神社

2017年7月12日 (水)

「あ~勘違い、私馬鹿よね・・・」~住吉神社

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最近は、昔の絵葉書、写真から複写する会社もあるようで、「長野電波技術研究所附属図書館」という所を見ていると、おや!肥前鳥居ではないですか。しかも、堂々たる風情。

さっそく写真を取り寄せると、「長崎住吉神社」とあり、調べると長崎市内の住吉にある住吉神社ではありませんか。

ということで、お出かけしました。我が家から、約1時間弱。ああ~また、肥前鳥居が見られると、心は踊る、血は騒ぐ。

で、着いてみると、一の鳥居は明神鳥居、鳥居横の看板ですが、なんとかなりませんか?


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階段上に二の鳥居がありますが、これもよく見る明神鳥居。写真は省きます。

本殿ですが、一目で新しいものだとわかります。


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拝殿横に左のような説明が書いてあります。境内には看板等にはいろいろと書いてありますが、多分これが一番新しいもののようで・・・


奉  献

多年の風雪に耐え 今日まで頑強にて保存して来るも参詣の利便を配慮し全面改修し新設す 尚石材は遠路中国福川市より搬入す 工費 壱千八百五拾万円

                      平成八年十二月吉日 住吉神社奉賛会


ということで、神社改修の時は鳥居も変えることがありますから、肥前鳥居さんも変えられたのかな?とは思ったのですが・・・・右の説明版は長崎市が設置したもものです。


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原爆投下時、社殿、社務所は倒壊、全焼するものの階段下の鳥居とこの狛犬さんは、そのまま残ったそうです。ということは、肥前鳥居はその時倒壊したとも考えるのですが・・・

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神社横に、稲荷神社があり、ついでにお詣りしてきましたが。

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下の狛犬さんがおられまして、何と言いますか、「肥前狛犬」さんの感じがするんですね。どちらとも判断がつきにくく、野球の審判が、ギリギリの球をストライクにするか、ボールにするか迷うのと一緒です。いずれにしても愛嬌のある狛犬さんでした。

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途中に左のような石祠があり、「山崎大神」と書いてありましたが、調べても意味はよく分かりませんでした。

で、横に狛犬さんがおられるのですが、これも、どうにも分からない感じ。


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家に帰って、私、しつこいので、「住吉神社」を再度ネット調べると壱岐にもあって、「IKINavi」という観光紹介のブロブがあり、それに壱岐の写真が載っており、下の写真ですが、一番上の写真と比べるとわかりますね。一緒です。

ということで、上の写真は「長崎」の住吉神社ではなく、「壱岐」の住吉神社でした。

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鳥居の左右が気に隠れて見えせんが、しつこく別のブロブを調べたら、ありましたね。まさに、肥前鳥居。

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ということで、暑い中、車で2時間かけて行って、違っていたとは、「あ~勘違い」で、ちゃんと調べて行くべきで、「私馬鹿よね~」と思い知った一日でした。




2017年7月 8日 (土)

「茅の輪くぐり」と「蘇民伝説」~千々石町橘神社


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「茅の輪くぐり」ですね。

くぐり方は以前にも書きましたが、一礼して、くぐって左側へ回り、次にくぐって右に回り、要するに8の字を書くように回り、もう一度左へ回ってくぐり、そのまま社殿へと向かいお参りをします。

さて、この茅の輪をくぐるとき、「祓(はらい)へ給へ清め給へ」とか「守り給へ幸(さき)わえ給へ」と唱えながらくぐりますが、「水無月の夏越の祓いする人は 千歳の命延ぶというなり」「思うこと みなつきねとて麻の葉を きりにきりても祓いつるかな」とも唱えそうですが、あとの言葉を唱えながら回ると、あれ?いま何処を回ったっけ、と言うことになるので、前者の言葉をお使いください。

ところが、最後に唱える言葉として、「蘇民将来 蘇民将来」と書てあるので、「蘇民」というと、あの、速須佐雄能(すさのう)神と関係ある話かな、と思って調べると、やはり関係ありました。

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神話、伝説、伝承等に関係することで、解釈にいろいろあるようですが、夏で暑いので手っ取り早く書くと。武塔神(速須佐雄能神のこと)が旅をし、途中、宿を借りにいきますが、裕福な巨旦将来には断わられ、次に、貧しい兄の蘇民将来の所に行き、もてなしを受けたそうです。

