史跡

2017年9月 9日 (土)

「ミゲル墓所推定地」現地説明

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昨日で発掘調査終了。という事で、地元へのお礼もかねて説明会がありました。

墓の調査、キリシタン遺跡のそれぞれの専門家による説明がありましたが、まだ、分析するところもあり、正式の報告は11月12日になるそうです。

この墓碑に関しては、この大きさの墓石。また、基盤を作り、その上に棺を置き、隙間を土と石で固め、さらに土と石を被せ、大きな石で蓋をし、その上に土と石を被せていくという、普通には見られない丁寧な墓の作りで、かなり位の高い者の墓だという事でした。

また、棺桶は長持ちの転用は無いかという事で、長持ちの金具、錠も出てきています。

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新聞にも出ている通り、ガラス玉が出土しましたが、59個出たそうですが、ただ、首にかけるにはあまりにも小さいガラス玉でしたが、当時は木で作ることもあり、それなら、朽ちているのでは?という事です。

いずれにしても、ガラス玉を調査し、鉛などの測定で作成地区の特定もできるそうです。


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発掘の成果物ですが、ガラス玉、錠、歯、長持ちの金具、ガラス等並んでいましたが、骨の部分はまわりの土ごと長崎大学で分析中で、その結果でかなりの事が分かると思います。

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いずれにしても、分析の結果が待ちどうしいところです。なお、この後、元の通りに埋め戻しをします。




2017年9月 8日 (金)

「児島」へ~雲仙市南串山町児島 其の一


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児島(こじま)です。左に長く伸びているのは養殖をしているので、防波堤です。

GoogleEarthで上から見ると、丸印の島、矢印は国崎半島になります。この半島の先の海岸、良い海岸なのですが・・・・

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月曜日にこの島に調査に行ったのですが、島の一番上まで登り、と言っても手入れをしていないので、ヒーヒー言いながら登ってきましたが、まだ筋肉痛が残っていて、歳を感じます。この児島の事について、2,3回、飛び飛びになるかと思いますが、書いてみたいと思います。

さて、どうしてこの島の調査に来たかというと、南串山の古文書研究会で、馬場庄屋の文書に、臨済宗の開祖、また喫茶の習慣を日本に広めた、栄西の事が書いてあったからで、

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読めないと思うので、概略書いてみると

栄西が宗から帰るとき、建久元年(1190年)に京泊の湖島(ママ・現在は児島)に弁財天を祀り、菩提樹を植え、また、漁夫が掛け声にエサイナトいうのは、栄西を慕い云っているという事が書いてあり、ここの所長くなりますが、菩提樹について書いてあり、普通は建久元年、菩提樹の枝を中国から送り、それが香椎宮に植えられたことになっているのですが。

湖島(児島)菩提樹越願い始て植えるの
始免也元亨釈書に僧栄西
京ゟ伝し建久元年ノ春
筑紫香椎の神詞(ほこら)の辺り
植えるを是を始めとすとハ偽也
此湖島に弁財天建立後
菩提樹を植置程絶て香椎へ
被参る由なれバ初めて植えられしハ
此の湖島也

とあり、菩提樹が初めて植えられたのは、香椎宮ではなく、この児島にであるという事が書かれてあります。

その後有馬一揆(島原半島の神社は、有馬晴信からほとんど破棄されています。千々石の満明寺もしかりです。)の節この弁財天も廃亡されたそうです。

でもって、無謀にもこの島に上がって、菩提樹があるかどうか確かめようと、大人(というより、高齢者)6名ばかりで調べに行ったのですが・・・

下の図は、明治二年の神社明細調帳の図です。

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鳥居が書いてありますが、現在は壊れています。鳥居前の広場から上陸できるようですが、現在は全く違っておりました。島の形は、多分、昔はこのような形だったのでしょうが、現在は木が育ち(過ぎ)島の形が違ってきたような気がするのですが。

なお、この島は以前は女人禁制、石の一つ持ち出すことは禁止だったそうです。世界遺産の宗像・沖ノ島と一緒ですね・・・・・・(続く)





2017年9月 1日 (金)

「千々石ミゲルの墓とみられる墓石」~遺構出現!

