史跡

2020年5月14日 (木)

「原城」の名称について~苦労しています

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島原・天草一揆の舞台「原城」。

現在では「原城」で統一していますが、調べると「原之城」「有馬城」「志自岐原城」「春城」「日暮城(ひぐらしじょう)」とあり、普通なにげに使っていたのですが、「原の城」は分かります。「有馬城」は城のあったところが”有馬地方”だから、なんとなく分かりますが、「志自岐原城」「春城」「日暮城」ってなんなのさ?と思ってネット、本で調べたら、部分の説明はあっても、一括した説明がありません。一応、市役所の担当室に聞いても、まったく正確な反応が無く・・・勉強してませんね。現在、観光地としての扱いみたいですが・・・


ということで、以前よりこの件に関しては多少関心があったので、島原・天草一揆に関する本、手持ちの古文書、古地図にはどう描かれているかなどを調べかかったら、次から次へと疑問があり悪戦苦闘しております。なお、原城の観光ガイドの方に聞いてみたら、知識としては持っておられ参考にはなりましたが、裏付けなどは、はっきりしたことが分からす、と言ったところでした。

なお、”城プロ”というところで、「志自岐原城と刀剣乱舞」というゲームがあるようですが、これ、なんでしょう。

いつになるか分かりませんが、一括して説明できればと思っています。乞うご期待、とは言いたいのですが、あまり当てにせず、お待ちのほどを(挫折するかもしれませんが)m(_ _)m。


2020年4月23日 (木)

「島原藩江戸屋敷」~下屋敷(?)について・其の二★ちょっと脱線

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く下屋敷のことについて書きたいのですが、資料と地図の整理がついていないので、今日は”ちょっと脱線”します。

上の図は以前「島原藩江戸屋敷はどこだ」に使いましたが、少し付け加えがあるので・・・


赤の丸印が島原藩のお殿様の上屋敷。「松平とのも」と書いてありますが、正式には「松平主殿頭(まつだいらとのものかみ)」。

数寄屋橋を渡ったところに、何やら四角なところがあります。城には真っ直ぐは入られないように、門のところに枡形といって四角に囲んだ所があり、ここで、攻め入った兵は曲がりながら攻め入るので混乱をし、上から矢を放ったり投石をします。数寄屋橋を渡ったところの四角には、これに属するものだと思われます。江戸城の橋を見ると、渡った所全部にこの四角いのが描かれていました。青の丸印「南町奉行所」です。たぶん、桜吹雪のオジチャンの勤務先です。この頃はいたのかどうかは不明ですが・・・

さて、島原藩松平家は「深溝松平家」になり、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つで、松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となります(Wikipediaより)。


下図、江戸城の近くだけを撮して見ましたが(萬延元年版の江戸図)、「松平」(紋所があるのが上屋敷・上屋敷だけ印を付けました)というのが多いのに気づきます。今まで、これ全部、島原藩松平氏と一緒の徳川家のご親戚かと思っていたのですが、江戸屋敷を調べるに当たり数冊本を読んでいたら、「重ね地図で読み解く大名屋敷の謎・歴史探訪家 竹内正浩著(宝島社新書)」に次のように書いてありました。


江戸周辺の大名のほとんどが、親藩・御家門もしくは譜代大名だった。有力な外様大名は徳川家と縁組みを交し、松平姓を賜っていた。明治になると、松平姓を捨て、本姓に復帰した旧大名家も多く、また歴史の教科書でも、毛利や薩摩といった姓で掲載されているため違和感を覚えるが、江戸期の大名は「松平」だらけでだったのである。たとえば毛利家は松平大膳太夫、島津は松平薩摩守、前田家は松平加賀守といった具合である。


ということで、なぜ「松平」が多いかという謎が分かりました。城から離れた所にも「松平」の文字があります。


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徳川家康は、松平竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と名前が変わるわけです。いくら有力な外様大名で縁組みを交わしたとは言え「徳川」姓は名乗れないので、松平姓を名乗ったのだとは思います。私の考えですが。

