雲仙鉄道

2020年10月11日 (日)

「雲仙鉄道廃線跡(千々石)」~一枚の絵葉書より

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千々石というと、この風景の写真、絵葉書がよく見られます。もちろん、雲仙が国立公園に制定されたこともあるでしょうが。

白黒の絵葉書を4枚ばかり手に入れましたが、雲仙鉄道の線路が左側に見えます。同じような風景でも、よく見ると撮影の場所、アングルなど違っています。雲仙岳の風景を見ると、少しづつ違うことが分かると思います。

雲仙鉄道と関係があることをざっと書くと、大正12年5月5日、愛野~千々石間、温泉軽便鉄道開通。昭和2年3月10日、千々石~’肥前小浜(小浜)間、小浜鉄道開業。昭和13年8月15日全線廃業。この間、昭和9年に雲仙が国立公園に。

ということで、一番上の写真「12.8.11」の日付があり、大正12年でしょうか、廃線前年の昭和12年でしょうか?悩む所です。

下の絵葉書は「7.1.10」の消印があるので、昭和7年。

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下は外人さんが使ったものですが、切手が剥がされ日付が分かりません。

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こちらは「4.12.?」ですから、昭和4年。珍しく、汽車が煙を吐きながら走っているのが見えます。この絵葉書は以前にも出しました。

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下が今回入手した絵葉書。

ネットで、雲仙鉄道の木津~富津の緑のトンネルなどはよく紹介されます。ただ、鉄道が廃止になったから、すぐに道路が舗装されたわけでもなく、富津付近の婆様を捕まえて聞いたら、鉄道が廃止になった後、線路が外され、その下の砂利はそのままで、その上をバスが走り「ガタガタして走っておった」ということでした。


赤い線が線路があった所。右の写真、同じ所を見ると草に覆われていることが分かります。今から40年ほど前だったか、千々石に赴任してきた頃、雲仙鉄道の事も知らずこの道を車で通ろうとしたら、とてもじゃなく引き返した記憶があります。


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昨日、撮ってきた写真ですが、赤い線の所、舗装されています。この道は千々石~愛野へ通じている道ですが、断層の下にあるので現在でも大雨、台風が来ると崖崩れがあり通行不可能になることもあります。

この道が舗装されるにあたり、千々石にはメリットがあるものの、愛野にはなんのメリットも無いということで揉めたという話しを聞いたことがありますが、私のごとき下っ端には詳しいことは分かりませんが・・・写真の部分は一度拡張をした覚えもあります。
       
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この道が草に覆われていたということは、若い方は知らないことだと思いますが、一枚の絵はがきが微かながら記録をしていました。チョットした事ですが、一枚の絵はがきに留められた歴史だと思います。廃線が昭和13年ですから、長い間そのままになっていたと推察できます。

さて、最近お土産屋さんに、無いんですね。「絵葉書」。考えれば今やスマホをほとんどの人が持っていて、絵葉書は売れない時代になりました。残念な事ですが。あ~、そういえばお土産の「木刀」もありませんでした。両方とも修学旅行の時買って来たんですが。

★各写真はクリックすると拡大します。


2020年7月23日 (木)

「小浜鉄道のトンネル」★私としたことがm(_ _)mそして「パールバックと木津」

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                                       (GoogleEarthより)

7月12日の記事で小浜鉄道のトンネルについて書きました。→こちらをクリック。

その折り、左の写真を「絶対に『富津トンネルだ』」と書きましたが、私のチョンボでした。トンネルの写真を見ているうちに、アレ、後ろに移っている所「木津」じゃない?と思ったわけです。


右のGoogleEarthの地図はクリックすると拡大します。トンネルは3ヵ所。分かりやすく、上から1号トンネル、2号トンネル、3号トンネルとします。地図の上の方から出発すると、第1号トンネルの出口からは木津は全く見えません。


第2号トンネルの出口しか該当する所はありません。ということで、行ってみました。ところが、出口の右側は木が生い茂り、海側は全く見えません。


トンネルの出口から50メートルほどのところに、茂みが切れているところがあったので見ると、木津が意外と近くに見えます。一番上の写真の風景と比べれば、この1号トンネルの出口から撮影したことが分かります。


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下の写真は富津の風景です。富津・木津方面が見えるのは3号トンネルの入り口ですが、家があって見えません、というより、入り口で写真を撮ると、海は左側になり、一番上の写真は右側に海が見えるので、こちらのトンネルから撮った風景では無いことが分かります。