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昨日、墓の石ぶたと思われるものが発掘されました。下は「長崎新聞」に載った写真ですが、大きな石が3個あることが分かると思います。

私たち見学者は一段高くなっているところから見ているので、土嚢と基壇の石のため、新聞の写真の一番向こう側の石は、まったく見えません。という事を頭に置いておいてください。


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新聞写真で見る一番手前の石。意外と軽いのか、4,5名で持ち上がりました。右の写真は取り除いた後の様子です。

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真ん中の石の撤去です。重たいので、チェーンブロックで持ち上げて移動。

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すぐに見られるかと思ったら、責任者で確認。その後、板を撤去。すると、穴が現れ、一番上の写真です。

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あと、説明がありましたが、木棺を埋めた後土を被せ、三枚の石を置き、また土を被せのではないかという事でした。

多分、木棺が腐り、水や土が流れ込んで、空間ができたのではないかと思います。

なお、木棺には、タンスにあるような金属製の取っ手が付いており(まだ片側だけの確認でしたが)、木棺はその目的のために作られたのか、ほかの入れ物を転用したのかは今の所不明だそうです。

墓の上などに石を置く、また、その規模等から考えて、時代的には庶民の墓ではないことは言えるという事で、かなり身分が高い人の墓だといえるという事でした。

新聞社の質問に答えていましたが、墓の形は日本型であるが、まだ、調べてみないと分からない。日本型だと六文銭(三途の川の渡し賃)が入っているかも。キリシタンの墓なら、副葬品はほとんど何も入れなく、身に着けていたもの程度のもので棺に入れるそうですから、これから何が出てくるのか見守りたいものです。

なお、骨が出てきた場合は、一応ストップして、骨関係の専門家に調査を頼むそうです。

まだまだ昼は暑い中、調査は続きますが、ほとんどの方が、長期のボランティアという事で、大変だとは思いますが、「千々石ミゲル」の謎が解けるかもしれず、あと一息頑張っていただきたいと思います。





2017年8月31日 (木)

出た~!★「千々石ミゲルの墓と思われる墓碑」

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今日は、南串山町の児島に調査の予定だったのですが、朝から電話があり、台風のせいか波が荒く、船が渡れないので中止。天気晴朗なれども波高し、です。

で、昨夜「千々石ミゲルの墓と思われる墓碑」から、何か出てくるかも知れないと聞いてはいたのですが、今日の新聞に載っていて、急遽こちらの方に出かけてみました。


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左の写真、左の矢印に行くと現場ですが、立ち入り禁止です。ただ、階段の横に、進捗状況が分かるように、毎日の記録が貼ってありますから、状況が良く分かるので便利です。

現場には入れないので、右の道に進み、左に曲がり。畑に入る道で見学ができます。大きい矢印の所です。


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今回が3回目の調査になります。1回目が、土で埋まっている基壇の掘り出し。2回目が、多分埋まっているだろうと思われる所を掘りましたが、どういうわけか石ころばかりが出て、これ以上掘ると、大きな墓碑が不安定で危なくなると中止。

で、今回は墓碑を移し安全を確保し発掘。3回目になります。


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で、私、用事があったので、途中で帰りましたが、その後に上を覆うような「板状の石」が出てきたそうで、多分、明日開け見る予定だそうです。

少しばかり、空洞になって、その下は土が埋まっているという話でしたが、棺桶が腐り、土が入り込んだと思われるそうです。NHKでその様子が映っていて、もう少し見ていれば良かったなと、誠に残念。

明日、調子が良かったら行っては見るつもりですが・・・・また、状況が分かったら書いてみたいと思います。


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余計な事ですが、場所が分からない方のために。
多良見町に「たらみ図書館」があります。左の写真右に行くんじゃなく、大きな矢印の方にまっすぐ進みます。

もう良いんじゃない、という頃、「長与、長崎方面」と「時津」の分かれ道に出ます。時津も良い所ですが、ここは、「長与、長崎方面」に向かってください。


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帰りに見たら、少しばかり早道がありましたが、まっすぐ行くのが無難でしょう・・・「長与、長崎」方面の33号線(だったかな?)を行くと、右のような看板があるので、矢印の方向へ。「わ~!」というほど大きくないので注意してネ。

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しばらく行くと左のような所があり、案内の標識がありますので、橋を渡ると。


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また、標識がありますが、見にくいので、注意して。矢印に従っていくと、小さなレンガ造りのトンネルがあります。トンネルはくぐらないで、手前の坂が目的地です。以上、間違わないで行ってネ。駐車場ですね。皆さん路駐みたいでした。


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なお、土曜日、日曜日は作業がお休みだそうで、多分、立ち入り禁止で、掘った所は保護のためシートを被せると思うので、見られないかもしれません。




