神社

2022年9月26日 (月)

千々石天満宮神送り★千々石ミゲル墓所調査

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先日、例年の通り「神送り」の神事が行われました。

以前にも紹介したとおり、この神社に祀られているのは菅原道真公、千々石ミゲルの父千々石大和守と家臣2名です。


この神社の上に釜蓋城があり、佐賀の龍造寺に攻められ千々石大和守は討ち死にをしますが、その間、千々石ミゲルは城を逃れる、という話になります。昨年、千々石ミゲル墓所発掘調査が行なわれ、テレビ、新聞等で報道をされました。


島原藩主松平忠房公は、島原半島の多くの社寺に寄付をしていますが、千々石では2カ所、天満宮に「壹石八斗四升」、四面宮(現千々石温泉神社)に「三石貳斗五升六合」。


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千々石ミゲル墓所発調査プロジェクトに多少寄付をしていたので、先日、お礼状と共に、調査の模様と解説が収録されたDVD、絵葉書、お菓子のクルスが届きました。報告の概要パンフレットは以前入手をしていました。

今回はクラウドファンディングで600万円の目標額を超えること10,400,000円が集まったそうで、興味を持たれている方が多いことが分かります。


今後の予定はプロジェクトチームの浅田代表によると「文化財保護法に定められた正式報告書作成に入り、今秋には発刊の予定です。」と言うことですが、多分、来年にずれ込むような感じです。


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2022年9月 9日 (金)

空照上人、雲仙の事について★まとめ②~終わり


③大黒天脇の石像について


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先日、大黒天脇の空照上人の件で投稿し、石塔が「二本」と書きましたが、諫早史談会のO氏から、二本の石塔は元は一本ではないか?また文字については「是二行者空照法師頭髪納埋塔也」ではないかとの指摘をいただきました。

後日確認に行き、埋もれた部分を少し掘ってみると「生存」という字が見えました。左の石塔は「是二行者空照法師生存」。


右の文字については一番上の文字が「友」のような感じなのですが、O氏のヒントと次に紹介する田代原の石碑「空照上人壹百日修行頭髪塚」から「髪」ではないかと推測すれば「是二行者空照法師生存髪(または”頭髪”)納埋塔也」でピッタリするかと思います。


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④田代原の石塚について

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田代原の集落の中に上のように石仏等を祀った場所があります。右から3番目が「空照上人壹百日頭髪塚」。

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「空照上人壹百日修行頭髪塚」と刻まれています。

一番下段には「三會信者一同謹建」。右側面「昭和九稔/三月十三日/𦾔正月廿八日」。昭和9年3月13日は旧暦1月28日。


この「頭髪塚」については、管理人さんによれば、他所に建てる予定であったが、都合があり、こちらに頼まれたとの事でした。

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一応のまとめです。これまで書いた事と重複をしますが。

行基洞については、行った事がないので詳細がわかりませんが、入口付近に仏像、台座に「温泉信者中」とありますが、多分行基の像だと思われるので、行基の信者さんだと思われます。


高岩山の立像の所には「開山空照法師 昭和8年見岳名」と刻まれています。 


大黒天の石像には「是二行者空照法師生存髪(頭髪)納埋塔也」「昭和6年1月29日」。これには建立者の名は刻まれていません。

田代原の塚には「空照上人壹百日修行頭髪塚」「昭和9年3月13日」「三会村信者一同謹建」。

西有家郷土誌には「昭和六年に、空照法師が百日修行をされたところだろう。」と書かれているので、高岩山、大黒天、田代原の石塔等などから見ると、昭和6年の百日修行は間違いないと思われます。


