史跡

2024年5月 5日 (日)

島原半島に関する三冊の本

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昨日、久しぶりに本屋さんに寄ったら島原半島関係の本が三冊ばかり並んでいたので、買ってきてみました。

一番のお勧めは「島原城まるわかりブック」。今年が島原城築城400年になり、その記念事業の一環になります。お城のみならず、城を巡る歴史、島原藩の歴史がが分りやすく、深堀している本です。


「四面宮」は四面宮のみならず、島原半島、諫早の神社が紹介してあるので、神社好きな方のガイドブックとして便利です。もっとも、突っ込みたいところがあるのですが・・・(^_^)


「UNZEN CITY GUIDE BOOK(雲仙ガイドブック)」。後書きに書いてあるように「一般的な観光ガイドブックとはやや異なる。しかし雲仙市の素の魅力が詰まった一冊に仕上がっていると自負しています。そういう意味で、地元の皆さんにこそ、日常の幸せを再確認するきっかけとしてこの本を利用していただきたいのです。」という性格の本です。興味のある方はお買い求めを。

2023年2月23日 (木)

島原ぶらり~ひな祭りなど

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前にiPhone14Proを買ったことを紹介しましたが、その折ジンバル(撮影時のブレを軽減する)の紹介をしました。そのテストも兼ね、島原のひな祭りがボチボチ始まるかな、と出かけてみました。

最近のアーケード街はどこもガランとしていますが、時間が少し早く、
おまけにお休み。ショーウインドウが開いている店もあるのですが、この時期飾ってあるひな人形が全くなく、ひな祭りは始まっているのかな?

ただ、島原城の観光復興記念館では開催しているので、恋の鯉の泳ぐ町でもぶらりとしてみました。


中央公園に島原氏の居城であった「浜の城」の記念碑があります。確か記念碑の除幕式の時、御子孫の方が見えられたような・・・・鯉さんは
寒いのに水の中。

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島原城観光復興記念館がメイン会場で「しまばら浪漫 ひなめぐりん」として開催していました。各種イベントもあるようです。

会場は部屋の左側を他の事業で使うのか、以前と比べれば半分くらい。前は日本各地の珍しいひな人形も飾ってあったのですが・・・「しまばら押絵雛」が主役です。  


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島原城築城400年記念のため島原城の外装工事が終わったみたいで、真っ白い壁に変わっていました。城の外側にシャチホコが置かれていましたがよく見ると・・・

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口を開けているのと、口を閉めているのが分ると思います。神社の狛犬「阿」「吽」と一緒です。

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さて、ジンバルのテストですが、主な機能がビデオになるため、サイズが大きいため載せられませんが、パノラマ写真を撮ってみました。両方とも9分割の写真で、それを自動で合成したものです。ジンバルにスマホを取り付け、パノラマ写真の設定をしてシャッターを押すとジンバルが動き、9回のシャッターが切られ下のように自動的に写真ができあがります。他でも使ってみましたが面白い写真が撮れました。

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「ひなめぐりん」のパンフレットを見ていたら、3月25日(土)に島原城天守閣で「悪魔パーティー」が開催されるようです。内容は「(隠れキリシタンの亡霊を成仏させよう)東京学芸大学謎解きサークル Ratsel制作」。19:00~22:00。詳しくは島原観光ビューローまで。ワタクシも参加したのですが、あいにく「天女パーティー」があるので、そちらへ参加します。



2022年12月 1日 (木)

島原城築城400年~島原市

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島原城は2024年(平成6年)に築城400年を迎えます。

島原半島を収めていた有馬晴信が岡本大八事件で失脚。松倉重政は大阪夏の陣の戦いで武功を挙げ、大和国より島原半島へ。なお、大和国では名君であったそうです。


最初は有馬の日野江城、原城によるも「一国一城令」があり、城が狭く、交通の便、有馬地方には隠れキリシタンが多く、また、松倉重政は築城に造詣が深かったためか、島原森岳に元和四年(1618)より寛永元年(1624)にかけ島原城を築城。


松倉重政は最初はキリシタンに対し寛容であったものの、寛永二年、参勤した際、将軍家光からキリシタンに対し取り締まりが温和で徹底しないことを叱責され、それ以降キリシタンに対する態度を一変させています。


なお司馬遼太郎氏によれば「日本史の中で、松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない。」と書かれていいるも、千々石の海岸近くの田畑が潮風で難儀していると聞くと、松を植えさせ防風林(豊後の松原の名前あり)にしたとか、小浜町、南串山に溜め池などを作ったという話が伝わっています。