2017年7月 8日 (土)

「和銅寺・竜造寺隆信の墓碑」について書き忘れた2,3の事~諌早市高来町


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先日、和銅寺と竜造寺隆信の事を書きましたが、暑さのため書き忘れていたことがあるので・・(^-^;

竜造寺は島原の沖田畷の戦いで、有馬・島津連合軍に敗れますが、この人数については、「隆信公御年譜」「北肥戦記」「藤原有馬世譜」等々の文書(もんじょ)について違いがありますが、竜造寺軍が5万~6万、連合軍が6千~1万。

このうち島津からは1,500~3,000名が援軍に来ます。少ないようですが、島津は大友家から狙われており、そう簡単には動けません。この、軍勢の差ですから、有馬・島津軍が不利なのは言うまでもありません。下記のような布陣であったそうです。赤丸印が「竜造寺隆信」

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       (「島原半島史~林銑吉著」より)

このあたりは、昔は田んぼであったそうで、あぜ道を歩くよりほかはなく、前と横から攻められると、後ろからは大量の味方の軍が来るので、回れ右で逃げるわけにはいかず、田んぼの中に行っても足を取られ、思うようには動けずということで大敗します。

竜造寺公は「島津ノ家人大ノ男黒糸ノ鎧着テ太刀ヲ持抜持、隆信公ノ御前ニ来ニ来リ、蹲踞シテ申ケルハ、某島津ノ家人河上左京亮ト申ス者ニテ候山城守隆信公ト見請候、御介錯ノタメ参リテ候ト申シケレバ、隆信公月ヲ見テ指サス事ナカレ、汝ハ大将ノ首ヲ取ル法ヲ知レリヤト被仰、左京畏テ一礼頓首シテ則首ヲ討奉ル。御歳五十六。天正十二年甲三月廿四日未ノ刻後生害也。・・・・」ということで、隆信の首と胴はバラバラになってしまうわけです。

➀首の事

首は、島津義久が検視をし、佐賀に送られますが、隆信の親戚家老鍋島直茂が、受け取るのを断わります(「直茂は『不運の首此方へ申請(もうしうけ)ても無用の事なり、何処になりとも捨て置くように』と仰せられたそうです。:『竜造寺家と鍋嶋直茂・市丸昭太郎著』)。で、この首を持って行ったり来たりしたのが、「河上助七」とか、「町田」になっておりますが・・・

て、首を持ち帰るとき、竜造寺領と島津領の境、高瀬川にかかったとき、首が急に重くなり動かなくなったので、願行寺に葬られ墓をたてられたそうです。「法名宗阿弥陀仏と号す。」ということだそうです。

②胴体の事について

これは、看板にも書いてありますが、「薩龍家譜」によれば、「隆信公戦死ト聞ヘレバ、龍泰寺大泰寺和尚早速島原ノ御戦場に赴キ、御尊体ヲ湯江村ノ和銅寺ニ於テ、御骨トナシ奉リ、其霊骨ヲ頸ニ掛ケ、持帰リ奉ル、御法名龍泰寺殿泰巖宗龍大居士、又信隆院殿トモ、後ニ法雲院ト称シ奉ル」ということで、首と体は別々の所に葬られる事になったわけです。

あとは看板に書いてある通り、「火葬のあと地は土をもった塚が造られていたが、明治二年、第十六代領主諌早一学が、自然石の碑を玉垣で囲い墓碑とした。それより百余年墓碑、玉垣が傾き荒れたのを門徒有志により、平成五年十二月に改築された。」ということになります。

ということで、「和銅寺」にあるのは、説明版に書いてある通り、「竜造寺隆信の墓碑」であって、「墓」ではありません。

なお、和銅寺には大位牌が祀られ「法霊院殿五洲大守泰厳龍大居士」と記されているそうです。

また、「ぶらっとさらく島原(島原ガイド)~松尾卓次著」には、「両体は明治16年(1883)年になってやっと、佐賀の高伝寺に合葬されたという。」とあるので、ネットで調べたら、お墓には「山城守従五位下藤原朝臣隆信之墓」となっておりましが、法名は「法雲院殿泰厳宗龍大居士」だそうです。

竜造寺隆信の墓というのは、あちらこちらありますが、ほとんどが慰霊碑と考えた方がよいかと思います。島原、雲仙にもあります。各藩の文書に違いがあるので、アバウトのところでまとめてみました。





2017年6月30日 (金)

