雲仙鉄道

2014年3月 8日 (土)

雲仙鉄道 31~第1号機関車? その四(最終回)

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上の写真、ウィキペディアに載っている写真で、何回もお見せしていますが、この機関車が

原型で、改造をされていきます。ウィキペディアにもう一枚、下の写真が載っており、改造

は、国鉄、島鉄両方で受けますが、この写真はいつ頃のものか、不明になっています。原

型の機関車と比べると、いかに変わったことか。(うちのカミサンもですが・・)


国鉄でどのように改造されたか、写真を探したのですが、ついに見つかりませんでした。

その折、You Tubeでなぜ、改造が必要だったのか、「迷列車【九州圏】♯25 島鉄1号機

関車」に説明があり、要点を書けば、1号機関車は、現在明治村で活躍している、160型

「12号機関車」と比べれば著しく劣っており、その原因として、異常に低い重心のボイラー

の据え付けにあったようで、明治17年、大阪に転用される際、神戸工場で、ボイラーの、

かさ上げ工事がおこなわれたそうです。


なお、島鉄にきても、煙室の扉、砂箱、蒸気ドームも替えたそうですが、これは、九州鉄道

の廃車になったものを使ったそうです。


又、同じくYou Tubeにて「鉄道博物館 1号機関車物語 開会の様子」がアップされていま

すが、鉄道博物館に問い合わせたところ、この機関車は明治30年仕様、すなわち明治1

7年に、改造された後の機関車になりますが、特に車高が、低く見えます。You Tubeを是

非ご覧下さい。

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さて、いよいよ、この1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったかどうかですが、まこと

に残念でした。分かったのが、いつも参考にしている「島原鉄道100年史~夢ある未来を

めざして」の冊子でした。


最後の方に、「島原鉄道の100年のあゆみ」という事で、年譜が載っており、1927年(昭

和2年)、諫早~小浜間が乗り換えなしで良いように開通した年ですが、ここのところに、

「6.6 小浜鉄道の開通により、温泉鉄道の車両が諫早~小浜の直通運転を開始。」

と書いてあり、あくまで走っていたのは、「温泉鉄道の車両」と言う事で、「島原鉄道の車

両」が、と言う事ではないということが分かります。


昨年から、写真、資料と調べまくり、写真を比べ、汽車の前面、窓の形、煙突の下の状態

から、違うのかなとは思っていたのですが、やはり、はかない夢でした weep


おまけです。「温泉鉄道のガソリンカーの愛野村駅入り込み」の説明が付いています。

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「初めてのガソリンカー 昭和5年」。列車のまえに旗が付いて、大勢人がいるところをみ

ると、初運転の時でしょう。だとすれば、島原駅か?

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「昭和14年・県立口加高等女子学校『口之津町』 口之津鉄道のガソリンカーで登校」の

説明。この島原鉄道南目線は、廃線になりました。

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以上三点の写真は「島原鉄道100年史」からです。


この記事を書くにあたっては、島原本社まで出かけましたが、丁重に対応していただき、

また、貴重な資料までいただきましたことを、心から感謝いたします。ありがとうございまし

た。

(参考・文引用・写真:「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」「島原南高の100年

~監修 松尾卓次」「島原半島の歴史~監修 松尾卓次」、ほかウィキペディアより)



2014年3月 7日 (金)

雲仙鉄道 30~第1号機関車? その三  

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              (「島原鉄道100年史」より

上の写真の機関車、「1号機関車(大正初期)」と書いてあります。前回書いたように、明治

44年、日本の1号機関車は、島原鉄道に払い下げられますが、前回の設計図と比べると

分かると思いますが、ほぼ一緒の形だと思われます。こうして見ると、D型機関車などと違

い、随分小さい事が分かると思います。


さて、一号機関車として、数冊の本に写真が出ているのですが、撮影の日にちがほとんど

分からず、私も、鉄道マニアでなく、よく分からないので写真を並べてみます。


一応、念のため、「大正初期頃の3号機関車と思われる」と注釈がある機関車。

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           (「島原鉄道100年史」より)

松尾卓次氏編の「目で見る 島原南高の100年」に載っている、1号機関車。胴体の横の

所に「1」と言う字、その上に、島原鉄道のマークが見えます。本書では、大正初期となって

います。

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 以前のマークと、今使っているマーク。少し違っているのが分かると思います。