さて、以前から「松平」から「徳川」に変えたのは、なぜかと考えてはいたのですが、今日、本屋さんに下のような本が置いてあり、1500円+税で、年金生活で金は無く、本を買ってくるとカミサンから「又、買って来て!!」と怒られるのを予感しつつ、マンガ本だという事もあり(近頃は目がかすんで活字は読みにくい)買って来たら、これがビンゴで「松平」から「徳川」に変えた経緯が書いてありました。まだ全部読んでいませんが、次の通りです。


「中国では前の王朝を滅ぼして新たに皇帝になった者が何人かいるが、皇帝たちは『徳があった』ことになっている。徳があったからこそ天下がとれた。天がそれを祝福したと考える。徳川家康は朱子学の考えが分かっていて、松平から改姓する際に、『徳』川と名乗ったんだ。」


という事で、これにて一件落着。


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とは思うのですが、改名の経過はWikipediaの「徳川家康」の所に書いてあるので合わせて、ご参照下さい。

さて、「下屋敷(?)」まで、資料集めがはかどらず、結論までどれくらいかかるかは不明ですが、お付き合いのほどを<(_ _)>。



2020年4月20日 (月)

「島原藩江戸屋敷」~下屋敷(?)について・其の一

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以前「島原藩江戸屋敷はどこだ?」(→こちらをクリック)ということで紹介をしましたが、別件で調べ直していると、特に下屋敷について面白い事があったので、2、3回に分けて書いてみます。

上の写真はWikipedia「島原藩」に載っていた写真。左は数寄屋橋門と書いてありますが、昔の江戸の絵図を見ると、数寄屋橋門のすぐ左に「島原藩上屋敷」があるので、多分大きな屋根がそうなのではないかと推測できます。島原藩江戸屋敷は明治大学の前身「明治大学法律学校」として使われましたが、数寄屋橋公園の近くに「明治大学発祥の地」として記念碑が建てられています。左の写真の大きな建物は旧日劇。(下の写真はGoggleEarthより)


上の右の写真は「旧島原藩邸中屋敷黒門」となっていますが、島原藩中屋敷は慶応大学三田キャンバスになります。なお、「慶應義塾百年史」328ページには中に入ったところの写真が載っています。


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で、本論ですが、この下屋敷について「江戸名所図絵」の「千代が崎」のところに、島原藩主松平候の名前が見え、説明文は以下の通りです(ちくま学芸文庫・新訂江戸名所図会3より)。

千代が崎 
渋谷宮益町より、目黒長泉律院へ行く道の傍ら、芝生の岡を言ふ。佳景の地にして永峯に属せり。絶景観というは、松平主殿候の別荘の号にして、閑寂無為自然にその地に応ず。(注:下線は私が引いたもの、「主殿(とのも)」は島原藩主松平公の官職名)


下が千代が崎の図。


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上の図、右上の説明文です。

千代が崎
 行人坂の北、永峯松平主殿候別荘の後ろ、中目黒の方へ少し下るところなり。初め鑓が崎といひしを、後に千代が崎と改められしといふ。主殿候構いの旧邸にして池の傍らに衣掛け松といふあるは、新田義興の室、義興矢口の渡しにて最後のことを聞きかなしみに絶えず、この池に身を投ぐるといへり。絶景観といへるもこの別荘の号なりとぞ。


下が萬延元年の江戸図より、該当のところの図。「松平ともの」は「松平主殿」。


島原藩といえば「六公四民」。年貢の六割が藩に取られ、四割が自分の取り分。いってみれば6割が税金で取られていました。で、お殿様は優雅に暮らされていたことが分かります。


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目黒区のネットで「目黒の地名 千代が崎」ということで紹介されています(→こちらをクリック)。少しく気になるところもあるので・・・

