史跡

2018年9月20日 (木)

VRで見る「原城」★島原・天草の乱の拠点~南島原市

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原城に行かれた方は、広場があるばかりで、どこに何があったのか、全然分からなかったかと思います。私も、3,4回行き、案内版はあるものの、全然分かりません。

このたび、世界遺産として登録をされたためか、VRが取り入れられました。まあ、こどものオモチャ程度かと思ったら、意外や意外、城の様子がよく分かります。

原城と、お近くの日野江城、どちらも、有馬氏の居城でしたが、有馬氏に替わった松倉氏が島原に居城を構え、秀吉の一国一城令のため、両方の城は廃城になってしまい、島原・天草の乱時、天草四郎勢が立て籠もったのが原城です。

VRで見られるのが8ヵ所、そのうち築城時の映像が5ヵ所、一揆当時の画像が3ヵ所。

VRを見たい方は、案内所のプレハブがあって、タブレットを貸し出してくれます。ロハです。スマホをお持ちの方は、自分のスマホでも見られます。多分、「App Store」にて「ストリートミュージアム」で検索して、アプリを入れると使用できます。私も、これにて使いました。

「規約」を見ると、「凸版印刷株式会社・・・・・」とありますから、凸版印刷で作っているらしく、全国で十数カ所取り組んでいるみたいです。

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「虎口」の現在の状況。ただの広場ですが・・・・

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これを、スマホなり、タブレットで見ると下のようにみえます。グルッと回ると360度見えます。

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左が四郎家だったかな?右は最近ボケて忘れました。

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本丸門。池尻口門。だったかな?

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下はプロモーションビデオから、スリーンショットをしたものですが、こうしてみると、築城時の原城の姿がよく分かると思います。(前に書いたように、天草四郎勢が立て籠もった時は廃城になって、壊されていますから、これとは随分違った姿だと思われます。)

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と言うことで、原城に行って見ても、城の状況がよく分かりませんが、こうしてみると、築城時の姿がよく分かると思います。

VRには説明も入っていますが、土地勘がないと少し分かりにくい所もあり、案内所には、ワンコインガイドさんもいますから、できればVRを見ながら説明を受けた方が理解が深まると思います。

なお、タブレットがかなり光を反射して見にくいので、黒い傘でも持っていったほうが良いかと思います。タブレットに、反射防止のフィルムでも貼っていただければ、ありがたいのですが。

なお、この映像のなかに「天草四郎」の姿があったら、面白いとは思ったのですが・・・


2018年8月13日 (月)

「諫早神社」の旧肥前鳥居~長崎県諫早市

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上が現在の諫早神社、丸印が鳥居になります。神社に多くある明神鳥居。

この鳥居が以前は肥前鳥居で、諫早水害の時、倒壊をしたそうです。この昔の鳥居の写真を捜していたのですが、やっと捜しあて、いつも見ていた「ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早史談会編集」にありました。

諌早神社の鳥居があまりにも小さく写っていたので、気づきませんでした。
この鳥居については、「諌早街道を訪ねて~山崎諭著」に「昭和32年の水禍のため、最古といわれた鳥居を流失し・・・」また、「諌早市史~昭和33年刊」にも「・・・同型が西郷村(現雲仙市瑞穂町)の熊野神社(注:西郷八幡神社の誤り)に一基現存する。箱崎八幡宮の鳥居と共に、九州でも古い時代に属する鳥居である」とあります。

西郷八幡神社の肥前鳥居は、「雲仙市の文化財」には載せてありますが、この貴重な鳥居は市の文化財に指定はしてありません。

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諫早神社の旧鳥居と比べれば、まったくの同型だということがわかると思います。

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さて、以前にも紹介をしましたが、左が諫早公園の愛宕神社の鳥居ですが、「愛宕山の肥前鳥居」として、市の指定有形文化財になっています。

なお、鳥居の上側がふくれあがっているように見えますが、昔、鳥居の上に石を投げ上げると、良いことがあるという話があり、それで投げ上げて重なった石です(私も小さい頃やりました)。

諫早には昔3基ほどあったそうですが、諫早水害で倒壊し、いまはこの一基しか残っていないそうです。

右が国見町の熊野神社の鳥居。で、こうしてみると笠木(鳥居の一番上の部分)と島木(笠木の下の部分)が一体化しているのがわかると思います。肥前鳥居の一つの特徴です。

私見としては、熊野神社の鳥居も肥前鳥居だと思うのですが、連絡はしておきましたが、行政側は調査もなにもしていないみたいで、なんとも残念ですね。

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2018年7月29日 (日)

「六段・八橋検校作曲」~諌早に修行に来たのか?キリスト教音楽の影響は?