後日、再訪した武塔神は蘇民の娘(兄という話もあり)に茅の輪をかけ、娘を除く蘇民全部を殺し(弟の巨旦将来一族のみという話もあり)、本当の自分の名前(速須佐雄能神)を名乗り、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたそうです。

このような話から、茅の輪をくぐる事により、無病息災、また、罪を祓うということになるわけです。なお、速須佐雄能神は弟一族のみならず、兄一族も殺したという説もあり、とにかく、速須佐雄能神と言えば乱暴者で有名です。速須佐雄能神は建速須佐之男命、素戔男尊素戔嗚尊等とも表記されます。

「民俗小辞典・神事と芸能」によれば、京都八坂神社の祇園祭のとき、「参詣者は『蘇民将来子孫者也』と記す護符の付いた粽を受けて疫病除けとする。」そうです。京都には行ったことがないので、よくは知りませんが・・・・




2017年7月 6日 (木)

「続・おもしろい!進化の不思議 ざんねんないきもの事典」~今泉忠明監修

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昨年7月、この本の第1弾を紹介しましたが、あれから1年、続編が出版されました。

柳の下にドジョウはなんとやら、という格言がありますが、いるところにはいますね。今日は、暑さを忘れ笑い転げて読んでいました。

最初は、進化についてイラスト入りで書いてありますが、これくらい分かりやすいと勉強も好きになっていたんですが・・・・・

表紙を開いたところに、こう書いてあります、「ざんねんないきもの」とは一生けんめいなのに、どこかざんねんな いきものたちのことである。」

読んでみて、みんな一生けんめい生きているのに、なんとなくユーモラスというか、カワイソウというか、というような生き物の話です。

■サバンナモンキーの金玉はスカイブルー

このモンキーについては、ネットで見られます。実に見事な色の金玉です。金色ではありませんが、驚くほどきれいなスカイブルーの色をしています。ぜひネットでご覧ください。びっくりします。
といっても、旦那さん、もしくは彼氏の金玉に真似をして、スプレーを吹き付けないように。

■ブタはデブじゃないのにデブだと思われている

一般的な人間の体脂肪率が20パーセント、ブタの体脂肪率は15パーセント、生まれたての子ブタは2パーセント。
ようするに、太って見えても、中身は筋肉ということになります。ですから、太った方をみても、「ブタ」とは言わないようにしましょう。

■オシドリの夫婦はじつは毎年相手が違う

仲の良い夫婦を、「オシドリのような夫婦」と言います。が。
オシドリのオスは交尾がすんだらどこへ消え、次の年になると再びペアを作りますが、たいてい前の年とは違う相手だそうです。
ですから、「オシドリのような夫婦」というのは、間違った意味になりますので、「あなたがた、オシドリのような夫婦ね」とは言わないようない。

■アマツバメは命がけで眠る

ヨーロッパアマツバメは10か月間ずっと飛び続けていた、という調査があるそうです。
まとまった睡眠はとれないので、空高く舞い上がり、落下しながら眠るそうですが、この間、1~2秒。これで、睡眠取れるんですかね。ナポレオンどころではありません。

■チンパンジーは愛想笑いをする

チンパンジーは好戦的で、「群れの中で『誰が一番か』ということをとても気にしています。」だそうですが、「自分より強い相手には愛想笑いまでしています。」ということで、チンパンジーも忖度をするのかな?


あと、「フラミンゴが片足立ちするのは水が冷たいから」「カ(蚊)は血なんかすいたくない」「キリンは長い舌で鼻くそをほじる」「カビバラはおしりをグリグリされると寝てしまう」「トラは笑っちゃうほど狩りがヘタ」「サメは泳ぎ続けないとどんどんおぼれてしまう」「ウマは全力で走ると死ぬ」「バンドウイルカは方言のせいで会話が通じないことがある」等々、これ、ほんまかいな?というお話がたくさん載っています。どこから読んでもよく、特に、子供さんと読むと喜びますよ。






2017年3月17日 (金)

「湯江神社」★石造りの神殿!~諫早市高来町

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高来町湯江神社の三の鳥居になります。

この地域、まだ詳しく知らないことがあり、若干間違いもあるかと思いますが。そこは、おおらかな気持ちで・・・・

「諌早街道をたずねて(山崎諭著)」と「高来郷土誌」を基に書いてみたいと思います。

ここへ来たのは、前に、「善神古墳」に来た折、横の鳥居の扁額に「老松神社」と書いあり、行ってみようかと思ったのですが、なにせ見たら階段が長くて、という事でやめました。