前の記事で偉そうに「富津トンネル」と書いたのは、私の全くのチョンボでした。1号トンネルと2号トンネルは千々石にあるので、「千々石トンネル」が正解。


「Kitsu Tunnel」と写真の説明に書いてあるのは、木津の風景が写っているので、木津トンネルと書いたのだと推測しているのですが・・・これにて一応、一件落着。


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さて、今日は雲仙で「パール・バックと幻の地元ロケ映画『大津波』」の講演会がありました。講師は福島大学名誉教授・有江史談会会員 松崎文博氏。

パールバックは千々石、雲仙方面を訪れたことがあり、かなり気に入っていたみたいです。パールバックの小説「大津波」を映画化するとき木津を舞台にしたそうです(千々石の旧家も舞台になっています)。右の写真が木津を上から見たところです。


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この映画はジュディオングの初出演映画だそうです。早川雪洲、ミッキー・カーティスなども出演しています。

ただ、この映画は映画会社、関係機関にも記録・資料が残されていないそうです。日本で上映されたのが1,2回だということだそうですが、これも、はっきりしたことは分かっていないそうです。まさに、「幻の映画」です。原因としては何点か考えられるそうえすが、はっきりしたことは分かっていないそうです。なお、詳しい論文を書かれた方がいます。→こちらをクリック


ただ、雲仙市は7町が合併しましたが、このと記念事業として雲仙で上映会がありました。これだけははっきりしています。


2020年7月12日 (日)

「小浜鉄道」のトンネルの名称&「小濱地方鐵道株式會社 第七回營業報告書」(大正13年上期)~雲仙鉄道

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以下のブログは一昨日途中まで書いたのですが、いつの間にやら全部飛んでいました。で、昨日書き始めたら又事故。今日が3回目の挑戦。

雲仙鉄道は以前30回程度書いたので、終わりかな?と思ったら小浜鉄道の營業報告書を読むと多少面白い事が書いてあったので。


雲仙鉄道についてはブログなどに取り上げられていますが、千々石~小浜に到る旧鉄道跡に3つのトンネルがあります。このトンネルについては名前がついていません。上の写真は千々石方面から通る最初のトンネルです。普通、トンネルの上の方には、トンネルの名前などの銘板があるのですが、ありません。出たところをみても同じ。


下は、二番目、真ん中になりますが、これにもありません。


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千々石側からいった最後のトンネル。小浜町になります。これにもありません、ですが。

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最後のトンネルを抜けたあと、回れ右をしたところ。右の方に何やら四角い、貼り付けて剥がしたような跡が。トンネルの銘板かなと思ったら、この長さじゃトンネルの口にかかってはみ出るので違うでしょう。で、何なの、といわれると分かりません。

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さて、先日、大正13年上期 第7回營業報告書を読むと工事の状況、トンネルの様子などもわかり・・・

大正13年9月30日現在石工区工事出来高として


戸崎第一号隧道(全長貮百七拾四呎)ハ 九月廿八日貫通ス

戸崎第二号隧道(全長六百参拾四呎)ハ 四百参拾参呎掘鑿セリ

とあり、戸崎は千々石町。鉄道の運転開始が昭和2年なので、まだまだですね。三番目のトンネルはまだ手つかずです。


別に「戸崎兩隧道及び富津隧道」とありますが、まだ全線開通をして無く、「戸崎隧道」「富津隧道」はあくまで營業報告書なので、仮に付けた名前の気もするのですが。


この工事の請負は「大正十三年三月十二日、大分土木株式會社ト第一回工事請負契約帰結セル一工區(延長一哩四鎖戸崎兩隧道及び富津隧道ヲ含ム)ハ  四月廿日工事に着手セリ」とありもう一つ


「・・・(第一回契約区間ヲ除ク)區間工事ヲ第二工區トシテ古土木會社と第二回工事請負契約・・・」とありこの「古土木會社」については不明。ということで、実際に工事を手がけた会社名が分かります。


