歴史

2016年9月 8日 (木)

「珍刀譚変剣記(ちんとうたんへんけんき)」~黒鉄ヒロシ著

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「刀」というと「刀」ですが、何回か実物を見る機会がありましたが、はやり血を吸ったものだと思って見つめると、なんとなく、引き込まれる妖しさがあります。

黒鉄ヒロシ氏は最近時代物が多くなってきたようで、はやり人間は歳を取ると歴史方面に興味がいくのでしょうか。

黒鉄氏は、この「珍刀譚変剣記」の前に「刀譚剣記」を出版しているようですが、世にいう名刀を中心として、それにかかわる人物、歴史を描いています。
もちろん、マンガで気楽に読め、ヒロシ流のボケやツッコミもありますが、意外に良く調べて、描いてあります。

登場する刀は、明治末年、奈良の大仏の足元から出土した「陽宝剣・陰宝剣」、その謎は?

義経が使った「今剣」、弁慶が使った「岩融」。

壇ノ浦後、年月は流れ、瀬戸内海の玉島郷(岡山県)の漁師が海から、たまたま引き上げたたという「古備前 友成 さくら丸」。

楠正成が所有し、その後、秀吉から家康へ。ところが、この刀が行方不明に。そして、発見されたのが河内の農家。大阪の刀屋が手に入れ、刀剣鑑定本阿弥家へ鑑定を依頼するも、偽物のレッテル。ところが、中村覚太夫というらしい旗者の手へ。ところが、この刀が、6代目・山田浅右衛門(首切り浅右衛門)から、
井伊直弼へ、再び7代目・山田浅右衛門へ。その後、東京府知事大久保一翁を介し、明治天皇へ献上されるという数奇な運命をたどる「小龍景光」。

あとは長くなるので、ざっと。
斬る真似をしただけで骨を砕くという「骨喰藤四郎」。刀長七尺三寸(2m超)の「末野青江(真柄太刀)」。「古今伝授行平」。「Adolf Hitlerと日本刀」。腕を切られながらも、相手を倒したという「腕の喜三郎」。

坂本龍馬も日本刀に興味があったらしく、いろいろ説明してありますが、この「龍馬刀」で面白いのが、「ついに!これぞ龍馬さんの妻お龍さん!という 写真がめかったのです」という所で、お龍さんの写真姿をもとに、描てあります。お龍さんの人生も描いてあります。

秀吉の五大老の一人、上杉景勝秘蔵の「鶴姫一文字」。

黒鉄ヒロシ流の歴史観、人間観も描いてあるので、日本刀に興味のある方はご一読を。





2016年7月16日 (土)

「日本の地獄と雲仙地獄」★講師 根井浄・元龍谷大学教授~第191回 コレジヨ市民文化講座

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今日は、南島原市有家町の「コレジヨ市民講座」で、毎月一回、今回で191回ですから、随分長く続いています。

南島原市は、日野江城、島原・天草の乱の原城、キリシタン墓碑等を含んでいるのか、皆さん熱心で今日は椅子、机、資料なども用意した分が足りず、事務局の方は大変そうでした。

講師は元龍谷大学教授・根井浄氏。演題が「日本の地獄と雲仙地獄」。最初は十界曼荼羅の地獄の説明。

上の虹の形に見えるのが人が生まれて、死ぬまでの図で、真ん中あたりに閻魔大王などが見え、下の方に地獄があります。

昔は、この図を、「熊野比丘尼」が各地に持って回って、説明し、戦国時代、熊野三山の財政難を助けたそうです。現在、この史実を活用しようと、「熊野絵解き図」制作プロジェクを、地元の方、各種団体が共同で推進しているとのことです。(和歌山県ホームページより)


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多分、昔も右のようにして解説していたのでしょう。

さて、雲仙地獄にも「肥前國高来郡嶋原温泉山之図」があり、現在5種類ほど確認されているそうです。


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話には聞いていたのですが、縦型の図があり、これが一番古いのではという話ですが、現在、東京国立博物館所蔵になっています。コピーですが、見たのは初めてでした。

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この図を、根井先生は半年ばかりかけて、解読されたそうですが、地名、地獄の名称が書いてあり、珍しいのでは、「立きゝじごく」、「かじやじごく」、「めしたきじごく」、「きょうだいじごく」、「酒やじごく」、「ときやじごく」などある中に、「たかのぶとう塔跡」なるものがあり、「おばま 史跡ガイド」によれば、「竜造寺隆信」の墓の紹介がしてあり、多分、「たかのぶとう塔跡」は、竜造寺の墓ではないかと思うのですが、「遺骨は分骨され雲仙にも葬られたという。」ですから、本物かどうかは不明です。なお地図には「千々石道」の文字も見えます。

当時は満明寺一乗院が雲仙地獄を支配、管理していたとかで、「温泉(うんぜん)山起立書」に「他所人又ハ六部其外、御領内ゟ弟子又ハ手習子供差出、案内可遣申候」とあるそうで、一乗院が地獄の案内権をもっていた、という事だそうです。多分、上の図は今でいえば、案内パンフレットかな?