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「島原鉄道100年史」からの写真です。横に、島鉄のマークと「1」その下に、多分「島原鉄

道」の文字だと思いますが、加わっています。下の写真同じようでですが、写真の写す角

度、煙突の下の痛み具合から、上の方が使い込んだような感じ。

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「長崎歴史文化博物館」に売っていた絵はがき。煙突前の探照灯(ヘッドランプ)がありま

せん。上の写真より以前のか?取り外しができたのか?珍しく、煙が出ている写真です。

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下の写真、「島原南高の100年・監修 松尾卓次」、「島原半島の歴史・監修 松尾卓次」

「島原鉄道の100年」。同じ写真が載っていますが、「島原半島の歴史」には、「島原駅と

シマテツ列車」となっており、他の本には「多比良(たいら)駅」となってますが、どちらが本

当?

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「多比良の浜、田川の鉄橋を走る1号機関車(大正時代)」。車体の真ん中、かすかに島

鉄のマークと「1」の字が見えると思います。

珍しく、貨車を押していますが、前の方には牽引機関車がいたと思います。

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さて、今日は、1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったのかどうか、結論を書こうと思っ

たのですが・・・・一号機関車は、原型をとどめないほどの改造を、国鉄、島鉄で受けます

が、どうして、改造を受けなければならなかったのか、偶然のことに、今日になって分かり

ました。


次号はそのことと、結論を。勘の言い方は写真を見て行けば、すでに分かられたと思いま

すが・・・結論まで長くかかりましたが、あと1回で、「第1号機関車」は終わりです。なにや

かやで、長くなって  (*_ _)人ゴメンナサイ  。



 



2014年3月 6日 (木)

雲仙鉄道 29~第一号機関車? その2

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少し呆けてきたようで、昨日、明治44年と書くところを、昭和44年と書いてしまって、訂正

はしておきましたが・・・雲仙鉄道の続きです。


さて、しっつこいようですが、雲仙鉄道の各駅の記念碑の所に、焼き付けてある写真で

す。確認のために載せます。


最初写真を見て、考えたのは、この場所はどこか?左に見える畑は、路線際に所々見ら

れる風景です。


右側、良く見ると、防波堤と思われるものがあり、その外側は海岸の岩礁みたいに見えま

す。だとすれば、千々石断層の下あたりか?


この写真、「小浜鉄道」と書いたものがあり、小浜鉄道と言えば、千々石~小浜ですから、

似た風景がないか、一応、小浜の観光協会、小浜支所に聞きに行ってみましたが、はっき

りせず、富津あたりではなかろうかと言う方もおられ、ウロウロしてみましたが、やはり似

た風景はなく・・・


二枚の写真があり、一枚は小浜郷土館、一枚は個人が所有していたもの。千々石海岸で

す。

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              (小浜資料館にて)

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                  (個人所有)

同じように見えますが、満潮と干潮。また、線路の写り方を見ると、下の写真は、上の写真

より、かなり下ったところで、写真を撮ったことが分かります。たぶん、同じ人が、同じ日に

写したという感じがあるのですが・・・・ルーペ、パソコンで拡大して見ると、一軒だけ違う家

があり、写真を写す角度の関係か、写した時期が違うものか、悩みます。


赤矢印が線路ですが、写真の右の方に行くと、千々石断層の一番ひどい所。

海と平行に、海のすぐ横を汽車が走ります。なお、ここのところは、岩礁がゴツゴツとした

所で、砂浜ではありません。


念のため、一番上の写真を、ディサービスのお年寄りに見せたところ、「塩屋(千々石海岸

付近)のとこやろ」と言う事でしたが、当時とは、地形も変わっており、はっきり、ここだと断

定できることは、できませんでした。


さて、機関車です。昨日も載せた、ウィキペディアに掲載されている、一号機関車の写真で

す。

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             (ウィキペディアより)

島原鉄道に入ってきた時は、かなり、改造されていたようで、下は、島原鉄道に入ってきた

時の設計図だと思われます。

「形式称号/1   車種/四輪連結タンク機関車  番号/1」と書いてあります。

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          (「島原鉄道100年史」より)

