神社

2018年4月 6日 (金)

「高城神社(たかしろじんじゃ)」について~長崎県諫早市

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    今日の雨で桜もすっかり散ったようです。先日、諫早公園をブラッとしていたら、お近くの高城神社について思いだしたことがあったので・・・・
  • 下が高城神社。


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    写真左には(鳥居に向かって右側)、「明治十五歳壬(みずのえ)午九月」。
    写真右には(鳥居に向かって左側)、「諫早邑(むら)中敬建」。


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    下が、境内の案内版ですが、赤の四角で囲った所に、神社の由来が簡単に説明してあります。左の方は、神社の見所が書いてあります。
  • 四角の中は、神社が明治十五年に創建されたこと。
    祭神が龍造寺家晴公と菅原道真公の天満宮も祀られていること。
    もとは現在の高城公園にあるも、昭和三十二年の諫早水害で被害を受け、現在地に再建されたこと。
  • が書いてあります。で、いろいろブログを読むと、「明治十五年に建てられた新しい神社」などと書いてありますが、その前段があり、「諫早市史~昭和33年・編集者 諫早市史編纂室」には、「天保十三年八月、家晴の忠魂を追慕し、一宇を城山の頂上に設立し家晴明神と称し、明治十五年二月十六日、その筋の許可を得て、現在の地に移転改築し、神号を高城神社と改称した、此築造に要する費用数万円は、旧領内庶民の寄附になるものである。」とあります。

    なお、諫早水害が昭和32年、諫早市史が書かれたのが昭和33年。本来なら、「諫早水害で被害を受け」と書くべきでしょうが、多分、印刷の訂正が間に合わなかったと思われます。

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    「家晴明神」は、眼鏡橋から山手の頂上に登ったところにあります。意外と(年寄りには)きつい階段ですが、一番上は広々として、諫早市内が眼下に眺められます。
  • 大きなクスノキがあり、国指定天然記念物です。
    忠魂碑があり、「元帥伯爵東郷平八郎書(花押)」と書いてありますが、これが邪魔まで、ここまで来て帰る方がありますが、この裏手。


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    「諫早史談~田中為市著」によると、「第七代目茂晴は祖先の頌徳と子孫の繁栄を記念して、読誦大乗妙典の塔をここ城山の頂上に建て、また第八代目茂行も父の遺志を継いで、読誦誦法華経一万部の塔をここに並べた。」とあり、奥の祠については・・・
  • 「第十一代目茂図は寛政十二年八月に鼻祖藤原鎌足を藤原明神として、また第十二代茂洪は第一代の竜造寺家晴を高城明神として、共に亀の塔の奥に建てた。」とあります。
  • ですから、高城神社の御本尊はここにあるわけで、明治十五年に創建されたといっても、歴史的には深いものがあるわけです。
  • 諫早では、こちらを「旧宮さん」、高城神社を「新宮さん」と呼んでいるそうです。

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    おっかない亀さんですが、これにはいわれがあるのですが、長くなるので省略。

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    右が「高城明神」左が「藤原明神」。なお、諫早は、伊佐早家→西郷家→諫早家に変わりますが、諫早家は竜造寺の流れで、竜造寺は前に書いたように、藤原鎌足の流れになりますから、竜造寺の本姓は「藤原」になります。この諫早の支配者の流れについては、もっか調査中で、いずれ書こうと思っています。

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    あとは面倒なので、説明版をお読みください。クリックすると大きくなると思います。多分。

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  • であとは、諫早水害前に「高城神社」がどこにあったかですが、これが意外と難しく、人に聞いたり、本や地図を調べていると、「ふるさとの思い出写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早市史談会編」に、昭和8年の諫早町全図というのが載っており、必要な部分を切り取って紹介すると。

    赤丸印が「旧高城神社」、赤左矢印が水害前の「眼鏡橋」、右矢印が「県立諫早中学校」となっていますが、現在の「諫早高校」。緑の〇印が現在「眼鏡橋」がある所。青の矢印が、上に書いた「大明神」がある所。

    ですから、水害前の「高城神社」は、本名川沿い、諫早高校の裏手側、諫早公園の芝生広場あたりだと分かると思います。


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    「ミニ眼鏡橋」の後ろの所に大きな木がありますが、根元をみると石仏、五輪の塔碑などの残骸があり、神社があったことをうかがわせます。

