などを配置。見ていくと「松平」が多いのですが、徳川家康も以前は「松平」を名乗っています。

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中屋敷です。「松平主殿」が分かると思います。

なお、一番上の写真、右手の長い塀が「中屋敷」。政府に接収された後、慶応義塾に払い下げられ、現在の三田キャンパスになります。

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萬延の地図でみると「松平とのも」が分かると思います。矢印は「つなさか(綱坂)」。「渡辺綱」がこのあたりで生まれたそうです。「渡辺綱」は→こちらを参照

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一番苦労したのが下屋敷。「切絵図」と比較しましたが、多少違ったところもあり、といっても、地図の年代が違い、江戸には火事が多かったというのが原因かな?

回りの、「細川越中」とか「森伊豆」を目印に探しました。現目黒一丁目。私の彼女が住んでいたあたりです。

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さて、上屋敷、下屋敷の写真を探しましたが残念でした。

なお、上屋敷は明治大学の前身明治法律大学が、明治14年に上屋敷で開校をしております。丸印が「明治大学発祥の地」。矢印が「数寄屋橋
。GoogleEarthから借用しました。

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見ていくと面白いもので「吉田神道ヤシキ」。吉田神道は昔からありましたから分かりますが、「修ケンヤシキ」って何でしょう?多分「修験道者」の屋敷でしょうが・・・

右の地図「泉岳寺」。泉岳寺といえば四十七士の墓所があるところ。下の方、ルーペで見ると「義士墓」のような感じに読めました。

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と、三日ばかりかかって、ルーペ片手に地図を読んでいきましたが、その他、いろいろ気づきがあって面白いものでした。皆様も機会がありましたら、見て下さい。





2018年5月16日 (水)

「そ・ろ・ば・ん」~あれ?

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磯田道史氏の「武家の家計簿」。加賀藩御算用者 猪山家に残る古文書を基に「武家の家計簿」を書き、映画になっています。

で、一番最初の場面、そろばんが映されますが、あれ?なんか変。こんなそろばんあったっけ?良く見ると、上の玉が2つ、下の玉が5つ。


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で、面白いもので、「お宝鑑定団」を見ていると、上2つ、下5つのソロバンが出品され、これ、豊臣秀吉から拝領した、そろばんだそうですが、加うるに、玉の回りが銀で象眼され、小型でしたが、内で使うのでは無く、戦場で使われたり、築城の時、現場で使われたのではいかという事で「11,000,000円」

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2回あることは3回あるということで、「NHK歴史ヒストリア」をみていると、加賀百万石の前田利家のことを取り上げ、この前田利家が使っているのが、またもや同じそろばん。

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ということで、そろばんを集めてみました。下の赤丸印がボールペンですから、意外と大きいことがわかります。

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昭和10年に上が1つ玉、下が4つ玉が良いということで、小学校の教科書で指示され、現在のそろばんが普及したそうです。

私たちの時は、算数の時間にそろばんの授業があり、私たちも、このそろばんで教わりました。

私の父は、下が5つ玉を使っていましたが、某日、学校の先生等を交えた席で、「5つ玉の一番下の玉、なんに使うんですか?」と聞いたところ、誰も分かりませんでした。

そろばんをひっくり返した所、会社の名前とか、「贈」とか書いてあるので、お店の宣伝に使ったのかな?「十六銀行」もありますね。岐阜県です。長崎は「十八銀行」。


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下が、上が2つ玉、下が5つ玉のそろばん。

気がつかれた方がおられると思いますが、中国がこのソロバンを使い、土産などにも使っていますが、中国製は玉が丸ぽっくって、使いにくいですね。

なお、中国では一斤が十六両で(十六進法)で、こちらの方が使いやすいそうです。このそろばんが日本に入ってきたのでしょう。

詳しくはネットで「日本珠算連盟」で説明されていますので→こちらをクリック


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底の方をみたら、大きい方が「安政五年牛七月 長堀平蔵」、小さい方が「明治三十八年求之 日露戦争講和」と書かれています。

