雲仙鉄道

2022年9月16日 (金)

雲仙鉄道~しつこく「木津トンネル」の写真の事

2_20220219183301_20220915210201

雲仙鉄道についてはかなり書いたので、もう書くことはないと思ったら、もう一つ、トンネルの写真についての話です。

上は旧雲仙鉄道の駅跡に設置された記念碑。左の機関車の写真の事については以前詳細に書きました→こちらをクリック

今回は、右のトンネルの写真についてです。以前書いた「木津トンネル」→こちらをクリック

下の左の写真は「雲仙」という本の中に載せてあります。発行は「雲仙岳後援會 長崎県庁内 昭和2年9月5日」。

昔の新聞を調べていると、これとまったく同じ写真が新聞に載っていました。

Tunnel  Img_7968  

下は写真の記事を拡大したもの。新聞は「大阪毎日新聞」ですが、「新日本八景」は大阪毎日新聞社、東京日日新聞社主催、鉄道省後援なので、雲仙の宣伝に力を入れたものだと思います。

Img_7974

ということで、新聞の写真と「雲仙」の写真の関係についてまとめてみると。

➊小浜鉄道 昭和2年3月10日開業 6月諫早~小浜直通
❷「日本新八景」 昭和2年7月6日新聞発表 大阪毎日新聞社 東京日日新聞社主催 鉄道省後援 
❸新聞発行日(上の写真) 大阪毎日昭和2年8月30日
➍「雲仙」雲仙岳後援会(長崎県庁内) 昭和2年9月15日発行

こうしてみると、すべて昭和2年に固まっています。「雲仙」を発行した「雲仙岳後援会」については長崎県庁に問い合わせをしましたが、まったく分からないとの事でした。

なお「雲仙」は写真集になりますが、新聞の写真は各社のカメラマンが撮るので、トンネルの写真は、大阪毎日新聞の社のカメラマンが撮影ったものを、長崎県庁が借りて掲載したと思うのであります。

ただ、記念碑の写真は建てられた年代からすると、「雲仙」から借用したものだと思われます。


 

2022年2月20日 (日)

雲仙鉄道~しつこく「第1号機関車について」これで〈お・し・ま・い〉


温泉鉄道の廃駅には、ご存じの通り記念の碑が設けられ、写真が焼き付けられています。こちらは愛津駅の記念碑。

1_20220219183301 2_20220219183301

写真の左の機関車については、二つの疑問があるようです。

①汽車が走っている場所は?

②機関車の前に”1”という字が見えます。昭和2年~7年まで島原鉄道、温泉鉄道、小濱鉄道で諌早~小浜まで直通運転をしています。ということもあり、日本で走った第1号機関車が島原鉄道を走っていたので、記念碑の機関車がそうではないか?との意見があります。

この②については、ブロブ等に第1号機関車だと掲載されているものがあります。

まず、①については、記念碑の写真と比べればすぐに分かるのですが・・・千々石で聞くと、誰でも「曲(まがり)」と答えます。写真右手が岩礁になっているのは、千々石断層の下の海岸、千々石湾しかありません。


②については以前、この機関車の来歴と共に書きました→こちらをクリック。


3_20220219183401 4_20220219183401

下の写真、以前、ネットで流れていた物をスクリーンショットで紹介しましたが、今回は本物です。クリックするとハッキリと分かります。

「鐵道趣味 昭和10年10月號 秋季特別噌大号」。鉄道は昭和13年に全面廃止になるので、貴重な写真です。
記念碑の写真は、下の写真の薄く囲んだ部分を切り取った物です。現物の写真があったのか、この雑誌から取ったのかな不明。

