史跡

2018年1月13日 (土)

「礫石原(くれいしばる)環状石組遺構」&その他

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病院も3日続きで通うとイヤなりますね。前の日から、雪の予報が出ていて、朝早く出かけると何ともない天気。珍しく病院の診察も、あっという間に終わり。

以前から、島原市の地図を見ていたら、島原新港~雲仙の方に上っていくと、「千々石道」と言う地名あり、昔、千々石から山越えで有明、島原方面に魚を売りに来ていたと言うことを聞いていたので、一回は行ってみたいなと思い、時間もあるので、チョット寄り道を。

ところががですね、やはり土地を知った方の案内がいるもので、いつの間にか、「島原市指定文化財 礫石原環状石組遺構」に出てしまいました。この遺構も一度は見たいと思っていたのですが、道以外は一面の雪。遺構も写真の通りで、何がなにやら分かりません。

看板を張っておきますから、クリックすると少しは大きくなると思いますので、お読みください。


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で、ついでに、「フラワー公園」に寄って見ましたが、この時期、しかも雪が積もっている中、お花なんか見えません。考えればすぐに分かるのですが、バカな私。

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大黒様の後ろに、何か変な鳥が飛んでいましたが、何という鳥でしょう?ご覧になりたい方は、足を運んでください。

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時間を見ると、ちょうどお昼時。どこにしようかと、車を走らせていたら、以前入ったところがあったので、寄って見ました。普通の食堂ではなく、地場産品等売ってありますが、どちらかというと健康志向の品物が多いですね。

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室内も意外とゆったりして、窓から見える畑、向こうに有明海が眺められます。本当は、もっと良い風景なのですが・・・

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ここ、昔はシシカバブが売り物だった(はずだった)のですが、メニューはまったく変わってました。サラダは食べ放題で、これだけドレッシングがあると迷いますね。

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頼んだのが、「チキンオーバーライス」野菜ばかりだと思ったら・・・・

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ちゃんとターメーリックライスが隠れていました。もちろん、チキンも入っていました。

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食後のコーヒーですが、最近はブラックの方が多いようで、一昔前は、お年寄りの方は5,6杯の砂糖を入れていたのですが・・・私も、「お姉さん、シュガーステックあと3本」と、血糖を気にしながら。苦いコーヒーなんて飲めるもんじゃない。

で、ミルクをたっぷり入れましたが、これは、ミルク占いをするためで、「今年も、もてない」とでました。


2018年1月 5日 (金)

愛野町「首塚」について~雲仙市愛野町

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         (「雲仙の文化財」の写真より)

愛野町(あいのまち、です。あいのちょう、ではありません)の首塚です。
コメントをいただき、前回書き忘れたことがあるので、少し書いてみます。

長い間、島原・天草の乱のとき、討ち取った首の3分の1をここに埋めたと言うことですが、埋めたのは天草の富岡、有馬、長崎の西坂(26聖人の処刑された所)あたりではないかと言われています。

だた、富岡ははっきりしていますが、有馬、長崎については、「じゃないか」と言うことで、はっきりした場所は特定できておりません。

このことについては→こちらをクリック に少し書いていますので、ご覧を。

宝永四年、島原藩松平忠雄公のとき、島原半島各村の石高、人数、お寺、神社、村内の鉄砲の数、村の様子などが書かれた「島原大概様子書」があり、その後たびたび書き直されたそうですが、「会津村(現雲仙市愛野町)」の所に次のように書いてあります。

「首塚壱ヶ所有馬一揆(注;島原・天草の乱)之節切支丹之首三千余埋めし塚と申伝ふ。」

これが後年までひびき、「長崎ネット」、「じゃらんnet」等々にも堂々と、島原の乱のおり云々と現在も書いてありますので、ご注意を。真っ赤なウソです。

ただ、どうして上のような話になったのかは、残念ながら、文書(もんじょ)としては残っていません。


2017年9月30日 (土)

「児島(こじま)」へ~其の三

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「栄西」、普通は「えいさい」と読みますが、「建仁寺」のホームページには、「開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。」とあり、「栄西」は「ようさい」とも読むことが分かります。

