歴史

2018年7月10日 (火)

長崎市「思案橋」★古写真より


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「行こうか 戻ろか 思案橋 ちょいと行って 思い切り橋」、だったかな?思案橋を渡ったところに、遊廓の丸山がありました。多分、写真の手前の方角が丸山かな?

先日、書いたように、古写真、古絵はがきを故あって集めていますが、上の写真が手に入りました。思案橋の写真です。

橋の赤丸印「志あんばし」と書いてあります。上の赤丸印「電車のりば」とあります。青い丸印は「食」「思」と書いてあります。


電車は「正覚寺下」まで続いているのですが、どこにも、その気配はなく、あれ?と思っていたのですが・・・


下の図と写真は「長崎事典・風俗文化」に載っていて、左は「大正時代の思案橋」、右は「上記(左の絵のことです)の前身、思案橋終点の建物」とあり、調べたら、大正10年・西浜町~思案橋間開通、とあり、この先、正覚寺まで電車が延びるのは昭和43年、「思案橋~正覚寺下開通」になっています。


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       (長崎文献社刊「長崎事典・風俗文化編」より)

下は「東宮御成婚記念」の「日本交通分縣地図」を切り取ったものですが、大正13年4月10日のものです。

黄色の矢印、線に小さな丸印がありますが、電車の軌道です。白い丸印が遊廓の「丸山」。わざわざ「遊廓」とまで書いてあります。で、緑の矢印が「思案橋」の停留所、停留所の所に川が流れているのがわかります。ここに架かっていたのが「思案橋」(少し上の方かな?橋が見えます)。

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下は、ウィキペデアから拾った写真ですが、赤丸に「電車のりば」の看板。緑の丸印「思」「案」「食」の字。停留所の二階には食堂があり、モダンな建物だったそうで、名前は多分「思案橋食堂」ではないかと推察する次第です。

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    (「ウィキペデア」より)

と言うことで、思案橋・丸山方面には若い頃お世話になりましたが、最近は活気が無くなったとか。

私が小さい頃、時々通りましたが、昔は朝から行くと、ゲロばかりで、昔は酒を楽しむと言うより、ベロベロに酔いたいという時代でした。


現在の「思案橋電停」です。

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            (「Google Earth」より)


2018年5月26日 (土)

「島原藩 江戸屋敷」はどこだ?~古地図って面白い!

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(「横浜開港資料館編 F・ベアト写真集 1 幕末日本の風景と人々」より)

島原藩中屋敷が慶応大学の一部になっている、ということは以前から聞いてはいたのですが、それなら、上屋敷と下屋敷はどこなのさ、と思っていたら、下の「寛正 新刻 毎月改正」という地図を手に入れました。1789年、今から約200年以上のものになります。
この地図で、場所を探そうとしても、昔のくずし字で細かいところはとても無理。

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ということで、元禄九年𦾔版、萬延元年新版のレプリカの地図を手に入れたら、断然見やすく、こちらを利用。

矢印の赤が江戸城、右へ行って上屋敷、中屋敷、下屋敷。見ての通り、段々、お城からは遠ざかります。

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あと、島原市発行の、島原藩正史の「深溝世紀(ふこうずせいき)」。島原藩は松平家ですが、松平家といっても色々あり、島原藩は「深溝松平家」になります。

島原藩松平家は前期と後期になりますが、後期は最初の忠恕(ただひろ)公の官位が「従五位下  大和守」ですが、後は「従五位下 主殿頭(とのものかみ)」になります。

その「深溝世紀 巻二十一 紹公 巻二十二 哀公」の最後の頁に載っていた、切絵図。これは、「(株)人文社刊 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』」より、転載されたものだそうですが、大変助かりましたが、部分の絵図なので、江戸全体から見るとどこなのか、これには苦労しました。

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上屋敷です。「重ね扇」は島原藩松平家の家紋。矢印は「数寄屋橋」のように読めましたが自信はありません。

意外と江戸城に近いですね。江戸城の近くには親藩、譜代大名などを配置。見ていくと「松平」が多いのですが、徳川家康も以前は「松平」を名乗っています。

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中屋敷です。「松平主殿」が分かると思います。

なお、一番上の写真、右手の長い塀が「中屋敷」。政府に接収された後、慶応義塾に払い下げられ、現在の三田キャンパスになります。

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萬延の地図でみると「松平とのも」が分かると思います。矢印は「つなさか(綱坂)」。「渡辺綱」がこのあたりで生まれたそうです。「渡辺綱」は→こちらを参照

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一番苦労したのが下屋敷。「切絵図」と比較しましたが、多少違ったところもあり、といっても、地図の年代が違い、江戸には火事が多かったというのが原因かな?