さて、雲仙は昭和9年に国立公園に指定をされていますが、昭和2年には「日本新八景」に選ばれています。日本で2番目のゴルフ場が大正2年に開場、大正末から昭和初期にかけて、斎藤茂吉、吉井勇、タゴール、秩父宮、嘉納治五郎、徳富蘇峰、早川雪洲等々が雲仙を訪れています。雲仙はかなり人の往来があったと思われます。千日行などをTVで見ると、厳しい山中を駆け抜けるシーンがありますが、空照上人も人知れない山中で修行を積まれた事と思い
ます。なお、昭和初期のことなので、もっと資料があるとは思ったのですが意外とないのですね。

大黒天、田代原の「髪」の事です。空照上人は剃髪をしているはずなのに、と考えていると・・・100日間の修行中は髪は剃れないので、いくらかは伸びていたはずで、修行後は又剃ったはずです。信者の方は百日修行の記念として、この髪を埋めたのではないかと思われます。


もう一つ、大黒天のところの石像については、この別所には修行僧の僧坊が700坊あり、修行の場のメッカであり、大黒天もあるので、この場所に空照法師の頭髪が記念に埋められたのではないかと思うのです。

いずれにしても、田代原と大黒天の所に実際の頭髪が埋められているということです。


2022年9月 4日 (日)

空照上人、雲仙の事について★まとめ➀


空照上人について以前書いたことがあり、また、あちらこちらのブログで単発的に書いてありますが、主に雲仙を中心にしてまとめてみました。2回に分けてみます。


空照上人のことは、西有家町郷土誌に記述があります。また、上人
の石像、塔については❶高岩山中の立像❷一切経の滝の行基洞(別名空照洞)❸別所ダム大黒天の下の石造➍田代原集落の「百日修行頭髪塚」があるので、この順で説明をおこないます。

最初に、西有家町の郷土誌より空照上人についての概略です。


空照師は真言宗の僧、佐賀県東多久市出身。大正11年に島原地震が起こり、大正12年には関東大震災が起こります。当時、南有馬村で病気を治すという霊験を現していた空照(当時40歳程度)にお願いし、西有家八十八ヵ所の設置を行います。


空照上人は八十八ヵ所霊場を祈願し、行基(日本山大乗院満妙寺開基)に因んで、行基洞(空照洞ともいう)で二十一日間業を行い、その後、ふるさとの東多久に帰られたそうです。


なお、この間、雲仙で百日修行をされたそうです。また、空照上人の出身地が佐賀県東多久市ということで、多少調べて見ましたが不明。


❶高岩さんの立像について


「西有家郷土誌」からまとめてみました。


高岩さんに登る途中、登山道の途中から左側の山中に入って行ったところ。ワタクシも入っては見たものの元来の方向音痴で、行き着ききれませんでした。なにごとも案内は必要。


写真は西有家郷土誌より。台周りは1.2m四方。高さ1.5m。石積みで石造の高さ60~70㎝。台には「開山空照師 昭和八年見岳名中」と刻んであります。
「見岳」は西有家町の地区名。郷土誌に「昭和6年に、空照和尚が百日修行をされた所だろう。」の記述あり。

なお、この地点から150m位の所に洞があり「西有家四国奥ノ院一夜大師」。「一夜大師」の名前については「見岳名の信者が、セメント、砂などを担ぎ上げ、一夜で完成させた・・・」との記述あり。


また、「空照立像から200m降りたところにも大師堂を見つける。ここも明らかに修行場で空缶、空びんがあるるので、訪れた人が居たのではないかと思われる。空照大師が、ここでも修行されたのかもわからない。・・・」、との記述あり。ただ、「大師堂」についてはどのようなものか不明。

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(西有家郷土誌より)

「一夜大師」は「新四国八十八か所番外奥ノ院」。


❷一切経の滝行基洞(別名空照洞)


一切経の滝から少し下り、右側の斜面を登ったところ。ただ、3回トライするも分からず。

洞が三つあるらしく、一番入口には2体の石仏。一つは多分「行基」だと思われる。台座に「温泉信者中」。小さい方は「三鈷」らしいものを持っているので弘法さんか?一番奥に石仏が置かれていたらしいのですが詳細は不明。

