神社

2018年10月24日 (水)

2018「雲仙の紅葉(10月23日)」&「旧普賢神社の狛犬(黒田栄太郎さんか?)」~雲仙市小浜町雲仙

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月曜日、仁田峠が紅葉したというので見に行きました。もう一つ別の目的もあったのですが・・・・

階段が半分バリアーフリーになっていました。妙見岳山頂が紅葉の見頃だそうで、行っては見たかったのですが、用事でパス。上の写真のように、ロープウェイあたりは紅葉。下の方は、もう一息か?


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今日は、この普賢神社に用があったのですが・・・

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普賢神社は昔は普賢岳の下、崖の下にあったのですが、雲仙岳災害で埋もれてしまいました。

災害よりかなり以前の絵葉書ですが、風雨が強いためか、荒れているのが分かるかと思います。


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下は、「昭和貳年」の鳥居が写っている絵葉書。これを見ていて、ひょっと気づいたのが、赤丸印の狛犬さん。

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写真が荒れて分かりにくいのですが、ルーペで見ると、面構えが右の狛犬とそっくり。というより、同じ石工さんが彫ったものとわかります。

右の写真は雲仙の旅館街にある「温泉神社」の狛犬。向かって右側が吾妻町永中の方がもよって奉納したもの。左が、永中の「黒田栄太郎」さんが奉納したもの。

これと同じ型の物が、吾妻町の温泉神社にもあり、奉納者は「黒田栄太郎」さん。という事は、同じ型なので、普賢神社の狛犬も黒田栄太郎さんかもしれないと思い、ひょっとしたら、新しい普賢神社に運ばれて保管されいないかと行ってはみたのですが、残念ながらありませんでした。


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以前から、黒田栄太郎さんが奉納した狛犬等に、お目にかかることが多く、このブログでも数回取り上げ、興味を持っていたのですが、いまは、埋もれてしまった旧普賢神社。狛犬さんも埋もれていますが、是非見たいものでした。
黒田栄太郎さんが奉納された狛犬だと信じているのですが・・・・


2018年10月20日 (土)

「温泉神社秋の大祭」★千々石町&「ロマンスウェデング」★愛野町

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今日は千々石町温泉神社の秋の大祭、愛野町のロマンスウエディングが重なり、おまけに講演会が重なり、講演会はカットで、朝から祭り、昼から結婚式と回ってきました。

写真を撮っていると、カメラを持っている人同士なんとなく話をするもので、あちらの町、こちらの町でも祭りを止めたとかで、これでは、近い将来全滅するのではないかと心配です。

祭りは、村の鎮守の神様に奉納するもので、最近はイベント盛りで、ただ、面白い、きれいだというだけで、バックボーンがない気がします。単なる、観光客目当のイベントばかりになってきた感じです。

祭りは、夏頃から準備、練習をしますから大変です。昔は農家が多かったので良かったのですが、最近はサラリーマンが多く、市外通勤をしていますから、時間が取れない方が増えています。おまけに少子化、高齢化社会。

浮流の太鼓、笛の音、神社の境内にピッタリ。


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踊り終えた子どもたちですが、小さい子ども沢山もいました。良く合っていました。練習をかなりやったのでしょうが、このようなことも地域作りになると思うのですが・・・・

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婦人部の踊りです。こちらも、練習の成果ですね。💮(はなまる)です

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神事が行われているとき、各地区に分かれての記念撮影。各地区の公民館に行くと良く飾ってありますが、あ~俺もこんな若いときがあったのか、などの記念になります。

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そうこうするうちに、福石公園の御旅所までの行列。今年は野田名の当番。途中、要所、要所で浮流、踊りなどの披露をしますが、歩くだけでも大変な距離です。

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この後、役員さんが神器を持ったり、若い衆が御神輿を持って最後を歩いて行きました。

昔は、担いでいったそうですが、今は台車に変わりました。高齢者の方と話をしていると、昔は「回せ、回せ」といって、神輿を回していたそうですが、台車では無理ですね。

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さて、昼メシを食って愛野町の「ロマンスウェディング」に行ってきました。

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愛野町の教会で挙式を終わり、愛野駅に着いたのが午後1時。新郎、新婦それなりの方なので、少し車が窮屈だったか?