なお、松倉重政は小浜温泉にて亡くなりますが、病死とも暗殺とも。

島原城は2024年に築城400年を迎えますが、回りを囲ってお色直し中。工事幕には絵が描かれていますが、九州産業大造形短期大学造形芸術学科の学生さんがデザインし、島原のシンボル島原城、平成新山、鯉、寒ざらし、具雑煮が絵柄になっています。展示は来年の1月までだそうです。写真は正面、西の櫓の庭、同三階から撮影したものです。撮影の参考までに。


2022年9月 9日 (金)

空照上人、雲仙の事について★まとめ②~終わり


③大黒天脇の石像について


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先日、大黒天脇の空照上人の件で投稿し、石塔が「二本」と書きましたが、諫早史談会のO氏から、二本の石塔は元は一本ではないか?また文字については「是二行者空照法師頭髪納埋塔也」ではないかとの指摘をいただきました。

後日確認に行き、埋もれた部分を少し掘ってみると「生存」という字が見えました。左の石塔は「是二行者空照法師生存」。


右の文字については一番上の文字が「友」のような感じなのですが、O氏のヒントと次に紹介する田代原の石碑「空照上人壹百日修行頭髪塚」から「髪」ではないかと推測すれば「是二行者空照法師生存髪(または”頭髪”)納埋塔也」でピッタリするかと思います。


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④田代原の石塚について

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田代原の集落の中に上のように石仏等を祀った場所があります。右から3番目が「空照上人壹百日頭髪塚」。

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「空照上人壹百日修行頭髪塚」と刻まれています。

一番下段には「三會信者一同謹建」。右側面「昭和九稔/三月十三日/𦾔正月廿八日」。昭和9年3月13日は旧暦1月28日。


この「頭髪塚」については、管理人さんによれば、他所に建てる予定であったが、都合があり、こちらに頼まれたとの事でした。

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一応のまとめです。これまで書いた事と重複をしますが。

行基洞については、行った事がないので詳細がわかりませんが、入口付近に仏像、台座に「温泉信者中」とありますが、多分行基の像だと思われるので、行基の信者さんだと思われます。


高岩山の立像の所には「開山空照法師 昭和8年見岳名」と刻まれています。 


大黒天の石像には「是二行者空照法師生存髪(頭髪)納埋塔也」「昭和6年1月29日」。これには建立者の名は刻まれていません。

田代原の塚には「空照上人壹百日修行頭髪塚」「昭和9年3月13日」「三会村信者一同謹建」。

西有家郷土誌には「昭和六年に、空照法師が百日修行をされたところだろう。」と書かれているので、高岩山、大黒天、田代原の石塔等などから見ると、昭和6年の百日修行は間違いないと思われます。


さて、雲仙は昭和9年に国立公園に指定をされていますが、昭和2年には「日本新八景」に選ばれています。日本で2番目のゴルフ場が大正2年に開場、大正末から昭和初期にかけて、斎藤茂吉、吉井勇、タゴール、秩父宮、嘉納治五郎、徳富蘇峰、早川雪洲等々が雲仙を訪れています。雲仙はかなり人の往来があったと思われます。千日行などをTVで見ると、厳しい山中を駆け抜けるシーンがありますが、空照上人も人知れない山中で修行を積まれた事と思い
ます。なお、昭和初期のことなので、もっと資料があるとは思ったのですが意外とないのですね。

大黒天、田代原の「髪」の事です。空照上人は剃髪をしているはずなのに、と考えていると・・・100日間の修行中は髪は剃れないので、いくらかは伸びていたはずで、修行後は又剃ったはずです。信者の方は百日修行の記念として、この髪を埋めたのではないかと思われます。


もう一つ、大黒天のところの石像については、この別所には修行僧の僧坊が700坊あり、修行の場のメッカであり、大黒天もあるので、この場所に空照法師の頭髪が記念に埋められたのではないかと思うのです。

いずれにしても、田代原と大黒天の所に実際の頭髪が埋められているということです。


2022年9月 4日 (日)

空照上人、雲仙の事について★まとめ➀


空照上人について以前書いたことがあり、また、あちらこちらのブログで単発的に書いてありますが、主に雲仙を中心にしてまとめてみました。2回に分けてみます。


空照上人のことは、西有家町郷土誌に記述があります。また、上人
の石像、塔については❶高岩山中の立像❷一切経の滝の行基洞(別名空照洞)❸別所ダム大黒天の下の石造➍田代原集落の「百日修行頭髪塚」があるので、この順で説明をおこないます。