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右の案内標識は現在あるかどうかは不明。

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(ブログ「私は、島原半島にいます」より)

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四国四十四番札所伊豫国大寶寺


一切経の滝の所「四十九番所伊豫国浄土寺」があります。右の写真。

なお、空照法師は八十八ヵ所霊場を祈願し行基洞で二十日修行をしたそうです。

 

2022年8月11日 (木)

令和4年橘神社「湯立祭」~雲仙市千々石町

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今日は橘神社で昼の3時から「湯立祭」。「湯立祭」については、橘神社のFacebookに下記のように説明がしてありました。

湯立祭とは、古来より受け継がる神楽の一つで、釜で湯をたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い心身を祓い清めて皆様の無業息災とコロナウイルス退散を祈ります。社殿を前に斎場が設けられ、大釜に湯を沸かし、神職と巫女が神楽を奉奏し、束ねた笹の葉で釜の湯を勢いよく参拝者に振りかけます。この湯滴を浴びると無病息災に過ごすことができ、また笹の葉を持ち帰れば幸運に恵まれると言われています。


例によって、宮司さんのパフォーマー。なかなかシャッターチャンスが掴めないので、「モッテコーイ」のアンコールをしたら、「お湯が熱いから、イヤだ」と断られました。


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右の写真、笹でお湯を振り回すので湯滴が飛んできてかかり、これが無病息災に良いのだそうです。

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湯立祭の後は「肥前千々石鉄炮隊」による奉納演舞。もちろん、空砲ですが凄い音がします。警察のお達しにより、近くにはよれません。

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湯立祭につかった笹をお守りにいただきました。

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神社も最近は工夫を凝らしているようで、ヒマワリの「花手水」。花を揃えるのが大変だそうです。「夏詣」のお休み処。

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イロイロと工夫した「御朱印」も作っていて、確か「小濱神社」「御館山稲荷神社」「久山年神社」「橘神社」で御朱印巡りをしているようです。なお、小濱神社でも先日湯立祭を行ったとのことです。


2022年7月 1日 (金)

雲仙「温泉神社二ノ鳥居」について②

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昨日、雲仙の温泉神社の二ノ鳥居について書きましたが、少し気になって「肥前國髙來郡温泉山の圖」を調べて見ました。

この図については、「しまばらふるさと再発見」で松平文庫長根井浄先生が「江戸時代の地獄は満妙寺一乗院が案内権を持っており、いろいろな説話が語れていました。」と語られ、確か先生の以前のお話しでは、その折り、この絵図で説明をしていたとのことでした。いわば、観光パンフレットですね。

現在、数冊の本で印刷物が紹介をされています。比べてみて違いは見受けられますが、基本同じです。なお、本物は版木で摺ったものです。


下は「雲仙お山の情報館」所蔵のものですが、片面が「雲仙國立公園決定紀念祝賀 島原郷土史料展覽會」となっていて、絵図は版木の印刷ではなく、いずれかの絵図の模写だと思われます。


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  (雲仙お山の情報館所蔵)

下が温泉神社あたりを拡大したもの。


一番右が鎮守四面大明神。ご本尊様。その左が拝殿。


赤の矢印が鳥居。二つ鳥居があるのが分かります。右の鳥居は多分両部鳥居。両部鳥居は近くには無いので、ググってみると木製が多いようです。


さて、安政7年(1776)島原藩に提出された一乗院(満妙寺)の書上帳があり、これについて「嶽南風土記 有家町史談第4号・有家町史談会刊」に根井浄先生が「江戸時代の雲仙(温泉)・普賢岳・妙見山ー史料『温泉山起立書』の翻刻と紹介ー」という事で書かれています。


この中に、温泉神社の面積、寸法等が書かれていますが、鳥居について下記のようにかかれています。


⑤本社石壇下より石鳥居まで堅拾六間横九間 此反別四畝廿四歩

⑦木鳥居より石鳥居まで堅拾九間横貮間 この反別所壹畝九歩
⑩石壇木鳥居下
⑪石壇石鳥居下
⑫木鳥居 一 石鳥居

という事で、元来温泉神社には木の鳥居と石の鳥居があったことが分かります。


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前に書いたように、現在の二の鳥居についてまとめてみると下記のようになります。

