祭り

2016年10月22日 (土)

2016「温泉神社秋季例大祭★演芸大会」~雲仙市千々石町


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今日は、千々石の氏神様、温泉神社の秋季例大祭。本来は奉納踊り、神事、御旅所まで神輿などを行列しながら行くのですが、あいにくの雨。

行列は無しで、神輿等は車で運ぶとか。で、どうするか連絡が全然入らず、町内放送でもあるかと思ったら、町内放送は宗教に関する事なので
×だと。祭りというと、年に一回、町内の人が集うのに、なんとなく釈然としません、ネ。

千々石町には7名(みょう)あり、順繰りに当番町が回ってきて、7年に一度の担当になります。今年は小倉名の当番で、小倉名は、神の下、森場、白津、野取と4つの自治会から成り立っています。以前、私もちょうど班長で、役員をしたのですが、祭り行事は大変な事だったことを覚えています。

余談ですが、一番の写真の鳥居、以前にも紹介しましたが、熊本地震の影響だったのか、「貫」という横棒の所が落っこちています。修理しないのかと思って話をしていたら、発注はしているが、日本には石がなく外国に依頼をしているとか。考えれば、私の家も墓を建てましたが、石屋さんの話では、日本には良い石は手に入らず、中国とかインドあたりの石を使っているとかいう話で、私の家の墓は中国からの石です。

幟があちらこちらに立てられ、演芸会場まで作ってあったのですが、演芸大会は急遽公民館での開催。
  
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放送も連絡もなかったのに、千々石の人口より多い観客。

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久しぶりの童謡メドレー、会場も、お年寄りの方が多いのか一緒に歌っていました。「じゃが畑」。千々石はじゃがを沢山作ってます。稲刈りが終わる頃なので、もうすぐ、じゃが作りが始まります。

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フラダンスに、6歳の女の子の「島原の子守歌」。なかなか、舞台度胸がありました。

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小倉名の子供による、元気な「ちびっ子ソーラン節」。

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スマホでとる方が増えました。カメラ片手にウロウロしているのは、私くらいのもの。カメラ、八ミリ(と言っても、若い方は名前くらいは知っているかな?)からビデオカメラ、そして、今、スマホ。時代は変わります。もっとも、子供の出番をとると、すぐに帰られましたが・・・・

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小学生6年の「舞鶴城」。踊りの先生に習っているようでしたが、なかなかのものでした。80歳のおばあちゃん、昔、日舞を習っていたみたいで、足腰はしっかりしていますね。


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「天正少年遣欧使節」の一員「千々石ミゲル」を題材にした「千々石清左衛門賛歌」だったかな?正式名称をカミサンに聴きにいったら、お眠りでした。
奉納踊りですから、何かないことには、7年に1回しか見られない踊りです。

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家族で出演もいいですね。なにか、寝ている子もいるようですが。ゆかいな仲間たちの「権兵衛さん」。

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カラオケ。皆さん気持ちよく歌っていますね。主演者に「先生と生徒」と書いてあるところをみると、でしょうか?
右の赤丸印、カンニングペーパーです。仮面をかぶって歌っているせいか、ディスプレーの文字が見えにくいのでしょう。


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千々石の五木ひろし(寛之ではありません)の「夜明けのブルース」。韓国服での「珍島物語」。着ているものは、本物の韓国服だそうです。演技はまだまだあったのですが、きりがないので、これくらいで。

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最後が餅まきで終わりましたが、「餅まき」というと、日本人の血が騒ぐみたいで、大騒ぎでした。

帰りがけ、御旅所に寄ってみたら神輿などが運んであり、雨が降り、下が水浸しにもかかわらず、三々五々お参りの人が来ていました。


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明日のお上りも雨模様で、心配ですが、夏頃から始めた練習が、せっかく作られた舞台の上で演じられなかったのが残念でした。






2016年8月17日 (水)

「お地蔵さん★地蔵さん祭」~雲仙市千々石町

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昨日、ブログをアップしようと思ったら、「インターネットにアクセスできません」という事で、記事が全部パーになり今日書き直し。です。

以前「お地蔵さん祭」の事を書きましたが、4月ばかりと思っていたのですが、千々石川のあたりを通っていたら、何やら人だかりがしていたので、寄ってみたら、「お地蔵さん祭」でした。