なお、株主として

「小浜町 242名」「千々石村 5名」「愛野町 17名」「山田村 26名」「守山村 5名」「伊福村 1名」「古部村 6名」「西郷村 5名」「神代村 27名」「土黒村 6名」「多比良村 2名」「湯江村 1名」「大三東村 9名」「三會村 1名」「島原町 59名」「深江村 2名」「布津村 1名」「布津村 1名」「北有馬村 2名」「口之津村 2名」「加津佐村 16名」「杉谷村 6名」「南串山村 38名」「北串山村 25名」「長崎市 104名」「北高来郡 15名」「県外 3名」


となっており、株主でダントツに株保有が多いのが、小浜の湯田大夫また小浜鉄道の社長「本多親宗」氏。


各村で小浜鉄道に直接関係あるのが、千々上村、小浜村。
北串山、南串山は小浜村のお隣なので、間接的には関係あるかなと思われます。千々石は小浜鉄道の始発点になりますが、株主が少ないのは、すでに千々石まで温泉鉄道が通っていて、小浜まで鉄道が開通すると千々石には下りる人もなくなり、泊まる人もなくなくなるので
(温泉鉄道で千々石まで来て、海水浴、また、小浜、雲仙まで遊びに行っていました)・・・と邪推しているのですが。

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下の写真、「雲仙岳後援會」発行の写真集「雲仙」より。発行された年が「昭和2年9月」。小浜鉄道が開業したのが「昭和2年3月」ですから、この写真がトンネルを撮した最初の写真ではないかと思うのですが、よく、絵葉書などで利用されています。

「雲仙岳後援會」は「長崎県廳内」となっているので県庁に電話をかけたら「分んな~い」とのご返事でした。


なお、このトンネルを「木津トンネル」と書いたブログがありますが、上の営業報告書には「富津隧道」と書いてあり、地図をみても富津の上の方です。多分この写真には「kitsu Tunnel」となっているからでしょうが、トンネルの名前を付ければ正式には絶対「富津トンネル」が正解です。


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なお、Goggleのマップでみたら「小浜鉄道」が「旧温泉軽便鉄道 雲仙小浜駅跡」「旧温泉軽便鉄道 富津駅跡」と書いてあり、これ、「温泉軽便鉄道」は愛野~千々石間の鉄道の名称です。間違いはどこにでもありますが、もっとよく調べてものです。もっとも「木津駅」ではなく「木津の浜駅跡」とこれは正確に書いてありましたが。

やっと、無事に3回目を書き終えました。疲れた😩・・・。

追記
各ブログを読むと、このトンネルを抜けるのが狭くて怖かった、と書いてありますが、トンネル前でしばらく待って、同方向に行く車の後についていくと安全に通れます。



2019年10月14日 (月)

雲仙鉄道~「1号機関車の正体」

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今日は「鉄道の日」ということで、地元を走っていた「雲仙鉄道」の機関車について。

以前にも書きましたが、鉄道で小浜まで来るには、諫早駅で島原鉄道に乗り換え、愛野駅で雲仙鉄道に乗り換えるという不便なもので、昭和2年に小浜鉄道が開業した年、島原鉄道、雲仙鉄道、小浜鉄道が諌早~小浜の直通運転を開始します(昭和7年まで)。


さて、明治5年に新橋~横浜に日本で初めての鉄道が開業します。この日が10月14日です。この日走った汽車が日本での第1号機関車になります。この汽車は使用成績が悪かったためか、改造をされ、あちらこちらと回され、廃車寸前のところを
島原鉄道に譲渡されます。

上の写真は雲仙鉄道の昔の駅の所に記念碑が設置してあり、そこに焼き付けてある写真です。写真をよく見ると「1」という字がみえます。島原~小浜間が直通になったのでその時期、日本での第1号機関車が雲仙鉄道も走っていたのではということで、ネットなどに書いてあるのを見かけます。


前に書いたように島原鉄道から刊行された「島原鉄道百年のあゆみ」のなかに「・・・温泉鉄道の車両が諌早~小浜間の直通運転を開始」とあるので、残念ながらということでした。


ところが、ネットオークションをみていると昭和10年発行「鐵道趣味 秋季特別大號 10月號」という雑誌にまったく同じ写真が載っていて、雑誌を写真で撮ってあるので、説明の字が分かりにくいところもあるのですが下記のとおりです。


