史跡

2017年7月 8日 (土)

「和銅寺・竜造寺隆信の墓碑」について書き忘れた2,3の事~諌早市高来町


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先日、和銅寺と竜造寺隆信の事を書きましたが、暑さのため書き忘れていたことがあるので・・(^-^;

竜造寺は島原の沖田畷の戦いで、有馬・島津連合軍に敗れますが、この人数については、「隆信公御年譜」「北肥戦記」「藤原有馬世譜」等々の文書(もんじょ)について違いがありますが、竜造寺軍が5万~6万、連合軍が6千~1万。

このうち島津からは1,500~3,000名が援軍に来ます。少ないようですが、島津は大友家から狙われており、そう簡単には動けません。この、軍勢の差ですから、有馬・島津軍が不利なのは言うまでもありません。下記のような布陣であったそうです。赤丸印が「竜造寺隆信」

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       (「島原半島史~林銑吉著」より)

このあたりは、昔は田んぼであったそうで、あぜ道を歩くよりほかはなく、前と横から攻められると、後ろからは大量の味方の軍が来るので、回れ右で逃げるわけにはいかず、田んぼの中に行っても足を取られ、思うようには動けずということで大敗します。

竜造寺公は「島津ノ家人大ノ男黒糸ノ鎧着テ太刀ヲ持抜持、隆信公ノ御前ニ来ニ来リ、蹲踞シテ申ケルハ、某島津ノ家人河上左京亮ト申ス者ニテ候山城守隆信公ト見請候、御介錯ノタメ参リテ候ト申シケレバ、隆信公月ヲ見テ指サス事ナカレ、汝ハ大将ノ首ヲ取ル法ヲ知レリヤト被仰、左京畏テ一礼頓首シテ則首ヲ討奉ル。御歳五十六。天正十二年甲三月廿四日未ノ刻後生害也。・・・・」ということで、隆信の首と胴はバラバラになってしまうわけです。

➀首の事

首は、島津義久が検視をし、佐賀に送られますが、隆信の親戚家老鍋島直茂が、受け取るのを断わります(「直茂は『不運の首此方へ申請(もうしうけ)ても無用の事なり、何処になりとも捨て置くように』と仰せられたそうです。:『竜造寺家と鍋嶋直茂・市丸昭太郎著』)。で、この首を持って行ったり来たりしたのが、「河上助七」とか、「町田」になっておりますが・・・

て、首を持ち帰るとき、竜造寺領と島津領の境、高瀬川にかかったとき、首が急に重くなり動かなくなったので、願行寺に葬られ墓をたてられたそうです。「法名宗阿弥陀仏と号す。」ということだそうです。

②胴体の事について

これは、看板にも書いてありますが、「薩龍家譜」によれば、「隆信公戦死ト聞ヘレバ、龍泰寺大泰寺和尚早速島原ノ御戦場に赴キ、御尊体ヲ湯江村ノ和銅寺ニ於テ、御骨トナシ奉リ、其霊骨ヲ頸ニ掛ケ、持帰リ奉ル、御法名龍泰寺殿泰巖宗龍大居士、又信隆院殿トモ、後ニ法雲院ト称シ奉ル」ということで、首と体は別々の所に葬られる事になったわけです。

あとは看板に書いてある通り、「火葬のあと地は土をもった塚が造られていたが、明治二年、第十六代領主諌早一学が、自然石の碑を玉垣で囲い墓碑とした。それより百余年墓碑、玉垣が傾き荒れたのを門徒有志により、平成五年十二月に改築された。」ということになります。

ということで、「和銅寺」にあるのは、説明版に書いてある通り、「竜造寺隆信の墓碑」であって、「墓」ではありません。

なお、和銅寺には大位牌が祀られ「法霊院殿五洲大守泰厳龍大居士」と記されているそうです。

また、「ぶらっとさらく島原(島原ガイド)~松尾卓次著」には、「両体は明治16年(1883)年になってやっと、佐賀の高伝寺に合葬されたという。」とあるので、ネットで調べたら、お墓には「山城守従五位下藤原朝臣隆信之墓」となっておりましが、法名は「法雲院殿泰厳宗龍大居士」だそうです。

竜造寺隆信の墓というのは、あちらこちらありますが、ほとんどが慰霊碑と考えた方がよいかと思います。島原、雲仙にもあります。各藩の文書に違いがあるので、アバウトのところでまとめてみました。





2017年6月30日 (金)

和銅寺・竜造寺隆信の墓碑~諌早市高来町

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最近、海を隔てた高来町に興味を持ち、ちょいちょいお出かけをしておりますが、先日、「歴史の道・文化交流推進協議会」から、編集、発行ということで下のようなパンフレットが発行され、只のものなら、なんでも貰ってくる癖せがあるのですが、写真も多く、読むとわかりやすく、名前は以前から知っていたのですが、パンフレットにも取り上げてある、和銅寺に出かけてみました。

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和銅寺には多くの見るものもあり、矢印の所、「下馬」と彫ってあります。昔は馬に乗っていくのは、お侍さん、それも上級武士でしたが、ここで、「馬を降りろ」ということでしょう。お殿様も下馬されたと思います。

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説明版に書いてある通り、行基大僧正が彫られた十一面観音がご本尊だそうですが、50年に一度しか御開帳になられないそうで、ググってみたら、どうも平成20年5月18日に御開帳があったらしく、ですから次は平成70年(年号は変わっているでしょうが・・・私も、この世にいません)になります。

