史跡

2021年9月18日 (土)

千々石ミゲル墓所調査プロジェクト報告~2021.9.18

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台風の影響で状況報告の日程変更があったみたいですが、遺骨の状況が判るのが16日になるという事で、この日、NCC文化放送のニュースで流れたそうです。なお「時間が経過すると上記のリンクから動画や記事が見られなく場合があります。」とあるので、放送をスクショしたが画面が上の写真です。12日の長崎新聞の写真よりハッキリしています。頭蓋骨もはっきりと判ります。

詳しくはNCCさんは→こちらをクリック

発掘プロジェクトは→こちらをクリック

なお、発掘プロジェクトのホームページでは第一次調査から今回の調査まで通しで見られ、特に前回の調査と比べれば面白いと思います。


今日、18日にも報告会がありましたが、これは多分お世話になった地元の方を主にした報告であったみたいです。


私が用事で行かれなかったので、知人から聞いた話を簡単に書いてみます。


ここには大きな墓碑が建っていましたが、土砂で流されたりしていたのが、今回の調査で最初の位置が判ったそうです。本来の位置は二つの墓の頭の所、真ん中あたりだそうです。お棺が埋められていたところは、適当では無く、計画的で最初から埋める場所を決めていたのではないかということで、その間、1メートルぐらいだそうです。この墓を作るには時間がかかるとのことです。

前回のお棺は長持ちを転用したものですが、今回は木棺だそうですがほとんど朽ちています。お棺の大きさは140✕40㎝。横を向き、膝を正座しているくらいまで曲げているとのことです。なお、前回は、ガラス玉などキリシタンの遺物を思わせる副葬品が出土しましたが、今回は何も出土しなかったとの事です。

なお、時間がかかるとは思いますが、詳しいことについては報告書が手に入るので、その折りにでも。


調査期間は10月8日までになっているので、お骨の下の方を多少発掘し、埋め戻しをするのかと思います。今回が最後の調査になり、今後は発掘調査はおこなわれません。

今後、遺骨の調査をし、諌早市に寄託するとのことです。「千々石ミゲル」だから、こちらに寄託して欲しいのですが、施設、人材とも不足ですね。



2021年9月 6日 (月)

稲荷鬼塚古墳発掘調査~雲仙市愛野町

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9月3日の"朝日新聞デジタル”版に「有力豪族、海介して交流か 雲仙・稲荷鬼塚古墳の初調査」の記事が出ていました。→こちらをクリック 

この古墳については、2015年に私が紹介をしていました。→こちらをクリック 。で、偉そうにイロイロ書きましたが、今回の調査で本格的なところが分かってきたようです。

普通、発掘調査現地説明会は一般向けにもおこなわれるのですが、今回は8月12日に報道関係者のみを対象におこなわれています。

遺跡というと地味みたいですが、説明会には意外と多くの方が見えられます。多分、コロナの影響で密を避けるために報道関係者のみの説明会みたいですが・・・


さっそく出かけて見ましたが、掘った跡は見受けられず、裏に回ってみたら、こちらの方でした。まだ、埋め戻しはしてありません。かなりの長さで発掘をしています。


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祠の下の石積みが玄室を塞いでいる「閉塞石」、手前の地面が「羨道」だそうです。この、祠の下に石室みたいなのが見えているのですが、どうなんでしょう?

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なお、遺物は盗掘されたと思っていたら、勾玉、切子玉、耳環等々5593点が出土したそうです。

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以前、私は祠の表が古墳の表だと思っていたら、石室の開口部は反対側で有明海を挟んで、大牟田市を向いているそうです。

なお、この古墳より少し離れた所に火箱遺跡が発掘をされています。→こちらをクリック


付近には一本松古墳、中島古墳、首塚(古墳)、国見町には筏遺跡、百花台遺跡、鬼の岩屋、吾妻町には守山大塚古墳等々、有明海沿いに多くの古墳があります。
これらの古墳、遺跡の関係が分かれば面白いとは思うのですが。なお、出土品は後日公開をされるそうです。


発掘と言えば「千々石ミゲルの墓」の発掘調査も進んでいます。→こちらをクリック  


2021年8月21日 (土)

原城=春城の名称について

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江戸時代の街道絵図に「原城」のことを「春城」と書いてあるのを見かけます。

左は「大日本道中細見・三河屋鉄五郎版」。残念ながら年代は分かりませんが、赤の四角の所「春城」と書いてあります。

右は「大日本早引細見絵図・天保13年改版 絵圖屋庄八版」(1847年)。同じく「春城」と書いてあります。

「春城」の左側に「古城」と書いてありますが、有家町にある地区の名前です。

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まったく書いてないのもあります。左は、大日本早引道中版 天保八酉11月再版(1837年)。