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    〇印が「大悲観世音像」。大体、この広場あたりが、「旧高城神社」があった所だと思います。

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    なお、有名な神社だから写真があるだろうと思っていたら意外となく、やっと一枚見つかったので、下に載せておきます。

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    (「ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早史談会編」より)

    「明治十五年創設だから新しい神社」ではなく、調べると歴史が見えてきます。観光的に見るのではなく、ブログに書かれる方は、もう少し調べてもらいたいと思います。

    なお、諫早は私の調査範囲外の所で、「私、嘘つかない、でも間違いはある」という事で、間違いがあったら、お許しを。


  • 2018年1月10日 (水)

    石作り本殿「野田神社」~雲仙市千々石町

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    野田地区の産土神、野田神社。

    先日、拝殿を改築したと言うことで、ちょっと見に行きました。
    ほんと、イヤですね、この階段。神社は階段があるところが多いので、歳の身はこたえます。

    本殿を見て驚きました。石造り。以前紹介した、高来町の湯江神社も石作りで、こちらは、それより小ぶりでしたが、石造りは石造り。


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    屋根ももちろん石作り。
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    境内に2本標柱がたっていますが。

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    大きいのには、「拝殿改築記念」。昭和30年竣工。古いのには、「神殿奉築(?)」。明治19年。

    ですから、神殿は明治19年の造営になります。西暦1886年。132年前に作られたことになります。多分。


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    拝殿と本殿を繋ぐ通路ですが、煉瓦造りです。残念ながら、明治のものか、昭和のものかは分かりません。以前は窓というか、風通しの穴はそのままでしたが、いまは、プラスチックで覆われていましたが、なんとなく、この十字型気になりますね。隠れキリシタンとは、まったく関係ありません、

    少し下の所に、石祠があり、「神社」としか彫ってありませんでした。


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    で、思い出して、明治2年の神社明細帳調べを調べると、「但 勧請年歴不詳 本称熊野権現明治二己巳年旧島原藩改社号祭日十一月一日。」ですから、明治2年に「熊野権現」から「野田神社」に変わったことがわかります。

    明治時代まで、神社とお寺と一緒の神仏習合の時代がありましたが、明治になり、神社とお寺ははっきり分かれました。神仏分離です。

    「深溝世紀(島原藩正式記録)」、に次のように書いてあります。

    「神仏混淆を禁じ、別当・社僧をして髪を蓄え、烏帽(風折)・浄衣を服し、神主、社人と転称せしむ。」「中古以来某権現・牛頭天王等の類甚だ多し。その他仏像を以て神体を為し、本地の説を唱えて祠頭に仏具を並ぶるは、自令之を禁ず」。

    ということで、この神社の本来の名前、「熊野権現」は「野田神社」に変わっていくわけです。なお、「温泉神社」も元来は「四面宮」。愛野町の「日枝神社」も元来の名前は「山王社」です。

    さて、神社の鳥居の扁額には「野田神社」と刻まれていますが、「熊野権現」の名残がないかと思ったら、ありました。

    階段の下、〇印のところ。

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    上の「熊」の字が割れて無くなって「大」が入って、「権」が読めますから、本来は、「熊野大権現」でしょう。


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    階段がきついですが、神社にしては変わった神社です。

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    暇はあるが金はない、という方、お近くの小さな神社でもお立ち寄りください。なにか、面白いものに出会うかもしれません。お参りしてくれば、ご利益もあります。


    2017年12月 4日 (月)

    「正月を前にいろいろと」~雲仙市千々石町

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    正月を前に、なにやら忙しくなってきました。昨日は、氏神様の温泉神社で秋季大祭のお礼、報告。福石様のしめ縄作り、市の産業祭り(時間の都合で、私は行けませんでしたが・・・)。

    神社の行事のあと、私の方は「福石様のしめ縄」作りへ。藁は2トンばかり用意したそうですが、しめ縄の長さは20㍍。

    数年間、しめ縄を張ってなかったのですが、はやり、しめ縄がないと格好がつかないなと、「福石様しめ縄保存会」を3年前作り、3回目です。

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    右にねじりながら、左の人に渡していきますが、これを、しっかりしていないと、しめ縄がだらしなくなります。