この、上塩浜自治会では、川を利用して、こどもの日は鯉のぼりの飾り付け、七夕の時は七夕の飾りつけ、特に、クリスマスの時は、手作りのキャンドルが川に光が反射して、素敵な風景が楽しめます。

いつもは、吹きさらしのお地蔵さんですが、今日は日よけのテントも張ってもらい、お供え物がたくさん飾ってあって、楽しい一日だったでしょう。

話では近くの下塩浜の公民館でも、祭りをしているとか。行ってみると、榊が置いてあって、たぶん、神事が終わったところだと思います。「さっきまで、鯛や野菜が飾ってあったとばってん」と、来るのが少し遅かったみたいですが、このお地蔵さんも普段は外においてあるのですが、今日は一番の上座。

で、他に祭りがないか、町内を少々回ったのですが、残念ながらここの2か所だけでした。回ったついでに、写真を撮ってきたので・・・


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「大操子(うぐるす)」のお地蔵さま、キリシタン地蔵だといわれていますが???
専門家の話では「くるす」の地名は、キリシタンに関係があるところが多いとか、ですが、今のところ実証はできていません。

「昭和54年 千々石郷土史」の「珍しい千々石町地区名の由来(一部)」に「うぐるす」として、「初春、うぐいすのきれいな鳴声が聞かれるところ。」とあり、平成10年の「千々石郷土史」の方言のところに「ウグユス」として「うぐいす」と書いてあり、「うぐるす」と「ウグユス」。どうも、こちらのほうが分かりやすいのですが・・・

「大操子」の漢字については、小字を地図につけるとき適当につけたのか、他に本来の意味があるのかはわかりません。

ただ、ちぢわでは「大(お・おお)」が「う」の音に変化することがあり、高齢者の方では、「大堀(おおほり)」を「ううぼり」、「大迫(おおさこ)」を「うーさこ」などと発音し、「大操子」も標準語でいえば、「おぐるす」ではないかと思うのですが、昔の資料がないためわかりません。


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こちらは畑で、自然石の野面積みの石垣でした。新しく石垣を組みましたが、お地蔵さんをちゃんとお祀りするよう工夫してあります。お地蔵さんを大切にする気持ちが伝わってきます

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柳原水源。ここの水はおいしいので、たくさんの方が利用をしています。
右の石祠。向かって右側に、「文化十癸(みずのと)酉(とり)七月吉兆日」。文化十年は1813年ですから、今から203年ほど前の石祠と、多分水神様だと思いますが、この湧水は随分前から湧いていたものだと思われます。

左側には、「願主 小田喜三治長近 石工 南有馬村 九郎治」。南有馬村というと随分離れているみたいですが、千々石庄屋との関係があり、これは、少し調べて、また報告を。


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なお、丸印の部分、布がかけられ上しか分かりませんが、梵字の「カ」かと思われます。地蔵菩薩、閻魔王等を表す文字らしいです。下の部分は、4月の地蔵祭りの時にでも・・・

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こちらのお地蔵さんの特徴は耳が大きいこと。お金を随分貯めているのでしょうが、私もあやかるように、お耳をナデナデしてきました。

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いつも二体で仲良く並んでいるお地蔵さん。うらやましいですね。ウチもこんなにあればいいのですが・・・・
右はきれいな花だ、と思ったら造花でした。この暑い日、生花だと3,4日も持てません。ウチの墓の供花も夏場は造花を使っています。


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いつも三体並んでいますが、なんとなく「とと姉ちゃん」の仲良し三姉妹を思い出します。
右は新しい地蔵さんみたいですが、土台の石が上の地蔵さんとマッチして、もう少し年月を経るといい感じになるみたい。


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お隣の諫早市有喜町では祭りをしてないか、行ってみましたが残念でした。
しかし、このお地蔵さん工夫してますね。聞いたところ、ここくらいまで海が来ていたとのことでした。いつも綺麗にしてあります。


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お地蔵さんと親しまれていますが、本名「地蔵菩薩」。お釈迦様の亡くなった後、弥勒菩薩が現れるまでの56億7000万年、現世に仏様が不在になるので、その間、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を輪廻して、我々、人間を救ってくれる菩薩様です。

あちらこちら見ながら、お地蔵さんが私たちに一番身近で、親しまれている菩薩様だと感じたものでした。





2016年8月 6日 (土)

