史跡

2018年7月 2日 (月)

「黒田栄太郎」さんだよ!~雲仙市吾妻町三軆地蔵尊


Dsc_0312_2

今日は、吾妻町の老人クラブにボランティアで皿回しに。3年ぶりの皿回しで、思い通りにはいきません、ですね。

以前書きましたが、吾妻町出身の相撲取り「音羽山瀧五郎」の話とか、吾妻町の「岩戸神社」の話とかしているうちに、以前紹介した、諫早市の金比羅さんに蟹の石像物、雲仙の温泉神社と地元の温泉神社に狛犬を奉納した「黒田栄太郞」さんに話が及び、これだけ奉納しているので、地元の方、誰か知っているかと思ったら、誰も知りませんでしたが。

ですがね、話はするもんで、三軆地蔵尊の狛犬の台座に、黒田栄太郎さんの名前が彫ってあるとか、で、話をした方、これ誰だろうと思っていたそうです。

Dsc_0313

さっそく、車を飛ばして三軆地蔵尊まで行ってみました。鳥居の左右。少し隠れていますが、小型の狛犬さんが鎮座していました。小型ながら、いい面構え。

左の狛犬さんの台座、苔むして全然分かりませんが、苔を取ってみたら・・・

Dsc_0315_2 Dsc_0314_2

出ましたね、「黒田栄太郎」の文字、ただし、「太」が「大」になっているみたいですが、昔は良くあったことで、「黒田栄太郎」さんに間違いないでしょう。

ただ、後ろ側、右の狛犬の台座にも文字が彫ってあるのですが、ヤブ蚊が多く、我慢できず退散しました。また、涼しい頃、来てみようとは思うのですが・・・・

Dsc_0324_2

さて、繰り返しになりますが、小野の金比羅さんには誰でも灯籠、石仏像等寄贈はできますが、雲仙の温泉神社、地元の温泉神社に狛犬を奉納するとなると、金額等を考えると、普通の農家には無理な話で、かなりの人物だと思われるので、地元の郷土誌等資料をあせりましたが、残念でした。です。

もっとも、地元の方に聞いても、よく分からないということで、とにかく「黒田栄三郎」さんの文字が入った奉納物を4ヵ所も見つけたということは、奇遇な感じを受けた一日でした。


2018年4月28日 (土)

こんな所に「肥前狛犬」さん&玉峯寺&岩戸山での出来事

Dsc_0015

久しぶりの、「肥前狛犬」さんです。数ヶ月前行ったのですが、写真を見ると、全然写ってなかったので、先日、写真を撮りにいってきました。

普通なら、「肥前狛犬」の居所は教えないのがお約束なのですが、ここは、セキュリティーがしっかりしているので、場所は書きます。「口之津歴史民俗資料館・海の資料館」です。

資料館に調べものをしに行った折、館長さんとしばらく話をしていたら、話、「肥前狛犬」に到り、「あ~、ウチにもありますよ」。

うそ~、私、ここには5,6回訪れているのですが、見たことありません。で、「館長さん、どこに?」

と、案内されたのが、中庭の恵比寿神社。「え~、無いじゃないですか」、「玉垣の裏です」。ということで見たら本当にありました。玉垣の裏、玉垣が邪魔で気づきませんでした。はやり、なんでも良く見ること必要ですね。

あ~、本当にカワユイですね。週刊○○誌の綴じ込み付録に写真を載せたいくらいの可愛さ。可愛く見えない?アナタの審美眼が無いだけの話です。多分、初期のものだと思います。

Dsc_0020_3

残念な事に、右側だから「阿吽(あうん)」の「阿」さんですが、崩れてしまっていました。

Img_1053_3

さて、この近くに「玉峯寺」というのがあり、よく、「口之津教会跡」と言われていますが、ここのお寺の住職、太玄興正氏が口之津について書かれた本が7,8冊あり、館長さんに本を紹介されました。

そのうちの一冊、「口之津の郷土史 拾遺」と言うのがあり、その中に「玉峯寺は教会跡には建てられいない」という一文があり、読んでみると、教会について書かれた書籍の分析、実際の土地との比較ということで、故・結城了吾氏(長崎の元26聖人記念館長)も、「教会は東大屋の墓地下であり、小聖堂は口之津公園内の高台に間違いないと比定された。」そうですが。ここのところ、興味があるので、いずれ訪れて見ようかと思います。

