遺蹟

2022年9月26日 (月)

千々石天満宮神送り★千々石ミゲル墓所調査

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先日、例年の通り「神送り」の神事が行われました。

以前にも紹介したとおり、この神社に祀られているのは菅原道真公、千々石ミゲルの父千々石大和守と家臣2名です。


この神社の上に釜蓋城があり、佐賀の龍造寺に攻められ千々石大和守は討ち死にをしますが、その間、千々石ミゲルは城を逃れる、という話になります。昨年、千々石ミゲル墓所発掘調査が行なわれ、テレビ、新聞等で報道をされました。


島原藩主松平忠房公は、島原半島の多くの社寺に寄付をしていますが、千々石では2カ所、天満宮に「壹石八斗四升」、四面宮(現千々石温泉神社)に「三石貳斗五升六合」。


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千々石ミゲル墓所発調査プロジェクトに多少寄付をしていたので、先日、お礼状と共に、調査の模様と解説が収録されたDVD、絵葉書、お菓子のクルスが届きました。報告の概要パンフレットは以前入手をしていました。

今回はクラウドファンディングで600万円の目標額を超えること10,400,000円が集まったそうで、興味を持たれている方が多いことが分かります。


今後の予定はプロジェクトチームの浅田代表によると「文化財保護法に定められた正式報告書作成に入り、今秋には発刊の予定です。」と言うことですが、多分、来年にずれ込むような感じです。


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2021年9月18日 (土)

千々石ミゲル墓所調査プロジェクト報告~2021.9.18

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台風の影響で状況報告の日程変更があったみたいですが、遺骨の状況が判るのが16日になるという事で、この日、NCC文化放送のニュースで流れたそうです。なお「時間が経過すると上記のリンクから動画や記事が見られなく場合があります。」とあるので、放送をスクショしたが画面が上の写真です。12日の長崎新聞の写真よりハッキリしています。頭蓋骨もはっきりと判ります。

詳しくはNCCさんは→こちらをクリック

発掘プロジェクトは→こちらをクリック

なお、発掘プロジェクトのホームページでは第一次調査から今回の調査まで通しで見られ、特に前回の調査と比べれば面白いと思います。


今日、18日にも報告会がありましたが、これは多分お世話になった地元の方を主にした報告であったみたいです。


私が用事で行かれなかったので、知人から聞いた話を簡単に書いてみます。


ここには大きな墓碑が建っていましたが、土砂で流されたりしていたのが、今回の調査で最初の位置が判ったそうです。本来の位置は二つの墓の頭の所、真ん中あたりだそうです。お棺が埋められていたところは、適当では無く、計画的で最初から埋める場所を決めていたのではないかということで、その間、1メートルぐらいだそうです。この墓を作るには時間がかかるとのことです。

前回のお棺は長持ちを転用したものですが、今回は木棺だそうですがほとんど朽ちています。お棺の大きさは140✕40㎝。横を向き、膝を正座しているくらいまで曲げているとのことです。なお、前回は、ガラス玉などキリシタンの遺物を思わせる副葬品が出土しましたが、今回は何も出土しなかったとの事です。

なお、時間がかかるとは思いますが、詳しいことについては報告書が手に入るので、その折りにでも。


調査期間は10月8日までになっているので、お骨の下の方を多少発掘し、埋め戻しをするのかと思います。今回が最後の調査になり、今後は発掘調査はおこなわれません。

今後、遺骨の調査をし、諌早市に寄託するとのことです。「千々石ミゲル」だから、こちらに寄託して欲しいのですが、施設、人材とも不足ですね。



2021年9月12日 (日)

速報・千々石ミゲルの骨?~ネットニュースより&”Qookaiさん

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千々石ミゲルの墓の発掘調査も段々と終わりに近づき、今日12日は発掘指導委員会の検討会と発表があったみたいで、その中で墓坑が見つかり、遺骨が発掘されたことが発表されたそうです。