たむろするマスコミの記者。類は友を呼ぶか?いつもは他人を撮ってばかりなので、たまには撮られるのもいいでしょう。視聴料をとっている某TV局の方もいます。


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小浜中学校の吹奏楽部、お祝いの演奏。今年もマーチングバンドで、全国大会に出場するそうです。

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東京から駆けつけた「日本ロマンティスト協会」の会長さん。右が、「ロマンスカップル」の認定書です。

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今年は、小浜高校生がボランティアで参加したそうですが、小浜高校のフラダンスチーム。確か、初めてだったと思います。

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お馴染みになった「あいのん」と、「鯉駅長のさちゃん(島原鉄道のマスコットキャラクター)」、愛野保育園児による「あいのん体操」。

結婚式で最初の夫婦の共同作業と言えば、ケーキカットですが、ここでは「ハッピーバルーン」。大きな風船の中に、小さな風船が入っていて、おおきな風船を破ると、小さな風船が飛び出てきます。


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これ、キレイですよ。そのほか、いろいろあったのですが、カット。

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時間になったので、ホームへ。ところが、向かいのホームが次の吾妻町行きになるので、線路を渡って行きますが、新婦さん大変。

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特別列車です。

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「愛の駅」の次が「吾妻駅」で、「愛の(いとしの)吾妻(わがつま)」になり、次の吾妻駅でもイベントがあっています。

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祭りの演芸会が午後3時からで、回ろうと思ったのですが、今日は体調が悪く、家に帰ったらバタンと倒れ、そのまま5時まで熟睡。歳ですね。

若いお二人はいつまでもお幸せに。



2018年10月 7日 (日)

「温泉神社秋の大祭」人数(にい)揃い~雲仙市千々石町

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今日は長崎では「くんち」の一日目で、あちらこちらのTVで放送をしていました。

用事があり、帰りがけ何か神社の方で音がするなと思ったら、人数揃いでした。行ったのが遅かったのか、浮流は終わりかけ。

いつも書いていますが、千々石には7地区の名(みょう)があり、毎年、順番に秋祭りの担当名になります。7年1回の順番です。

話をしていたら、今年の当番名、以前は50名ばかり子供がいたそうですが、今は10名程度だそうで、はやり少子化ですね。

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女性部の道踊りの練習。以前から練習をしていますから、ぴったりあってますね。

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子供浮流の女の子ですが、カッコいいですね。手に持っている白いものは、演舞をするとき頭にかぶります。

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とにかく7年に一度ですから、手順の確認が大変で、しかも7年前の祭りの役員さんは歳をとっていて、思い出すのも大変でしょう。私も、今日食べた夕食のおかずを思い出せないほどです。

特に祭りの役員さんは、出演する方の家を回ってお願いするので大変です。おまけに、長丁場の練習。

今年の祭りは、20日(土)~21日(日)になります。数年前までは、一日目がお下り、二日目が演芸会、三日目がお上りだったのですが、皆さんサラリーマンが多くなり日程がとれなくなったのでしょう。

今年の当番名は前回、前々回が雨だったとか。3度目の正直で。今年は晴れになってほしいものです。役員さんも最後まで、気が抜けませんが、良いお祭りにしてもらいたいと思います。

田舎の祭りも良いものですよ。皆さんもお越しのほどを。




2018年9月 5日 (水)

今日は⑱禁・豆本「日本一の大摩羅づくり★田縣神社木匠・斎木国光翁聞書」~中井文雄著

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今日は、●とか■無しでモロ書きますから、一応⑱禁にします。18才以下の方は絶対に読まないように(読むように煽っているようですが、一応、形ばかりの注意です。)