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諌早の本明川沿い、眼鏡橋の反対にある慶巌寺です。大きな石碑には「八橋検校 六段発祥地」と書いてあります。

諌早のホームページに「六段まつり」として、次のように書いてあります。

箏曲「六段の調」を作曲した現代箏曲の開祖・八橋検校(やつはしけんぎょう)と、その恩師である慶巌寺第四代住職・玄恕上人(げんにょしょうにん)の遺徳を偲び、三曲愛好者の芸術発展を願って開催されています。」

なお、「諌早史談~田中為市著」「諌早を歩く~山口八郎著」にも大体同じようなことが書いてあり、八橋検校については、私も昔からその様に信じていたのですが・・・

「六段」について、ご存じない方は、お正月のTVなどを見ていれば必ず流れている曲で、聴けば、ああ、この曲かと分かります。

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某日、上の本を見つけたので読んでみました。十三の謎は多いので二つばかり。

検校とは、釣谷氏によれば、「ここで、本書の主役八橋検校の『検校』という言葉の意味について少し詳しくお話したい。
近世まで存在した男性盲人のための保護・総括組織のことを『当道』という。本来は文字どうり『自分たちの芸能』をいう意味で学芸、芸妓の専門家の組織であった。(中略)その職名は下から座頭(ざとう)・勾当(こうとう)・別当(べっとう)・検校(四官・しかん)といい、そのなかがさらに十六階七十三刻みに分かられていた(後略)」ということで、大変な組織で、一番上の検校になるまでには、才能のみならず、お金もかかったようで、この本に詳しく書いてあるので読んで下さい。

なお、八橋検校は三味線の名手として有名だったそうですが、江戸に下向して、筑紫善導寺の法水に筑紫箏を学んだ後、筑紫箏の名手として有名だった、諌早慶巌寺・
玄恕上人に学びにいったことになっており、根拠として「琴曲抄」があるそうですが・・・

「ここで重要なのは、筑紫琵琶は女性や盲人に教えることを禁じたため、わずかに文人の間で細々とおこなわれてきたということである。
いくら遠く目の届かない江戸においてとはいえ、法水が盲人である八橋に教えたのは異例といえる。(中略)現に、のちに有名になる八橋が筑紫箏を学んだということから、八橋が諌早まで出向いて玄恕に教えを乞うたという記事(「琴曲抄」)がある。その文章をもとに、慶巌寺の山門前には諌早三曲会により昭和29年に立派な『六段発祥の地』の碑が建てられている。(中略)しかし、移動が不便な当時に盲人がはるか諌早まで出向いたということは事実とは考えにくいと、ある研究者は述べており筑紫箏側でも否定している。八橋が、師(注;三味線)のもとを離れ法水から学んだとなれば、筑紫箏にとっては正当とはみなされない。そうししたことから作られた記録ではないかと想像される。」

ということですが、「事実はわからないが、こうして各地で八橋を顕彰する気持ちが示されるのはうれしく、大歓迎である。」とまとめています。

さて、八橋検校は諌早へ来たのか、来なかったのか、どちらでしょう?