夕方頃、ネットを調べると、速報という事で「47ニュース」の長崎版に記事が流れていました。→こちらをクリック


3次調査では右側を発掘し、遺骨と副葬品が発掘されましたが、今回は左側を調査していました。前回の遺骨は長持ちに入れられいましたが、今回は上の写真です。前回より簡素な気がします。副葬品は現在発掘されていないみたいですが、あと数日は調査をするようです。


とはいっても、これから骨の分析、副葬品が出土したらその分析、考察等もあり、まだまだ時間がかかりそうです。


なお、前回、遺構が発掘されたときちょうどワタシも見学をしていたのですが・・・→こちらをクリック


はやく、全貌が明らかになれば良いのですが。


コーヒーが切れたので、いつものnaiさんに行ったら、なんと人の多いこと。と思ったら、一番奥に”Qookai"というレストランを予定している方が何やら販売(テイクアウト)をしているみたいで「毎日営業ですか?」と尋ねたら「イベント的にやって」ます、との事でした。


多分、コロナの影響で開業のめどがたってないようでした。ローストビーフと枝豆・チーズのマリネを買ってきました。サンドイッチが美味しいとのことでしたが、蓮三さんからパンを買ってきたばかりなので、また、次回ですね。

”Qookai"は、多分「食うかい?」と「空海」を掛けた言葉だと思います。
しかし、諌早の皆様の情報の早いこと。


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2021年9月 6日 (月)

稲荷鬼塚古墳発掘調査~雲仙市愛野町

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9月3日の"朝日新聞デジタル”版に「有力豪族、海介して交流か 雲仙・稲荷鬼塚古墳の初調査」の記事が出ていました。→こちらをクリック 

この古墳については、2015年に私が紹介をしていました。→こちらをクリック 。で、偉そうにイロイロ書きましたが、今回の調査で本格的なところが分かってきたようです。

普通、発掘調査現地説明会は一般向けにもおこなわれるのですが、今回は8月12日に報道関係者のみを対象におこなわれています。

遺跡というと地味みたいですが、説明会には意外と多くの方が見えられます。多分、コロナの影響で密を避けるために報道関係者のみの説明会みたいですが・・・


さっそく出かけて見ましたが、掘った跡は見受けられず、裏に回ってみたら、こちらの方でした。まだ、埋め戻しはしてありません。かなりの長さで発掘をしています。


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祠の下の石積みが玄室を塞いでいる「閉塞石」、手前の地面が「羨道」だそうです。この、祠の下に石室みたいなのが見えているのですが、どうなんでしょう?

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なお、遺物は盗掘されたと思っていたら、勾玉、切子玉、耳環等々5593点が出土したそうです。

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以前、私は祠の表が古墳の表だと思っていたら、石室の開口部は反対側で有明海を挟んで、大牟田市を向いているそうです。

なお、この古墳より少し離れた所に火箱遺跡が発掘をされています。→こちらをクリック


付近には一本松古墳、中島古墳、首塚(古墳)、国見町には筏遺跡、百花台遺跡、鬼の岩屋、吾妻町には守山大塚古墳等々、有明海沿いに多くの古墳があります。
これらの古墳、遺跡の関係が分かれば面白いとは思うのですが。なお、出土品は後日公開をされるそうです。


発掘と言えば「千々石ミゲルの墓」の発掘調査も進んでいます。→こちらをクリック  


2021年7月 4日 (日)

「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト主催」講演会

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(写真はクリックすると、いささかハッキリ見えます)

千々石ミゲル墓所の第4次の発掘が、8月2日から始まります。


これに伴い、昨日は千々石町、今日は諌早で講演会が開催されました。調査は今回の調査が最終調査になるということです。

第一部の講演はプロジェクト代表で千々石ミゲルの子孫の浅田昌彦氏、プロジェクト調査統括の大石一久氏。第二部がお二人に加えて、発掘調査副担当の安楽勉氏、プロジェクト副代表の町田義博氏、同・井出光則氏。