知らないこと、見落としていたことなど多くの事が聞け、はやり専門家の話は聞くものだと思った一日でした。

(参考・文引用・写真引用
:「根井先生講義資料」・「地獄絵図『熊野観心十界曼荼羅』絵解台本~方丈堂出版刊」・「嶽南風土記 23号~有家史談会刊」・「おばま 史跡めぐりガイド」・「日本百景と土産物~平凡社刊」・「和歌山県ホームページ」)







2016年6月 3日 (金)

「島原街道について」~駄賃・特に千々石街道について


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   (島原半島の歴史より)


島原半島ですが、左手のピンクの上の四角が「土井口番所」、下の四角が「原口番所」で、島原藩と諫早領の境になります。

赤丸印が島原で城下です。島原半島は昔、北目、西目、南目の三筋に分かれていました。

島原から逆時計方向に、島原、杉谷、三会(みえ)・・・・・・会津(愛津)、これが、北目筋になります。島原から時計方向に、中木場、安徳、深江・・・北有馬(大体青の丸印)、これが南目筋になります。青丸の所から、北有馬、隈田・・・・千々石(大体黒の丸印)、これが西目筋になります。

これを結ぶ線、黒い線が街道です。もう一つ、島原から山越えで千々石に至る道があり、これが千々石街道。

さてよく時代劇で、人足が荷を運ぶ様子がありますが、先日、古文書研究会で「島原領道法駄賃覚」(寛文十三癸丑歳六月一日)というのを頂き、「右の通り、吟味の如く、先規定候。壱里に付き、駄賃銀四分宛て、山越は、八分宛てに相極まり候間、此通り相心得べく事也」、という事で、壱里が銀四分、山越えはその倍になります


この、「銀四分」というのが、今の「円」に換算するといくらになるか、専門の方の話では、なかなか難しいところがあるのですが、ネットに換算のページがあり、これを利用すると→こちらをクリック 。で計算すると、一里だいたい4キロで440円。

現在のタクシーだと、会社で違うようですが、長崎では、初乗り1000mで510円、以後188mごとに50円のようですから、人間と荷物を運ぶ違いはありますが、随分とお安いものです。

さて、この千々石街道が険しく、天保三年の地図に、「此一里山之間坂有難所附き馬不通」。難所の坂があり、荷物を背負った馬は通れないという事です。

「長崎市史・資料2・島原藩」の所にも
一 村繼之道法、貞享二年丑相改、別紙書付出置候、駄賃銀壹里に付四分、
  千々石山越本道二五割増、(以下略)」

千々石山越えは、本道より五割増しですから、いかに厳しい道かという事が分かります。

松平忠房(丹波福知山城主)は島原に移り城主になりますが、この時、「・・・将軍召公使就新封言曰、与大久保忠朝(加賀守唐津城主)同監長崎事務・・・」。要するに江戸時代、長崎は唯一の貿易港で、天領で
したから、唐津城主と共に長崎の事務を監視するように命じられ、島原のお殿様は、島原と長崎を行ったり来たりするわけですが・・・「殿さんが、あん険しか山道(千々石街道)ば行くもんか。(訳:お殿様が、あの険しい道を行くはずがない)」と言う人がおりましたが、「永代日記」(原典は島原市松平文庫蔵)というのがあり、横浜の方がルーツ探しをしているとき、出会ったようで、解読をされており、それによれば、

一 殿様天明四年辰四月十日長崎江御越被為遊候節、千々石道通、千々石村
   御昼休ニ付(以下略)とか

「・・・・然者此度千々石道御通行ニ付、道筋普請等仕候処・・・」とか、お殿様が通るので、普請をさせられたりで、明らかに、この厳しい千々石街道を、お殿様が通ったことが分かります。理由としては、「藩主が長崎に出るのに海岸道より、この方が近いので整備させたものであろう。」という事です。(北目筋を主に使ったようですが・・・)