この、大麻羅(大摩羅?なのか、一応本の表記に従います)。愛知県小牧市田縣神社の豊年祭として使われるものですが→詳しくはこちらをクリック。 できれば、見ない方が良いと思います。いきなり、デッカいのが出てくるので、男の方は自信をなくすカモ。

上の本は、豆本でライターの大きさと比べれば、その小ささが分かると思います。この豆本は祭りの事では無く、この大麻羅がどのようにして作られたかを書いた物です。ただ、1981年の出版で、今とは違っているかも、です。

スキャナーの調子が悪く、うまく取れませんでしたが、素材は天然の木曾檜、樹齢2,3百年。もちろん良質で根っ子に傷がキズがなく張りのいいもの。全長2,5㍍、木口が40センチ以上。

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下の方が「おわせ」師(「おわせ」は男根型を指す古語だそうです)斎木国光氏、明治45年生まれ、大工奉公をし、年季明けの21才で一本立ち。

彫り物細工が上手だということで、昭和18年より、有志の木匠2,3人と共に「おわせ」師として奉仕。

その後、昭和24年より、スーパーLサイズになり、以後、斎木の単独制作。

制作の順を、長いので、ざっと書くと

3月7日 手斧入式・神社での浄めの儀式。

3月8日 作業第1日目・面白いのが「斎木さんはいう。『一晩じっと眺めておると自然に木の中からお姿が浮かんでくる、割り出しは多少のちがいはあるが、まずカリ(注:一番先っぽのところ、わかりやすくいえば亀頭)の部分が五分の一、棹があとの四ということになる。ワシはそれを鑿と鉋でとりあげさせてもらうだけのこと』」。

「木の中からお姿が浮かんでくる」、良い言葉ですね。日本人と自然、神様の繋がりが感じられる、謙虚な言葉です。

3月9日 大体の形ができます。

3月10日 御神体の裏側、鈴口と言われるところが難しいらしく、「雄渾を表現する腕のみせどころ」

3月11日 細部の仕上げ

3月12日 サンドペーパーを使い、檜材の木目を出す。朱と黄土を混ぜ合わせた絵具で塗り、乾くのを待って艶出しのニスをかける。

3月13日 「ニスを掛けると塗色の乾いた絵具が艶やかに蘇えり、亀頭の部分もてらてらと輝きわたって、いかにも大麻羅にふさわしい生気さえ感じさせる」。あと、幌布をかけて、御休息。


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下が出来上がり。小さいのは昭和32年の御大祭から、地元の厄年の女性が抱いて行列に加わるそうです。

3月14日 神明社へ運び込み、明日の大祭を待ちます。

3月15日 「おわせ」神輿が担ぎ出され、田縣神社へ。


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ところで、御神体だから、次の年まで保管されると思ったら、信者さんから、お受けしたいとのことで、厳選のうえ”婿入り”を決定するそうです。この本が書かれた時分、少なくとも50万円。また、「客寄せの見世物に扱わぬよう、直接の人目に触れぬよう厳かに奉安することを条件にしている。」そうです。

また、「”おわせ”といっても男根そのものの姿であるから愛知県教育委員会の審議を経て知事の許可をもらう、形式とはいえ手続きがある。」と、折り目正しいものです。

下の写真は、Wikipediaから拾ったものですが、先っぽがテラテラして、素晴らしいですね。男性の方は、自分のと比べないように。自信、無くします。

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この男根を使った祭りは他の所にもあるそうですが(ネットで調べてネ)、多分、五穀豊穣を願ったものでしょう。

「祭」がイベント化し、商業化してきている時代、なんとなく、良い感じの祭りですね。

なお、「道祖神」としても、あちらこちら見受けられ、ウチから30分ほど車で行ったところに、3ヵ所ばかりあますが、こんな大きなものは初めて目にしました。
しかし、こんな大きな物をぶら下げていると大変だろうナ。




2018年8月30日 (木)

「鶴森稲荷神社」~諫早市

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「鶴森稲荷神社」といっても、知らない方が多いと思います。

