歴史

2022年12月 6日 (火)

慶長より寛文に至る間 キリシタン宗門殉教者並に召捕の場所~「切支丹宗門の迫害と潜伏」(姉崎正治著)より

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先日、古文書研究会でキリシタンの話に及び、東北にもキリシタンがいたよね、という話になり、姉崎正治氏の本を思い出し、キリシタンの殉教者と召捕られた場所を見ると、確かに東北地方にも広くキリシタンの分布が確かめられます。

赤丸印は殉教者と召捕られた人間が多いところです。下の四角の所に地図の説明が書いてあるので、クリックしてみて下さい。地図が拡大します。


「殉教者と召捕られた」人間、場所が、こうしてみると、全国に広がり、宣教師の布教活動がいかに広い範囲で行なわれたのか分かると思います。


この本については、大正14年発行なので、その後、新しい資料なども出てきていると思いますが、大体の傾向は同じだと思います。


ただ、この地図は「慶長より寛文に至る間」となっていますが、慶長元年12月19日(1597年2月5日)に長崎で「二十六聖人の殉教」があっているので、長崎にも大きな○印が付くはずなのですが、付いていないので多少の疑問の点も
あります。

しかしながら、交通も不便な時代、全国各地を布教していたと言うことを考えれば凄いことだと思います。翻って、我が国のお坊様は・・・

2022年12月 1日 (木)

島原城築城400年~島原市

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島原城は2024年(平成6年)に築城400年を迎えます。

島原半島を収めていた有馬晴信が岡本大八事件で失脚。松倉重政は大阪夏の陣の戦いで武功を挙げ、大和国より島原半島へ。なお、大和国では名君であったそうです。


最初は有馬の日野江城、原城によるも「一国一城令」があり、城が狭く、交通の便、有馬地方には隠れキリシタンが多く、また、松倉重政は築城に造詣が深かったためか、島原森岳に元和四年(1618)より寛永元年(1624)にかけ島原城を築城。


松倉重政は最初はキリシタンに対し寛容であったものの、寛永二年、参勤した際、将軍家光からキリシタンに対し取り締まりが温和で徹底しないことを叱責され、それ以降キリシタンに対する態度を一変させています。


なお司馬遼太郎氏によれば「日本史の中で、松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない。」と書かれていいるも、千々石の海岸近くの田畑が潮風で難儀していると聞くと、松を植えさせ防風林(豊後の松原の名前あり)にしたとか、小浜町、南串山に溜め池などを作ったという話が伝わっています。


なお、松倉重政は小浜温泉にて亡くなりますが、病死とも暗殺とも。

島原城は2024年に築城400年を迎えますが、回りを囲ってお色直し中。工事幕には絵が描かれていますが、九州産業大造形短期大学造形芸術学科の学生さんがデザインし、島原のシンボル島原城、平成新山、鯉、寒ざらし、具雑煮が絵柄になっています。展示は来年の1月までだそうです。写真は正面、西の櫓の庭、同三階から撮影したものです。撮影の参考までに。


2022年10月12日 (水)

武士はつらいよ(島原藩士の場合)~再び島原藩士の税金について

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以前、この本を元に「島原藩士の税金」ということで書きました。

島原藩の場合、年貢は6公4民で6割が年貢でした。武士もこれと同じ割合で取り上げられていました。ところが、島原藩の武士の場合は、別に
御借米ということで借上げが行われていました。

で、この本を読んでいると「御借米」がどれくらいかという事が書いてあり、
年代によって違いはあるのですが。享和3年(1803)の場合です。

この御借米については、藩主の交代による交替移封のための多額の藩負債、その他の借財等があり、その返済の一つの方途として家臣の俸禄借上が実施されたそうです。


1300石は大老、100石~300石は中老、御用人、城代、奉行クラスになるそうです。


石高1300石の大老の場合、6公4民で6割引かれて支給石高が520石。ところが御借米としてさらに234石引かれ、支給石高286石。ということで、支給が1300石、手取りが286石。支給額22%という信じられない数字です。今で言えば、年収1300万の人の手取りが286万円と言うことです。


200石の場合、6割引かれて80石、それから御借米で26石引かれて手取りが54石。支給額27%。


100石の場合、6割引かれて40石、それから御借米で12.3石引かれて手取りが27.7石。支給額27.7%。


普通、領民は武士から搾取されヒドイ生活を送り、武士は優雅に暮らすという社会構造なのですが、島原藩の武士はかなりつらかったようです。

興味のある方は、上の本に詳しく書いてあるのでご一読を。


2022年7月30日 (土)