回りの、「細川越中」とか「森伊豆」を目印に探しました。現目黒一丁目。私の彼女が住んでいたあたりです。

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さて、上屋敷、下屋敷の写真を探しましたが残念でした。

なお、上屋敷は明治大学の前身明治法律大学が、明治14年に上屋敷で開校をしております。丸印が「明治大学発祥の地」。矢印が「数寄屋橋
。GoogleEarthから借用しました。

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見ていくと面白いもので「吉田神道ヤシキ」。吉田神道は昔からありましたから分かりますが、「修ケンヤシキ」って何でしょう?多分「修験道者」の屋敷でしょうが・・・

右の地図「泉岳寺」。泉岳寺といえば四十七士の墓所があるところ。下の方、ルーペで見ると「義士墓」のような感じに読めました。

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と、三日ばかりかかって、ルーペ片手に地図を読んでいきましたが、その他、いろいろ気づきがあって面白いものでした。皆様も機会がありましたら、見て下さい。





2018年5月16日 (水)

「そ・ろ・ば・ん」~あれ?

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磯田道史氏の「武家の家計簿」。加賀藩御算用者 猪山家に残る古文書を基に「武家の家計簿」を書き、映画になっています。

で、一番最初の場面、そろばんが映されますが、あれ?なんか変。こんなそろばんあったっけ?良く見ると、上の玉が2つ、下の玉が5つ。


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で、面白いもので、「お宝鑑定団」を見ていると、上2つ、下5つのソロバンが出品され、これ、豊臣秀吉から拝領した、そろばんだそうですが、加うるに、玉の回りが銀で象眼され、小型でしたが、内で使うのでは無く、戦場で使われたり、築城の時、現場で使われたのではいかという事で「11,000,000円」

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2回あることは3回あるということで、「NHK歴史ヒストリア」をみていると、加賀百万石の前田利家のことを取り上げ、この前田利家が使っているのが、またもや同じそろばん。

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ということで、そろばんを集めてみました。下の赤丸印がボールペンですから、意外と大きいことがわかります。

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昭和10年に上が1つ玉、下が4つ玉が良いということで、小学校の教科書で指示され、現在のそろばんが普及したそうです。

私たちの時は、算数の時間にそろばんの授業があり、私たちも、このそろばんで教わりました。

私の父は、下が5つ玉を使っていましたが、某日、学校の先生等を交えた席で、「5つ玉の一番下の玉、なんに使うんですか?」と聞いたところ、誰も分かりませんでした。

そろばんをひっくり返した所、会社の名前とか、「贈」とか書いてあるので、お店の宣伝に使ったのかな?「十六銀行」もありますね。岐阜県です。長崎は「十八銀行」。


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下が、上が2つ玉、下が5つ玉のそろばん。

気がつかれた方がおられると思いますが、中国がこのソロバンを使い、土産などにも使っていますが、中国製は玉が丸ぽっくって、使いにくいですね。

なお、中国では一斤が十六両で(十六進法)で、こちらの方が使いやすいそうです。このそろばんが日本に入ってきたのでしょう。

詳しくはネットで「日本珠算連盟」で説明されていますので→こちらをクリック


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底の方をみたら、大きい方が「安政五年牛七月 長堀平蔵」、小さい方が「明治三十八年求之 日露戦争講和」と書かれています。

なお、大きい方には、「石合勺、町反畝分、厘毛」の文字が読み取れ、右、真ん中、左に分かれて書かれていますから、その部分で対応する計算をしたのでしょうが、なんか返って面倒くさいみたい。