和銅寺・竜造寺隆信の墓碑~諌早市高来町

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最近、海を隔てた高来町に興味を持ち、ちょいちょいお出かけをしておりますが、先日、「歴史の道・文化交流推進協議会」から、編集、発行ということで下のようなパンフレットが発行され、只のものなら、なんでも貰ってくる癖せがあるのですが、写真も多く、読むとわかりやすく、名前は以前から知っていたのですが、パンフレットにも取り上げてある、和銅寺に出かけてみました。

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和銅寺には多くの見るものもあり、矢印の所、「下馬」と彫ってあります。昔は馬に乗っていくのは、お侍さん、それも上級武士でしたが、ここで、「馬を降りろ」ということでしょう。お殿様も下馬されたと思います。

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説明版に書いてある通り、行基大僧正が彫られた十一面観音がご本尊だそうですが、50年に一度しか御開帳になられないそうで、ググってみたら、どうも平成20年5月18日に御開帳があったらしく、ですから次は平成70年(年号は変わっているでしょうが・・・私も、この世にいません)になります。

でもってどうしてもご覧になりたい方は→こちらをクリック


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見ていくと、いいですね。石造物がお好きな方にはたまりません。

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梵鐘ですが、片側は漢文ですが、もう片方は多分、梵字かな?全然読めません。

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お寺の本堂ですが、柱の所に仁王様が立っておられ・・・

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まあ、これがすごいのなんのって。このお姿、すごいですよ。ボロボロにもかかわらず、かえって風格と迫力があります。

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こちらが、「竜造寺の墓碑」になりますが。

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説明版です。竜造寺隆信については、いろいろな話が伝わっておりますが・・・

説明版には、居城須古→高来→諌早→神代と陸路を通ったように書いてあり、また、パンフレットの「多良海道を往く」には、「この和銅寺でおみくじを三度引いて、三度とも凶がでて、家臣が諫めたにも関わらず、出陣したというエピソードも残っている」そうです。

が、しかしですね。「高来町郷土史」の、「竜造寺隆信の戦士ー和銅寺の隆信伝説」の所。

「総勢五万七千騎。『信隆公御年譜』によると、「『同月十八日、竜王崎』(佐賀県杵島郡有明海)ヨリ兵船ノ纜(ともづな)ヲ被解』」とあるそうで、これ、「北肥戰誌」にも載っているそうで、調べてみると、「巻之廿八 高來軍竜造寺隆信の戦死の事」に「・・・中にも隆信・政家の佐賀勢は、竜王崎より纜を解き、同廿日に神代(注:対岸の島原半島)著船し・・・」とあります。

この、おみくじ三度の凶、明智光秀と一緒ですね。明智光秀も本能寺に向かう前に、愛宕権現堂でおみくじを引いて、三度、「凶」が出たそうです。

「三」という数字は、世界中好かれているようで、「三匹の子豚」「三年寝太郎」「三本の矢」「三匹のおっさん」「三匹のやぎのがらがらどん」。どうしてでしょう?
前にも書きましたが、「白雪姫」も三度殺されています。毒リンゴでいっぺんに殺したのは、ウォルト・ディズニーというおじさんでした。


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パンフレットに「和銅寺を下った所に、山伏が彫られた貴重な石碑を見ることができる。(中略)どこかユーモラスな雰囲気も漂う・・・・・」と書いてあって、探しましたが、多分下の石碑かな?ただし、「山伏」は彫られていませんでしたが・・・何か特別な石碑の感じもしましたが・・・間違っていたら、ゴメンチャイ m(_ _)m

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2017年6月25日 (日)

六部塔・六部さん~諌早市飯盛町

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暇なときに時々出して読む本です。面白ようなところがあったら、見に行きます。

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長崎市は江戸時代天領であり、上記の本の前書きに、「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房(注:島原藩主)を召して『長崎の事務を監督せよ』と命じた。忠房は参観の前後、長崎を巡視してその詳細を将軍に報告しました。
この長崎監務は家格として受けつがれ、松平忠雄は三十八年年間に50回余に及んでおります。(深溝世紀では、「長崎を監視す」となっています)。」とあり、この本は、そのお殿様が通った道筋が書いてありますが、同時に、伊能忠敬が測量をして辿った道でもあり、勝海舟、坂本龍馬が島原から長崎まで急ぎ旅をした道でもあります。
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先日、何気に見ていると、飯盛町に六部塔があるとかで、地図と当時の地図を見比べても、そう分かりにくくはなさそうなので、気楽に出かけたのありますが。甘かった。