右は、鳥飼市兵衛版 寛保四年大増補日本道中行程(1743年)。こちらは「古城」とありますが、有家町の古城ではなく、「原城」のことです。下の方に「ソクノ コモリタル 所(「所」はくずし字にて表記)」(賊の籠もりたる所)とあります。

以前、原城の名前は「原之城」「有馬城」「志自岐原城」「春城」「日暮城」とあり、これについて調べると書きましたが、やはり詳しくは分かりませんでした。で、一応調べた分で、今回は主に”春城”に絞ります。

⚫長崎県大百科事典には「有明海に面して東南に突き出た「ハルの島」といわれた岬を利用して築かれた平山城。(長崎新聞社発行)

⚫北肥戦誌(九州治乱記)には「抑々(そもそも)肥前國髙來島志自岐原。城主有馬越前入道随意齋仙岩と申すは・・・」。北肥戦記(別名『九州治乱記』)は、佐賀藩士馬渡俊継が正徳年間(7711~1716)に編纂。(青潮社・1995年発行)

⚫新編藩翰譜には「原の城は有馬家の旧領なりき、それへ賊徒の立て籠りしなり。但し、原の字は、はると云ふべし。西国の方言なりと云う。」。藩翰譜は新井白石が慶応5年(1600)~延宝8年(1680)の諸家337家の由来・事跡を書いた本。完成が元禄15年(1702)。
(新人物往来社・昭和52年発行)。

⚫佐野彌七左衛門覚書には「・・・原の城の名古来所の者春の城と申候へとも上使御下次原の城と何れも申候故所の者も原の城と申候事」。佐
野彌七左衛門は当時の島原領主松倉氏の家臣で、物頭を勤め、禄四百石を食む・・・(島原半島史・林銑吉著より)。

なお、本によっては、一揆以前は城の名前は無かったと書いてあるのもあります。また「勝茂公(佐賀藩主)御年譜」によれば「有馬ノ古城原ノ城へ・・・」ともあります。長崎県事典では「ハル」」と書いてありますが、出典は不明。北肥戦記には「肥前國高來島志自岐原。城主・・・」とあるので、「志自岐原城」と考えられ無いこともない。

さて、島原半島に住んでいる方はお分かりですが、当地方では「原(はら)」のことを「はる」と発音するところもあります。「原」が一番最後につく時は「ばる」とも発音します「弘法原(こうぼうばる)」。「原」一字の小字がありますが、これは「はる」。千々石に「古賀原(こがばる)」がありますが、通称「原(はる)」。全部が「はる」ではなく、「はら」と読むのもあります、同じ小字でも「赤原(あかばる)」「塚原(つかはら)」。

ですから、藩翰譜には「西国の方言なり」とはありますが、一概に言えないのではないかと・・・PCで「はる」と打ち込んでも「原」ともでます。

神田千里氏の「島原の乱」には、「原城はもともと『はるのしろ』と呼ばれていたものが、島原の乱のために幕府の鎮圧軍がやってきた後、『はらのしろ』と呼ぶようになったと伝えてられる(『佐野弥七左衛門覚書』)」とあります。上に引用した内容と大体同じです。

佐野彌七左衛門は島原天草一揆に実際に参加をしているので、これが一番正確なのではないかと思います。


地図を見て、面白い事に原城の本城の「日野江城」がありません。


地図は乱後100年のものです。また、島原から遠く離れた江戸に「”春”城」ということで伝わっていたという事は、興味深いと思います。軍記物に「春城」の名称があり、それを写したものかと思い2~3冊見たのですが、ありませんでした。

下の絵、左は天草四郎の絵。書いたのは”月岡芳年、天保10年(1839)~明治25年(1892)。右は”豊原国周”、天保6年(1835)~明治37年(1900)。右上に”天草四郎時貞・尾上菊五郎”、左上に”千々輪五郎左エ門・市川團十郎”。乱後200年以上の絵になります。絵自体は、何となく奇異な感じですが、地図と同じく江戸という土地に武将、忠臣蔵かと思われる姿で描かれているのも面白いと思います。この絵は、国会図書館デジタルコレクションに所蔵されています。

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いつものごとく、まとまらない話になりましたが、他にも、原城の名前について書いてある本もあるので、又改めて分かりやすく書いてみたいと思います。


2021年8月 1日 (日)

雲仙も暑かった ( ̄。 ̄;)