以前に紹介した説明文は、途中、読めなくなったりしたところもあったので、下に正確に書き写してみます。以前に紹介済みですが、場所、汽車の種類等分かるかと思います。 


0_20220219183301


雲仙鐵道


No.1機関車の索引の上がり愛野村行混合列車が千々岩(ちぢわ)を出發、雲仙を背景にした千々岩彎副ひの線路をやって来ます。

雲仙鐵道の蒸氣列車は1日1往復しか運轉されず、他は全部ガソリン・カーばかりです。
No.1機関車はNo.2機関車と共に0-6-0形の𦾔省有1040形式のものであります。1040形式と云えば日本鐵道が明治27年大宮工場に於て6輌(Nos.401~406)製造した物で、現在も尚判然と其の銘板が取り付けられて居ります。
撮影者が「與縄恒雄」氏。


写真説明の中「ガソリン・カー」は左の写真です(写真は「島原鉄道100年史 夢ある未来をめざして」より)。このガソリンカーが昭和10年頃には、鉄路を走っていたということです。

オマケに、右は「口之津鐵道 0-6-0形機関車 No.20」(同上より)です。

5_20220219183501  Img_20220219201201

さて、トンネルの機関車の映像、海岸沿いを走る機関車の映像で、雲仙鉄道は最後まで蒸気機関車と思っていたら、違っていたんですね。

この機関車については、以前よりしつこく書いてきましたが、全貌が明らかになったので、「第1号機関車」
については〈完〉になります\(^o^)/。



2021年1月27日 (水)

「小浜鉄道・株券払込み証」★小濱鐵道~私としたことが・・・

Photo_20210127202901

以前、雲仙鉄道(温泉軽便鉄道・小浜鉄道)については長々と書きましたが、この鉄道の資料が少なく、探していたのですが・・・

某日、ネットオークションを見ていたら上の証書が出品されていて、なんと「小濱鉄道株式會社」。ということで、そのままポチしました。


ところがですね、見ているとなんとなく違和感を覚え、なお、よく見ると日付が「明治30年6月12日」。


千々石~小浜間の小濱鐵道株式會社設立が大正10年。開業が昭和2年。ということは、明治30年に株式発行しているのは何でも早すぎる。ということで、よく見ると、印章の所「小濱鐵道株式會社大津支部印」。「大津」という地名は千々石~小浜間にはありません。

と言うことで、「小濱鐵道株式會社」「小濱駅」「大津」等々を調べるとありました。多分、こちらですね。


「明治4年、京都府は敦賀・小浜への鉄道を計画。若狭では小浜・熊川・今津・大津間、舞鶴・小浜・敦賀間の2路線の鉄道計画が起こる。28年に10月に小浜鉄道株式会社(小浜・今津間)、11月に若狭鉄道株式会社(熊川・敦賀間)が出願、12月に合併して小浜鉄道に・・・」なお、明治43年3月の「鉄道敷設法」改正で、官営鉄道の敷設に決定されたそうです。→こちらを参照


雲仙の「小浜駅」の最初の駅名は「肥前小濱駅」。以前「『小濱駅』は若狭にあるため『肥前小濱駅』になったそうです」と書いていました。最近はボケ気味で、すっかり忘れていました。


ですから、若狭の小浜駅はこちらの方ですね。私の早とちりで、株券払込証を入手しましたが、なにかのご縁だと思って大切に取っておきます。とにかく、私としたことが、でした。

とはいっても、これで、若狭に「小濱鐵道株式會社」があり、「小濱駅」があったことがハッキリしたわけで、これはこれで収穫があったわけで、800円で落札したので、お安い買い物でした。




2020年10月11日 (日)

「雲仙鉄道廃線跡(千々石)」~一枚の絵葉書より

Photo_20201010204001 Photo_20201010204002

千々石というと、この風景の写真、絵葉書がよく見られます。もちろん、雲仙が国立公園に制定されたこともあるでしょうが。

白黒の絵葉書を4枚ばかり手に入れましたが、雲仙鉄道の線路が左側に見えます。同じような風景でも、よく見ると撮影の場所、アングルなど違っています。雲仙岳の風景を見ると、少しづつ違うことが分かると思います。