「・・・また千代が崎には、こんなエピソードも残されている『松平主殿頭の屋敷内に三基の異様な灯ろうががあった。この灯ろうは大正15年に大聖院(名黒区目黒三丁目1地番)に移されたのだが、それが十字架をした切支丹灯ろうであることがわかり、この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになった』のである。・・・」


「切支丹灯ろう」は「織部灯ろう」のことで、この灯ろうはキリシタンとは関係ありません。「風間書房刊『キリシタン研究・第二部論攷篇 松田毅一著』の中の「第四章 織部灯籠とキリシタン宗門」において、織部灯籠がなぜキリシタン灯籠といわれ始めたのかが詳しく書かれています。目黒区のネットの記事、早く直したほうが良いのではないかと思うのですが。


閑話休題。

江戸時代の地図を何枚か眺め、ネットで調べ裏付けを取ると、あと二つばかり、おや?っと思ったことがあり、現在調査中なので、後日、またネ<(_ _)>。




2020年2月 8日 (土)

「天守閣はありません」~KTN・【ローマへ渡った天正少年~千々石ミゲルの選んだ道】

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1月2日、KTN(テレビ長崎)で天正少年遺欧使節を扱った放映がありました。特に「千々石ミゲル」に焦点をあて「ローマへ渡った天正少年~千々石ミゲルの選んだ道」という番組でした。

多分、昨年「千々石ミゲルの墓所」とみられる土地が発掘調査をされ、遺物、骨などが見つかり、新聞、テレビなどで大きく紹介をされたからだと思われます。千々石町の隣町の方が、千々石ミゲルなんて知らない、といわれる現在、このような形で放映されたことは、喜ばしい事でした。また、内容も分かりやすく、天正少年遺欧使節の入門とも言えるものでした。

ただですね、上の映像が流れたとき、二人の女性が次のように話をしていました。

「着いた、ここが釜蓋城(かまぶたじょう)だ」
「ここで千々石ミゲルが生まれたのか」
「城って聞いたから立派な建物かと想像していたけれど、残っているのは、これだけなんだ」
「うん、これは、今、復元して展望台になっているんだけど、この釜蓋城は建てられてから8年で落城したんだって」

この釜蓋城、天守閣があるような城ではありません。あの時代、天守閣を持った城といえば、島原半島では日野江城、原城くらいでしょう。島原城はまだ後世の城です。

釜蓋城といっても、当時としては山城だったと思われます。

長崎県で城郭調査をしましたが、この釜蓋城は上の方がグラウンドになっていたためか、調査がされませんでした。調査があれば、どのような規模のものか分かったと思いますが、残念な所でした。

さて、二人の会話の中で「復元して展望台になっているんだけど」のセリフがありますが、「復元」とは「もとにかえすこと。元の位置・形態に戻すこと。」(広辞苑)であり、もともと無かったものを復元できるわけはありません。

KTNが何を根拠に台本を書いたのか分かりませんが、テレビ放送で多くの人が見ているので、ここに天守閣を持った城があったと誤解される恐れがあり、もっと調べて欲しかったと残念な思いでした。

もっとも、天守閣を模した展望台はグラウンドができたとき建てられたものですが、この様なところに「天守閣」とおぼしき展望台を建てたのが、問題なのですが・・・

皆様も釜蓋城に天守閣があったとは思われないように。



2020年2月 4日 (火)

「大日本長崎道之尾私立大遊園」はあったのか?なかったのか?

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              (写真はクリックすると拡大します。多分。)

左は「大日本長崎道之尾私立大遊園」の絵図。右は絵図に付いていた「一大遊園設立に就き御披露(以下「御披露」と略)」の小冊子とそれを入れた袋。

「御披露」には、造営の目的などが書いてあり・・・旧漢字ですが新漢字で書きます。


・・・今より八九年前日本軍艦軍人数百名運動の為弊舎へ御来臨の折珍しき好地なれど惜しい哉庭園の場所狭しと仰せ聞けら候が某(それがし)に取って発念の初機にて熟々愚行致候・・・・」てなことで一念発起、庭園を造ろう、ということになるらしいのですが・・・