さて、下の写真、フロイスの「日本史」で有名な所です。右が「岩戸山」。右が「女島」。


Dsc_0005

領主・有馬晴信の時代、晴信はキリシタンになり、島原半島内の寺院を破壊しています。仏僧は、岩戸山の洞窟に仏像を隠していますが、司祭、修道士等が、それを見つけに行きますが、フロイスは、次のように書いています。

祠は、仏僧たちが各地の寺院からもたらしてそこに隠匿していた種々の仏像でほとんどいっぱいになっていた。いずれも不思議な形をしたものばかりであったが、実に丹念に、かつ絶妙に造られていて、この種のものではそれ以上のものは考えられないほどであった。・・・・だが、彼らは仕事を早めるためにそれらに火をつけた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。・・・折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役立った。・・・・

さて、「口之津歴史民俗博物館」。多分、島原半島の博物館では一番充実をしていると思います。今日から連休で、車の渋滞、人で溢れるような所より、この様なところで、一日じっくりと過ごすのが良いとは思うのですが・・・海の香りでオゾンが一杯で、子ども連れなら、教科書に載っている実際のものも見られると思います。

ウチのかみさんですね、日帰りバス観光でどこかに行くそうですが、予定を見たら、あちらこちらウロウロするばかりで、せっかくなら、一ヵ所でじっくりしたほうが良いとは思うのですが。あの人、どうせ、私の言うことは聞かないし・・・私?家でじっくりするつもりです。

(参考・文引用:「口之津の郷土史 拾遺★太玄正氏著」「完訳フロイス 日本史★中公文庫版)



2018年4月18日 (水)

「太良嶽大権現一の鳥居」復元

Photo

「歴史の道観光・文化交流協議会」で「多良海道を往く」というパンフレットが昨年3月頃発行され、関係するところが、諫早観光物産コンベンション協会・太良町観光協会とあるので、諌早の方にもらいに行ったら、これが意外と面白く、特に下のページのところが目につき、一回でかけようと思ってはいたのですが、また山歩きかと思うと・・・

で、この鳥居、明治7年8月の台風で倒壊したと「高来町郷土誌」に書かれあるそうですが、郷土誌を調べてみると「・・・湯江宿の是成門兵衛が献納した『一の鳥居』があったが、明治7年の台風で倒れ、そのままになっている。」とありましたが、昨年、復元されたとかで、GoogleEarthでチェックしてみると、案外車でいけるかなと。

で、行ってみると意外と車でも行け、上の写真になります。三段組の立派な鳥居です。「貫」は見つからず新しいものです。


Img_20180418_0001
             (「多良街道を往く」より)

柱を見ると文字が刻まれています。

Dsc_0889 Dsc_0901

柱の文字等については、説明文が横に置いてあり、これ、クリックすると大きくなるので、読んで下さい。


Dsc_0886

横には、鳥居の由来が書いてあります。これも、クリックすると拡大しますから、読んで下さい。

鳥居は、天保九年の幕府巡見使の記録に「鹿のとう(注:塔)御休息あり道の左右に鳥居あり」とあり、また、鳥居に名前が刻まれている「是成紋兵衛兌佑翁」の子孫が近くに三基の鳥居があったと親から聞いていたそうですから、本来は鳥居が一基ではなく、複数あったと思われます。


Dsc_0875_2

ここに来る道は、大きな道が平行に走っていて、一本間違えると違う道になるので、「しらぬい学園」とか、「鹿の塔斎場」を目安に進みます。この斎場までは道は良いのですが、これから先が少し狭い道。

車はあまり来ないだろうと思っていたら、3,4台通って行きました。調べてみると、この先に「名水」があり、多分水汲みに来たのではないかと思うのですが・・・


Dsc_0924 Dsc_0881

ついでに、近くにある「猪(しし)の塔」はどこかと見つけたら、これが全然分からない。ちょうど、軽トラに乗ったジイさまが来たので、聞いてみたら、「そこ」、「そこってどこ?」、「そこ」と指さすほうを見たら、すぐそこにありましたが、少し高台で、道からでは木立に隠れて分かりにくい。