ご覧の通り、改造されていることが一目瞭然です。とくに、機関車の上の方。

図面の下に、製造所名「ランカッシャー ヴァルカンフアウンドリー」。製造年月日「187

1」。前所有者「鉄道院」。旧番号「150」。「元作業局第1号」。その他、寸法等の記

載。


さて、島原鉄道でも大改造がおこなわれますが、また、次号。

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諫早市森山図書館、玄関脇のミモザ。今が盛りです。不思議な花ですね。






2014年3月 2日 (日)

雲仙鉄道 28~第1号機関車? その一

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さて、しつっこく雲仙鉄道です。右のカテゴリーの「雲仙鉄道」をクリックすると、今までの部

分が出てきますので、ご覧下さい。ただ、少し(おおいに?)私の誤認したところがあり、ま

だ訂正していませんので、ご注意を。いつか、訂正します。


さて、千々石の、「上千々石駅」の記念碑です。この横に説明版がありますが、この赤の

矢印の所、機関車の写真が焼き付けてあります。これは、他の駅跡の記念碑にも、同じ

写真が焼き付けてあります。拡大すると

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この矢印の所、どう見ても、数字の「1」に見えます。すなわち1号機関車と言う事です。

もう少し拡大すると。

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さて、これが何故気になるかというと、再度、雲仙鉄道の歴史を簡単に書くと、この鉄道

は、本来、温泉(当時は「うんぜん」と読んでいました。)軽便鉄道(のち温泉鉄道に改称)

と小浜地方鉄道(のち小浜鉄道と改称)に別れていました。


温泉鉄道は、大正12年(1923)5月5日に、愛野村~千々石を開業。

小浜鉄道は、昭和2年(1927)3月10日に、千々石~肥前小浜を開業。


昭和8年(1933)に小浜鉄道が「雲仙鉄道」に社名変更をし、「温泉鉄道」を合併し、「雲

仙鉄道」となります。


長崎、福岡方面からくると、国鉄の諫早駅で下車、島原鉄道に乗り換え、愛野駅で下車

し、雲仙鉄道に乗り換え小浜まで、と言う事になり、非常に不便になるので、昭和2年6

月、島原鉄道、温泉鉄道、小浜鉄道の3社で、諫早~肥前小浜の直通運転を開始します

が、昭和7年(1932)11月、直通運転を廃止します。


その後、昭和10年に島原鉄道に経営委託し、昭和11年10月、直通運転を再開するも、

昭和13年(1939)に廃業。


と言う事で、昭和2年~昭和7年、昭和11年~昭和13年は、諫早~肥前小浜が直通運

転であったということになります。


さて、問題は、この「1」と書いた機関車が、雲仙鉄道のものか、小浜鉄道のものか、島原

鉄道のものかと言う事です。もし島原鉄道の「1号機関車」なら、話が面白いのですが・・


なぜ、島原鉄道の「1号機関車」が、問題になるかというと、島原鉄道の「1号機関車」は、

日本の鉄道が開業した折、イギリスに10両発注された機関車の中で、最初に日本に着

き、「1」と番号が付けられ、新橋~横浜間を走った機関車で、現在、鉄道博物館に納め

られ、重要文化財に指定されているからです。


この一号機関車は、輸入後、改造、各地に転用され、明治44年に、鉄道院から、他に機

関車4輛、、4輪客車10輛、無蓋貨車7輛と共に、島原鉄道に払い下げられます。


のち、貴重な機関車ということで、返還・保存の運動が起こり、昭和5年、鉄道院と別の機

関車と交換という形で、鉄道院に返還されています。なお、この時は、盛大な送別会がお

こなわれたそうです。


ですから、昭和2年から、鉄道院に引き取られる、昭和5年の間に、現在、国の重要文化

財になっている、1号機関車が雲仙鉄道を走っていた可能性があるのではないかと・・・・

もし走っていたら面白いなと・・・・・


ウィキペディアに載っている、第1号機関車の原型です。

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この機関車が、雲仙鉄道を走ったかどうか、結果は出ましたが、昨年から調べ回って得た

結論。簡単には教えません。


なお、この機関車、島原鉄道でも大改造をうけており、次回は、その改造された機関車の

姿などを・・・


3月になりました。4月には入学式。「ともだち100人できるかな・・・・」。小学校の新入生、

28名なんですけれど・・・・・

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(参考・引用:「ウィキペディア」「島原鉄道100年史」より)