でもってどうしてもご覧になりたい方は→こちらをクリック


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見ていくと、いいですね。石造物がお好きな方にはたまりません。

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梵鐘ですが、片側は漢文ですが、もう片方は多分、梵字かな?全然読めません。

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お寺の本堂ですが、柱の所に仁王様が立っておられ・・・

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まあ、これがすごいのなんのって。このお姿、すごいですよ。ボロボロにもかかわらず、かえって風格と迫力があります。

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こちらが、「竜造寺の墓碑」になりますが。

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説明版です。竜造寺隆信については、いろいろな話が伝わっておりますが・・・

説明版には、居城須古→高来→諌早→神代と陸路を通ったように書いてあり、また、パンフレットの「多良海道を往く」には、「この和銅寺でおみくじを三度引いて、三度とも凶がでて、家臣が諫めたにも関わらず、出陣したというエピソードも残っている」そうです。

が、しかしですね。「高来町郷土史」の、「竜造寺隆信の戦士ー和銅寺の隆信伝説」の所。

「総勢五万七千騎。『信隆公御年譜』によると、「『同月十八日、竜王崎』(佐賀県杵島郡有明海)ヨリ兵船ノ纜(ともづな)ヲ被解』」とあるそうで、これ、「北肥戰誌」にも載っているそうで、調べてみると、「巻之廿八 高來軍竜造寺隆信の戦死の事」に「・・・中にも隆信・政家の佐賀勢は、竜王崎より纜を解き、同廿日に神代(注:対岸の島原半島)著船し・・・」とあります。

この、おみくじ三度の凶、明智光秀と一緒ですね。明智光秀も本能寺に向かう前に、愛宕権現堂でおみくじを引いて、三度、「凶」が出たそうです。

「三」という数字は、世界中好かれているようで、「三匹の子豚」「三年寝太郎」「三本の矢」「三匹のおっさん」「三匹のやぎのがらがらどん」。どうしてでしょう?
前にも書きましたが、「白雪姫」も三度殺されています。毒リンゴでいっぺんに殺したのは、ウォルト・ディズニーというおじさんでした。


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パンフレットに「和銅寺を下った所に、山伏が彫られた貴重な石碑を見ることができる。(中略)どこかユーモラスな雰囲気も漂う・・・・・」と書いてあって、探しましたが、多分下の石碑かな?ただし、「山伏」は彫られていませんでしたが・・・何か特別な石碑の感じもしましたが・・・間違っていたら、ゴメンチャイ m(_ _)m

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2017年6月25日 (日)

六部塔・六部さん~諌早市飯盛町

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暇なときに時々出して読む本です。面白ようなところがあったら、見に行きます。

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長崎市は江戸時代天領であり、上記の本の前書きに、「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房(注:島原藩主)を召して『長崎の事務を監督せよ』と命じた。忠房は参観の前後、長崎を巡視してその詳細を将軍に報告しました。
この長崎監務は家格として受けつがれ、松平忠雄は三十八年年間に50回余に及んでおります。(深溝世紀では、「長崎を監視す」となっています)。」とあり、この本は、そのお殿様が通った道筋が書いてありますが、同時に、伊能忠敬が測量をして辿った道でもあり、勝海舟、坂本龍馬が島原から長崎まで急ぎ旅をした道でもあります。
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先日、何気に見ていると、飯盛町に六部塔があるとかで、地図と当時の地図を見比べても、そう分かりにくくはなさそうなので、気楽に出かけたのありますが。甘かった。

説明には、こう書いてあります。

「六部さん」
この六部さんを建て替えるため(上の写真)の石を運ぶ途中、早坂の道があまりにも急なため、ここまで運びきれず、坂の脇に建ててしまったといわれている(下の写真)。

囲(注;圍が正解みたいなのですが・・)地区から牧野に通じる旧道の坂を登りつめた早坂(六部坂)の山中に六部塔がある。

本の写真でみると、六部さんは畑の中、六部塔の説明には(道路道下南下の10m先)とまあ、すぐに見つかるだろうと思ったら、畑の中には何もなし、でもう片方の六部塔の方へ行っても全然わからず。聞こうにも畑には誰もいず、という状態で、役場あたりで聞くか、とは思ったのですが、飯盛町は諌早市と合併で役所と支所間の異動があり、最近は地元の人があまりいなく(雲仙市も同じく)行っても同じだろうなと、〇Aの方が地元の方が多いのではと思って、たずねて行ったら全然でした。

ということで、日を改めて行ってよく見たら、「竜馬が歩いた道」の立て札があるじゃありませんか。要するに、道は間違ってない。

ふと、横をみると、らしき石があるじゃありませんか。で、本の写真と比べると少し違っている感じ。

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確認すべく、ウロウロ車で回っていると畑仕事のおばあさんがおられ、本を出して聞いてみたら、これがビンゴで、自分の畑を整地した時、畑の中にあって邪魔だから、脇に移したとの事で、ここで間違いありませんでした。

なお、もう一人、おばあさんとあったので、立ち話をしたら、比丘尼さんか巡礼の女性が行き倒れになって、弔ったとか。

とにかく、最近あちらこちらで地元の方と話をしても、食い違うところがあり、複数の方の確認が必要だと感じた次第です。

なお、石碑には文字なども彫ってなく、あとで見た六部塔とは違い、自然石の感じが強く、比丘尼さんか巡礼さんを弔ったという話が正解なのではという感じでした・・・本を書いた方が、誰から確認したのかですが。