ただ、あの道を多分馬に乗ったのではなく、駕籠に乗ったのでしょうが、担ぐのも難儀なら、乗ったお殿様も大変だったと思います。

(参考・文引用:「島原半島の歴史~松尾卓次修」「永代日記~角田義雄解読        
長崎県史・資料2」「島原半島史~林銑吉」)




2016年5月17日 (火)

「温泉(うんぜん)」から「雲仙」へ~県議会議事録より

 
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上の写真は、一昨年の雲仙の写真です。テレビを見ると、今がミヤマキリシ
マが見ごろだとか。行ってみようかと思ったのですが、どうにも億劫で、まあ、
以前とは変わりはないだろうと、手抜きで前の写真を使いました。

以前、「『温泉(うんぜん)』から『雲仙』へ」ということで、「温泉(うんぜん)」の
名称が「雲仙」に変わったいきさつを書きました。

あれで、終わろうかと思ったのですが、あの中で、県議会で議論がされたこ
とを書きましたが、実物を読んでないので、いつか読んでみようか、とは思っ
ていたのですが、県議会事務局まで行って、閲覧願などを書いては面倒だ
な、ということで忘れていたのですが、調べたらネットで議事録がでており、
見たら、これは、平成8年からで、残念でした。

と、探していたら、灯台もと暗しで図書館に置いてありました。で、昭和2年の
議会ですから、「選挙は武士道的に」「言いっ放しは許さぬ」「不公平な議事進
行」など、威勢のいい議論などありますが・・・本論に戻って。

雲仙が議題になったのが、昭和2年の通常県会(11月21日開会・12月20
日閉会)。土木費の件で、「雲仙公園の拡張と施設」「墓地(注:雲仙)管理の
杜撰」「地震計設置個所」と「温泉と雲仙」ということになるのですが・・・・

事務局の前書きで「・・・温泉公園には上水道が敷かれ、技手、書記、園丁の
増員が行われて国立公園の足固めをすると共に、用字も『温泉』から『雲仙』
と改められたが、地震計問題で一波乱生じた。・・・・」とあります。

永安議員が監査報告で「・・・第二に、現在外人専門的な経営方針に民衆的
施設を加味されたい。・・・・」という発言をしていることを見れば、昭和2年頃
は、外人の雲仙利用が多かったことが伺えます。

なお、当時の佐上知事の発言として「・・・名勝地(新日本八景)の指定を受けよ
うとしなかった過去においては、あれでよかったかもしれぬが、ホテルのベッド
数六〇〇程度に対し需要は二、〇〇〇を超える今日にと情勢は一変している」
というところを見れば、このころから雲仙の人気が出てきたことが分かります。

さて、「温泉」から「雲仙」の事ですが、そのまま書くと
■永安議員
この予算の中にウンゼンを温泉と書いたり雲仙と書いたりしてある。我々県民
は略想像は出来るが、県外に対しては誤解の生ずる虞れもあるので、公文書
には統一して置く必要はないか。
■佐上知事
元は温泉と書き、現に八景投票の時も温泉嶽と書いてあるが、宣伝の場合普
通の温泉と間違う虞もあり、雲仙の方が景色も現していると云うので、鉄道省、
内務省、県庁三者相談して『雲仙』に改めることにした、従って予算書の他の
部分に温泉公園とあるのは雲仙に訂正する。

ということで、「温泉」が「雲仙」に改名するのは、一般的に昭和9年としてあ
りますが
、公的には、昭和2年だったことが分かります。なお、この年に、千
々石から小浜への鉄道が開通をしています。





2016年5月 5日 (木)

長崎式「鯉のぼり」

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私たち長崎人には、見慣れた光景ですが、先日NHKのローカルニュースを見て

いたら、この鯉のぼりの揚げ方が、長崎独特のものだとか。


鎖国時代、長崎と中国とは交易があり、中国の方が、なんとかというお寺に来る

時、その目印として、鯉のぼりではありませんが、布を付けておいて、それを目印

にして訪れたとか。一本棒に布を付けておいたら、風がなかったら布が垂れて

えない時がありますが、これなら、風がなくてもOK。それが、この鯉のぼりの揚げ

方の元になったとか。


で、少し調べようと思ったら、いつもの図書館がお休みで、手元の「講談社版

大歳時記」の「鯉幟」を見ると写真が載っており

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あら、ホント違いますね。で、疑り深い私、県外ではどうなっているのか、確認しよ