2013年9月 3日 (火)

雲仙鉄道 27~昔の汽車は弱かった・・・

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          (「島原半島の歴史~監修松尾卓次」より)

「島原半島の歴史~監修松尾卓次」の本を見ていると、「雲仙鉄道計画路線」と題して、上

の地図が載っており、説明に、「計画では小浜温泉街まで乗り入れるようになっていたが、

資金難で北野までとなり、目論見が大きく崩れた、難工事と経済性が危ぶまれていた計画

のようであった。」と書いてありましたが、前回少し書いたように、当時、小浜には自動車

会社があり、温泉街まで乗り入れると、自動車は用事が無く、北野からだと、あと2,3キ

ロで温泉街。多分、乗客は利用するでしょう。何となく、考えると裏があるような気がするの

ですが・・・・


さて、この地図の太線が計画路線になるのですが、見ていると、あれ!?

小さなところでは、駅の位置、路線が少し違う所があるのですが、特に、赤の矢印のとこ

ろ。

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ざっとした書き方ですが、実際の線路は、山王さんを赤い点線のように、ぐるっと回って行

くのですが、計画図では、愛津から、愛野町の中野地区を通ることに

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赤の矢印が、山王さん、計画図では、山王さんに沿って走るようになっていますから、大

体、黄色の所から入るのかなというところです。家が見えますが、これは新興住宅です。

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こちらが、出口の中野地区になります。


考えると、山王さんからぐるりと回っても、人口が大きな地区があるわけではなく、唐比地

区がありますが、ここは「水晶観音」駅を利用すれば問題は無し。


後は、土地所有者の問題か工事の問題かと思ったのですが・・・・思わぬ事からヒントが

「島原鉄道100年史 夢ある未来をめざして」のなか、「駅今昔」の「大三東(おおみさき)

駅」の記事の中に、次のように書いてあります。


「湯江(ゆえ)~大三東間の境の松付近、大三東~三会間の松尾・鼻の先付近は、島鉄に

は珍しい急勾配。といっても1,000メートルいって15.2メートル上がる程度だから、いま

のディーゼルなら何のこともない。だが、十数年前のSLにとっては大変な”心臓破りの丘”

だった。上がりにかかるとシュシュシュシュ・・・・・と車輪はカラ回り。やむなく駅まで引き返

して”再出発”したものだ。

『おかげで乗り遅れた汽車に間に合った』と喜ぶ人も多かったらしい。」


雲仙鉄道も、同様で、「旅する長崎学 第29回 レトロな旅路 小浜鐵道」、「木津の浜

駅」の所に、小店屋(今は廃業しているみたいです)さんをしている、橋本さんの話として、

「修学旅行の団体客が小浜に向かうとき、客車を連結していましたが、坂道で重くて進ま

ずに、大人たちは降りて押していたのだとか。」


また、別のブログにも、「車掌をしていた父の話によると、時々坂道を登らず、お客と一緒

に列車を押していたらしい。(車掌をしていたお陰で、鉄道ネタでは何度かローカルテレビ

にでた)」という話があり、当時の汽車の力は弱かった。(私と一緒)


話を元に戻して、原図の所に行って見ると、少し急な丘を越えていくことになり、とても、昔

の汽車では越えきれないでしょう。トンネルを掘るか、堀切にするかでしょうが、経費の点

から見ると、山王山を回った方が安くついたのでしょう。


こうして見ると、愛野から小浜まで、特に、千々石から小浜間、難工事と言いながら、線路

を見直してみると、坂を避け、苦労して、敷設計画したことが分かります。



また、台風接近。ウチのカミサンもどういうわけか、今日はポチ台風気味でした・・・・

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2013年8月23日 (金)

雲仙鉄道 26~汽車と自動車

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             (写真;小浜町資料館より)

