歴史

2021年8月21日 (土)

原城=春城の名称について

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江戸時代の街道絵図に「原城」のことを「春城」と書いてあるのを見かけます。

左は「大日本道中細見・三河屋鉄五郎版」。残念ながら年代は分かりませんが、赤の四角の所「春城」と書いてあります。

右は「大日本早引細見絵図・天保13年改版 絵圖屋庄八版」(1847年)。同じく「春城」と書いてあります。

「春城」の左側に「古城」と書いてありますが、有家町にある地区の名前です。

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まったく書いてないのもあります。左は、大日本早引道中版 天保八酉11月再版(1837年)。

右は、鳥飼市兵衛版 寛保四年大増補日本道中行程(1743年)。こちらは「古城」とありますが、有家町の古城ではなく、「原城」のことです。下の方に「ソクノ コモリタル 所(「所」はくずし字にて表記)」(賊の籠もりたる所)とあります。

以前、原城の名前は「原之城」「有馬城」「志自岐原城」「春城」「日暮城」とあり、これについて調べると書きましたが、やはり詳しくは分かりませんでした。で、一応調べた分で、今回は主に”春城”に絞ります。

⚫長崎県大百科事典には「有明海に面して東南に突き出た「ハルの島」といわれた岬を利用して築かれた平山城。(長崎新聞社発行)

⚫北肥戦誌(九州治乱記)には「抑々(そもそも)肥前國髙來島志自岐原。城主有馬越前入道随意齋仙岩と申すは・・・」。北肥戦記(別名『九州治乱記』)は、佐賀藩士馬渡俊継が正徳年間(7711~1716)に編纂。(青潮社・1995年発行)

⚫新編藩翰譜には「原の城は有馬家の旧領なりき、それへ賊徒の立て籠りしなり。但し、原の字は、はると云ふべし。西国の方言なりと云う。」。藩翰譜は新井白石が慶応5年(1600)~延宝8年(1680)の諸家337家の由来・事跡を書いた本。完成が元禄15年(1702)。
(新人物往来社・昭和52年発行)。

⚫佐野彌七左衛門覚書には「・・・原の城の名古来所の者春の城と申候へとも上使御下次原の城と何れも申候故所の者も原の城と申候事」。佐
野彌七左衛門は当時の島原領主松倉氏の家臣で、物頭を勤め、禄四百石を食む・・・(島原半島史・林銑吉著より)。

なお、本によっては、一揆以前は城の名前は無かったと書いてあるのもあります。また「勝茂公(佐賀藩主)御年譜」によれば「有馬ノ古城原ノ城へ・・・」ともあります。長崎県事典では「ハル」」と書いてありますが、出典は不明。北肥戦記には「肥前國高來島志自岐原。城主・・・」とあるので、「志自岐原城」と考えられ無いこともない。

さて、島原半島に住んでいる方はお分かりですが、当地方では「原(はら)」のことを「はる」と発音するところもあります。「原」が一番最後につく時は「ばる」とも発音します「弘法原(こうぼうばる)」。「原」一字の小字がありますが、これは「はる」。千々石に「古賀原(こがばる)」がありますが、通称「原(はる)」。全部が「はる」ではなく、「はら」と読むのもあります、同じ小字でも「赤原(あかばる)」「塚原(つかはら)」。

ですから、藩翰譜には「西国の方言なり」とはありますが、一概に言えないのではないかと・・・PCで「はる」と打ち込んでも「原」ともでます。

神田千里氏の「島原の乱」には、「原城はもともと『はるのしろ』と呼ばれていたものが、島原の乱のために幕府の鎮圧軍がやってきた後、『はらのしろ』と呼ぶようになったと伝えてられる(『佐野弥七左衛門覚書』)」とあります。上に引用した内容と大体同じです。

佐野彌七左衛門は島原天草一揆に実際に参加をしているので、これが一番正確なのではないかと思います。


地図を見て、面白い事に原城の本城の「日野江城」がありません。


地図は乱後100年のものです。また、島原から遠く離れた江戸に「”春”城」ということで伝わっていたという事は、興味深いと思います。軍記物に「春城」の名称があり、それを写したものかと思い2~3冊見たのですが、ありませんでした。

下の絵、左は天草四郎の絵。書いたのは”月岡芳年、天保10年(1839)~明治25年(1892)。右は”豊原国周”、天保6年(1835)~明治37年(1900)。右上に”天草四郎時貞・尾上菊五郎”、左上に”千々輪五郎左エ門・市川團十郎”。乱後200年以上の絵になります。絵自体は、何となく奇異な感じですが、地図と同じく江戸という土地に武将、忠臣蔵かと思われる姿で描かれているのも面白いと思います。この絵は、国会図書館デジタルコレクションに所蔵されています。