雲仙鉄道と関係があることをざっと書くと、大正12年5月5日、愛野~千々石間、温泉軽便鉄道開通。昭和2年3月10日、千々石~’肥前小浜(小浜)間、小浜鉄道開業。昭和13年8月15日全線廃業。この間、昭和9年に雲仙が国立公園に。

ということで、一番上の写真「12.8.11」の日付があり、大正12年でしょうか、廃線前年の昭和12年でしょうか?悩む所です。

下の絵葉書は「7.1.10」の消印があるので、昭和7年。

Photo_20201010204003 Photo_20201010204101

下は外人さんが使ったものですが、切手が剥がされ日付が分かりません。

Photo_20201010204201 Photo_20201010204202

こちらは「4.12.?」ですから、昭和4年。珍しく、汽車が煙を吐きながら走っているのが見えます。この絵葉書は以前にも出しました。

Photo_20201010204301 Photo_20201010204302

下が今回入手した絵葉書。

ネットで、雲仙鉄道の木津~富津の緑のトンネルなどはよく紹介されます。ただ、鉄道が廃止になったから、すぐに道路が舗装されたわけでもなく、富津付近の婆様を捕まえて聞いたら、鉄道が廃止になった後、線路が外され、その下の砂利はそのままで、その上をバスが走り「ガタガタして走っておった」ということでした。


赤い線が線路があった所。右の写真、同じ所を見ると草に覆われていることが分かります。今から40年ほど前だったか、千々石に赴任してきた頃、雲仙鉄道の事も知らずこの道を車で通ろうとしたら、とてもじゃなく引き返した記憶があります。


Photo_20201010204401   Img_20201010_0010_20201011105801   

昨日、撮ってきた写真ですが、赤い線の所、舗装されています。この道は千々石~愛野へ通じている道ですが、断層の下にあるので現在でも大雨、台風が来ると崖崩れがあり通行不可能になることもあります。

この道が舗装されるにあたり、千々石にはメリットがあるものの、愛野にはなんのメリットも無いということで揉めたという話しを聞いたことがありますが、私のごとき下っ端には詳しいことは分かりませんが・・・写真の部分は一度拡張をした覚えもあります。
       
  6_20201010205201 Pa101610_20201010210001  

この道が草に覆われていたということは、若い方は知らないことだと思いますが、一枚の絵はがきが微かながら記録をしていました。チョットした事ですが、一枚の絵はがきに留められた歴史だと思います。廃線が昭和13年ですから、長い間そのままになっていたと推察できます。

さて、最近お土産屋さんに、無いんですね。「絵葉書」。考えれば今やスマホをほとんどの人が持っていて、絵葉書は売れない時代になりました。残念な事ですが。あ~、そういえばお土産の「木刀」もありませんでした。両方とも修学旅行の時買って来たんですが。

★各写真はクリックすると拡大します。


2020年7月23日 (木)

「小浜鉄道のトンネル」★私としたことがm(_ _)mそして「パールバックと木津」

Img_20200710_0002_20200723191701 Goggle
                                       (GoogleEarthより)

7月12日の記事で小浜鉄道のトンネルについて書きました。→こちらをクリック。

その折り、左の写真を「絶対に『富津トンネルだ』」と書きましたが、私のチョンボでした。トンネルの写真を見ているうちに、アレ、後ろに移っている所「木津」じゃない?と思ったわけです。


右のGoogleEarthの地図はクリックすると拡大します。トンネルは3ヵ所。分かりやすく、上から1号トンネル、2号トンネル、3号トンネルとします。地図の上の方から出発すると、第1号トンネルの出口からは木津は全く見えません。


第2号トンネルの出口しか該当する所はありません。ということで、行ってみました。ところが、出口の右側は木が生い茂り、海側は全く見えません。


トンネルの出口から50メートルほどのところに、茂みが切れているところがあったので見ると、木津が意外と近くに見えます。一番上の写真の風景と比べれば、この1号トンネルの出口から撮影したことが分かります。