説明には、こう書いてあります。

「六部さん」
この六部さんを建て替えるため(上の写真)の石を運ぶ途中、早坂の道があまりにも急なため、ここまで運びきれず、坂の脇に建ててしまったといわれている(下の写真)。

囲(注;圍が正解みたいなのですが・・)地区から牧野に通じる旧道の坂を登りつめた早坂(六部坂)の山中に六部塔がある。

本の写真でみると、六部さんは畑の中、六部塔の説明には(道路道下南下の10m先)とまあ、すぐに見つかるだろうと思ったら、畑の中には何もなし、でもう片方の六部塔の方へ行っても全然わからず。聞こうにも畑には誰もいず、という状態で、役場あたりで聞くか、とは思ったのですが、飯盛町は諌早市と合併で役所と支所間の異動があり、最近は地元の人があまりいなく(雲仙市も同じく)行っても同じだろうなと、〇Aの方が地元の方が多いのではと思って、たずねて行ったら全然でした。

ということで、日を改めて行ってよく見たら、「竜馬が歩いた道」の立て札があるじゃありませんか。要するに、道は間違ってない。

ふと、横をみると、らしき石があるじゃありませんか。で、本の写真と比べると少し違っている感じ。

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確認すべく、ウロウロ車で回っていると畑仕事のおばあさんがおられ、本を出して聞いてみたら、これがビンゴで、自分の畑を整地した時、畑の中にあって邪魔だから、脇に移したとの事で、ここで間違いありませんでした。

なお、もう一人、おばあさんとあったので、立ち話をしたら、比丘尼さんか巡礼の女性が行き倒れになって、弔ったとか。

とにかく、最近あちらこちらで地元の方と話をしても、食い違うところがあり、複数の方の確認が必要だと感じた次第です。

なお、石碑には文字なども彫ってなく、あとで見た六部塔とは違い、自然石の感じが強く、比丘尼さんか巡礼さんを弔ったという話が正解なのではという感じでした・・・本を書いた方が、誰から確認したのかですが。

なお、本の出版が平成13年ですから、土地の形が写真とは違っているはずですね。


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もう片方の六部塔を探しても、これがまったく分からず、一時間ほどウロウロしていたら、おじいさんと言うには若く、おじさんと言うには歳をとってる方の軽トラックが通りかかったので、聞いてみたら、昔旧道を使っていた時、見たことがあるとかで、場所を聞いたら少し上のカーブの所から入ったところだとか。

でもって、別れようか思ったら、「暇だから、連れて行くよ」。これが、実は非常に助かり、とにかく左の写真、大きな道は近年できた道で、矢印が旧道だとか。

入っていくと、これが本当に旧道で、お殿様とか、伊能忠敬とか、勝海舟とか、坂本龍馬が通った道かと思うほど荒れておりました。

話では、昔は一年に1.2回、草払いをしてきれいにしていたとか。テーラー程度なら通れたそうですが、今は使わないので、この状態。


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少しばかり行くと、ありました。こんなところに、という感じですが・・・

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「六十六部」についてですが、手元の郷土史辞典では

「六部(ろくぶ)」
六十六部の略。日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経1部ずつ納めることから、この名が起こった。(中略)鎌倉~江戸時代に起こってきたもので、江戸時代にはきわめて盛んとなった。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(中略)六十六部の場合は、宗教専門家が、宗教の過程で人の没後をの菩提をとむらうところに真意があったので、
巡礼ほどには街道での一般人の接待はなかった。むしろ江戸時代中期より売僧や贋僧の物貰いにまちがえられるものが多くなった。

とはありますが、「江戸の用語辞典(時代小説のお供に)」では

「六十六部」

六十六の経典をを全国の国分寺などに納めて廻る僧侶の事でございます。江戸後期にはほとんどが偽物で、お布施をもらう【物乞(ものごい)】でございました「六部」とも申します。

とありますが、「比丘尼」にしても、ネットの「大辞林」では➀では「出家して定めの戒を受け正式に僧となった女子。尼僧。尼。びくにん。」とはなっていますが、④では「江戸時代、尼僧姿の下級の売春婦。びくにん」となっており、出雲のお国の歌舞伎も、あとで真似をする「遊女歌舞伎」になり、売春に関係することになり、この「六十六部」さんも、時代とともに性格が変わってきたのではないかと思います。