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左は、伊能忠敬が使った機器が載せてある絵はがきですが、一番下の所、上が二つ玉のそろばんです。伊能忠敬もこのそろばんを使っていたことが分かります。

右の写真は、丁髷をしていますから、少なくとも明治初期でしょうが、大きなそろばんは、こんなようにすると使いやすいですね。

これを見ると、上が一つ玉ですから、上が一つ玉と二つ玉が混在していたと思われます。

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こんなそろばんもあり、どうやって使うのでしょう?シャープ製です。

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買ったそろばんはどうするか?そろばん塾でも始めるつもりです。





2018年5月14日 (月)

「松倉重政」と「筒井順慶」

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司馬遼太郎「島原・天草の諸道」の最初の所に「日本史の中で、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくなくない。」と書かれています。

身分相応の島原城を建て、キリシタンに対する残虐な扱い、その子、重勝の父親に劣らない圧政。

ただ、松倉重政は千々石の田畑が潮風で荒れて、難儀をしているということで、海岸に土手を築き、松を植えさせており、現在の海水浴場(昨年より閉鎖)あたりの長く続く松林になっており、また、大正15年の関善太郎著「雲仙小浜風光記」には、諏訪池について、次のような記述があります。かなり大きな池ですが、貯水地というよりは湖で、上池、中池、下池から成り立っています。

「・・・往昔、島原藩主豊後守(注;松倉重政)が、田甫(たんぼ)を養わんが為に川を穿ち谿水がをこゝに導いたそうな。」とあります。

さて、圧政をしいた松倉重政、善政をしいた松倉重政、二つの面がうかがえるわけですが、最初キリシタンにあまり厳しくなかったものの、家光(重臣との説もあり)にキリシタン取り締まりの甘さを叱責され、それから、厳しくなります。

もう一つ、「『図解50』合戦日本史~中井一水+加来耕三著」に「・・(島原・天草の乱は)幕府の重商主義が、鎖国政策に切りかわった瀬戸際に発生したからである。」とあり、朱印船から奉書船そして、鎖国になり、ルソンを占領し貿易で儲けようとした企てが全部パー。

重政は亡くなりますが、残された重勝、親父の借金が10万円程度なら、まあ大丈夫でしょうが、何億も抱えて、「鍋島家譜」に書いてあるように、父に似ず武を忘れ諸士(家臣)を愛ぜず、女色を好み酒に耽りて・・・というのは当たり前でしょう。やけのやんぱち、ですね。

住民に対する圧政を肯定するわけではありませんが、「『図解50』合戦日本史」には、重政のことを「幕府政策の犠牲者のひとり」と書いてあります。大きな時代の動きに流された一人だともいえるわけです。

なお、奈良五條市のホームページには「重政は城下町振興策として新町村を取り立て、諸役を免許して商売を行いやすくし、商人の結集を図りました。ここに五条市南和地域の中心として発展する基礎が形作られたのです。
 重政が島原で領民に苛政をを行ったために島原の乱につながったのは有名な話ですが、五条では、新町西方寺に頌徳碑が建ち、江戸時代には豊後さまとして祀られるほど、名君として崇められていたのです。」とあります。

話を元に戻して、「島原・天草の諸道」を読んでいると、「筒井順慶」の事が書かれてあり、「筒井順慶」と言えば、「筒井康隆」さん、ヒョッとしたら子孫では無いかとの事で本を書いていますが、調べた本が「多聞院日記」「訪憲記」「筒井家日記」「原本信長記」「稲葉家文書」等々、20冊程度、ほとんど古文書です。

「筒井順慶」には、3名の重臣がいて、「森志摩守(もりしまのかみ)」「島(嶋)右近」(後、石田三成から三顧の礼をもって迎えられます)」そして「松倉右近」。この「松倉右近」が「松倉重政」のお父さんになります。

筒井順慶のお父さん、筒井順昭は天文19年に亡くなり、このとき、順慶、わずか2歳。順昭が亡くなるとき、順慶があまりにも小さいので、亡くなったことをしばらく伏せておけ、ということで、自分にそっくりの木阿弥という人物を影武者にして、数年後(1年とか2年とか3年とか成人までとかあり、詳細不明)順昭の死を明らかにし、木阿弥はお払い箱。木阿弥は家に帰り元の身分に戻ったそうです。「元の木阿弥」という言葉はここから出たそうです(他にも諸説あり)。

