祭り

2018年10月20日 (土)

「温泉神社秋の大祭」★千々石町&「ロマンスウェデング」★愛野町

Photo_2

今日は千々石町温泉神社の秋の大祭、愛野町のロマンスウエディングが重なり、おまけに講演会が重なり、講演会はカットで、朝から祭り、昼から結婚式と回ってきました。

写真を撮っていると、カメラを持っている人同士なんとなく話をするもので、あちらの町、こちらの町でも祭りを止めたとかで、これでは、近い将来全滅するのではないかと心配です。

祭りは、村の鎮守の神様に奉納するもので、最近はイベント盛りで、ただ、面白い、きれいだというだけで、バックボーンがない気がします。単なる、観光客目当のイベントばかりになってきた感じです。

祭りは、夏頃から準備、練習をしますから大変です。昔は農家が多かったので良かったのですが、最近はサラリーマンが多く、市外通勤をしていますから、時間が取れない方が増えています。おまけに少子化、高齢化社会。

浮流の太鼓、笛の音、神社の境内にピッタリ。


Photo_3 2_2

踊り終えた子どもたちですが、小さい子ども沢山もいました。良く合っていました。練習をかなりやったのでしょうが、このようなことも地域作りになると思うのですが・・・・

3_2

婦人部の踊りです。こちらも、練習の成果ですね。💮(はなまる)です

Photo_5

神事が行われているとき、各地区に分かれての記念撮影。各地区の公民館に行くと良く飾ってありますが、あ~俺もこんな若いときがあったのか、などの記念になります。

2_4 Photo_7

そうこうするうちに、福石公園の御旅所までの行列。今年は野田名の当番。途中、要所、要所で浮流、踊りなどの披露をしますが、歩くだけでも大変な距離です。

Photo_8

この後、役員さんが神器を持ったり、若い衆が御神輿を持って最後を歩いて行きました。

昔は、担いでいったそうですが、今は台車に変わりました。高齢者の方と話をしていると、昔は「回せ、回せ」といって、神輿を回していたそうですが、台車では無理ですね。

2_6

3_4

さて、昼メシを食って愛野町の「ロマンスウェディング」に行ってきました。

Photo_12

愛野町の教会で挙式を終わり、愛野駅に着いたのが午後1時。新郎、新婦それなりの方なので、少し車が窮屈だったか?

たむろするマスコミの記者。類は友を呼ぶか?いつもは他人を撮ってばかりなので、たまには撮られるのもいいでしょう。視聴料をとっている某TV局の方もいます。


Photo_13 Photo_14

小浜中学校の吹奏楽部、お祝いの演奏。今年もマーチングバンドで、全国大会に出場するそうです。

Photo_15

東京から駆けつけた「日本ロマンティスト協会」の会長さん。右が、「ロマンスカップル」の認定書です。

Photo_16 2_7

今年は、小浜高校生がボランティアで参加したそうですが、小浜高校のフラダンスチーム。確か、初めてだったと思います。

Photo_18

お馴染みになった「あいのん」と、「鯉駅長のさちゃん(島原鉄道のマスコットキャラクター)」、愛野保育園児による「あいのん体操」。

結婚式で最初の夫婦の共同作業と言えば、ケーキカットですが、ここでは「ハッピーバルーン」。大きな風船の中に、小さな風船が入っていて、おおきな風船を破ると、小さな風船が飛び出てきます。


Photo_20 Photo_24

これ、キレイですよ。そのほか、いろいろあったのですが、カット。

2_9

時間になったので、ホームへ。ところが、向かいのホームが次の吾妻町行きになるので、線路を渡って行きますが、新婦さん大変。

Photo_26 Photo_28

特別列車です。

Photo_29 2_10

「愛の駅」の次が「吾妻駅」で、「愛の(いとしの)吾妻(わがつま)」になり、次の吾妻駅でもイベントがあっています。

Photo_31

祭りの演芸会が午後3時からで、回ろうと思ったのですが、今日は体調が悪く、家に帰ったらバタンと倒れ、そのまま5時まで熟睡。歳ですね。

若いお二人はいつまでもお幸せに。



2018年10月 7日 (日)

「温泉神社秋の大祭」人数(にい)揃い~雲仙市千々石町

Img_4246_2

今日は長崎では「くんち」の一日目で、あちらこちらのTVで放送をしていました。

用事があり、帰りがけ何か神社の方で音がするなと思ったら、人数揃いでした。行ったのが遅かったのか、浮流は終わりかけ。

いつも書いていますが、千々石には7地区の名(みょう)があり、毎年、順番に秋祭りの担当名になります。7年1回の順番です。

話をしていたら、今年の当番名、以前は50名ばかり子供がいたそうですが、今は10名程度だそうで、はやり少子化ですね。

Img_4248 Img_4249_2

女性部の道踊りの練習。以前から練習をしていますから、ぴったりあってますね。

Img_4255_2

子供浮流の女の子ですが、カッコいいですね。手に持っている白いものは、演舞をするとき頭にかぶります。

Img_4265_2

とにかく7年に一度ですから、手順の確認が大変で、しかも7年前の祭りの役員さんは歳をとっていて、思い出すのも大変でしょう。私も、今日食べた夕食のおかずを思い出せないほどです。