後ろに「施設遊園 萬象園約款」というのがあり、12条から成り立っていますが・・


第一条 長崎県西彼杵郡長與村(注:長与村)字道ノ尾施設遊園ヲ完全二成就シ及ビ維持スルノ補助トシテ義援金ヲ募集シ其ノ義捐ヲ為シタル紳士ヲ本園ノ会員ト為シ優遇スルモノトスル。


文面からすると、公園を完成するために義捐金を集め、賛同する方は会員として優遇するという事になります。なお、後の条項も読むと会員に対する優遇措置について書いてあります。


さて、この遊園については平成6年3月31日発行の「長与町郷土誌 上巻」に「かっての名勝地『道の尾公園と温泉旅館、萬象園』」という事で載せてあり、要点だけ書くと


「道の尾温泉前」停留所すぐ近くの道の尾温泉浴場から「東側のま近なところに小高い丘があるが、ここがかっての『道の尾公園』と呼ばれ一般に親しまれたところである。また、そのふもとに「萬象園」という立派な庭園を備えた料亭兼温泉旅館があった。」


萬象園を建てたのは「吉田吉平」氏。吉田氏は古くから語り継がれた温泉鉱泉を探し求め、明治初年に発見。翌2年に「萬象園」を創業したそうです。


これが有名になり、訪れる客が相次いだそうですが、道幅も狭いため、個人出費で腰弁当で道路の拡張に采配をふるったそうです。吉田氏はアイディアマンで、庭園畳20枚ほどの”日本地図”を作り、鉄道の小旗を立て、模型の汽車を作らせ、これが好評で大繁盛。明治時代という事を考えれば、うなずけるところです。なお、ロシア入港のロシア人将校の姿も見られたそうです。


「御披露」に書いてある「日本軍艦軍人数百名」と書いてあるのはこの頃だと推察されますが、「御披露」に書いてあるように「場所が狭い」といわれたので、と思われますが、「明治23年頃から『道の尾公園』の造成に着手」です。「披露」の発行が明治25年12月になっているので、途中から義捐金を募ったことが分かります。


5年後に完成し、にぎわったそうですが、公園の広さが約三万平方メートル、東京ドームの建築面積が46,755㎡、グラウンドが13,000㎡という事を考えると、明治時代、個人が作った遊園だったことを考えると、いかに広かったが分かります。


ただ、第2次大戦中、萬象園は三菱の寮となり、戦後、公園も荒れ旅館も廃業。公園跡には忠霊碑、温泉碑などが淋しく残っているそうです。


吉田氏が見つけた鉱泉は、この地に温泉浴場があり利用されているそうです。


なお、「ながよふるさとカルタ」に「道ノ尾の 温泉王は 吉兵衛さん」というのがあり、説明に・・・


今から百年以上も昔の明治二年、道ノ尾に吉田吉平という人がいて、この人が温泉を掘り当てました。何年かすると、鉄道が通るようになり、道ノ尾にも駅ができました。でも、まだ思うようにお客さんが集まりません。なぜなら、駅から温泉まで八百メートルもあり、馬車などが通るような道が出来ていなかったからです。そこで、吉平さんは、お金をだして道路を造りました。そして、道の王様と呼ばれるようになりました。


さて、本当に上のような壮大な遊園があったのかどうかは疑問ですが、鉱泉を掘り当て、広い敷地に遊園を作った男がいたことは事実でしょう。写真を探しましたが、残念ながらでした。体調が良ければ行ってはみたいのですが・・・


以下、余談ですが、この図が長崎市立図書館にあるそうです。フェースブックに「微かに明治14年と読めます」と書いてありますが、正確には「明治廿四年十月十六日印刷」が正解です。