このことについては、「栄西を訪ねて~芝村哲三著」に「栄西は、古来より『えいさい』と『ようさい』の二通り呼ばれている、『えいさい』は漢音の呼び方であり、『ようさい』は呉音の呼び方である。」と記されています。

この三冊の読んでみると、同様な事が書いてあり、建仁寺あたりに河原院という昔の仏閣に埋もれた梵鐘があり、それを掘り出し、建仁寺に持ってくるとき、あまり重いため動かず、栄西は、「私の名前を呼びながら引けば動く」と教え。「ええさい!ようさい!」と声を合わせて引くと動いたそうです。

なお、「室町時代の古い辞書『節用集』などには、(中略)建仁寺創建のとき木を曳くにあたり、『えいさい、ようさい』と開山の名を呼ばせたという伝説まで生まれている。」(「国立国会図書館レファレンス協同データーベース」より)とあります。

また、面白いことに、「栄西の道~千光燦著」の「東林寺(福岡市西区宮ノ浦)」の所には、「ここらへんの漁師たちは、沖で網を引くときは、ヨーサー、ヨーサ(栄西々々)といってあげるんです。禅師をしのぶ掛け声ですね」。といった記述もあります。いずれにしても、重たいものを運ぶための掛け声が、「えーさい、えーさい(よーさい・ちょうーさい)」という事が分かります。

さて、南串山の庄屋日記にも、「漁夫栄西の跡を慕ひ千載の今に至てかけ声申にエイサイト云うハ栄西ナアと申事ニテナアハ今ノ詞に云ヘハナイハイノ略語にて遍(あまねく)サマノなまり也栄西様といふ事也と享保年禄に有之候」。とあり前述の、「東林寺」と全く一緒です。(分かり部分もあるかと思いますが、目下編集中です。)

さて、栄西は本当に南串山に来たかというと、「栄西を訪ねて~芝村哲三著」には、次のように書いてあります。

諸先生の著書の中に、二度目の宗より帰国後、平戸で禅規をその後、「肥の前州(肥前)高来郡に智慧光寺を創建し、禅を広めた・・・・」。とあり、「智慧光寺」は「福智慧光寺」としたものもあるそうです。

原点を調べると、曹洞宗相国寺派本山の蔵本(現在は東京大学資料平編纂室蔵。)の「縷氷集」の中に、「あきらかに肥前の智慧光寺と記されてある。」そうで、「長崎県には、北高来郡、南高来郡(注:現在は町村合併のため名前は消失、本来の名前の由来を粗末にする、〇鹿な行政の仕業です)が広い範囲にわたり存在している。例の雲仙は(昔は仏教の聖地として栄えました)は南高来郡である。高来町と呼称する町も諌早の東にある。」と書かれています。

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長崎県の地図です。赤の矢印の内部が高来郡、今話題にしている南串山町の「児島」あたりが黒の矢印。地図は「国郡全図(ものしり・・・天保国郡全図で見る壊疽諸国より)」。今の地図とは逆になっているので、見にくいと思います。「茂木」は「母木」などと書かれています。

こうしてみると、広いもので、「栄西を訪ねて」の著者も「智慧光寺」の場所を探したそうですが、教育委員会、歴史学者、禅宗の各本山への紹介、寺院明細帳にもなかったそうです。

江戸期に消えた寺院もあり、資料を持っていたので探したのですが、ありませんでした。「栄西を訪ねて」の著者も、私たちが解読している、「馬場庄屋日誌」の事は知らないはずで、私たちも読み始めて初めて知った事実で、消去法でいくと、他の所には記述がない。「馬場庄屋日記」には記載がある、という事は、実際、栄西は南串山に来ていたのではないかと思われるのですが・・・・



2017年9月25日 (月)

「児島(こじま)」へ~其の二



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「『児島』へ」の2回目になります。神社は写真の右手、島の中腹にあります。

地元の郷土史家によると、島原・天草の乱(寛永14~15年・1637~1638年)で荒廃した半島の神社を、松倉勝家の後、島原へ移封した高力忠房が半島内の神社を復興し、この神社を最初に修復したといわれています。

