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2019年2月 4日 (月)

「荒飛甚太夫」とは何者か?~千々石町温泉神社力石について

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千々石町「温泉神社(旧四面宮)」にある「力石」です。

以前は彫られた字も、もう少しはっきりしていたのですが、「力石」と中央に彫られた文字以外は摩耗しています。

がですね、ちゃんと調べた方がおり、四日市大学健康科学研究室、高橋愼助氏(2009年現在)の「九州・沖縄の力石」(他、全国の力石についての著作有り)の雲仙市のなかに

(2)温泉神社・千々石巳
①「奉納 力石 目方三百四十斤 東京相撲 荒飛甚大夫 明治十六年三月九日」  66㎝×37㎝×32㎝

となっています。

「千々石町郷土誌」には、「怪力無比『荒飛』」の話として、概略書くと。

時代不明。
子供の頃から、力持ち。皆にすすめられ江戸(東京)に上がり相撲取りに。グングン位も上がり、このままでは横綱大関を倒すのも、もうすぐだろうと噂に上がるようになり、これを聞いた横綱が無法者を雇って殺そうとしたところ、これを耳にした横綱宅の女中が、可愛そうに思って荒飛に知らせたそうです。

荒飛は怒り悲しみ、こんなつまらない世界にいても仕様が無いと千々石に帰って百姓になったそうです。

ある日、曲がりの浜から石を一つ持ち帰りお四面さん(現温泉神社)の前に置き、青年たちに持ち上げさせたが、誰一人持ち上げる者はいなかったそうです。
で、「この石はなお、お四面さんの社前にある。」ということで、上の写真の力石です。ということです。

この「荒飛」がどういう人物なのか興味があり、ベースボールマガジン社の「大相撲人物大辞典」(大相撲三百年のなかで、それぞれの時代の幕の内の力士のデーターが書いてあります)。これを読むと荒飛という力士が2名書いてあり、1名は

出身 千葉県市川市湊周辺
生年月日 安永八年
初土俵 寛政十年三月場所 幕内付出
入幕 寛政十年三月場所 幕内付出
最終場所 文化四年二月場所 

となっていますが、初場所がいきなり前頭付出ですから、実力はあったと見られたのでしょうが、その後の成績はあまりパッとしませんが、「荒飛の四股名は伊勢ノ海部屋の出世名として、代々受け継がれた」そうです。

もう一人の「荒飛甚太夫」は下のとおりです。

出身は栃木県、所属部屋は伊勢の海部屋。前の荒飛と一緒の部屋ですから、出世名を継いだわけですが、成績はパッとしません。

さて、こちらの荒飛は、初土俵が明治七年十二月場所、十両昇進が明治十五年、入幕が明治十七年。最終場所が明治十八年ですが、この年脱走。「これという戦歴もなく平凡な者であった」。「十八年の京都相撲で内幕であるが、その後は消息不明」ということです。

力石に彫ってあるのが明治十六年、明治十六年はまだ荒飛は東京相撲にいます。

考えるに、同時代には同じ四股名を持った力士は無く、例えば、「白鵬」という四股名を持った力士は二人は居ません。と考えれば、明治16年には「荒飛」の四股名を持った力士は一名しかいないということです。

ということは、出身地が違い、横綱が殺そうと思うほど強くは無く、と言うことですが、「荒飛」とはこの力士ではなかったかと思うのですが。

で、なぜ、この「荒飛」が力石を奉納したのかが謎ですが、かなり高齢の方に聞いたところ、昔、巡業があったというで、多分こちらにも回ってきたのではないかと思われます。

なお、千々石で無くとも、時代は違いますが、隣町の小浜町は玉垣額之助という有名な力士を生んだところであり、小浜に大相撲が巡業したことは十分に考えられ、その折り、有名であった千々石の「温泉神社(旧四面宮)」に力石を奉納したとも考えられるところです。