軽トラックには、3個ばかりポリタンクが積んであったので、聞いてみたら「名水」を汲みに来たそうです。


Dsc_0945 Dsc_0939

確かに石塔があり、横に説明版がありましたが、クリックすると大きくなるので読んでください。慰霊碑の文字はかなりかすれていますが、真ん中の「三界」などは良く分かります。

鉄砲名人、「山口伊左衛門」が千頭もの猪鹿をとり、生き物の命を絶ったことを悔い、供養のために、この塔を建てたそうです。

説明版には書いてありませんが、郷土誌には「里人はこの猟の名人を『猟師重太夫』と呼び、また、多数の伝説も残っている。」とあります。


Dsc_0937_2 Dsc_0943

ブラブラ歩いていると、「諫早街道」の標識があちらこちらにあり、意外と整備され、昔の街道の雰囲気が味わえます。

Dsc_0927 Dsc_0928

Dsc_0958

最近、街道歩き、廃城巡り、この間は「廃道女子」がTVに出ていて、この方面が流行っているようで、諫早はこの点充実している感じを受けました。

我が市にも、島原藩主が長崎まで通った千々石街道があり、整備すれば面白いとは思うのですが・・・上の方の関心がないので、仕方無いですね。


2018年3月 7日 (水)

「地方伝承文化」について考える



Img_3555_2 Img_3561

最近ボケたのか、買い物行ったら道を間違え、久しぶりに近道をしたら、上の写真のようなところがあり、あれ?こんなのあったっけ、ということで見ると、立派な説明板と標柱。

「字石 鼻穿石(あざいし はなぐりいし)」とあり、何のことだと思って、説明板を読んだら下のような事が書いてありました。長いので、要約すると。

大昔この地が入江であった頃(注:諫早市森山町~雲仙市愛野町、今、自動車で走っている所は大昔は海で、山際まで海になっており、その後ほとんど埋め立てられた土地です)鼻ぐりに小舟を繋いだ等の諸説があるそうです。・・・この石の袂で休息や日よけ、雨宿り、農作時には馬を繋いだりと、地域住民と密接な関係があったそうです。地籍でこの名前(鼻穿石)が、ここの字名になったそうです。ということで、「字石 鼻穿石」ということです。

で、この標柱と説明板、行政か地区で建てたのかと思ったら裏をみたら、個人の方が建てられみたいでした。

この付近はジャガイモで有名な愛野町で、昔は牛馬を使い、牛なども繋いで、みんなで休息時には集まって話などして楽しんでいたのでしょうが、現在はトラックター、植え付けも、収穫も機械を使い段々と現代化され、この「鼻穿石」の意味も分からなくなってしまうので、標柱と説明板を建てられたのでしょう。


Img_3562 Img_3564

この標柱が建てられたのが2017年ですから、昨年の事ですね。
隣には、「招霊木」と書いてあって、まだ、小さな木ですが、大きくなったら、昔のように、日よけ、雨よけ、休息時の集いの場になるのではないかと思いました。


Img_3565 Img_3566

こちらは、千々石の「チン(チヌ)釣り石」で、手前の説明の石碑に史談会からの説明が書いてありますが、カッパさんと、説明の石碑は個人の寄贈です。
「チンつり石」については以前説明しているので→こちらをクリック


Img_3570

千々石から小浜行く道、千々石少年自然の家に行く裏道があります。入り口に「足形石」の標識があり、現場にも「あしがた石」の標識があります。後ろの石が「あしがた石」です。

いわれも書いて無く、郷土史にも載って無く、何の「あしがた石」でしょう?ここらあたりでは、「みそ五郎(味噌五郎)のあしがた石」というのは、あちらこちらあるのですが、その一つとは思いますが・・・


Img_3576 Img_3583

現在、おじちゃん、おばあちゃんとの同居が少なくなり、また、学校の先生の広域人事で、地元育ちの学校の先生が少なくなり、昔話を聞く機会が少なくなりました。昔話を知っている人も超高齢者になり、昔の話を知っている方も減少しています。