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昨日は暑かったので涼もうと思って雲仙まで出かけました。ですが、暑かった。もう少し上の仁田峠まで行けば涼しいとは思うのですが。

上の左の写真、現在の姿です。赤丸が温泉神社の鳥居。赤の矢印が湯煎餅の「遠江屋(とうとうみや)」さん。車が停まっているところが有料駐車場。


右の写真、バスが止まっていますが島鉄(島原鉄道)バスの発着所。後ろの建物が多分待合所だと思われます。現在はなくなり駐車場になっています。バスを見るとボンネットバスでは無いので1960~1970年以降か?左の矢印の方向に温泉神社の鳥居があります。


下が、昭和9年以前の姿。赤丸が温泉神社の鳥居。左の緑の矢印の所、何やら山門みたいな感じがします。なお、ここらあたりが現在の有料駐車場。現在、この左手の方に満妙寺の釈迦堂があります。


緑の矢印の後ろが空き地、畑ですが、右の写真では庭になっているので、こちらが左より新しい風景。


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満妙寺へ上がる階段。一番上の左の写真はこの階段の上から撮ったものです。左に島鉄バスのバス停。

右は写真集「雲仙」(雲仙岳後援會刊)に掲載されたもの。なんとか情報館で聞いたところ、左の階段の所ではないか、ということですが詳細は不明。


どう見ても、寺院みたいな感じですが看板は「自動車切符発売所」。多分、昔の満妙寺かな?

看板には、会社名が「小浜自動車株式会社」。行き先がローマ字で、小浜、千々石、諌早、長崎、島原。なお「BUS OR HIRE」と書いてあります。小浜自動車はハイヤーも持っていて営業をしていました。

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見て、ビックリしました。以前は左のような姿(GoogleEarthより)で、山門に「雲仙山 満妙寺」「開山 大宝元年」と書いてあったのですが、現在は水道施設工事中、発注者が雲仙市。あと、どうするんでしょう?

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遠江屋」さん。今では、手焼きで煎餅を焼くのは、ここだけになってしまいました。赤丸、煎餅の種をいれて挟んで焼きますが、この時、種が多少溢れ、煎餅の耳ですね。この部分が美味しいのです。通はここを好みます。

昔は、ここだけ切り取って売っていたのですが、今は焼き立てで耳付きを売っていました。これって絶品ですよ。行かれるときは電話で確認を。

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お盆前ですね。駕籠立て場の所、舗装工事をした記念碑です。少し前までは草に覆われていたのですが、ピカピカのツルツルになっていました。普段から、きれいにしてもらいたいものです。

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下の写真は「雲仙」に載っていた写真ですが、「寄氣塲茶屋(よけばちゃや)展望」となっていて写真の右下、かすかに藁屋根が見えます。

以前から場所が気になっていたのですが、雲仙~千々石の道をよく見ていったら、こちらでした。とはいっても、道路は拡張工事で、以前とはかなり違って道がくねっていて、上の道路、下の道路でも同じような風景になるのでピンポイントでは分かりません。


この道に、一軒ポツンと家があったのはあったのですが・・・


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ということで、雲仙も暑く涼めませんでしたが、久しぶりの雲仙でした。

思い出したので。先日、雲仙でオクサマ関係の兄弟会をしました。雲仙市のナンチャラキャンペーンを利用し、一万円の補助があったみたいで、手出し1000円くらい。結構なお料理でした。全員下戸で(私はドクターストップ)大の大人5名でビール一本ですみました。もちろん”ノンアルコールビール”でした(^_^)。

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2021年7月26日 (月)

「大波止に玉はあれども大砲なし」~長崎の七不思議

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先日から、長崎の中華街、新地の事を調べようと「長崎實録大成」を読んでいたら「鉄之石火矢玉 一 大波止坂際に有之」とあり、これ、長崎の七不思議の一つで、ここに書かれている古絵葉書を持っていたのを思い出したので。

長崎の七不思議はー

①寺もないのに大徳寺 ②平地なところ丸山と ③古いお宮を若宮と ④桜もないのに桜馬場 ⑤北にあるのを西山と ⑥大波止に玉はあれども大砲なし ⑦シャンと立ったる松の木を下り松とは これで七不思議。 というものです。


さて、「長崎實録大成」に「右鉄玉の事諸ノ𦾔記に其説ヲ出サス」というところを見ると、これ以前には、文書として残っていないことが分かり「賤夫等の傳説に・・・」と言うことなので、伝説に伝えられているのみ、ということがうかがえます。