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いつものごとく、まとまらない話になりましたが、他にも、原城の名前について書いてある本もあるので、又改めて分かりやすく書いてみたいと思います。


2021年5月 1日 (土)

ん?「三會町」?~三會町「宗門改繪踏帳」

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上は島原市の「三会町」の「宗門御改繪踏帳」。これ、島原の「三会町」かな?と調べると、寺の名前が書いてあるページがあり、安養寺、善法寺、専念寺、妙光寺、正覚寺。他にもお寺の名前がありましたが、全部島原半島のお寺で、この「三会町」というのが、島原市の三会ということで間違いないという事が分かります。

「宗門改」は全国的におこなわれていますが、特に島原半島は、島原・天草一揆が起こった所でキリシタンにはピリピリしています。普通は「宗門御改帳」ですが島原半島では「宗門改絵踏帳」「宗門改影踏(かげふみ・えいふみ)帳」。

「踏絵」については、安高啓明氏「踏絵を踏んだキリシタン」(吉川弘文館)が参考になるかと。


下は信州小糠郡芝生田村(多分?)宗旨御改帳」。昔は、各戸どこかの寺に属していました。檀家制度、寺請制度。詳しくは→こちらをクリック。特に「禁教令と寺請制度」の所を読んで下さい。


「宗門改帳」の内容は右のようになっています。禅宗城光院がお寺。久八さん一家の事が書いてあり、久八さんは45歳、女房の名前は無く36歳、娘さんが多がさん14歳・・・ということで書いてあります。


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さて、実は一番上の表紙を見ていると、アレ?三会の江戸時代の名前は「三會町」ではなく「三會村」ではないかと。三会について書いた本があるので調べて見ても「三会町」の記載はありませんでした。

余談ですが、大正7年、文部省だったかが各小学校に郷土誌を作らせています。左はその復刻版。意外と面白い歴史が書いてあるところがあり、長崎県の方で自分の所の郷土誌が読みたい方は、長崎歴史博物館1階のリファレンスルームに置いてあります。一応、ホームページの「資料検索」で「大正7年 郷土誌」で検索をして係員の方にお尋ねを。


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で、「三會町」ってなんなのさ、と思っていたのですが、先日より調べ物で「上井覺兼日記」を読んでいると次のような記述がありました。


ちなみに、上井覺兼は島津家の家臣。龍造寺隆信が島原に攻め入ったとき、有馬晴信が島津家に助けを求め、その折り島原での沖田畷の戦いに加わっています。戦いに勝ち島原のあちらこちらを巡察しています。(上井覺兼については→こちらをクリック ついでにこちらもクリック)


天正12年3月24日の部分、ただ一ヵ所ですが「・・・昨日三重(ルビ『會』とあり)之町・・・」とあります。後ろの部分には「三江」、単に「三會」の記載です。


なお「三會村物語」には「美江」「三戸(へ)」「三重」「三江」とも言われているようですが「昔は発音のまま当て字として書いたものが多い・・・」と言うことだそうです。城(島原城)の「見える村」、「見え村」という解釈して無意味ではあるまい、とか。


さて、上井覺兼日記の「三重(會)之町」、「之」が無ければ単純に「三重(會)町」で良いのですが、「之」が入るとどうなんでしょう。他の町は「神代・伊福・森山」と「町村」名は省略してあります。ということは単に「三重(三會)
」というのが正しいとは思うのですが、それでは宗門改影踏帳の「三會『町』」はナンなのさ?と悩みますね。もう少しお時間を・・・m(_ _)m。

「宗門改絵踏帳」の表紙に、印がベタベタ押してありますが、お寺の印と比較するとほとんど一致しています。多分、内容の確認をしたものだと推測するのですが。また、2ページばかり裏に書いた物があり、反故紙を利用しています。この「宗門改帳」は、「写」だったと思われます。


2021年4月19日 (月)