「雲仙鐵道」

No1機関車牽引の上り愛野村行混合列車(ここのところ読みにくく・・)が千々岩(注:ルビにてちぢわ)を出発、雲仙を背景にした千々岩彎(?)則ひの線路をやって来ます。
雲仙鐵道の蒸気機関車は1日1往復しか運転されずガソリン・カーばかりです。
No1機関車はNo2機関車と共に0-6-0形の𦾔省有1040形式のものであります。1040形式と云へば日本鐵道が明治27年大宮工場において6輌(No₈.401~406)製造したもので、現在も、割然と其の銘板が取り付けられております。
(撮影者は読めませんでした)

この「1040形式」をヒントにWikipediaを調べると、「国鉄1100形蒸気機関車」の所に「1040形」のことが下記のように書いてありました。製造は大宮工場で6台作られたそうです。


1040→中日実業公司桃沖鉱山(1916年)

1041→中越鉄道7(1919年)→鉄道省1041(1920年)→小浜鉄道(雲仙鉄道)2→明治鉄業庶務鉄業所1(1962年廃車)
1042→中日実業公司桃沖鉱山(1916年)
1043→中越鉄道8(1919年)→鉄道省1043(1920年)→小浜鉄道(温泉鉄道)1(1938年廃車)
1044→養老鉄道(1919年)
1045→簸上鉄道4(1919年)→鉄道省1045(1934年)→金名鉄道4→北陸鉄道A301

なお、ブログの「鉄道好きクラケーン一枚の図面から」には当時の雲仙鉄道の2号機関車の写真も載せてありますのでご覧下さい。

こちらを→クリック

ということで、この記念碑の写真は国鉄の大宮工場で作られた「1043」で、小浜鉄道(温泉鉄道)の1号機関車である事がはっきりし、日本の第1号機関車ではないと・・・残念ながら、やはり幻の第1号機関車でした。



              廃線になりたる跡の虫しぐれ sugikan


 

2014年3月 8日 (土)

雲仙鉄道 31~第1号機関車? その四(最終回)

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上の写真、ウィキペディアに載っている写真で、何回もお見せしていますが、この機関車が

原型で、改造をされていきます。ウィキペディアにもう一枚、下の写真が載っており、改造

は、国鉄、島鉄両方で受けますが、この写真はいつ頃のものか、不明になっています。原

型の機関車と比べると、いかに変わったことか。(うちのカミサンもですが・・)


国鉄でどのように改造されたか、写真を探したのですが、ついに見つかりませんでした。

その折、You Tubeでなぜ、改造が必要だったのか、「迷列車【九州圏】♯25 島鉄1号機

関車」に説明があり、要点を書けば、1号機関車は、現在明治村で活躍している、160型

「12号機関車」と比べれば著しく劣っており、その原因として、異常に低い重心のボイラー

の据え付けにあったようで、明治17年、大阪に転用される際、神戸工場で、ボイラーの、

かさ上げ工事がおこなわれたそうです。


なお、島鉄にきても、煙室の扉、砂箱、蒸気ドームも替えたそうですが、これは、九州鉄道

の廃車になったものを使ったそうです。


又、同じくYou Tubeにて「鉄道博物館 1号機関車物語 開会の様子」がアップされていま

すが、鉄道博物館に問い合わせたところ、この機関車は明治30年仕様、すなわち明治1

7年に、改造された後の機関車になりますが、特に車高が、低く見えます。You Tubeを是

非ご覧下さい。

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さて、いよいよ、この1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったかどうかですが、まこと

に残念でした。分かったのが、いつも参考にしている「島原鉄道100年史~夢ある未来を

めざして」の冊子でした。


最後の方に、「島原鉄道の100年のあゆみ」という事で、年譜が載っており、1927年(昭

和2年)、諫早~小浜間が乗り換えなしで良いように開通した年ですが、ここのところに、

「6.6 小浜鉄道の開通により、温泉鉄道の車両が諫早~小浜の直通運転を開始。」

と書いてあり、あくまで走っていたのは、「温泉鉄道の車両」と言う事で、「島原鉄道の車

両」が、と言う事ではないということが分かります。


昨年から、写真、資料と調べまくり、写真を比べ、汽車の前面、窓の形、煙突の下の状態

から、違うのかなとは思っていたのですが、やはり、はかない夢でした 


おまけです。「温泉鉄道のガソリンカーの愛野村駅入り込み」の説明が付いています。

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「初めてのガソリンカー 昭和5年」。列車のまえに旗が付いて、大勢人がいるところをみ

ると、初運転の時でしょう。だとすれば、島原駅か?