慶長19年、三河から来た、本多親能(ちかよし)氏が小浜温泉の管理をし、藩主より小浜

庄屋と、小浜温泉の取締を命じられますが、城主の認可を得、長男の才兵衛親継(ちか

つぐ)氏を庄屋とし、次男、親次(ちかつぐ)氏を湯大夫(温泉の湯元、元締)とし、親次氏

が初代の湯大夫となります。


明治26年、南高来郡部長5代、金井俊行によると、「小浜ノ湯ハ六カ所ニシテ皆本多西男

氏(注;第十代目湯大夫)ノ所有に属ス・・・・」とあり、かなりの資産があったのでしょう。



この、本多西男氏が、自費を投じ小浜海岸を埋め立て、現在の小浜温泉の基礎を作りま

す。


鉄道跡を辿って、いろいろ話をすると、「この鉄道は、湯大夫さんが作ったもんじゃ」、と言

う話をたびたび聞いたことがあり、私も当然、鉄道建設当時から、湯大夫さんが係わって

いたと思っていたのですが・・・・・年代は、はっきりしませんが、雲仙小浜鐵道の社長とし

て、本多西男氏の子息、「本多親宗」氏の名前が見えます。


以前、愛野~小浜町の短い距離に、なぜ二つの鉄道会社があるのか、長崎日日新聞の

記事を紹介しました。→記事はこちらをクリック


ところが、二つの鉄道会社が出来たのには、他にも理由があったみたいで、昭和52年の

小浜町観光課発行の、「国立公園 雲仙観光圏」に次のような記事がありました。


「・・・・鉄道区間は最初から小浜まで走らせたかったが、それより少し先に小浜の本多湯

大夫氏が自動車会社を設立していたので湯大夫さんは参加しなかった。・・・・・しばらくは

自動車と汽車の競争が続いた。鉄道会会社は赤字が続いた。・・・・やがて本多氏も参加

することとなり鉄道は小浜まで延びた。・・・・」


「島原・南高の100年~監修・松尾卓次」にも、「当時小浜には『小浜自動車株式会社』と

『雲仙自動車株式会社』が営業していたため、当初は温泉鐵道は千々石までで止まっ

た。」とあります。

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         (島原・南高の100年~監修・松尾卓次より)


「国立公園 雲仙観光圏」には次のように書いてあります。「小浜自動車株式会社」は大正

元年、小浜町有志の共同経営で始まり、大正2年に株式会社に。


最高級大型レオ号、貸し切り車は、パッカード・カデック等の最高級者のみ30台を揃

え・・・・・・

社長は、鉄道の社長と同じく、「本多親宗」氏です。


これでは、湯大夫さん、すんなりと鉄道には参加するはずは無いのですが、なぜ、後年参

加をしたのか?参加の時期はいつ頃なのか?


汽車が、温泉街まで乗り入れず、2キロほど手前の北野で終点になります。資金不足と言

われていますが、自動車会社との関係を考えると、何か関係があるような気がするのです

が・・・・


ちなみに、愛野~小浜まで、自動車代は70銭。汽車代は80銭。汽車で行くと、温泉街ま

で、まだ距離があります。

(参考・引用:「島原・南高の100年」「国立公園 雲仙観光圏」「小浜町史談」)


久しぶりの雨。昔は相合い傘で・・・ポチと思い出しますね。カミサンとはしませんが・・・・

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2013年7月 5日 (金)

雲仙鉄道 その25~鉄道発祥の地

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今日の話は、直接雲仙鉄道とは関係ありませんが、今後の話題で、少し関係が出てくる

ので書いてみます。


今日は、カラット晴れた、とはいえない、梅雨空。しかもムシムシとした天気。諫早まで行っ

た帰り、運動公園を一周、約5000歩ばかり。この公園には、機関車置いてあります。


この機関車は、昭和14年に誕生。名古屋、金沢、富山、人吉、宮崎、鹿児島で、昭和50

年まで活躍し、326万キロを走ったそうです。


この、展示してある機関車の良いところは、運転席に登れること。

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もちろん、可動部分は溶接して動きませんが、すごい迫力。赤い部分が、お釜さんで、ここ

から石炭をくべたのでしょう。


さて、この横に説明板が立ててあり、

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赤いところ、「慶応元年(1865年)トーマス・グラバーが長崎の大浦海岸で蒸気機関車