うと思っていたら、仙台からこちらに移って来られた奥様とバッタリ会い、一番上

の写真を見て、「仙台はどうですか?」「長崎に来て、鯉のぼりの揚げ方が違う

ので何でだうと思ってたんですよ。仙台では、一本棒に、上から大きい順に揚

げてていくんでよ」と。重ねて、Googleの映像で、「鯉のぼり」を検索したら、上

の本の写真よう鯉のぼりの揚げ方ばかりでした。


それで、町内、諫早当たりまで観察しに行きましたが、少子化のためか、鯉のぼ

りの少ないこと。

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ほとんどが、長崎式の鯉のぼりでした。多分、長崎で作っていたのを、こちらでも

似するようになったのでしょうが・・・


なお、「長崎辞典・風俗文化編~長崎文献社編」を読んでみると、少し面白いこと

が書いてあり・・・

「鯉のぼりのはじまりは端午の幟のまねきに鯉の瀧のぼりの縁起でつけていたも

のが、(延享年間、一七四〇年代・俳諧清銫)今日のように変化独立したといわ

ている。・・・」とあり、下記の図が載せてありました。

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また、「俳諧清銫」を確かめようと、「国立国会図書館デジタルコレクション」、「国

公文書館デジタルアーカイブ」等を調べましたが、残念ながら、引っかかるもの

なく、確認はできませんでした。


「所変われば品変わる」とは言いいますが、自分があたりまえだと思っていたこと

が、あたりまえではないことを勉強した一日でした。です。


下は、千々石の塩浜の方々が千々石川に作った飾り。クリスマス等の時にも

飾りものをして、目を楽しませてくれます。国道からも見えますが、脇見運転をし

ないようにご注意を(脇見運転をしないと見えないので、近くに止めてご覧下さ

い)。

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2016年4月28日 (木)

2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事③~長崎県雲仙市吾妻町

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また、昨日の続きです。


吾妻町史を参考に三體地蔵の事を書いたおり、「
南北町時代は野井城(愛野

町)、飯岳城(千々石町)の戦いに南朝・北朝の軍勢が、何回となくこの古道を往

来(いきき)している。」と書いてあり、この部分に少し興味があり・・・


これも、以前、飯岳城の事を書きましたが→こちらをクリック 。上の写真が「飯岳

城」の跡です。


「長崎県近世城館跡分布調査報告書Ⅱ(長崎県教育委員会刊)」において、「飯

岳城」、「(6)歴史」の所に「南北朝の1372(文中元年)ごろ、九州探題今川了俊

が千々石浜に侵略、城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷いてこれを

防いだ。」とあり「文献」として「古文書・・・北肥戦誌」としてあります。


この時期は南北朝時代で、九州、島原半島もこの争いに引きずり込まれるので

すが、書けば本一冊分になるので、ざっくり書けば、島原半島の豪族は、宮方

(天皇側南朝勢力)に、多比良、神代、西郷。九州探題一色範氏を中心とした武

家方(幕府北朝勢力)に有馬、安富、伊佐早氏に別れるのですが、(参考・千々

石郷土誌)、島原半島の有明海側が宮方になります。有明海を挟んだ熊本に、

朝方の菊池氏があり、「肥前有馬一族~外山幹夫著」によれば、「・・彼らが有

海を通して、一衣帯水に肥後国に接し、同国における南朝の有力な支柱に気

を通ずることができる状況にあったと思われる。」という事のようです。


さて、「北肥戰誌(九州治乱記)」によると、千々石関係では「同三年(觀應三年・

北朝にて使用の年号・1352年)壬辰二月、探題一色入道獻、肥前國高來・彼杵

お宮方退治として、小俣少輔七郎氏連を差遣わす。氏連先づ彼杵へ打越え、矢

上の城入りて、高來の味方を相催すに、有馬・安富以下の武家方共、閏二月

十六日千々岩の津へ馳せまいる。氏連、同十七日千々岩へ陣を移し井(現愛

町野井)の城を攻め、又西郷次郎が杉峰城をせめて合し、三月二日、神代へ

打ち通るの時、西郷出会ひて相戰ふの間、安富深江孫三郎泰治等、散散合戦

し、西郷を追拂ひ、氏連暫く國府へ帰陣す。」とありますがイメージ的に捉えると

下のようになります。

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緑の矢印が有明海干拓の堤防。①が飯岳城、②が千々石海岸、少し右側に、島