世界登録遺産遺産も大事ですが、このような、足下に転がっている話を大事にしていかないと、いつかは、世界登録遺産など観光を目的にした場所だけが残って、地域文化が無くなっていくなと、恥ずかしながら、この歳になってやっと分かってきました。



2018年1月13日 (土)

「礫石原(くれいしばる)環状石組遺構」&その他

Dsc_0587

病院も3日続きで通うとイヤなりますね。前の日から、雪の予報が出ていて、朝早く出かけると何ともない天気。珍しく病院の診察も、あっという間に終わり。

以前から、島原市の地図を見ていたら、島原新港~雲仙の方に上っていくと、「千々石道」と言う地名あり、昔、千々石から山越えで有明、島原方面に魚を売りに来ていたと言うことを聞いていたので、一回は行ってみたいなと思い、時間もあるので、チョット寄り道を。

ところががですね、やはり土地を知った方の案内がいるもので、いつの間にか、「島原市指定文化財 礫石原環状石組遺構」に出てしまいました。この遺構も一度は見たいと思っていたのですが、道以外は一面の雪。遺構も写真の通りで、何がなにやら分かりません。

看板を張っておきますから、クリックすると少しは大きくなると思いますので、お読みください。


Dsc_0585 Dsc_0583

で、ついでに、「フラワー公園」に寄って見ましたが、この時期、しかも雪が積もっている中、お花なんか見えません。考えればすぐに分かるのですが、バカな私。

Dsc_0589 Dsc_0592

大黒様の後ろに、何か変な鳥が飛んでいましたが、何という鳥でしょう?ご覧になりたい方は、足を運んでください。

Dsc_0611

時間を見ると、ちょうどお昼時。どこにしようかと、車を走らせていたら、以前入ったところがあったので、寄って見ました。普通の食堂ではなく、地場産品等売ってありますが、どちらかというと健康志向の品物が多いですね。

Img_3121 Img_3120

室内も意外とゆったりして、窓から見える畑、向こうに有明海が眺められます。本当は、もっと良い風景なのですが・・・

Img_3109 Img_3102

ここ、昔はシシカバブが売り物だった(はずだった)のですが、メニューはまったく変わってました。サラダは食べ放題で、これだけドレッシングがあると迷いますね。

Img_3094 Img_3106

頼んだのが、「チキンオーバーライス」野菜ばかりだと思ったら・・・・

Img_3112

ちゃんとターメーリックライスが隠れていました。もちろん、チキンも入っていました。

Img_3113 Img_3116

食後のコーヒーですが、最近はブラックの方が多いようで、一昔前は、お年寄りの方は5,6杯の砂糖を入れていたのですが・・・私も、「お姉さん、シュガーステックあと3本」と、血糖を気にしながら。苦いコーヒーなんて飲めるもんじゃない。

で、ミルクをたっぷり入れましたが、これは、ミルク占いをするためで、「今年も、もてない」とでました。


2018年1月 5日 (金)

愛野町「首塚」について~雲仙市愛野町

Img_20180105_0002

         (「雲仙の文化財」の写真より)

愛野町(あいのまち、です。あいのちょう、ではありません)の首塚です。
コメントをいただき、前回書き忘れたことがあるので、少し書いてみます。

長い間、島原・天草の乱のとき、討ち取った首の3分の1をここに埋めたと言うことですが、埋めたのは天草の富岡、有馬、長崎の西坂(26聖人の処刑された所)あたりではないかと言われています。

だた、富岡ははっきりしていますが、有馬、長崎については、「じゃないか」と言うことで、はっきりした場所は特定できておりません。

このことについては→こちらをクリック に少し書いていますので、ご覧を。

宝永四年、島原藩松平忠雄公のとき、島原半島各村の石高、人数、お寺、神社、村内の鉄砲の数、村の様子などが書かれた「島原大概様子書」があり、その後たびたび書き直されたそうですが、「会津村(現雲仙市愛野町)」の所に次のように書いてあります。