一 1695年(元禄八年) 建立

二 1778年(安政七年) 温泉山起立書 木製と石製の二基の鳥居の記述
三 1792年(寛政四年) 雲仙岳大噴火により鳥居倒壊(あくまで推測です)
四 1851年(嘉永四年) 石鳥居のみ再建

この絵図については、1695年~1792年の雲仙の地獄の風景だといえると思います。
絵図に描いてある両部鳥居、これも現代再建できれば面白いと思うのですが。

2022年6月24日 (金)

雲仙「温泉神社二の鳥居」について①

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    (左はGoogleEarthより)

仙の温泉神社には三つの鳥居があります。

一ノ鳥居は明治33年、温泉神社1200年祭の時建立されたもの。


一つ飛んで、三ノ鳥居は昭和60年に建立。


問題の二ノ鳥居です。最後に「温泉山」と書いてあります。昔は雲仙を温泉山ともいっていました。


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左の柱、「元禄八乙亥年九月吉日」と書いてあります。元禄八年は1695年。

柱の横をヒョイとみると、文字が彫ってあるので見ると「嘉永四年辛亥八月再建」。嘉永四年は1851年。

「再建」とあるので、一度倒れて再び建てたと言うことになります。何故倒れたかですが、天正8年、有馬晴信により領内の寺社が破壊されています。ただ、天正8年というと1580年なので建立の1695年とは時代的に関係なし。

ということで考えると、雲仙の江戸時代には寛永4年の(1792)の大噴火がありました。

1695年建立→1792年倒壊→1851年再建と考えればピッタリな感じがします。あくまで私見ですが。


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二ノ鳥居には額がありません。ということで探してみたら、入口の所にありました。かなり破損しているので、多分、落ちたものだと思われます。

「四面社」(一般的には「四面宮」)と書いてあります。多少、自信がありません(^^ )。


温泉神社は最初「四面宮」、明治2年の神社改正により「筑紫國魂神社」、大正4年に「温泉神社」。


なお、一の鳥居が建立された元禄八年が気になったので、湯けむりの記憶(雲仙国立公園年表・雲仙国立センター運営協議会刊)を調べて見たら元禄六年(1693)の所に「島原藩主松平忠房・・・一乗院満妙寺、四面宮を改築し以後藩主松平家の親祭となる。」とあるので、多分この折り、二の鳥居が建立されたものだと思われます。


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下は雲仙の札の原バス停近くにある片足鳥居。こちらが昔の一の鳥居だと説明したものもありますが、柱には文政10年(1827)とあるので温泉神社の二ノ鳥居より新しいものです。額は「四面社」。「四」は異体字。

現在、最初の鳥居が一ノ鳥居といっているので、一ノ鳥でかまわないか・・・・。

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下は千々石の温泉神社にある昔の額。左は最初の字が欠けていますが、普通に「四面宮」。右は同じですが、「四」の字が異体字で、雲仙の片足鳥居の字と一緒です。

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調べると、まだ面白い所があるのですが、また後日。


参考文献
「修験道とキリシタン」根井浄箸

「嶽南風土記 有家史談第4号」有家史談会
「山岳修験 第30号」日本山岳修験学会刊
「湯けむりの記憶 雲仙国立公園年表」雲仙公園ビジターセンター運営委員会
「おばま 史跡巡りガイド」小浜町・小浜町教育委員会



2022年4月27日 (水)

千々石ミゲル清左衛門供養碑建立~雲仙市千々石町天満宮

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長崎県の方はTV、新聞等で報じられご存じだと思います。昨年夏、千々石ミゲルの墓所の最終の4次発掘調査が実施されました。