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「昭和14年・県立口加高等女子学校『口之津町』 口之津鉄道のガソリンカーで登校」の

説明。この島原鉄道南目線は、廃線になりました。

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以上三点の写真は「島原鉄道100年史」からです。


この記事を書くにあたっては、島原本社まで出かけましたが、丁重に対応していただき、

また、貴重な資料までいただきましたことを、心から感謝いたします。ありがとうございまし

た。

(参考・文引用・写真:「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」「島原南高の100年

~監修 松尾卓次」「島原半島の歴史~監修 松尾卓次」、ほかウィキペディアより)



2014年3月 7日 (金)

雲仙鉄道 30~第1号機関車? その三  

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              (「島原鉄道100年史」より

上の写真の機関車、「1号機関車(大正初期)」と書いてあります。前回書いたように、明治

44年、日本の1号機関車は、島原鉄道に払い下げられますが、前回の設計図と比べると

分かると思いますが、ほぼ一緒の形だと思われます。こうして見ると、D型機関車などと違

い、随分小さい事が分かると思います。


さて、一号機関車として、数冊の本に写真が出ているのですが、撮影の日にちがほとんど

分からず、私も、鉄道マニアでなく、よく分からないので写真を並べてみます。


一応、念のため、「大正初期頃の3号機関車と思われる」と注釈がある機関車。

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           (「島原鉄道100年史」より)

松尾卓次氏編の「目で見る 島原南高の100年」に載っている、1号機関車。胴体の横の

所に「1」と言う字、その上に、島原鉄道のマークが見えます。本書では、大正初期となって

います。

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 以前のマークと、今使っているマーク。少し違っているのが分かると思います。

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「島原鉄道100年史」からの写真です。横に、島鉄のマークと「1」その下に、多分「島原鉄

道」の文字だと思いますが、加わっています。下の写真同じようでですが、写真の写す角

度、煙突の下の痛み具合から、上の方が使い込んだような感じ。

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「長崎歴史文化博物館」に売っていた絵はがき。煙突前の探照灯(ヘッドランプ)がありま

せん。上の写真より以前のか?取り外しができたのか?珍しく、煙が出ている写真です。

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下の写真、「島原南高の100年・監修 松尾卓次」、「島原半島の歴史・監修 松尾卓次」

「島原鉄道の100年」。同じ写真が載っていますが、「島原半島の歴史」には、「島原駅と

シマテツ列車」となっており、他の本には「多比良(たいら)駅」となってますが、どちらが本

当?

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「多比良の浜、田川の鉄橋を走る1号機関車(大正時代)」。車体の真ん中、かすかに島

鉄のマークと「1」の字が見えると思います。

珍しく、貨車を押していますが、前の方には牽引機関車がいたと思います。

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さて、今日は、1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったのかどうか、結論を書こうと思っ

たのですが・・・・一号機関車は、原型をとどめないほどの改造を、国鉄、島鉄で受けます

が、どうして、改造を受けなければならなかったのか、偶然のことに、今日になって分かり

ました。


次号はそのことと、結論を。勘の言い方は写真を見て行けば、すでに分かられたと思いま

すが・・・結論まで長くかかりましたが、あと1回で、「第1号機関車」は終わりです。なにや

かやで、長くなって  (*_ _)人ゴメンナサイ  。



 



2014年3月 6日 (木)

雲仙鉄道 29~第一号機関車? その2

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少し呆けてきたようで、昨日、明治44年と書くところを、昭和44年と書いてしまって、訂正

はしておきましたが・・・雲仙鉄道の続きです。


さて、しっつこいようですが、雲仙鉄道の各駅の記念碑の所に、焼き付けてある写真で

す。確認のために載せます。


最初写真を見て、考えたのは、この場所はどこか?左に見える畑は、路線際に所々見ら

れる風景です。


右側、良く見ると、防波堤と思われるものがあり、その外側は海岸の岩礁みたいに見えま

す。だとすれば、千々石断層の下あたりか?