ただ、大相撲の巡業の記録は全くないので、手がかりが無いのですが、下の「荒飛甚太夫」の記録と照らし合わせればピッタリだと思うのですが・・・・

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       (ベースマガジン社刊「大相撲人物大辞典」より

2018年11月24日 (土)

「橘神社大門松」作り始まる&「天満宮神迎え」

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昨日、橘神社の近くを通っていたら大門松の作り始めの第一日目でした。お払いは神社の方で済ませ、さっそくの作業です。

聴いてみたら、大門松の完成竣工式は、まだ決まっていないようでしたが、昨年が12月23日でした。詳しくは社務所までお問い合わせを。

作っているのはボランティアの方々で、大変だと思いますが、大門松を楽しみに見にこられる方が大勢おられるので、頑張っていただきたいと思います。

昨年の、完成竣工式です。

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さて、夜は「天満宮」の神迎えで、 出雲大社より神様が戻ってこられるのでみんなでお迎えを。昨日はウチの神社だけでしたが、神主さんの話では今日は2ヵ所で神迎えだそうです


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神様が戻ってこられるのが遅い時間なので、それまで、何やらかにやら喋っている時間が楽しいですね。古老の方から昔話を聞きながら、勉強になりました。

神事の後、直来(なおらい)ですが、差し入れで、参加の方から五島のキビナゴ。ウチでガスや電気で焼いてお皿で食べるのではなく、炭火で焼きながら食べると、全然旨さが違いますネ。

最近は近所づきあいが薄れてきていると言われますが、こんな集まりも楽しいです。

さて、神様が帰ってこられるとき、風がまったく無かったのに、突如旗がバタバタとなったりします。「神様が帰ってこらしたばい」。

昨年は、電気の明かりと提灯の明かりが、ふと暗くなり、神様が帰ってこられた感じでした。宮司さんに聴くと、はやり他の所でも同じような事があるとの事。

今年は、話をしているとき、背中に冷たいながらも清らかな感じの風が感じられ、あ~、帰ってこられたな、と感じたものでした。


2018年11月18日 (日)

「天満宮」のしめ縄づくり~千々石町天満宮

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今月23日に神迎えがあるので、新しいしめ縄でお迎えしようと、ここ「天満宮」のしめ縄作りをしました。

天満宮は、伝として、天正少年遺欧使節千々石ミゲルの父が龍造寺に滅ぼされるとき、平和が訪れるよう、天満宮を作ってくれと言って亡くなったそうです。
千々石ミゲルは、その戦火の中を逃れたと言われています。

まず、千歯扱きで右の写真のような、藁のいらないところを取り去ります。

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で、この藁を柔らかくするわけですが、むかしは「おとうは土間で藁打ち仕事・・・」という歌がありますが、土間で藁打ち仕事では、とてもじゃないので建設機材の点圧機を使い、柔らかくし右のようにまとめます。

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真ん中を太くまとめ、右上の小さくまとめた藁を差し込みながら、段々長くしていきますが、これが大変で、3人一組で、小さくまとめた藁を差し込みながら、右にねじって左の人に渡していきます。ヘタすると、瘤のようなところができます。

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このままだと、藁が飛び出ているので、これを切り取ってキレイにします。

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鳥居が2本あるので、しめ縄を2本、できあがりです。

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「〆の子」というらしいのですが、これを6コ。

右は、ほうき草(コキア)で作ったホウキ、意外と使い易いですね。

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で、2ヵ所の鳥居にしめ縄を取り付けました。左は大正15年に建てられた鳥居。

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右は享和三年(1803)に建てられた鳥居。今から215年前です。

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実は、大正15年の鳥居は丸印の所に建てられていたのですが、上の方にグラウンドを作り、道路を作ったとき上に移設したそうです。