原藩の郷倉があったところで、ここから船で島原まで年貢米等を運んでいまし

た。ここらあたりが「千々石の津」に当たるところでしょう、地名も「南船津」になり

ます。③が野井城があった愛野町、④が「三體地蔵尊」がある所、⑤が神代。④

と⑤の間に西郷氏の杉峰城があります。


上の地図、正確な場所が取れないので、大体の所で、あくまでイメージとして、と

らえてください。


なお、もう一ヵ所「應安(南北朝の時、北朝にて使用)六年癸丑(1373年)三日、

初、探題今川入 道了俊・太宰右衛門佐頼泰、彼杵軍へ發向し、伊佐早・宇木

(現在の諫早市有喜)の兩城を攻めけるに、城主伊佐早右近五郎・西郷藤三郎

やがて降参す。了俊・頼泰、その後高來へ打越え、七月七日、神代(現雲仙市国

見町神代)、大隅を攻め、九月六日、千々岩に至り濱手に於いて、宮方の輩と打

戰ひ、一戦に利を得柏崎に陣す。」とあります。(千々石岩は千々石の事です。)


さて、ここで、県の報告書では、「城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷

いてこれを防いだ」とありますが、この「林田隠岐守」が誰であるか、千々石町誌

には載ってなく、吾妻町史には、二ヵ所ばかり書いてあり、「南北朝時代には(日

本城郭大系新人物往来社)、林田隠岐の名が見え、林田氏は南朝方に属した

為、しばしば北朝の進攻を受けている。」とあり、もう一ヵ所は「昭和八年刊行長

崎県庁内長崎県史談会発行『長崎県郷土誌』」に「文中二年(1373年)、九州探

題今川貞世の軍が島原半島に攻め入り神代山田(朝廷方)を攻略した時、千々

石村民は、神代山田軍に呼応して、千々石の戦を開いた、主将林田隠岐守は、

飯岳の丘陵に塞を備えて防いだが、遂に敗れた」と記してあるそうです。


で、「肥前有馬一族」には、「『藤原有馬世譜』一は、続いて峯・鬼塚・馬場・林田

の四氏を『有馬の四天王』と呼ぶが、彼等は始終有間(有馬)氏に従ったものとす

る。」とあります。が、「島原半島史~林銑吉著」の「藤原有馬世譜」の部分を読ん

で見たのですが分かりません。この林田が「林田隠岐守」なのか誰なのかは?で

す。


でもって、考えてみると、攻めてきたのは武家方であり、「林田隠岐守」が有馬家

の家臣なら、有馬家氏も武家方であり、同士討ちになるなと。


おかしな、と思いながら、「肥前有馬一族」読むと、「動乱当初有馬氏は北朝につ

いた。しかし、その後暦応元年(一三三八)十一月、肥後の菊池武重が力を得て

筑後に発向した。佐竹氏義以下の者は敗走した。この時有馬彦五郎入道は竹重

の南朝方に転じた」(『歴代鎮西要略』三)、とあり、これなら「林田隠岐守」が有馬

家の家臣で、千々石の防禦をまかされた可能性も十分に考えられるなと言う事

すが、残念ながら、資料がないので、詳細不明ですが。


もう一つ、大正七年発行の「千々石郷土誌」には、「千々石村飯岳ノ東方ニ丘陵

アリ郷民称シテ城山ト謂フ 往昔城塞ノアリシ所ニテ林田隠岐守ト云エル人城主

ナリシト云エドモ史蹟詳ナラズ・・・」とはありますが、有馬氏との関係は分かりま

せん。長崎県郷土誌、人物往来社さんは、これを参考に書いたのでは


なお、この時代、城が(山城でしょうが)必要となり、山田城、野井城等々が作ら

れ、千々石にも、野田城、飯岳城が作られたようです。


「吾妻町史」には、「南北朝の頃、度々侵攻した北朝に備えた防禦の山城、
そして

逃げ場ではなかったか。」と記してあり、たしかに、この山に登った時、急斜面ば

かりで大変でした。


後年になりますが「釜蓋城」が築かれ、佐賀の龍造寺が島原半島に侵攻し釜蓋

城は落城しますが、この頃のことを、ルイス・フロイスが次のように書いていま

す。


「有馬殿には小浜という城しか残されていなかったという事実を知らねばならな

い。それは隆信(注;龍造寺)が高来の支配者になるために押さえていた二つの

高来への入口の一つである千々石城に向き合ったところにあって、貧弱、かつ防

施設がほとんどない城である。」


千々石城は、もちろん「釜蓋城」のことですが、「飯岳城」の事が一言も記述がな

いところをみると、「飯岳城」は、吾妻町史に書いてあるように、「北朝に備えた防

禦の山城で、逃げ場だった」、言わば仮の山城ではなかったかと思えるのです

が・・・  

       (これでおしまい。長々と書きましたが、失礼致しました m(_ _)m )