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ここに一枚のCDがあります。「箏曲『六段』とグレゴリア聖歌『クレド』」。

「グレゴリア聖歌『クレド』」が数曲歌われ、その後、「六段」との合奏がありますが、これが不思議に合うのですが、詳しくは釣谷氏の本とCDについているライナーノーツを読んで下さい。

西欧音楽が日本音楽に影響を与えたということで、信じられないかもしれませんが、禁教前は西欧人も意外とフランクに出歩いてみたいで、洛中洛外図屏風(舟木本・国宝)などを見ていると、外人さんが、ウロついているのが見られます。

なお、お国歌舞伎についても、キリスト教イエズス会で行っていた、イエズス会劇の影響があるとの研究があり、歌舞伎の権威の河竹登志夫氏等が指摘をし、丸谷才一氏が「男もの女もの」の中の「出雲のお国」に分かりやすく書いてあります。

ですから、西欧音楽が日本音楽に影響を与えたということは、可能性がない、とは一概にいえないと思います。


なお、釣谷氏もこのCDを聞いたものか、「私も《六段の調》とクレドの比較演奏を聴いたことがある。しかし、一度聴いただけでは、かんたんにこの説を肯定も否定もできない。」と書いていますが、私は、あ~これも有りだなとは思いました。



 

2018年7月19日 (木)

「富貴楼」の解体に思う

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富貴楼。ホームページを見ると「当店は平成29年6月10日をもって休業致します これまでのご利用ありがとうございました」とありました。

富貴楼についての詳しくはこちらをclip(クリップ)じゃなく、クリックですね→富貴楼

ところが、ネットの「長崎市公式観光サイト あっと!長崎」には、まだ閉店の記事は無く、「データーは2016年2月10日現在のものです。」だそうで、観光長崎にしては、情報の鈍さを感じます。

さて、今月15日の長崎新聞に、総合長崎大学教授のブライアン・バークガフニさんが寄稿をされていました。富貴楼の明治40年の写真が載っていますが、色が付いているので、年代、色からみて手彩色でしょう。

上の写真が私が持っているもの、多分、ブライアンさんの方が古いかなと思われます。で、長崎事典(風俗文化編・長崎文献社刊)をみると、まったく同じ写真が載っていて「大正ごろの富貴楼」となっておりました。

ブライアンさんの写真には「四方富貴楼」となっており、調べてみると、俳人紫暁暁
の日記に「『千秋亭(注;富貴楼の前身の名前)に到り終日和漢の珍味に飽り」「四方眺め比類なし』」とある。」(富貴楼ホームページより)。で、こういうことから「四方富貴楼」と書いたのではないかと思います。あくまで、憶測ですが。

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ブライアンさんの寄稿は「返上の日を懸念」となっていて、先日「長崎と天草潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたことに触れつつ、元潜伏キリシタン集落の過疎化に触れながら、「教会堂が美しくも無用の抜け殻になりかねない。」と懸念をしながら、「地域経済の救済策として『観光』の話が持ち上がっても不思議はない。」としていますが、まったくその通りで、長崎県は経済基盤が弱く観光に頼らざるをえません。

と書きながらも、世界遺産の石見銀山遺跡、富岡製糸工場の観光客の減少にも触れています。

ここから、富貴楼の話になり「先日、私は諏訪神社前を歩いているときショックを受けた。石垣の上にたたずむはずの富貴楼は、まるで消しゴムで消されたかのようにその姿がなくなっていた幕末の志士やイギリスの文豪キプリングも訪れ、時の内閣総理大臣伊藤博文のすすめで名付けられた老舗料亭は、老朽化や人手不足、また改装にかかる多額の費用を捻出できない事を理由に取り壊された。」と書いています。

この料亭は、文化庁 国登録有形文化財登録、長崎県 まちづくり景観資産に登録されていますが、解体前に登録を解除していたそうです。朝日新聞によると、2016年4月25日の「市景観審議会」で市指定解除が諮られ、異議はでなかったそうです。

県なり市なりが手をかけ「心田庵」みたいに一般開放すれば良いとは思うのですが、見学期間中は「心田庵」は県内外の人で一杯です。

長崎では、日本初の西洋式病院「小島養生所」をどうするかで紛糾しました。遠くは原爆で破壊された浦上天主堂をどうするか検討され、結局、取り壊されました。広島の原爆ドームの取り扱いとは段違いです。平和の象徴として残すべきだったでしょう。なにしろ、キリスト教の国が、教会を原爆で破壊したのですから。

と言うように、長崎ではあまりにも、日の当たる文化財のみが大切にされているみたいです。

現在、県庁移転に伴う跡地利用をどうするか、なにを作ろうかの議論が盛んですが、旧県庁跡地は「サンパウロ教会」があり、その後「長崎奉行所西役所」があり、また、その後、勝海舟が学んだ「海軍伝習所」があった場所であり、発掘調査をすれば何か出てくるはずなのですが、トンとその様な話は聞きません。