この写真、「小浜鉄道」と書いたものがあり、小浜鉄道と言えば、千々石~小浜ですから、

似た風景がないか、一応、小浜の観光協会、小浜支所に聞きに行ってみましたが、はっき

りせず、富津あたりではなかろうかと言う方もおられ、ウロウロしてみましたが、やはり似

た風景はなく・・・


二枚の写真があり、一枚は小浜郷土館、一枚は個人が所有していたもの。千々石海岸で

す。

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              (小浜資料館にて)

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                  (個人所有)

同じように見えますが、満潮と干潮。また、線路の写り方を見ると、下の写真は、上の写真

より、かなり下ったところで、写真を撮ったことが分かります。たぶん、同じ人が、同じ日に

写したという感じがあるのですが・・・・ルーペ、パソコンで拡大して見ると、一軒だけ違う家

があり、写真を写す角度の関係か、写した時期が違うものか、悩みます。


赤矢印が線路ですが、写真の右の方に行くと、千々石断層の一番ひどい所。

海と平行に、海のすぐ横を汽車が走ります。なお、ここのところは、岩礁がゴツゴツとした

所で、砂浜ではありません。


念のため、一番上の写真を、ディサービスのお年寄りに見せたところ、「塩屋(千々石海岸

付近)のとこやろ」と言う事でしたが、当時とは、地形も変わっており、はっきり、ここだと断

定できることは、できませんでした。


さて、機関車です。昨日も載せた、ウィキペディアに掲載されている、一号機関車の写真で

す。

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             (ウィキペディアより)

島原鉄道に入ってきた時は、かなり、改造されていたようで、下は、島原鉄道に入ってきた

時の設計図だと思われます。

「形式称号/1   車種/四輪連結タンク機関車  番号/1」と書いてあります。

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          (「島原鉄道100年史」より)

ご覧の通り、改造されていることが一目瞭然です。とくに、機関車の上の方。

図面の下に、製造所名「ランカッシャー ヴァルカンフアウンドリー」。製造年月日「187

1」。前所有者「鉄道院」。旧番号「150」。「元作業局第1号」。その他、寸法等の記

載。


さて、島原鉄道でも大改造がおこなわれますが、また、次号。

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諫早市森山図書館、玄関脇のミモザ。今が盛りです。不思議な花ですね。






2014年3月 2日 (日)

雲仙鉄道 28~第1号機関車? その一

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さて、しつっこく雲仙鉄道です。右のカテゴリーの「雲仙鉄道」をクリックすると、今までの部

分が出てきますので、ご覧下さい。ただ、少し(おおいに?)私の誤認したところがあり、ま

だ訂正していませんので、ご注意を。いつか、訂正します。


さて、千々石の、「上千々石駅」の記念碑です。この横に説明版がありますが、この赤の

矢印の所、機関車の写真が焼き付けてあります。これは、他の駅跡の記念碑にも、同じ

写真が焼き付けてあります。拡大すると

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この矢印の所、どう見ても、数字の「1」に見えます。すなわち1号機関車と言う事です。

もう少し拡大すると。

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さて、これが何故気になるかというと、再度、雲仙鉄道の歴史を簡単に書くと、この鉄道

は、本来、温泉(当時は「うんぜん」と読んでいました。)軽便鉄道(のち温泉鉄道に改称)