あとで調べると、この神社は「老松神社」、「八幡神社」が昭和26年に「湯江神社」に合祀とあり、「八幡神社」は「通瀬大明神」と「若宮神社」が明治8年「八幡神社」に合祀と書いてありました。

で、この、「湯江神社」の所を読んでいると、「神殿は石造りで、文化10年(1813)、寄付者赤司藤兵衛とある。諫早家四代領主茂真公の石廟にも負けない位のもので、赤司家の財力がおしはかられる」と書いてあるじゃありませんか。

普通神殿というと、木造ですが、「石造り」と聞けば行かないわけにはいかないじゃないですか。

一の鳥居と二の鳥居は、「老松神社」、平成21年に造られた三の鳥居は、「湯江神社」の扁額。一の鳥居については少し面白い事があるのですが、これは、後で。

階段ですね。「高来郷土史」には「二百数十段の石段を・・・」とあり、200段というと足が持つかなと登ってみたら、132段でした。


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登り切った所が一番上の写真。

写真に写っているのは、拝殿ですから裏へ回ってみれば、お~ありましたね。
全部石造りで、石造りの神殿とは珍しい。しかも、立派。


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ちなみに、「諫早家四代領主茂真公」の墓。こちらのほうが、少しすっきりした感じかな。もちろん、こちらも石造りです。

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しかしながら、狛犬さん、いい感じ。しかも、木鼻も石造り。いい細工してますね。

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裏に回ったら、壁面に文字が彫り込んであり、

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真ん中の柱、「文化八年十一月吉日 宮司田島伊豫(旧字ですが、パソコンでは出ません)」、年代が郷土誌の「文化10年」とは少し違うみたいですが・・・・

左の柱、「昭和四十四年十月解体修理施工 石工 横田理一」

下の丸印に、庄屋、世話役の名前があります。「赤司藤兵衛」さんの名前がありました。隣が、庄屋さん。でしょう。

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とまあ、他ウロウロしていたら、多分、板碑ですね。でもって、階段を登らなくても車の道がちゃんとあり、なんのため苦労して、階段を登ったんでしょう。

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どういうわけか、「太良嶽」と書かれた、鳥居のみ。
で、神殿の後ろを見たらびっくり、なんとキリシタン墓地。

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そのまた裏は、お寺の墓地。こちらは、下のほうにお寺が見えたので、理由は分かりましたが、キリシタン墓地の理由がわからない。年代が書いてあったので見たら、古いので1960年前半。で、ちょうど作業をしている方がいたので聞いてみたら、「教会があって、養老院もあるようですよ」。

で、見るとありました。後で、調べると、「カトリック湯江協会・養護老人ホーム聖フランシスコ園」。ということで、全部わかりましたが、神社にカットリック墓地、お寺のお墓と3つもまとめてみられるのは、ここぐらいでしょう。赤い丸印、しっかりと十字架がありました。

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少し話を前に戻して、第一の鳥居。写真ではわかりにくいので、説明だけで。

作られた時期が、「貞享三歳(年)」と読めました(多分)。あと「佛陀智?無量無邊(?)」、そして、「金仙寺末院嵩智勝寺」、「??嶽大権現」、??は多分「太良」だと思うのですが。

神社の鳥居に、仏教の寺の名前などが彫りこんであるところを見ると、モロ、神仏習合だとわかります。

なお、この鳥居、「高来郷土誌」には八幡宮について触れてあり、「この三神(八幡神社)を老松神社に合祀し湯江神社となった。鳥居は三ノ鳥居(最上段)に移されている。」とは書いてありますが、写真でご覧の通り、三ノ鳥居は平成時代のもので、多分、何かの折、入れ替えたのではないかと思います。

なお、「諫早街道を訪ねて」には、「八幡神社は江戸時代の貞享年間の創立で・・・」と書いてあり、鳥居に彫られた、「貞享三歳」と合致しており、第一の鳥居は「八幡神社」の鳥居を移したものだと思います。多分。


【おまけ】

先日、「善神古墳」の石室に、文様が書かれていることを書きましたが、写真を撮ってきたので、おまけです。

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2017年1月27日 (金)

今日はこんな所へ!