「札」について~「往来手形」の補足

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先日、往来手形について紹介しました→こちらをクリック

その折り、往来手形には将棋の駒の形のは見当たらない、との事を書きましたが、職業に関する「札」については、多少見受けられます。


上の右が将棋の駒形の職業に関する「札」だと思われます。「薬種仲間」とあるので、薬に関する鑑札。宝暦十庚辰年十月とあるので、261年前のものです。


左は「豆腐」の文字があるので、豆腐屋さんのものでしょう。横に「寛政六甲寅年十一月」とあるので、227年前。両方とも焼き印が押してあります。


下は裏側になります。


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さて、島原藩のことですが「長崎県史 資料編 第2」、島原藩「村方號令纂集便覧」の部。「札の部」に「札」の事が載せてあり、「札」として「糀室札」「目籠札」「肴盬札」「酒出店札」「社人納札之札」「鳥殺生札」「掃除人御門出入札」「古手賣札」等々の文字が見えます。

なお、札については「目籠札六角印」「殺生札山形之焼印」「城下二入諸商札ハ、丸之焼印」と書いてあるので、焼印はあったようです。形については見受けられませんでしたが「寸法ハ當春中相触置候・・」とあるので、決まっていたみたいです。


また、「札」については「・・・且口銭之儀者(ハ)、酒株ハ口銭なし、酒出店小賣札壹ヶ年四匁五分宛、糀室札壹ヶ年二貮拾貮匁五分宛、糀小賣札は壹ヶ年二七匁五分宛・・・」と書いてあるので、「札」については口銭を取られたみたいです。


口銭については「島原藩の経済・高木繁幸氏著」に「小物成(諸運上・口銭)について」の所、「田畑にかけられる本年貢を『物成』とか『本途物成』とか呼ぶが、それ以外の雑年貢を総称して『小物成』と言った。」と説明してあります。

なお、島原藩の「札」については、各市の資料館を見て回ったのですが、現在の所、見つけることが出来ませんでした。


2021年4月12日 (月)

島原藩「松平主殿頭忠房公」の評価

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島原に疎い方のためにザッとですが・・・

島原は最初有馬氏が治めていました。居城は日野江城(現南島原市北有馬町)。有馬晴信が岡大八事件で死罪。
しばらく幕府領になりますが、次の松倉重政氏は島原城を築きます。重税とキリシタン弾圧をおこないますが、息子の勝家はどうしようないバカ息子で、島原・天草の乱を引き起こします。

次に高力氏が治めます。息子隆長時代に改易。次に深溝(ふこうず)松平氏の松平氏が福知山藩から入府。以後5代にわたり島原を治めます。前期松平になります。初代が松平忠房公。


次に、戸田氏が2代にわたり治めますが、再び松平氏が8代にわたり治め明治になります。ということで、島原半島でお殿様というと一般に「松平氏」になります。


で、血縁ではありませんが、自分のとこのお殿様というと、なんとなく気になるじゃありませんか。ということで、「江戸最高の名君はだれだ?」という文句に引かれ上の本を買いました。


松平忠房公といえば島原半島の安定化に努め、文学を愛し貴重な資料を集め、現在松平文庫に収められいます。また、江戸時代唯一の海外貿易港であった長崎の監督を命じられ、西国大名の監視も命じられていたという話もあり、幕府からも重用されています。ということあり、「名君」の一人に挙げられていまいかとは思ったのですが、残念ながら、でした。上の右の表が「名君ベスト30」です。クリックすると拡大します。


九州では、福岡藩主黒田長政、佐賀藩主鍋島直正、熊本藩主細川重賢、薩摩藩主島津斉彬。なお、平戸藩主松浦静山がベスト15位に入っていますが、あの人「甲子夜話(かっしやわ)」なんてすごい本書いているからナ。→こちらをクリック


「暴君・暗君ワースト10」も書いてありますが、松倉勝家などが載っているかと思ったら、ベスト10には入っておらず、「不行跡・乱心などが原因で改易された主な藩主」に上に書いた「高力隆長」が入っており「苛政」が原因です。地元では、松倉氏が悪政をした人物として有名なのですが。


なお、暴君・暗君のベスト1はなんと「浅野長矩(ながのり)」。あの松の廊下で吉良上野介に斬りかかった方。理由としては「悲劇の主人公のように見えて、実は江戸史上最悪の暗君といえる。」となっております。


その他、本書には「大名家の衝撃事件ファイル」など紹介してあり、なかなか面白い読み物でした。

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上の左の本は「武士の家計簿」で有名になり、TVなどでもよく見かける”磯田道史”氏が書かれた「殿様の通信簿」。ネタ本は右の「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」。

磯田氏によれば「『土芥寇讎記』は、書物というより、むしろ幕府隠密の『秘密諜報』で、公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもの、という説がある。」というものです。「土芥寇讎記」を翻刻し出版された金井圓氏によれば、書かれた時期が元禄三(1690)だそうで、当時の大名234人の人物評価を載せた希有な書物、だそうです。

磯田氏の本に松平公の事が書いてないかと思ってAmazonから取り寄せましたが、残念ながらでした。ただ、氏の知識と古文書の深読みには”さすが”という思いがします。

水戸光圀の”圀”はなぜ”國”を使わなかったのか。また、悪所通いをしたとあるが、その裏にはなにがあるのか?