南串山町郷土史「みなみくしやま」には、「創立は不詳であるが、寛永十五年(1638)に再建され、安政四年に(1853)に現在の石祠に立替えられる
。(八幡神宮像記)」とありますが、高力氏は寛永十六年(1639)に徳川家光により島原へと移封されています。死去は明暦元年十二月(1655)という事です。

なお、注意すべきは、「創立は不詳であるか、寛永十五年に再建され」というところで、では、以前に作った人がいるという事で、誰が作ったのかという事になります。

先に書いたように、栄西が弁財天を作ったのが建久元年(1190年)と庄屋日記には書いてありますが、栄西は栄治元年(1141)~健保3年(1215)没です。

昔は「弁財天」ですが、現在は「宗像神社」と言っています。神社の改名には明治の神仏分離が関係しており、各神社の古い額束、神社明細調帳などをみると、弁財天が宗像神社、四面宮が温泉神社、熊野権現が熊野神社、祇園社が水神社、八大竜宮が住吉神社等々改名をしているのが見受けられます。

さて、神社の鳥居は壊れており、近隣の方もあまりお参りしないのか荒れていました。

少しきつい階段を上がると、石祠があり、弁財天が祀られていました。
 


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弁財天につきものの、琵琶(木製)がありましたが、ギターでいうところのペグとかフレットもないので、飾り物だとわかります。もっとも、この厚さの裏板では音は響かないでしょうが・・・

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左が、南串山在住の願主でしょう。右が石工さんで安政七年と、石工 天草下浦船場 石工 要平 同 松太郎の字が読めます。天草との交流が分かります。

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こちらは「領南串山村」ですが、「島原領南串山村」でしょう。右の方はよく読めません。

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灯篭を寄進したした方でしょう。右は「肥前国高来」と読めますから次は「郡」とくると思うのですが、良く見えません。

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こちらは、灯篭ですが「貞享丁四天(天は年の事・1687年)」。

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こちらには「文化四丁卯」(1807)。こうしてみると、年代がバラバラみたいですが鳥居が崩れたりしているところを見ると、何回か改築をしたことがうかがえます。

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さて、この神社に関しては、「島原半島史(林銑吉著)」に2か所ばかり書いてある所があり、

一つは、「寺社領寄附状並祝詞」。旧島原藩士松村幹二氏の所有であり、郡部又は別領(飛び地領)豊前豊後の神社仏閣に忠房(松平忠房)公が寄附したものを漏れなく記載したものだそうですが。

△寄附 肥前国南高来郡南串山町京泊辨財天社領之事 高貮石貮斗五升(境内林共目録在別紙) 書奥右同断 天和三年(1683)四月廿一日 主殿頭(島原藩主松平公の事)

もう一つが、「島原大概様子書」(島原領内の田、畑の面積、人数、鉄砲の数、などが書いてあり、いわば国勢調査のようなもの)に

△同(寄付の事)貮石二斗五升 京泊崎兒島 辨財天此反別三反歩 兒島廻り百八間高拾六間京泊名浦より海路八町

とあります。さて、この人も住まない小さな小島ですが、なぜこの神社に島原領主が寄進をしたのかは、全くの謎です。

あと二点ばかり疑問があり。①栄西が本当に来たのか。②菩提樹は植えられたか。ですが、また、気が向いたらというより調べるのに難しい所があるので、またいつかネ。

年代が、ズレているようなところがありますが、書いてあるものによって多少違いがあるためです。





2017年9月 9日 (土)

「ミゲル墓所推定地」現地説明

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昨日で発掘調査終了。という事で、地元へのお礼もかねて説明会がありました。

墓の調査、キリシタン遺跡のそれぞれの専門家による説明がありましたが、まだ、分析するところもあり、正式の報告は11月12日になるそうです。

この墓碑に関しては、この大きさの墓石。また、基盤を作り、その上に棺を置き、隙間を土と石で固め、さらに土と石を被せ、大きな石で蓋をし、その上に土と石を被せていくという、普通には見られない丁寧な墓の作りで、かなり位の高い者の墓だという事でした。