上の写真、黄色の矢印が高城神社、その横に、ひっそり佇んでいる赤色の矢印が「鶴森稲荷神社」。といっても、高城神社鳥居のすぐ横に鶴森神社の鳥居もあります。

ここをくぐって少し行ったところに神社の参道があります。

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が、ですね。入るとき、本来「鶴森稲荷大明神」の額束が読めるように付けられているのですが、逆に付けられ読めません。

右の写真矢印が社殿ですが、お参りして帰るときに、この「鶴森稲荷大明神」の名前を読むことができ、普通の神社とは額束の付け方が逆。


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多少、疑問は持ったものの、私が興味を持ったのは、古い鳥居。鳥居の彫られた文字を読むのも面白く、上は文政十三(1830年)は、はっきり読めますが、その下の文字良く見て、指で彫られたところをなぞっていくと「星合」の文字。

その下にも文字が彫られていましたが、残念ながら良く読めませんでした。

で、この「星合」とは、なんぞやということで、星が合うと云えば星の衝突かと思ったのですが、俳句をやっていたおかげで、あ~あれかと思い出しました。

星と星が合うと云えば、牽牛と織女の星が合う、七夕、七月七日の事ですね。ですから、文政十三年星合は、文政十三年七月七日のことになります。


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ところで、神社の位置について、昔の古地図をみると、黄色の矢印が本明川から引いた用水路、青の丸印が現在、神社があるところ。大体です。

資料館に大きな古地図があり、これに地名等が書いてあり、赤丸に「稲荷社」とあり、昔の神社と今の神社とは用水路をはさんで右と左。これ、悩みました。

と思っていたら、飛んで火に入る宮司さんがちょうど来られたので、聞いてみたら、昔の稲荷神社は、今の諫早公園の芝生広場の所に建っていて(諌早家の地所になります)、高城神社(明治十五年建立・以前紹介をしました)と共に建っていたところ、昭和三十二年の諌早水害で両方とも流され、それを両神社とも現在位置に移設したそうです。


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さて、諌早は佐賀藩の跡継ぎ争いに巻き込まれ、諌早は蓮池派に加担をし敗れます。

諌早一揆(諌早騒動の表現もあり)が起こり、佐賀まで一揆が押しかけるところ、途中で諌早家家老に止められますが、その後、犠牲者も多く出しています。

前後しますが、諌早は佐賀藩のお家騒動で破れたため、所領地一万石召し上げ(以前にも2回所領地を上地)、本藩請役家老を罷免、なお、時の領主、諌早家八代茂行は蟄居になります。

茂行公は庶民の苦しい生活を思いながらも、蟄居のため動きが取れず、代わりに家臣を方々の神社仏閣に遣わし祈願をさせたそうです。

さらに、(社)青年会議所から出版した「諌早一揆」、この中に、右下の絵に「さらに屋敷内に小祠を建て、犠牲となった者たちの霊を祭り、一筋に返地の叶うことを待ちわびられた。」ということですが、「敷地内に小祠を建て」というところを見れば、これが「森鶴神社」ではないかと思われます。


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さて、この神社横に小さな石祠があり、これが茂行公が建立した祠ですが、真ん中の一番上に梵語、その下に「稲荷大明神」の文字。

右に「奉願諌早前領主愚生藤原茂行敬立」(愚生は茂行公の引退後の号、男性が書簡文等で自分をへりくだっていう語だそうです)。

左には「開
眼祈願導師前荘厳寺法印宥?」。荘厳寺は前に書いた通り、神仏混淆時代、現諫早神社(旧四面宮)の内にあったお寺です。

裏側には「干時宝暦四星次甲戊菊月吉日」。「干時」は「時に」、「宝暦四(1754年)」は「甲(きのえ)戊」の年。「菊月は旧暦9月(10月との説もあり)」。

ところで「星次」が分かんない。某名門国立大学の大学院で古文書を学んだ人に聞きましたが、分かりませんでした。


諫早家の墓所、天佑時です。墓石は全部左側のように立派なものですが、ただ茂行公の墓だけが他の領主の墓とは違って、ごく普通の形です。佐賀藩の命令なのか、本人の意思なのかは、はっきり分かりません。