特に祭りの役員さんは、出演する方の家を回ってお願いするので大変です。おまけに、長丁場の練習。

今年の祭りは、20日(土)~21日(日)になります。数年前までは、一日目がお下り、二日目が演芸会、三日目がお上りだったのですが、皆さんサラリーマンが多くなり日程がとれなくなったのでしょう。

今年の当番名は前回、前々回が雨だったとか。3度目の正直で。今年は晴れになってほしいものです。役員さんも最後まで、気が抜けませんが、良いお祭りにしてもらいたいと思います。

田舎の祭りも良いものですよ。皆さんもお越しのほどを。




2018年9月 5日 (水)

今日は⑱禁・豆本「日本一の大摩羅づくり★田縣神社木匠・斎木国光翁聞書」~中井文雄著

Dsc_0478_2

今日は、●とか■無しでモロ書きますから、一応⑱禁にします。18才以下の方は絶対に読まないように(読むように煽っているようですが、一応、形ばかりの注意です。)

この、大麻羅(大摩羅?なのか、一応本の表記に従います)。愛知県小牧市田縣神社の豊年祭として使われるものですが→詳しくはこちらをクリック。 できれば、見ない方が良いと思います。いきなり、デッカいのが出てくるので、男の方は自信をなくすカモ。

上の本は、豆本でライターの大きさと比べれば、その小ささが分かると思います。この豆本は祭りの事では無く、この大麻羅がどのようにして作られたかを書いた物です。ただ、1981年の出版で、今とは違っているかも、です。

スキャナーの調子が悪く、うまく取れませんでしたが、素材は天然の木曾檜、樹齢2,3百年。もちろん良質で根っ子に傷がキズがなく張りのいいもの。全長2,5㍍、木口が40センチ以上。

Img_20180904_0005

下の方が「おわせ」師(「おわせ」は男根型を指す古語だそうです)斎木国光氏、明治45年生まれ、大工奉公をし、年季明けの21才で一本立ち。

彫り物細工が上手だということで、昭和18年より、有志の木匠2,3人と共に「おわせ」師として奉仕。

その後、昭和24年より、スーパーLサイズになり、以後、斎木の単独制作。

制作の順を、長いので、ざっと書くと

3月7日 手斧入式・神社での浄めの儀式。

3月8日 作業第1日目・面白いのが「斎木さんはいう。『一晩じっと眺めておると自然に木の中からお姿が浮かんでくる、割り出しは多少のちがいはあるが、まずカリ(注:一番先っぽのところ、わかりやすくいえば亀頭)の部分が五分の一、棹があとの四ということになる。ワシはそれを鑿と鉋でとりあげさせてもらうだけのこと』」。

「木の中からお姿が浮かんでくる」、良い言葉ですね。日本人と自然、神様の繋がりが感じられる、謙虚な言葉です。

3月9日 大体の形ができます。

3月10日 御神体の裏側、鈴口と言われるところが難しいらしく、「雄渾を表現する腕のみせどころ」

3月11日 細部の仕上げ

3月12日 サンドペーパーを使い、檜材の木目を出す。朱と黄土を混ぜ合わせた絵具で塗り、乾くのを待って艶出しのニスをかける。

3月13日 「ニスを掛けると塗色の乾いた絵具が艶やかに蘇えり、亀頭の部分もてらてらと輝きわたって、いかにも大麻羅にふさわしい生気さえ感じさせる」。あと、幌布をかけて、御休息。


Img_20180904_0001

下が出来上がり。小さいのは昭和32年の御大祭から、地元の厄年の女性が抱いて行列に加わるそうです。

3月14日 神明社へ運び込み、明日の大祭を待ちます。

3月15日 「おわせ」神輿が担ぎ出され、田縣神社へ。


Img_20180904_0006

ところで、御神体だから、次の年まで保管されると思ったら、信者さんから、お受けしたいとのことで、厳選のうえ”婿入り”を決定するそうです。この本が書かれた時分、少なくとも50万円。また、「客寄せの見世物に扱わぬよう、直接の人目に触れぬよう厳かに奉安することを条件にしている。」そうです。