また、棺桶は長持ちの転用は無いかという事で、長持ちの金具、錠も出てきています。

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新聞にも出ている通り、ガラス玉が出土しましたが、59個出たそうですが、ただ、首にかけるにはあまりにも小さいガラス玉でしたが、当時は木で作ることもあり、それなら、朽ちているのでは?という事です。

いずれにしても、ガラス玉を調査し、鉛などの測定で作成地区の特定もできるそうです。


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発掘の成果物ですが、ガラス玉、錠、歯、長持ちの金具、ガラス等並んでいましたが、骨の部分はまわりの土ごと長崎大学で分析中で、その結果でかなりの事が分かると思います。

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いずれにしても、分析の結果が待ちどうしいところです。なお、この後、元の通りに埋め戻しをします。




2017年9月 8日 (金)

「児島」へ~雲仙市南串山町児島 其の一


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児島(こじま)です。左に長く伸びているのは養殖をしているので、防波堤です。

GoogleEarthで上から見ると、丸印の島、矢印は国崎半島になります。この半島の先の海岸、良い海岸なのですが・・・・

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月曜日にこの島に調査に行ったのですが、島の一番上まで登り、と言っても手入れをしていないので、ヒーヒー言いながら登ってきましたが、まだ筋肉痛が残っていて、歳を感じます。この児島の事について、2,3回、飛び飛びになるかと思いますが、書いてみたいと思います。

さて、どうしてこの島の調査に来たかというと、南串山の古文書研究会で、馬場庄屋の文書に、臨済宗の開祖、また喫茶の習慣を日本に広めた、栄西の事が書いてあったからで、

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読めないと思うので、概略書いてみると

栄西が宗から帰るとき、建久元年(1190年)に京泊の湖島(ママ・現在は児島)に弁財天を祀り、菩提樹を植え、また、漁夫が掛け声にエサイナトいうのは、栄西を慕い云っているという事が書いてあり、ここの所長くなりますが、菩提樹について書いてあり、普通は建久元年、菩提樹の枝を中国から送り、それが香椎宮に植えられたことになっているのですが。

湖島(児島)菩提樹越願い始て植えるの
始免也元亨釈書に僧栄西
京ゟ伝し建久元年ノ春
筑紫香椎の神詞(ほこら)の辺り
植えるを是を始めとすとハ偽也
此湖島に弁財天建立後
菩提樹を植置程絶て香椎へ
被参る由なれバ初めて植えられしハ
此の湖島也

とあり、菩提樹が初めて植えられたのは、香椎宮ではなく、この児島にであるという事が書かれてあります。

その後有馬一揆(島原半島の神社は、有馬晴信からほとんど破棄されています。千々石の満明寺もしかりです。)の節この弁財天も廃亡されたそうです。

でもって、無謀にもこの島に上がって、菩提樹があるかどうか確かめようと、大人(というより、高齢者)6名ばかりで調べに行ったのですが・・・

下の図は、明治二年の神社明細調帳の図です。

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鳥居が書いてありますが、現在は壊れています。鳥居前の広場から上陸できるようですが、現在は全く違っておりました。島の形は、多分、昔はこのような形だったのでしょうが、現在は木が育ち(過ぎ)島の形が違ってきたような気がするのですが。

なお、この島は以前は女人禁制、石の一つ持ち出すことは禁止だったそうです。世界遺産の宗像・沖ノ島と一緒ですね・・・・・・(続く)





2017年9月 1日 (金)

「千々石ミゲルの墓とみられる墓石」~遺構出現!