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さて、この「六十六部塔」、裏ですね、見逃しましたが、「飯盛町郷土史」によれば、「寛政寅年」と彫ってあり、ということは「寛政六年(甲寅)」、1794年で今から223年前の「六十六部塔」になります。

中央には、「奉納大乗妙典六十六部是廻国之塚近江住浄心」。

下の方に12名ばかりの名前が彫ってあり、この石塔を立てた地元の人かと思ったら、「大坂」「備後」「若狭」「丹後」「大串」などが見え、名前も「是心」「閍入」「?禅」など行者らしき名前も見えますが、「藤兵衛」「太七」「杢兵衛」などの一般人とおぼしき名前も見え、この12名、果たしてどうな関係だったのでしょう。

さて、このような貴重なもの、このまま山の中に眠らせておいていいのでしょうか?諌早市さん。といっても、役所の中で、文化面が一番弱い部署ですから、言っても無駄かな weep

2017年3月12日 (日)

萬歳山本経寺★大村家墓所~「ばんざい」か「まんざい」か

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大村家墓所の入口になります。「日本最古の犬の墓」という事で昨日書きましたが、この墓所、実にいろいろな墓の形が見られます。

下は、五輪塔が二つ入っていますが、説明版によれば、片方が「十六代・純伊(すみこれ)公」、もう一つが、「十九代・喜前(よしあき)公」。

実は、藩主としては「喜前公」が、大村藩の初代藩主になるわけですが、昨日の「義犬華丸ものがたり」によれば、大村家の系図(中世末期以降)として

(諸説あって不明)→純治(すみはる)→純伊(すみこれ)→純前(すみあき)→
純忠(すみただ)→初代藩主・喜前(以下略)、となってなます。

純忠はキリシタン大名でしたが、この墓所には墓はなく、というより良く分からないようで、「大村史談上巻」によれば、「純忠公は宝性寺に葬られ、草場に移され、のち本経寺に移されたはずであるが、なお不明である。」と書かれてあり、なお、「大村純忠伝(松田毅一著)」によれば、「当時既にキリシタン宗門は邪教として排斥されていたし、爾来二世紀に亘る迫害を思うならば、純忠の遺骸が鄭重に取り扱われた筈がなく、今日、大村家歴代の廟として併祀されるに留まっていることは当然のことと言うべきであろう。
本経寺の過去帳には『天正十五丁亥五月十八日(四月十七日の誤)十八代純忠公円通院殿前戸部侍即理仙日融大居士』とある。」とあります。

なお、純忠公はキリシタンでしたが、次代の喜前公は棄教をしキリシタンを厳しく取り締まっています。


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「純昌(すみよし)公」の墓所ですが、「石霊屋」です。もちろん石造りで、後で写真を撮った説明版を読むと、「内部格子天井には金箔を押した跡が残っている」と書かれ、これ、見落としました。もっとも、一人じゃこの中、入りにくいですよね。



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建物横には、下のようにびっしりと文字が刻まれていました。

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説明版には、「クルス灯篭」としてあり、第二十二代純長公七男次郎太郎としてありますが、亡くなったのが萬冶二年六月二十一日で、前年に、郡崩れといわれるキリシタン事件が収まったばかりで、疑の残るような物がその時期に作られたとは思われない、との意味が書いてありました。

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「継ぎ墓」といわれるもので、二十二代純長公の息女、おまし様の墓。生駒信興に嫁すも二十二歳にして病死。墓が婚家にはなく、実家の大村家にあるのも謎。
「恐らくは病弱の故を以て離別して、大村家江戸藩邸にて病を養い、没したる故か・・・。」

さて、墓の笠の下の右上方を見てください。


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なぜか、棹石の上方の角に継があるので、「継ぎ墓」と言っているそうですが、なぜかは、謎だそうです。

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さて、今日の本論です。左が「二十代・純頼公」(説明版には二十代と書いてありますが、藩主としては二代目になります)の墓。右が次代の「純信公」の墓。

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「純頼公」は、父喜前公の家督を継ぐも六年、二十八歳、元和五年十一月忽然として、死去します。この時、残された、「純信公」、幼名「松千代君」、御年三歳(説明版では二歳、「大村郷村記」では三歳)。

「・・・生母も松千代君の正式の届け出がしてなかった為に法度により大村藩は断絶せんとす。忠臣大村彦右ヱ門、四方に画策し、誠忠以て幕閣を動かし、ついに松千代君の跡目相続を取りつく、これより後、藩主に息あらば嫡子ならずとも届けにより相続が許さるることになる。」と説明板には書いてあります。