「因果物語」の雲仙地獄について

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「因果物語」全三巻の仮名草子本。作者は鈴木正三。勝手に平仮名本が刊行されていたため、弟子たちが1661年に正本として発表。

内容は鈴木正三が見聞した諸国の怪異譚。仏教談義な材料として怪異譚、因果を収集したもの。


このなかに、雲仙の地獄を記述したものがあります。この本については国立国会図書館デジタルコレクションで見る事ができます。上の写真はそれから取った物です。


右が初めの部分「十四 生きながら扡ごくに沈みし出家の事」。

物語は、豊後の町人、肥前の出家、牢人の三名が温泉(うんせい)に行ったとき、出家が煮湯の湧き出でるところに指を差し入れたが熱くもなく、ただ、煮え湯から指を引き出したとき堪えがたい熱さが。また、その指を煮え湯に入れれば熱さが止む。また、指を引き出せば耐えがたい熱さ。とかくするうちに、引き出されず次第に深く入り、腕を差し入れるようになり、引き出せば、また、熱く。後には総身をみな入れて、頭、目だけを出すようになり、ついに底に沈みけり。

という物語なのです。


さて、話は別にして、最初の部分「肥前の国嶋原という所に、温泉(うんせい)が嶽とて・・・」と書いてあります。「温泉(うんせい)」とは書いてありますが、「肥前の国嶋原」とあるので、現「雲仙(うんぜん)
」です。

「雲仙」は昔「温泉」と書いて「うんぜん」と読んでいましたが、「うんせい」という読みもあったのでしょうか?


もっとも「千々石」を「千々岩」と書いた江戸時代の街道図、戦前の地図なども残っているので、地名は意外とラフな表現もあるようなのですが。

左の図が最後の頁になりますが赤丸の所、頭だけを出した人物が書いてあります。


下の絵図「雲仙お山の情報館」所蔵の雲仙の絵図で、何回か紹介しましたが、地獄が沢山書いてあります。ただ、上の地獄がどこなのかは不明。


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2022年7月25日 (月)

「伊能図」で雲仙を遊ぶ

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よく、今の地図に伊能図を重ねて、今の道と昔の道を比べたものがあります。

これ、以前より自分でできないかと思っていました。もちろん、それなりのソフトを使うという手もあるのですが、ソフトは金がかかるし、慣れるのに時間がかかる。で、生来、へそ曲がりなワタシ。イロイロと考えてみました。


例の如く、各写真はクリックすると拡大します。現在、雲仙の事を調べていたのでこれを素材にしました。


伊能図は書籍になっているのもありますが、現在、ネットでも拾えます。下の左の写真は雲仙をiPadで拾いスクショしたもの。〇印の部分を調べたかったのですが、これでは小さいので、使えるように右のように拡大しました。


大事なのは、基点になるところを探すこと。左の矢印、温泉神社があります。これは、今も昔も変わっていません。もう一ヵ所。右の矢印、ここで、道が分かれ、右へ行けば小地獄へ。この道は、多分変わっていないなと検討をつけました。ヤマカンですが。


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あと、プラステックの薄い板なり、透明の下敷きなりを、上の右の図に載せ伊能図の赤い道をそのまま書き写します。「1」は小地獄への分かれ道、「2」は神社。

右は調べたいところの現在の図ですが、GoogleマップなりYahooマップなり国土地理院のマップ等をiPadでとります。もちろん基点となる地点をしっかり把握しておいてください。


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あとは、上の左の赤い街道をPadの地図に乗せ、iPadの地図をスワイプして拡大、縮小。基点を合わせていきます。一番上の写真。

今回分かったことが2点。


下の①は桜橋、有明ホテルがあるところ。現在、小地獄へ行くには①から写真で緑の道を下の方へと行きますが、昔は、この道はなく、旧雲仙小中学校付近からの道が街道であったことが分かります。


第2点は①から右への緑の道が現在のメイン道路ですが、以前はこの道はなかったこと。①の地点から赤色の道をまっすぐ行くと原生沼。昔、小学校があり、その地点を右に曲がると温泉神社にでます。これが当時の街道であったという事です。