お宝は地下にあり、空中にはないのです。地上に何かを作るとか、跡地利用をどうするかより、歴史に寄り添った開発を考えて貰いたいものです。

多分、登録遺産地区については広範囲にわたり、今後の努力が必要ですが、なんとなく、石見銀山遺跡、富岡製糸工場の二の舞を感じます。数年間は大丈夫でしょうが・・・・ブライアンさんが書いているように、富貴楼と同じように
「返上の日を懸念」にならなければ良いのですが・・・・



2018年7月 2日 (月)

「黒田栄太郎」さんだよ!~雲仙市吾妻町三軆地蔵尊


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今日は、吾妻町の老人クラブにボランティアで皿回しに。3年ぶりの皿回しで、思い通りにはいきません、ですね。

以前書きましたが、吾妻町出身の相撲取り「音羽山瀧五郎」の話とか、吾妻町の「岩戸神社」の話とかしているうちに、以前紹介した、諫早市の金比羅さんに蟹の石像物、雲仙の温泉神社と地元の温泉神社に狛犬を奉納した「黒田栄太郞」さんに話が及び、これだけ奉納しているので、地元の方、誰か知っているかと思ったら、誰も知りませんでしたが。

ですがね、話はするもんで、三軆地蔵尊の狛犬の台座に、黒田栄太郎さんの名前が彫ってあるとか、で、話をした方、これ誰だろうと思っていたそうです。

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さっそく、車を飛ばして三軆地蔵尊まで行ってみました。鳥居の左右。少し隠れていますが、小型の狛犬さんが鎮座していました。小型ながら、いい面構え。

左の狛犬さんの台座、苔むして全然分かりませんが、苔を取ってみたら・・・

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出ましたね、「黒田栄太郎」の文字、ただし、「太」が「大」になっているみたいですが、昔は良くあったことで、「黒田栄太郎」さんに間違いないでしょう。

ただ、後ろ側、右の狛犬の台座にも文字が彫ってあるのですが、ヤブ蚊が多く、我慢できず退散しました。また、涼しい頃、来てみようとは思うのですが・・・・

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さて、繰り返しになりますが、小野の金比羅さんには誰でも灯籠、石仏像等寄贈はできますが、雲仙の温泉神社、地元の温泉神社に狛犬を奉納するとなると、金額等を考えると、普通の農家には無理な話で、かなりの人物だと思われるので、地元の郷土誌等資料をあせりましたが、残念でした。です。

もっとも、地元の方に聞いても、よく分からないということで、とにかく「黒田栄三郎」さんの文字が入った奉納物を4ヵ所も見つけたということは、奇遇な感じを受けた一日でした。


2018年4月28日 (土)

こんな所に「肥前狛犬」さん&玉峯寺&岩戸山での出来事

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久しぶりの、「肥前狛犬」さんです。数ヶ月前行ったのですが、写真を見ると、全然写ってなかったので、先日、写真を撮りにいってきました。

普通なら、「肥前狛犬」の居所は教えないのがお約束なのですが、ここは、セキュリティーがしっかりしているので、場所は書きます。「口之津歴史民俗資料館・海の資料館」です。

資料館に調べものをしに行った折、館長さんとしばらく話をしていたら、話、「肥前狛犬」に到り、「あ~、ウチにもありますよ」。

うそ~、私、ここには5,6回訪れているのですが、見たことありません。で、「館長さん、どこに?」

と、案内されたのが、中庭の恵比寿神社。「え~、無いじゃないですか」、「玉垣の裏です」。ということで見たら本当にありました。玉垣の裏、玉垣が邪魔で気づきませんでした。はやり、なんでも良く見ること必要ですね。

あ~、本当にカワユイですね。週刊○○誌の綴じ込み付録に写真を載せたいくらいの可愛さ。可愛く見えない?アナタの審美眼が無いだけの話です。多分、初期のものだと思います。

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残念な事に、右側だから「阿吽(あうん)」の「阿」さんですが、崩れてしまっていました。