前に書いた「浅野長矩」。舞台、映画、小説などでは素晴らしいお殿様として描かれてしますが、なぜ暗君と書かれてあるのかなどは目からうろこでした。

さて、「土芥寇讎記」に”松平忠房公”が載っていました。長いので、要点だけ・・・前半が隠密の多分報告で、後半が幕府の高官の意見だと思われますが

「政道順ナル故、家士心易シ。風俗落付、民間二寛(ゆたか)也。」・・・「忠房公ハ、勇気ヲ宗トシ、才智発明也。心意気淳直ニシテ、法ヲ不背、行跡穏順ニ、仁政ヲ施シ、家民ヲ哀憐スル事深シ。忠義ヲ立ント欲シ、勤候ヲ専ラトセラルト云へリ。


と書いてあり、意味が分からなくとも字を見れば、謹厳実直、誠実、真正直、真摯、生真面目、品行方正、石部金吉というような文字が頭をよぎるのですが・・・とにかく悪所通いなどは無かったようですが、「土芥寇讎記」の最後に、「辺国(島原の事)タルニ依テ、人民喧(かまびす)キ事多シト聞フ、心得アルベキ事ナリ。」とあり、「喧しい」は「やかましい。かしましい。」という意味があり、島原は狭いので悪所通いなどしたら週刊文春に載って「人民喧シ」ですヨ。と言うことで、真面目にしていたのかな、と思います。

忘れていました、忠房公の官位は”従四位下”。吉良上野介が”従四位下”。浅野長矩が”従五位下”で浅野さんよりは官位は上になります。どうでも良いことですが・・・(^^;)。



2021年4月 7日 (水)

「往来手形」について

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「通行手形」「往来手形」「関所手形」など呼び方はイロイロとありますが、多少違いはあるようです。

上は、Googleで「通行手形」の画像を検索したもので、多いのが将棋の駒の形のもの。赤の矢印が古文書。将棋の駒形は見ると、全部、観光地の土産物です。江戸期における通行手形、往来手形、関所手形にはこの形のものは見当たりません。


下の本は往来手形等について書かれた本ですが、古文書についての事のみが書かれています。駒形のものについては、書かれてありません。


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Googleの映像で青印は尼崎藩のものだそうですが、「御門通札」。尼崎城に入るため発行された通行証だそうです。他に「御厠通札」「夜行札」「御城内尿取札」などがあるそうですが、今、大きな会社に入るときなど首にぶら下げる証明書で、関所などで使う手形とは違っています。限られた目的のものです。
こちらを参照

「札」については、職業鑑札などが残っています。


島原藩の資料を見ていくと「目籠札六角印焼印」「殺生札者(は)山形之焼印」などと書いてあり、「札」には色々な種類がある事が分かります。


下は、3枚の札の裏表ですが「通行手形」の文字が見えます。ただ、「天明(?)二壬寅年年限通行手形」とか書いてあるので、限定的なものだと思われます。


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さて、Goggleの映像で「往来手形」で検索すると、下のような古文書が沢山見られます。下に一つだけあげておきます。翻刻は下記の通りですが、行替の時等、画面が乱れるのでベタ打ちしています。

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往来手形之事

因州八上郡池田村佐平治申者宗門

禅宗當寺旦那二紛無御座候
依志願四国遍路罷出候間所々
御関所無相違御通し可被下候若又
日々行暮候節一宿等奉賴候猶又病死
仕候節者其所之御作法を以御取斗
可被下候其節此方江者不及御沙汰
依而往来手形一札如件

文化七年 因劦八上郡奥谷村

申ノ十月日   天佑寺(印)

国々御関所

御役人衆中村々在々

村々在々
御役人衆中



書いてある事は


①氏名

②どこの寺の檀家か
③旅の目的はなにか(この場合は四国遍路)
④関所を問題なく通して欲しい
⑤日暮れで困ったときは宿泊を頼みたい
⑥病死した時はその土地の作法で処理をして欲しい、その折りは、こちらには連絡不要