また、某ブログに、雲仙を描いた吉田初三郎とくらべ、「『大日本長崎道之尾私立大遊園』図がいかに稚拙でかつ誇大な妄想図であるかが分かります」と書いてありますが、上に書いたことを考えれば一概に「稚拙」で「誇大」で「妄想図」でないことが分かります。多分、調べずに書いたのでしょうが、ネットではこのような無責任な記事が多く、困ります。「ネットの情報要注意」ですネ。自分でちゃんと調べて裏付けを取りましょう。


(参考:「大日本長崎道之尾私立大遊園」「一大遊園設立に就き御披露」「長与郷土史 上巻」「長与町ホームページ:ながよふるさと『かるた』」)





2019年11月13日 (水)

「橋の裏表(入口・出口)」

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いつも橋を通るたび、橋の名前が片方が漢字、片方が平仮名になっているのは、何でだろうと思っていたら、たまたま「長崎浜の町繁盛記」(田栗奎作著・発行所 浜市商店連合会・非売品)という、浜町の起こりから昭和55年程度まで書いた本を読んでいると、橋の表裏について下記のように書いてありました。橋の裏表といっても、上と下ではありません。出口、入り口と表現したものもあります。

「・・・橋の裏表はふつう、漢字のある方が表、平仮名の橋名柱が裏となっている。この表裏は城または氏神を中心として決めたものとしていわれ、城下町でない長崎では奉行所を中心にしたようだ。大橋(注:現鉄橋)も築町側が表で、浜の町側は裏になる。明治元年の鉄橋のときも、『銕橋』という漢字の橋名柱は、やはり築町側に建てられた。」

さて、この橋の付け方は現在違っていて、Wikipediaの「橋名板」でググってください。一応下記のように書いてありますが、「国土国交省の道路橋示方書などに基準が示されるているものではなく、自治体などの発注者が仕様書などに定めている場合が多い」ということで、各自治体で違っているようです。

・道路起点側から見て左側に「漢字表記の橋名」

・道路起点側から見て右側に「交差する河川(鉄道)などの地名物」
・道路終点側から見て左側に「ひらがな表記の橋名」
・道路終点側から見て右側に「竣工年月」

ですが、徳島県では「県庁に向かって」「県庁を背にして」それぞれの左右に、「漢字表記」「竣工年月」「ひらがなの橋名」「河川名等」を書いているそうです。


原則「橋名」「竣工年月」「道路橋仕方書(年度)」「活荷重」「使用鋼材」「事業主体」「設計及び製作・施工会社名等」「将来の維持管理に最低限必要な事項」を記載しなければならないそうです。が、見たところ、全部書いてあったかな?
あとは、各自、地元の橋を調べてください。

なにはともあれ、「城または氏神を中心として決めた」というのが、好きだな~(*^^)v。



2019年2月 4日 (月)

「荒飛甚太夫」とは何者か?~千々石町温泉神社力石について

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千々石町「温泉神社(旧四面宮)」にある「力石」です。

以前は彫られた字も、もう少しはっきりしていたのですが、「力石」と中央に彫られた文字以外は摩耗しています。

がですね、ちゃんと調べた方がおり、四日市大学健康科学研究室、高橋愼助氏(2009年現在)の「九州・沖縄の力石」(他、全国の力石についての著作有り)の雲仙市のなかに

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①「奉納 力石 目方三百四十斤 東京相撲 荒飛甚大夫 明治十六年三月九日」  66㎝×37㎝×32㎝

となっています。

「千々石町郷土誌」には、「怪力無比『荒飛』」の話として、概略書くと。

時代不明。
子供の頃から、力持ち。皆にすすめられ江戸(東京)に上がり相撲取りに。グングン位も上がり、このままでは横綱大関を倒すのも、もうすぐだろうと噂に上がるようになり、これを聞いた横綱が無法者を雇って殺そうとしたところ、これを耳にした横綱宅の女中が、可愛そうに思って荒飛に知らせたそうです。