最初に、西有家町の郷土誌より空照上人についての概略です。


空照師は真言宗の僧、佐賀県東多久市出身。大正11年に島原地震が起こり、大正12年には関東大震災が起こります。当時、南有馬村で病気を治すという霊験を現していた空照(当時40歳程度)にお願いし、西有家八十八ヵ所の設置を行います。


空照上人は八十八ヵ所霊場を祈願し、行基(日本山大乗院満妙寺開基)に因んで、行基洞(空照洞ともいう)で二十一日間業を行い、その後、ふるさとの東多久に帰られたそうです。


なお、この間、雲仙で百日修行をされたそうです。また、空照上人の出身地が佐賀県東多久市ということで、多少調べて見ましたが不明。


❶高岩さんの立像について


「西有家郷土誌」からまとめてみました。


高岩さんに登る途中、登山道の途中から左側の山中に入って行ったところ。ワタクシも入っては見たものの元来の方向音痴で、行き着ききれませんでした。なにごとも案内は必要。


写真は西有家郷土誌より。台周りは1.2m四方。高さ1.5m。石積みで石造の高さ60~70㎝。台には「開山空照師 昭和八年見岳名中」と刻んであります。
「見岳」は西有家町の地区名。郷土誌に「昭和6年に、空照和尚が百日修行をされた所だろう。」の記述あり。

なお、この地点から150m位の所に洞があり「西有家四国奥ノ院一夜大師」。「一夜大師」の名前については「見岳名の信者が、セメント、砂などを担ぎ上げ、一夜で完成させた・・・」との記述あり。


また、「空照立像から200m降りたところにも大師堂を見つける。ここも明らかに修行場で空缶、空びんがあるるので、訪れた人が居たのではないかと思われる。空照大師が、ここでも修行されたのかもわからない。・・・」、との記述あり。ただ、「大師堂」についてはどのようなものか不明。

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(西有家郷土誌より)

「一夜大師」は「新四国八十八か所番外奥ノ院」。


❷一切経の滝行基洞(別名空照洞)


一切経の滝から少し下り、右側の斜面を登ったところ。ただ、3回トライするも分からず。

洞が三つあるらしく、一番入口には2体の石仏。一つは多分「行基」だと思われる。台座に「温泉信者中」。小さい方は「三鈷」らしいものを持っているので弘法さんか?一番奥に石仏が置かれていたらしいのですが詳細は不明。

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右の案内標識は現在あるかどうかは不明。

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(ブログ「私は、島原半島にいます」より)

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四国四十四番札所伊豫国大寶寺


一切経の滝の所「四十九番所伊豫国浄土寺」があります。右の写真。

なお、空照法師は八十八ヵ所霊場を祈願し行基洞で二十日修行をしたそうです。

 

2022年7月14日 (木)

雲仙大黒天~「発見」について異議あり

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雲仙の大黒天、ネットでも結構見られます。

先日、Facebookに島原半島観光連盟が大黒天につき「・・・昭和40年のダムの工事の際に発見されたそうです・・・」と書いてありました。「発見」とは辞書では「世の中に知られていなかったものを見つけ出すこと。初めて見つけること。(大辞林)」とあります。


10年程前だったか、このことについては取り上げましたが、要するに、発見されたのはダムの工事の際でないのです。大黒天のすぐ横に石仏があります。左の写真の〇印、矢印は大黒天。右は上から見た写真。下向きの矢印は別所ダム、右の矢印方向が大黒天。


石仏には2本の石柱が建てられています。一つは上部が欠けていますが「・・・?納?塔也」。


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左の石柱正面「是二行者空照法師??」。側面が「昭和六年一月二十九日」。「空照法師」は雲仙での最後の修験道者。「百日行」をされています。また、高岩山の山中に像が建てられています。

ということで、発見されたという昭和40年以前に、この大黒天の存在は分かっているはずです。


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さて、これとは別に大正15年発行の関善太郎著「雲仙小濱風光記」に次のような文章があります。

「温泉(うんぜん)の七百坊の在りし別所に行くと、田原と云うところの上の方に當りて、一巨巌が直立してゐる。其上に古雅掬(きく)すべき大黒様が安置してある・・・」。


これで、すでに大正時代には大黒天が知られていたことが分かると思います。


昭和40年云々については、ネットで「新聞記事に載っていた」とあちらこちら書いてあります。新聞記事必ずしも正しいとは限りません。近年のネット情報は孫引きが多く見られます。皆さまもご注意を。