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今日は、某神社関係で分からないことがあり、詳しい人に聞きに行き、ついでに、ほのかの情報も聞いたので、そちらへ行ってみたら成果がありましたが、これは、また後日まとめます。

さて、帰ろうかなと思って、スマホナビを見ると、
すぐ近くに「金毘羅神社」があるじゃありませんか。

で、少し大きな神社かなと思い、せっかくだからと寄る事に。とっころが、ナビで見ると近くなのですが、入口が見つからない。

畑があり、農業青年がレタスを取り込んでいるので
「金毘羅神社どこですか?」
「このすぐ上ですが、荒れ果てていけません」
「全然?」
「道もわからないですよ、やめたほうがいいですよ」

やめろと言われれば、行きたくあるじゃありませんか。

途中までは道はあるものの、言われたように、あとは薮で、道が全然わからない。

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やっと行き着いたところが、上の写真、間違いなく、「金毘羅神社」の額。鳥居は鉄製で近年のもの。

社殿は小さいながらも、コンクリート製で、柱はタイルなど貼ってあって、モダン。
入口を開けて、ご本尊を拝もうと思ったら、扉が全然開きません。

普通、神社といえば神様が宿っているところで、きれいに掃除などしてありますが、人が来た跡は全くなし。裏にも回りましたが、なにもありませんでした。

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左右に、ツタに絡まれた塊があったので、取り去ってみると狛犬さん。

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ひょっとして、この神社、何かあるのかと思いつつ帰ろうとしたら、道がわからない。直滑降しようと思ったら、昔は、神社の近くまで畑があったのか、畑の石垣があちらこちらあり、邪魔で、そのまま下られず、右へ行ったり、左へ行ったり。特に茨だらけで思うようには進めず、遭難するかなと思って、スマホを見たら電波が通じているので、いざとなったら、救命隊を依頼しようかなと。

とにかく、なんとか脱出はできましたが、出てきた場所が、入ってきたところとは大違い、少し行くと先ほどの農業青年と会い。

「変なところから出てきましたね」
「道がわからなくて」
「この神社、何かあったの?」
「自分、この畑を借りているだけで、ほかの町の者で、よく分からないんです」

で、車のあるところまで歩いていると、成人式を4回ばかり行った、昔、若い女性がおり、いきさつを聞いたら、昔は、この一帯
、漁業をしている方がほとんどで、その守り神であったとか。昔は、一年に一回くらいは草払いなど、きれいにしていたそうです。

再建はしたものの、最近は勤め人が多くなり、昔みたいに世話をする人がなく、年寄りも、この急な坂を登るのも無理。神社だから、そまま荒れるに任せるのにも障りがあるだろうと、10年ほど前、魂抜きをしてもらい、そのままにしてあるそうで、上の写真のごとく、荒れ果ててしまったそうです。

最近「廃墟」が流行っているようですが、くれぐれも一人ではいかないように。

近年、地域の産土神を祀った、山の上にある神社など、だんだん廃れていくような感じで、なんとなく、昔から神仏を祭ってきた日本人の心が、変わり始めているような事を思ったしだいでした。






2017年1月20日 (金)

お~!かわゆい!!「肥前狛犬」さん!!!


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島原半島で、肥前狛犬さんを確認できたのが、これで5か所になります。
完全な2体が2か所、後の3か所は片方が、損壊か行方不明。

この神社、と言っても、村の鎮守のといった、小いさな神社ですが。
この神社は一回確認したのですが、その時はありませんでしたが、某氏から、「あの神社の狛犬、肥前狛犬では」と言われ、行ってみたら、はやり無い。無いはずで、社殿の中に安置されていました。なんでも、よく見るものですね。


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肥前狛犬に関しては佐賀新聞に、「多久物語 素朴で愛らしい肥前狛犬」という記事があり、下記のとおりです。

 肥前狛(こま)犬とは、九州北部において16世紀後半から18世紀前半にかけて奉納された狛犬で、素朴で愛らしく、お座りをした姿が特徴で、現在一般的な獅子型狛犬と比べて小型のものが多くみられます。肥前は六地蔵塔や肥前鳥居など、独自の石造物が数多くありますが、とりわけ肥前狛犬は近年人気が高まっています。これらの石造物を手掛けたのは、石工の里として知られる小城市牛津町砥川地区にいた石工たちでした。

砥川は江戸時代、多久領であったため石造物が多く残っており、肥前狛犬は68体確認されているそうです。小さくて、可愛いため盗難が相次いでいるそうです。で、私も場所は明らかにならないように、紹介をしているわけですが・・・