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さて、この近くに「玉峯寺」というのがあり、よく、「口之津教会跡」と言われていますが、ここのお寺の住職、太玄興正氏が口之津について書かれた本が7,8冊あり、館長さんに本を紹介されました。

そのうちの一冊、「口之津の郷土史 拾遺」と言うのがあり、その中に「玉峯寺は教会跡には建てられいない」という一文があり、読んでみると、教会について書かれた書籍の分析、実際の土地との比較ということで、故・結城了吾氏(長崎の元26聖人記念館長)も、「教会は東大屋の墓地下であり、小聖堂は口之津公園内の高台に間違いないと比定された。」そうですが。ここのところ、興味があるので、いずれ訪れて見ようかと思います。

さて、下の写真、フロイスの「日本史」で有名な所です。右が「岩戸山」。右が「女島」。


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領主・有馬晴信の時代、晴信はキリシタンになり、島原半島内の寺院を破壊しています。仏僧は、岩戸山の洞窟に仏像を隠していますが、司祭、修道士等が、それを見つけに行きますが、フロイスは、次のように書いています。

祠は、仏僧たちが各地の寺院からもたらしてそこに隠匿していた種々の仏像でほとんどいっぱいになっていた。いずれも不思議な形をしたものばかりであったが、実に丹念に、かつ絶妙に造られていて、この種のものではそれ以上のものは考えられないほどであった。・・・・だが、彼らは仕事を早めるためにそれらに火をつけた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。・・・折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役立った。・・・・

さて、「口之津歴史民俗博物館」。多分、島原半島の博物館では一番充実をしていると思います。今日から連休で、車の渋滞、人で溢れるような所より、この様なところで、一日じっくりと過ごすのが良いとは思うのですが・・・海の香りでオゾンが一杯で、子ども連れなら、教科書に載っている実際のものも見られると思います。

ウチのかみさんですね、日帰りバス観光でどこかに行くそうですが、予定を見たら、あちらこちらウロウロするばかりで、せっかくなら、一ヵ所でじっくりしたほうが良いとは思うのですが。あの人、どうせ、私の言うことは聞かないし・・・私?家でじっくりするつもりです。

(参考・文引用:「口之津の郷土史 拾遺★太玄正氏著」「完訳フロイス 日本史★中公文庫版)



2018年4月18日 (水)

「太良嶽大権現一の鳥居」復元

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「歴史の道観光・文化交流協議会」で「多良海道を往く」というパンフレットが昨年3月頃発行され、関係するところが、諫早観光物産コンベンション協会・太良町観光協会とあるので、諌早の方にもらいに行ったら、これが意外と面白く、特に下のページのところが目につき、一回でかけようと思ってはいたのですが、また山歩きかと思うと・・・

で、この鳥居、明治7年8月の台風で倒壊したと「高来町郷土誌」に書かれあるそうですが、郷土誌を調べてみると「・・・湯江宿の是成門兵衛が献納した『一の鳥居』があったが、明治7年の台風で倒れ、そのままになっている。」とありましたが、昨年、復元されたとかで、GoogleEarthでチェックしてみると、案外車でいけるかなと。

で、行ってみると意外と車でも行け、上の写真になります。三段組の立派な鳥居です。「貫」は見つからず新しいものです。


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             (「多良街道を往く」より)

柱を見ると文字が刻まれています。

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柱の文字等については、説明文が横に置いてあり、これ、クリックすると大きくなるので、読んで下さい。


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横には、鳥居の由来が書いてあります。これも、クリックすると拡大しますから、読んで下さい。

鳥居は、天保九年の幕府巡見使の記録に「鹿のとう(注:塔)御休息あり道の左右に鳥居あり」とあり、また、鳥居に名前が刻まれている「是成紋兵衛兌佑翁」の子孫が近くに三基の鳥居があったと親から聞いていたそうですから、本来は鳥居が一基ではなく、複数あったと思われます。


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ここに来る道は、大きな道が平行に走っていて、一本間違えると違う道になるので、「しらぬい学園」とか、「鹿の塔斎場」を目安に進みます。この斎場までは道は良いのですが、これから先が少し狭い道。