P7220218   P7220225

下の写真は富津の風景です。富津・木津方面が見えるのは3号トンネルの入り口ですが、家があって見えません、というより、入り口で写真を撮ると、海は左側になり、一番上の写真は右側に海が見えるので、こちらのトンネルから撮った風景では無いことが分かります。

前の記事で偉そうに「富津トンネル」と書いたのは、私の全くのチョンボでした。1号トンネルと2号トンネルは千々石にあるので、「千々石トンネル」が正解。


「Kitsu Tunnel」と写真の説明に書いてあるのは、木津の風景が写っているので、木津トンネルと書いたのだと推測しているのですが・・・これにて一応、一件落着。


P7220243 P7220235

さて、今日は雲仙で「パール・バックと幻の地元ロケ映画『大津波』」の講演会がありました。講師は福島大学名誉教授・有江史談会会員 松崎文博氏。

パールバックは千々石、雲仙方面を訪れたことがあり、かなり気に入っていたみたいです。パールバックの小説「大津波」を映画化するとき木津を舞台にしたそうです(千々石の旧家も舞台になっています)。右の写真が木津を上から見たところです。


Img_1143 P7220234

この映画はジュディオングの初出演映画だそうです。早川雪洲、ミッキー・カーティスなども出演しています。

ただ、この映画は映画会社、関係機関にも記録・資料が残されていないそうです。日本で上映されたのが1,2回だということだそうですが、これも、はっきりしたことは分かっていないそうです。まさに、「幻の映画」です。原因としては何点か考えられるそうえすが、はっきりしたことは分かっていないそうです。なお、詳しい論文を書かれた方がいます。→こちらをクリック


ただ、雲仙市は7町が合併しましたが、このと記念事業として雲仙で上映会がありました。これだけははっきりしています。


2020年7月12日 (日)

「小浜鉄道」のトンネルの名称&「小濱地方鐵道株式會社 第七回營業報告書」(大正13年上期)~雲仙鉄道

36 36-2

以下のブログは一昨日途中まで書いたのですが、いつの間にやら全部飛んでいました。で、昨日書き始めたら又事故。今日が3回目の挑戦。

雲仙鉄道は以前30回程度書いたので、終わりかな?と思ったら小浜鉄道の營業報告書を読むと多少面白い事が書いてあったので。


雲仙鉄道についてはブログなどに取り上げられていますが、千々石~小浜に到る旧鉄道跡に3つのトンネルがあります。このトンネルについては名前がついていません。上の写真は千々石方面から通る最初のトンネルです。普通、トンネルの上の方には、トンネルの名前などの銘板があるのですが、ありません。出たところをみても同じ。


下は、二番目、真ん中になりますが、これにもありません。


383  Photo_20200710185001

千々石側からいった最後のトンネル。小浜町になります。これにもありません、ですが。

461 463

最後のトンネルを抜けたあと、回れ右をしたところ。右の方に何やら四角い、貼り付けて剥がしたような跡が。トンネルの銘板かなと思ったら、この長さじゃトンネルの口にかかってはみ出るので違うでしょう。で、何なの、といわれると分かりません。

481  484

さて、先日、大正13年上期 第7回營業報告書を読むと工事の状況、トンネルの様子などもわかり・・・

大正13年9月30日現在石工区工事出来高として


戸崎第一号隧道(全長貮百七拾四呎)ハ 九月廿八日貫通ス

戸崎第二号隧道(全長六百参拾四呎)ハ 四百参拾参呎掘鑿セリ

とあり、戸崎は千々石町。鉄道の運転開始が昭和2年なので、まだまだですね。三番目のトンネルはまだ手つかずです。


別に「戸崎兩隧道及び富津隧道」とありますが、まだ全線開通をして無く、「戸崎隧道」「富津隧道」はあくまで營業報告書なので、仮に付けた名前の気もするのですが。


この工事の請負は「大正十三年三月十二日、大分土木株式會社ト第一回工事請負契約帰結セル一工區(延長一哩四鎖戸崎兩隧道及び富津隧道ヲ含ム)ハ  四月廿日工事に着手セリ」とありもう一つ