なお、本の出版が平成13年ですから、土地の形が写真とは違っているはずですね。


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もう片方の六部塔を探しても、これがまったく分からず、一時間ほどウロウロしていたら、おじいさんと言うには若く、おじさんと言うには歳をとってる方の軽トラックが通りかかったので、聞いてみたら、昔旧道を使っていた時、見たことがあるとかで、場所を聞いたら少し上のカーブの所から入ったところだとか。

でもって、別れようか思ったら、「暇だから、連れて行くよ」。これが、実は非常に助かり、とにかく左の写真、大きな道は近年できた道で、矢印が旧道だとか。

入っていくと、これが本当に旧道で、お殿様とか、伊能忠敬とか、勝海舟とか、坂本龍馬が通った道かと思うほど荒れておりました。

話では、昔は一年に1.2回、草払いをしてきれいにしていたとか。テーラー程度なら通れたそうですが、今は使わないので、この状態。


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少しばかり行くと、ありました。こんなところに、という感じですが・・・

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「六十六部」についてですが、手元の郷土史辞典では

「六部(ろくぶ)」
六十六部の略。日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経1部ずつ納めることから、この名が起こった。(中略)鎌倉~江戸時代に起こってきたもので、江戸時代にはきわめて盛んとなった。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(中略)六十六部の場合は、宗教専門家が、宗教の過程で人の没後をの菩提をとむらうところに真意があったので、
巡礼ほどには街道での一般人の接待はなかった。むしろ江戸時代中期より売僧や贋僧の物貰いにまちがえられるものが多くなった。

とはありますが、「江戸の用語辞典(時代小説のお供に)」では

「六十六部」

六十六の経典をを全国の国分寺などに納めて廻る僧侶の事でございます。江戸後期にはほとんどが偽物で、お布施をもらう【物乞(ものごい)】でございました「六部」とも申します。

とありますが、「比丘尼」にしても、ネットの「大辞林」では➀では「出家して定めの戒を受け正式に僧となった女子。尼僧。尼。びくにん。」とはなっていますが、④では「江戸時代、尼僧姿の下級の売春婦。びくにん」となっており、出雲のお国の歌舞伎も、あとで真似をする「遊女歌舞伎」になり、売春に関係することになり、この「六十六部」さんも、時代とともに性格が変わってきたのではないかと思います。

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さて、この「六十六部塔」、裏ですね、見逃しましたが、「飯盛町郷土史」によれば、「寛政寅年」と彫ってあり、ということは「寛政六年(甲寅)」、1794年で今から223年前の「六十六部塔」になります。

中央には、「奉納大乗妙典六十六部是廻国之塚近江住浄心」。

下の方に12名ばかりの名前が彫ってあり、この石塔を立てた地元の人かと思ったら、「大坂」「備後」「若狭」「丹後」「大串」などが見え、名前も「是心」「閍入」「?禅」など行者らしき名前も見えますが、「藤兵衛」「太七」「杢兵衛」などの一般人とおぼしき名前も見え、この12名、果たしてどうな関係だったのでしょう。

さて、このような貴重なもの、このまま山の中に眠らせておいていいのでしょうか?諌早市さん。といっても、役所の中で、文化面が一番弱い部署ですから、言っても無駄かな weep

2017年3月12日 (日)

萬歳山本経寺★大村家墓所~「ばんざい」か「まんざい」か

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大村家墓所の入口になります。「日本最古の犬の墓」という事で昨日書きましたが、この墓所、実にいろいろな墓の形が見られます。

下は、五輪塔が二つ入っていますが、説明版によれば、片方が「十六代・純伊(すみこれ)公」、もう一つが、「十九代・喜前(よしあき)公」。

実は、藩主としては「喜前公」が、大村藩の初代藩主になるわけですが、昨日の「義犬華丸ものがたり」によれば、大村家の系図(中世末期以降)として

(諸説あって不明)→純治(すみはる)→純伊(すみこれ)→純前(すみあき)→
純忠(すみただ)→初代藩主・喜前(以下略)、となってなます。

純忠はキリシタン大名でしたが、この墓所には墓はなく、というより良く分からないようで、「大村史談上巻」によれば、「純忠公は宝性寺に葬られ、草場に移され、のち本経寺に移されたはずであるが、なお不明である。」と書かれてあり、なお、「大村純忠伝(松田毅一著)」によれば、「当時既にキリシタン宗門は邪教として排斥されていたし、爾来二世紀に亘る迫害を思うならば、純忠の遺骸が鄭重に取り扱われた筈がなく、今日、大村家歴代の廟として併祀されるに留まっていることは当然のことと言うべきであろう。
本経寺の過去帳には『天正十五丁亥五月十八日(四月十七日の誤)十八代純忠公円通院殿前戸部侍即理仙日融大居士』とある。」とあります。

なお、純忠公はキリシタンでしたが、次代の喜前公は棄教をしキリシタンを厳しく取り締まっています。


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「純昌(すみよし)公」の墓所ですが、「石霊屋」です。もちろん石造りで、後で写真を撮った説明版を読むと、「内部格子天井には金箔を押した跡が残っている」と書かれ、これ、見落としました。もっとも、一人じゃこの中、入りにくいですよね。



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建物横には、下のようにびっしりと文字が刻まれていました。

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説明版には、「クルス灯篭」としてあり、第二十二代純長公七男次郎太郎としてありますが、亡くなったのが萬冶二年六月二十一日で、前年に、郡崩れといわれるキリシタン事件が収まったばかりで、疑の残るような物がその時期に作られたとは思われない、との意味が書いてありました。