「江戸のパスポート」に実例が書いてあり・・・簡略して書けば


「すぎ」という女性が西国巡礼のため出国。途中仲間とはぐれ、足を痛めて困窮しているところを小田村の農民に保護される。

その後小屋を建て、養生したが回復せず、所持金も無かったため、自力では帰国できず国元への送還を願い出た。
小山田村では、藩役人に事情を記した届書きを提出し、許可を得て、宿場と村々をつないでの移送(町在継送)で送り返すことになった。

なお、国元への送還を認められたのは、往来手形を所持していたからであったそうです。「往来手形」の内容は上に書いている「往来手形」とほとんど同じ内容です。


江戸時代、「往来手形」について、ただ単に関所を通るときに使ったものだと思っていたのですが、このような事があったことは思っても無いことでした。なかなか、面白い仕組みです。


さて、往来手形、関所手形というと最初書いたように将棋の駒の形を思い出すのですが、誰が考えたんでしょう?「チコちゃんに叱られる!」では、観光土産の「ペナント」を考えた人の事が放送されました。きっと、この将棋の駒形の往来手形、関所手形は観光みやげに考えたと思うのですが・・・(-_-)。



2021年4月 3日 (土)

谷文晁「日本名山圖會」より「雲仙」の地名について

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谷文晁「日本名山圖會」より「雲仙岳」。赤丸の所「雲仙 在肥前州高来郡」。

雲仙岳を大きく捉えた絵だとは思いますが、船の人物など小さな所も良く書き込まれています。


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谷文晁は文化元年「名山圖譜」を刊行し、その後文化九年「日本名山圖會」として刊行、ベストセラーになったそうです。

この図はシーボルトの「NIPPN」にも影響を与えたらしく、宮崎克則氏の「シーボルト『NIPPON』の山々と谷文晁『名山図譜』」として、論文が書かれており、シーボルトの「NIPPON」に描かれた絵と谷文晁の絵とを比較してありますが、ほとんど模写といってもいいようです。→こちらをクリック


なお、谷文晁が実際に山を見て描いたかについては「『日本名山図』にみる谷文晁の名山観」という論文があり、結論として「⑴文晁は自分の目で見た独自の名山を選定した ⑵文晁は山の構図を重視して名山と評価した事がわかり、山を風景として見るという文晁の名山感が明らかになった」としてあります。→こちらをクリック


上の風景は、島原の海からの風景だと思われます。下の絵図は、文化10年長崎勝山町文錦堂から刊行された「九州九カ國之繪圖」です。


青の丸印が「島原」、
白い線が海路になり「熊本」と結ばれいます。ですから、谷文晁はこの海路を辿ったと思われます。勝海舟、坂本龍馬が外国船の下関攻撃を回避するため長崎に来たときも、この海路を利用しています。

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さて、昔は「雲仙」は一般的に「温泉(うんぜん)」と表現していました。このことについては以前「温泉(うんぜん)から雲仙(うんぜん)へ」ということで書き、谷文晁の絵の絵もその折り紹介をしました。

下は天保時代の街道図。左が「本間屋」と書いてあり、江戸と大阪の住所が入っています。右が「奈良大佛前 繪圖屋庄八」とあります。どちらとも「雲仙」を「温泉」と書いてあります。

余談ですが、右の地図、右の矢印「春城」と書いてありますが、島原一揆の舞台「原城」。以前、原城の名前について書きました。大体のことは分かったのですが、あと一歩で、いずれ書きたいと思っています。

左の矢印「談合シマ」。一揆軍が話し合いをしたという「談合島」。

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で、以前からの疑問で谷文晁が「温泉(うんぜん)」をなぜ「雲仙(うんぜん)」と書いたのか?いろいろ考えた末、以下のような事を考えてみました。


谷文晁はもちろん地元の人間では無い。ということは「温泉」と書いて「うんぜん」と読むのは知らない。弟子と来たかどうかは不明だが、地元の案内人がいたことは十分に考えられる。


案内人が温泉岳を「文晁先生、あれが『うんぜん』バイ」と説明をし、その折り「うんぜん」という言葉を「温泉」と教えたなら問題は無いが、言葉だけだったら「温泉(うんぜん)」を「雲仙(うんぜん)」と受け取ったと考えられる。で、「温泉岳」を「雲仙岳」と書いた。


という事が考えられませんか(-_-)?あくまで私見ですが、これが正解だと私は信じているのですが・・(^_^)v。



2021年3月21日 (日)

「山武士神社」の「宮崎九郎右衛門」について

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以前、日野江城の麓にある「山武士神社」の「千々石里正 宮崎九郎右衛門延髙」の名前が刻まれている石祠について書きました→こちらをクリック。