「首塚壱ヶ所有馬一揆(注;島原・天草の乱)之節切支丹之首三千余埋めし塚と申伝ふ。」

これが後年までひびき、「長崎ネット」、「じゃらんnet」等々にも堂々と、島原の乱のおり云々と現在も書いてありますので、ご注意を。真っ赤なウソです。

ただ、どうして上のような話になったのかは、残念ながら、文書(もんじょ)としては残っていません。


2017年9月30日 (土)

「児島(こじま)」へ~其の三

Img_20170928_0003_2 Img_20170928_0002 Img_20170928_0001_2

「栄西」、普通は「えいさい」と読みますが、「建仁寺」のホームページには、「開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。」とあり、「栄西」は「ようさい」とも読むことが分かります。

このことについては、「栄西を訪ねて~芝村哲三著」に「栄西は、古来より『えいさい』と『ようさい』の二通り呼ばれている、『えいさい』は漢音の呼び方であり、『ようさい』は呉音の呼び方である。」と記されています。

この三冊の読んでみると、同様な事が書いてあり、建仁寺あたりに河原院という昔の仏閣に埋もれた梵鐘があり、それを掘り出し、建仁寺に持ってくるとき、あまり重いため動かず、栄西は、「私の名前を呼びながら引けば動く」と教え。「ええさい!ようさい!」と声を合わせて引くと動いたそうです。

なお、「室町時代の古い辞書『節用集』などには、(中略)建仁寺創建のとき木を曳くにあたり、『えいさい、ようさい』と開山の名を呼ばせたという伝説まで生まれている。」(「国立国会図書館レファレンス協同データーベース」より)とあります。

また、面白いことに、「栄西の道~千光燦著」の「東林寺(福岡市西区宮ノ浦)」の所には、「ここらへんの漁師たちは、沖で網を引くときは、ヨーサー、ヨーサ(栄西々々)といってあげるんです。禅師をしのぶ掛け声ですね」。といった記述もあります。いずれにしても、重たいものを運ぶための掛け声が、「えーさい、えーさい(よーさい・ちょうーさい)」という事が分かります。

さて、南串山の庄屋日記にも、「漁夫栄西の跡を慕ひ千載の今に至てかけ声申にエイサイト云うハ栄西ナアと申事ニテナアハ今ノ詞に云ヘハナイハイノ略語にて遍(あまねく)サマノなまり也栄西様といふ事也と享保年禄に有之候」。とあり前述の、「東林寺」と全く一緒です。(分かり部分もあるかと思いますが、目下編集中です。)

さて、栄西は本当に南串山に来たかというと、「栄西を訪ねて~芝村哲三著」には、次のように書いてあります。

諸先生の著書の中に、二度目の宗より帰国後、平戸で禅規をその後、「肥の前州(肥前)高来郡に智慧光寺を創建し、禅を広めた・・・・」。とあり、「智慧光寺」は「福智慧光寺」としたものもあるそうです。

原点を調べると、曹洞宗相国寺派本山の蔵本(現在は東京大学資料平編纂室蔵。)の「縷氷集」の中に、「あきらかに肥前の智慧光寺と記されてある。」そうで、「長崎県には、北高来郡、南高来郡(注:現在は町村合併のため名前は消失、本来の名前の由来を粗末にする、〇鹿な行政の仕業です)が広い範囲にわたり存在している。例の雲仙は(昔は仏教の聖地として栄えました)は南高来郡である。高来町と呼称する町も諌早の東にある。」と書かれています。

Img_20170930_0001_2

長崎県の地図です。赤の矢印の内部が高来郡、今話題にしている南串山町の「児島」あたりが黒の矢印。地図は「国郡全図(ものしり・・・天保国郡全図で見る壊疽諸国より)」。今の地図とは逆になっているので、見にくいと思います。「茂木」は「母木」などと書かれています。

こうしてみると、広いもので、「栄西を訪ねて」の著者も「智慧光寺」の場所を探したそうですが、教育委員会、歴史学者、禅宗の各本山への紹介、寺院明細帳にもなかったそうです。

江戸期に消えた寺院もあり、資料を持っていたので探したのですが、ありませんでした。「栄西を訪ねて」の著者も、私たちが解読している、「馬場庄屋日誌」の事は知らないはずで、私たちも読み始めて初めて知った事実で、消去法でいくと、他の所には記述がない。「馬場庄屋日記」には記載がある、という事は、実際、栄西は南串山に来ていたのではないかと思われるのですが・・・・