先日、千々石ミゲルの子孫、発掘調査に携わった方などが参集し、千々石の天満宮において、千々石ミゲル清左衛門供養碑建立式が行われました。
発案、発起人は第1次~4次発掘まで尽力された町田義博氏。

供養碑の一番上の文字、「千々石・ドン・ミゲル」は千々石ミゲルの自筆を彫ったものだそうです。


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建立場所は千々石ミゲルの父千々石大和守直員が祀られている天満宮拝殿の横。

右は、千々石ミゲルの墓発見に最初から尽力された大石一久先生。宮司は橘神社の橘宮司。橘中佐の子孫です。


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右の写真は千々石ミゲルの子孫の浅田昌彦氏。

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千々石ミゲルの碑が建立された意義。天満宮の歴史などを貼っておきます。

供養碑の土台はコンクリートで固められていますが、土台のなかに、墓が発掘された折発見された千々石ミゲルの遺骨の一部が納骨されています。


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千々石ミゲルの父、千々石大和守直員が龍造寺に討たれた後、数百年の時空を越え、父が祀られた神社に、千々石ミゲルの供養碑が建立され、遺骨の一部が納骨されたという事は、非常に意義が深いことだと思います。

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オマケです。龍造寺に攻め落とされた釜蓋城の抜け穴?といわれているものです。



2021年11月 9日 (火)

千々石町「天満宮」のしめ縄作り

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正月を前に各地の神社のしめ縄作りが行われます。地元の天満宮のしめ縄も、先日取り替えをしました。

千々石の天満宮については以前にも書きましたが、今年、千々石ミゲルの墓所(推定)の最終発掘調査があり、この父親が祀られている神社です。


藁打ち仕事ですが、昔は「おとうは土間で♬~藁打ち仕事♩~・・・」とやっていたわけですが、今の住宅には土間も無く、これだけの藁を打つとかなりの時間がかかります。で、道路工事用のローラーの出番。乗用車で行ったり来たりしている所もありました。


本来は「藁すぐり」といって、藁についている「はかま」などを取り除くきます。「ワラ選リ3号」と書いてありました。今は使う家もないと思います。

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ワラを右のように小さくまとめていきます。しめ縄を巻いていくとき、これを差し込んでいきます。

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しめ縄の中心部。吊して作ったり、端の方から巻いていくところもあり、各地様々なようです。
真ん中が決まったら、ワラを巻いていきます。

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この時、「どちらにひねる?」「右に巻くのか?左に巻くのか?」と一番時間がかかるところです。後はドンドンと進んでいきます。この時、小さくまとめたワラを差し込んでいきます。

なお、しめ縄の真ん中にはロープを入れています。これが無くては、しめ縄はたるんでしまいます。手前のロープを張っているのは私です。楽だから。


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しめ縄にヒゲがでているので、散髪。ということで完成。キレイキレイになっています。

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天満宮には二つの鳥居があります。左が享和3年(1803)に建てられたもの。右が大正年5年に建てられたもの。

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右は去年のしめ縄を取り除いたところ。やはり、しめ縄が無いと寂しいですね。

今年の天満宮の行事は、残すところ、神迎えと年越しの二つをになりました。


コロナの影響で常会での懇親会等もなくなり、地域の触れあいも少なくなったようです。早く元の生活に戻ってほしいものです。


2021年9月24日 (金)

神主さんもマスクして~千々石町天満宮/神送り+【どうでもいい付録】

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昨日、千々石の天満宮で神送りの神事がありました。

以前にも書いたとおり、この天満宮には龍造寺に討たれた「千々石ミゲル」のお父さんが祀られています。


今年は千々石ミゲルの墓所(推定)の調査がおこなわれ、2回ばかり書きましたが、遺骨が発掘をされました。今後、遺骨等の調査がおこなわれ、結果が待たれるところです。


神事が始まると本殿の方に光が差してきて良い風景でした。神殿はかなり傷んで雨漏りなどもしていて、建て替えが必要なのではあるのですが・・


コロナが流行しているので、参加者もマスクをしていましたが、神主さんもマスクですね。いつまで続くのやらという感じです。神迎えは11月23日(勤労感謝の日)、午後7時からになります。