荒飛は怒り悲しみ、こんなつまらない世界にいても仕様が無いと千々石に帰って百姓になったそうです。

ある日、曲がりの浜から石を一つ持ち帰りお四面さん(現温泉神社)の前に置き、青年たちに持ち上げさせたが、誰一人持ち上げる者はいなかったそうです。
で、「この石はなお、お四面さんの社前にある。」ということで、上の写真の力石です。ということです。

この「荒飛」がどういう人物なのか興味があり、ベースボールマガジン社の「大相撲人物大辞典」(大相撲三百年のなかで、それぞれの時代の幕の内の力士のデーターが書いてあります)。これを読むと荒飛という力士が2名書いてあり、1名は

出身 千葉県市川市湊周辺
生年月日 安永八年
初土俵 寛政十年三月場所 幕内付出
入幕 寛政十年三月場所 幕内付出
最終場所 文化四年二月場所 

となっていますが、初場所がいきなり前頭付出ですから、実力はあったと見られたのでしょうが、その後の成績はあまりパッとしませんが、「荒飛の四股名は伊勢ノ海部屋の出世名として、代々受け継がれた」そうです。

もう一人の「荒飛甚太夫」は下のとおりです。

出身は栃木県、所属部屋は伊勢の海部屋。前の荒飛と一緒の部屋ですから、出世名を継いだわけですが、成績はパッとしません。

さて、こちらの荒飛は、初土俵が明治七年十二月場所、十両昇進が明治十五年、入幕が明治十七年。最終場所が明治十八年ですが、この年脱走。「これという戦歴もなく平凡な者であった」。「十八年の京都相撲で内幕であるが、その後は消息不明」ということです。

力石に彫ってあるのが明治十六年、明治十六年はまだ荒飛は東京相撲にいます。

考えるに、同時代には同じ四股名を持った力士は無く、例えば、「白鵬」という四股名を持った力士は二人は居ません。と考えれば、明治16年には「荒飛」の四股名を持った力士は一名しかいないということです。

ということは、出身地が違い、横綱が殺そうと思うほど強くは無く、と言うことですが、「荒飛」とはこの力士ではなかったかと思うのですが。

で、なぜ、この「荒飛」が力石を奉納したのかが謎ですが、かなり高齢の方に聞いたところ、昔、巡業があったというで、多分こちらにも回ってきたのではないかと思われます。

なお、千々石で無くとも、時代は違いますが、隣町の小浜町は玉垣額之助という有名な力士を生んだところであり、小浜に大相撲が巡業したことは十分に考えられ、その折り、有名であった千々石の「温泉神社(旧四面宮)」に力石を奉納したとも考えられるところです。

ただ、大相撲の巡業の記録は全くないので、手がかりが無いのですが、下の「荒飛甚太夫」の記録と照らし合わせればピッタリだと思うのですが・・・・

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       (ベースマガジン社刊「大相撲人物大辞典」より

2018年9月20日 (木)

VRで見る「原城」★島原・天草の乱の拠点~南島原市

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原城に行かれた方は、広場があるばかりで、どこに何があったのか、全然分からなかったかと思います。私も、3,4回行き、案内版はあるものの、全然分かりません。

このたび、世界遺産として登録をされたためか、VRが取り入れられました。まあ、こどものオモチャ程度かと思ったら、意外や意外、城の様子がよく分かります。

原城と、お近くの日野江城、どちらも、有馬氏の居城でしたが、有馬氏に替わった松倉氏が島原に居城を構え、秀吉の一国一城令のため、両方の城は廃城になってしまい、島原・天草の乱時、天草四郎勢が立て籠もったのが原城です。

VRで見られるのが8ヵ所、そのうち築城時の映像が5ヵ所、一揆当時の画像が3ヵ所。

VRを見たい方は、案内所のプレハブがあって、タブレットを貸し出してくれます。ロハです。スマホをお持ちの方は、自分のスマホでも見られます。多分、「App Store」にて「ストリートミュージアム」で検索して、アプリを入れると使用できます。私も、これにて使いました。

「規約」を見ると、「凸版印刷株式会社・・・・・」とありますから、凸版印刷で作っているらしく、全国で十数カ所取り組んでいるみたいです。

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「虎口」の現在の状況。ただの広場ですが・・・・

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これを、スマホなり、タブレットで見ると下のようにみえます。グルッと回ると360度見えます。

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左が四郎家だったかな?右は最近ボケて忘れました。

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本丸門。池尻口門。だったかな?