また、「”おわせ”といっても男根そのものの姿であるから愛知県教育委員会の審議を経て知事の許可をもらう、形式とはいえ手続きがある。」と、折り目正しいものです。

下の写真は、Wikipediaから拾ったものですが、先っぽがテラテラして、素晴らしいですね。男性の方は、自分のと比べないように。自信、無くします。

Photo

この男根を使った祭りは他の所にもあるそうですが(ネットで調べてネ)、多分、五穀豊穣を願ったものでしょう。

「祭」がイベント化し、商業化してきている時代、なんとなく、良い感じの祭りですね。

なお、「道祖神」としても、あちらこちら見受けられ、ウチから30分ほど車で行ったところに、3ヵ所ばかりあますが、こんな大きなものは初めて目にしました。
しかし、こんな大きな物をぶら下げていると大変だろうナ。




2017年10月16日 (月)

2017 温泉神社秋季例大祭~当番名・木場名

Photo

以前にも書いたように、千々石には7つの名(みょう)があり、毎年、各名持ち回りで祭りの当番名になります。

木場名の岳地区というと棚田が有名で、米がおいしくウチも一年分玄米で買って、家庭用の精米機で精米をして食べていますが、水がきれいなところなのでおいしいですよ。

祭りは7年に一回ですが、当番名は夏頃から練習を行い、大変です。祭りは昨日の日曜日でした。

大体、秋祭りというと、青空が広がりいい天気なのですが、この日は雨。前の夜から、ひどい雨が降っていたので大丈夫かなと思っていたら、朝からも雨が止まず、奉納踊りをする場所もべちゃべちゃ。


4 Photo_2

昔は、おみこしは担いで御旅所まで行っていたのですが、最近は左の道具の上におみこしを載せて引っ張っていきます。
が、今日は雨がひどく、ご覧のようにシートを被せて御旅所までトラックで運送。


2 3

奉納踊りは、木場地区の第2小学校体育館で開催。さすが、ピッタリ息があっています。できれば、御旅所で見たかったのですが・・・・

Photo_3

後ろ姿も良いですね。

2_2

太鼓も見ていると大変です。笛は縦笛を使っていましたが、横笛より楽なんでしょうか?

Photo_4 Photo_5

木場名には、桂之迫(かつらのさこ)、飯岳(いだけ)、高野、西中組、東中組、己ノ鍔(みのつば)、白仁田(しろにた)、下岳(しもたけ)、上岳の9つの地区があり、各々記念写真を撮っていたので、順不同で載せてみますが、人数の違いが分かりますね。一番下の写真は役員さん方です。

Photo_6 2_3

3_2 4_2

5 6

7 8

9 10

帰りがけ、福石公園の御旅所に寄ったら、かなりの水たまり。

2_4

神様も寂しそうで、奉納踊りを見たかったものだと思いました。

Photo_7

【付録】
昼食を食べる暇もなく、出演者のお弁当を見ていたら、一ついただきました。感謝いたします。右は、かの有名な「ひまわりテレビ」さんで、カメラマン、アナウンサーその他いろいろやっている、年齢不詳の美女さんです。


Dsc_0317 Photo_9




2016年10月22日 (土)

2016「温泉神社秋季例大祭★演芸大会」~雲仙市千々石町


Photo

今日は、千々石の氏神様、温泉神社の秋季例大祭。本来は奉納踊り、神事、御旅所まで神輿などを行列しながら行くのですが、あいにくの雨。

行列は無しで、神輿等は車で運ぶとか。で、どうするか連絡が全然入らず、町内放送でもあるかと思ったら、町内放送は宗教に関する事なので
×だと。祭りというと、年に一回、町内の人が集うのに、なんとなく釈然としません、ネ。

千々石町には7名(みょう)あり、順繰りに当番町が回ってきて、7年に一度の担当になります。今年は小倉名の当番で、小倉名は、神の下、森場、白津、野取と4つの自治会から成り立っています。以前、私もちょうど班長で、役員をしたのですが、祭り行事は大変な事だったことを覚えています。

余談ですが、一番の写真の鳥居、以前にも紹介しましたが、熊本地震の影響だったのか、「貫」という横棒の所が落っこちています。修理しないのかと思って話をしていたら、発注はしているが、日本には石がなく外国に依頼をしているとか。考えれば、私の家も墓を建てましたが、石屋さんの話では、日本には良い石は手に入らず、中国とかインドあたりの石を使っているとかいう話で、私の家の墓は中国からの石です。

幟があちらこちらに立てられ、演芸会場まで作ってあったのですが、演芸大会は急遽公民館での開催。
  
Photo_2 Photo_3

放送も連絡もなかったのに、千々石の人口より多い観客。

Photo_4

久しぶりの童謡メドレー、会場も、お年寄りの方が多いのか一緒に歌っていました。「じゃが畑」。千々石はじゃがを沢山作ってます。稲刈りが終わる頃なので、もうすぐ、じゃが作りが始まります。