「・・・(第一回契約区間ヲ除ク)區間工事ヲ第二工區トシテ古土木會社と第二回工事請負契約・・・」とありこの「古土木會社」については不明。ということで、実際に工事を手がけた会社名が分かります。


なお、株主として

「小浜町 242名」「千々石村 5名」「愛野町 17名」「山田村 26名」「守山村 5名」「伊福村 1名」「古部村 6名」「西郷村 5名」「神代村 27名」「土黒村 6名」「多比良村 2名」「湯江村 1名」「大三東村 9名」「三會村 1名」「島原町 59名」「深江村 2名」「布津村 1名」「布津村 1名」「北有馬村 2名」「口之津村 2名」「加津佐村 16名」「杉谷村 6名」「南串山村 38名」「北串山村 25名」「長崎市 104名」「北高来郡 15名」「県外 3名」


となっており、株主でダントツに株保有が多いのが、小浜の湯田大夫また小浜鉄道の社長「本多親宗」氏。


各村で小浜鉄道に直接関係あるのが、千々上村、小浜村。
北串山、南串山は小浜村のお隣なので、間接的には関係あるかなと思われます。千々石は小浜鉄道の始発点になりますが、株主が少ないのは、すでに千々石まで温泉鉄道が通っていて、小浜まで鉄道が開通すると千々石には下りる人もなくなり、泊まる人もなくなくなるので
(温泉鉄道で千々石まで来て、海水浴、また、小浜、雲仙まで遊びに行っていました)・・・と邪推しているのですが。

Img_20200710_0001  

下の写真、「雲仙岳後援會」発行の写真集「雲仙」より。発行された年が「昭和2年9月」。小浜鉄道が開業したのが「昭和2年3月」ですから、この写真がトンネルを撮した最初の写真ではないかと思うのですが、よく、絵葉書などで利用されています。

「雲仙岳後援會」は「長崎県廳内」となっているので県庁に電話をかけたら「分んな~い」とのご返事でした。


なお、このトンネルを「木津トンネル」と書いたブログがありますが、上の営業報告書には「富津隧道」と書いてあり、地図をみても富津の上の方です。多分この写真には「kitsu Tunnel」となっているからでしょうが、トンネルの名前を付ければ正式には絶対「富津トンネル」が正解です。


Img_20200710_0002  

なお、Goggleのマップでみたら「小浜鉄道」が「旧温泉軽便鉄道 雲仙小浜駅跡」「旧温泉軽便鉄道 富津駅跡」と書いてあり、これ、「温泉軽便鉄道」は愛野~千々石間の鉄道の名称です。間違いはどこにでもありますが、もっとよく調べてものです。もっとも「木津駅」ではなく「木津の浜駅跡」とこれは正確に書いてありましたが。

やっと、無事に3回目を書き終えました。疲れた😩・・・。

追記
各ブログを読むと、このトンネルを抜けるのが狭くて怖かった、と書いてありますが、トンネル前でしばらく待って、同方向に行く車の後についていくと安全に通れます。



2019年10月14日 (月)

雲仙鉄道~「1号機関車の正体」

Img_5092

今日は「鉄道の日」ということで、地元を走っていた「雲仙鉄道」の機関車について。

以前にも書きましたが、鉄道で小浜まで来るには、諫早駅で島原鉄道に乗り換え、愛野駅で雲仙鉄道に乗り換えるという不便なもので、昭和2年に小浜鉄道が開業した年、島原鉄道、雲仙鉄道、小浜鉄道が諌早~小浜の直通運転を開始します(昭和7年まで)。


さて、明治5年に新橋~横浜に日本で初めての鉄道が開業します。この日が10月14日です。この日走った汽車が日本での第1号機関車になります。この汽車は使用成績が悪かったためか、改造をされ、あちらこちらと回され、廃車寸前のところを
島原鉄道に譲渡されます。