以前にも書きましたが、諫早地方で調査されている方によると、8か所確認できたそうです。2か所ばかり、情報が入ったので、近々行ってみるつもりですが。

可愛いお顔。ペットにしたいくらい。


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ビックリしたのが、上から見た姿。まるで、現代アート。顔のデザイン。頭から背中にかけての天然パーマ、ではなく、巻き毛の文様。しばし、時間を忘れて見ておりました。


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足の間が、掘られているので、多分、後期のものかと思うのですが・・・・

さて、肥前狛犬がなぜ島原半島に点在しているのか、少しヒントらしきものを聞いたので、これは調べ中で・・・いずれまた。



2017年1月17日 (火)

「千々石 温泉神社鳥居『貫』改修之事」~千々石町温泉神社


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昨年、5月16日。温泉神社鳥居の「貫」が破損し、上のような状態でした。

すぐに改修するのかと思ったら、秋祭りを過ぎ、正月を過ぎても改修されず、状況を聞いたら、日本には適当な石が無く、外国に発注をしているとか。ウチの墓も作るとき、同様なことで、外国産の石を使いましたが・・・

で、やっと今日になって改修がされました。昨日、通りがかったら足場が組んであったので、今日行ってみたらちょうど作業中。

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よく見るとわかりますが、私、「貫」の部分は一本棒で柱に差し込んであると思ったら、真ん中の部分と、左右の出た部分、三ケ所からできているんですね。

技術的な問題があるのかと考えてみたら、この「貫」の部分、真ん中のところに「額束」(〇〇神社と書いてある額)を載せるので、重みがかかり、かなりの負担がかかります。割り箸の両端を持って、折ると真ん中から折れていきます。

「貫」が一本棒だったら、一番上の写真を参考に見るとわかると思いますが、鳥居本体にも影響があることが分かります。

「貫」の部分が三つの部分に分かれていると、真ん中だけが破損するだけですみます。

というのは自論ですが、「鳥居における力学の研究」という本がないところをみると、私が、本邦初の「鳥居の力学」を考えた人物だと思うのですが・・・・・

実際、いろいろ鳥居を見ていくと、貫の真ん中の部分だけが、新しいものに変えてあり、左右の出たところは古いという鳥居が多く見受けられ、突拍子もない考えではないと思うのですが・・・

さて、現在はクレーン車などあり、便利ですね。右は橘神社の大鳥居を作って写真ですが、重機もない時代、どうしてあの重い石を引っ張り上げたんでしょう。

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クレーンで、「貫」の中央部分を上げ、片方を入れ、その後反対側を入れますが、「貫」の端の部分と、中央部分には多少の余裕がないと入らないということになります。

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意外と手こずったのが、額束。左が以前の損壊した額束。右が新しい額束。大きさがわかると思います。軽い石もあるそうですが、お値段が高いそうで・・・

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額束は斜めになっていますから、これがなかなかピタリこなく、2回ほどやり直し。

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額束と島木の間に隙間ができ。この間に、木を差し込んで、後でモルタルで固めるとか。

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帰りがけ見ると、隙間はちゃんとモルタルで充填してありました。

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真ん中が新しく見えますが、この「貫」は磨くといつまでも新しく見えるので、苔などついて、早く古く見えるよう、磨かずそのまま使ったそうです。「あと10年すると、古くみえるようになる」とのことですが、それまで、こちらが・・・・

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カミサンは新しいのが良い、(最近は亭主は新しいほうが良い)といいますが、鳥居は古いものが良いですね。


2017年1月13日 (金)

諌早へ初詣(1月2日)


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正月2日に息子家族が帰るので、空港まで送ってその足で、諫早神社、高城神社、鶴森稲荷神社と回ってみました。もう少し早く書こうと思っていたのですが、忘れていて遅くなりました。ボケたかな catface 

この三つの神社にはそれぞれ、いわれがあるのですが、後日、紹介をしたいと思います。

諫早神社。昔は四面宮といい、雲仙の温泉神社(以前は四面宮→筑紫国魂神社→温泉神社へ改名)の分社(現在の千々石、有家、吾妻にもあり)。

以前敷地内に「荘厳寺」があり、神仏混淆の神社でしたが、明治の神仏分離令により廃寺。

やはり、参拝者が多いのか、「3列にお並びください」の看板。神社わきでは、甘酒の接待。いいですね。白魚のような指、甘酒を入れた壺。
某神社に行ったら、むくつけきおじさまが、やかんでついでくれましたが、やはりこちらのほうがいいですね。