「千々石郷土誌」の天満宮の所には、

一の鳥居 1000年祭記念 明治三五年
二の鳥居 1025年祭記念 大正一五年

と書いてあるのですが、「享和三年」の鳥居の記載が無く、「明治三五年」の鳥居は現場には見当たりません。

郷土誌を作るとき、現場を見ていないことが分かります。郷土誌と言えば、町、市の基本資料でもあり、又、後世に残る物なので、もっとしっかり調べて貰いたいものだと思います。

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作業をしているとき、「トラ」という名の「ネコ」がジッと見つめておりました。
これで、神様も気持ちよくお帰りになれると思います。

皆様もお疲れ様でした。また来年。



2018年10月24日 (水)

2018「雲仙の紅葉(10月23日)」&「旧普賢神社の狛犬(黒田栄太郎さんか?)」~雲仙市小浜町雲仙

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月曜日、仁田峠が紅葉したというので見に行きました。もう一つ別の目的もあったのですが・・・・

階段が半分バリアーフリーになっていました。妙見岳山頂が紅葉の見頃だそうで、行っては見たかったのですが、用事でパス。上の写真のように、ロープウェイあたりは紅葉。下の方は、もう一息か?


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今日は、この普賢神社に用があったのですが・・・

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普賢神社は昔は普賢岳の下、崖の下にあったのですが、雲仙岳災害で埋もれてしまいました。

災害よりかなり以前の絵葉書ですが、風雨が強いためか、荒れているのが分かるかと思います。


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下は、「昭和貳年」の鳥居が写っている絵葉書。これを見ていて、ひょっと気づいたのが、赤丸印の狛犬さん。

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写真が荒れて分かりにくいのですが、ルーペで見ると、面構えが右の狛犬とそっくり。というより、同じ石工さんが彫ったものとわかります。

右の写真は雲仙の旅館街にある「温泉神社」の狛犬。向かって右側が吾妻町永中の方がもよって奉納したもの。左が、永中の「黒田栄太郎」さんが奉納したもの。

これと同じ型の物が、吾妻町の温泉神社にもあり、奉納者は「黒田栄太郎」さん。という事は、同じ型なので、普賢神社の狛犬も黒田栄太郎さんかもしれないと思い、ひょっとしたら、新しい普賢神社に運ばれて保管されいないかと行ってはみたのですが、残念ながらありませんでした。


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以前から、黒田栄太郎さんが奉納した狛犬等に、お目にかかることが多く、このブログでも数回取り上げ、興味を持っていたのですが、いまは、埋もれてしまった旧普賢神社。狛犬さんも埋もれていますが、是非見たいものでした。
黒田栄太郎さんが奉納された狛犬だと信じているのですが・・・・


2018年10月20日 (土)

「温泉神社秋の大祭」★千々石町&「ロマンスウェデング」★愛野町

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今日は千々石町温泉神社の秋の大祭、愛野町のロマンスウエディングが重なり、おまけに講演会が重なり、講演会はカットで、朝から祭り、昼から結婚式と回ってきました。

写真を撮っていると、カメラを持っている人同士なんとなく話をするもので、あちらの町、こちらの町でも祭りを止めたとかで、これでは、近い将来全滅するのではないかと心配です。

祭りは、村の鎮守の神様に奉納するもので、最近はイベント盛りで、ただ、面白い、きれいだというだけで、バックボーンがない気がします。単なる、観光客目当のイベントばかりになってきた感じです。

祭りは、夏頃から準備、練習をしますから大変です。昔は農家が多かったので良かったのですが、最近はサラリーマンが多く、市外通勤をしていますから、時間が取れない方が増えています。おまけに少子化、高齢化社会。

浮流の太鼓、笛の音、神社の境内にピッタリ。


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踊り終えた子どもたちですが、小さい子ども沢山もいました。良く合っていました。練習をかなりやったのでしょうが、このようなことも地域作りになると思うのですが・・・・

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婦人部の踊りです。こちらも、練習の成果ですね。💮(はなまる)です