この本は長崎文献社から出版されいますが、入手しにくいので、そのまま写してみます。なお、校訂は丹羽漢吉氏、森永種夫氏です。写し間違いはご容赦のほどを。


鉄之石火矢玉 一 大波戸坂際に有之

廻リ五尺六寸程

右鉄玉の事諸ノ𦾔記二ソノ説ヲ出サス。賤夫等ノ傳説二、蠻人(ポルトガル?)我國ノ威ヲ顕サント彼國ヨリ持來レリト云。或ハ日本ヨリ蠻船ヲ可撃沈用意也ト云。又一説二島原一揆籠城ノ節、於彼地土中二穴ヲ堀リ抜キ、籃硝數百斤ヲ以テ此玉ヲ打出スへキ支度二鑄造セリト云。其説何レモ虚蕩ニシテ信用成難シ。暫ク其ノ概(おおむね)ヲ擧ル而耳(のみ)


ということです。


内容は①南蛮人が自分の威を示すため持ってきた ②日本が南蛮船を撃沈するため ③島原一揆の城(原城)を地中に穴を堀り(砲身として)
、攻撃するため、ということです。ただ、いずれの説も信用できないが概ねの事を挙げる。というものです。

以下、丹羽漢吉氏著「史談切り抜き帳 第2巻」によれば、寛政4年4月21日に綿密な計測がなされ

1 火玉 周1.758m 重量554.7㎏ 
2 同台 高0.273m 0.712m
3 惣髙 0.788m

丹羽勘吉氏が鉄の比重を元に計算すると920㎏のはずが、554.7㎏しかないので中空か、又は。軽い金属を混ぜているかと思われたそうですが、時の市立博物館長の越中哲也氏によれば、中空になっているはずとのことで、鉄で出来ているとして計算すると、厚さは10㎝余りになるそうです。ですが、中空の玉をつくるには、当時、その技術と施設を考えれば大変なことだと思われます。なお、この玉を打ち出す大砲を考えると、巨大な砲身が必要だと思われ、当時の技術としては無理でしょう。


越中哲也氏が、なぜに玉が中空であったかを知っていたのかという疑問がありますが、多分、叩いてみたのではないかと推測しております。


さて、①②③説の中で、一番多く語られているのが③の島原一揆に関係するもの。これについては「長崎港草」「長崎名勝図絵」にもあるらしく、城(原城)の近くに穴を堀り、そこに玉と火薬を詰めて飛ばす、というもの。だそうですが、あの玉を飛ばすのにどれだけの火薬がいるのか、また、城近くから飛ばすというとは打ち上げになるので、無理。かえって、重箱山あたりからは城内が見え、打ち下ろす感じになるので、こちら方がベターだとは思うのですが。


諸説考えるに、どれも無理があるようで、はやり”謎は謎”のまま、ああだ、こうだ、と話しをするのが良策かとも。謎が解けると「長崎の六不思議」になり、七不思議という熟語はありますが、六不思議という熟語はなく、なんとなく、間が抜けた感じになるので、ここは事実が分かったとしても、知らんふりして「長崎の七不思議」にしておいた方が良いのでは。


余談ながら、玉の回りが五尺六寸ですが。花火で一番大きいのが四尺玉だそうです。外径120㎝、重さ420㎏、上がる高さ700~750m、お値段260万円。らしいです。



2021年7月15日 (木)

日見の「腹切坂」~長崎市 その5

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以前、日見の「腹切坂」の事を4回にわたって書きました。あの頃は、ブログを始めた頃で、文章が甘く、分かりにくい!と反省をしております。

腹切坂の第1回目の記事で、今年の4月下のようなコメントをいただきました。多分、長崎街道について詳しく調べている方だと思われます。多分→こちらをクリックの方だと思います。


腹切り坂のフェートン号由来についてコメントさせてください。

フェートン号事件は文化5年ですが、それより前の文化3年刊の『筑紫紀行』には「腹切り坂」という文字がでてきます。ですからありえません。もうひとつの作右衛門の件はありえるかもしれません。20年ほど前に、その御子孫の家に伺って、絵巻物を拝見しました。しかし、私は山の中腹を腹を切ったような道だから名付けられたと思います。腹切り坂の道は1998年以来2度通りましたが、現在移されている三基の石塔の基礎は残っています。https://misakimichi.com/archives/1762 道が半分崩れている場所があるので注意が必要です。私が1998年に見た時は教宗寺に安置してありました。


ということで、気になったので再度調べて見ました。


腹切坂がフェートン号事件と関係あると最初に紹介したのは、私が調べた範囲では、多分、永島正一氏だったと思われます。上の本「長崎街道」の最後に「長崎彼杵間街絵図」が載せてあり、これに、腹切り坂について書いてあるからだと思います。