と小浜地方鉄道(のち小浜鉄道と改称)に別れていました。


温泉鉄道は、大正12年(1923)5月5日に、愛野村~千々石を開業。

小浜鉄道は、昭和2年(1927)3月10日に、千々石~肥前小浜を開業。


昭和8年(1933)に小浜鉄道が「雲仙鉄道」に社名変更をし、「温泉鉄道」を合併し、「雲

仙鉄道」となります。


長崎、福岡方面からくると、国鉄の諫早駅で下車、島原鉄道に乗り換え、愛野駅で下車

し、雲仙鉄道に乗り換え小浜まで、と言う事になり、非常に不便になるので、昭和2年6

月、島原鉄道、温泉鉄道、小浜鉄道の3社で、諫早~肥前小浜の直通運転を開始します

が、昭和7年(1932)11月、直通運転を廃止します。


その後、昭和10年に島原鉄道に経営委託し、昭和11年10月、直通運転を再開するも、

昭和13年(1939)に廃業。


と言う事で、昭和2年~昭和7年、昭和11年~昭和13年は、諫早~肥前小浜が直通運

転であったということになります。


さて、問題は、この「1」と書いた機関車が、雲仙鉄道のものか、小浜鉄道のものか、島原

鉄道のものかと言う事です。もし島原鉄道の「1号機関車」なら、話が面白いのですが・・


なぜ、島原鉄道の「1号機関車」が、問題になるかというと、島原鉄道の「1号機関車」は、

日本の鉄道が開業した折、イギリスに10両発注された機関車の中で、最初に日本に着

き、「1」と番号が付けられ、新橋~横浜間を走った機関車で、現在、鉄道博物館に納め

られ、重要文化財に指定されているからです。


この一号機関車は、輸入後、改造、各地に転用され、明治44年に、鉄道院から、他に機

関車4輛、、4輪客車10輛、無蓋貨車7輛と共に、島原鉄道に払い下げられます。


のち、貴重な機関車ということで、返還・保存の運動が起こり、昭和5年、鉄道院と別の機

関車と交換という形で、鉄道院に返還されています。なお、この時は、盛大な送別会がお

こなわれたそうです。


ですから、昭和2年から、鉄道院に引き取られる、昭和5年の間に、現在、国の重要文化

財になっている、1号機関車が雲仙鉄道を走っていた可能性があるのではないかと・・・・

もし走っていたら面白いなと・・・・・


ウィキペディアに載っている、第1号機関車の原型です。

Photo

この機関車が、雲仙鉄道を走ったかどうか、結果は出ましたが、昨年から調べ回って得た

結論。簡単には教えません。


なお、この機関車、島原鉄道でも大改造をうけており、次回は、その改造された機関車の

姿などを・・・


3月になりました。4月には入学式。「ともだち100人できるかな・・・・」。小学校の新入生、

28名なんですけれど・・・・・

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(参考・引用:「ウィキペディア」「島原鉄道100年史」より)







2013年9月 3日 (火)

雲仙鉄道 27~昔の汽車は弱かった・・・

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          (「島原半島の歴史~監修松尾卓次」より)

「島原半島の歴史~監修松尾卓次」の本を見ていると、「雲仙鉄道計画路線」と題して、上

の地図が載っており、説明に、「計画では小浜温泉街まで乗り入れるようになっていたが、

資金難で北野までとなり、目論見が大きく崩れた、難工事と経済性が危ぶまれていた計画

のようであった。」と書いてありましたが、前回少し書いたように、当時、小浜には自動車

会社があり、温泉街まで乗り入れると、自動車は用事が無く、北野からだと、あと2,3キ

ロで温泉街。多分、乗客は利用するでしょう。何となく、考えると裏があるような気がするの

ですが・・・・


さて、この地図の太線が計画路線になるのですが、見ていると、あれ!?

小さなところでは、駅の位置、路線が少し違う所があるのですが、特に、赤の矢印のとこ

ろ。

2_2

ざっとした書き方ですが、実際の線路は、山王さんを赤い点線のように、ぐるっと回って行

くのですが、計画図では、愛津から、愛野町の中野地区を通ることに

3_2

赤の矢印が、山王さん、計画図では、山王さんに沿って走るようになっていますから、大

体、黄色の所から入るのかなというところです。家が見えますが、これは新興住宅です。

4

こちらが、出口の中野地区になります。


考えると、山王さんからぐるりと回っても、人口が大きな地区があるわけではなく、唐比地

区がありますが、ここは「水晶観音」駅を利用すれば問題は無し。


後は、土地所有者の問題か工事の問題かと思ったのですが・・・・思わぬ事からヒントが

「島原鉄道100年史 夢ある未来をめざして」のなか、「駅今昔」の「大三東(おおみさき)

駅」の記事の中に、次のように書いてあります。


「湯江(ゆえ)~大三東間の境の松付近、大三東~三会間の松尾・鼻の先付近は、島鉄に

は珍しい急勾配。といっても1,000メートルいって15.2メートル上がる程度だから、いま

のディーゼルなら何のこともない。だが、十数年前のSLにとっては大変な”心臓破りの丘”

だった。上がりにかかるとシュシュシュシュ・・・・・と車輪はカラ回り。やむなく駅まで引き返

して”再出発”したものだ。

『おかげで乗り遅れた汽車に間に合った』と喜ぶ人も多かったらしい。」


雲仙鉄道も、同様で、「旅する長崎学 第29回 レトロな旅路 小浜鐵道」、「木津の浜

駅」の所に、小店屋(今は廃業しているみたいです)さんをしている、橋本さんの話として、

「修学旅行の団体客が小浜に向かうとき、客車を連結していましたが、坂道で重くて進ま

ずに、大人たちは降りて押していたのだとか。」


また、別のブログにも、「車掌をしていた父の話によると、時々坂道を登らず、お客と一緒

に列車を押していたらしい。(車掌をしていたお陰で、鉄道ネタでは何度かローカルテレビ

にでた)」という話があり、当時の汽車の力は弱かった。(私と一緒)