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神事が行われているとき、各地区に分かれての記念撮影。各地区の公民館に行くと良く飾ってありますが、あ~俺もこんな若いときがあったのか、などの記念になります。

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そうこうするうちに、福石公園の御旅所までの行列。今年は野田名の当番。途中、要所、要所で浮流、踊りなどの披露をしますが、歩くだけでも大変な距離です。

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この後、役員さんが神器を持ったり、若い衆が御神輿を持って最後を歩いて行きました。

昔は、担いでいったそうですが、今は台車に変わりました。高齢者の方と話をしていると、昔は「回せ、回せ」といって、神輿を回していたそうですが、台車では無理ですね。

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さて、昼メシを食って愛野町の「ロマンスウェディング」に行ってきました。

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愛野町の教会で挙式を終わり、愛野駅に着いたのが午後1時。新郎、新婦それなりの方なので、少し車が窮屈だったか?

たむろするマスコミの記者。類は友を呼ぶか?いつもは他人を撮ってばかりなので、たまには撮られるのもいいでしょう。視聴料をとっている某TV局の方もいます。


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小浜中学校の吹奏楽部、お祝いの演奏。今年もマーチングバンドで、全国大会に出場するそうです。

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東京から駆けつけた「日本ロマンティスト協会」の会長さん。右が、「ロマンスカップル」の認定書です。

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今年は、小浜高校生がボランティアで参加したそうですが、小浜高校のフラダンスチーム。確か、初めてだったと思います。

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お馴染みになった「あいのん」と、「鯉駅長のさちゃん(島原鉄道のマスコットキャラクター)」、愛野保育園児による「あいのん体操」。

結婚式で最初の夫婦の共同作業と言えば、ケーキカットですが、ここでは「ハッピーバルーン」。大きな風船の中に、小さな風船が入っていて、おおきな風船を破ると、小さな風船が飛び出てきます。


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これ、キレイですよ。そのほか、いろいろあったのですが、カット。

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時間になったので、ホームへ。ところが、向かいのホームが次の吾妻町行きになるので、線路を渡って行きますが、新婦さん大変。

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特別列車です。

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「愛の駅」の次が「吾妻駅」で、「愛の(いとしの)吾妻(わがつま)」になり、次の吾妻駅でもイベントがあっています。

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祭りの演芸会が午後3時からで、回ろうと思ったのですが、今日は体調が悪く、家に帰ったらバタンと倒れ、そのまま5時まで熟睡。歳ですね。

若いお二人はいつまでもお幸せに。



2018年10月 7日 (日)

「温泉神社秋の大祭」人数(にい)揃い~雲仙市千々石町

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今日は長崎では「くんち」の一日目で、あちらこちらのTVで放送をしていました。

用事があり、帰りがけ何か神社の方で音がするなと思ったら、人数揃いでした。行ったのが遅かったのか、浮流は終わりかけ。

いつも書いていますが、千々石には7地区の名(みょう)があり、毎年、順番に秋祭りの担当名になります。7年1回の順番です。

話をしていたら、今年の当番名、以前は50名ばかり子供がいたそうですが、今は10名程度だそうで、はやり少子化ですね。

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女性部の道踊りの練習。以前から練習をしていますから、ぴったりあってますね。

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子供浮流の女の子ですが、カッコいいですね。手に持っている白いものは、演舞をするとき頭にかぶります。

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とにかく7年に一度ですから、手順の確認が大変で、しかも7年前の祭りの役員さんは歳をとっていて、思い出すのも大変でしょう。私も、今日食べた夕食のおかずを思い出せないほどです。

特に祭りの役員さんは、出演する方の家を回ってお願いするので大変です。おまけに、長丁場の練習。

今年の祭りは、20日(土)~21日(日)になります。数年前までは、一日目がお下り、二日目が演芸会、三日目がお上りだったのですが、皆さんサラリーマンが多くなり日程がとれなくなったのでしょう。