上の〇印の所に腹切坂について書いてあり、以前に載せたことがあるのですが、読み落としがあったので、再度載せます。下の写真です。写真がハッキリしていないのを印刷しているので、なおさらボケています。


次のように書いてあります。



文化五年英船長崎に/来り当番佐賀藩/兵少うして撃攘する能わず長崎奉行は為/に責を負ふて自/刃し佐賀藩士亦/屠殺するものあり/此の坂の上に於いて/一佐賀藩士/自刃せしより/切腹坂の/名を得/たり(/は原文の行替の箇所)

フェートン号とは書いてありませんが、「英船」とも書いてあり、この記述については間違いなくフェートン号事件です。

なお、この絵図について永島正一氏は次のとおり説明をしています。


「長崎彼杵間街道絵図」という一巻がある。
昭和三年、七十一翁杉沢十一郎著とある。杉沢寿一郎さんは、安政七年(1856)矢上生まれ、同地に住んで、幕末から明治・大正・昭和に及ぶ目見聞録をまとめて数十巻、こんにち「矢上藍文庫」を遺しておられる。
大正十五年、日見トンネル開通の時、そのかみをしのび、長崎より嬉野にいたる明治維新前後の交通図を描かれた。
この図は、刊行されることなく秘蔵されたが、矢上村間の瀬名の人下井出島右衛門さんが経費を負担して刊行されたものである。刊行は田中隼人、福田忠昭、三浦実道のみなさんであった。
本図は、杉沢寿一郎さんであるが、これを改写したのは日本画古殿保雲さんであったという。(以下略)


腹切坂の話については、以前にも書きましたが、現在3説が見られます。①説明板のとおり、日見に平家の落人の末裔がいて、この中で作左衛門がという棒術に優れた者がいた。熊本藩の家臣某がこの名を聞き、帰郷の際一手試合を申し込むが負けて腹を切り、これを村人が憐れに思い葬った、という説。②上に書いた「フェートン号事件」説。③街道が山の中腹を横切っており、腹を切ったようにみえる(越中哲也氏説)。


ここではフェートン号事件を中心にしたいので、この点に絞ります。なお、この①②の説についてネット、本で紹介したのものがあるようですが、代表的なものとして、永島正一氏と松尾卓治氏著「長崎街道を行く」を紹介したいと思います。なお、ネット情報では①②の説を併記して書いているものが多いようですが、参考資料、根拠について書いたものはないようです。

永島正一氏は①説を最初に紹介し②を「異説腹切坂」ということで紹介しています。
松尾卓治氏は②説を最初に紹介し①を「別の話」としています。

上の絵図を書いた杉沢氏は1856年生まれ。フェートン号事件が1808年、と言うことを考えれば、フェートン号事件48年後に杉沢氏は生まれたということなので、実際に佐賀藩士が腹を切った事を目撃した人が、松沢氏に話したことは十分に考えられます。

ただ、そうすると腹切坂に建てられた「吉村忠右衛門藤原重道」と書かれた墓は誰なのさ、と言うことになります。なお、この墓から太い骨が出てきたことは前にも書いています。この墓の年号は元禄9(1696)年丙子3月になっています。フェートン号事件より昔です。なお、3つの石塔のうち、墓と見られるものはこれだけです。

松尾卓治氏は本の中で佐賀藩士が佐賀に報告に向かった事に触れ「・・・早田助平たち17名は、佐嘉領矢上に入ったこの坂で追い腹を切ったという。それで、この坂を腹切り坂というそうだ」とあります。

松尾卓治氏は「佐嘉領矢上に入ったこの坂で・・・」とありますが、この三つの石塔があった元の場所は天領・長崎の地です。腹を切ったところは藩境石「佐嘉領」の向こう側(佐賀藩)と書いてあるので
矛盾をかんじます。

さてコメントに「筑紫紀行」とあるので、チェックしてみました。

「筑紫紀行」については、国立国会図書館デジタルコレクション→「筑紫紀行」で検索して、柳田国男校の本にあります。654頁、337コマの真ん中あたり。


この紀行文、著者は菱屋平七(吉田重房)。序文に菱屋兵名で書いてあって、年号は享和7年(1802)、後序は吉田重房名で、年号は文化丙寅9月(1806)。656頁、337コマの真ん中あたり。後序に「享和中、余西遊於長崎・・・」とあるので、旅をしたのは享和年間になります。