(SL)を走らせたのが、日本で最初でありSLの発祥の地ともいえる。」と書いてあります。


普通、鉄道の発祥と言えば、「汽笛一声新橋を・・・・」との歌とともに、明治5年9月12日

に、新橋駅~横浜駅が開通したと習っていたのですが。


じつは、先日から「九州鉄道物語~桃坂豊著」を読んでいたら、「鉄道発祥の地」として、

長崎の事が書いてあり、要約すれば、1865年7月22日発行の英国の新聞「レールウェイ・

タイムス」に長崎の事が掲載され、これを、トムリンソン氏が発見し、長崎高等商業学校の

武藤教授にそれが伝わり、門司で開かれた「鉄道五十年祝典記念講演会」で披露し、当

時の新聞では、鉄道の発祥は長崎にありと誇らしげに自慢してあるそうです。


当時、長崎の外人居留地の大浦海岸通りに、「グラバー商会」が一時的に軌道を敷設し

(他の資料では、市民病院から松ヶ枝橋までの600メートル)、小型蒸気機関車で客車

を引っ張り、見物人に見せ、その後、上海で使用する予定だったそうです。


私は残念ながら見ておりませんが、長崎市民病院前に、「鉄道発祥の地」という祈念碑が

あり、説明板には「慶応元年(1865)英国人貿易商人トーマス・グラバーは、日本で初

めて英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号(鉄の伯爵)号を敷いて走らせた。集まった

人々は驚きの歓声を上げて見物した。この試走は日本近代化の牽引車になった。」と記さ

れてあります。


ところが、この、「九州の鉄道ものがたり」、もう少し先を読むと、今度は「日本初の蒸気機

関車」という文があり、これによると、1855年(安政2年)、日本人の手によって、「蒸気機

関車」が作られていたとのことです。


長崎に寄港したロシア軍艦「ハルラータル」号の艦上で模型の蒸気機関車の運転がおこ

なわれ、それを見ていた、佐賀藩士中村奇輔が、負けてなるかと藩の精煉方挙げて、制

作をしたそうです。


佐賀県は地味に見えますが(佐賀県の方ごめんなさい)、実は佐賀藩の事を学ぶと、進取

な所があり、藩主の考え方にもそれが見えます。佐賀県は、「葉隠」、バルーンフェスタ、タ

レントのはなわさんだけではありません。


2年をかけ作り、大きさは、全長39,7㎝、幅14,3㎝、高さ31,2㎝の小さなものです

が、蒸気機関車は蒸気機関車です。この機関車、佐賀県立博物館に展示してあるそう

で、ネットでも見られます。なお、燃料はアルコールですが、藩の記録によれば「焼酎をた

いて走る」とあるそうです。

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   (「九州鉄道ものがたり」より。注:こちらは模型だそうです。)


さて、鉄道発祥の地あり、日本初の蒸気機関車あり、「汽笛一声・・・」の方は、官営による

営業の始まりの鉄道だったといえるでしょう。

長崎県、及び佐賀県の方は、俺が鉄道の元祖、本家だと、胸をはって言いましょう。


実は、私、鉄道にはあまり詳しくなく、補足がありましたら、コメント欄に書き込んでおいて

下さい。他にも諸説あるみたいで・・・ 

(参考・引用:「九州鉄道ものがたり~桃坂豊著」、他、各ネットより)


蒸気機関車懐かしいですね。大学受験の折、蒸気機関車で行きましたが、当時、、富士

山を見たら落第するとのジンクスがあり、ポチと富士山を眺めたら本当に落第しました。

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2013年6月17日 (月)

雲仙鉄道 その24~愛野村駅★英語をしゃべる駅長さん

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      (「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」より)


昭和初期頃の愛野村駅です。スキャナーに入らないので、写真で撮りましたので、少し分

かりにくいところもあるかと思います。同書より同じ愛野村駅。

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駅舎、プラットフォーム、駅名の標記の位置、柱の位置等を見れば、ほぼ同じ時期に撮ら

れた写真でしょうが、現在と違っているのが、駅舎と向かい側にあるプラットフォームの位

置。


この写真を見るかぎりでは、駅舎と向かい側のプラとフォームが、真向かいでなく、斜めに

位置しています。

現在は

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駅舎の向かい側のプラットフォームは、ほぼ前の方にあります。駅舎の位置が変わったの

か、プラットフォームの位置が変わったのか、両方とも変わったのか?