なお、大きい方には、「石合勺、町反畝分、厘毛」の文字が読み取れ、右、真ん中、左に分かれて書かれていますから、その部分で対応する計算をしたのでしょうが、なんか返って面倒くさいみたい。


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左は、伊能忠敬が使った機器が載せてある絵はがきですが、一番下の所、上が二つ玉のそろばんです。伊能忠敬もこのそろばんを使っていたことが分かります。

右の写真は、丁髷をしていますから、少なくとも明治初期でしょうが、大きなそろばんは、こんなようにすると使いやすいですね。

これを見ると、上が一つ玉ですから、上が一つ玉と二つ玉が混在していたと思われます。

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こんなそろばんもあり、どうやって使うのでしょう?シャープ製です。

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買ったそろばんはどうするか?そろばん塾でも始めるつもりです。





2018年5月14日 (月)

「松倉重政」と「筒井順慶」

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司馬遼太郎「島原・天草の諸道」の最初の所に「日本史の中で、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくなくない。」と書かれています。

身分相応の島原城を建て、キリシタンに対する残虐な扱い、その子、重勝の父親に劣らない圧政。

ただ、松倉重政は千々石の田畑が潮風で荒れて、難儀をしているということで、海岸に土手を築き、松を植えさせており、現在の海水浴場(昨年より閉鎖)あたりの長く続く松林になっており、また、大正15年の関善太郎著「雲仙小浜風光記」には、諏訪池について、次のような記述があります。かなり大きな池ですが、貯水地というよりは湖で、上池、中池、下池から成り立っています。

「・・・往昔、島原藩主豊後守(注;松倉重政)が、田甫(たんぼ)を養わんが為に川を穿ち谿水がをこゝに導いたそうな。」とあります。

さて、圧政をしいた松倉重政、善政をしいた松倉重政、二つの面がうかがえるわけですが、最初キリシタンにあまり厳しくなかったものの、家光(重臣との説もあり)にキリシタン取り締まりの甘さを叱責され、それから、厳しくなります。

もう一つ、「『図解50』合戦日本史~中井一水+加来耕三著」に「・・(島原・天草の乱は)幕府の重商主義が、鎖国政策に切りかわった瀬戸際に発生したからである。」とあり、朱印船から奉書船そして、鎖国になり、ルソンを占領し貿易で儲けようとした企てが全部パー。

重政は亡くなりますが、残された重勝、親父の借金が10万円程度なら、まあ大丈夫でしょうが、何億も抱えて、「鍋島家譜」に書いてあるように、父に似ず武を忘れ諸士(家臣)を愛ぜず、女色を好み酒に耽りて・・・というのは当たり前でしょう。やけのやんぱち、ですね。

住民に対する圧政を肯定するわけではありませんが、「『図解50』合戦日本史」には、重政のことを「幕府政策の犠牲者のひとり」と書いてあります。大きな時代の動きに流された一人だともいえるわけです。

なお、奈良五條市のホームページには「重政は城下町振興策として新町村を取り立て、諸役を免許して商売を行いやすくし、商人の結集を図りました。ここに五条市南和地域の中心として発展する基礎が形作られたのです。
 重政が島原で領民に苛政をを行ったために島原の乱につながったのは有名な話ですが、五条では、新町西方寺に頌徳碑が建ち、江戸時代には豊後さまとして祀られるほど、名君として崇められていたのです。」とあります。

話を元に戻して、「島原・天草の諸道」を読んでいると、「筒井順慶」の事が書かれてあり、「筒井順慶」と言えば、「筒井康隆」さん、ヒョッとしたら子孫では無いかとの事で本を書いていますが、調べた本が「多聞院日記」「訪憲記」「筒井家日記」「原本信長記」「稲葉家文書」等々、20冊程度、ほとんど古文書です。