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「継ぎ墓」といわれるもので、二十二代純長公の息女、おまし様の墓。生駒信興に嫁すも二十二歳にして病死。墓が婚家にはなく、実家の大村家にあるのも謎。
「恐らくは病弱の故を以て離別して、大村家江戸藩邸にて病を養い、没したる故か・・・。」

さて、墓の笠の下の右上方を見てください。


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なぜか、棹石の上方の角に継があるので、「継ぎ墓」と言っているそうですが、なぜかは、謎だそうです。

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さて、今日の本論です。左が「二十代・純頼公」(説明版には二十代と書いてありますが、藩主としては二代目になります)の墓。右が次代の「純信公」の墓。

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「純頼公」は、父喜前公の家督を継ぐも六年、二十八歳、元和五年十一月忽然として、死去します。この時、残された、「純信公」、幼名「松千代君」、御年三歳(説明版では二歳、「大村郷村記」では三歳)。

「・・・生母も松千代君の正式の届け出がしてなかった為に法度により大村藩は断絶せんとす。忠臣大村彦右ヱ門、四方に画策し、誠忠以て幕閣を動かし、ついに松千代君の跡目相続を取りつく、これより後、藩主に息あらば嫡子ならずとも届けにより相続が許さるることになる。」と説明板には書いてあります。

さて、これを喜んだのが家臣、「大村郷村記」に次のように書いてあります。

「此時、一族家士悉詣拜純頼廟而異口同音唱萬歳、從是後祝之改號萬歳山云々」

大村藩ではキリシタンを取り入れたため、40の寺院と17の神社が焼かれたそうですが、この時、本経寺の場所には、「普門坊」のちの「日蔵坊」というお堂が建っていたそうですが、もちろん焼き打ちにあい、「耶蘇(やそ)大寺」が建てられ、領内には87の教会があったといわれています。

禁教時代、寺院が再興されますが、この時の山号が「法性山本経寺」。で、上に書いたように、松千代君相続の報を聞き、純頼公の墓の前で「萬歳」を叫んだので以後「萬歳山」に改称。ということなのですが、この、「萬歳」に少し引っ掛かりを持ち。

現在の「バンザイ」は「万歳三唱」で、使われたのが明治22年、憲法発布式典で東京帝大の教授、学生が行ったのが始めと言われています。

で、この「萬歳山」は「バンザイ」ではなく「マンザイ」(今の漫才ではなく、昔、正月などにその年の繁栄を祝って言葉を述べ、踊り歩くということ、祝いの時に踊ったりすること)ではないかと思い、ちょうどお寺の方がおられたので聞いてみたら、「ばんざいさん、ということで、昔から伝えられております」とのこと。

で、私はしつっこので、古語辞典とか「時代別国語大辞典」などを調べたのですが、「ばんざい」は載ってなく、いろいろ本を引っ張り出してみると、「考証要集(大森洋平著)」に「有職故実(石村貞吉著)」に載っているとのことで調べてみると

「即位」のところに、「儀式の書には、音謁(おんえつ)と注してあるので、万歳を唱えるというのは、今のように、『ばんざい』と唱えたのではなく、恐らく「えいーっ」と叫んだものであろうといわれている。」ということで、多分、大村家の家臣は、純頼公の墓前で、「ばんざい」ではなく、大声で「えいーっ」と声を上げ喜んだものと思った次第です。

なお、お寺の山号については、どの辞書にも、「ばんざい」は見つからないので、「まんざいさん」と思うのですが、お寺の方が「ばんざいさん」と言われるし、「大村郷村記」にも「萬歳」とあるので、それでも良いかと思うのでありましたが、これが「ばんざい」と読むならば、明治22年の「万歳」説は書き換えが必要かとも思うのですが・・・


(参考・文引用:「有職故実・石村貞吉著」「大村郷村記」「大村史話」、「考証要   集・大森洋平著」説明版より)



 



2017年3月11日 (土)

「日本最古の犬の墓(史実)」~大村市本経寺

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この犬の名は、「華丸」と言います。墓は大村藩主の墓所の中にあります。藩主の墓所の中に、犬の墓があるのは非常に珍しいかと思います。

この墓所は大村の本経寺の中にありますが、墓所は「国指定史跡」になります。
説明版に書いてある通り、普通、藩主の墓といえば、大体同じ形ですが、この墓所の墓、まさにバラバラの作り。


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五輪の塔あり、石霊室(いしたまや)あり、宝塔あり、笠塔婆(かさとうば)ありで、しかも、デカい。

大村藩は一時、キリシタンの藩であり、禁教時代になりキリシタンではないことを表わすためだと考えられています。


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ここを訪れたのは、下の本が図書館にあり、なかなか面白かったからです(病院通いもありましたが)。

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墓所の入口のすぐ左手に、「義犬華丸」の顕彰記念碑(顕彰墓碑と石像)があります。裏から見ると墓碑には何やら書いてありますが。

この顕彰碑は義犬華丸365回忌(なんとなく中途半端ですが・・・・)に作られたそうです。平成27年ですから、昨年になります。

「子供から大人まで多くの皆様に触って貰えるように、表面はツルツルで滑らかになっています。」という事で、私もナデナデしてきましたが、ワンとも言わず、おとなしく、可愛い犬でした。


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墓の場所が少し分かりにくいのですが、墓所に入って左側に見上げるような、3代藩主純信公の墓碑があり、この墓碑の少し左側にあります。右が「華丸」の墓ですが・・・