さて、「筒井順慶」と言えば「洞ヶ峠の筒井順慶」。明智光秀が信長を討ち、秀吉と対峙したとき、洞ヶ峠で、どちらにしようかと悩んでいたとき、「少し見てた方が」と進言したのが、「松倉右近」といわれていますが・・・司馬遼太郎さんもそう書いています。

筒井康隆さん、洞ヶ峠まで出かけたそうですが、「洞ヶ峠レストラン」に入り、洞ヶ峠はどこか聞いたそうですが、主人曰く「頂上はここにあったんですが、わたしが切り崩してこのドライブ・インを建てました」「ここは筒井順慶が日和見をした名所です。もうすぐ順慶餅というのを出そうと思っています」と笑ったそうです。小説ですから、本当かどうかは分かりませんが。

それに対し筒井康隆氏は、「・・・つまり天正十年六月十日と十一日にこの洞ヶ峠にいたのは、実は筒井順慶が応援に駆けつけてくれるのを待っていたのは明智光秀だったからです。・・・・その時明智光秀がここに出陣していたという証拠は山ほどあります。『兼見卿』『多聞院日記』『蓮成院記録』『細川忠興軍功記』『続本朝通鑑』」

さて、筒井順慶は本当に洞ヶ峠をしたのか、分厚い「人名辞典」を調べたら、「本能寺の変後の山崎合戦に与力を逡巡、一方、羽柴秀吉に款を通ずるなどして郡山城に籠城したため『洞ヶ峠の順慶』などという嘲罵をこうむる。洞ヶ峠に陣して勝負を観望、秀吉軍に参じたというのは俗説である。・・・しょせん順慶は名族の御曹司的存在であり、しかも辛苦の末に大和を入手した。その大和を喪失するのを恐れたのが『洞ヶ峠順慶』の汚名をこうむった要因である。」

という事で「洞ヶ峠の順慶」はデタラメで、「もう少し状況を見ていたら」と言った、松倉重政の父、松倉右近の話もウソということで、まだまだ異論はあるのですが、歴史は間違っていることがあるので、よく調べることが必要ですね。と思いました。






2018年5月 2日 (水)

「陰謀の日本中世史」~呉座勇一著

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来年のNHK大河ドラマは、「明智光秀」が主人公になるとかで、上の本をパラパラとめくると、「本能寺の変に黒幕はいたか」という文字が目に入り、数ヶ月前に「本能寺の変 四二七年目の真実(明智憲三郎著)」を紹介していたので、買ってきました。内容は・・・・

第一章 貴族の陰謀に武力が加わり中世が生まれた
第二章 陰謀を軸に「平家物語」を読みなおす
第三章 鎌倉幕府の歴史は陰謀の連続だった
第四章 足利尊氏は陰謀家か
第五章 日野富子は悪女か
第六章 本能寺の変に黒幕はいたか
第七章 徳川家康は石田三成を嵌めたのか
終  章 陰謀説はなぜ人気があるのか

となってはいますが、表紙に書いてあるとおり「史上有名な”陰謀”を分析し、”陰謀説”を徹底論破する。」というものであり、裏表紙の帯には「◆本能寺の変に黒幕あり!?→いない。光秀をバカにしすぎ」と書いてあり、まず、第六章だけを読んでみました。なお、著者の呉座氏はゼストセラー「応仁の乱」を書いていますが、この本は、二番煎じではありません。

「本能寺の変」と言えば、歴史上のミステリーであり、怨恨説、羽柴秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説、朝廷黒幕説、堺商人黒幕説、はたまた、イエズス会説まであり、各研究者によって違いがあり、また、残された文書(もんじょ)も少なく、文書の解釈にも問題があり、例えば・・・