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「鶴森稲荷神社」は、高城神社に隠れているように建っており、諌早の歴史書にもほとんど載って無いのですが、歴史的にも由緒があり、高城神社にお寄りの時は是非お参りを。

忘れていました、鳥居の額束が逆になっているのは、本来の神社は向こう(諫早公園)の方にあったことを忘れないように示しているとの、宮司さんの話でした。

なお、この神社の名前がなぜ「森鶴」なのかは、あちらこちら聞いたのですが、はっきりしたことは分かりませんでした。これだけ、謎が残りました。

(参考・文引用)
「諫早歴史物語~諫早史談会」「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早史談~田中為一著」「諌江百話~諌早史談会二十五周年記念刊行委員会・昭和堂印刷設立四十周年記念実行委員会編集・刊行」「諌早郷土館 解説シート(歴史編)」




2018年8月13日 (月)

「諫早神社」の旧肥前鳥居~長崎県諫早市

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上が現在の諫早神社、丸印が鳥居になります。神社に多くある明神鳥居。

この鳥居が以前は肥前鳥居で、諫早水害の時、倒壊をしたそうです。この昔の鳥居の写真を捜していたのですが、やっと捜しあて、いつも見ていた「ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早史談会編集」にありました。

諌早神社の鳥居があまりにも小さく写っていたので、気づきませんでした。
この鳥居については、「諌早街道を訪ねて~山崎諭著」に「昭和32年の水禍のため、最古といわれた鳥居を流失し・・・」また、「諌早市史~昭和33年刊」にも「・・・同型が西郷村(現雲仙市瑞穂町)の熊野神社(注:西郷八幡神社の誤り)に一基現存する。箱崎八幡宮の鳥居と共に、九州でも古い時代に属する鳥居である」とあります。

西郷八幡神社の肥前鳥居は、「雲仙市の文化財」には載せてありますが、この貴重な鳥居は市の文化財に指定はしてありません。

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諫早神社の旧鳥居と比べれば、まったくの同型だということがわかると思います。

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さて、以前にも紹介をしましたが、左が諫早公園の愛宕神社の鳥居ですが、「愛宕山の肥前鳥居」として、市の指定有形文化財になっています。

なお、鳥居の上側がふくれあがっているように見えますが、昔、鳥居の上に石を投げ上げると、良いことがあるという話があり、それで投げ上げて重なった石です(私も小さい頃やりました)。

諫早には昔3基ほどあったそうですが、諫早水害で倒壊し、いまはこの一基しか残っていないそうです。

右が国見町の熊野神社の鳥居。で、こうしてみると笠木(鳥居の一番上の部分)と島木(笠木の下の部分)が一体化しているのがわかると思います。肥前鳥居の一つの特徴です。

私見としては、熊野神社の鳥居も肥前鳥居だと思うのですが、連絡はしておきましたが、行政側は調査もなにもしていないみたいで、なんとも残念ですね。

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2018年8月 1日 (水)

「慶巌寺の山門」について~長崎県諫早市

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先日、お箏の六段と慶巌寺のことを書きましたが、ふと思い出したことがあるので。実は、この山門、このお寺を作った時に作ったのではありません。

下は諌早神社(旧名・四面宮)。じつは、この山門はここにあったのです。

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行って見たら、神社に向かって左側、神社の老朽化のため建て直しみたいで、右側には立派な庭園があったそうですが、それも復元するようです。

この新神社を建てるところ、以前は空き地でした。明治2年の神社明細帳調をみると、何か建物があるような図面でした。

諌早神社の由来が書いた看板がありましたが、赤線のところ、「明治時代の神仏判然令により、並祀していた荘厳寺は分離されることとなり、本尊などは近くの寺院に移設。その際に、社名を四面宮(注:しめんぐう)から『諌早神社』と改称した。」ということで、諌早神社の中に荘厳寺が並祀されていたことが分かります。