Kns Photo_5

フラダンスに、6歳の女の子の「島原の子守歌」。なかなか、舞台度胸がありました。

Photo_6 Photo_7

小倉名の子供による、元気な「ちびっ子ソーラン節」。

Photo_9

スマホでとる方が増えました。カメラ片手にウロウロしているのは、私くらいのもの。カメラ、八ミリ(と言っても、若い方は名前くらいは知っているかな?)からビデオカメラ、そして、今、スマホ。時代は変わります。もっとも、子供の出番をとると、すぐに帰られましたが・・・・

2 Photo_10

小学生6年の「舞鶴城」。踊りの先生に習っているようでしたが、なかなかのものでした。80歳のおばあちゃん、昔、日舞を習っていたみたいで、足腰はしっかりしていますね。


Photo_11 Photo_12

「天正少年遣欧使節」の一員「千々石ミゲル」を題材にした「千々石清左衛門賛歌」だったかな?正式名称をカミサンに聴きにいったら、お眠りでした。
奉納踊りですから、何かないことには、7年に1回しか見られない踊りです。

Photo_13

家族で出演もいいですね。なにか、寝ている子もいるようですが。ゆかいな仲間たちの「権兵衛さん」。

Photo_14 Photo_15

カラオケ。皆さん気持ちよく歌っていますね。主演者に「先生と生徒」と書いてあるところをみると、でしょうか?
右の赤丸印、カンニングペーパーです。仮面をかぶって歌っているせいか、ディスプレーの文字が見えにくいのでしょう。


2_2 3

千々石の五木ひろし(寛之ではありません)の「夜明けのブルース」。韓国服での「珍島物語」。着ているものは、本物の韓国服だそうです。演技はまだまだあったのですが、きりがないので、これくらいで。

4 Photo_16

最後が餅まきで終わりましたが、「餅まき」というと、日本人の血が騒ぐみたいで、大騒ぎでした。

帰りがけ、御旅所に寄ってみたら神輿などが運んであり、雨が降り、下が水浸しにもかかわらず、三々五々お参りの人が来ていました。


Photo_17 2_3

明日のお上りも雨模様で、心配ですが、夏頃から始めた練習が、せっかく作られた舞台の上で演じられなかったのが残念でした。






2016年8月17日 (水)

「お地蔵さん★地蔵さん祭」~雲仙市千々石町

2_2 Photo

昨日、ブログをアップしようと思ったら、「インターネットにアクセスできません」という事で、記事が全部パーになり今日書き直し。です。

以前「お地蔵さん祭」の事を書きましたが、4月ばかりと思っていたのですが、千々石川のあたりを通っていたら、何やら人だかりがしていたので、寄ってみたら、「お地蔵さん祭」でした。

この、上塩浜自治会では、川を利用して、こどもの日は鯉のぼりの飾り付け、七夕の時は七夕の飾りつけ、特に、クリスマスの時は、手作りのキャンドルが川に光が反射して、素敵な風景が楽しめます。

いつもは、吹きさらしのお地蔵さんですが、今日は日よけのテントも張ってもらい、お供え物がたくさん飾ってあって、楽しい一日だったでしょう。

話では近くの下塩浜の公民館でも、祭りをしているとか。行ってみると、榊が置いてあって、たぶん、神事が終わったところだと思います。「さっきまで、鯛や野菜が飾ってあったとばってん」と、来るのが少し遅かったみたいですが、このお地蔵さんも普段は外においてあるのですが、今日は一番の上座。

で、他に祭りがないか、町内を少々回ったのですが、残念ながらここの2か所だけでした。回ったついでに、写真を撮ってきたので・・・


Photo_3 Photo_4

「大操子(うぐるす)」のお地蔵さま、キリシタン地蔵だといわれていますが???
専門家の話では「くるす」の地名は、キリシタンに関係があるところが多いとか、ですが、今のところ実証はできていません。

「昭和54年 千々石郷土史」の「珍しい千々石町地区名の由来(一部)」に「うぐるす」として、「初春、うぐいすのきれいな鳴声が聞かれるところ。」とあり、平成10年の「千々石郷土史」の方言のところに「ウグユス」として「うぐいす」と書いてあり、「うぐるす」と「ウグユス」。どうも、こちらのほうが分かりやすいのですが・・・

「大操子」の漢字については、小字を地図につけるとき適当につけたのか、他に本来の意味があるのかはわかりません。

ただ、ちぢわでは「大(お・おお)」が「う」の音に変化することがあり、高齢者の方では、「大堀(おおほり)」を「ううぼり」、「大迫(おおさこ)」を「うーさこ」などと発音し、「大操子」も標準語でいえば、「おぐるす」ではないかと思うのですが、昔の資料がないためわかりません。