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文字が彫ってありますが、この彫ってある文章は読んでみると、記念碑の墓碑の裏側に書いてある文章と同じでした。ただ、高さが違うので、改行の部分が違っています。で、この文章になぜ「華丸」が「義犬」と呼ばれ、大村藩主の墓所に祀られたかが書いてあります。

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本から要約すると

大村藩三代藩主大村純信の幼少期の傅役(守役)で、家老の小佐々市右衛門前親(あきちか)が飼っていた愛犬が、「華丸」。犬種は雄の狆(ちん)。

大村純忠が33歳で急死し、前親がこれを悼み、本経寺で殉死(追い腹)。前親の荼毘(だび)の時、愛犬華丸は主人の死を嘆き悲しんで声を呑み、雨のように涙を流し(犬吞聲泣涙如雨)、主人が焼かれる火に身を投じたそうです。
君主に殉じた前親、そして飼い主に殉じた華丸。それを末永く供養するため、二つの墓が並んで建てられたそうです。

一番上の写真、左が小佐々市衛門前親の墓、寄り添うように建っているのが、「華丸」の墓。

大村家の墓所には、驚くようなものもあり、このお寺は「萬歳山本経寺」といいますが、「萬歳山」の名前には理由があるのですが、近い間にでもご紹介を。

皆様も、近くにお寄りの節はご参拝を。なお、見学の際は「国指定史跡」になりますので、大切にご覧ください。受付を忘れないように。私は忘れていましたが。また、「犬」を連れて境内に入ることはできないそうですからご注意を。


(参考・文引用:説明版及び「義犬華丸ものがたり」より)



2017年2月18日 (土)

「善神(ぜんじん)さん古墳」~諫早市高来町

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ホント、嫌ですね。昨日、ブログを書き上げてアップしようとしたら、ネットに繋がらず格闘する事、午前1時。でもって、記事が全部パー。これだから、PCは信用できない。皆様もご注意を。

という事で、書き直しですが、気力が失せたので簡単に。

一昨日は天気が良く、有明海の海向こう高来町へ。用事が済んで湯江小学校あたりをブラブラしていたら、なにやらあったので、見にいったら「善神さん古墳」でした。名前は聞いたことがあり、山の中かと思ったら道路のすぐそば。

古墳の名前で、「鬼の古墳」、「鬼の岩屋」、「鬼塚古墳」等々、「鬼」がつくのが多いのですが。考古学もない時代、こんなものを見つけたら、鬼でも住んでいたんじゃないか、
と思うのはごく自然でしょう。ここは「善神」ですが。

「善神」は手持ちの辞書にはなく、ネットで調べると「1 よい神い 2 仏語。正法(しょうほう)を守る神。」とあります。
 

名前の由来がわからないので、近くにお年寄りさんを探しても見つからなく、「高来町郷土史」(現諫早市へ編入)をみたら、「室内には近世作の地蔵尊など石仏十数体が並び、信仰対象とされ、『善神さん』の由来を示している。」と、あまりよく分かりません。

「善神さん古墳」の説明は説明版に書いてあったので、読んでください。


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現在、赤丸の「羨道」(せんどう・えんどう。横穴式古墳で遺体を安置する「玄室」と外部を結ぶ通路)はつぶれて、玄室だけむきだしの状態です。

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下の写真の赤丸のところが「羨道」の一部ですが、これが右側にもあり、その上に天井の石をかぶせ、土で覆っていたと思われますから、随分大きな古墳であったことがわかります。埋葬者は地元の実力者だということが伺われます。

なお古墳、上の部分はコンクリートが打たれ、瓦で葺かれていますが、これは後世に付け加えられたものです。


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内部ですが、大きな石がきれいに積まれています。重機もない時代です。


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天井ですが、2枚の大きな岩でおおわれています。

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で、私が大チョンボしまして、説明版の「玄室正面の一枚岩には一面に斜格子紋様があり、人物・舟・動物が描かれている。羨道部の天井石にも線刻文様が施している。」を見落とし、写真を撮るのを忘れましたが、幸いにも「高来郷土史」に写真が載せてありましたので下に紹介しておきます。

なお、この線刻文様については、ネットの「長崎県の遺跡大辞典」には、「詳細な観察によると格子文、斜格子文の後から人物などの図柄が描かれているために、後世の落書きとみる説があるが、決め手となる根拠はない。」とあり、「高来町郷土誌」には、舟・人物は斜格子文のあとに描かれている可能性も強いとしながらも「これらの構図の類例は佐賀県などの古墳にも似たようなものが含まれる。」と若干ニュアンスが違っています。


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           (「高来町郷土誌」より)


遠くの有名な古墳見学もいいですが、近くにも面白い古墳があるかも、ですよ。


 


2016年12月10日 (土)

「升金の倉」にて~長崎県島原市

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先日、「ぽけGO」の表記、「馬場三治翁公徳碑」が「大衆浴場記念碑」としてあって、「馬場三治」とは何者ぞと思い、近所の人に聞いたら、「升金」さんが詳しいのではという事で、「升金」を捜したら、「升金の倉」という、「蔵カフェ」でした。

以下、説明は、「升金の倉」のホームページと、お店でいただいたパンフレットを元に書いてみます。

外側は、改装したみたいですが、説明には「・・・大忙しな百数十年が往き、海鼠(なまこ)壁も落ち・・・」と言う状態で、多分、外側はボロボロだったことが伺えます。

入口は、自動ではなく手でガラガラと開けますが、その裏側に、「升金商会」の文字、住所などが書いてありますが、その上「寒い時代」と書いてありますが、なんでしょう?