庄屋の名称については、時代、地方によって違いがあるようですが、「里正」「名主」「肝煎」が見受けられます。

この「宮崎九郎右衛門」についての手がかりが、下の「旧有田村庄屋 石橋家記録」にありました、有田村は南島原市有家町の蒲河名、山川名、尾上名にあたります。


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以前から書いているように「南串山村」の庄屋さんの古文書を読んでいますが、この中で「土黒(ひじくろ)」(雲仙市国見町の一部)の事が詳しく書かれている部分があります。南串山の庄屋さんと、土黒の庄屋さんとは仲が良かったと感じられます。

ザッと位置関係を書くと、上の青丸が土黒がある国見町、下の青丸が南串山。


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さて、この「石橋家記録」に次のような記録があります。「天保きのへ午年」、「甲午」ですから「天保5年・1834年」。

一 同年 五月十三日 妹 タマ 千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門 養娘二 いたし 同村 城台源次兵衛 倅へ嫁し申し候。


有田村庄屋さんの妹が、千々上村庄屋さんへ養女に行き、千々石の城台源次兵衛の息子に嫁にいった、ということですが、庄屋さんの養女が普通の家に嫁ぐはずもなく、庄屋の次が乙名になり、橘中佐の祖先は江戸時代「城台(城代)」を名乗って乙名であったとの記録もあり、ここらあたりがクサイと思っているのですが・・・


地図、上の赤丸が千々石、下の赤丸が有家町(有田がある所)。


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下が天保9年4月(1838)の記録。6月10日の所に「御 巡検使」の文字があるので、島原藩からの宗門改、年貢等の関係か?

「曽我亦左衛門」「近藤勘七郎」「大久保勘三郎」の名前があり、各々「北有馬村庄屋宅 御宿」「同村 願心寺 御宿」「南有馬村庄屋宅御宿」とあり、これが島原藩の役人。なお、北有馬は地図の赤線下線の所。


各々、多分世話役であったろう「亭主」「脇亭主」として名前が書かれてあり、「同村 願心寺 御宿」(願心寺は以前、天井絵で紹介→こちらをクリック)には・・・(写真はクリックするとハッキリ読めます)


「(亭主)千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門」「脇亭主 同村 松尾三郎兵衛」と書かれており、わざわざ遠くの千々石から北有馬まで、手伝いに来ているわけですが、これで、北有馬の「山武士神社」の石祠と「宮崎九郎右衛門」とが結びつきました。

 
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地図を見ながら、庄屋さん同士、お近くでは無く、離れた庄屋さんが仲が良いとは面白いところです。

残念ながら、千々石の庄屋さんの子孫の方が古文書を全部焼いたとかで、こちらには記録がまったく残っていません。もし残っていたら庄屋さん同士の関係がもっと分かっていたものと思われるのですが。皆さんも、家にある古い文書は大切にして下さい。


2021年2月24日 (水)

島原「具雑煮」起源への多少の疑問

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具雑煮。ですね。島原の郷土料理で農林水産省選定の郷土料理百選にも選ばれているそうです。

中の具材が白菜、おモチ、鶏肉、卵焼き、春菊、焼き穴子等々たくさん入っているので「具雑煮」とか。正月、ハレの日にも食べているそうです。島原市内の食堂でも供されています。


もっとも、長崎市内でも雑煮には具は沢山入っていて、「長崎事典」では「長崎雑煮」として紹介されています。主なところを書いてみると


「菜」「鰤」「餅」の三種類が基本。清汁は鰹節、昆布、椎茸、酒しお、薄口醤油。具は五種、七種、九種、十三種。丸餅は焼いて、塩魚は鰤、アラ、鯛のどれか、かまぼこは紅白二種類、海老かまぼこは自家製、鶏団子は韓国渡りの鶴の身、鴨、雉子で自家製。これに里芋、筍、くわい、椎茸、結び昆布、干しナマコ、唐人菜を用いるのが特徴。ということで、これは、上高八重子著「ながさき・あまから」に載っているそうです。


面白いのが、菜をのせて名(菜)をあげる、食べないで名(菜)を残す、という縁起もあるそうです。


ただ、これは昔の旧家の話しではないかと思います。ウチの母も良い家のお嬢さんではありましたが、確かに、”これでもか”というほど具材は入れておりましたが、これほどではありませんでした。


閑話休題。某日、オクサマが二日ほど留守だったので、昼ご飯は面倒臭いのでお店に行ってみたら、冷凍の具雑煮とレンチンの具雑煮があったので買ってきて食しました。冷凍は具材が少なく、白菜も少々煮すぎかな?という感じ。レンチンは意外と具材も入っていて、焼いたお餅も3個ほどで、まあまあかな。