なお、10月17日に温泉神社の秋の大祭がありますが、これもコロナの影響で、トラックに神輿を積んで御旅所まで行き神事をおこない、帰ってくるそうです。なにやら、寂しい秋祭りです。


神主さんと書きましたが、正確には「宮司」さんになります。神主、神官、神職、禰宜など、一応チェックしてみて下さい。



【どうでもいい附録】


最近、買ってきたものです。

左はコーヒー関係、ドリッパー-が2個増えました。カリタのウェーブとコーノ式の”名門”。同じ豆で同じ淹れ方でも、違いがあります。最近、コーヒーの味が少しは分かるようになりました。ミルも増えて、Z Presso。なかなかに優れものです。

真ん中の亀田製菓の「無限エビ」。一週間で100万袋売れたそうです。あちらこちら探すこと数ヶ月、やっと巡り会いました。4袋あったので全部買い占めました。他の会社のえびせんなどは比べものになりませんでした(個人的感想)。

マツコ・デラックスさんがCMをしている、同じ亀田製菓の柿の種。少し前、チコちゃんに叱られるで、柿の種はWhyあんな形をしているのか、と放送しているのを思い出して買ってきました。


前の丸く見えているのが一時流行した「食べられるラー油」。久しぶりに見かけたので買ってきましたが、良いお味でした。


ドリンク剤のオリチンP。高いです。これ一本でリポビタンが数本買えます。オクサマが疲れ果ててリクエストされたもので、今、倒れられては困るので、買ってきましたが、これで本が何冊買えるかと思うと・・・


卵は以前紹介した、飯盛町の卵。売り出しが11時半からで、行ってみると大勢の方が待っていましたが、並び方がバラバラで最後が判らず、この日、多少イライラすることがあり、最近の若いのも、年寄りもだらしがないと思い「きちんと並べよ、最後が分かんないだろう」と怒鳴りました。多分、誰か反発して喧嘩になるかな、久しぶりの喧嘩だな、と思っていたら、皆さん素直に並んでいただいたので、拍子抜けをしました。



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昨日の朝、パソコンをつけるとネットに繋がりませんでした。調べるとモデムが故障をしているみたいでした。実は私の所まだ光が来ていないんです。もう10年ほど前からNTTのホームページで、光が来ていないか調べているのですが「もうしばらくお待ちください」が続き、NTT西日本の「もうしばらく」は10年の事かと。

ADSLは来年の3月で終了し光に変わるので、上の写真のADSL用のモデムは生産終了になっています。ヒョッとしたらとの期待をもって、家電屋さんを回ってみましたが、絶望的でした。


と言うことで、Amazonを調べたら中古品があったので注文をしました。が、ですね、今日朝から病院に行って帰って来たら、直っていました。なんなんでしょう?。モデムさんの夏疲れなのかな?ただ、同じ事があると困るので、注文はそのままにしました。
本当に我が雲仙市はネット世界の孤島です。



2021年7月20日 (火)

雲仙岳「普賢神社」~古絵葉書より

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       (写真はクリックすると拡大します)

平成新山の噴火により、普賢神社は灰に埋もれてしまいました。仁田峠の登山口に仮拝殿が建てられ、その後、普賢岳の山頂付近に新しい普賢神社が建立されたそうです。恥ずかしながら、見落としておりました。→こちらをクリック


さて、雲仙の絵葉書は多いものの、普賢神社の絵葉書はあまり多くないようです。


上の絵葉書、普賢神社をモロに撮した一番古い絵葉書(
写真)だと思われます。ロシア人が書いた旅行案内に、同じようなものがあるのですが、所有権の為に残念ながら、ここに載ることが出来ません。