なお、このことは「明治期の雲仙温泉~秘蔵古写真でたどる雲仙温泉の『避暑地時代』」~岡山俊直著に次のように書かれています。


雲仙地獄の古写真の説明として「現在の国道57号線、新湯と古湯をつなぐ雲仙温泉のメインストリートがまだありません。・・・」


なお、金井俊行箸の「温泉案内記」(明治26年刊)でも、桜橋、有名ホテルからの道で「学校ノ前ヲ過キ右二折レバ湯ノ里ノ人家ニシテ・・・」とあり、前にも書いたように小学校は原生沼の前の場所にあったので、赤色の道が明治中期においても当時のメインストリートであったことは間違いないと思います。


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ということで、伊能図で遊んでみましたが、思ったより簡単で意外な発見もありました。皆さまも近くの道を調べるのも面白いかも。小学生の子どもさんをお持ちの方は、夏休みの自由研究として面白いかと思います。

ただ、伊能図は必ずしも現在の地図とはピッタリ合うとは限りません。海岸線は正確ですが、内陸部の街道についてはズレがあります。ただ、道の曲がり方などは同じです。

2022年7月14日 (木)

雲仙大黒天~「発見」について異議あり

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雲仙の大黒天、ネットでも結構見られます。

先日、Facebookに島原半島観光連盟が大黒天につき「・・・昭和40年のダムの工事の際に発見されたそうです・・・」と書いてありました。「発見」とは辞書では「世の中に知られていなかったものを見つけ出すこと。初めて見つけること。(大辞林)」とあります。


10年程前だったか、このことについては取り上げましたが、要するに、発見されたのはダムの工事の際でないのです。大黒天のすぐ横に石仏があります。左の写真の〇印、矢印は大黒天。右は上から見た写真。下向きの矢印は別所ダム、右の矢印方向が大黒天。


石仏には2本の石柱が建てられています。一つは上部が欠けていますが「・・・?納?塔也」。


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左の石柱正面「是二行者空照法師??」。側面が「昭和六年一月二十九日」。「空照法師」は雲仙での最後の修験道者。「百日行」をされています。また、高岩山の山中に像が建てられています。

ということで、発見されたという昭和40年以前に、この大黒天の存在は分かっているはずです。


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さて、これとは別に大正15年発行の関善太郎著「雲仙小濱風光記」に次のような文章があります。

「温泉(うんぜん)の七百坊の在りし別所に行くと、田原と云うところの上の方に當りて、一巨巌が直立してゐる。其上に古雅掬(きく)すべき大黒様が安置してある・・・」。


これで、すでに大正時代には大黒天が知られていたことが分かると思います。


昭和40年云々については、ネットで「新聞記事に載っていた」とあちらこちら書いてあります。新聞記事必ずしも正しいとは限りません。近年のネット情報は孫引きが多く見られます。皆さまもご注意を。


「空照法師」については一度紹介をしました→こちらをクリック


2022年6月 3日 (金)

2022/06/03「大村公園花菖蒲」

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TVなどで大村公園の花菖蒲が満開ということで出かけてみました。

定番の場所での撮影。ここが、一番絵になります。

開花がネットでは満開、入口は7部咲きになっていましたが、部分満開、部分7部咲き、部分??咲き。

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この花菖蒲園には多種の花菖蒲が植えられています。花菖蒲の品種などが書いてありますが、江戸菖蒲、肥後菖蒲の違いなど知っていると、見方が違い面白いと思います。

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一番最初の写真の板敷櫓(ここの地名が板敷)の裏側というより、こちらが入口。石落としなどもあるのですが、コロナのために閉鎖。

お城は簡単には攻め落とせないように通路が入り組んでいて実感できます。

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他にもイロイロあるのですが、花菖蒲だけではなく、お城も楽しいんでもらいたいのです・・・

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石垣に鏨の跡がありました。石垣が新しく積み直されたものがあるとかで、多分新しいものだと思われます。

右は穴門で、ワタシが好きな場所なのですが、こんな所にトイレなど作るなよ!!!~バカヤロウ~ですね。

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お土産は、定番の「大村寿司」。創業延宝7年創業の「へこはずし」。お殿様があまりのおいしさに「へこ」が外れているのに気がつかなかったとの由来。

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忘れていました。このお城「大村城」ではなく「玖島城」です。


2022年4月27日 (水)