「空照法師」については一度紹介をしました→こちらをクリック


2022年7月 1日 (金)

雲仙「温泉神社二ノ鳥居」について②

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昨日、雲仙の温泉神社の二ノ鳥居について書きましたが、少し気になって「肥前國髙來郡温泉山の圖」を調べて見ました。

この図については、「しまばらふるさと再発見」で松平文庫長根井浄先生が「江戸時代の地獄は満妙寺一乗院が案内権を持っており、いろいろな説話が語れていました。」と語られ、確か先生の以前のお話しでは、その折り、この絵図で説明をしていたとのことでした。いわば、観光パンフレットですね。

現在、数冊の本で印刷物が紹介をされています。比べてみて違いは見受けられますが、基本同じです。なお、本物は版木で摺ったものです。


下は「雲仙お山の情報館」所蔵のものですが、片面が「雲仙國立公園決定紀念祝賀 島原郷土史料展覽會」となっていて、絵図は版木の印刷ではなく、いずれかの絵図の模写だと思われます。


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  (雲仙お山の情報館所蔵)

下が温泉神社あたりを拡大したもの。


一番右が鎮守四面大明神。ご本尊様。その左が拝殿。


赤の矢印が鳥居。二つ鳥居があるのが分かります。右の鳥居は多分両部鳥居。両部鳥居は近くには無いので、ググってみると木製が多いようです。


さて、安政7年(1776)島原藩に提出された一乗院(満妙寺)の書上帳があり、これについて「嶽南風土記 有家町史談第4号・有家町史談会刊」に根井浄先生が「江戸時代の雲仙(温泉)・普賢岳・妙見山ー史料『温泉山起立書』の翻刻と紹介ー」という事で書かれています。


この中に、温泉神社の面積、寸法等が書かれていますが、鳥居について下記のようにかかれています。


⑤本社石壇下より石鳥居まで堅拾六間横九間 此反別四畝廿四歩

⑦木鳥居より石鳥居まで堅拾九間横貮間 この反別所壹畝九歩
⑩石壇木鳥居下
⑪石壇石鳥居下
⑫木鳥居 一 石鳥居

という事で、元来温泉神社には木の鳥居と石の鳥居があったことが分かります。


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前に書いたように、現在の二の鳥居についてまとめてみると下記のようになります。

一 1695年(元禄八年) 建立

二 1778年(安政七年) 温泉山起立書 木製と石製の二基の鳥居の記述
三 1792年(寛政四年) 雲仙岳大噴火により鳥居倒壊(あくまで推測です)
四 1851年(嘉永四年) 石鳥居のみ再建

この絵図については、1695年~1792年の雲仙の地獄の風景だといえると思います。
絵図に描いてある両部鳥居、これも現代再建できれば面白いと思うのですが。

2022年6月24日 (金)

雲仙「温泉神社二の鳥居」について①

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    (左はGoogleEarthより)

仙の温泉神社には三つの鳥居があります。

一ノ鳥居は明治33年、温泉神社1200年祭の時建立されたもの。


一つ飛んで、三ノ鳥居は昭和60年に建立。


問題の二ノ鳥居です。最後に「温泉山」と書いてあります。昔は雲仙を温泉山ともいっていました。


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左の柱、「元禄八乙亥年九月吉日」と書いてあります。元禄八年は1695年。

柱の横をヒョイとみると、文字が彫ってあるので見ると「嘉永四年辛亥八月再建」。嘉永四年は1851年。

「再建」とあるので、一度倒れて再び建てたと言うことになります。何故倒れたかですが、天正8年、有馬晴信により領内の寺社が破壊されています。ただ、天正8年というと1580年なので建立の1695年とは時代的に関係なし。

ということで考えると、雲仙の江戸時代には寛永4年の(1792)の大噴火がありました。

1695年建立→1792年倒壊→1851年再建と考えればピッタリな感じがします。あくまで私見ですが。


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二ノ鳥居には額がありません。ということで探してみたら、入口の所にありました。かなり破損しているので、多分、落ちたものだと思われます。