「天正十年六月十二日の土橋平尉宛の書状であるが、これには『上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然而、御入洛事、即ち御請け申し上げ候』と書かれている。藤田氏は右の一節を『上意(足利義昭)への与同を命ぜられていたことをお知らせいただき、大変感謝いたします。しかし(義昭からの)御入洛要請につきましては、以前に私(光秀)もお請け申し上げています』と現代語訳している。ここから藤田氏は、足利義昭が本能寺の変に以前から光秀と連絡を取っていたと主張する。
しかしながら、右の一節には『以前に』という意味の言葉は含まれていない。」

と、厳しい批判をしています。また、上記の文章中「然而」について

「藤田氏が『以前に』と解釈したのは、『然而』を『しかれども』と読み、逆説と解釈したからだろう。だが、桐野作人、藤本正行両氏が主張するように、『然而』を『しかして』と読んで、順接で解釈した方が意味を取りやすい。」と書いています。

「而」については「仍而(よって)」「然而(そうじて)」「頓而(やがて)」「別而(べっして)」「却而(かえって)」「都而(すべて)」(而は小文字)といろいろあり、上記の「しかれども」「しかして」もあり、「而」の一文字をとっても、ざっとこれだけあり、「然而」を「逆説」ととるか、「順接」と読むかで、内容がまったく逆の意味になり、悩むところだと思います。

さて、この本最終章に「陰謀論はなぜ人気があるのか?」の文があり、「陰謀説」がなぜ好まれ、堂々とまかり通っているのかが書いてあります。こちらの方を先に読んで、第一章に戻った方が良いかと思います。

光秀ですね。読んでください。人の楽しみは邪魔しないようにしているので、結果は各自で判断を。また、あなたも、「陰謀」に嵌らないように・・・・



     

2018年4月14日 (土)

「島原藩」と「大塩平八郎の乱」

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「長崎は今日も雨だった・・・」ということで、することもなく、カミサンは同窓会(毎年開催)で留守。コンビニの弁当を買ってきたら、やることもないので、久しぶりに「深溝(ふこうず)世紀」を眺めていたら、「大塩平八郎」の字が目につき、読んでみました。

島原藩は、藩主が、有馬家、天領府、松倉家、高力家、松平家(前期)、戸田家、松平家(後期)と変わるわけですが、松平家は先祖をたどると徳川家と共通の祖になります。


松平家は十八家あるそうですが、深溝松平家はそのひとつです。
詳しくは→こちらをクリック

明治を迎え廃藩置県になり、島原藩は消失をするわけですが、歴代の藩主の事をまとめ、後世に伝えることを計画したわけですが、明治3年~5,6年にかけてまとめ、「深溝世紀」と名付けたそうです。全25巻、15冊、別巻にまとめられています。

さて、上の「文公」(松平中侯・ただこれ・寛正11(1799)~天保11年(1840))の所、八年、丁酉(ひのと・とり)とかいてありますから、天保八年の出来事になります。

天保といって思い出すのが、天保の大飢饉。民衆の救済のため、大坂(当時は大坂、後、大阪)奉行の元与力大塩平八郎が立ち上がります、詳しくは→こちらをクリック

さて、「深溝世紀」では次のように書かれています。

大坂の邸使報ず(大坂には島原藩の蔵屋敷がありました)「本月十九日、大坂に大火あり、町奉行組與力(与力)大塩平八郎親子、尞友及び同心・村民を誘いて大熕を発し、火を縦(はな)ちて乱を造る。・・・・」、あと長いので省略。

で、島原藩は

「二日(三月か?)、大坂より変を報ずる書島原に至るや、老臣公行途に在るを慮り議して中小姓・徒歩等を使わして之を邀えしむ。六日公大坂騒乱するを以て掃討に従う衛士を増す。」

となっており、大塩平八郎の乱のため、まだ、世情騒然の時期でしょう、「十一日公西帰す(三月)」になっているので、江戸から島原に帰城の途中か前かに乱が起こったと思われます。歴史というのは、思わぬ出会いもあるもので・・・・

という事で、この「深溝世紀」、読んでみると興味深いことが書いてあります。現在、全巻は手に入りませんが・・・・



2017年7月31日 (月)