Photo_5 2_3

こちらは畑で、自然石の野面積みの石垣でした。新しく石垣を組みましたが、お地蔵さんをちゃんとお祀りするよう工夫してあります。お地蔵さんを大切にする気持ちが伝わってきます

Photo_7 2_4

柳原水源。ここの水はおいしいので、たくさんの方が利用をしています。
右の石祠。向かって右側に、「文化十癸(みずのと)酉(とり)七月吉兆日」。文化十年は1813年ですから、今から203年ほど前の石祠と、多分水神様だと思いますが、この湧水は随分前から湧いていたものだと思われます。

左側には、「願主 小田喜三治長近 石工 南有馬村 九郎治」。南有馬村というと随分離れているみたいですが、千々石庄屋との関係があり、これは、少し調べて、また報告を。


Photo_10

なお、丸印の部分、布がかけられ上しか分かりませんが、梵字の「カ」かと思われます。地蔵菩薩、閻魔王等を表す文字らしいです。下の部分は、4月の地蔵祭りの時にでも・・・

4 5

こちらのお地蔵さんの特徴は耳が大きいこと。お金を随分貯めているのでしょうが、私もあやかるように、お耳をナデナデしてきました。

Photo_11 2_5

いつも二体で仲良く並んでいるお地蔵さん。うらやましいですね。ウチもこんなにあればいいのですが・・・・
右はきれいな花だ、と思ったら造花でした。この暑い日、生花だと3,4日も持てません。ウチの墓の供花も夏場は造花を使っています。


2_6 Photo_12

いつも三体並んでいますが、なんとなく「とと姉ちゃん」の仲良し三姉妹を思い出します。
右は新しい地蔵さんみたいですが、土台の石が上の地蔵さんとマッチして、もう少し年月を経るといい感じになるみたい。


Photo_13 2_7

お隣の諫早市有喜町では祭りをしてないか、行ってみましたが残念でした。
しかし、このお地蔵さん工夫してますね。聞いたところ、ここくらいまで海が来ていたとのことでした。いつも綺麗にしてあります。


2_9 Photo_14

お地蔵さんと親しまれていますが、本名「地蔵菩薩」。お釈迦様の亡くなった後、弥勒菩薩が現れるまでの56億7000万年、現世に仏様が不在になるので、その間、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を輪廻して、我々、人間を救ってくれる菩薩様です。

あちらこちら見ながら、お地蔵さんが私たちに一番身近で、親しまれている菩薩様だと感じたものでした。





2016年8月 6日 (土)

2016 「第9回 ちぢわ ふるさと夏祭り」~雲仙市千々石町


Photo

今日は朝から体調がすぐれず、といっても「夏祭り」なので出かけてみましたが、まじ暑っ。

2,3、年前だったか、神社で開催していたのですが、場所が狭く、駐車場が狭いことから、海岸の福石公園で開催。合わせて、虫よけ祭、夏越祭り、七夕(コンクール)。

七夕と言ったら短冊に、「(失礼)字がうまくなりますように」とか、「頭が良くなりますように」とか、「女にもてますように」とか書いていたのですが、金メダルの下に選手名が書いてあるのを見ると、オリンピック選手の活躍を祈ったものでしょう。最近は、ずいぶん変わってきました。

3 4

もちろん、茅の輪くぐりもあります。ちゃんと二礼二拍手一礼。

Photo_2 Photo_3

がんばちゃんも、「ねんりんピック」の宣伝活動。らんばちゃんが来ていないのが気になります。ただ、この暑さの中、着ぐるみの中は地獄かな?

会場で、お土産を貰いましたが、警察からなのか、「拳銃110報奨制度」とか、「出会い系サイト」の注意とか、「振り込め詐欺の注意」の中、赤丸印、犬の格好のものが入っていて、片方がボールペン、もう片方がスマホ用のタッチペン。これ、便利なので使う事にしました。でも、おまわりさんの事を「犬」と言うのは、差別用語なのですが、いいのかな?