車はあまり来ないだろうと思っていたら、3,4台通って行きました。調べてみると、この先に「名水」があり、多分水汲みに来たのではないかと思うのですが・・・


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ついでに、近くにある「猪(しし)の塔」はどこかと見つけたら、これが全然分からない。ちょうど、軽トラに乗ったジイさまが来たので、聞いてみたら、「そこ」、「そこってどこ?」、「そこ」と指さすほうを見たら、すぐそこにありましたが、少し高台で、道からでは木立に隠れて分かりにくい。

軽トラックには、3個ばかりポリタンクが積んであったので、聞いてみたら「名水」を汲みに来たそうです。


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確かに石塔があり、横に説明版がありましたが、クリックすると大きくなるので読んでください。慰霊碑の文字はかなりかすれていますが、真ん中の「三界」などは良く分かります。

鉄砲名人、「山口伊左衛門」が千頭もの猪鹿をとり、生き物の命を絶ったことを悔い、供養のために、この塔を建てたそうです。

説明版には書いてありませんが、郷土誌には「里人はこの猟の名人を『猟師重太夫』と呼び、また、多数の伝説も残っている。」とあります。


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ブラブラ歩いていると、「諫早街道」の標識があちらこちらにあり、意外と整備され、昔の街道の雰囲気が味わえます。

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最近、街道歩き、廃城巡り、この間は「廃道女子」がTVに出ていて、この方面が流行っているようで、諫早はこの点充実している感じを受けました。

我が市にも、島原藩主が長崎まで通った千々石街道があり、整備すれば面白いとは思うのですが・・・上の方の関心がないので、仕方無いですね。


2018年3月 7日 (水)

「地方伝承文化」について考える



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最近ボケたのか、買い物行ったら道を間違え、久しぶりに近道をしたら、上の写真のようなところがあり、あれ?こんなのあったっけ、ということで見ると、立派な説明板と標柱。

「字石 鼻穿石(あざいし はなぐりいし)」とあり、何のことだと思って、説明板を読んだら下のような事が書いてありました。長いので、要約すると。

大昔この地が入江であった頃(注:諫早市森山町~雲仙市愛野町、今、自動車で走っている所は大昔は海で、山際まで海になっており、その後ほとんど埋め立てられた土地です)鼻ぐりに小舟を繋いだ等の諸説があるそうです。・・・この石の袂で休息や日よけ、雨宿り、農作時には馬を繋いだりと、地域住民と密接な関係があったそうです。地籍でこの名前(鼻穿石)が、ここの字名になったそうです。ということで、「字石 鼻穿石」ということです。

で、この標柱と説明板、行政か地区で建てたのかと思ったら裏をみたら、個人の方が建てられみたいでした。

この付近はジャガイモで有名な愛野町で、昔は牛馬を使い、牛なども繋いで、みんなで休息時には集まって話などして楽しんでいたのでしょうが、現在はトラックター、植え付けも、収穫も機械を使い段々と現代化され、この「鼻穿石」の意味も分からなくなってしまうので、標柱と説明板を建てられたのでしょう。


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この標柱が建てられたのが2017年ですから、昨年の事ですね。
隣には、「招霊木」と書いてあって、まだ、小さな木ですが、大きくなったら、昔のように、日よけ、雨よけ、休息時の集いの場になるのではないかと思いました。


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こちらは、千々石の「チン(チヌ)釣り石」で、手前の説明の石碑に史談会からの説明が書いてありますが、カッパさんと、説明の石碑は個人の寄贈です。
「チンつり石」については以前説明しているので→こちらをクリック


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千々石から小浜行く道、千々石少年自然の家に行く裏道があります。入り口に「足形石」の標識があり、現場にも「あしがた石」の標識があります。後ろの石が「あしがた石」です。

いわれも書いて無く、郷土史にも載って無く、何の「あしがた石」でしょう?ここらあたりでは、「みそ五郎(味噌五郎)のあしがた石」というのは、あちらこちらあるのですが、その一つとは思いますが・・・


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現在、おじちゃん、おばあちゃんとの同居が少なくなり、また、学校の先生の広域人事で、地元育ちの学校の先生が少なくなり、昔話を聞く機会が少なくなりました。昔話を知っている人も超高齢者になり、昔の話を知っている方も減少しています。