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諫早は「うなぎ」の名所ですが、「諫早のうなぎの妖精『うないさん』」。なんとなく、妖精らしくないんですが・・・・2月4日(土)、13時と15時が、「立春福まき」。

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赤の矢印が、「高城神社」。すぐ横が鶴森稲荷神社。テントで隠れてよく見ませんが。


高城神社の祭神は諫早家初代竜造寺家春。元来は諫早公園(眼鏡橋がある所)の頂上に、家春公を祀った「高城明神」がありますが、事情があり、明治15年に本明川の近くに建立。

残念ながら、昭和32年の大水害で大破し、現在の場所に再建されました。

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「ここはゴミ捨て場ではありません 神社の授与品以外持ち込み不可」の看板。正月早々、ゴミ捨てに来る方いるんですかね。まして、神社に。

社務所。いつも人がまばらなのですが、正月はガチャガチャ。甘酒はないかと捜しましたが、ありませんでした。

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手水場、いつか書いた猩々の像。→こちらをクリック①  こちらをクリック②
多分、手を洗っている方、いわれを知らないのでしょうが・・・・・
 
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鶴森稲荷神社。鳥居は高城神社の鳥居と平行に、すぐ近くに建っています。
この神社は、上の写真をみるとおり、高城神社社殿のすぐ隣に建っており、建物も小さいので、高城神社の敷内神社で、どこかの分社かなと思ったら、平成5年に建てられた立派な鳥居があるので、独立した神社でしょう。ただ、社務所などがないところを見ると、宮司さんは両方の神社を兼務しているものと思われます。

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で、この鳥居をくぐって参道を少し歩き、左手に折れると、神社への赤鳥居があります。左の写真で、これを見て、あれ?と思う方は、かなり敏感な方。

実は、「鶴森稲荷大明神」と書いた額束が裏返しになっており、神社を出るとき、「鶴森稲荷大明神」と書かれたのがやっと読めると、普通の神社とは逆になっていて、これについては、一か月ばかり調べて、理由がやっと分かりましたが、これは、また後日。

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という事で、今年は地元三社、諫早三社を回ったわけで、これだけ回れば、今年は良いことがあればと願っているのですが・・・





2016年11月23日 (水)

「島原・雲仙・南島原の昭和」(樹林社刊)~写真は撮るべし・取っておくべし 【付録】橘神社門松作り始まる

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昨日、TSUTAYAさんから電話があり、頼んでいた本が着いたとかで取りに行きました。「島原・雲仙・南島原の昭和」。「予約多かった?」「はい、多いですね」。私の後ろに並んだ方も、「昨日、予約の本で連絡あったけど・・・」。見ると、一緒の本でした。

写真集といえば、すぐに買うのが私の趣味で、昔と今と比べると参考になるところがあります。(ヌード写真は別・実物のほうが良い)


今回の話の写真は残念ながら、この写真集には載せてありません。なにせ、島原半島は昔、1市16町と範囲が広いので、各町数点づつの写真ですが、それでも役に立つところはありました。

さて、平成4年の千々石町老人クラブ連合会で、「懐かしいふるさと写真集」を発行しており、この中で、千々石の氏神様、温泉神社の写真に一枚、興味があるのですが


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現在の同じような地点で撮った写真ですが、上の写真は上側から撮ったような感じです。今は駐車場ですが、多分以前畑があって、そこから撮ったと思われます。

さて、現在、同じような角度から撮った写真。


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違いが分かるかと思いますが、鳥居が一基と二基の違い、境内への入り口の違い、境内のすぐ横に家がありますが、たぶん社務所でしょう。現在は、川を隔てたところにあります。

さて、一番上の写真の赤丸印のところ、写真が荒くよく読めませんが、「一千二百年?祭??」と書いてあるのですが、この、一千二百年が、紀元は一千二百年なのか、神社ができてから一千二百年なのか?