Photo_4 Photo_5

出店、といってもほとんど地元のボランティアの方なのですが、

Photo_6

最近は、カブトムシが少なく、形も小さくなってきたとか。婦人会の「美熟女」の面々、米粉カレー。

Photo_7 Photo_8

餅まきですが、最近はお菓子まで混ざって・・・・

Photo_9 2

肥前千々石鉄砲隊の演技。

Photo_10

千々石中学校吹奏楽部の「御神楽」。イベントには欠かせないものになりました。一年生が4名入って、今日が初舞台とか。男の子も一名入っていました。
棚田で有名な、第2小学校の「棚田へ行こう」。

Photo_11 Photo_13

下峰児童館。保護者、先生と一緒に「ハッピーチュルドレン」。なんか、お父さんテレてますね。
千々石第一小学校「ソーラン節」。すっかり、お馴染みになりました。


Photo_14 Photo_15

大人、子ども混じっての、「千々石音頭」。

Photo_16

と、見てきたのですが、ここが私の限度で、とにかく暑い。暑いというより熱い。ということで、会場を後にしたのですが、この後もいろいろあり、プログラムを貼っておきますので、ご参考までに。

2_2

で、会場を出ようとしたら、長崎の「名物アイス」があったので、久しぶりに、食してきました。

Photo_17 2_3

福石様に、数年ぶりに注連縄を張ったら、写真を撮りに来る人が増えたとか。少しひねって、裏側からとってみましたが、後ろに見える連なった山並みが、「千々石断層」で、千々石も災害が心配な所です。

秋になったら、きれいな夕日がみられるので、カメラ片手に、是非お越しください。感動しますよ。

Photo_18





2016年4月28日 (木)

2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事③~長崎県雲仙市吾妻町

Photo

また、昨日の続きです。


吾妻町史を参考に三體地蔵の事を書いたおり、「
南北町時代は野井城(愛野

町)、飯岳城(千々石町)の戦いに南朝・北朝の軍勢が、何回となくこの古道を往

来(いきき)している。」と書いてあり、この部分に少し興味があり・・・


これも、以前、飯岳城の事を書きましたが→こちらをクリック 。上の写真が「飯岳

城」の跡です。


「長崎県近世城館跡分布調査報告書Ⅱ(長崎県教育委員会刊)」において、「飯

岳城」、「(6)歴史」の所に「南北朝の1372(文中元年)ごろ、九州探題今川了俊

が千々石浜に侵略、城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷いてこれを

防いだ。」とあり「文献」として「古文書・・・北肥戦誌」としてあります。


この時期は南北朝時代で、九州、島原半島もこの争いに引きずり込まれるので

すが、書けば本一冊分になるので、ざっくり書けば、島原半島の豪族は、宮方

(天皇側南朝勢力)に、多比良、神代、西郷。九州探題一色範氏を中心とした武

家方(幕府北朝勢力)に有馬、安富、伊佐早氏に別れるのですが、(参考・千々

石郷土誌)、島原半島の有明海側が宮方になります。有明海を挟んだ熊本に、

朝方の菊池氏があり、「肥前有馬一族~外山幹夫著」によれば、「・・彼らが有

海を通して、一衣帯水に肥後国に接し、同国における南朝の有力な支柱に気

を通ずることができる状況にあったと思われる。」という事のようです。


さて、「北肥戰誌(九州治乱記)」によると、千々石関係では「同三年(觀應三年・

北朝にて使用の年号・1352年)壬辰二月、探題一色入道獻、肥前國高來・彼杵

お宮方退治として、小俣少輔七郎氏連を差遣わす。氏連先づ彼杵へ打越え、矢

上の城入りて、高來の味方を相催すに、有馬・安富以下の武家方共、閏二月

十六日千々岩の津へ馳せまいる。氏連、同十七日千々岩へ陣を移し井(現愛

町野井)の城を攻め、又西郷次郎が杉峰城をせめて合し、三月二日、神代へ

打ち通るの時、西郷出会ひて相戰ふの間、安富深江孫三郎泰治等、散散合戦

し、西郷を追拂ひ、氏連暫く國府へ帰陣す。」とありますがイメージ的に捉えると

下のようになります。

Photo_2

緑の矢印が有明海干拓の堤防。①が飯岳城、②が千々石海岸、少し右側に、島

原藩の郷倉があったところで、ここから船で島原まで年貢米等を運んでいまし

た。ここらあたりが「千々石の津」に当たるところでしょう、地名も「南船津」になり

ます。③が野井城があった愛野町、④が「三體地蔵尊」がある所、⑤が神代。④

と⑤の間に西郷氏の杉峰城があります。


上の地図、正確な場所が取れないので、大体の所で、あくまでイメージとして、と

らえてください。


なお、もう一ヵ所「應安(南北朝の時、北朝にて使用)六年癸丑(1373年)三日、

初、探題今川入 道了俊・太宰右衛門佐頼泰、彼杵軍へ發向し、伊佐早・宇木

(現在の諫早市有喜)の兩城を攻めけるに、城主伊佐早右近五郎・西郷藤三郎

やがて降参す。了俊・頼泰、その後高來へ打越え、七月七日、神代(現雲仙市国

見町神代)、大隅を攻め、九月六日、千々岩に至り濱手に於いて、宮方の輩と打

戰ひ、一戦に利を得柏崎に陣す。」とあります。(千々石岩は千々石の事です。)