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昨日、墓の石ぶたと思われるものが発掘されました。下は「長崎新聞」に載った写真ですが、大きな石が3個あることが分かると思います。

私たち見学者は一段高くなっているところから見ているので、土嚢と基壇の石のため、新聞の写真の一番向こう側の石は、まったく見えません。という事を頭に置いておいてください。


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新聞写真で見る一番手前の石。意外と軽いのか、4,5名で持ち上がりました。右の写真は取り除いた後の様子です。

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真ん中の石の撤去です。重たいので、チェーンブロックで持ち上げて移動。

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すぐに見られるかと思ったら、責任者で確認。その後、板を撤去。すると、穴が現れ、一番上の写真です。

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あと、説明がありましたが、木棺を埋めた後土を被せ、三枚の石を置き、また土を被せのではないかという事でした。

多分、木棺が腐り、水や土が流れ込んで、空間ができたのではないかと思います。

なお、木棺には、タンスにあるような金属製の取っ手が付いており(まだ片側だけの確認でしたが)、木棺はその目的のために作られたのか、ほかの入れ物を転用したのかは今の所不明だそうです。

墓の上などに石を置く、また、その規模等から考えて、時代的には庶民の墓ではないことは言えるという事で、かなり身分が高い人の墓だといえるという事でした。

新聞社の質問に答えていましたが、墓の形は日本型であるが、まだ、調べてみないと分からない。日本型だと六文銭(三途の川の渡し賃)が入っているかも。キリシタンの墓なら、副葬品はほとんど何も入れなく、身に着けていたもの程度のもので棺に入れるそうですから、これから何が出てくるのか見守りたいものです。

なお、骨が出てきた場合は、一応ストップして、骨関係の専門家に調査を頼むそうです。

まだまだ昼は暑い中、調査は続きますが、ほとんどの方が、長期のボランティアという事で、大変だとは思いますが、「千々石ミゲル」の謎が解けるかもしれず、あと一息頑張っていただきたいと思います。





2017年8月31日 (木)

出た~!★「千々石ミゲルの墓と思われる墓碑」

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今日は、南串山町の児島に調査の予定だったのですが、朝から電話があり、台風のせいか波が荒く、船が渡れないので中止。天気晴朗なれども波高し、です。

で、昨夜「千々石ミゲルの墓と思われる墓碑」から、何か出てくるかも知れないと聞いてはいたのですが、今日の新聞に載っていて、急遽こちらの方に出かけてみました。


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左の写真、左の矢印に行くと現場ですが、立ち入り禁止です。ただ、階段の横に、進捗状況が分かるように、毎日の記録が貼ってありますから、状況が良く分かるので便利です。

現場には入れないので、右の道に進み、左に曲がり。畑に入る道で見学ができます。大きい矢印の所です。


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今回が3回目の調査になります。1回目が、土で埋まっている基壇の掘り出し。2回目が、多分埋まっているだろうと思われる所を掘りましたが、どういうわけか石ころばかりが出て、これ以上掘ると、大きな墓碑が不安定で危なくなると中止。

で、今回は墓碑を移し安全を確保し発掘。3回目になります。


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で、私、用事があったので、途中で帰りましたが、その後に上を覆うような「板状の石」が出てきたそうで、多分、明日開け見る予定だそうです。

少しばかり、空洞になって、その下は土が埋まっているという話でしたが、棺桶が腐り、土が入り込んだと思われるそうです。NHKでその様子が映っていて、もう少し見ていれば良かったなと、誠に残念。

明日、調子が良かったら行っては見るつもりですが・・・・また、状況が分かったら書いてみたいと思います。


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余計な事ですが、場所が分からない方のために。
多良見町に「たらみ図書館」があります。左の写真右に行くんじゃなく、大きな矢印の方にまっすぐ進みます。

もう良いんじゃない、という頃、「長与、長崎方面」と「時津」の分かれ道に出ます。時津も良い所ですが、ここは、「長与、長崎方面」に向かってください。


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帰りに見たら、少しばかり早道がありましたが、まっすぐ行くのが無難でしょう・・・「長与、長崎」方面の33号線(だったかな?)を行くと、右のような看板があるので、矢印の方向へ。「わ~!」というほど大きくないので注意してネ。

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しばらく行くと左のような所があり、案内の標識がありますので、橋を渡ると。


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また、標識がありますが、見にくいので、注意して。矢印に従っていくと、小さなレンガ造りのトンネルがあります。トンネルはくぐらないで、手前の坂が目的地です。以上、間違わないで行ってネ。駐車場ですね。皆さん路駐みたいでした。