話を元に戻して、原図の所に行って見ると、少し急な丘を越えていくことになり、とても、昔

の汽車では越えきれないでしょう。トンネルを掘るか、堀切にするかでしょうが、経費の点

から見ると、山王山を回った方が安くついたのでしょう。


こうして見ると、愛野から小浜まで、特に、千々石から小浜間、難工事と言いながら、線路

を見直してみると、坂を避け、苦労して、敷設計画したことが分かります。



また、台風接近。ウチのカミサンもどういうわけか、今日はポチ台風気味でした・・・・

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2013年8月23日 (金)

雲仙鉄道 26~汽車と自動車

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             (写真;小浜町資料館より)

慶長19年、三河から来た、本多親能(ちかよし)氏が小浜温泉の管理をし、藩主より小浜

庄屋と、小浜温泉の取締を命じられますが、城主の認可を得、長男の才兵衛親継(ちか

つぐ)氏を庄屋とし、次男、親次(ちかつぐ)氏を湯大夫(温泉の湯元、元締)とし、親次氏

が初代の湯大夫となります。


明治26年、南高来郡部長5代、金井俊行によると、「小浜ノ湯ハ六カ所ニシテ皆本多西男

氏(注;第十代目湯大夫)ノ所有に属ス・・・・」とあり、かなりの資産があったのでしょう。



この、本多西男氏が、自費を投じ小浜海岸を埋め立て、現在の小浜温泉の基礎を作りま

す。


鉄道跡を辿って、いろいろ話をすると、「この鉄道は、湯大夫さんが作ったもんじゃ」、と言

う話をたびたび聞いたことがあり、私も当然、鉄道建設当時から、湯大夫さんが係わって

いたと思っていたのですが・・・・・年代は、はっきりしませんが、雲仙小浜鐵道の社長とし

て、本多西男氏の子息、「本多親宗」氏の名前が見えます。


以前、愛野~小浜町の短い距離に、なぜ二つの鉄道会社があるのか、長崎日日新聞の

記事を紹介しました。→記事はこちらをクリック


ところが、二つの鉄道会社が出来たのには、他にも理由があったみたいで、昭和52年の

小浜町観光課発行の、「国立公園 雲仙観光圏」に次のような記事がありました。


「・・・・鉄道区間は最初から小浜まで走らせたかったが、それより少し先に小浜の本多湯

大夫氏が自動車会社を設立していたので湯大夫さんは参加しなかった。・・・・・しばらくは

自動車と汽車の競争が続いた。鉄道会会社は赤字が続いた。・・・・やがて本多氏も参加

することとなり鉄道は小浜まで延びた。・・・・」


「島原・南高の100年~監修・松尾卓次」にも、「当時小浜には『小浜自動車株式会社』と

『雲仙自動車株式会社』が営業していたため、当初は温泉鐵道は千々石までで止まっ

た。」とあります。

Img

         (島原・南高の100年~監修・松尾卓次より)


「国立公園 雲仙観光圏」には次のように書いてあります。「小浜自動車株式会社」は大正

元年、小浜町有志の共同経営で始まり、大正2年に株式会社に。


最高級大型レオ号、貸し切り車は、パッカード・カデック等の最高級者のみ30台を揃

え・・・・・・

社長は、鉄道の社長と同じく、「本多親宗」氏です。


これでは、湯大夫さん、すんなりと鉄道には参加するはずは無いのですが、なぜ、後年参

加をしたのか?参加の時期はいつ頃なのか?


汽車が、温泉街まで乗り入れず、2キロほど手前の北野で終点になります。資金不足と言

われていますが、自動車会社との関係を考えると、何か関係があるような気がするのです

が・・・・


ちなみに、愛野~小浜まで、自動車代は70銭。汽車代は80銭。汽車で行くと、温泉街ま

で、まだ距離があります。

(参考・引用:「島原・南高の100年」「国立公園 雲仙観光圏」「小浜町史談」)


久しぶりの雨。昔は相合い傘で・・・ポチと思い出しますね。カミサンとはしませんが・・・・

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