さて、ここで、県の報告書では、「城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷

いてこれを防いだ」とありますが、この「林田隠岐守」が誰であるか、千々石町誌

には載ってなく、吾妻町史には、二ヵ所ばかり書いてあり、「南北朝時代には(日

本城郭大系新人物往来社)、林田隠岐の名が見え、林田氏は南朝方に属した

為、しばしば北朝の進攻を受けている。」とあり、もう一ヵ所は「昭和八年刊行長

崎県庁内長崎県史談会発行『長崎県郷土誌』」に「文中二年(1373年)、九州探

題今川貞世の軍が島原半島に攻め入り神代山田(朝廷方)を攻略した時、千々

石村民は、神代山田軍に呼応して、千々石の戦を開いた、主将林田隠岐守は、

飯岳の丘陵に塞を備えて防いだが、遂に敗れた」と記してあるそうです。


で、「肥前有馬一族」には、「『藤原有馬世譜』一は、続いて峯・鬼塚・馬場・林田

の四氏を『有馬の四天王』と呼ぶが、彼等は始終有間(有馬)氏に従ったものとす

る。」とあります。が、「島原半島史~林銑吉著」の「藤原有馬世譜」の部分を読ん

で見たのですが分かりません。この林田が「林田隠岐守」なのか誰なのかは?で

す。


でもって、考えてみると、攻めてきたのは武家方であり、「林田隠岐守」が有馬家

の家臣なら、有馬家氏も武家方であり、同士討ちになるなと。


おかしな、と思いながら、「肥前有馬一族」読むと、「動乱当初有馬氏は北朝につ

いた。しかし、その後暦応元年(一三三八)十一月、肥後の菊池武重が力を得て

筑後に発向した。佐竹氏義以下の者は敗走した。この時有馬彦五郎入道は竹重

の南朝方に転じた」(『歴代鎮西要略』三)、とあり、これなら「林田隠岐守」が有馬

家の家臣で、千々石の防禦をまかされた可能性も十分に考えられるなと言う事

すが、残念ながら、資料がないので、詳細不明ですが。


もう一つ、大正七年発行の「千々石郷土誌」には、「千々石村飯岳ノ東方ニ丘陵

アリ郷民称シテ城山ト謂フ 往昔城塞ノアリシ所ニテ林田隠岐守ト云エル人城主

ナリシト云エドモ史蹟詳ナラズ・・・」とはありますが、有馬氏との関係は分かりま

せん。長崎県郷土誌、人物往来社さんは、これを参考に書いたのでは


なお、この時代、城が(山城でしょうが)必要となり、山田城、野井城等々が作ら

れ、千々石にも、野田城、飯岳城が作られたようです。


「吾妻町史」には、「南北朝の頃、度々侵攻した北朝に備えた防禦の山城、
そして

逃げ場ではなかったか。」と記してあり、たしかに、この山に登った時、急斜面ば

かりで大変でした。


後年になりますが「釜蓋城」が築かれ、佐賀の龍造寺が島原半島に侵攻し釜蓋

城は落城しますが、この頃のことを、ルイス・フロイスが次のように書いていま

す。


「有馬殿には小浜という城しか残されていなかったという事実を知らねばならな

い。それは隆信(注;龍造寺)が高来の支配者になるために押さえていた二つの

高来への入口の一つである千々石城に向き合ったところにあって、貧弱、かつ防

施設がほとんどない城である。」


千々石城は、もちろん「釜蓋城」のことですが、「飯岳城」の事が一言も記述がな

いところをみると、「飯岳城」は、吾妻町史に書いてあるように、「北朝に備えた防

禦の山城で、逃げ場だった」、言わば仮の山城ではなかったかと思えるのです

が・・・  

       (これでおしまい。長々と書きましたが、失礼致しました m(_ _)m )

2016年4月26日 (火)