上の写真は雲仙鉄道の昔の駅の所に記念碑が設置してあり、そこに焼き付けてある写真です。写真をよく見ると「1」という字がみえます。島原~小浜間が直通になったのでその時期、日本での第1号機関車が雲仙鉄道も走っていたのではということで、ネットなどに書いてあるのを見かけます。


前に書いたように島原鉄道から刊行された「島原鉄道百年のあゆみ」のなかに「・・・温泉鉄道の車両が諌早~小浜間の直通運転を開始」とあるので、残念ながらということでした。


ところが、ネットオークションをみていると昭和10年発行「鐵道趣味 秋季特別大號 10月號」という雑誌にまったく同じ写真が載っていて、雑誌を写真で撮ってあるので、説明の字が分かりにくいところもあるのですが下記のとおりです。


「雲仙鐵道」

No1機関車牽引の上り愛野村行混合列車(ここのところ読みにくく・・)が千々岩(注:ルビにてちぢわ)を出発、雲仙を背景にした千々岩彎(?)則ひの線路をやって来ます。
雲仙鐵道の蒸気機関車は1日1往復しか運転されずガソリン・カーばかりです。
No1機関車はNo2機関車と共に0-6-0形の𦾔省有1040形式のものであります。1040形式と云へば日本鐵道が明治27年大宮工場において6輌(No₈.401~406)製造したもので、現在も、割然と其の銘板が取り付けられております。
(撮影者は読めませんでした)

この「1040形式」をヒントにWikipediaを調べると、「国鉄1100形蒸気機関車」の所に「1040形」のことが下記のように書いてありました。製造は大宮工場で6台作られたそうです。


1040→中日実業公司桃沖鉱山(1916年)

1041→中越鉄道7(1919年)→鉄道省1041(1920年)→小浜鉄道(雲仙鉄道)2→明治鉄業庶務鉄業所1(1962年廃車)
1042→中日実業公司桃沖鉱山(1916年)
1043→中越鉄道8(1919年)→鉄道省1043(1920年)→小浜鉄道(温泉鉄道)1(1938年廃車)
1044→養老鉄道(1919年)
1045→簸上鉄道4(1919年)→鉄道省1045(1934年)→金名鉄道4→北陸鉄道A301

なお、ブログの「鉄道好きクラケーン一枚の図面から」には当時の雲仙鉄道の2号機関車の写真も載せてありますのでご覧下さい。

こちらを→クリック

ということで、この記念碑の写真は国鉄の大宮工場で作られた「1043」で、小浜鉄道(温泉鉄道)の1号機関車である事がはっきりし、日本の第1号機関車ではないと・・・残念ながら、やはり幻の第1号機関車でした。



              廃線になりたる跡の虫しぐれ sugikan


 

2014年3月 8日 (土)

雲仙鉄道 31~第1号機関車? その四(最終回)

  Photo_3

上の写真、ウィキペディアに載っている写真で、何回もお見せしていますが、この機関車が

原型で、改造をされていきます。ウィキペディアにもう一枚、下の写真が載っており、改造

は、国鉄、島鉄両方で受けますが、この写真はいつ頃のものか、不明になっています。原

型の機関車と比べると、いかに変わったことか。(うちのカミサンもですが・・)