何回も出している写真ですが、開通当初の愛野村駅の写真

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       (「目で見る島原・南高の100年~松尾卓治監修」より)

大正2年頃の写真だそうです。最初の写真が昭和初期の写真ですから、ずいぶんな変わ

りようです。


話しは少し変わりますが、雲仙鉄道を調べているうちに、少し、おや?と思うことがあって、

あちらこちら調べたのですが、どうにも分からず、結局、島原鉄道の資料を見せて貰わな

ければと考え、寄ってみたのですが、丁重な応対と、貴重な冊子をいただき、こちらにな

い、写真、文章も載っており、島原鉄道さんには心から感謝する次第です。


この話は、この冊子の中に出てくる話しです。

雲仙は、昔、外人の避暑地で、大勢の外人客が来ています。

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    (「目で見る島原・南高の100年~松尾卓治監修」より)


説明にはこう書いてあります。「仮装ダンスパーティー(小浜町・昭和初期)明治初期より

長崎に居留する外国人だけでなく、シャンハイ、ホンコンをはじめロシアなどからも訪れる

避暑地であった雲仙。県公園事務所の隣に『雲仙娯楽館』が大正2年に開館。外人避暑

客の日曜日の礼拝、ダンスパーティーなどに利用された。(社)雲仙観光協会所蔵

『UNZN』より」。


と言うことで、かなりの外国人がやってきますが、「島原鉄道100年史」には、「昭和初期

には、本諫早、愛野駅、島原湊駅では外国人旅客が多く、外国金貨で切符を買うことも多

かった。『とくに愛野駅は雲仙登山行きで外人乗客が多かったので、駅長は英語ができ

なければならなかった。・・・2等車には通訳が乗っていたと言う。』(島鉄ニュース「浜木

綿」)。別の記事には「英語を話せなければ駅長がつとまらなかったというわけだ。同駅

には当時の名残を示すように、朽ち果てた木製の様式トイがいまも残っている。」(太字は

私)


時代を考えると、現代の中学校、高校に進学できるのはわずかな人で、この時代、英語

を話せる駅長をがいたとは、愛野村駅はかなり、重要で、先進的な駅だったことがうかが

えます。


「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」は、平成20年の出版ですから、まだ、木製の

トイレが残っているのではないかと、急いで行って見たのですが、残念ながら新しいのと取

り替えてありました、ついでに出してきましたが・・・・


島原鉄道さんには、ヨレっとした風体の人間が突如お邪魔したにも関わらず、丁重な応対

と、貴重な資料をいただきましたことを改めてお礼申しあげます。

まだ、貴重な写真等載せてありますので、順次紹介をしていきたいと思います。

(参考・文引用:「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」「目で見る島原・南高の100

 年~松尾卓治監修。)


今日は植木屋さんが来て、植木の剪定。暑い中を大変な作業です。顧みて、毎日ゴロゴロ

している時分の身を、ポチ反省。

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2013年6月12日 (水)

雲仙鉄道 その23~富津トンネル修復跡の謎

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この話、以前書こうと思っていて、すっかり忘れていました。

数ヶ月前、小浜町の観光ボランティアのMさんから、富津を案内していただいたとき、聞い

た話です。


上千々石駅から肥前小浜駅まで、3つのトンネルがあります。汽車道を車で走られた方

は、トンネルが狭いので怖い思いをされたことと思います。


この各トンネルには名前がついていません。「千々石ネット」によると、千々石から、第1ト

ンネル、第2トンネル、第3トンネルと呼んだり、長崎大学の調査では、千々石側から、第2

トンネル、第1トンネル、富津トンネルであったとか、小浜側から、第1トンネル、第2トンネ

ル、第3トンネルと呼んでいたとか・・・どれが本当か分かりません。


とにかく、上の写真は、一番小浜側の富津の所にあるトンネルです。

さて、このなかにMさんから案内され、

Dscf1621

明らかに、補修した跡があります。さて、これは、なんでしょう?と言うのが、Mさんの謎か

けでした。


もちろん、トンネルが古くなって、危険になったための補修だと誰でも思うでしょうが、なん

と、これが大違い。ここに防空壕が掘ってあって、それを塞いだ跡だそうです。少し長い防

空壕であったそうです。終戦直後、浮浪者が住んでいて、Mさんが子供の時、ここを通る

のが怖かったそうです。


橘湾周辺には、加津佐の岩戸山の砲台跡、南串山町の震洋の基地、富津の山の上のが

っくり石の砲台(重機?)、千々石側のトンネル砲台跡、愛野の展望所下の砲台跡とあり、

戦中の方と話しをしていると、千々石の山の中に、随分、防空壕を掘ったそうですが、終

戦直前の本土決戦に備えたものでしょう。


多分ここもそうなんでしょうが、これは地元の人にしか分かりませんね。まだまだ、私たち

の回りに戦争の跡が残っているようです。なお、ここは狭くて、以外と車が多いので、入る

ときはご注意を。


明日、明後日は病院の検査。今日はポチと早めに、お休みなさい。

 

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2013年6月 4日 (火)

雲仙鉄道 その22~訂正・そして山はどこ?