2016年3月17日 (木)

「おはぎ」と「ぼたもち」

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今日は春の彼岸の入りで、「毎年よ彼岸の入に寒いのは」と子規の句があります

が、この時期、い日と、暖かい日が繰り返し体にはこたえます。


今日はお寺での、「春の彼岸会」で、お寺とか墓参りで、法事を行います。私の

お寺では、講師を呼んで法座があり、佐賀県のお寺の住職さんから説法があり、

各お寺から来られる講師の話が意外と面白く、今回も聴きに行って来ました。


話の中で、「ぼたもち」と「おはぎ」の話が出て、「今日は、彼岸で『ぼたもち』を供

えてこられたでしょう。で、『ぼたもち』と『おはぎ』の違いが分かりますか?同じな

のです、春の牡丹が咲く頃だか『ぼたもち(牡丹餅)』、秋の萩の花が咲く頃だ

『おはぎ』」。


家に帰って辞書を調べると、

「ぼたもち【牡丹餅】もちごめにふつうの米をまぜてたき、軽くつぶして丸め、あ

ん・きなこなどをまぶしたもの。おはぎ。」

「おはぎ【お萩】(もと女性用語)⇒ぼたもち」


全国和菓子協会の「和菓子を知る」に「おはぎ」の事が載せてあり・・・

「粒餡の小豆が点々と散っている様子が、小さな萩の花が咲き乱れる様子に似

ていることから『萩の餅』『萩の花』と呼ばれていたものを、(中世の宮中の)女官

などの言葉使いで『おはぎ』とよんだことに由来したといわれています。(略)」だと

言うことだそうです。


まぶしす物に、つぶあん、こしあん、きな粉等地域によって違い、また、由来も諸

あるようですが・・・


なお、「近世風俗志(守貞原稿)」(天保八年より三十年間かけて書き上げられた

世風俗史の基本文献)の「餅」の所に次のように書いてあります。


「(略)また牡丹餅(ぼたんもち)は、昔ははなはだ賞翫(しょうがん)せしものな

れども、今は賤しき餅にして、杉折・提重には詰めがたく、晴れなる客には出しが

たし。牡丹の形に似たるにより、牡丹餅と号けり。また萩の花粥餅(かいもち)とも

云う。堂上方には今も賞翫ある由なり、最明寺(殿)、足利義氏の許へ鶴岡社参

のついでに立ち寄らせたまひしに、一献に打ち鮑(あわび)、二献に海老、三獻に

かひもちにてやみぬと、『徒然草』に見えた。今も片鄙にて、歴々のふるまひを牡

丹餅にて慶應(もてなす)は、昔の遺風なり。必ず古実は田舎に残れり。(略)」


とあり、この「粥餅(かいもち)」が分からず、古語辞書で「かいもちを」を調べると

「搔餅(かいもちひ)」というのがあり、「おはぎ、ぼたもち。一説に、そばがきとも。

【例】僧達宵(よひ)のつれづれに、『いざ、ーせん』と言ひけるを」〈宇治拾遺・一・

十二〉【訳】僧達が世の退屈さに、『さあ、ぼたもちを作ろう』と言ったのを。」と

り、「粥餅」といえば、おかゆに餅を入れたもので、「搔餅」が正しいと思ったの

あります。これから読むと、「ぼたもち」、「おはぎ」、かなり昔からあったのです

ね。


横道にそれますが、「近世風俗志」の「餅」の所に、落語に出てくる「幾世餅(落語

では幾代餅)」のことが書いてあり、「三田鶴屋(脱文)」として、「幾世餅。余が聞

きし所は、吉原の娼幾世と云ふ者、花街を辞して後、初めてこれを売りし故に名

とすなり。いずれか是なるを知らず。(略)」とあります。落語の話、本当なのか

な?もっとも「今世も両国と神田見附内とにあり。二戸ともにはなはだ粗制なり。

『世事談』に美味と伝へる古美、今麁なるか。(略)」ともあるのですが・・・あと、幾

世餅については、別の話も書いてはありますが。


今日は、彼岸会でお話しを聞いたためか、仏さまのお導きで「おはぎ」と「ぼたもち」

の勉強ができました。ありがたく・・・・合掌。




2016年2月 9日 (火)