で、冷凍具雑煮の裏に具雑煮の説明が書いてあり、これ、ネットで調べると具雑煮の元祖、島原市の「姫松屋」さんの具雑煮の説明もほぼ同じで、他にも、島原市の観光情報、しまばらの観光案内、旅する長崎学、農林水産省も同じような書き方でしたが、読んで見ると、なんとなく???何ですね。


紹介してあるものの概略は


・江戸時代に起こった島原の乱に(具雑煮が)由来

・天草四郎率いる3万7千の一揆軍が、幕府軍との攻防の末、原城へと籠城
・その際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、山や海から様々な材料を集めて雑煮を作り、栄養をとりながら約3ヶ月も戦った

ということで、代表として、元祖「姫松屋」の説明は→こちらをクリック


ここで、違和感にとらわれたのが、「餅」という文字、「山や海から様々な具材を集めて」という表現。


原城に籠もった人数については、古文書、現代の研究者でいろいろあるようです。逃げ出した者もあるようで、一揆の初めと、落城の時では違っているということは言えると思います。寛政15年2月17日、岡山藩聞書には「原城篭城の人数は二万四千八百人という」。まあ、計算がやりやすいように大負けに負けて、2万人としてみます。


一揆の初期の頃は、一揆軍は籠城を覚悟していたのか、島原あたりから米を運んだ記録もあり、最初は食べ物はある程度あったと思われます。


ですが、具雑煮の説明に「餅」を、とありますが、一日何食食べたのかは分かりませんが、籠城を決め、食べ物の心配もあり、城の中で畑仕事をするわけでもなく、仮に一日一食だとして、餅を1個づつ食べたとしても、1日2万個。10日で20万個、30日で600万個、3ヶ月で1,800万個。毎日、餅を食べるわけでもないとして、半分でも3ヶ月間で900万個。こんな大量な餅を持ち込める訳では無いでしょう。


山や海から材料を集めたともありますが


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赤丸印が天草四郎が立て籠もっている本丸。このように囲まれた中で、山や海から2万人もの材料を集められるのか?もちろん海には幕府軍の船がいます。山と言えば野草、海と言えば魚と海藻。はたして、2万人の人間の「栄養をとりながら」という事が可能なのか。

一揆の終盤になりますが、「島原日記」、一揆軍の生け捕りにされた者の言葉「・・・城内二兵糧無御御座候由申候」。又、「嶋原天草日記」には「・・・伊豆守・左門令而使割賊之腹、其腹中有青蒼之物、依粮末困乏而食麦葉歟」とあり、一揆軍の腹を割いたところ青蒼のものがあったので、麦の葉を食べていたことが分かります。


ということを読むと、一揆軍は餓死同様だった事がわかります。


嶋原・天草の乱については、まだまだ諸説あるようです。一揆に加わった者もキリシタン、関ヶ原の戦い後の浪人等々あるようですが、島原藩主松倉親子の圧政で追い詰められた農民の抵抗だったのが一番の原因だたと思います。


原城に籠もった一揆軍は山田右衛門(やまだえもさく)一人を残して、一人残らず殺されたと言われています。


餓死寸前まで原城に籠もり、最後まで圧政に対して戦った人々に対し、「・・・栄養を取りながら約3ヶ月間も戦った」という表現には、いささか疑問を持ちました。

(参考文献「原史料で綴る 天草島原の乱
」「天草四郎と島原の乱」鶴田倉造編・著)



2021年2月17日 (水)

「銭マス」(江戸時代)について

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「銭マス」。「マス」は「升」「枡」「桝」と書くようです。

お金を数えるとき、硬貨が沢山あると一枚一枚数えるのは面倒なので、この銭マスにザラッと硬貨を入れると、マス目のところに硬貨が入り、入りきらないものをふるい落とします。これで、マス目に入った金額が一発で分かります。

上の銭マスは「LION」の文字が入っているので、現代の銭マス。「硬貨升」とも言っていたようです。私が小さいとき、銀行だったか、郵便局だったかで見た覚えがあります。

この「銭マス」は江戸時代にも使われており、下の写真、一番左は「LION」製。右の4個は江戸時代のものです。うち、右の3個は同じ種類のものです。


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下の銭マス。横のマス目が8、縦のマス目が10。裏には「一朱銀五両」とあるので、「一朱銀」を数える銭マス。