今年の当番名は前回、前々回が雨だったとか。3度目の正直で。今年は晴れになってほしいものです。役員さんも最後まで、気が抜けませんが、良いお祭りにしてもらいたいと思います。

田舎の祭りも良いものですよ。皆さんもお越しのほどを。




2018年9月 5日 (水)

今日は⑱禁・豆本「日本一の大摩羅づくり★田縣神社木匠・斎木国光翁聞書」~中井文雄著

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今日は、●とか■無しでモロ書きますから、一応⑱禁にします。18才以下の方は絶対に読まないように(読むように煽っているようですが、一応、形ばかりの注意です。)

この、大麻羅(大摩羅?なのか、一応本の表記に従います)。愛知県小牧市田縣神社の豊年祭として使われるものですが→詳しくはこちらをクリック。 できれば、見ない方が良いと思います。いきなり、デッカいのが出てくるので、男の方は自信をなくすカモ。

上の本は、豆本でライターの大きさと比べれば、その小ささが分かると思います。この豆本は祭りの事では無く、この大麻羅がどのようにして作られたかを書いた物です。ただ、1981年の出版で、今とは違っているかも、です。

スキャナーの調子が悪く、うまく取れませんでしたが、素材は天然の木曾檜、樹齢2,3百年。もちろん良質で根っ子に傷がキズがなく張りのいいもの。全長2,5㍍、木口が40センチ以上。

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下の方が「おわせ」師(「おわせ」は男根型を指す古語だそうです)斎木国光氏、明治45年生まれ、大工奉公をし、年季明けの21才で一本立ち。

彫り物細工が上手だということで、昭和18年より、有志の木匠2,3人と共に「おわせ」師として奉仕。

その後、昭和24年より、スーパーLサイズになり、以後、斎木の単独制作。

制作の順を、長いので、ざっと書くと

3月7日 手斧入式・神社での浄めの儀式。

3月8日 作業第1日目・面白いのが「斎木さんはいう。『一晩じっと眺めておると自然に木の中からお姿が浮かんでくる、割り出しは多少のちがいはあるが、まずカリ(注:一番先っぽのところ、わかりやすくいえば亀頭)の部分が五分の一、棹があとの四ということになる。ワシはそれを鑿と鉋でとりあげさせてもらうだけのこと』」。

「木の中からお姿が浮かんでくる」、良い言葉ですね。日本人と自然、神様の繋がりが感じられる、謙虚な言葉です。

3月9日 大体の形ができます。

3月10日 御神体の裏側、鈴口と言われるところが難しいらしく、「雄渾を表現する腕のみせどころ」

3月11日 細部の仕上げ

3月12日 サンドペーパーを使い、檜材の木目を出す。朱と黄土を混ぜ合わせた絵具で塗り、乾くのを待って艶出しのニスをかける。

3月13日 「ニスを掛けると塗色の乾いた絵具が艶やかに蘇えり、亀頭の部分もてらてらと輝きわたって、いかにも大麻羅にふさわしい生気さえ感じさせる」。あと、幌布をかけて、御休息。


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下が出来上がり。小さいのは昭和32年の御大祭から、地元の厄年の女性が抱いて行列に加わるそうです。

3月14日 神明社へ運び込み、明日の大祭を待ちます。

3月15日 「おわせ」神輿が担ぎ出され、田縣神社へ。


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ところで、御神体だから、次の年まで保管されると思ったら、信者さんから、お受けしたいとのことで、厳選のうえ”婿入り”を決定するそうです。この本が書かれた時分、少なくとも50万円。また、「客寄せの見世物に扱わぬよう、直接の人目に触れぬよう厳かに奉安することを条件にしている。」そうです。