浅田氏の話は千々石ミゲル、大村藩、そして、浅田家との関係のお話。大石氏の話は、伊木力にある墓所をなぜ千々石ミゲル夫妻の墓所と推定したかの根拠。これには、浅田家をどうして知ることが出来たのか、文献調査、地域の文化の特性なども交えての話でした。


なお、発掘に至るまでの経過、第1次、第2次、第3次の経過など詳しいことは「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」を参照→こちらをクリック


「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」には、千々石ミゲルの生涯、講演会で話された事も含んであり、この墓所が持つ意味なども書いてあるので、是非、お読みください。


今回の調査はクラウドファンディングで資金調達をしています。金額によって、お礼メール、概要パンフレット(PDF)等お礼があるそうですが、私の場合は「墓所調査結果報告(DVVD)」を入手したいのですが、これ30,000円でお高いようですが、「調査発掘直後のオンライン報告会」が入っていて、「発掘直後」とあるので、調査した日の発掘の様子、発掘品なども見られるのではないかと期待しつつ30,000円で協力をしようかと思っています。


申し込については「千々石ミゲル墓所プロジェクト」にも記載してあるので、興味のある方はご協賛を。なお、第3次調査の時は私も見学に行ったのですが、発掘を見られる場所が狭く、夏の暑い時期で大変でした。→こちらをクリック

ということで、現場に行って見学をするのも大変なので、興味ある皆様は「発掘調査直後のオンライン報告会」が見られる30,000円コースをお進めいたします。


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なお、大石氏の話では、あまり期待されると、でない、という事もあるので、過度の期待はしないように、ということでした。



2018年11月11日 (日)

「火箱遺跡の発掘調査」説明会~雲仙市愛野町

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新聞記事に愛野町「火箱遺跡」の説明会かあるとかで、出かけましたが、「火箱」は字名だと思って、調べたら無い。看板を出します、と言うことで、お隣の町だから出かけてみました。

場所は、愛野のじゃが畑の一番長崎寄り。地元の方に聞いたら、近くの山が「烽火台」があったらしい、ということで、「火箱」というらしいのですが・・・

遺跡は弥生中期頃だそうです。古代というと、戦国、明治維新などと違い地味。で、参加者は少ないと思ったら、意外と多いこと。話を聞けば、学生さん、学芸員、普通の主婦、ご近所の方と様々でした。

一番上の写真が発掘で遺跡が出土したところ。「土抗墓」「居住跡」「環濠」。

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こちらが「土抗墓」跡。

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出土品は、「鉄鏃(鉄製の鏃)」「ガラス玉」を出土。「ガラス玉」は埋葬するときの副葬品でしょうから、赤丸の方が頭になります。

なお、「土抗墓」の横に「焼土跡」がありましたが、埋葬するときに儀式をおこなった可能性もあるとか。

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住居跡が2ヵ所、左が直径約4m。右の住所跡、薄く線が引いてありましたが直径約8m。というと、かなり広い住居だと考えられます。

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左の住居の赤い丸印。炉跡と考えられる遺構や柱穴などが確認されたそうです。また、住居の床面の確認、床面からは弥生時代中期頃の土器片が多量に発見されたそうです。

また、祭祀などに用いられたと考えられる、丹塗りの土器も出土したそうです。

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「環濠」。集落の区画を区別する溝か、集落全体を囲む溝の可能性も考えられるそうです。溝はまだ続いているそうですが、今回の調査範囲には入ってないそうですが、大体推定される集落の範囲を訊いたら、思ったより広い範囲でした。

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環濠はかなり深く、大体2mくらいだそうですが、じゃが畑を耕すために、上の方を削ってあるとか。