2017年9月25日 (月)

「児島(こじま)」へ~其の二



Dsc_1024

「『児島』へ」の2回目になります。神社は写真の右手、島の中腹にあります。

地元の郷土史家によると、島原・天草の乱(寛永14~15年・1637~1638年)で荒廃した半島の神社を、松倉勝家の後、島原へ移封した高力忠房が半島内の神社を復興し、この神社を最初に修復したといわれています。

南串山町郷土史「みなみくしやま」には、「創立は不詳であるが、寛永十五年(1638)に再建され、安政四年に(1853)に現在の石祠に立替えられる
。(八幡神宮像記)」とありますが、高力氏は寛永十六年(1639)に徳川家光により島原へと移封されています。死去は明暦元年十二月(1655)という事です。

なお、注意すべきは、「創立は不詳であるか、寛永十五年に再建され」というところで、では、以前に作った人がいるという事で、誰が作ったのかという事になります。

先に書いたように、栄西が弁財天を作ったのが建久元年(1190年)と庄屋日記には書いてありますが、栄西は栄治元年(1141)~健保3年(1215)没です。

昔は「弁財天」ですが、現在は「宗像神社」と言っています。神社の改名には明治の神仏分離が関係しており、各神社の古い額束、神社明細調帳などをみると、弁財天が宗像神社、四面宮が温泉神社、熊野権現が熊野神社、祇園社が水神社、八大竜宮が住吉神社等々改名をしているのが見受けられます。

さて、神社の鳥居は壊れており、近隣の方もあまりお参りしないのか荒れていました。

少しきつい階段を上がると、石祠があり、弁財天が祀られていました。
 


Photo 2

弁財天につきものの、琵琶(木製)がありましたが、ギターでいうところのペグとかフレットもないので、飾り物だとわかります。もっとも、この厚さの裏板では音は響かないでしょうが・・・

Photo_2

左が、南串山在住の願主でしょう。右が石工さんで安政七年と、石工 天草下浦船場 石工 要平 同 松太郎の字が読めます。天草との交流が分かります。

Photo_3 2_3

こちらは「領南串山村」ですが、「島原領南串山村」でしょう。右の方はよく読めません。

Photo_5 2_4

灯篭を寄進したした方でしょう。右は「肥前国高来」と読めますから次は「郡」とくると思うのですが、良く見えません。

Dsc_1112 Dsc_1134

こちらは、灯篭ですが「貞享丁四天(天は年の事・1687年)」。

Photo_7

こちらには「文化四丁卯」(1807)。こうしてみると、年代がバラバラみたいですが鳥居が崩れたりしているところを見ると、何回か改築をしたことがうかがえます。

Photo_9

さて、この神社に関しては、「島原半島史(林銑吉著)」に2か所ばかり書いてある所があり、

一つは、「寺社領寄附状並祝詞」。旧島原藩士松村幹二氏の所有であり、郡部又は別領(飛び地領)豊前豊後の神社仏閣に忠房(松平忠房)公が寄附したものを漏れなく記載したものだそうですが。

△寄附 肥前国南高来郡南串山町京泊辨財天社領之事 高貮石貮斗五升(境内林共目録在別紙) 書奥右同断 天和三年(1683)四月廿一日 主殿頭(島原藩主松平公の事)

もう一つが、「島原大概様子書」(島原領内の田、畑の面積、人数、鉄砲の数、などが書いてあり、いわば国勢調査のようなもの)に

△同(寄付の事)貮石二斗五升 京泊崎兒島 辨財天此反別三反歩 兒島廻り百八間高拾六間京泊名浦より海路八町

とあります。さて、この人も住まない小さな小島ですが、なぜこの神社に島原領主が寄進をしたのかは、全くの謎です。

あと二点ばかり疑問があり。①栄西が本当に来たのか。②菩提樹は植えられたか。ですが、また、気が向いたらというより調べるのに難しい所があるので、またいつかネ。

年代が、ズレているようなところがありますが、書いてあるものによって多少違いがあるためです。





2017年9月 9日 (土)