さて、一番上の絵葉書、「長崎縣温泉(うんぜん)公園」とあります。

雲仙が「長崎縣温泉公園」として発足したのが明治44年(1911)、「雲仙」国立公園に指定されたのが昭和9年(1927)なので、明治44年~昭和9年の間の絵葉書だと思われます。


なお発行が「古湯油屋商店」と印刷されていますが、地元の方に聞いたら、名前を変えて営業しているとのこと。この「古湯油屋商店」の絵葉書は良く見かけます。


次の3点が一番出回っている絵葉書。ただ、神社の写真を見るとむき出しの石祠が見えているので、上の絵葉書と同時代ではないかと思われます。説明の「温泉岳」が「温泉缶」になっていて、間違いですね。

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右の色つき絵葉書は写真を白黒に印刷し、それに手作業で彩色をし、絵はがきにした「手彩色絵葉書」。

同じ写真だと思います。巫女さんらしき人物が、こちらを向いて立っているのもまったく同じ。こちらの絵葉書にも、むき出しの石祠が見えます。


右は「2.5.12」文字、説明に「長崎縣温泉公園」とあるので、大正2年か昭和2年か迷いますが、いずれにしても昭和2年以前に撮られた写真です。左も「長崎縣温泉公園」とあります。


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下は、スタンプ、説明に、「温泉」でなく「雲仙」また「國立」の文字があり、昭和9年以降と思われます。ただ、左のスタンプは登山記念のスタンプで、昭和14年の登山記念だと分りますが、絵葉書自体はいつ作られたものかは不明です。

拝殿、鳥居の所と比べてみると、右の方が新しいと感じます。仔細に眺めると、建物の後ろに何やら石祠があるような。ということは、この建物、拝殿ですかネ?


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左は鳥居に「昭和貮年」とあるので、一目瞭然。絵葉書には、「温泉」でなく「雲仙」と書いてあるので、写真自体は昭和9年以降に撮られた可能性も考えられます。昭和2年は雲仙岳が「日本新八景」に選ばれた年です。

右は「國立公園」なので昭和9
年以降。

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右の絵葉書には「雲仙小唄」の歌詞が書いてあります。「なさけ深江にヨ・・・こころは千々石/駒にナー火を焚く普賢岳」。

これ、4番の歌詞ですが絵葉書が普賢神社なので、この部分を利用したと思われます。


出だしは


襟は湯染めでヨー/袂は躑躅/裾はなー/千鳥の波模様

滝のしぶきにヨー/湯靄がかかる/新湯ナー/湯町は曇り空 (以下略)

という歌詞ですが、作詞が「西岡水朗」さん。長崎の詩人。昭和5年に発表され、注目されたそうです。多くの歌手の作詞を手がけています。

YouTubeで調べると戦時歌謡ですが、高倉健さんとか小林旭さんも歌っています。「男なら」。

男なら男なら

未練残すな昔の夢に
もとをただせば裸じゃないか 度胸一つで押してゆけ
男ならやってみな →こちらをクリック

少し脱線をしました<(_ _)>。

上の絵葉書の年代、あくまで私の意見です。あまり、信じないように。


(追伸)

■絵葉書の作られた年代について。

古い絵葉書は、使われた事が無いものが多く、スタンプ等が無く、作られた年代不明の物が多いです。
上の鳥居の絵葉書、鳥居に「昭和貮年」と彫ってありますが、昭和2年以降、昭和10年に写真が撮られ、絵葉書が作られたかもしれず、その間、例えば昭和5年に社殿が改修された場合は「昭和2年の姿」と書くのは間違いになります。
判断材料として、雲仙の場合は「温泉(うんぜん)」から「雲仙」に変わっている、「温泉公園」か「雲仙公園」か、説明の字は右書きか左書きか、「國立」か「国立」か。また、他の絵葉書、写真があったら、それとの比較。等々と考えるのですが。難しいですね。私の説明も、判断が誤ったものがあるかもです。



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