また、「”おわせ”といっても男根そのものの姿であるから愛知県教育委員会の審議を経て知事の許可をもらう、形式とはいえ手続きがある。」と、折り目正しいものです。

下の写真は、Wikipediaから拾ったものですが、先っぽがテラテラして、素晴らしいですね。男性の方は、自分のと比べないように。自信、無くします。

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この男根を使った祭りは他の所にもあるそうですが(ネットで調べてネ)、多分、五穀豊穣を願ったものでしょう。

「祭」がイベント化し、商業化してきている時代、なんとなく、良い感じの祭りですね。

なお、「道祖神」としても、あちらこちら見受けられ、ウチから30分ほど車で行ったところに、3ヵ所ばかりあますが、こんな大きなものは初めて目にしました。
しかし、こんな大きな物をぶら下げていると大変だろうナ。




2018年8月30日 (木)

「鶴森稲荷神社」~諫早市

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「鶴森稲荷神社」といっても、知らない方が多いと思います。

上の写真、黄色の矢印が高城神社、その横に、ひっそり佇んでいる赤色の矢印が「鶴森稲荷神社」。といっても、高城神社鳥居のすぐ横に鶴森神社の鳥居もあります。

ここをくぐって少し行ったところに神社の参道があります。

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が、ですね。入るとき、本来「鶴森稲荷大明神」の額束が読めるように付けられているのですが、逆に付けられ読めません。

右の写真矢印が社殿ですが、お参りして帰るときに、この「鶴森稲荷大明神」の名前を読むことができ、普通の神社とは額束の付け方が逆。


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多少、疑問は持ったものの、私が興味を持ったのは、古い鳥居。鳥居の彫られた文字を読むのも面白く、上は文政十三(1830年)は、はっきり読めますが、その下の文字良く見て、指で彫られたところをなぞっていくと「星合」の文字。

その下にも文字が彫られていましたが、残念ながら良く読めませんでした。

で、この「星合」とは、なんぞやということで、星が合うと云えば星の衝突かと思ったのですが、俳句をやっていたおかげで、あ~あれかと思い出しました。

星と星が合うと云えば、牽牛と織女の星が合う、七夕、七月七日の事ですね。ですから、文政十三年星合は、文政十三年七月七日のことになります。


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ところで、神社の位置について、昔の古地図をみると、黄色の矢印が本明川から引いた用水路、青の丸印が現在、神社があるところ。大体です。

資料館に大きな古地図があり、これに地名等が書いてあり、赤丸に「稲荷社」とあり、昔の神社と今の神社とは用水路をはさんで右と左。これ、悩みました。

と思っていたら、飛んで火に入る宮司さんがちょうど来られたので、聞いてみたら、昔の稲荷神社は、今の諫早公園の芝生広場の所に建っていて(諌早家の地所になります)、高城神社(明治十五年建立・以前紹介をしました)と共に建っていたところ、昭和三十二年の諌早水害で両方とも流され、それを両神社とも現在位置に移設したそうです。


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さて、諌早は佐賀藩の跡継ぎ争いに巻き込まれ、諌早は蓮池派に加担をし敗れます。

諌早一揆(諌早騒動の表現もあり)が起こり、佐賀まで一揆が押しかけるところ、途中で諌早家家老に止められますが、その後、犠牲者も多く出しています。

前後しますが、諌早は佐賀藩のお家騒動で破れたため、所領地一万石召し上げ(以前にも2回所領地を上地)、本藩請役家老を罷免、なお、時の領主、諌早家八代茂行は蟄居になります。

茂行公は庶民の苦しい生活を思いながらも、蟄居のため動きが取れず、代わりに家臣を方々の神社仏閣に遣わし祈願をさせたそうです。

さらに、(社)青年会議所から出版した「諌早一揆」、この中に、右下の絵に「さらに屋敷内に小祠を建て、犠牲となった者たちの霊を祭り、一筋に返地の叶うことを待ちわびられた。」ということですが、「敷地内に小祠を建て」というところを見れば、これが「森鶴神社」ではないかと思われます。