さて、これを喜んだのが家臣、「大村郷村記」に次のように書いてあります。

「此時、一族家士悉詣拜純頼廟而異口同音唱萬歳、從是後祝之改號萬歳山云々」

大村藩ではキリシタンを取り入れたため、40の寺院と17の神社が焼かれたそうですが、この時、本経寺の場所には、「普門坊」のちの「日蔵坊」というお堂が建っていたそうですが、もちろん焼き打ちにあい、「耶蘇(やそ)大寺」が建てられ、領内には87の教会があったといわれています。

禁教時代、寺院が再興されますが、この時の山号が「法性山本経寺」。で、上に書いたように、松千代君相続の報を聞き、純頼公の墓の前で「萬歳」を叫んだので以後「萬歳山」に改称。ということなのですが、この、「萬歳」に少し引っ掛かりを持ち。

現在の「バンザイ」は「万歳三唱」で、使われたのが明治22年、憲法発布式典で東京帝大の教授、学生が行ったのが始めと言われています。

で、この「萬歳山」は「バンザイ」ではなく「マンザイ」(今の漫才ではなく、昔、正月などにその年の繁栄を祝って言葉を述べ、踊り歩くということ、祝いの時に踊ったりすること)ではないかと思い、ちょうどお寺の方がおられたので聞いてみたら、「ばんざいさん、ということで、昔から伝えられております」とのこと。

で、私はしつっこので、古語辞典とか「時代別国語大辞典」などを調べたのですが、「ばんざい」は載ってなく、いろいろ本を引っ張り出してみると、「考証要集(大森洋平著)」に「有職故実(石村貞吉著)」に載っているとのことで調べてみると

「即位」のところに、「儀式の書には、音謁(おんえつ)と注してあるので、万歳を唱えるというのは、今のように、『ばんざい』と唱えたのではなく、恐らく「えいーっ」と叫んだものであろうといわれている。」ということで、多分、大村家の家臣は、純頼公の墓前で、「ばんざい」ではなく、大声で「えいーっ」と声を上げ喜んだものと思った次第です。

なお、お寺の山号については、どの辞書にも、「ばんざい」は見つからないので、「まんざいさん」と思うのですが、お寺の方が「ばんざいさん」と言われるし、「大村郷村記」にも「萬歳」とあるので、それでも良いかと思うのでありましたが、これが「ばんざい」と読むならば、明治22年の「万歳」説は書き換えが必要かとも思うのですが・・・


(参考・文引用:「有職故実・石村貞吉著」「大村郷村記」「大村史話」、「考証要   集・大森洋平著」説明版より)



 



2017年3月11日 (土)

「日本最古の犬の墓(史実)」~大村市本経寺

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この犬の名は、「華丸」と言います。墓は大村藩主の墓所の中にあります。藩主の墓所の中に、犬の墓があるのは非常に珍しいかと思います。

この墓所は大村の本経寺の中にありますが、墓所は「国指定史跡」になります。
説明版に書いてある通り、普通、藩主の墓といえば、大体同じ形ですが、この墓所の墓、まさにバラバラの作り。


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五輪の塔あり、石霊室(いしたまや)あり、宝塔あり、笠塔婆(かさとうば)ありで、しかも、デカい。

大村藩は一時、キリシタンの藩であり、禁教時代になりキリシタンではないことを表わすためだと考えられています。


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ここを訪れたのは、下の本が図書館にあり、なかなか面白かったからです(病院通いもありましたが)。

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墓所の入口のすぐ左手に、「義犬華丸」の顕彰記念碑(顕彰墓碑と石像)があります。裏から見ると墓碑には何やら書いてありますが。

この顕彰碑は義犬華丸365回忌(なんとなく中途半端ですが・・・・)に作られたそうです。平成27年ですから、昨年になります。

「子供から大人まで多くの皆様に触って貰えるように、表面はツルツルで滑らかになっています。」という事で、私もナデナデしてきましたが、ワンとも言わず、おとなしく、可愛い犬でした。


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墓の場所が少し分かりにくいのですが、墓所に入って左側に見上げるような、3代藩主純信公の墓碑があり、この墓碑の少し左側にあります。右が「華丸」の墓ですが・・・

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文字が彫ってありますが、この彫ってある文章は読んでみると、記念碑の墓碑の裏側に書いてある文章と同じでした。ただ、高さが違うので、改行の部分が違っています。で、この文章になぜ「華丸」が「義犬」と呼ばれ、大村藩主の墓所に祀られたかが書いてあります。