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なお、土曜日、日曜日は作業がお休みだそうで、多分、立ち入り禁止で、掘った所は保護のためシートを被せると思うので、見られないかもしれません。




2017年7月 8日 (土)

「和銅寺・竜造寺隆信の墓碑」について書き忘れた2,3の事~諌早市高来町


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先日、和銅寺と竜造寺隆信の事を書きましたが、暑さのため書き忘れていたことがあるので・・(^-^;

竜造寺は島原の沖田畷の戦いで、有馬・島津連合軍に敗れますが、この人数については、「隆信公御年譜」「北肥戦記」「藤原有馬世譜」等々の文書(もんじょ)について違いがありますが、竜造寺軍が5万~6万、連合軍が6千~1万。

このうち島津からは1,500~3,000名が援軍に来ます。少ないようですが、島津は大友家から狙われており、そう簡単には動けません。この、軍勢の差ですから、有馬・島津軍が不利なのは言うまでもありません。下記のような布陣であったそうです。赤丸印が「竜造寺隆信」

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       (「島原半島史~林銑吉著」より)

このあたりは、昔は田んぼであったそうで、あぜ道を歩くよりほかはなく、前と横から攻められると、後ろからは大量の味方の軍が来るので、回れ右で逃げるわけにはいかず、田んぼの中に行っても足を取られ、思うようには動けずということで大敗します。

竜造寺公は「島津ノ家人大ノ男黒糸ノ鎧着テ太刀ヲ持抜持、隆信公ノ御前ニ来ニ来リ、蹲踞シテ申ケルハ、某島津ノ家人河上左京亮ト申ス者ニテ候山城守隆信公ト見請候、御介錯ノタメ参リテ候ト申シケレバ、隆信公月ヲ見テ指サス事ナカレ、汝ハ大将ノ首ヲ取ル法ヲ知レリヤト被仰、左京畏テ一礼頓首シテ則首ヲ討奉ル。御歳五十六。天正十二年甲三月廿四日未ノ刻後生害也。・・・・」ということで、隆信の首と胴はバラバラになってしまうわけです。

➀首の事

首は、島津義久が検視をし、佐賀に送られますが、隆信の親戚家老鍋島直茂が、受け取るのを断わります(「直茂は『不運の首此方へ申請(もうしうけ)ても無用の事なり、何処になりとも捨て置くように』と仰せられたそうです。:『竜造寺家と鍋嶋直茂・市丸昭太郎著』)。で、この首を持って行ったり来たりしたのが、「河上助七」とか、「町田」になっておりますが・・・

て、首を持ち帰るとき、竜造寺領と島津領の境、高瀬川にかかったとき、首が急に重くなり動かなくなったので、願行寺に葬られ墓をたてられたそうです。「法名宗阿弥陀仏と号す。」ということだそうです。

②胴体の事について

これは、看板にも書いてありますが、「薩龍家譜」によれば、「隆信公戦死ト聞ヘレバ、龍泰寺大泰寺和尚早速島原ノ御戦場に赴キ、御尊体ヲ湯江村ノ和銅寺ニ於テ、御骨トナシ奉リ、其霊骨ヲ頸ニ掛ケ、持帰リ奉ル、御法名龍泰寺殿泰巖宗龍大居士、又信隆院殿トモ、後ニ法雲院ト称シ奉ル」ということで、首と体は別々の所に葬られる事になったわけです。

あとは看板に書いてある通り、「火葬のあと地は土をもった塚が造られていたが、明治二年、第十六代領主諌早一学が、自然石の碑を玉垣で囲い墓碑とした。それより百余年墓碑、玉垣が傾き荒れたのを門徒有志により、平成五年十二月に改築された。」ということになります。

ということで、「和銅寺」にあるのは、説明版に書いてある通り、「竜造寺隆信の墓碑」であって、「墓」ではありません。

なお、和銅寺には大位牌が祀られ「法霊院殿五洲大守泰厳龍大居士」と記されているそうです。

また、「ぶらっとさらく島原(島原ガイド)~松尾卓次著」には、「両体は明治16年(1883)年になってやっと、佐賀の高伝寺に合葬されたという。」とあるので、ネットで調べたら、お墓には「山城守従五位下藤原朝臣隆信之墓」となっておりましが、法名は「法雲院殿泰厳宗龍大居士」だそうです。