「筒井順慶」には、3名の重臣がいて、「森志摩守(もりしまのかみ)」「島(嶋)右近」(後、石田三成から三顧の礼をもって迎えられます)」そして「松倉右近」。この「松倉右近」が「松倉重政」のお父さんになります。

筒井順慶のお父さん、筒井順昭は天文19年に亡くなり、このとき、順慶、わずか2歳。順昭が亡くなるとき、順慶があまりにも小さいので、亡くなったことをしばらく伏せておけ、ということで、自分にそっくりの木阿弥という人物を影武者にして、数年後(1年とか2年とか3年とか成人までとかあり、詳細不明)順昭の死を明らかにし、木阿弥はお払い箱。木阿弥は家に帰り元の身分に戻ったそうです。「元の木阿弥」という言葉はここから出たそうです(他にも諸説あり)。

さて、「筒井順慶」と言えば「洞ヶ峠の筒井順慶」。明智光秀が信長を討ち、秀吉と対峙したとき、洞ヶ峠で、どちらにしようかと悩んでいたとき、「少し見てた方が」と進言したのが、「松倉右近」といわれていますが・・・司馬遼太郎さんもそう書いています。

筒井康隆さん、洞ヶ峠まで出かけたそうですが、「洞ヶ峠レストラン」に入り、洞ヶ峠はどこか聞いたそうですが、主人曰く「頂上はここにあったんですが、わたしが切り崩してこのドライブ・インを建てました」「ここは筒井順慶が日和見をした名所です。もうすぐ順慶餅というのを出そうと思っています」と笑ったそうです。小説ですから、本当かどうかは分かりませんが。

それに対し筒井康隆氏は、「・・・つまり天正十年六月十日と十一日にこの洞ヶ峠にいたのは、実は筒井順慶が応援に駆けつけてくれるのを待っていたのは明智光秀だったからです。・・・・その時明智光秀がここに出陣していたという証拠は山ほどあります。『兼見卿』『多聞院日記』『蓮成院記録』『細川忠興軍功記』『続本朝通鑑』」

さて、筒井順慶は本当に洞ヶ峠をしたのか、分厚い「人名辞典」を調べたら、「本能寺の変後の山崎合戦に与力を逡巡、一方、羽柴秀吉に款を通ずるなどして郡山城に籠城したため『洞ヶ峠の順慶』などという嘲罵をこうむる。洞ヶ峠に陣して勝負を観望、秀吉軍に参じたというのは俗説である。・・・しょせん順慶は名族の御曹司的存在であり、しかも辛苦の末に大和を入手した。その大和を喪失するのを恐れたのが『洞ヶ峠順慶』の汚名をこうむった要因である。」

という事で「洞ヶ峠の順慶」はデタラメで、「もう少し状況を見ていたら」と言った、松倉重政の父、松倉右近の話もウソということで、まだまだ異論はあるのですが、歴史は間違っていることがあるので、よく調べることが必要ですね。と思いました。






2018年5月 2日 (水)

「陰謀の日本中世史」~呉座勇一著

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来年のNHK大河ドラマは、「明智光秀」が主人公になるとかで、上の本をパラパラとめくると、「本能寺の変に黒幕はいたか」という文字が目に入り、数ヶ月前に「本能寺の変 四二七年目の真実(明智憲三郎著)」を紹介していたので、買ってきました。内容は・・・・

第一章 貴族の陰謀に武力が加わり中世が生まれた
第二章 陰謀を軸に「平家物語」を読みなおす
第三章 鎌倉幕府の歴史は陰謀の連続だった
第四章 足利尊氏は陰謀家か
第五章 日野富子は悪女か
第六章 本能寺の変に黒幕はいたか
第七章 徳川家康は石田三成を嵌めたのか
終  章 陰謀説はなぜ人気があるのか

となってはいますが、表紙に書いてあるとおり「史上有名な”陰謀”を分析し、”陰謀説”を徹底論破する。」というものであり、裏表紙の帯には「◆本能寺の変に黒幕あり!?→いない。光秀をバカにしすぎ」と書いてあり、まず、第六章だけを読んでみました。なお、著者の呉座氏はゼストセラー「応仁の乱」を書いていますが、この本は、二番煎じではありません。