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二階には、少し幅広の階段を上がりますが、はやり、全部木造の部屋は落ち付きます。まして、後で書くように歴史が染みついていますから、なおさらです。
なお、ここは、国指定有形登録文化財、県まちづくり景観資産登録に指定されています。


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上を見ると、大きな梁。今この木材を使うと、現在の家が何件くらい建つのでしょう。以前、庄屋屋敷を壊すので見に行った時も、はやり、大きな梁でした。

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とまあ、眺めてばかりでは、なんなので、昼食時でもあるので、ランチを頼んだら、意外とこだわっていますね。結構なお味で、優しいウェイトレスさんの笑顔で癒されました。外の湾の眺めもなかなかなものです。

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ここから見える船着場から、勝海舟、坂本竜馬一行が上陸をし、長崎を目指したと伝わっています。

この蔵についてお話を聞きたかったのですが、残念ながらオーナーの方は留守でした。

元来、この倉は島原城内にあった倉らしいのですが、明治4年から7年までに、本丸、二の丸等すべてが解体され、その折、この倉も現在位置に移されたらしいということです。

オーナーはM氏ですが、江戸時代、祖先の方がタバコ、蝋製造を行い、「升金」の名を起こし、明治15年、分家した、「升金帆船店」がこの地で開業をしたそうです。

右の写真は、「島原・南高の100年(監修=松尾卓司) 『島原・南高の100年』刊行会編」に載っている写真ですが、説明は「ヒトラーユーゲントの来島(島原市・昭和13年) ヒトラーユーゲントや東京相撲一行の上陸の様子、出征兵士など、中組の升金汽船着き桟橋は連日人手が多かった。向こうの島影には潮待ち風避けの機帆船の帆柱が林立している内港の風景。(提供:島原市立第3小学校)」としてありますが、かなり繁盛していた様子がわかります。

なお、明治28年から、口之津ー島原ー長洲に定期客船「升金丸」を走らせていたそうです。


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で、この蔵の由来は分らなくなったわけですが、オーナーが引き継ぐことになり、興味を持って調べたところ、棟木を見つけたそうですが、その棟木には当時の藩の重臣、棟梁の名前が書いてあったそうです。

一番上「松平定勝」と書いてありますが、島原藩最後の大老です。島原は寛政4年の「島原大変」でガラリと地形が変わるわけですが、歴代藩主が良い港を求め続け、松平貞勝が湊新地の築出しを作るわけですが、後年この湊は花街にもなり、「夢二も舟遊びをしていった」そうです。

パンフレットには、「この湊、倉の最後の建設は最後の殿様と最後の大老の最後の大事業になった。」と書いてあります。

時代が激変する中、「深溝世紀(ふこうずせいき)」(島原藩主松平家の正史)の「巻二十三 今公(注:忠和・島原藩最後の領主)編 (島原図書館郷土史を学ぼう会)」の「藩政機構改正」には「仮参事を松平定勝・渋川勝廸に仮副惨事を云々」と記してあります。


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この松平定勝は「松平勘解由家第13代大老」「大手門脇に居していた」と書いてあるので、「島原ぢゃんば(渋江鉄郎著)」の見返しに「島原藩士屋敷図」が載せてあり、「本図の氏名は元治二年(1895年)の調査による。原図は熊勝氏による。昭和32年11月 島原市立第三小学校作製」とありますが、まあ、よく調べたものですが、赤丸の所が「松平勘解由家」があったところ。青の矢印が大手門。

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引き延ばしてみると、「大老 松平勘解由」の文字が読み取れます。なお、この場所は、アバウトでいうと、右の写真、赤矢印、現在の島原市図書館あたりになります。大手門は黄色の矢印付近です。右手の方に島原城があります。

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というような事を考えてながら、コーヒーを啜り、歴史に浸った一日でありました。






2016年6月28日 (火)

「山田城址」の事~長崎県雲仙市吾妻町

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雲仙市吾妻町にある「山田城址」です。吾妻町は以前にも書きましたが、合併町村で、この辺りは旧山田村に属します。先日書いた「水分神社」はこの麓にあります。

この城の入口はこちら側と、向こう側にありますが、上は公園化されているようですが、この日は雨で、残念ながら、です。

最近は山城を公園化、グラウンド化しているところが多く、大きなお城も良いのですが、このような城にこそ、城の原点があり、大きな城に飽いて、山城を見る人が増えてきたとか。整備して、「山城の里・雲仙市」として売り出せばと思っているのですが。


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この看板の近くにもう一枚、城の説明を書いた看板があるのですが、これが、いつ作られたか分からないくらい古く。

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よく読めないと思いますので、書き写すと

■史跡 「山田城址」

山田城は南北朝時代の応安五年(一三七二年)に山田荘の地頭であった肥後の田原氏能によって築城され、島原半島の経略の武家方の拠点であった、そのために九州探題今川了俊等がたびたび滞在したことがあったが後に在地の土豪山田一族の居城となった。
山田氏は代々有馬家氏の重臣として活躍したが、特に有馬晴信夫人が山田氏から出るなど信任があつかった。慶長十九年(一六一四年)有馬氏の転封に伴い、山田氏も主家とともに延岡に移ったために廃城となった。出丸、空濠(からぼり)跡等が残っている。」

と書いてあるのですが、先日、紹介した「三體地蔵尊」はこの山手側にあり、南北朝時代戦いがあり、北朝側が、野井城、杉峯城、神代城(南朝側)を攻めており、この山田城もその拠点になったと思われます。