・・・領地境の印、南は佐賀鐐、北は御公領なるよしなり。二丁計(ばかり)坂を登れば腹切坂の峠なり。三丁計下れば日見村。・・・


と言うことで、コメントにいただいた通り、フェートン号事件以前に「腹切坂」の地名があるのが分かります。

ただ、この紀行文、例えば「領地境の印(藩境石)」など、以外と細かく書いてあり、腹切坂の三本の石碑などがあれば書いてあっても良さそうなのですが、多少気になります。


と言うことで、越中哲也さんの「腹を切ったという伝説がいくつかあるんですよ。」というのが妥当な感じがします。


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なお、佐賀県史(昭和37年刊)には、フェートン号事件のことについては書いてありますが、「腹切坂」については記述はありませんでした。

以上、又もやクダクダと分かりにくい文を書いてしまいました、反省m(_ _)m。



2021年7月 4日 (日)

「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト主催」講演会

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(写真はクリックすると、いささかハッキリ見えます)

千々石ミゲル墓所の第4次の発掘が、8月2日から始まります。


これに伴い、昨日は千々石町、今日は諌早で講演会が開催されました。調査は今回の調査が最終調査になるということです。

第一部の講演はプロジェクト代表で千々石ミゲルの子孫の浅田昌彦氏、プロジェクト調査統括の大石一久氏。第二部がお二人に加えて、発掘調査副担当の安楽勉氏、プロジェクト副代表の町田義博氏、同・井出光則氏。


浅田氏の話は千々石ミゲル、大村藩、そして、浅田家との関係のお話。大石氏の話は、伊木力にある墓所をなぜ千々石ミゲル夫妻の墓所と推定したかの根拠。これには、浅田家をどうして知ることが出来たのか、文献調査、地域の文化の特性なども交えての話でした。


なお、発掘に至るまでの経過、第1次、第2次、第3次の経過など詳しいことは「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」を参照→こちらをクリック


「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」には、千々石ミゲルの生涯、講演会で話された事も含んであり、この墓所が持つ意味なども書いてあるので、是非、お読みください。


今回の調査はクラウドファンディングで資金調達をしています。金額によって、お礼メール、概要パンフレット(PDF)等お礼があるそうですが、私の場合は「墓所調査結果報告(DVVD)」を入手したいのですが、これ30,000円でお高いようですが、「調査発掘直後のオンライン報告会」が入っていて、「発掘直後」とあるので、調査した日の発掘の様子、発掘品なども見られるのではないかと期待しつつ30,000円で協力をしようかと思っています。


申し込については「千々石ミゲル墓所プロジェクト」にも記載してあるので、興味のある方はご協賛を。なお、第3次調査の時は私も見学に行ったのですが、発掘を見られる場所が狭く、夏の暑い時期で大変でした。→こちらをクリック

ということで、現場に行って見学をするのも大変なので、興味ある皆様は「発掘調査直後のオンライン報告会」が見られる30,000円コースをお進めいたします。


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なお、大石氏の話では、あまり期待されると、でない、という事もあるので、過度の期待はしないように、ということでした。



2021年2月24日 (水)

島原「具雑煮」起源への多少の疑問

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具雑煮。ですね。島原の郷土料理で農林水産省選定の郷土料理百選にも選ばれているそうです。

中の具材が白菜、おモチ、鶏肉、卵焼き、春菊、焼き穴子等々たくさん入っているので「具雑煮」とか。正月、ハレの日にも食べているそうです。島原市内の食堂でも供されています。


もっとも、長崎市内でも雑煮には具は沢山入っていて、「長崎事典」では「長崎雑煮」として紹介されています。主なところを書いてみると


「菜」「鰤」「餅」の三種類が基本。清汁は鰹節、昆布、椎茸、酒しお、薄口醤油。具は五種、七種、九種、十三種。丸餅は焼いて、塩魚は鰤、アラ、鯛のどれか、かまぼこは紅白二種類、海老かまぼこは自家製、鶏団子は韓国渡りの鶴の身、鴨、雉子で自家製。これに里芋、筍、くわい、椎茸、結び昆布、干しナマコ、唐人菜を用いるのが特徴。ということで、これは、上高八重子著「ながさき・あまから」に載っているそうです。


面白いのが、菜をのせて名(菜)をあげる、食べないで名(菜)を残す、という縁起もあるそうです。


ただ、これは昔の旧家の話しではないかと思います。ウチの母も良い家のお嬢さんではありましたが、確かに、”これでもか”というほど具材は入れておりましたが、これほどではありませんでした。