「ミゲル墓所推定地」現地説明

Dsc_1199

昨日で発掘調査終了。という事で、地元へのお礼もかねて説明会がありました。

墓の調査、キリシタン遺跡のそれぞれの専門家による説明がありましたが、まだ、分析するところもあり、正式の報告は11月12日になるそうです。

この墓碑に関しては、この大きさの墓石。また、基盤を作り、その上に棺を置き、隙間を土と石で固め、さらに土と石を被せ、大きな石で蓋をし、その上に土と石を被せていくという、普通には見られない丁寧な墓の作りで、かなり位の高い者の墓だという事でした。

また、棺桶は長持ちの転用は無いかという事で、長持ちの金具、錠も出てきています。

Dsc_1200_2

新聞にも出ている通り、ガラス玉が出土しましたが、59個出たそうですが、ただ、首にかけるにはあまりにも小さいガラス玉でしたが、当時は木で作ることもあり、それなら、朽ちているのでは?という事です。

いずれにしても、ガラス玉を調査し、鉛などの測定で作成地区の特定もできるそうです。


Dsc_1212

発掘の成果物ですが、ガラス玉、錠、歯、長持ちの金具、ガラス等並んでいましたが、骨の部分はまわりの土ごと長崎大学で分析中で、その結果でかなりの事が分かると思います。

Dsc_1204

いずれにしても、分析の結果が待ちどうしいところです。なお、この後、元の通りに埋め戻しをします。




2017年9月 8日 (金)

「児島」へ~雲仙市南串山町児島 其の一


Photo

児島(こじま)です。左に長く伸びているのは養殖をしているので、防波堤です。

GoogleEarthで上から見ると、丸印の島、矢印は国崎半島になります。この半島の先の海岸、良い海岸なのですが・・・・

Photo_2

月曜日にこの島に調査に行ったのですが、島の一番上まで登り、と言っても手入れをしていないので、ヒーヒー言いながら登ってきましたが、まだ筋肉痛が残っていて、歳を感じます。この児島の事について、2,3回、飛び飛びになるかと思いますが、書いてみたいと思います。

さて、どうしてこの島の調査に来たかというと、南串山の古文書研究会で、馬場庄屋の文書に、臨済宗の開祖、また喫茶の習慣を日本に広めた、栄西の事が書いてあったからで、

Img_20170908_0002_2

読めないと思うので、概略書いてみると

栄西が宗から帰るとき、建久元年(1190年)に京泊の湖島(ママ・現在は児島)に弁財天を祀り、菩提樹を植え、また、漁夫が掛け声にエサイナトいうのは、栄西を慕い云っているという事が書いてあり、ここの所長くなりますが、菩提樹について書いてあり、普通は建久元年、菩提樹の枝を中国から送り、それが香椎宮に植えられたことになっているのですが。

湖島(児島)菩提樹越願い始て植えるの
始免也元亨釈書に僧栄西
京ゟ伝し建久元年ノ春
筑紫香椎の神詞(ほこら)の辺り
植えるを是を始めとすとハ偽也
此湖島に弁財天建立後
菩提樹を植置程絶て香椎へ
被参る由なれバ初めて植えられしハ
此の湖島也

とあり、菩提樹が初めて植えられたのは、香椎宮ではなく、この児島にであるという事が書かれてあります。

その後有馬一揆(島原半島の神社は、有馬晴信からほとんど破棄されています。千々石の満明寺もしかりです。)の節この弁財天も廃亡されたそうです。

でもって、無謀にもこの島に上がって、菩提樹があるかどうか確かめようと、大人(というより、高齢者)6名ばかりで調べに行ったのですが・・・

下の図は、明治二年の神社明細調帳の図です。

Img_20170908_0001

鳥居が書いてありますが、現在は壊れています。鳥居前の広場から上陸できるようですが、現在は全く違っておりました。島の形は、多分、昔はこのような形だったのでしょうが、現在は木が育ち(過ぎ)島の形が違ってきたような気がするのですが。

なお、この島は以前は女人禁制、石の一つ持ち出すことは禁止だったそうです。世界遺産の宗像・沖ノ島と一緒ですね・・・・・・(続く)





より以前の記事一覧

フォト
2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