「諌早を歩く~山口八郎著」には「明治元年の神仏分離令によって、荘厳寺は廃され、本尊の阿弥陀三尊像は安勝寺に、総ケヤキ造りの山門は慶巌寺に、お寺の什器類は、行基ゆかりの竹崎観音寺に移されました。寺の境内にあった諸石仏は、𡧃都墓地の入り口に移し並べてあります。」と書いてあります。

なお、四面宮の本社は雲仙の温泉神社。四面宮は、千々石、吾妻町、有家町、そしてここ、諌早神社が四面宮ですが、現在、諌早以外は「温泉神社」と改名をしています。

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こちらは、山門を裏から見たところ。

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下は、旧諫早市郷土館の「解説シート(歴史編)」に載っている慶厳寺の説明です。

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この荘厳寺の山門については「高城の史蹟~山口祐造著・諌早高城会発行」に詳しく書いてあり、要略すると、荘厳寺は諌早家の始祖龍造寺家晴公が入部して四面宮の神殿、拝殿を改築し、さらに祈祷寺として荘厳寺を建立したので荘厳寺は四面宮の神宮寺となり、家晴公は寺領米として、毎年二十七石を給したそうです。

前に書いたように荘厳寺は解体されますが、山門だけは残っていて、山門だけ残しているのも不自然だということで、山門も壊そうとしたところ、慶厳寺でこのことを聞き、話し合い、慶厳寺へ解体移築したのが、明治27年11月。

両側の仁王像を解体修理したところ、「延宝三年(1675年)、京都柳馬場二条上寺町、大仏師法橋康祐作」と墨書いてあったそうです。

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良い木鼻ですね。

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両脇の欄間彫刻は浜辺の老松と打寄せる波を象り、日本様式。楼門の柱は丸柱で、禅寺の四角柱のような雄々しさはなく、優しい風情を湛えているそうです。

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どうにもわからないのが、山門の入り口のすぐ上の彫り物。

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上側は諌早家の家紋「上り藤」。下が、お猿さんみたいなのですが、なにか意味があるのでしょうが、調べましたが分かりませんでした。

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慶厳寺の駐車場には磨崖仏が彫ってありますが、ひょっと見ると数字が彫ってあって、「32.7,25」。何だろうと、思ったら、昭和32年の諌早大水害の日。
死者、行方不明539名、負傷者1,476名、家屋破損2,221戸・・・被害総額、当時約87億円(現時点に換算すると415億円)

随分高いところに書いてあって多分、水害時の水位が刻んであるのでしょう。災害の大きさが分かります。

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お世話になった本
「高城の史蹟~山口祐造著・高城会発行」「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 諌早~諌早史談会編著者」「諌早を歩く~山口八郎著」「諌早史談~田中為市著」「諌早郷土館開設シート(歴史編)」「諌早市史~昭和33年発行」



2018年7月 2日 (月)

「黒田栄太郎」さんだよ!~雲仙市吾妻町三軆地蔵尊


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今日は、吾妻町の老人クラブにボランティアで皿回しに。3年ぶりの皿回しで、思い通りにはいきません、ですね。

以前書きましたが、吾妻町出身の相撲取り「音羽山瀧五郎」の話とか、吾妻町の「岩戸神社」の話とかしているうちに、以前紹介した、諫早市の金比羅さんに蟹の石像物、雲仙の温泉神社と地元の温泉神社に狛犬を奉納した「黒田栄太郞」さんに話が及び、これだけ奉納しているので、地元の方、誰か知っているかと思ったら、誰も知りませんでしたが。

ですがね、話はするもんで、三軆地蔵尊の狛犬の台座に、黒田栄太郎さんの名前が彫ってあるとか、で、話をした方、これ誰だろうと思っていたそうです。

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さっそく、車を飛ばして三軆地蔵尊まで行ってみました。鳥居の左右。少し隠れていますが、小型の狛犬さんが鎮座していました。小型ながら、いい面構え。

左の狛犬さんの台座、苔むして全然分かりませんが、苔を取ってみたら・・・

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出ましたね、「黒田栄太郎」の文字、ただし、「太」が「大」になっているみたいですが、昔は良くあったことで、「黒田栄太郎」さんに間違いないでしょう。