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下はプロモーションビデオから、スリーンショットをしたものですが、こうしてみると、築城時の原城の姿がよく分かると思います。(前に書いたように、天草四郎勢が立て籠もった時は廃城になって、壊されていますから、これとは随分違った姿だと思われます。)

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と言うことで、原城に行って見ても、城の状況がよく分かりませんが、こうしてみると、築城時の姿がよく分かると思います。

VRには説明も入っていますが、土地勘がないと少し分かりにくい所もあり、案内所には、ワンコインガイドさんもいますから、できればVRを見ながら説明を受けた方が理解が深まると思います。

なお、タブレットがかなり光を反射して見にくいので、黒い傘でも持っていったほうが良いかと思います。タブレットに、反射防止のフィルムでも貼っていただければ、ありがたいのですが。

なお、この映像のなかに「天草四郎」の姿があったら、面白いとは思ったのですが・・・


2018年8月13日 (月)

「諫早神社」の旧肥前鳥居~長崎県諫早市

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上が現在の諫早神社、丸印が鳥居になります。神社に多くある明神鳥居。

この鳥居が以前は肥前鳥居で、諫早水害の時、倒壊をしたそうです。この昔の鳥居の写真を捜していたのですが、やっと捜しあて、いつも見ていた「ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早史談会編集」にありました。

諌早神社の鳥居があまりにも小さく写っていたので、気づきませんでした。
この鳥居については、「諌早街道を訪ねて~山崎諭著」に「昭和32年の水禍のため、最古といわれた鳥居を流失し・・・」また、「諌早市史~昭和33年刊」にも「・・・同型が西郷村(現雲仙市瑞穂町)の熊野神社(注:西郷八幡神社の誤り)に一基現存する。箱崎八幡宮の鳥居と共に、九州でも古い時代に属する鳥居である」とあります。

西郷八幡神社の肥前鳥居は、「雲仙市の文化財」には載せてありますが、この貴重な鳥居は市の文化財に指定はしてありません。

 

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諫早神社の旧鳥居と比べれば、まったくの同型だということがわかると思います。

 

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さて、以前にも紹介をしましたが、左が諫早公園の愛宕神社の鳥居ですが、「愛宕山の肥前鳥居」として、市の指定有形文化財になっています。

なお、鳥居の上側がふくれあがっているように見えますが、昔、鳥居の上に石を投げ上げると、良いことがあるという話があり、それで投げ上げて重なった石です(私も小さい頃やりました)。

諫早には昔3基ほどあったそうですが、諫早水害で倒壊し、いまはこの一基しか残っていないそうです。

右が国見町の熊野神社の鳥居。で、こうしてみると笠木(鳥居の一番上の部分)と島木(笠木の下の部分)が一体化しているのがわかると思います。肥前鳥居の一つの特徴です。

私見としては、熊野神社の鳥居も肥前鳥居だと思うのですが、連絡はしておきましたが、行政側は調査もなにもしていないみたいで、なんとも残念ですね。

 

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2018年7月29日 (日)

「六段・八橋検校作曲」~諌早に修行に来たのか?キリスト教音楽の影響は?