国鉄でどのように改造されたか、写真を探したのですが、ついに見つかりませんでした。

その折、You Tubeでなぜ、改造が必要だったのか、「迷列車【九州圏】♯25 島鉄1号機

関車」に説明があり、要点を書けば、1号機関車は、現在明治村で活躍している、160型

「12号機関車」と比べれば著しく劣っており、その原因として、異常に低い重心のボイラー

の据え付けにあったようで、明治17年、大阪に転用される際、神戸工場で、ボイラーの、

かさ上げ工事がおこなわれたそうです。


なお、島鉄にきても、煙室の扉、砂箱、蒸気ドームも替えたそうですが、これは、九州鉄道

の廃車になったものを使ったそうです。


又、同じくYou Tubeにて「鉄道博物館 1号機関車物語 開会の様子」がアップされていま

すが、鉄道博物館に問い合わせたところ、この機関車は明治30年仕様、すなわち明治1

7年に、改造された後の機関車になりますが、特に車高が、低く見えます。You Tubeを是

非ご覧下さい。

1501k

さて、いよいよ、この1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったかどうかですが、まこと

に残念でした。分かったのが、いつも参考にしている「島原鉄道100年史~夢ある未来を

めざして」の冊子でした。


最後の方に、「島原鉄道の100年のあゆみ」という事で、年譜が載っており、1927年(昭

和2年)、諫早~小浜間が乗り換えなしで良いように開通した年ですが、ここのところに、

「6.6 小浜鉄道の開通により、温泉鉄道の車両が諫早~小浜の直通運転を開始。」

と書いてあり、あくまで走っていたのは、「温泉鉄道の車両」と言う事で、「島原鉄道の車

両」が、と言う事ではないということが分かります。


昨年から、写真、資料と調べまくり、写真を比べ、汽車の前面、窓の形、煙突の下の状態

から、違うのかなとは思っていたのですが、やはり、はかない夢でした 


おまけです。「温泉鉄道のガソリンカーの愛野村駅入り込み」の説明が付いています。

Photo_4

「初めてのガソリンカー 昭和5年」。列車のまえに旗が付いて、大勢人がいるところをみ

ると、初運転の時でしょう。だとすれば、島原駅か?

Photo_7

「昭和14年・県立口加高等女子学校『口之津町』 口之津鉄道のガソリンカーで登校」の

説明。この島原鉄道南目線は、廃線になりました。

Photo_8

以上三点の写真は「島原鉄道100年史」からです。


この記事を書くにあたっては、島原本社まで出かけましたが、丁重に対応していただき、

また、貴重な資料までいただきましたことを、心から感謝いたします。ありがとうございまし

た。

(参考・文引用・写真:「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」「島原南高の100年

~監修 松尾卓次」「島原半島の歴史~監修 松尾卓次」、ほかウィキペディアより)



2014年3月 7日 (金)

雲仙鉄道 30~第1号機関車? その三  

Photo

              (「島原鉄道100年史」より

上の写真の機関車、「1号機関車(大正初期)」と書いてあります。前回書いたように、明治

44年、日本の1号機関車は、島原鉄道に払い下げられますが、前回の設計図と比べると

分かると思いますが、ほぼ一緒の形だと思われます。こうして見ると、D型機関車などと違

い、随分小さい事が分かると思います。


さて、一号機関車として、数冊の本に写真が出ているのですが、撮影の日にちがほとんど

分からず、私も、鉄道マニアでなく、よく分からないので写真を並べてみます。


一応、念のため、「大正初期頃の3号機関車と思われる」と注釈がある機関車。

Photo_3

           (「島原鉄道100年史」より)

松尾卓次氏編の「目で見る 島原南高の100年」に載っている、1号機関車。胴体の横の

所に「1」と言う字、その上に、島原鉄道のマークが見えます。本書では、大正初期となって

います。

Photo_5

 以前のマークと、今使っているマーク。少し違っているのが分かると思います。

Photo_6 Img_20140306_0003

「島原鉄道100年史」からの写真です。横に、島鉄のマークと「1」その下に、多分「島原鉄

道」の文字だと思いますが、加わっています。下の写真同じようでですが、写真の写す角

度、煙突の下の痛み具合から、上の方が使い込んだような感じ。

Photo_10

Photo_7

「長崎歴史文化博物館」に売っていた絵はがき。煙突前の探照灯(ヘッドランプ)がありま

せん。上の写真より以前のか?取り外しができたのか?珍しく、煙が出ている写真です。

Photo_11

下の写真、「島原南高の100年・監修 松尾卓次」、「島原半島の歴史・監修 松尾卓次」

「島原鉄道の100年」。同じ写真が載っていますが、「島原半島の歴史」には、「島原駅と

シマテツ列車」となっており、他の本には「多比良(たいら)駅」となってますが、どちらが本

当?