ただ、後ろ側、右の狛犬の台座にも文字が彫ってあるのですが、ヤブ蚊が多く、我慢できず退散しました。また、涼しい頃、来てみようとは思うのですが・・・・

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さて、繰り返しになりますが、小野の金比羅さんには誰でも灯籠、石仏像等寄贈はできますが、雲仙の温泉神社、地元の温泉神社に狛犬を奉納するとなると、金額等を考えると、普通の農家には無理な話で、かなりの人物だと思われるので、地元の郷土誌等資料をあせりましたが、残念でした。です。

もっとも、地元の方に聞いても、よく分からないということで、とにかく「黒田栄三郎」さんの文字が入った奉納物を4ヵ所も見つけたということは、奇遇な感じを受けた一日でした。


2018年6月 2日 (土)

まだまだ続くよ「肥前狛犬さん」捜し

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「肥前狛犬」さん。飽きずに捜しています。おかげで何カ所か見つけました。
「肥前狛犬」については、場所を書かないのが、お約束になっているので、残念ながら今回も明らかにはできません。

こちらの肥前狛さんは社殿のなかにあるためか、ほとんど崩れていませんでした。足の間が彫られていないので、比較的初期のものか?

左は口を閉じ、右は歯を剥いていますから、「阿」と「吽」がハッキリと分かります。


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こちらの神社は贅沢にも、2対4体ありましたが、少し高いところにあり、登れなくなってなっているので、下から写真を撮りました。

置き方を見ると、場所がなく無理に置いたみたいで、拝殿は新しく見えたので、多分拝殿の所にあったのを、こちらに移したのかな、と思います。

「阿」「吽」が左右逆ですね。


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真ん中の2体の狛犬さん、これが、可愛くて子犬さんみたいでした。

関心したのが、拝殿の木鼻が狛犬になっていて、口の中に「玉」をくわえていて、良い仕事してますね。これを見たのは千々石の「宗像神社(弁天さん)」だけだったのですが、思わぬ所で良い物を見ました。

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こちらは、某市の少し有名神社にありました。昼ご飯を食べて、外へでたら神社があったので、ふらっと寄って見たら、ビックリしました。これも、足の間が彫ってないので古い物か?

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神社は市内地にあり、道路の拡張などで、これらの石仏が、この神社に置かれるようになったのでしょうが、右の石仏さん、2匹の蛇が絡み合っていますが、なんとなくエロっぽいナ。

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さて、悩みますね、正月少し過ぎたころ見つけました。ただの石塊なら、しめ縄なんかしないじゃないですか。ですから、単なる石塊では無いことはハッキリしています。

それも2体。肥前狛犬は小型です。で、良く見ると何となく造った感じ。ということで、「肥前狛犬」さんに決定。

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あと何カ所か情報を掴みましたから、まだまだ「肥前狛犬さん」捜しが続きます。




2018年4月 6日 (金)

「高城神社(たかしろじんじゃ)」について~長崎県諫早市

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    今日の雨で桜もすっかり散ったようです。先日、諫早公園をブラッとしていたら、お近くの高城神社について思いだしたことがあったので・・・・
  • 下が高城神社。


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    写真左には(鳥居に向かって右側)、「明治十五歳壬(みずのえ)午九月」。
    写真右には(鳥居に向かって左側)、「諫早邑(むら)中敬建」。


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    下が、境内の案内版ですが、赤の四角で囲った所に、神社の由来が簡単に説明してあります。左の方は、神社の見所が書いてあります。
  • 四角の中は、神社が明治十五年に創建されたこと。
    祭神が龍造寺家晴公と菅原道真公の天満宮も祀られていること。
    もとは現在の高城公園にあるも、昭和三十二年の諫早水害で被害を受け、現在地に再建されたこと。
  • が書いてあります。で、いろいろブログを読むと、「明治十五年に建てられた新しい神社」などと書いてありますが、その前段があり、「諫早市史~昭和33年・編集者 諫早市史編纂室」には、「天保十三年八月、家晴の忠魂を追慕し、一宇を城山の頂上に設立し家晴明神と称し、明治十五年二月十六日、その筋の許可を得て、現在の地に移転改築し、神号を高城神社と改称した、此築造に要する費用数万円は、旧領内庶民の寄附になるものである。」とあります。