「津波境」★寛政四年島原大変による~雲仙市国見町正覚寺

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平成2年(1990)から雲仙の普賢岳から、噴煙が上がりはじめ、段々それがひ

どくなり、溶岩ドームに成長し、平成3年(1991)に大火砕流をおこし、43名の

方が犠牲者となりました。


これに先立つ約200年前の寛政4年(1792)に、島原市の後に位置する眉山

が崩壊しました(前年から地震等の徴候あり)。これによって、大津波が起こり対

岸の肥後(熊本)にまで押し寄せ、3回ほど反復し、肥後にまで被害をおこし、「島

原大変肥後迷惑」と言われています。


島原市仏教会で、「たいへん~島原大変二百回忌記念誌」(平成4年刊)を発行

しており、読んでいると、国見町多比良の「津波境」の話が載っており、行ってみ

ました。


同書によると、熊本県三角町太田尾に、「津波境」の石碑があるそうで、標高十

五㍍。「津波境」「寛政四子四月朔日戌刻」「山本二十七金助立之」と刻んである

そうです。


島原半島にも、これに伴う慰霊碑は多いのですが、言い伝えはあるようですが、

はっきりした、「津波境」は聞いたことがなく・・・


多比良にある正覚寺。矢印のところに一番上の写真の階段があります。以前は

説明版はなかったようですが、「島原半島ジオパーク」と書いてありましたから、

この関係でしょう。なお、「島原半島観光連盟」とも書いてありました。

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説明版には、「『島原大変』時に発生したの遡上高の分布図(赤木(2001)、郡

司・日野(1993)、郡司・村上(1997)を基に作成)。」と、津波当時の高さを表

す写真。

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なお、「たいへん~島原大変二百回忌記念誌」によると、元国見町長松尾耕之助

氏が「津波境」の事を話された事が載っています。


島原大変のとき、津波は、石垣の上から三段目とも、石段の上から三段目とも言

われていますが、あまり、違いはなさそうです。せっかく写真を撮ってきたので、

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なお、「国見町郷土誌」の「高力山正覚寺」のところに。「・・・寛政四年の大変の

時は一の波が寺の裏門口壇三段下まで上がってきたそうである。寺の境内には

小屋掛けをして避難民を収容した。」とあり、「多比良町郷土誌」には・・・


「本多三郎治の母はつは当時八歳であったが、親に手を引かれて正覚寺裏門か

ら逃げ登り一命を助かったの由、はつの物語に寄れば一の波は寺裏門石壇

三段下まで上り来たりと言う。正覚寺境内には船津名松本清左衛門(松本豊治

の祖先)の世話で焚きだし所を設け避難者に粥を与え且つ小屋掛けをして火を

焚き薬など煎じて避難者の手当を施したそうである。(南軒雑記)」とあるそうで

す。


なお、多比良町(現雲仙市国見町多比良)では、およそ千名の方が亡くなられた

そうです。


多少、表通りから入ったところですが、目に付きにくく、せっかくの史跡がもったい

ないような・・・


(参考・文引用:「国見町郷土誌」「たいへん~島原市仏教会発行」「島原半島の

 歴史~松尾卓次監修)



2016年1月13日 (水)