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本から要約すると

大村藩三代藩主大村純信の幼少期の傅役(守役)で、家老の小佐々市右衛門前親(あきちか)が飼っていた愛犬が、「華丸」。犬種は雄の狆(ちん)。

大村純忠が33歳で急死し、前親がこれを悼み、本経寺で殉死(追い腹)。前親の荼毘(だび)の時、愛犬華丸は主人の死を嘆き悲しんで声を呑み、雨のように涙を流し(犬吞聲泣涙如雨)、主人が焼かれる火に身を投じたそうです。
君主に殉じた前親、そして飼い主に殉じた華丸。それを末永く供養するため、二つの墓が並んで建てられたそうです。

一番上の写真、左が小佐々市衛門前親の墓、寄り添うように建っているのが、「華丸」の墓。

大村家の墓所には、驚くようなものもあり、このお寺は「萬歳山本経寺」といいますが、「萬歳山」の名前には理由があるのですが、近い間にでもご紹介を。

皆様も、近くにお寄りの節はご参拝を。なお、見学の際は「国指定史跡」になりますので、大切にご覧ください。受付を忘れないように。私は忘れていましたが。また、「犬」を連れて境内に入ることはできないそうですからご注意を。


(参考・文引用:説明版及び「義犬華丸ものがたり」より)



2017年2月18日 (土)

「善神(ぜんじん)さん古墳」~諫早市高来町

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ホント、嫌ですね。昨日、ブログを書き上げてアップしようとしたら、ネットに繋がらず格闘する事、午前1時。でもって、記事が全部パー。これだから、PCは信用できない。皆様もご注意を。

という事で、書き直しですが、気力が失せたので簡単に。

一昨日は天気が良く、有明海の海向こう高来町へ。用事が済んで湯江小学校あたりをブラブラしていたら、なにやらあったので、見にいったら「善神さん古墳」でした。名前は聞いたことがあり、山の中かと思ったら道路のすぐそば。

古墳の名前で、「鬼の古墳」、「鬼の岩屋」、「鬼塚古墳」等々、「鬼」がつくのが多いのですが。考古学もない時代、こんなものを見つけたら、鬼でも住んでいたんじゃないか、
と思うのはごく自然でしょう。ここは「善神」ですが。

「善神」は手持ちの辞書にはなく、ネットで調べると「1 よい神い 2 仏語。正法(しょうほう)を守る神。」とあります。
 

名前の由来がわからないので、近くにお年寄りさんを探しても見つからなく、「高来町郷土史」(現諫早市へ編入)をみたら、「室内には近世作の地蔵尊など石仏十数体が並び、信仰対象とされ、『善神さん』の由来を示している。」と、あまりよく分かりません。

「善神さん古墳」の説明は説明版に書いてあったので、読んでください。


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現在、赤丸の「羨道」(せんどう・えんどう。横穴式古墳で遺体を安置する「玄室」と外部を結ぶ通路)はつぶれて、玄室だけむきだしの状態です。

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下の写真の赤丸のところが「羨道」の一部ですが、これが右側にもあり、その上に天井の石をかぶせ、土で覆っていたと思われますから、随分大きな古墳であったことがわかります。埋葬者は地元の実力者だということが伺われます。

なお古墳、上の部分はコンクリートが打たれ、瓦で葺かれていますが、これは後世に付け加えられたものです。


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内部ですが、大きな石がきれいに積まれています。重機もない時代です。


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天井ですが、2枚の大きな岩でおおわれています。

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で、私が大チョンボしまして、説明版の「玄室正面の一枚岩には一面に斜格子紋様があり、人物・舟・動物が描かれている。羨道部の天井石にも線刻文様が施している。」を見落とし、写真を撮るのを忘れましたが、幸いにも「高来郷土史」に写真が載せてありましたので下に紹介しておきます。

なお、この線刻文様については、ネットの「長崎県の遺跡大辞典」には、「詳細な観察によると格子文、斜格子文の後から人物などの図柄が描かれているために、後世の落書きとみる説があるが、決め手となる根拠はない。」とあり、「高来町郷土誌」には、舟・人物は斜格子文のあとに描かれている可能性も強いとしながらも「これらの構図の類例は佐賀県などの古墳にも似たようなものが含まれる。」と若干ニュアンスが違っています。


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           (「高来町郷土誌」より)


遠くの有名な古墳見学もいいですが、近くにも面白い古墳があるかも、ですよ。


 


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