「本能寺の変」と言えば、歴史上のミステリーであり、怨恨説、羽柴秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説、朝廷黒幕説、堺商人黒幕説、はたまた、イエズス会説まであり、各研究者によって違いがあり、また、残された文書(もんじょ)も少なく、文書の解釈にも問題があり、例えば・・・

「天正十年六月十二日の土橋平尉宛の書状であるが、これには『上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然而、御入洛事、即ち御請け申し上げ候』と書かれている。藤田氏は右の一節を『上意(足利義昭)への与同を命ぜられていたことをお知らせいただき、大変感謝いたします。しかし(義昭からの)御入洛要請につきましては、以前に私(光秀)もお請け申し上げています』と現代語訳している。ここから藤田氏は、足利義昭が本能寺の変に以前から光秀と連絡を取っていたと主張する。
しかしながら、右の一節には『以前に』という意味の言葉は含まれていない。」

と、厳しい批判をしています。また、上記の文章中「然而」について

「藤田氏が『以前に』と解釈したのは、『然而』を『しかれども』と読み、逆説と解釈したからだろう。だが、桐野作人、藤本正行両氏が主張するように、『然而』を『しかして』と読んで、順接で解釈した方が意味を取りやすい。」と書いています。

「而」については「仍而(よって)」「然而(そうじて)」「頓而(やがて)」「別而(べっして)」「却而(かえって)」「都而(すべて)」(而は小文字)といろいろあり、上記の「しかれども」「しかして」もあり、「而」の一文字をとっても、ざっとこれだけあり、「然而」を「逆説」ととるか、「順接」と読むかで、内容がまったく逆の意味になり、悩むところだと思います。

さて、この本最終章に「陰謀論はなぜ人気があるのか?」の文があり、「陰謀説」がなぜ好まれ、堂々とまかり通っているのかが書いてあります。こちらの方を先に読んで、第一章に戻った方が良いかと思います。

光秀ですね。読んでください。人の楽しみは邪魔しないようにしているので、結果は各自で判断を。また、あなたも、「陰謀」に嵌らないように・・・・



     

2018年4月14日 (土)

「島原藩」と「大塩平八郎の乱」

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「長崎は今日も雨だった・・・」ということで、することもなく、カミサンは同窓会(毎年開催)で留守。コンビニの弁当を買ってきたら、やることもないので、久しぶりに「深溝(ふこうず)世紀」を眺めていたら、「大塩平八郎」の字が目につき、読んでみました。

島原藩は、藩主が、有馬家、天領府、松倉家、高力家、松平家(前期)、戸田家、松平家(後期)と変わるわけですが、松平家は先祖をたどると徳川家と共通の祖になります。


松平家は十八家あるそうですが、深溝松平家はそのひとつです。
詳しくは→こちらをクリック

明治を迎え廃藩置県になり、島原藩は消失をするわけですが、歴代の藩主の事をまとめ、後世に伝えることを計画したわけですが、明治3年~5,6年にかけてまとめ、「深溝世紀」と名付けたそうです。全25巻、15冊、別巻にまとめられています。

さて、上の「文公」(松平中侯・ただこれ・寛正11(1799)~天保11年(1840))の所、八年、丁酉(ひのと・とり)とかいてありますから、天保八年の出来事になります。

天保といって思い出すのが、天保の大飢饉。民衆の救済のため、大坂(当時は大坂、後、大阪)奉行の元与力大塩平八郎が立ち上がります、詳しくは→こちらをクリック

さて、「深溝世紀」では次のように書かれています。

大坂の邸使報ず(大坂には島原藩の蔵屋敷がありました)「本月十九日、大坂に大火あり、町奉行組與力(与力)大塩平八郎親子、尞友及び同心・村民を誘いて大熕を発し、火を縦(はな)ちて乱を造る。・・・・」、あと長いので省略。