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右が鉄鏃、左が勾玉とガラス玉になります。

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左が土器片、右が勾玉とガラス玉のアップ。この時代にガラス玉を作れるか質問したところ、この場所で作ったものか、他所から持ってきたものかは、まだ調査をしてからしか答えが出ないそうです。が、もし持ってきたものなら、他所との交流が考えられます。

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諌早方面と島原方面を結ぶこの地域は、昔は海に囲まれもっと細く、それを干拓して、現在の地形になっており、昔はこの「火箱遺跡」あたりを道が通っていた可能性もあり、また、橘湾と有明海を結ぶ重要なポイントの地点だとも考えらるそうです。

いつも近くを通るジャガイモ畑ですが、このジャガイモ畑の下に、このような遺跡があるとは考えもしませんでした。皆さん方も、機会があったら、説明会などに参加してみて下さい。意外と新しい発見があるかもしれません。



2017年6月12日 (月)

誰が?~雲仙市千々石町

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下の道、千々石の白津(しろつ)という所から飯岳(いだけ)という所に通じる道です(千々石以外の方には分からないと思いますがm(_ _)m)。

数年前、何回も通った道なのですが、久しぶりに行ってみると、きれいに工事した所があって、奥へと行く階段があって、あれ?こんなところあったのか?という事で行ってみると。


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石の上に石祠が二つ。一番上の写真見て分かる通り、大きな石を削っておまけに階段まで彫り込んであって、横の方にも階段の所まで登れるように石が削り込んであるんですね。これだけ岩を削るというと、機械を使わないと難しいのですが、削った所をみるとどうも手彫りの感じ。

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で、ちょうど下の方で田植えの準備をしている方がいたので訊ねると、昔からあったけれど、立ち木に隠れ見えなくなっており、この場所を町内の某建設会社さんが買い取って、整備をしたとか。

右の石祠は弘法さん。意外と丁寧な彫りをしてあります。


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左の仏様、頭を見るとすぐわかりますね。馬頭観音さまです。馬頭観音というと、街道筋に良く見られる、石仏です。

ということは、ここの道は昔街道であった可能性が高いということですが、先ほどの方に聞くと、今は舗装で広がっているけど、昔はテーラーがやっと通れる道であったとか。


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それで、思い出したのが、伊能忠敬の測量日記、下の地図は「島原藩主 長崎監視の道★長崎殿さん道の会発行」。(写真はここの場所とは関係ありません。別の場所です)

ここのところ、伊能忠敬日記には、「字白津(右二釜蓋城千々石大和守古城:注・この部分2行書き)字阿弥陀寺(小濱街坂近道阿里<有りの当て字>・ここも2行書き)」と書いてあます。


下の地図、上の黒い矢印の赤い線が、伊能忠敬一行が測量した道、下の黒の矢印が石祠があるところ。

赤の丸印が、伊能忠敬日記に書いてある「字白津」。この上の部分に「阿弥陀寺」があります(現在は何もありませんが、五輪の塔碑などが出土しています)。

確かにこの道を通っていくと、飯岳地区に出て、第二小学校付近を通り、蔦坂という峠に行きつき、峠を抜けると、小浜の入り口(千々石側から)山領地区にたどり着き、小浜の中心街へはあと一歩です。

まさに「小濱街坂近道阿里」はこの道であったことがわかります。なお、後日、郷土史家の方に尋ねたところ、ここに街道があったそうです。


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現在、大幅に道が変わっており、拡張、また、昔の道が使われなくなっており、知っている方も少なくなって、今調べておかなければとは思っているのですが・・・ひょっとしたら、あなたのお近くにも昔の街道があるかもですよ。調べていくと思わぬこともあり、面白いですよ。

でも、一体、誰がこんな手の込んだ物を作ったんでしょう。残念ながら、年代等が全く彫られておらず、調べられませんでした。

2017年3月25日 (土)

十三仏~その弐(で終了)