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諌早の本明川沿い、眼鏡橋の反対にある慶巌寺です。大きな石碑には「八橋検校 六段発祥地」と書いてあります。

諌早のホームページに「六段まつり」として、次のように書いてあります。

箏曲「六段の調」を作曲した現代箏曲の開祖・八橋検校(やつはしけんぎょう)と、その恩師である慶巌寺第四代住職・玄恕上人(げんにょしょうにん)の遺徳を偲び、三曲愛好者の芸術発展を願って開催されています。」

なお、「諌早史談~田中為市著」「諌早を歩く~山口八郎著」にも大体同じようなことが書いてあり、八橋検校については、私も昔からその様に信じていたのですが・・・

「六段」について、ご存じない方は、お正月のTVなどを見ていれば必ず流れている曲で、聴けば、ああ、この曲かと分かります。

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某日、上の本を見つけたので読んでみました。十三の謎は多いので二つばかり。

検校とは、釣谷氏によれば、「ここで、本書の主役八橋検校の『検校』という言葉の意味について少し詳しくお話したい。
近世まで存在した男性盲人のための保護・総括組織のことを『当道』という。本来は文字どうり『自分たちの芸能』をいう意味で学芸、芸妓の専門家の組織であった。(中略)その職名は下から座頭(ざとう)・勾当(こうとう)・別当(べっとう)・検校(四官・しかん)といい、そのなかがさらに十六階七十三刻みに分かられていた(後略)」ということで、大変な組織で、一番上の検校になるまでには、才能のみならず、お金もかかったようで、この本に詳しく書いてあるので読んで下さい。

なお、八橋検校は三味線の名手として有名だったそうですが、江戸に下向して、筑紫善導寺の法水に筑紫箏を学んだ後、筑紫箏の名手として有名だった、諌早慶巌寺・
玄恕上人に学びにいったことになっており、根拠として「琴曲抄」があるそうですが・・・

「ここで重要なのは、筑紫琵琶は女性や盲人に教えることを禁じたため、わずかに文人の間で細々とおこなわれてきたということである。
いくら遠く目の届かない江戸においてとはいえ、法水が盲人である八橋に教えたのは異例といえる。(中略)現に、のちに有名になる八橋が筑紫箏を学んだということから、八橋が諌早まで出向いて玄恕に教えを乞うたという記事(「琴曲抄」)がある。その文章をもとに、慶巌寺の山門前には諌早三曲会により昭和29年に立派な『六段発祥の地』の碑が建てられている。(中略)しかし、移動が不便な当時に盲人がはるか諌早まで出向いたということは事実とは考えにくいと、ある研究者は述べており筑紫箏側でも否定している。八橋が、師(注;三味線)のもとを離れ法水から学んだとなれば、筑紫箏にとっては正当とはみなされない。そうししたことから作られた記録ではないかと想像される。」

ということですが、「事実はわからないが、こうして各地で八橋を顕彰する気持ちが示されるのはうれしく、大歓迎である。」とまとめています。

さて、八橋検校は諌早へ来たのか、来なかったのか、どちらでしょう?


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ここに一枚のCDがあります。「箏曲『六段』とグレゴリア聖歌『クレド』」。

「グレゴリア聖歌『クレド』」が数曲歌われ、その後、「六段」との合奏がありますが、これが不思議に合うのですが、詳しくは釣谷氏の本とCDについているライナーノーツを読んで下さい。

西欧音楽が日本音楽に影響を与えたということで、信じられないかもしれませんが、禁教前は西欧人も意外とフランクに出歩いてみたいで、洛中洛外図屏風(舟木本・国宝)などを見ていると、外人さんが、ウロついているのが見られます。

なお、お国歌舞伎についても、キリスト教イエズス会で行っていた、イエズス会劇の影響があるとの研究があり、歌舞伎の権威の河竹登志夫氏等が指摘をし、丸谷才一氏が「男もの女もの」の中の「出雲のお国」に分かりやすく書いてあります。

ですから、西欧音楽が日本音楽に影響を与えたということは、可能性がない、とは一概にいえないと思います。


なお、釣谷氏もこのCDを聞いたものか、「私も《六段の調》とクレドの比較演奏を聴いたことがある。しかし、一度聴いただけでは、かんたんにこの説を肯定も否定もできない。」と書いていますが、私は、あ~これも有りだなとは思いました。



 

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