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    しめ縄を張った後は、神主さんがこられ、安全祈願のお祓い。いつの間にか、2,3名カメラを持った人が。私の、現品処分1万円のデジカメでは、一番上の写真が限度。

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    「温泉神社」の内側ですが、何となく身が引き締まります。奥の方が本殿なのですが、神職の方以外の方は入れません。

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    帰りに、橘公園に寄ったら、「大門松」がほとんど出来上がり。あとは、飾り付けを待つばかり。長崎新聞の「暮らしのカレンダー はっとって」によると、今月23日(土・天皇誕生日)に「大門松竣工式」が午後から行われるようですが、詳しい時間は神社までお問い合わせください。


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    ということで、正月までもうすぐですが、とにかく、年賀状を書かなくっちゃ。




    2017年10月16日 (月)

    2017 温泉神社秋季例大祭~当番名・木場名

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    以前にも書いたように、千々石には7つの名(みょう)があり、毎年、各名持ち回りで祭りの当番名になります。

    木場名の岳地区というと棚田が有名で、米がおいしくウチも一年分玄米で買って、家庭用の精米機で精米をして食べていますが、水がきれいなところなのでおいしいですよ。

    祭りは7年に一回ですが、当番名は夏頃から練習を行い、大変です。祭りは昨日の日曜日でした。

    大体、秋祭りというと、青空が広がりいい天気なのですが、この日は雨。前の夜から、ひどい雨が降っていたので大丈夫かなと思っていたら、朝からも雨が止まず、奉納踊りをする場所もべちゃべちゃ。


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    昔は、おみこしは担いで御旅所まで行っていたのですが、最近は左の道具の上におみこしを載せて引っ張っていきます。
    が、今日は雨がひどく、ご覧のようにシートを被せて御旅所までトラックで運送。


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    奉納踊りは、木場地区の第2小学校体育館で開催。さすが、ピッタリ息があっています。できれば、御旅所で見たかったのですが・・・・

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    後ろ姿も良いですね。

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    太鼓も見ていると大変です。笛は縦笛を使っていましたが、横笛より楽なんでしょうか?

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    木場名には、桂之迫(かつらのさこ)、飯岳(いだけ)、高野、西中組、東中組、己ノ鍔(みのつば)、白仁田(しろにた)、下岳(しもたけ)、上岳の9つの地区があり、各々記念写真を撮っていたので、順不同で載せてみますが、人数の違いが分かりますね。一番下の写真は役員さん方です。

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    帰りがけ、福石公園の御旅所に寄ったら、かなりの水たまり。

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    神様も寂しそうで、奉納踊りを見たかったものだと思いました。

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    【付録】
    昼食を食べる暇もなく、出演者のお弁当を見ていたら、一ついただきました。感謝いたします。右は、かの有名な「ひまわりテレビ」さんで、カメラマン、アナウンサーその他いろいろやっている、年齢不詳の美女さんです。


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    2017年7月12日 (水)

    「あ~勘違い、私馬鹿よね・・・」~住吉神社

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    最近は、昔の絵葉書、写真から複写する会社もあるようで、「長野電波技術研究所附属図書館」という所を見ていると、おや!肥前鳥居ではないですか。しかも、堂々たる風情。

    さっそく写真を取り寄せると、「長崎住吉神社」とあり、調べると長崎市内の住吉にある住吉神社ではありませんか。

    ということで、お出かけしました。我が家から、約1時間弱。ああ~また、肥前鳥居が見られると、心は踊る、血は騒ぐ。

    で、着いてみると、一の鳥居は明神鳥居、鳥居横の看板ですが、なんとかなりませんか?


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    階段上に二の鳥居がありますが、これもよく見る明神鳥居。写真は省きます。

    本殿ですが、一目で新しいものだとわかります。


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    拝殿横に左のような説明が書いてあります。境内には看板等にはいろいろと書いてありますが、多分これが一番新しいもののようで・・・


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    多年の風雪に耐え 今日まで頑強にて保存して来るも参詣の利便を配慮し全面改修し新設す 尚石材は遠路中国福川市より搬入す 工費 壱千八百五拾万円

                          平成八年十二月吉日 住吉神社奉賛会


    ということで、神社改修の時は鳥居も変えることがありますから、肥前鳥居さんも変えられたのかな?とは思ったのですが・・・・右の説明版は長崎市が設置したもものです。


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    原爆投下時、社殿、社務所は倒壊、全焼するものの階段下の鳥居とこの狛犬さんは、そのまま残ったそうです。ということは、肥前鳥居はその時倒壊したとも考えるのですが・・・