「島原藩士」と「奥州討伐」と「毛布1枚」

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発端は上の本で、要するに明治政府は発足するも、なにせ全国からの寄せ集めで、例えば、東北の人と鹿児島の人が同じ職場で、話しても通じない。

それで、主人公が、これをどうするかの話ですが、自分の家でも東北から鹿児島まで、義理の父とか母とか妻とか使用人など出身地が入れ混じり、言葉が思うように通じなく、これまた、どうするか。

NHKのTVドラマのために書かれた作品ですが、出演者は各方言でしゃべり、下の方に標準語のテロップが出てきたのを、かすかに覚えています。外国映画と一緒ですね。

で、この本を読み返していると、気になるところがあって調べる事になったのですが・・・

公民:(公家・裏辻家は正親町家の庶子)
「今から五年前、明治二年の『維新論考賞』を覚えていらはりますか。」
    (面倒くさいので中略)
襖に公民は左のようなことを書き終わったところ。


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と、まあ、ここまではいいのですが

公民; 
「まー、主だったところを書いたらコーなりますヤロカ。御褒美が毛布一枚というのまで書いたら、襖が何十枚あったかて、追っつかしまへんサカイニナ。」

重左衛門(以下、面倒くさいので人物の説明は省きます)
「褒美(ホビ)が毛布一枚(ケットイツメカ)?」

真之輔;
「気の毒な(オイトシナ)藩もあっちょったもの(モン)でアリマスノー。

公民;
「へー、肥前の島原藩がそれナンドスワ。藩兵二百六十名、九州からはるばる奥州征伐に遠征しやはったのに、御褒美は毛布一枚ずつ。カマイマヘンナ、ホンマニ。ケンド、島原のお殿様の兄はんが、あの徳川慶喜はんドスサカイ、どうにも(ドナイニモ)仕方オヘン。


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こちらも島原半島に住んでいるので、島原藩士が奥州まで行ったのかと思い・・・

島原藩最後のお殿様は、「松平忠和(まつだいらただかず)」。調べてみると、第15代将軍徳川慶喜の実弟とありました。

父親が徳川斉昭。正室、継室、側室と三名持っておられ、子供がざっと数えて13名。サッカーのチームが十分できる人数。忠和さんが慶喜さんの弟さんとは知りませんでした。将軍様のお仕事が跡継ぎを作ることが第一ですが、少し、お過ぎになるようで・・・

上の本は島原に関して書いてある本ですが、奥州に行った事、恥ずかしながら知りませんでした。

で、上の「郷土讀本 杜城の花」と「島原秘話」に出兵した名簿など書いてあり、隊長が松平十郎左衛門、以下、物頭4名、旗奉行1名、大目付1名、兵糧奉行1名、使番3名、大砲隊14名、兵隊多数(名簿はありますが、数えるのが面倒なので略)、儒者1名(何でしょう?)、医師2名、兵糧方11名、武器方3名、戦死4名、傷2名と全部下のように書いてあります。

島原市の方は、曽爺様、曽々爺様あたりの名前があるかも知らないので、是非調べてみてください


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と、ここまで書いたら、今日は最高気温で、パソコンも熱をもって調子が悪いようなので、毛布の件は以下次号にて m(_ _)m 。




2017年6月26日 (月)

島原藩旧士族・大村へ

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「記念碑」は記念碑ですが、なんの記念碑か知る人はほとんどいないかと思います。

場所は、大村市民病院の裏手で、前もってグーグルアースで調べたら、ありましたが、何年か前の写真で、新築のアパートなど建っていてアルカナ?とは心配したのですが、ありました。

以下の話は島原関係の本には載っておらず、「大村史話 続編1」に載っていたもので、長いので多少、省略したものになるかとは思います。

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明治維新、当然のことながら武家階級は全部クビ、今でいえばリストラされるわけですが、島原藩においては、旧島原藩主が東京へ引き上げる前、旧士族に対し下賜金を下されたそうです。

が、生活費に使っては無くなってしまう、ということで旧士族の授産、興業の経営主体として恒産会社を作ったそうです。

事業としては、官有地払い下げによる開墾、牧馬、牧羊等々を行ったそうですが、このような中、大村への24戸の送出も会社事業の一つであったそうです。
移住したのが、鉄砲丁(ちょう・町ではありません)の24戸、明治24年のことだったそうです。