で、島原藩は

「二日(三月か?)、大坂より変を報ずる書島原に至るや、老臣公行途に在るを慮り議して中小姓・徒歩等を使わして之を邀えしむ。六日公大坂騒乱するを以て掃討に従う衛士を増す。」

となっており、大塩平八郎の乱のため、まだ、世情騒然の時期でしょう、「十一日公西帰す(三月)」になっているので、江戸から島原に帰城の途中か前かに乱が起こったと思われます。歴史というのは、思わぬ出会いもあるもので・・・・

という事で、この「深溝世紀」、読んでみると興味深いことが書いてあります。現在、全巻は手に入りませんが・・・・



2017年7月31日 (月)

「島原藩士」と「奥州討伐」と「毛布1枚」

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発端は上の本で、要するに明治政府は発足するも、なにせ全国からの寄せ集めで、例えば、東北の人と鹿児島の人が同じ職場で、話しても通じない。

それで、主人公が、これをどうするかの話ですが、自分の家でも東北から鹿児島まで、義理の父とか母とか妻とか使用人など出身地が入れ混じり、言葉が思うように通じなく、これまた、どうするか。

NHKのTVドラマのために書かれた作品ですが、出演者は各方言でしゃべり、下の方に標準語のテロップが出てきたのを、かすかに覚えています。外国映画と一緒ですね。

で、この本を読み返していると、気になるところがあって調べる事になったのですが・・・

公民:(公家・裏辻家は正親町家の庶子)
「今から五年前、明治二年の『維新論考賞』を覚えていらはりますか。」
    (面倒くさいので中略)
襖に公民は左のようなことを書き終わったところ。


Img_20170731_0002

と、まあ、ここまではいいのですが

公民; 
「まー、主だったところを書いたらコーなりますヤロカ。御褒美が毛布一枚というのまで書いたら、襖が何十枚あったかて、追っつかしまへんサカイニナ。」

重左衛門(以下、面倒くさいので人物の説明は省きます)
「褒美(ホビ)が毛布一枚(ケットイツメカ)?」

真之輔;
「気の毒な(オイトシナ)藩もあっちょったもの(モン)でアリマスノー。

公民;
「へー、肥前の島原藩がそれナンドスワ。藩兵二百六十名、九州からはるばる奥州征伐に遠征しやはったのに、御褒美は毛布一枚ずつ。カマイマヘンナ、ホンマニ。ケンド、島原のお殿様の兄はんが、あの徳川慶喜はんドスサカイ、どうにも(ドナイニモ)仕方オヘン。


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こちらも島原半島に住んでいるので、島原藩士が奥州まで行ったのかと思い・・・

島原藩最後のお殿様は、「松平忠和(まつだいらただかず)」。調べてみると、第15代将軍徳川慶喜の実弟とありました。

父親が徳川斉昭。正室、継室、側室と三名持っておられ、子供がざっと数えて13名。サッカーのチームが十分できる人数。忠和さんが慶喜さんの弟さんとは知りませんでした。将軍様のお仕事が跡継ぎを作ることが第一ですが、少し、お過ぎになるようで・・・

上の本は島原に関して書いてある本ですが、奥州に行った事、恥ずかしながら知りませんでした。

で、上の「郷土讀本 杜城の花」と「島原秘話」に出兵した名簿など書いてあり、隊長が松平十郎左衛門、以下、物頭4名、旗奉行1名、大目付1名、兵糧奉行1名、使番3名、大砲隊14名、兵隊多数(名簿はありますが、数えるのが面倒なので略)、儒者1名(何でしょう?)、医師2名、兵糧方11名、武器方3名、戦死4名、傷2名と全部下のように書いてあります。

島原市の方は、曽爺様、曽々爺様あたりの名前があるかも知らないので、是非調べてみてください


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と、ここまで書いたら、今日は最高気温で、パソコンも熱をもって調子が悪いようなので、毛布の件は以下次号にて m(_ _)m 。




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