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さて、この神社横に小さな石祠があり、これが茂行公が建立した祠ですが、真ん中の一番上に梵語、その下に「稲荷大明神」の文字。

右に「奉願諌早前領主愚生藤原茂行敬立」(愚生は茂行公の引退後の号、男性が書簡文等で自分をへりくだっていう語だそうです)。

左には「開
眼祈願導師前荘厳寺法印宥?」。荘厳寺は前に書いた通り、神仏混淆時代、現諫早神社(旧四面宮)の内にあったお寺です。

裏側には「干時宝暦四星次甲戊菊月吉日」。「干時」は「時に」、「宝暦四(1754年)」は「甲(きのえ)戊」の年。「菊月は旧暦9月(10月との説もあり)」。

ところで「星次」が分かんない。某名門国立大学の大学院で古文書を学んだ人に聞きましたが、分かりませんでした。


諫早家の墓所、天佑時です。墓石は全部左側のように立派なものですが、ただ茂行公の墓だけが他の領主の墓とは違って、ごく普通の形です。佐賀藩の命令なのか、本人の意思なのかは、はっきり分かりません。


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「鶴森稲荷神社」は、高城神社に隠れているように建っており、諌早の歴史書にもほとんど載って無いのですが、歴史的にも由緒があり、高城神社にお寄りの時は是非お参りを。

忘れていました、鳥居の額束が逆になっているのは、本来の神社は向こう(諫早公園)の方にあったことを忘れないように示しているとの、宮司さんの話でした。

なお、この神社の名前がなぜ「森鶴」なのかは、あちらこちら聞いたのですが、はっきりしたことは分かりませんでした。これだけ、謎が残りました。

(参考・文引用)
「諫早歴史物語~諫早史談会」「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早史談~田中為一著」「諌江百話~諌早史談会二十五周年記念刊行委員会・昭和堂印刷設立四十周年記念実行委員会編集・刊行」「諌早郷土館 解説シート(歴史編)」




2018年8月13日 (月)

「諫早神社」の旧肥前鳥居~長崎県諫早市

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上が現在の諫早神社、丸印が鳥居になります。神社に多くある明神鳥居。

この鳥居が以前は肥前鳥居で、諫早水害の時、倒壊をしたそうです。この昔の鳥居の写真を捜していたのですが、やっと捜しあて、いつも見ていた「ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早史談会編集」にありました。

諌早神社の鳥居があまりにも小さく写っていたので、気づきませんでした。
この鳥居については、「諌早街道を訪ねて~山崎諭著」に「昭和32年の水禍のため、最古といわれた鳥居を流失し・・・」また、「諌早市史~昭和33年刊」にも「・・・同型が西郷村(現雲仙市瑞穂町)の熊野神社(注:西郷八幡神社の誤り)に一基現存する。箱崎八幡宮の鳥居と共に、九州でも古い時代に属する鳥居である」とあります。

西郷八幡神社の肥前鳥居は、「雲仙市の文化財」には載せてありますが、この貴重な鳥居は市の文化財に指定はしてありません。

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諫早神社の旧鳥居と比べれば、まったくの同型だということがわかると思います。

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さて、以前にも紹介をしましたが、左が諫早公園の愛宕神社の鳥居ですが、「愛宕山の肥前鳥居」として、市の指定有形文化財になっています。

なお、鳥居の上側がふくれあがっているように見えますが、昔、鳥居の上に石を投げ上げると、良いことがあるという話があり、それで投げ上げて重なった石です(私も小さい頃やりました)。

諫早には昔3基ほどあったそうですが、諫早水害で倒壊し、いまはこの一基しか残っていないそうです。

右が国見町の熊野神社の鳥居。で、こうしてみると笠木(鳥居の一番上の部分)と島木(笠木の下の部分)が一体化しているのがわかると思います。肥前鳥居の一つの特徴です。

私見としては、熊野神社の鳥居も肥前鳥居だと思うのですが、連絡はしておきましたが、行政側は調査もなにもしていないみたいで、なんとも残念ですね。

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2018年8月 1日 (水)