    なお、諫早水害が昭和32年、諫早市史が書かれたのが昭和33年。本来なら、「諫早水害で被害を受け」と書くべきでしょうが、多分、印刷の訂正が間に合わなかったと思われます。

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    「家晴明神」は、眼鏡橋から山手の頂上に登ったところにあります。意外と(年寄りには)きつい階段ですが、一番上は広々として、諫早市内が眼下に眺められます。
  • 大きなクスノキがあり、国指定天然記念物です。
    忠魂碑があり、「元帥伯爵東郷平八郎書(花押)」と書いてありますが、これが邪魔まで、ここまで来て帰る方がありますが、この裏手。


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    「諫早史談~田中為市著」によると、「第七代目茂晴は祖先の頌徳と子孫の繁栄を記念して、読誦大乗妙典の塔をここ城山の頂上に建て、また第八代目茂行も父の遺志を継いで、読誦誦法華経一万部の塔をここに並べた。」とあり、奥の祠については・・・
  • 「第十一代目茂図は寛政十二年八月に鼻祖藤原鎌足を藤原明神として、また第十二代茂洪は第一代の竜造寺家晴を高城明神として、共に亀の塔の奥に建てた。」とあります。
  • ですから、高城神社の御本尊はここにあるわけで、明治十五年に創建されたといっても、歴史的には深いものがあるわけです。
  • 諫早では、こちらを「旧宮さん」、高城神社を「新宮さん」と呼んでいるそうです。

    Photo_8

    おっかない亀さんですが、これにはいわれがあるのですが、長くなるので省略。

    Photo_10

    右が「高城明神」左が「藤原明神」。なお、諫早は、伊佐早家→西郷家→諫早家に変わりますが、諫早家は竜造寺の流れで、竜造寺は前に書いたように、藤原鎌足の流れになりますから、竜造寺の本姓は「藤原」になります。この諫早の支配者の流れについては、もっか調査中で、いずれ書こうと思っています。

    2_4

    あとは面倒なので、説明版をお読みください。クリックすると大きくなると思います。多分。

    Photo_11

  • であとは、諫早水害前に「高城神社」がどこにあったかですが、これが意外と難しく、人に聞いたり、本や地図を調べていると、「ふるさとの思い出写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早市史談会編」に、昭和8年の諫早町全図というのが載っており、必要な部分を切り取って紹介すると。

    赤丸印が「旧高城神社」、赤左矢印が水害前の「眼鏡橋」、右矢印が「県立諫早中学校」となっていますが、現在の「諫早高校」。緑の〇印が現在「眼鏡橋」がある所。青の矢印が、上に書いた「大明神」がある所。

    ですから、水害前の「高城神社」は、本名川沿い、諫早高校の裏手側、諫早公園の芝生広場あたりだと分かると思います。


  • Img_20180406_0002

    「ミニ眼鏡橋」の後ろの所に大きな木がありますが、根元をみると石仏、五輪の塔碑などの残骸があり、神社があったことをうかがわせます。

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    〇印が「大悲観世音像」。大体、この広場あたりが、「旧高城神社」があった所だと思います。

    2_3

    なお、有名な神社だから写真があるだろうと思っていたら意外となく、やっと一枚見つかったので、下に載せておきます。

    Photo_14

    (「ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早史談会編」より)

    「明治十五年創設だから新しい神社」ではなく、調べると歴史が見えてきます。観光的に見るのではなく、ブログに書かれる方は、もう少し調べてもらいたいと思います。

    なお、諫早は私の調査範囲外の所で、「私、嘘つかない、でも間違いはある」という事で、間違いがあったら、お許しを。


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