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    神社横に、稲荷神社があり、ついでにお詣りしてきましたが。

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    下の狛犬さんがおられまして、何と言いますか、「肥前狛犬」さんの感じがするんですね。どちらとも判断がつきにくく、野球の審判が、ギリギリの球をストライクにするか、ボールにするか迷うのと一緒です。いずれにしても愛嬌のある狛犬さんでした。

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    途中に左のような石祠があり、「山崎大神」と書いてありましたが、調べても意味はよく分かりませんでした。

    で、横に狛犬さんがおられるのですが、これも、どうにも分からない感じ。


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    家に帰って、私、しつこいので、「住吉神社」を再度ネット調べると壱岐にもあって、「IKINavi」という観光紹介のブロブがあり、それに壱岐の写真が載っており、下の写真ですが、一番上の写真と比べるとわかりますね。一緒です。

    ということで、上の写真は「長崎」の住吉神社ではなく、「壱岐」の住吉神社でした。

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    鳥居の左右が気に隠れて見えせんが、しつこく別のブロブを調べたら、ありましたね。まさに、肥前鳥居。

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    ということで、暑い中、車で2時間かけて行って、違っていたとは、「あ~勘違い」で、ちゃんと調べて行くべきで、「私馬鹿よね~」と思い知った一日でした。




    2017年7月 8日 (土)

    「茅の輪くぐり」と「蘇民伝説」~千々石町橘神社


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    「茅の輪くぐり」ですね。

    くぐり方は以前にも書きましたが、一礼して、くぐって左側へ回り、次にくぐって右に回り、要するに8の字を書くように回り、もう一度左へ回ってくぐり、そのまま社殿へと向かいお参りをします。

    さて、この茅の輪をくぐるとき、「祓(はらい)へ給へ清め給へ」とか「守り給へ幸(さき)わえ給へ」と唱えながらくぐりますが、「水無月の夏越の祓いする人は 千歳の命延ぶというなり」「思うこと みなつきねとて麻の葉を きりにきりても祓いつるかな」とも唱えそうですが、あとの言葉を唱えながら回ると、あれ?いま何処を回ったっけ、と言うことになるので、前者の言葉をお使いください。

    ところが、最後に唱える言葉として、「蘇民将来 蘇民将来」と書てあるので、「蘇民」というと、あの、速須佐雄能(すさのう)神と関係ある話かな、と思って調べると、やはり関係ありました。

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    神話、伝説、伝承等に関係することで、解釈にいろいろあるようですが、夏で暑いので手っ取り早く書くと。武塔神(速須佐雄能神のこと)が旅をし、途中、宿を借りにいきますが、裕福な巨旦将来には断わられ、次に、貧しい兄の蘇民将来の所に行き、もてなしを受けたそうです。

    後日、再訪した武塔神は蘇民の娘(兄という話もあり)に茅の輪をかけ、娘を除く蘇民全部を殺し(弟の巨旦将来一族のみという話もあり)、本当の自分の名前(速須佐雄能神)を名乗り、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたそうです。

    このような話から、茅の輪をくぐる事により、無病息災、また、罪を祓うということになるわけです。なお、速須佐雄能神は弟一族のみならず、兄一族も殺したという説もあり、とにかく、速須佐雄能神と言えば乱暴者で有名です。速須佐雄能神は建速須佐之男命、素戔男尊素戔嗚尊等とも表記されます。

    「民俗小辞典・神事と芸能」によれば、京都八坂神社の祇園祭のとき、「参詣者は『蘇民将来子孫者也』と記す護符の付いた粽を受けて疫病除けとする。」そうです。京都には行ったことがないので、よくは知りませんが・・・・




    2017年7月 6日 (木)

    「続・おもしろい!進化の不思議 ざんねんないきもの事典」~今泉忠明監修

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    昨年7月、この本の第1弾を紹介しましたが、あれから1年、続編が出版されました。