1

先日出したばかりの写真です。後ろの山を雲仙岳と紹介しましたが、TKOさんからコメント

で、線路の形状から、雲仙岳ではなく、諫早方面の山ではないかと、ご指摘を頂きました。

ここらあたりで、後ろの山のような大きい山は、諫早の多良岳、島原半島の雲仙岳しかな

いのですが、

2 3

左が諫早の多良岳、右が雲仙岳。雲仙岳の左側が高いようですが、雲仙岳の噴火により

盛り上がったものです。


多良岳とは全く形が違います。右の雲仙岳は、吾妻方面から撮ったものです。

一番上の写真、奥の山が、妙見岳、国見岳、前の山が吾妻岳と判断したのですが、現場

に行って、同じような所から写真を撮ると

4

ここらあたり、家が建て込み、一番上の写真とは全く、変わっています。愛野駅に向かう道

がありますが、この写真の家の表側が旧道になります。線路左側、赤い三角屋根が少し

見えますが、これが、愛野駅です。


こうしてみると、どうも、一番上の写真のような高い山はない。駅の屋根の上側が少し見え

ていますから、少し高台から撮ったものでしょう。ローアングルなら山が高く見えますが・・・


と考えながら買い物をしていると、なんと愛野の郷土史家で、愛野を一番ご存じのO先生

とばったり遭遇。やはり、酒は飲まず、タバコは吸わず、パチンコは止め、女は騙さず、お

まけに甘いものも止め。こういう立派な人間に、天は味方するもの。


ちょうど写真も持っていたので尋ねると、やはり、吾妻町方向から、森山町と愛野町の方

向を撮ったもので、四角の赤いあたりが、諫早東高校付近(森山町)に当たるということで

した。O先生の言うことですから、間違いはないでしょう。


でも、山は?多分、写真のアングルが違うのか?似ている感じの山もあるのですが・・・・

ひょっとしたら、誰か削ったのか?山の形の再検討が必要でしょう。


さて、AKOさんが、機関車の事について触れていたので、

Img

          (島原半島の歴史~監修:松尾卓治)

明治41年に島原鉄道株式会社が設立され。植木元太郎氏を先頭に4年間をかけ開通。

この時走った汽車が、上の写真の機関車ですが、なんと、「汽笛一声新橋を・・・」で歌わ

れた、東京~横浜を日本で一番最初に走った機関車だそうですが、この機関車が、島原

鉄道も走り、島原でも第1号だったそうです。20年間走り続けたそうです。「島原駅とシマ

テツ列車 客車と貨車を一緒に牽引している1号機関車」の説明文が書いてあります。


現在、さいたま市鉄道博物館に所蔵され、車体には「1」と、「惜別無量 昭和五年六月為

記念 島原鉄道社長植木元太郎 識」との銅板が飾られているそうです。国の重要文化

財です。


さて、愛野駅に寄ったところ、少しあれっと

7 8

左が今の愛野駅ですが、赤の四角所の木。

右が以前出しましたが、「長崎県衛生公害研究所報」に載っていた写真。「雲仙山岳後援

会発行 昭和2年 小浜町観光ホテル蔵」との注が入っています(観光ホテルは倒産しまし

た)。これにも同じような木が立っています。多分、この当時からの木ではないでしょうか?

ただ、現在は2本寄り添うように立っており、多分、婚活に成功したのでしょう。

(参考・文引用:「島原半島の歴史~松尾卓治監修」「長崎県衛生公害研究所報」より)



今日もカミサンは留守。でも、新車で一日中ドライブしました。もちろん隣には、かわいい

女の子。AKB48の女の子のグラビアですが。それでもポチと楽しかった。グラビアにポチ

ポチ話しかけたりして・・・・・

 

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