閑話休題。某日、オクサマが二日ほど留守だったので、昼ご飯は面倒臭いのでお店に行ってみたら、冷凍の具雑煮とレンチンの具雑煮があったので買ってきて食しました。冷凍は具材が少なく、白菜も少々煮すぎかな?という感じ。レンチンは意外と具材も入っていて、焼いたお餅も3個ほどで、まあまあかな。


で、冷凍具雑煮の裏に具雑煮の説明が書いてあり、これ、ネットで調べると具雑煮の元祖、島原市の「姫松屋」さんの具雑煮の説明もほぼ同じで、他にも、島原市の観光情報、しまばらの観光案内、旅する長崎学、農林水産省も同じような書き方でしたが、読んで見ると、なんとなく???何ですね。


紹介してあるものの概略は


・江戸時代に起こった島原の乱に(具雑煮が)由来

・天草四郎率いる3万7千の一揆軍が、幕府軍との攻防の末、原城へと籠城
・その際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、山や海から様々な材料を集めて雑煮を作り、栄養をとりながら約3ヶ月も戦った

ということで、代表として、元祖「姫松屋」の説明は→こちらをクリック


ここで、違和感にとらわれたのが、「餅」という文字、「山や海から様々な具材を集めて」という表現。


原城に籠もった人数については、古文書、現代の研究者でいろいろあるようです。逃げ出した者もあるようで、一揆の初めと、落城の時では違っているということは言えると思います。寛政15年2月17日、岡山藩聞書には「原城篭城の人数は二万四千八百人という」。まあ、計算がやりやすいように大負けに負けて、2万人としてみます。


一揆の初期の頃は、一揆軍は籠城を覚悟していたのか、島原あたりから米を運んだ記録もあり、最初は食べ物はある程度あったと思われます。


ですが、具雑煮の説明に「餅」を、とありますが、一日何食食べたのかは分かりませんが、籠城を決め、食べ物の心配もあり、城の中で畑仕事をするわけでもなく、仮に一日一食だとして、餅を1個づつ食べたとしても、1日2万個。10日で20万個、30日で600万個、3ヶ月で1,800万個。毎日、餅を食べるわけでもないとして、半分でも3ヶ月間で900万個。こんな大量な餅を持ち込める訳では無いでしょう。


山や海から材料を集めたともありますが


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赤丸印が天草四郎が立て籠もっている本丸。このように囲まれた中で、山や海から2万人もの材料を集められるのか?もちろん海には幕府軍の船がいます。山と言えば野草、海と言えば魚と海藻。はたして、2万人の人間の「栄養をとりながら」という事が可能なのか。

一揆の終盤になりますが、「島原日記」、一揆軍の生け捕りにされた者の言葉「・・・城内二兵糧無御御座候由申候」。又、「嶋原天草日記」には「・・・伊豆守・左門令而使割賊之腹、其腹中有青蒼之物、依粮末困乏而食麦葉歟」とあり、一揆軍の腹を割いたところ青蒼のものがあったので、麦の葉を食べていたことが分かります。


ということを読むと、一揆軍は餓死同様だった事がわかります。


嶋原・天草の乱については、まだまだ諸説あるようです。一揆に加わった者もキリシタン、関ヶ原の戦い後の浪人等々あるようですが、島原藩主松倉親子の圧政で追い詰められた農民の抵抗だったのが一番の原因だたと思います。


原城に籠もった一揆軍は山田右衛門(やまだえもさく)一人を残して、一人残らず殺されたと言われています。


餓死寸前まで原城に籠もり、最後まで圧政に対して戦った人々に対し、「・・・栄養を取りながら約3ヶ月間も戦った」という表現には、いささか疑問を持ちました。

(参考文献「原史料で綴る 天草島原の乱
」「天草四郎と島原の乱」鶴田倉造編・著)



2020年11月 6日 (金)

②「一切経の滝」と「稚児落しの滝」~雲仙二つの滝★稚児落しの滝編

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左の絵はがきは以前ブログに載せた写真。例によって、いつの頃の絵葉書かは分からなかったのですが、横浜に「絵葉書写真館」という所があり、そこをあせくっていたら(ネットで)、たまたま同じ絵葉書があって、幸いなことに上の方にスタンプが押してあり、「雲仙公園」「15.5.22(?)」「登(?)山記念」とあり絵葉書の説明は「長崎縣温泉公園稚児落の滝」とあるので、この絵葉書は明治44年~昭和9年の間に撮された写真です。

なお、この滝の歴史については以前書いているので、それを参考に→こちらをクリック


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写真の下の方の石に注意をすると、全部の写真にこの石が共通して見られます。