「福石様の祠」~雲仙市千々石町

Photo_10

毎度おなじみの福石様です。


左の矢印が恵比須様、いわれをザッと書けば、漁師の網に恵比須様に似た石が

っかかり、この大石の上に祀っていたそうです。

ある時、大津波が押し寄せ、恵比須様が海の中に落ちた途端、波が静まったそ

です。皆で元のところに祀って、「福石様の恵比須様」と名付けという事です。


前に、〆縄を十数年ぶりに張った事を書きましたが、今回は、右の赤○の祠の

事。この祠のいわれは、地元の人も知る人はなく、かろうじて、「八大竜王」と聞

いていたとの話。


〆縄を張る時、祠に苔がこびりついているからと、綺麗にしたら、

Photo_11 Photo_12

赤○印の所、字が書いてあるんですね。で、字を読もうと思っても、滑りやすい岩

の上、おじさん、体のバランスが悪くなって、落っこちたら大変ですから、写真で

撮る事に。裏、横には何も彫ってありません。

2_2 Photo_13

ただ、太陽の光線の加減でなかなか見えにくく、一週間ばかり通ってやっと読め

る程度に撮れ、ハッキリと文字が刻んである所だけをたどっていくと

Photo_14

何となく、分かる感じ、自信がないところは(?)を付けています。


右側は、「奉建造(?)福石辨財天」、左側は、「願主(?)千々岩(?)村(?)中

(?)」だと思います。


中の模様は、丸い円の中に文字が書き込まれていますが、多分、梵字だと思い

ます。ただ、辨財天をあらわす梵字は左で、どうにも似ていないようで、祠に刻ま

れている文字に似ているのを捜すと右の文字ですが、これは、弥勒菩薩をあら

わす梵字ですが、福石様とは関係ないような・・・梵字をご存じの方は、コメント欄

にてお教えください。なお、梵字の下の模様は多分、ハスを表現したものだと思

います。

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さて、話変わって、犬も歩けば棒に当たる、私が歩けば美女にあたるの喩え通

り、「島原半島大概様子書」という文書があり、島原領の各村々の様子が書かれ

たもので、宝永四年(1707年・309年前です)に完成し、その後、度々改正され

たものを読んでいると、千々石村の事も書いてあり、これは、「文政六末改

(1823年・193年前)」としてあり、例えば、「一、家數千貳百五拾八件 人数

(男三千六拾壹人女貳千九百貳拾壹人) 牛六拾三疋馬七百拾四疋・・・一、鉄

砲 拾三挺(拾壹挺威筒三挺猟師筒)・・・」というようなことが書いてあり、最後の

所に、「一、船津名浜辺に大石有り福石と申此上に小さき石の禿倉内に梵字有」

とあり、この石祠、建て替えていなければ、少なくとも200年以上前の物だと思

われます。


さて、悩んだのが、「禿倉」。「はげくら」と読むのか、「かむろくら」と読むのか?

調べてみたら、PHP新書、「神社の由来が分かる小辞典」、「天神信仰」の所に、

「天慶五(942)年七月、多治比奇子(たじひのあやこ)という少女が天神の託宣

を受けて私宅に、その霊を祭る禿倉(注:「ほくら」のルビ有り)(小さな神社、ほこ

ら)を構えた。・・・」とあり、「禿倉」は「ほくら」と読み「小さな祠」のことである、とい

うことで、今回は勉強になりました。之にて一件落着。梵字を除いてですが、で

も、なんと読むのでしょう?






2015年12月19日 (土)

早くも「真田丸」~NHK大河ドラマ

Img_20151219_0001

来年の1月10日からの放映ですが、早くも解説本が出ていました。


「真田丸」といっても、ご存知ない方もおられると思いますが、大坂冬の陣におい

て、真田幸村が築いた、大坂城の出城で、「いい仕事してますね」という城です。


「真田丸」については、2,3、早くも本が出ていて、この本には出演者の紹介、対

談、真田家をめぐる歴史、あらすじが第13話分まで載せてあります。


ドラマ中において、かなりCGなど最先端の技術を駆使するようで、撮影に邪魔に

なるような物体は消すことが出来るようですが、昔、某大監督が、時代劇を撮る

時、「あの、電柱が邪魔だから切ってこい」という話など思いだし・・・・


ついでに思い出したのが、真田十勇士、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、

好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六

郎。おじ(い)さん達は知ってるのですが、若い人はどうかな?


この物語においては、「真田幸村」ではなく、「真田信繁」の名前を使っています

が、これについては、後の「豆知識」で説明をしてあり、ザッと書けば戦国時代武

将は改名することが多い(徳川家康も初名は松平元信)そうですが、「信繁」の署

名は残っているが、「幸村」の署名は存在していないそうです。


寛永12(1672)年の軍記物語「難波戦記」に初めて「幸村」の名前が出て来る

そうで、「信繁」に当たる名前がすべて「幸村」になっており、これ以降、絵双紙、

講釈本などで「幸村」の名前で出てくるそうです。大坂城での戦いの戦死前に「幸

村」に改名したのではないか、との説もあるようですが、どうもハッキリとはしてい

ないみたいです。


ドラマでは「信繁」で統一してありますから、作者の三谷幸喜氏のこだわりで、で

きるだけ史実を尊重しようという態度なのかな?


戦国時代といえば、調略、裏切り、取引等々あり、まさに、裏の裏を読んで、その

また裏をかくという事で、なにがどうした、という事がありますから、一応、前もっ

て本を読んでおいた方が、良いのではないかと、思う次第で存じ候。


(参考・引用:「真田丸 前編」~NHK出版より)








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