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さて、昨日は「十三仏」について説明をしました。今日は、この板碑に書いてある文字の事です。一番上の方、右側に「奉彫」、左側に「十三佛」。写真でも多少見えるかと思います。

で、この板碑の左右の枠の所に文字が彫ってあるのですが、良く分かるところ、苔、風化などで分からない所があり、左側「平頼實」は分かると思います。右側の最初の文字「者」は分かりますが、下がほとんど分からない。

あちらこちら本を探すと、この文字を読んだ方が2,3人いて、書いてありましたが、微妙に違う所があり、実物を確認しながら、大体こんなところかなというのが下の文字(「奉彫」と「十三佛」は省きます)。

右側
「右志趣者為預修願在安全後生善処良因者也」

左側。
「明応十年辛酉林鐘上潮悉日 治部少輔平頼実敬白」

という事になるのですが、右の「右志趣者為預修」ですから「みぎこころざしのおもむきはよしゅうのため」でしょう、多分。

ここで、「預修」が出てきますが、手っ取り早く、ネットで調べると"世界大百科事典内の預修の言及"として、「生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を祈って仏事を営むことをいう。〈逆〉は〈預〉と同義で預(よ)修ともいう。」

と書いてあり、返って縁起がいいという事で、今も死ぬ前に葬式をあげたり、自分の墓を作ったりする方がありますが、この板碑は生前に作られた、生前供養の碑だということが分かります。なお、下記に書いているように、明応時代前後は激動の時代で、いつ死ぬかわからないので、前もって逆修をしたのかもしれません。

なお、「願在安全後生善処良因者也」が良く分かりませんが、多分「在安全後生善処良因を願う者なり」かと思います。

なお、参考にした本が、当用漢字で書いてあり、本来は旧字で書いてあります。当たり前ですが・・・

さて、左側「明応十年辛酉林鐘上潮悉日 治部少輔平頼実敬白」

「明応十年辛酉
(1501・文亀元年にあたります)」この年は「辛(かのと)酉(とり)」です。今から516年ほど前になます。

「応仁の乱」が応仁元年(1467)から文明9年(1477)。「明応の政変」が明応2年(1493)。織田信長が生まれたのが、天文3年(1534)ですから、明応10年というと、戦国時代の初めにあたります。

千々石も田舎なれど、「北肥戦誌(九州治乱記)」などを読むと、南北朝時代に北朝側が千々石を拠点とし、有明海側の南朝の西郷氏、神代氏、諫早の宇木(宇喜)城等と戦い、竜造寺も千々石に押し入り、また、有馬氏とも手を結び、「国乗遺文」を読むと、「・・・千々石主計ト称ス千々石ニ務ス、其子淡路(注;千々石淡路)嗣ナク晴純公(注;有馬晴純)御三男ヲ以テ養子トナス是ヲ右衛門直員(なおかず)ト云・・・・」などとも書かれ、千々石は、結構、戦の拠点だったことが伺えます。

「林鐘」は「陰暦6月の異称」、「上潮」は、そのまま「あげしお」、「悉日」はよく、鳥居などに、「三月吉日」などと書かれている、「吉日」のような感じにあたるのではないかと思います。辞書等には載ってませんでした。

「治部少輔」は、平安時代の官職名で、「冶部省」に属し、「・・・雅楽、僧尼、山稜、および外交のことをも掌り、雅楽・玄蕃・諸稜の三寮をしたのである。」という役所であり、「少輔」は「従五位下」であり、この位以上のものを持つものが貴族とされています(新訂 官職要解~和田英松著・所功校訂:講談社学術文庫)。

この時代、貴族の官位なども崩れており、専門の方に聞いたら、自分に重きをなすため、自分でつけたのではないかと・・・

次に、「平頼實」で、こちら方面の本を調べたら、「平」姓なるものはあまり見当たらず、「肥前有馬一族(外山幹夫著・新人物往来社)」にだけ載せてあり、「有間氏が平氏を用いていることは、平安末の在地領主として、平家に服さざるを得なかったことによるものであろう。」と記され、ここのところ、もう少し調べないとよく分かりません。