    柳の下にドジョウはなんとやら、という格言がありますが、いるところにはいますね。今日は、暑さを忘れ笑い転げて読んでいました。

    最初は、進化についてイラスト入りで書いてありますが、これくらい分かりやすいと勉強も好きになっていたんですが・・・・・

    表紙を開いたところに、こう書いてあります、「ざんねんないきもの」とは一生けんめいなのに、どこかざんねんな いきものたちのことである。」

    読んでみて、みんな一生けんめい生きているのに、なんとなくユーモラスというか、カワイソウというか、というような生き物の話です。

    ■サバンナモンキーの金玉はスカイブルー

    このモンキーについては、ネットで見られます。実に見事な色の金玉です。金色ではありませんが、驚くほどきれいなスカイブルーの色をしています。ぜひネットでご覧ください。びっくりします。
    といっても、旦那さん、もしくは彼氏の金玉に真似をして、スプレーを吹き付けないように。

    ■ブタはデブじゃないのにデブだと思われている

    一般的な人間の体脂肪率が20パーセント、ブタの体脂肪率は15パーセント、生まれたての子ブタは2パーセント。
    ようするに、太って見えても、中身は筋肉ということになります。ですから、太った方をみても、「ブタ」とは言わないようにしましょう。

    ■オシドリの夫婦はじつは毎年相手が違う

    仲の良い夫婦を、「オシドリのような夫婦」と言います。が。
    オシドリのオスは交尾がすんだらどこへ消え、次の年になると再びペアを作りますが、たいてい前の年とは違う相手だそうです。
    ですから、「オシドリのような夫婦」というのは、間違った意味になりますので、「あなたがた、オシドリのような夫婦ね」とは言わないようない。

    ■アマツバメは命がけで眠る

    ヨーロッパアマツバメは10か月間ずっと飛び続けていた、という調査があるそうです。
    まとまった睡眠はとれないので、空高く舞い上がり、落下しながら眠るそうですが、この間、1~2秒。これで、睡眠取れるんですかね。ナポレオンどころではありません。

    ■チンパンジーは愛想笑いをする

    チンパンジーは好戦的で、「群れの中で『誰が一番か』ということをとても気にしています。」だそうですが、「自分より強い相手には愛想笑いまでしています。」ということで、チンパンジーも忖度をするのかな?


    あと、「フラミンゴが片足立ちするのは水が冷たいから」「カ(蚊)は血なんかすいたくない」「キリンは長い舌で鼻くそをほじる」「カビバラはおしりをグリグリされると寝てしまう」「トラは笑っちゃうほど狩りがヘタ」「サメは泳ぎ続けないとどんどんおぼれてしまう」「ウマは全力で走ると死ぬ」「バンドウイルカは方言のせいで会話が通じないことがある」等々、これ、ほんまかいな?というお話がたくさん載っています。どこから読んでもよく、特に、子供さんと読むと喜びますよ。






    2017年3月17日 (金)

    「湯江神社」★石造りの神殿!~諫早市高来町

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    高来町湯江神社の三の鳥居になります。

    この地域、まだ詳しく知らないことがあり、若干間違いもあるかと思いますが。そこは、おおらかな気持ちで・・・・

    「諌早街道をたずねて(山崎諭著)」と「高来郷土誌」を基に書いてみたいと思います。

    ここへ来たのは、前に、「善神古墳」に来た折、横の鳥居の扁額に「老松神社」と書いあり、行ってみようかと思ったのですが、なにせ見たら階段が長くて、という事でやめました。

    あとで調べると、この神社は「老松神社」、「八幡神社」が昭和26年に「湯江神社」に合祀とあり、「八幡神社」は「通瀬大明神」と「若宮神社」が明治8年「八幡神社」に合祀と書いてありました。

    で、この、「湯江神社」の所を読んでいると、「神殿は石造りで、文化10年(1813)、寄付者赤司藤兵衛とある。諫早家四代領主茂真公の石廟にも負けない位のもので、赤司家の財力がおしはかられる」と書いてあるじゃありませんか。

    普通神殿というと、木造ですが、「石造り」と聞けば行かないわけにはいかないじゃないですか。

    一の鳥居と二の鳥居は、「老松神社」、平成21年に造られた三の鳥居は、「湯江神社」の扁額。一の鳥居については少し面白い事があるのですが、これは、後で。

    階段ですね。「高来郷土史」には「二百数十段の石段を・・・」とあり、200段というと足が持つかなと登ってみたら、132段でした。


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    登り切った所が一番上の写真。

    写真に写っているのは、拝殿ですから裏へ回ってみれば、お~ありましたね。
    全部石造りで、石造りの神殿とは珍しい。しかも、立派。


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    ちなみに、「諫早家四代領主茂真公」の墓。こちらのほうが、少しすっきりした感じかな。もちろん、こちらも石造りです。