2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事②~長崎県雲仙市吾妻町

Dsc04152

昨日の続きになりますが、この三体尊地蔵の左右に、たくさんのお地蔵さん、石

造物がありますが「吾妻町史」には、「籠堂には『三體地蔵』の石像や、修験道関

係の石造物が多数祀られている。」とあり、雲仙といえば昔は修験道者の修行の

場でもあり、雲仙の麓にも遺跡が所々見られるところですが、多分、右の前列が

そうではないかと思うのですが、祭りで、人が沢山いるので確認できませんでし

た。


前に来た時、気がつきませんでしたが、オッカナイ顔の狛犬さん。台の横に文字

らしきものが彫ってありましたが、残念ながら風化して読めません。

2 3_2

この三體地蔵がある斜め前に、小さなお堂があり、こちらも、三體地蔵。

2_2 Photo_4

ここから、20㍍ばかりの所にも、三體地蔵。

Photo_6 Photo_7

なお、三體地蔵さんが祀られているお堂の横に、下のような場所があり、上は更

地になっていましたが、ここどう見ても、なにかあった後だなと思い、近くの爺様を

つかまえて聞いたところ、目の神様だったか?が祀られていたとか。

Photo_10

ですから、このあたりに多くの地蔵さん、石造物があり、以前のブログ書いたよ

うに、このお堂は、吾妻の山田原というところにありますが、吾妻町史によれば、

「この地は、山田庄の交通要津にあたり、ここから道は放射状に拡がる。古

山田駅に通じる古道でもあり・・・」、とあり、交通の要所であった事が分かると思

います。


「山田駅」とは「島原半島の歴史~松尾卓次」によれば、「大和王権が全国をほ

ぼ統一すると天皇の勢力が強まり中央の豪族をまとめて政治の仕組みも整えて

いった。大化の改新の詔(646年)で政治の骨組みを整えていった。・・・・この時

代には駅が十八ヵ所置かれていて、肥前国府(佐賀県大和町)から出発して長

崎県側に入り、新分、船越(諫早市)、山田(吾妻町)、野取(千々石説と島原説

があり、島原説が有利)の駅へと続いていた。それぞれが駅馬五匹が常置してい

て、国の命令を伝えたり、租などの税を運ぶ道であった。」という事で、昔の交通

の要だった事が分かります。


なお、同書によれば、高来郡の中には九郷あり、「倭名類聚抄(わめいるいじゅう

しょう・平安時代中期に作られた辞書)」、「肥前国第百二十九」の所に、「山田

(也萬多) 新居(爾比井) 神代(加無之呂) 野取(乃止利)」と四ヵ所載ってお

り、それぞれに、「山田、伊古・伊福、神代、北島原(島原か千々石)に当てられ

よう。」とありますが、いずれにしても、この吾妻町の山田が昔の重要な地だとい

う事が分かると思います。


なお、他の郷については「肥前 有馬一族~外山幹夫著」によれば、「肥前風土

記」には前書いたように、九郷あるように書いてあり、「倭名類聚抄」には四ヵ所

しか書いてありませんが、「当時の状況に照らして、その記述を省略された可能

性が高い。」とあります。


さて以前、南北朝時代この古道を通り、千々石の飯岳城から行き来した事を少し

触れましたが、地元の事でもあり、少し疑問の事があるので、又明日。


なお、「三體地蔵尊祭り」は、毎年四月二十四日に開催されているので、特にお

餅を好きな方は、袋を用意してお越し下さい。時間は多分、12時半頃か、11時

半頃になります。ご心配の向きは、雲仙市役所の方へお問い合わせください。

多分、分かると思います。

Img_20160425_0001





2016年4月25日 (月)

2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事①~長崎県雲仙市吾妻町

Photo

え~、今日はPCのご機嫌が非常に悪く、と言っても、悪名高きVISTAを、いまだ

に使っているわけで、速度が異常に遅く、何じゃ分からないエラーが出ておりまし

て、「三體地蔵尊祭り」について、前回気付かなかった事をけ加えたいと思ってい

たのですが、その分は明日にします。

繰り返し、同じ事を書くのは面倒臭いので、前回の分は→こちらをクリック


思えば、3年ほど前にこちらに伺ったのですが、2日前ほど、案内のチラシが新

聞広告に入っており、出かけて見ました。


「祭り」といっても、TVで放送しているような大きなものではなく、田舎
の素朴な祭

りですが、こんな所に日本人の心がうかがえる、と言う感じです。


チラシによれば、「祈祷師・五行満行僧 国見町国寺住職 宮崎泰寛上人」となっ

ていました。


上の写真のように、ズラリと地蔵さんが並んでいますが、真ん中が「三體地蔵尊」

様です。


祈祷の後は、一人一人に「お祓い」。待つ人がズラリ。

Photo_9 3_3

例によって、餅まき。前回来た時もそうでしたが、「これでもか」、という感じで、餅

をまく事、まく事。

Photo_4 2_2

また、拾う人もちゃんと、袋を用意して。私、袋を忘れたのでポケットに入るだけ

入れてきました。子どもも押しのけて、拾ってきました。

3_2 Photo_6

その後、直会(なおらい)。儀式が終わったあと、関係者一同でお神酒、神様のお

え物などをいただきます。チラシには「御接待」と書いてあり、「御接待」なら、

参りしたものも入れるのですが、小心な私としては、横目で見て帰りました。結

なお料理が並んでおりました。

Photo_8

段々と、こういう行事も簡素化されていくのでしょうが、何となく、寂しいニッポンに

なっていくような・・・

やはり、PCの具合が悪いようで、また明日。






より以前の記事一覧

フォト
2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