千々石ミゲル清左衛門供養碑建立~雲仙市千々石町天満宮

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長崎県の方はTV、新聞等で報じられご存じだと思います。昨年夏、千々石ミゲルの墓所の最終の4次発掘調査が実施されました。

先日、千々石ミゲルの子孫、発掘調査に携わった方などが参集し、千々石の天満宮において、千々石ミゲル清左衛門供養碑建立式が行われました。
発案、発起人は第1次~4次発掘まで尽力された町田義博氏。

供養碑の一番上の文字、「千々石・ドン・ミゲル」は千々石ミゲルの自筆を彫ったものだそうです。


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建立場所は千々石ミゲルの父千々石大和守直員が祀られている天満宮拝殿の横。

右は、千々石ミゲルの墓発見に最初から尽力された大石一久先生。宮司は橘神社の橘宮司。橘中佐の子孫です。


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右の写真は千々石ミゲルの子孫の浅田昌彦氏。

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千々石ミゲルの碑が建立された意義。天満宮の歴史などを貼っておきます。

供養碑の土台はコンクリートで固められていますが、土台のなかに、墓が発掘された折発見された千々石ミゲルの遺骨の一部が納骨されています。


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千々石ミゲルの父、千々石大和守直員が龍造寺に討たれた後、数百年の時空を越え、父が祀られた神社に、千々石ミゲルの供養碑が建立され、遺骨の一部が納骨されたという事は、非常に意義が深いことだと思います。

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オマケです。龍造寺に攻め落とされた釜蓋城の抜け穴?といわれているものです。



2022年4月14日 (木)

参勤交代のお値段~島原から江戸へ

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「超高速!参勤交代」。面白い映画でした。と同時に、参勤交代の大変さを実感した映画です。

参勤交代は諸大名に金を使わせ、力を付けさせないようにさせた施策だと高校の時習ったような記憶があります。


島原藩は江戸から遠い所にあり、関東の諸藩よりは費用がかかったと思います。下の二冊の本に島原~江戸への費用の事が書いてあり、いつも同じ道、同じ人数でいったわけではないらしいのです。


肥前街道の陸路。九州路の長洲へ渡航して肥前街道へと合流する道。なお、下関から江戸までも陸路もあり、嶋原藩豊州領長洲から瀬戸内海を航し、大阪から東海道の道を用いたこともあったそうです。


人数も元禄14年では90名、天保9年では64名。なお、旅装も粗略にしたこともあるそうです。


ということで、一概にには言えないこともあり、また、江戸時代の通貨を現代のお金に換算することが困難なことは以前書いたことがあります。


このような事を加味しながら、高木氏は次のように書いておられます。



以上の記録から推測の域を出ないが、概して往復五千両は必要であったのではないかと考える。

五千両を石に換えれば約五千石となる。一石は四斗入りの一俵の二俵半に当たることから、五千石は一万二千五百俵となる。然して平成十八年現在、米一俵(中質米の米価)一万五千円程度であるから、一万二千五百俵の値段は一億八千七百五十万円となる。
従って、現在の金に概算して参勤交代に要する費用は一億八千万円~二億円程度であったのではないかと考える。


島原~江戸の参勤交代の費用がいかに莫大であったかが分かります。これなら、参勤交代が大名の力をいかに削いでいたのかが分かります。


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2022年3月14日 (月)

時代劇の嘘


ネットで調べ物をしていると、江戸時代に蕎麦屋、居酒屋などには机は無かったという記事がありました。


草子本を貸し出しているので、何か無いかと考えて、ネットの画像で検索してみました。


例の如く下の画像はクリックすると拡大します。


左は「時代劇 画像」で検索、右は「江戸時代 居酒屋」で検索したもの。で、比べると本当に江戸時代の飲食店に「机」は無かったのです。


なぜ机があるようになったのか、映画なのか、演劇なのか、歌舞伎なのか等々と調べると面白かな?と言うことでボチボチと調べることに。


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さて、いよいよ「カムカムエブリバディ」もラストに近づきました。

今後の進展にはイロイロな意見があるようですが、先日の予行画像でるいが岡山の雉真家を訪れる画面。両手に袋包みを持っている件で、「骨壺?」「手土産の回転焼き?」と意見が分かれているようですが・・・


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今日、るいの回転焼屋に算太さんが現れたのを見ると、多分、算太さんの「遺骨」だと思うのですが、いよいいよ目が離せない展開になりました。



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