竜造寺隆信の墓というのは、あちらこちらありますが、ほとんどが慰霊碑と考えた方がよいかと思います。島原、雲仙にもあります。各藩の文書に違いがあるので、アバウトのところでまとめてみました。





2017年6月30日 (金)

和銅寺・竜造寺隆信の墓碑~諌早市高来町

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最近、海を隔てた高来町に興味を持ち、ちょいちょいお出かけをしておりますが、先日、「歴史の道・文化交流推進協議会」から、編集、発行ということで下のようなパンフレットが発行され、只のものなら、なんでも貰ってくる癖せがあるのですが、写真も多く、読むとわかりやすく、名前は以前から知っていたのですが、パンフレットにも取り上げてある、和銅寺に出かけてみました。

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和銅寺には多くの見るものもあり、矢印の所、「下馬」と彫ってあります。昔は馬に乗っていくのは、お侍さん、それも上級武士でしたが、ここで、「馬を降りろ」ということでしょう。お殿様も下馬されたと思います。

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説明版に書いてある通り、行基大僧正が彫られた十一面観音がご本尊だそうですが、50年に一度しか御開帳になられないそうで、ググってみたら、どうも平成20年5月18日に御開帳があったらしく、ですから次は平成70年(年号は変わっているでしょうが・・・私も、この世にいません)になります。

でもってどうしてもご覧になりたい方は→こちらをクリック


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見ていくと、いいですね。石造物がお好きな方にはたまりません。

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梵鐘ですが、片側は漢文ですが、もう片方は多分、梵字かな?全然読めません。

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お寺の本堂ですが、柱の所に仁王様が立っておられ・・・

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まあ、これがすごいのなんのって。このお姿、すごいですよ。ボロボロにもかかわらず、かえって風格と迫力があります。

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こちらが、「竜造寺の墓碑」になりますが。

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説明版です。竜造寺隆信については、いろいろな話が伝わっておりますが・・・

説明版には、居城須古→高来→諌早→神代と陸路を通ったように書いてあり、また、パンフレットの「多良海道を往く」には、「この和銅寺でおみくじを三度引いて、三度とも凶がでて、家臣が諫めたにも関わらず、出陣したというエピソードも残っている」そうです。

が、しかしですね。「高来町郷土史」の、「竜造寺隆信の戦士ー和銅寺の隆信伝説」の所。

「総勢五万七千騎。『信隆公御年譜』によると、「『同月十八日、竜王崎』(佐賀県杵島郡有明海)ヨリ兵船ノ纜(ともづな)ヲ被解』」とあるそうで、これ、「北肥戰誌」にも載っているそうで、調べてみると、「巻之廿八 高來軍竜造寺隆信の戦死の事」に「・・・中にも隆信・政家の佐賀勢は、竜王崎より纜を解き、同廿日に神代(注:対岸の島原半島)著船し・・・」とあります。

この、おみくじ三度の凶、明智光秀と一緒ですね。明智光秀も本能寺に向かう前に、愛宕権現堂でおみくじを引いて、三度、「凶」が出たそうです。

「三」という数字は、世界中好かれているようで、「三匹の子豚」「三年寝太郎」「三本の矢」「三匹のおっさん」「三匹のやぎのがらがらどん」。どうしてでしょう?
前にも書きましたが、「白雪姫」も三度殺されています。毒リンゴでいっぺんに殺したのは、ウォルト・ディズニーというおじさんでした。


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パンフレットに「和銅寺を下った所に、山伏が彫られた貴重な石碑を見ることができる。(中略)どこかユーモラスな雰囲気も漂う・・・・・」と書いてあって、探しましたが、多分下の石碑かな?ただし、「山伏」は彫られていませんでしたが・・・何か特別な石碑の感じもしましたが・・・間違っていたら、ゴメンチャイ m(_ _)m

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