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    しかしながら、狛犬さん、いい感じ。しかも、木鼻も石造り。いい細工してますね。

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    裏に回ったら、壁面に文字が彫り込んであり、

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    真ん中の柱、「文化八年十一月吉日 宮司田島伊豫(旧字ですが、パソコンでは出ません)」、年代が郷土誌の「文化10年」とは少し違うみたいですが・・・・

    左の柱、「昭和四十四年十月解体修理施工 石工 横田理一」

    下の丸印に、庄屋、世話役の名前があります。「赤司藤兵衛」さんの名前がありました。隣が、庄屋さん。でしょう。

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    とまあ、他ウロウロしていたら、多分、板碑ですね。でもって、階段を登らなくても車の道がちゃんとあり、なんのため苦労して、階段を登ったんでしょう。

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    どういうわけか、「太良嶽」と書かれた、鳥居のみ。
    で、神殿の後ろを見たらびっくり、なんとキリシタン墓地。

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    そのまた裏は、お寺の墓地。こちらは、下のほうにお寺が見えたので、理由は分かりましたが、キリシタン墓地の理由がわからない。年代が書いてあったので見たら、古いので1960年前半。で、ちょうど作業をしている方がいたので聞いてみたら、「教会があって、養老院もあるようですよ」。

    で、見るとありました。後で、調べると、「カトリック湯江協会・養護老人ホーム聖フランシスコ園」。ということで、全部わかりましたが、神社にカットリック墓地、お寺のお墓と3つもまとめてみられるのは、ここぐらいでしょう。赤い丸印、しっかりと十字架がありました。

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    少し話を前に戻して、第一の鳥居。写真ではわかりにくいので、説明だけで。

    作られた時期が、「貞享三歳(年)」と読めました(多分)。あと「佛陀智?無量無邊(?)」、そして、「金仙寺末院嵩智勝寺」、「??嶽大権現」、??は多分「太良」だと思うのですが。

    神社の鳥居に、仏教の寺の名前などが彫りこんであるところを見ると、モロ、神仏習合だとわかります。

    なお、この鳥居、「高来郷土誌」には八幡宮について触れてあり、「この三神(八幡神社)を老松神社に合祀し湯江神社となった。鳥居は三ノ鳥居(最上段)に移されている。」とは書いてありますが、写真でご覧の通り、三ノ鳥居は平成時代のもので、多分、何かの折、入れ替えたのではないかと思います。

    なお、「諫早街道を訪ねて」には、「八幡神社は江戸時代の貞享年間の創立で・・・」と書いてあり、鳥居に彫られた、「貞享三歳」と合致しており、第一の鳥居は「八幡神社」の鳥居を移したものだと思います。多分。


    【おまけ】

    先日、「善神古墳」の石室に、文様が書かれていることを書きましたが、写真を撮ってきたので、おまけです。

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    2017年1月27日 (金)

    今日はこんな所へ!

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    今日は、某神社関係で分からないことがあり、詳しい人に聞きに行き、ついでに、ほのかの情報も聞いたので、そちらへ行ってみたら成果がありましたが、これは、また後日まとめます。

    さて、帰ろうかなと思って、スマホナビを見ると、
    すぐ近くに「金毘羅神社」があるじゃありませんか。

    で、少し大きな神社かなと思い、せっかくだからと寄る事に。とっころが、ナビで見ると近くなのですが、入口が見つからない。

    畑があり、農業青年がレタスを取り込んでいるので
    「金毘羅神社どこですか?」
    「このすぐ上ですが、荒れ果てていけません」
    「全然?」
    「道もわからないですよ、やめたほうがいいですよ」

    やめろと言われれば、行きたくあるじゃありませんか。

    途中までは道はあるものの、言われたように、あとは薮で、道が全然わからない。

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    やっと行き着いたところが、上の写真、間違いなく、「金毘羅神社」の額。鳥居は鉄製で近年のもの。