以上延々と書いてきましたが、間違い、お気づきの点はコメントにてお知らせください。


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実はこの家、家主さんが変わってリニューアルしているのですが、建っている時は普通の家でしたが、外壁を取り除くと、意外と大きな棟木で普通の家とは違うな、という感じでした。

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ここの近所の方から、あの石碑は前に住んでいる人が持ってきたとか、大門橋の近くから持ってきたという話は聞いていたのですが、80年ばかり前、こちらへ移って来たという方から話を聞いたら、次のような話でした。

この建物は百年ほど前、千々石の小倉地区からそのまま持ってきた家で、その時、石碑も一緒に持ってきたとの事でした。

小倉地区方面、以前にブログで紹介しましたが、阿弥陀寺という寺があった所ですが(いまはまったくありません)、畑を耕すと五輪の塔が多く出てきています。

なお、ここから数百メートルの所に「大門(だいもん)橋」があり、「だいもん」といえば、「おおもん」のことで「大手門」に通じるところがあり、こちら方面に、釜蓋城の大手門があったとも考えられます。

これも、以前書きましたが、「伊能忠敬測量日記」に「字白津右に釜蓋城千々石大和守古城 字阿弥陀寺」と書いてあります。

この地域が、他の所と多少違うな、と感じられる話です。

話を石碑に戻すと、この石碑、なんと小さな川に橋として架けられていたそうです。いまでは、罰当たりが!と言われそうですが、廃仏毀釈の時代、顔を削がれ、橋代わりにすることを、なんとも思わなかった時代の姿が伺われます。

それで、家を移す時、もったいないからと、一緒に持ってきたらしいのです。

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以上書いてきたように、この石碑は、3人の話が合致することから、最初からこの場所にあったのではないことが分かると思います。

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説明版、その他の本にも、寺の中心部に十三仏が最初から建てられているように書いてありますが、良く調べること、大切ですね。




2017年3月24日 (金)

十三仏~その壱

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十三仏です。
個人の家の中にあるので、少し、曖昧に書くところがありますが・・・・

十三仏とは、十三参り(十三詣り)にも関係しているらしく、ウイキペディアで見ると、空海などにも関係しているらしいのですが・・・。

1歳から13歳まで、菩薩さんにお参りをし、これらの十三仏が死後の閻魔の裁きに亡者の弁護をしてくれると信じていた、ということらしいのですが。(日本のほとけさまに甘える~大江吉秀・東邦出版)

「日本大辞典 第十巻(小学館発行)」によると「仏語。亡者の法事を修する初七日から三十三回忌まで十三回の追善供養に、本尊とする十三の仏と菩薩」ということですが・・・

・初七日~不動明王 ・二七日(にじゅうななにち、ではなく、ふたなぬか) ・三七日~文殊菩薩 ・四七日~普賢菩薩 ・五七日~地蔵菩薩 ・六七日~弥勒菩薩 ・七七日~薬師如来 ・百ヵ日~観世音菩薩 ・一周忌~勢至菩薩 ・三回忌~阿弥陀仏如来 ・七回忌~阿閦如来 ・十三回忌~大日如来 ・三十三回忌~虚空蔵菩薩 

ということで、十三の仏様になり、一番上の写真、一番上に仏さまが一つ、あと、各段に三つの仏様。これが四段に彫ってあり、合計十三の仏さまになります。



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ところが、顔がほとんど潰されています。多分、神仏分離令に伴う、「廃仏毀釈」の影響だと思われます。

横道に逸れますが、よく見ると、黄色の丸印、細かい工作がなされています。


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この廃仏毀釈は、他のお寺、神社の中の地蔵様にもよく見られます。左は、諫早市の神社の六地蔵さん。お顔が削られています。右は、お寺の六地蔵で見かけたものですが、首が折られ、後で補修された跡があります。