Photo_12

「多比良の浜、田川の鉄橋を走る1号機関車(大正時代)」。車体の真ん中、かすかに島

鉄のマークと「1」の字が見えると思います。

珍しく、貨車を押していますが、前の方には牽引機関車がいたと思います。

0

さて、今日は、1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったのかどうか、結論を書こうと思っ

たのですが・・・・一号機関車は、原型をとどめないほどの改造を、国鉄、島鉄で受けます

が、どうして、改造を受けなければならなかったのか、偶然のことに、今日になって分かり

ました。


次号はそのことと、結論を。勘の言い方は写真を見て行けば、すでに分かられたと思いま

すが・・・結論まで長くかかりましたが、あと1回で、「第1号機関車」は終わりです。なにや

かやで、長くなって  (*_ _)人ゴメンナサイ  。



 



2014年3月 6日 (木)

雲仙鉄道 29~第一号機関車? その2

Photo_2

少し呆けてきたようで、昨日、明治44年と書くところを、昭和44年と書いてしまって、訂正

はしておきましたが・・・雲仙鉄道の続きです。


さて、しっつこいようですが、雲仙鉄道の各駅の記念碑の所に、焼き付けてある写真で

す。確認のために載せます。


最初写真を見て、考えたのは、この場所はどこか?左に見える畑は、路線際に所々見ら

れる風景です。


右側、良く見ると、防波堤と思われるものがあり、その外側は海岸の岩礁みたいに見えま

す。だとすれば、千々石断層の下あたりか?


この写真、「小浜鉄道」と書いたものがあり、小浜鉄道と言えば、千々石~小浜ですから、

似た風景がないか、一応、小浜の観光協会、小浜支所に聞きに行ってみましたが、はっき

りせず、富津あたりではなかろうかと言う方もおられ、ウロウロしてみましたが、やはり似

た風景はなく・・・


二枚の写真があり、一枚は小浜郷土館、一枚は個人が所有していたもの。千々石海岸で

す。

Photo_4

              (小浜資料館にて)

Photo_5

                  (個人所有)

同じように見えますが、満潮と干潮。また、線路の写り方を見ると、下の写真は、上の写真

より、かなり下ったところで、写真を撮ったことが分かります。たぶん、同じ人が、同じ日に

写したという感じがあるのですが・・・・ルーペ、パソコンで拡大して見ると、一軒だけ違う家

があり、写真を写す角度の関係か、写した時期が違うものか、悩みます。


赤矢印が線路ですが、写真の右の方に行くと、千々石断層の一番ひどい所。

海と平行に、海のすぐ横を汽車が走ります。なお、ここのところは、岩礁がゴツゴツとした

所で、砂浜ではありません。


念のため、一番上の写真を、ディサービスのお年寄りに見せたところ、「塩屋(千々石海岸

付近)のとこやろ」と言う事でしたが、当時とは、地形も変わっており、はっきり、ここだと断

定できることは、できませんでした。


さて、機関車です。昨日も載せた、ウィキペディアに掲載されている、一号機関車の写真で

す。

Photo_8

             (ウィキペディアより)

島原鉄道に入ってきた時は、かなり、改造されていたようで、下は、島原鉄道に入ってきた

時の設計図だと思われます。

「形式称号/1   車種/四輪連結タンク機関車  番号/1」と書いてあります。

Photo_10

          (「島原鉄道100年史」より)

ご覧の通り、改造されていることが一目瞭然です。とくに、機関車の上の方。

図面の下に、製造所名「ランカッシャー ヴァルカンフアウンドリー」。製造年月日「187

1」。前所有者「鉄道院」。旧番号「150」。「元作業局第1号」。その他、寸法等の記

載。


さて、島原鉄道でも大改造がおこなわれますが、また、次号。

Dsc_0141_2 

諫早市森山図書館、玄関脇のミモザ。今が盛りです。不思議な花ですね。






より以前の記事一覧

フォト
2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  

ブログランク参加中ポチしてね(^o^)

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