    社殿は小さいながらも、コンクリート製で、柱はタイルなど貼ってあって、モダン。
    入口を開けて、ご本尊を拝もうと思ったら、扉が全然開きません。

    普通、神社といえば神様が宿っているところで、きれいに掃除などしてありますが、人が来た跡は全くなし。裏にも回りましたが、なにもありませんでした。

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    左右に、ツタに絡まれた塊があったので、取り去ってみると狛犬さん。

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    ひょっとして、この神社、何かあるのかと思いつつ帰ろうとしたら、道がわからない。直滑降しようと思ったら、昔は、神社の近くまで畑があったのか、畑の石垣があちらこちらあり、邪魔で、そのまま下られず、右へ行ったり、左へ行ったり。特に茨だらけで思うようには進めず、遭難するかなと思って、スマホを見たら電波が通じているので、いざとなったら、救命隊を依頼しようかなと。

    とにかく、なんとか脱出はできましたが、出てきた場所が、入ってきたところとは大違い、少し行くと先ほどの農業青年と会い。

    「変なところから出てきましたね」
    「道がわからなくて」
    「この神社、何かあったの?」
    「自分、この畑を借りているだけで、ほかの町の者で、よく分からないんです」

    で、車のあるところまで歩いていると、成人式を4回ばかり行った、昔、若い女性がおり、いきさつを聞いたら、昔は、この一帯
    、漁業をしている方がほとんどで、その守り神であったとか。昔は、一年に一回くらいは草払いなど、きれいにしていたそうです。

    再建はしたものの、最近は勤め人が多くなり、昔みたいに世話をする人がなく、年寄りも、この急な坂を登るのも無理。神社だから、そまま荒れるに任せるのにも障りがあるだろうと、10年ほど前、魂抜きをしてもらい、そのままにしてあるそうで、上の写真のごとく、荒れ果ててしまったそうです。

    最近「廃墟」が流行っているようですが、くれぐれも一人ではいかないように。

    近年、地域の産土神を祀った、山の上にある神社など、だんだん廃れていくような感じで、なんとなく、昔から神仏を祭ってきた日本人の心が、変わり始めているような事を思ったしだいでした。






    2017年1月20日 (金)

    お~!かわゆい!!「肥前狛犬」さん!!!


    Photo_7
     Photo_8

    島原半島で、肥前狛犬さんを確認できたのが、これで5か所になります。
    完全な2体が2か所、後の3か所は片方が、損壊か行方不明。

    この神社、と言っても、村の鎮守のといった、小いさな神社ですが。
    この神社は一回確認したのですが、その時はありませんでしたが、某氏から、「あの神社の狛犬、肥前狛犬では」と言われ、行ってみたら、はやり無い。無いはずで、社殿の中に安置されていました。なんでも、よく見るものですね。


    Dsc_0311_2_3

    肥前狛犬に関しては佐賀新聞に、「多久物語 素朴で愛らしい肥前狛犬」という記事があり、下記のとおりです。

     肥前狛(こま)犬とは、九州北部において16世紀後半から18世紀前半にかけて奉納された狛犬で、素朴で愛らしく、お座りをした姿が特徴で、現在一般的な獅子型狛犬と比べて小型のものが多くみられます。肥前は六地蔵塔や肥前鳥居など、独自の石造物が数多くありますが、とりわけ肥前狛犬は近年人気が高まっています。これらの石造物を手掛けたのは、石工の里として知られる小城市牛津町砥川地区にいた石工たちでした。

    砥川は江戸時代、多久領であったため石造物が多く残っており、肥前狛犬は68体確認されているそうです。小さくて、可愛いため盗難が相次いでいるそうです。で、私も場所は明らかにならないように、紹介をしているわけですが・・・

    以前にも書きましたが、諫早地方で調査されている方によると、8か所確認できたそうです。2か所ばかり、情報が入ったので、近々行ってみるつもりですが。

    可愛いお顔。ペットにしたいくらい。


    Photo_9

    ビックリしたのが、上から見た姿。まるで、現代アート。顔のデザイン。頭から背中にかけての天然パーマ、ではなく、巻き毛の文様。しばし、時間を忘れて見ておりました。


    Photo_10

    足の間が、掘られているので、多分、後期のものかと思うのですが・・・・

    さて、肥前狛犬がなぜ島原半島に点在しているのか、少しヒントらしきものを聞いたので、これは調べ中で・・・いずれまた。



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