先日、「江戸時代の貨幣」をブログに書いたとき、江戸時代は基本四進法だと書きました。一両=二分金✕2枚=一分銀(一分金)✕4枚=一朱銀✕16枚。


ということで、一番上の横のマス目は8マスですから、2列で16枚が入ります。。一朱銀16枚が一両。横二列で一両になります。縦に10マス目ですから、10÷2でこのマス目を二朱銀で全部埋めると五両になります。


Img_1719 Img_1721

下の写真、これは、多少考えました。よく見ると、横に5マス目、縦に8マス目。え~、5マス目ってアリ。ということで考えると、縦に8マス目なので、4✕2。

で、この銭マスは「弐分金 廿(二十)両」とあるので、2分金を数える銭マスとは分かります。で、縦が8マス目だから、2分金が2枚で一両、縦マスで2分金8枚で4両。横のマス目が5で、4両×5=20両。という事になります。


Img_1723   Img_1725

この銭マスの造りが実に見事で、左が真鍮、右が木造りになりますが、これだけの細工をするのは腕のある職人だと思われます。

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左の真鍮の銭マスの裏側「萬延二歳 辛酉正月吉日 新調」。左は「壱朱銀五両枡」。万延二年は辛酉の年、1861年ですから、160年前。なお、万延は2年までで、2月19日に文久に改元。

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銭マスについての資料がほとんどなく、いつ始まったのか、種類はどれほどあるのか等は不明ですが、これを持っている人物は、かなり儲かっているお店なのかなと想像しました。

思い出しましたが、大江健三郎氏に「万延元年のフットボール」という小説がありましたネ。



2021年2月 7日 (日)

江戸時代の貨幣体系~ザッとですが・・・m(_ _)m

 Photo_20210207185401

前に、江戸時代の貨幣について2,3回ほど書きましたが、体系的で無いため、分かりにくかったと思います。私の方も、十分に把握できてない面もありますが、少し、まとめて書いてみます。多少の間違いはあるかと思いますが、そこは聡明な皆様でご判断を。

下の写真の貨幣については本物も偽物もあります。


偽物については、現代の土産物、学校教材などで作られたものもあります。江戸時代に作られた本物の偽物もあります(^o^)。ただ、江戸時代の偽物については、これはこれで、価値があり、集めておられる方もあるとか。


なお、一番上の図は「日本銀行貨幣博物館 発行『貨幣博物館』(昭和62年発行)」より取りました。クリックすると大きく分かりやすくなります。


下の貨幣、裏に「銀座常是」と極印がしてありますが、意味については→こちらを参照 もう一つ


江戸時代は「銀貨」「金貨」「銭貨」の三貨制になり、これが現代の我々からすれば分かりにくくなります。


右は「銭貨」。まとめて紐に通してあります。「銭緡(ぜにさし)」。一文銭が100枚、ですが96枚で100文として通用。四文は手数料だったらしいです。また、2,3,4の数で割り切れ便利で普及したとか、「九六銭」「九六百」とも(「貨幣博物館」より)。


4000文~6000文が1両になります(時代によって、貨幣価値が変わっています)。ですから、この束が40本~60本が一両になります。


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一朱金が手に入りませんでした。一朱金16枚で一両。左は二朱金。二朱金2枚で一分金、二朱金8枚で一両。

一分金が無く、一分金2枚で二分金。右が二分金で、二分金2枚で一両。一両はお高く手に入りませんでした。

訂正です。左も「二分金」でした。「二朱金」は入手出来ませんでした。


Photo_20210207185601 Photo_20210207185602

下は銀貨、左が一朱銀、一朱銀16枚で一両。

二朱銀が無く、二朱銀8枚で一両。二朱銀2枚で右の一分銀。一分銀4枚で一両。

ということになります。上の図で確認を。間違っているところもあるかと思いますが・・・


2_20210207185701   4_20210207190501

前にも書きましたが、下が「丁銀」と「豆板銀」。

Photo_20210207190701 Photo_20210207190801

上の図にはありませんが、「南鐐(なんりょう)銀」。「以南鐐八片換小判一両」ですから、この貨幣8枚で一両。右は「以十六換一両」ですから、16枚で一両。

Photo_20210207190901 Photo_20210207190903

下は丁銀、豆板銀の量目を計る「分銅」。後藤四郎兵衛家しか作るのが許されなかったそうです。詳しくは→こちらをクリック 。 汚れていたので、ブラシやら、コンパウンドを使って磨いたら、右のようにきれいになりました。


Photo_20210207191101 Photo_20210207191102

とまあ、何やら江戸時代の貨幣の難しいこと。基本、四進法を頭に置いて下さい。




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