「慶巌寺の山門」について~長崎県諫早市

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先日、お箏の六段と慶巌寺のことを書きましたが、ふと思い出したことがあるので。実は、この山門、このお寺を作った時に作ったのではありません。

下は諌早神社(旧名・四面宮)。じつは、この山門はここにあったのです。

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行って見たら、神社に向かって左側、神社の老朽化のため建て直しみたいで、右側には立派な庭園があったそうですが、それも復元するようです。

この新神社を建てるところ、以前は空き地でした。明治2年の神社明細帳調をみると、何か建物があるような図面でした。

諌早神社の由来が書いた看板がありましたが、赤線のところ、「明治時代の神仏判然令により、並祀していた荘厳寺は分離されることとなり、本尊などは近くの寺院に移設。その際に、社名を四面宮(注:しめんぐう)から『諌早神社』と改称した。」ということで、諌早神社の中に荘厳寺が並祀されていたことが分かります。

「諌早を歩く~山口八郎著」には「明治元年の神仏分離令によって、荘厳寺は廃され、本尊の阿弥陀三尊像は安勝寺に、総ケヤキ造りの山門は慶巌寺に、お寺の什器類は、行基ゆかりの竹崎観音寺に移されました。寺の境内にあった諸石仏は、𡧃都墓地の入り口に移し並べてあります。」と書いてあります。

なお、四面宮の本社は雲仙の温泉神社。四面宮は、千々石、吾妻町、有家町、そしてここ、諌早神社が四面宮ですが、現在、諌早以外は「温泉神社」と改名をしています。

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こちらは、山門を裏から見たところ。

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下は、旧諫早市郷土館の「解説シート(歴史編)」に載っている慶厳寺の説明です。

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この荘厳寺の山門については「高城の史蹟~山口祐造著・諌早高城会発行」に詳しく書いてあり、要略すると、荘厳寺は諌早家の始祖龍造寺家晴公が入部して四面宮の神殿、拝殿を改築し、さらに祈祷寺として荘厳寺を建立したので荘厳寺は四面宮の神宮寺となり、家晴公は寺領米として、毎年二十七石を給したそうです。

前に書いたように荘厳寺は解体されますが、山門だけは残っていて、山門だけ残しているのも不自然だということで、山門も壊そうとしたところ、慶厳寺でこのことを聞き、話し合い、慶厳寺へ解体移築したのが、明治27年11月。

両側の仁王像を解体修理したところ、「延宝三年(1675年)、京都柳馬場二条上寺町、大仏師法橋康祐作」と墨書いてあったそうです。

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良い木鼻ですね。

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両脇の欄間彫刻は浜辺の老松と打寄せる波を象り、日本様式。楼門の柱は丸柱で、禅寺の四角柱のような雄々しさはなく、優しい風情を湛えているそうです。

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どうにもわからないのが、山門の入り口のすぐ上の彫り物。

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上側は諌早家の家紋「上り藤」。下が、お猿さんみたいなのですが、なにか意味があるのでしょうが、調べましたが分かりませんでした。

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慶厳寺の駐車場には磨崖仏が彫ってありますが、ひょっと見ると数字が彫ってあって、「32.7,25」。何だろうと、思ったら、昭和32年の諌早大水害の日。
死者、行方不明539名、負傷者1,476名、家屋破損2,221戸・・・被害総額、当時約87億円(現時点に換算すると415億円)

随分高いところに書いてあって多分、水害時の水位が刻んであるのでしょう。災害の大きさが分かります。

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お世話になった本
「高城の史蹟~山口祐造著・高城会発行」「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 諌早~諌早史談会編著者」「諌早を歩く~山口八郎著」「諌早史談~田中為市著」「諌早郷土館開設シート(歴史編)」「諌早市史~昭和33年発行」



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