少し、島原の話へ移すと「島原城の話(渋江鉄郎著)」によると、「上新丁(うわじんちょう)、下新丁(したじんちょう)、中ノ丁、古丁、下の丁を総称して鉄砲丁という。(中略)全部ではないが鉄砲を扱う歩兵階級が多く住居を与えられていたことも、それ以前からあった鉄砲丁の名のおごりである。(中略)松平氏の島原藩臣は、ほとんど祖先は三河(愛知県)出身であったので商家や農家とはおのずから言葉が違っていた。家中(城内)ことばと鉄砲丁言葉にも僅かな違いがあった。(中略)三河武士は『一徹者』が通り名になっていた。手に負えないほどの頑固さであったため他人にも迷惑をかけ他人から嫌われるものもいた。」とあります(現在はそのような事はありません)。

横道ついでに、島原には「江戸丁(ちょう)」というところがあり、これ、〇〇銀座の名前のところがあちらこちらあるので、この手かなと思ったら大違いで、島原藩の藩邸は江戸にもあり、江戸藩邸勤めの藩士もクビになるわけで、島原に帰る途中、肥後豊後(島原藩の飛び地領)に廻されたものもあったそうですが、「島原に帰って人々に住居を与えたところを江戸から来たので『江戸丁』という。」ということだそうです。

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さて、この大村へ移住した鉄砲丁の方は、苦労と努力があったそうですが、移住後40年目、記念碑の建立の16年後太平洋戦争が勃発、昭和16年海軍航空隊の大村設置が始まり、その敷地内に島原郷集落の土地が含まれていたため、接収され分散移転を余儀なくされたそうです。

「記念碑」の裏に次のように書かれています。

明治拾四年旧肥前島原藩二恒産会社設立スルヤ、我ノ父祖貮拾四名同会社ノ勧メニヨリ、同二十年閏四月一日此ノ地ヲ撰ビテ移住シ 爾来協力同心萬難ヲ排シ歳ヲ経ルコト將ニ四十年當時ノ父祖ノ労苦ヲ追想シ報恩ノ為メ此ノ碑ヲ建ツ

なお、その左の方に、「上ヨリ家順」として、名前が彫ってありましたが、「大村史話」に、当時の家の並びが載せてあり、最初が寺田家、永野家、尾崎家・・・・というように,そのままでした。


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                (「大村史話」より)

この話は、島原などでもあまり知られていなく、大村市民病院(国立の方ではありません)の真裏にあり、すぐにわかりますから機会があったら見てください。


【参考・引用:「大村史談続編1(大村史談会編)」「島原城の話(渋江鉄郎著)】




2016年9月 8日 (木)

「珍刀譚変剣記(ちんとうたんへんけんき)」~黒鉄ヒロシ著

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「刀」というと「刀」ですが、何回か実物を見る機会がありましたが、はやり血を吸ったものだと思って見つめると、なんとなく、引き込まれる妖しさがあります。

黒鉄ヒロシ氏は最近時代物が多くなってきたようで、はやり人間は歳を取ると歴史方面に興味がいくのでしょうか。

黒鉄氏は、この「珍刀譚変剣記」の前に「刀譚剣記」を出版しているようですが、世にいう名刀を中心として、それにかかわる人物、歴史を描いています。
もちろん、マンガで気楽に読め、ヒロシ流のボケやツッコミもありますが、意外に良く調べて、描いてあります。

登場する刀は、明治末年、奈良の大仏の足元から出土した「陽宝剣・陰宝剣」、その謎は?