千々石の温泉神社は、雲仙の温泉神社の末社になり、島原半島においても由緒のある神社なのですが、調べてみると「千々石町郷土誌」に次のように書いてありました。

「雲仙の本社である温泉神社一ノ鳥居に『明治三十三年三月 一千二百年祭』と彫ってある。山田社(吾妻町山田・こちらも雲仙の温泉神社の末社になります)で明治三六年に一千二百年祭を執行したとある。」

とありますから、一番上の写真の鳥居は、明治三十三~明治三十六年あたりに建てられたと考えられます。

下の写真、一の鳥居が、「明治三十八年十月」に建てられた、日露戦従賽記念の鳥居です。二の鳥居が「天保四年癸己九月」となっています。

ということは、「天保四年」→「一千二百年祭」→「日露戦従賽記念」の順で鳥居が建てられたことになるのですが、一番上の写真には「一千二百年」の鳥居しか写っていません。考えられるのは、あと二基の鳥居は、もっと奥のほうに建てられ、写真には写らなかった、もしくは、入り口あたりを改築したとき、一時的に解体したか。

いずれにしても、「一千二百年祭」の鳥居が現在もなく、どうなったのでしょう?
大正11年に、「肥前国千々石灘地震」が起こっているので、「一千二百年」の鳥居だけが倒壊したものか。残念ながら、記録がありません。

現在の鳥居、熊本地震の影響でしょうか、鳥居の「貫」部分が抜け落ちているのが分かると思います。

でもって、

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祭りのとき、奉納踊りなどをしますが、その横に皆さんが見る所、ここに、二本の鳥居らしきものがあり、ベンチ代わりに使っていますが、ひっくり返してみると、ひょっとしたら、「一千二百年祭」という文字が現れるかもです。表側は皆さんがお座りになられるので、摩耗しています。

さて、一枚の写真ですが、これだけで色々な事が考えられ、「写真は撮るべし、取っておくべし」ですね。


【付録】

橘神社の大門松づくりが始まりました。


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これから、ひと月あまり、土台作り、また竹を巻いていったりで大変な作業が始まります。休日が主な作業日になるようですが、お近くを通りの際は、ご見学を。






2016年9月26日 (月)

「天満宮」の神送り~雲仙市千々石町天満宮


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昨日は地元の「天満宮」の「神送り」の神事がありました。毎年、紹介をしているところですが、最近は地域の行事などが薄れてきているので、再度取り上げてみました。今年は、自治会長さんが交代をし、初めてのことなので少し緊張気味。

左の写真が拝殿、奥の方が本殿になりますが、「天満宮」なので、御祭神は勿論「菅原道真朝臣(すがわらみちざねあそん)」になります。
本殿には三体の木造の像が安置されています。写真は恐れ多て撮れませんでした。本殿は、いつもは閉めてあります。

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御幣ですが、これが慣れないと作りにくい。ちゃんと、裏と表があるそうです。

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しめ縄にも飾ります。右は玉串奉奠(たまぐしほうてん)ですが、以前書いたように、作法がありますから、指名されたら、その場であわてないように、勉強しておきましょう。

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ということで、無事神様をお送りしたのですが・・・

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神主さんと話をしていると、今、町内の、あちらこちらの地区の神社でも「神送り」をしているとか。考えてみると、一緒に貸し切りバスで行ったほうが、安上がりな感じがするのですが・・・神送り、神無月については以前書いており、詳しくはウィクペディアにも書いてあるので、そちらを参照してください→こちらをクリック

なお、柳田国男「年中行事覚書」(青空文庫でロハで読めます)の「神送りの起源」のなかにも触れてあり、簡略して書きますが、越後の米山の神様は、12月8日に出雲へ旅立って、8月8日にお帰りになる。宮城県内の各地で聞いているのは、神のお立ちが12月8日、お帰りは2月8日、九州その他の神無月を中心とした、神の旅でも、土地により、日にちが違っており、「出発と帰還の日が全く同じではない。三日五日の差ならば遅刻早引の類とも見られようが、こんなに時日を異にしては、まず集会という説明は成立たぬのである。すなわち期間の神々の不在は、別に土地毎の理由に基づくことが考えられるのである。」ということですが、後は詳しく書いてありますので、お読みください。

さて、こちらの「神迎え」は11月23日(勤労感謝の日)、夜の7時から始めるそうですから、興味のある方は、是非お越しを。

【追伸】
確か最近、「成功する人は、なぜ神社へ行く」という本が出版されたようで、皆様も神社を見かけたら、お立ち寄りください。婚活、就活、必ず成功します。
わたくしも、ウチの神様(カミサン)と仲良くできるよう、お参りをしているところでありますが。ネ。




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