ただ「北肥戦記(九州治乱記)」「歴代鎮西志」に目を通してみたら、といっても、両方とも、900頁~1000頁程度あるので、ざっとみると、

「探題移高来郡ノ山田」とか「其頃探題今川了俊は、肥前國の敵を押へて高来郡をに在陣し・・・」とあり、山田城に拠ったことは分かるのですが、山田城はあまり出ていません。

さて、「有馬晴信夫人が山田氏から出る」については、「有馬家文書刊行会」から出版された「有馬家世譜(丸岡邑編)」がありますが、これは、有馬家が最終的に丸岡に移封された時から書いてあり、残念ながら、肥前時代の記録はありませんが、系譜は「天兒屋根尊(あまつこやねのみこと」から始まり、「藤原鎌足」、「不比等」などの名も見えますが、これは系図に重みをつけたものでしょう。

「肥前国時代」の14代目に晴信の事が書いてあり、この中で、「室、家臣山田兵部少輔藤原純規女、大上殿(おうがみどの)。・・・・・」とあります。

が、「吾妻町史」には、結城了悟(長崎の前26聖人会館長)が有馬家の系図、特に晴信に関係した人物を調査されており、(長崎談叢第63輯)「そして、直純(なおずみ・晴信の子)の母が山田兵部純規の娘であることに疑念を抱かれ、直純が自分の母を正室として系図に記入することは当然であるが、事実は違っていたと結城氏は明確にしておられる。
直純の母が山田兵部の娘であることは、確かに後の世に、作られた系図ではあるまいか。」と書かれています。

このところ、同じ「吾妻町」で作られた、看板と町史なのですが、違った記述なのですが???

また、外山幹夫氏「肥前有馬一族」には、「嫡子晴純についてみると、彼は初名忠清。そして母は家臣山田氏の女であるとする(『国乗遺文』二、)『藤原有馬世譜』三は、これを山田純矩の女とする。純矩か純規かは不明だが、山田氏の女とする点にはおいては両者は符合する。次男は純貞で、母は家臣『荒木伊賀ノ婦人』(『国乗遺文』二)とする。彼女はもと直純の乳母として召し出された。『藤原有馬世譜』三は、彼女が晴信の『妾』であるとする。・・・・以上によれば、晴信には正室・側室合わせて四人、そして五男三女があったことになろうか。」と結んであります。

ルイス・フロイスの「日本史」は、晴信の受洗に対し、「有馬殿は領内の最も重だった身分のある若い女性を邸にかこっている」と(晴信が)告げたために、受洗の日程が延びましたが、なんでも、こと細かく書く、フロイスさんが、女性の名前は書いてありませんでした。

小さな山城から始まった話ですが、調べていくと、いろいろな話と繋がってくるもので、想像することが多く、「歴史は推理だ」といった方がありますが、「推理」して「実証」していく過程に面白さがあるのではないでしょうか。と思いました。

いつもの通り、まとまりの無い話で、スミマセン ヾ(_ _*)ハンセイ・・・ 。




2016年4月 8日 (金)

「甲石(かぶといし)」その他の事について~長崎県雲仙市南串山町

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重政(松倉重政)公の「甲石」の場所だそうです。


地元に残る古文書、郷土誌の中で、17世紀の島原藩主、松倉重政が休息のた

めかぶとを脱いで置いたと記述されている「甲石」の場所を、南串山町史談会長

茂和夫先生が特定されたそうです。


古文書によると1629年4月、長崎へ向かう際、南串山を通り、農民の利水のた

め水路「大井手百間(おおいでひゃっけん)」を築くよう指示。休息のため地蔵が

近くにある石の上にかぶとを脱いで置き水の川を水を飲んだ。その川を『甲川』

と呼ぶようになったという(長崎新聞2016年3月17日)。で、同地区を調べ特

し、看板を設置したそうです。残念ながら、甲石は水の中で見えません。

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ここの近くには、諏訪の池があり、国民休暇村がある所です。

赤○印の所が「甲石」の場所、矢印が諏訪の池で、上から上池、中池、新池にな

ります。

「甲石」の場所が少し分かりにくく、223号線を行くと、写真の所があり、左の赤

の矢印に行くと諏訪の池、看板があります。青の矢印の方向に行き、左に曲がる

と少し狭い道になり、今回の話題の場所になります。

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さて、実はこの諏訪の池については、昭和53年刊の「小浜町史談」には次の様

な記述があります。


「(略)上池・中池・新池にわかれ上池がもっとも大きく一周およそ四キロ㍍余、元

和二年(1616)奈良から移された島原領主松倉氏が、小浜入浴のためここを通

るとき、水田の干害対策を村民から陳情され築堤を命じたという説がある。」、た

だし、「あるいは有馬城主時代にも貯水池があったかも知れない。」との記述もあ

小浜町のガイドブック「おばま 史跡巡りガイド」には、


1653年(承継2) 赤峰山の東南盆地にせきを築いて池(上)にする。この時「諏

            訪の池」と名づけられる

1669年(寛文9) 諏訪二ノ池(中)を構築

1752年(宝暦2) 大亀名山川池より助井手をとおして諏訪二ノ 池(中)に注ぐ。

1797年~1822年 山川下池の井桶を悉く改装。

1822年(文政5) 諏訪持土手を築き新助井手(水路)を疎して、山川下池の水

            を引き諏訪の池に注ぐ。


諏訪の池を、下池方面から撮った写真、右は新池ですが、今は木に覆われて、

自動車道路からは見えません。

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松倉重政の没年が1630年(寛永7年)という事を考えると、諏訪の池の松倉説