世界登録遺産遺産も大事ですが、このような、足下に転がっている話を大事にしていかないと、いつかは、世界登録遺産など観光を目的にした場所だけが残って、地域文化が無くなっていくなと、恥ずかしながら、この歳になってやっと分かってきました。



2018年1月13日 (土)

「礫石原(くれいしばる)環状石組遺構」&その他

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病院も3日続きで通うとイヤなりますね。前の日から、雪の予報が出ていて、朝早く出かけると何ともない天気。珍しく病院の診察も、あっという間に終わり。

以前から、島原市の地図を見ていたら、島原新港~雲仙の方に上っていくと、「千々石道」と言う地名あり、昔、千々石から山越えで有明、島原方面に魚を売りに来ていたと言うことを聞いていたので、一回は行ってみたいなと思い、時間もあるので、チョット寄り道を。

ところががですね、やはり土地を知った方の案内がいるもので、いつの間にか、「島原市指定文化財 礫石原環状石組遺構」に出てしまいました。この遺構も一度は見たいと思っていたのですが、道以外は一面の雪。遺構も写真の通りで、何がなにやら分かりません。

看板を張っておきますから、クリックすると少しは大きくなると思いますので、お読みください。


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で、ついでに、「フラワー公園」に寄って見ましたが、この時期、しかも雪が積もっている中、お花なんか見えません。考えればすぐに分かるのですが、バカな私。

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大黒様の後ろに、何か変な鳥が飛んでいましたが、何という鳥でしょう?ご覧になりたい方は、足を運んでください。

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時間を見ると、ちょうどお昼時。どこにしようかと、車を走らせていたら、以前入ったところがあったので、寄って見ました。普通の食堂ではなく、地場産品等売ってありますが、どちらかというと健康志向の品物が多いですね。

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室内も意外とゆったりして、窓から見える畑、向こうに有明海が眺められます。本当は、もっと良い風景なのですが・・・

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ここ、昔はシシカバブが売り物だった(はずだった)のですが、メニューはまったく変わってました。サラダは食べ放題で、これだけドレッシングがあると迷いますね。

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頼んだのが、「チキンオーバーライス」野菜ばかりだと思ったら・・・・

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ちゃんとターメーリックライスが隠れていました。もちろん、チキンも入っていました。

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食後のコーヒーですが、最近はブラックの方が多いようで、一昔前は、お年寄りの方は5,6杯の砂糖を入れていたのですが・・・私も、「お姉さん、シュガーステックあと3本」と、血糖を気にしながら。苦いコーヒーなんて飲めるもんじゃない。

で、ミルクをたっぷり入れましたが、これは、ミルク占いをするためで、「今年も、もてない」とでました。


2018年1月 5日 (金)

愛野町「首塚」について~雲仙市愛野町

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         (「雲仙の文化財」の写真より)

愛野町(あいのまち、です。あいのちょう、ではありません)の首塚です。
コメントをいただき、前回書き忘れたことがあるので、少し書いてみます。

長い間、島原・天草の乱のとき、討ち取った首の3分の1をここに埋めたと言うことですが、埋めたのは天草の富岡、有馬、長崎の西坂(26聖人の処刑された所)あたりではないかと言われています。

だた、富岡ははっきりしていますが、有馬、長崎については、「じゃないか」と言うことで、はっきりした場所は特定できておりません。

このことについては→こちらをクリック に少し書いていますので、ご覧を。

宝永四年、島原藩松平忠雄公のとき、島原半島各村の石高、人数、お寺、神社、村内の鉄砲の数、村の様子などが書かれた「島原大概様子書」があり、その後たびたび書き直されたそうですが、「会津村(現雲仙市愛野町)」の所に次のように書いてあります。

「首塚壱ヶ所有馬一揆(注;島原・天草の乱)之節切支丹之首三千余埋めし塚と申伝ふ。」

これが後年までひびき、「長崎ネット」、「じゃらんnet」等々にも堂々と、島原の乱のおり云々と現在も書いてありますので、ご注意を。真っ赤なウソです。

ただ、どうして上のような話になったのかは、残念ながら、文書(もんじょ)としては残っていません。


より以前の記事一覧

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