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この、十三仏には文字が彫ってあり、なかなか意味深なところがあり、また、この板碑についても、信じられないようなエピソードがあるのですが、眠たいので又明日。



2014年9月 3日 (水)

遺蹟に思う

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故外山幹夫氏の最後の本になりました。外山氏は、長崎大学教授、名誉教授を務められま

したが、県文化化財保護審議会長、長崎市編さん委員長などを歴任され、長崎の歴史に

ついて造詣が深い方でした。


この本にも、長崎に関わるエピソードが沢山載っています。この本の中に、こう書かれてい

ます。


「近年の地域開発の波の中にあって、城郭の遺跡、遺構の大半が破壊される事態が生じ

ている。・・・・・・深江城(南島原市)跡は、本丸跡を道路が貫通し、寺中寺(島原市)跡には

市営住宅が建っている。千々石氏ゆかりの釜蓋城(かまぶたじょう・雲仙市)跡の前面は運

動公園となり、前面は削り取られ、跡は城郭風の展望台がつくられ、往時の姿はわずかに

後半部に残されているばかりである。神浦城(長崎市外海町)跡もあっさりと公園になり、も

はや往時を彷彿させるものはない。」


ここに書かれている、釜蓋城。天正遺欧少年使節の一人、千々石ミゲルが生まれたところ

です。


大きな○印が釜蓋城のあったところ。黄色の矢印が、千々石中学校。ここの右側の少し上

に、橘神社があります。赤の矢印の凹んだ所が、町民公園になっています。

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本に書かれているように、前面が削られています。複数の方に聞いたところ、鎧、刀等が出

て来たそうですが、工事はそのまま進められたそうです。


右の上の所、城みたいなのがありますが、単なる展望台です。ここには、このような天守閣

はありませんでした。こんなのつくると、立派な天守閣があったのかと、誤解されるのです

が・・・・・公園は、ほとんど使われなく、中学校の野球部の専用になっていて、野球部が使

わなければ、草ぼうぼうでしょう。

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赤の矢印の所が、宇木城(諫早市・有喜)ですが、多分青の矢印の所と繋がっていたのでし

ょうが、真ん中を国道が通っています。後、諫早を支配した西郷氏の居城だと言われてい

ます。


城跡は、学校になっていて、何かないかウロウロして見たのですが、怪しげなオジサンと間

違われたらいけないので、そうそうに退散。


最も、この城は、諫早の西郷氏が亡ぼると同時に、廃城。天正15年(1587)。大正8年

(1919)に、有喜尋常高等小学校ができたそうですから、文化財に対する重要性の考えは

無かった時代でしょう。

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キリシタン大名、結城氏の居城、結城城(金山城)。ここも登って見ると、グラウンドゴルフ場

に変わっていました。

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その他、先ほどの西郷氏と関係のある、杉峰城に行ってみたら、竹林で、本丸までは行き

着けませんでした。これについては、後日書くつもりです。


なお、千々石から別所ダムに行く途中、「白雀の乱」で有名な「稚児落しの滝」(宝永四年に

「白雀の乱」を題材にした謡曲有り)がありますが、行ってみたら立入禁止。


なぜか聞いたら、自動車道路を拡張したため、滝に行く道がなくなり、危険なため立入禁

止。まったく、ナニを考えているのか、歴史も知らない、知能指数オタクが図面を引いたん

でしょうが。


この間の、腹切坂を調べる時、公民館の先生と話をしていると、「もう、90以上の方でない

と、昔の事は分からないでしょう」と云われましたが、自分の地域の小さな史蹟、古い話は、

今のうちに残しとかないと、みんな歴史の中に埋まるでしょう。


私も、少しずつ話を集めているところですが、相手が、お爺ちゃん、お婆ちゃんばかりで、少

しは若い女性と・・・・・






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