上の左の写真は「(雲仙の名勝)傳説に悲しき稚児落の滝」(英文の説明も有り)の説明あり。右の写真は「(雲仙)稚児落しの滝」の説明。あとは英文の説明。この2点については年代不明。


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左の写真は「(雲仙公園の名勝)傳説悲しき稚児落の瀧」、下の方に「(日本八景)C」の説明有り。日本八景に選ばれたのが昭和2年ですから、この後だということは分かりますが・・・

右の写真は「國立公園 雲仙 稚児落しの瀧の美観」。ありがたいことに裏に「昭和26年6月9日 雲仙岳登山記念」とあります。ただ、国立公園に制定されたのが昭和9年、写真の説明が、左から右書きと、「国」が「國」ということを考えれば戦前に作られた絵葉書だとも考えられます。


私がここを訪れたのは20年くらい前だったと思います。千々石から雲仙にいたる道の途中、「稚児落しの滝」という小さな案内版があったので、そこから入っていきましたが、あまり良い道ではなく、滝かな?と思う所はありましたが、写真のように水が流れ落ちるという風景ではありませんでした。


考えて見れば、ここは雲仙の別所に「加持川」(別所には700の僧房があり修行をしていた所で「加持祈祷」の「加持」と関係があります、多分)を堰き止めて「別所ダム」が作られています。竣工が1968年(昭和42)ですから、それ以降は満水時以外はあまり水が流れていなかったのだと思います、ですがね、近年、ここの写真が何枚かネットで見られ、あまり年月日は分からないのですが、その中に2010年の写真があり、これ結構水が流れ落ちています。→こちらをクリック

滝は雨の状態、放流等によって流れ落ちる風景が変りますが、こんなに流れているとは思いませんでした。

なお、上の写真を見ると女性の方、子供まで普通の服装で写っています。足元を見ても、ごく普通の靴。だということは、この頃は誰でも気軽に入れた所だと思われます。


このあたり、近年、道が拡張され、そのとき通りかかったら「立ち入り禁止」の札がありましたが、現在は案内表示、立ち入り禁止の札も無く、ガードレールに塞がれているようでした。歴史がある滝なので、整備をしたらどうなのかとは思いますが、以前のような滝があるのかどうかは不明です・・・危険な状態みたいなので、皆さんは立ち入らないように。


【追加】

この滝については「白雀」という謡曲があり、今まで埋もれていたのですが、平成27年島原城天守閣50周年記念の時、謡が復曲され披露されています。

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2020年11月 4日 (水)

①「一切経の滝」と「稚児落としの滝」~雲仙二つの滝★一切経の滝編

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雲仙には二つの滝があります。「一切経の滝」と「稚児落としの滝」。


この滝の事を書こうかと思っていたら、二つとも以前紹介したことがあるんですね。歳取ると、忘れることが多くて。で、やめようかと思ったのですが、古い絵葉書が手に入り、紹介方々。なお以前の記事は→こちらをクリック。詳しくは、こちらに書いているので参照してください。

上が雲仙の旅館街と付近の地図になります。大正13年に発行された、「温泉を繞(めぐ)りて★杉村廣太郞著」なので大正13年の雲仙の様子がよく分かります。クリックするとキレイに大きく見えます。

左の矢印が「稚児落としの滝」、右の矢印が「一切経の滝」、真ん中の大きな円が地獄と旅館がある所。


今回入手した絵葉書が下の2点。左は「大日本国立公園」の文字があるので、国立公園に制定されたのが昭和9年ですからそれ以降の風景。右は「長崎温泉(うんぜん)公園の瀧」とあり、長崎県立温泉公園は、明治44年に開設で昭和9年から国立公園ですから、この間の風景。


左の写真を見ると、いかにも「立派な滝!」と思いがちですが、右の写真、赤丸印の所に人が写っているので、滝の大きさが分かると思います。特に滝の右側の岩。特徴があるので一緒の滝だということが分かります。


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左の絵葉書、右が「稚児落としの滝」。左が今回紹介している「一切経の滝」。二つ並べているのは、なんとも珍しい。右の写真は前にも紹介しましたが、外人さんが滝の所を締め切ってプールにして遊んでいるところ(「雲仙お山の情報館」提供)。

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一切経の滝、稚児落としの滝は本、ネットなどで紹介され有名なのですが、千々石の方と話していると「稚児落としの滝はナンね」とか、「行ったことはナか」などと言われる方が多いみたいです。稚児落としの滝は、古い絵葉書が意外と多く残されています。残念ながら現在行くことができないので、次回、絵葉書でお楽しみを。



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