「四面社」(一般的には「四面宮」)と書いてあります。多少、自信がありません(^^ )。


温泉神社は最初「四面宮」、明治2年の神社改正により「筑紫國魂神社」、大正4年に「温泉神社」。


なお、一の鳥居が建立された元禄八年が気になったので、湯けむりの記憶(雲仙国立公園年表・雲仙国立センター運営協議会刊)を調べて見たら元禄六年(1693)の所に「島原藩主松平忠房・・・一乗院満妙寺、四面宮を改築し以後藩主松平家の親祭となる。」とあるので、多分この折り、二の鳥居が建立されたものだと思われます。


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下は雲仙の札の原バス停近くにある片足鳥居。こちらが昔の一の鳥居だと説明したものもありますが、柱には文政10年(1827)とあるので温泉神社の二ノ鳥居より新しいものです。額は「四面社」。「四」は異体字。

現在、最初の鳥居が一ノ鳥居といっているので、一ノ鳥でかまわないか・・・・。

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下は千々石の温泉神社にある昔の額。左は最初の字が欠けていますが、普通に「四面宮」。右は同じですが、「四」の字が異体字で、雲仙の片足鳥居の字と一緒です。

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調べると、まだ面白い所があるのですが、また後日。


参考文献
「修験道とキリシタン」根井浄箸

「嶽南風土記 有家史談第4号」有家史談会
「山岳修験 第30号」日本山岳修験学会刊
「湯けむりの記憶 雲仙国立公園年表」雲仙公園ビジターセンター運営委員会
「おばま 史跡巡りガイド」小浜町・小浜町教育委員会



2022年6月 3日 (金)

2022/06/03「大村公園花菖蒲」

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TVなどで大村公園の花菖蒲が満開ということで出かけてみました。

定番の場所での撮影。ここが、一番絵になります。

開花がネットでは満開、入口は7部咲きになっていましたが、部分満開、部分7部咲き、部分??咲き。

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この花菖蒲園には多種の花菖蒲が植えられています。花菖蒲の品種などが書いてありますが、江戸菖蒲、肥後菖蒲の違いなど知っていると、見方が違い面白いと思います。

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一番最初の写真の板敷櫓(ここの地名が板敷)の裏側というより、こちらが入口。石落としなどもあるのですが、コロナのために閉鎖。

お城は簡単には攻め落とせないように通路が入り組んでいて実感できます。

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他にもイロイロあるのですが、花菖蒲だけではなく、お城も楽しいんでもらいたいのです・・・

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石垣に鏨の跡がありました。石垣が新しく積み直されたものがあるとかで、多分新しいものだと思われます。

右は穴門で、ワタシが好きな場所なのですが、こんな所にトイレなど作るなよ!!!~バカヤロウ~ですね。

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お土産は、定番の「大村寿司」。創業延宝7年創業の「へこはずし」。お殿様があまりのおいしさに「へこ」が外れているのに気がつかなかったとの由来。

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忘れていました。このお城「大村城」ではなく「玖島城」です。


2022年4月11日 (月)

今日の「諌早の眼鏡橋」と「島原城の古絵はがき」

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諫早の眼鏡橋のツツジ、土曜日はもう少しかな?だったのですが、病院の帰りがけ、今日寄ってみたらほぼ満開でした。本来ならイベントも行われていたのですが、コロナで中止。来年こそはと期待をしています・・・

先日、島原城の紹介をしましたが、探していたら、まだ、城が復興する前の絵葉書が出て来ました。


左は使用済みの葉書で、”2.10.27”の消印があるので昭和2年以前の姿かと思われます。右は堀の中に木が見えるので、二の丸から本丸の間と思われます。


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左は堀の中に建物が見えます。このようなところがあるのは、前と同じく、二の丸から本丸の間の掘かと思われます。

右は、お城に入る通路が写っていますが、本来はありませんでした。


なお、解説文には笑いました。


春高楼の花の宴・・・松平重政の築城にかゝり、三十三箇の櫓、七箇の城門を有したという大城であったが、島原の乱で炎上して今は濠趾のみ昔の名残をとゞめている。


間違いもここまでくれば、笑うしか無い、というところですが、誰が説明を書いたんでしょう?絵葉書に書いてあるので、知らない人が読んだら本気にしますよ。


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先日諫早にできたお店です。なにやら、東京でも有名なお店らしいのですが、前から気になっていたので寄ってみたら、ズラリと並んで入れませんでした。なお、テイクアウトのパンは売り切れ、次の商品ができるのが1時とあったので、帰って来ました。平日の昼、皆さん傘までさして、平和ですね。

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