義経が使った「今剣」、弁慶が使った「岩融」。

壇ノ浦後、年月は流れ、瀬戸内海の玉島郷(岡山県)の漁師が海から、たまたま引き上げたたという「古備前 友成 さくら丸」。

楠正成が所有し、その後、秀吉から家康へ。ところが、この刀が行方不明に。そして、発見されたのが河内の農家。大阪の刀屋が手に入れ、刀剣鑑定本阿弥家へ鑑定を依頼するも、偽物のレッテル。ところが、中村覚太夫というらしい旗者の手へ。ところが、この刀が、6代目・山田浅右衛門(首切り浅右衛門)から、
井伊直弼へ、再び7代目・山田浅右衛門へ。その後、東京府知事大久保一翁を介し、明治天皇へ献上されるという数奇な運命をたどる「小龍景光」。

あとは長くなるので、ざっと。
斬る真似をしただけで骨を砕くという「骨喰藤四郎」。刀長七尺三寸(2m超)の「末野青江(真柄太刀)」。「古今伝授行平」。「Adolf Hitlerと日本刀」。腕を切られながらも、相手を倒したという「腕の喜三郎」。

坂本龍馬も日本刀に興味があったらしく、いろいろ説明してありますが、この「龍馬刀」で面白いのが、「ついに!これぞ龍馬さんの妻お龍さん!という 写真がめかったのです」という所で、お龍さんの写真姿をもとに、描てあります。お龍さんの人生も描いてあります。

秀吉の五大老の一人、上杉景勝秘蔵の「鶴姫一文字」。

黒鉄ヒロシ流の歴史観、人間観も描いてあるので、日本刀に興味のある方はご一読を。





2016年7月16日 (土)

「日本の地獄と雲仙地獄」★講師 根井浄・元龍谷大学教授~第191回 コレジヨ市民文化講座

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今日は、南島原市有家町の「コレジヨ市民講座」で、毎月一回、今回で191回ですから、随分長く続いています。

南島原市は、日野江城、島原・天草の乱の原城、キリシタン墓碑等を含んでいるのか、皆さん熱心で今日は椅子、机、資料なども用意した分が足りず、事務局の方は大変そうでした。

講師は元龍谷大学教授・根井浄氏。演題が「日本の地獄と雲仙地獄」。最初は十界曼荼羅の地獄の説明。

上の虹の形に見えるのが人が生まれて、死ぬまでの図で、真ん中あたりに閻魔大王などが見え、下の方に地獄があります。

昔は、この図を、「熊野比丘尼」が各地に持って回って、説明し、戦国時代、熊野三山の財政難を助けたそうです。現在、この史実を活用しようと、「熊野絵解き図」制作プロジェクを、地元の方、各種団体が共同で推進しているとのことです。(和歌山県ホームページより)


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多分、昔も右のようにして解説していたのでしょう。

さて、雲仙地獄にも「肥前國高来郡嶋原温泉山之図」があり、現在5種類ほど確認されているそうです。


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話には聞いていたのですが、縦型の図があり、これが一番古いのではという話ですが、現在、東京国立博物館所蔵になっています。コピーですが、見たのは初めてでした。

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この図を、根井先生は半年ばかりかけて、解読されたそうですが、地名、地獄の名称が書いてあり、珍しいのでは、「立きゝじごく」、「かじやじごく」、「めしたきじごく」、「きょうだいじごく」、「酒やじごく」、「ときやじごく」などある中に、「たかのぶとう塔跡」なるものがあり、「おばま 史跡ガイド」によれば、「竜造寺隆信」の墓の紹介がしてあり、多分、「たかのぶとう塔跡」は、竜造寺の墓ではないかと思うのですが、「遺骨は分骨され雲仙にも葬られたという。」ですから、本物かどうかは不明です。なお地図には「千々石道」の文字も見えます。

当時は満明寺一乗院が雲仙地獄を支配、管理していたとかで、「温泉(うんぜん)山起立書」に「他所人又ハ六部其外、御領内ゟ弟子又ハ手習子供差出、案内可遣申候」とあるそうで、一乗院が地獄の案内権をもっていた、という事だそうです。多分、上の図は今でいえば、案内パンフレットかな?

知らないこと、見落としていたことなど多くの事が聞け、はやり専門家の話は聞くものだと思った一日でした。

(参考・文引用・写真引用
:「根井先生講義資料」・「地獄絵図『熊野観心十界曼荼羅』絵解台本~方丈堂出版刊」・「嶽南風土記 23号~有家史談会刊」・「おばま 史跡めぐりガイド」・「日本百景と土産物~平凡社刊」・「和歌山県ホームページ」)







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