は少し無理かなとは思いますが、原資料を見ていないのでなんとも言えません

が・・・


さて、松倉重政といえば、「島原・天草の乱」で、島原半島は以前は、キリシタン

大名有馬晴信が治めていますが、岡本大八事件で死を命ぜられます。継いだの

が、その子の直純ですが、キリスト教を捨て慶長19年(1614)に日向国(延岡)

に国替え。その後2年ばかり、幕府の公領になり、鍋島・松浦・大村の管理に置

かれますが、元和2年(1616)松倉豊後守重政が領主として迎えられます。


松倉氏は最初、キリシタンに寛容であったものの、幕府より叱責を受け、厳しい

取り締まりを始めます。なお、重政公の死後、子の勝家が後を継ぎますが、こ

れが又悪政で、住宅を建てれば建築税、窓を作れば窓税、鑪を設ければ鑪税、

畳を敷けば畳税、出産には頭税、死亡埋葬には穴税、加えて重政公時代に禄高

にも合わぬ大きな島原城を築き、島原半島の住民は大変な負担を強いられ、

「島原の乱・天草の乱」を招き、松倉氏と言えば悪名高くなるのですが・・・

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千々石の海岸ですが、赤○の所が、堤になって、松林になっています、これが無

ければ、ご覧の通り、後の畑は潮風の吹きっぱなしになります。


この堤を築いたのが、松倉重政であり、島原城築城の折、千々石の和田四郎左

衛門義長(橘氏三世・橘中佐の祖先)が招かれ、この時、千々石のこの一帯が困

っているのを聞き、「千々石ノ地 海水害甚シク比年田稼捻ラズ聞ク 弧甚ダ之ヲ

苦慮ス仍テ封内ヲ検地シテ郷民ト協同シテ堤防ヲ設ケヨ」ということで、この堤防

ができたわけです。(前にも書いたかな?)


松倉重政といえば、悪人の代表みたいですが、意外と農民の方にも目がいって

いるのが分かります。前述の茂先生も「重政はキリシタン弾圧などマイナスイメー

ジがあるが、南串山にとっては大井手千間を築いてくれた恩人でもある。その功

績に光を当てたい」と話しているそうです。

歴史というのも、良く調べないと分からないところがある、という事を学んだ事柄

でした。


(参考・文引用:「島原の歴史(藩政編)」「島原半島史(上)」「おばま 史跡巡りガ

 イド」「小浜町史談」「長崎新聞(3月17日)」「千々石町郷土誌」)






2016年3月23日 (水)

「山崎教清(のりきよ)」~諫早・近代干拓の祖

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以前から、ここには一回行ってみたいと思っていたのですが、諫早は長崎県でも

穀倉地帯として有名ですが、佐賀県みたいに平野ではなく、ほとんど干拓の地で

す。


小野地区河内の開祖山崎教清、江の浦干拓の松本四郎左衛門、長田海面埋め

立ての小宮藤馬、河内町北方の新開地造成に貢献した安政年間の早田良平等

が干拓事業で有名な人物だそうです。(「諫早史談」~田中為市編集・諫早市教

委員会発行より)。


ザッと言えば、赤○印の所が干拓地、
黄色の矢印が、山崎教清が祀られている

河内町。水色の所が、新聞等に良く載っている、現在の諫早干拓の堤防になり

ます。

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干拓については、山崎教清が特に有名で、時代は豊臣秀吉が、九州平定に来た

時になります。


当時、諫早地方を治めていたのが、西郷信尚(のぶひさ)。秀吉の元に参陣する

ようにの呼びかけに、家老山崎丹後守(山崎教清の父・教清は四男)等が加わる

う勧めるも、どういうわけか頑として応ぜず。「西郷記」によれば、「(家臣は)何

涙を流し退出す。丹後は其夜一家一族船に乗り行衛(行方)も不知逐電

す。」と書いてあります。


その後、西郷氏は佐賀の龍造寺に滅ぼされ、教清は伊佐早(現・諫早市)に戻

り、当時の領主家晴(いえはる)は教清の才能を見込み、家臣になるよう話しま

すが、自分は西郷氏の家臣であり、「二君にまみえず」ということで辞退し、代わ

りに、河内町の干拓を申し出、家晴はそれを承諾し、75名の家臣まで付けてや

ったそうです。


ただ、干拓といっても今のように重機があるわけでなし、まして、堤を築き干拓に

しても、塩分を含んだ土地では塩分を抜かなくては使えるわけではなし、困難な

事業だったことは、言わずとも分かると思います。


山崎教清を祀った社は、川内町の外れにあります。

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社の横に石碑が並んでおり、なにかなと思っていたのですが、これが、その時の

家臣の碑だそうで、この中に「釈教清不退位」と刻んである碑があるそうで、多

分、社のの左手にあるのが、この石碑ではないかと思います。字が薄く、読み

にくいのすが、「釋」と「不」という感じでした。

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なお現在でも、毎年2月15日に祭典をしているそうで、私が行ったのが20日で、

少し遅すぎました。近所の方に聞くと、「自分は行けなかったが、班長さんから連

絡があり、皆さん集まっていたようですよ。」と言うことでした。


天正時代といえば、400年(天正元年は1573年)以上昔で、その頃から、地元

で慕われていたかと思えば、感無量でした。

(注:河内町は現在の川内町。石碑に河内町とあるので、これで統一しました。)


(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早史談」「諫江史料拾録第一集」

 「市制50周年記念 『いさはや』」より)



 

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