2016 「第9回 ちぢわ ふるさと夏祭り」~雲仙市千々石町


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今日は朝から体調がすぐれず、といっても「夏祭り」なので出かけてみましたが、まじ暑っ。

2,3、年前だったか、神社で開催していたのですが、場所が狭く、駐車場が狭いことから、海岸の福石公園で開催。合わせて、虫よけ祭、夏越祭り、七夕(コンクール)。

七夕と言ったら短冊に、「(失礼)字がうまくなりますように」とか、「頭が良くなりますように」とか、「女にもてますように」とか書いていたのですが、金メダルの下に選手名が書いてあるのを見ると、オリンピック選手の活躍を祈ったものでしょう。最近は、ずいぶん変わってきました。

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もちろん、茅の輪くぐりもあります。ちゃんと二礼二拍手一礼。

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がんばちゃんも、「ねんりんピック」の宣伝活動。らんばちゃんが来ていないのが気になります。ただ、この暑さの中、着ぐるみの中は地獄かな?

会場で、お土産を貰いましたが、警察からなのか、「拳銃110報奨制度」とか、「出会い系サイト」の注意とか、「振り込め詐欺の注意」の中、赤丸印、犬の格好のものが入っていて、片方がボールペン、もう片方がスマホ用のタッチペン。これ、便利なので使う事にしました。でも、おまわりさんの事を「犬」と言うのは、差別用語なのですが、いいのかな?


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出店、といってもほとんど地元のボランティアの方なのですが、

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最近は、カブトムシが少なく、形も小さくなってきたとか。婦人会の「美熟女」の面々、米粉カレー。

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餅まきですが、最近はお菓子まで混ざって・・・・

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肥前千々石鉄砲隊の演技。

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千々石中学校吹奏楽部の「御神楽」。イベントには欠かせないものになりました。一年生が4名入って、今日が初舞台とか。男の子も一名入っていました。
棚田で有名な、第2小学校の「棚田へ行こう」。

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下峰児童館。保護者、先生と一緒に「ハッピーチュルドレン」。なんか、お父さんテレてますね。
千々石第一小学校「ソーラン節」。すっかり、お馴染みになりました。


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大人、子ども混じっての、「千々石音頭」。

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と、見てきたのですが、ここが私の限度で、とにかく暑い。暑いというより熱い。ということで、会場を後にしたのですが、この後もいろいろあり、プログラムを貼っておきますので、ご参考までに。

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で、会場を出ようとしたら、長崎の「名物アイス」があったので、久しぶりに、食してきました。

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福石様に、数年ぶりに注連縄を張ったら、写真を撮りに来る人が増えたとか。少しひねって、裏側からとってみましたが、後ろに見える連なった山並みが、「千々石断層」で、千々石も災害が心配な所です。

秋になったら、きれいな夕日がみられるので、カメラ片手に、是非お越しください。感動しますよ。

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2016年4月28日 (木)

2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事③~長崎県雲仙市吾妻町

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また、昨日の続きです。


吾妻町史を参考に三體地蔵の事を書いたおり、「
南北町時代は野井城(愛野

町)、飯岳城(千々石町)の戦いに南朝・北朝の軍勢が、何回となくこの古道を往

来(いきき)している。」と書いてあり、この部分に少し興味があり・・・


これも、以前、飯岳城の事を書きましたが→こちらをクリック 。上の写真が「飯岳

城」の跡です。


「長崎県近世城館跡分布調査報告書Ⅱ(長崎県教育委員会刊)」において、「飯

岳城」、「(6)歴史」の所に「南北朝の1372(文中元年)ごろ、九州探題今川了俊

が千々石浜に侵略、城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷いてこれを

防いだ。」とあり「文献」として「古文書・・・北肥戦誌」としてあります。


この時期は南北朝時代で、九州、島原半島もこの争いに引きずり込まれるので

すが、書けば本一冊分になるので、ざっくり書けば、島原半島の豪族は、宮方

(天皇側南朝勢力)に、多比良、神代、西郷。九州探題一色範氏を中心とした武

家方(幕府北朝勢力)に有馬、安富、伊佐早氏に別れるのですが、(参考・千々

石郷土誌)、島原半島の有明海側が宮方になります。有明海を挟んだ熊本に、

朝方の菊池氏があり、「肥前有馬一族~外山幹夫著」によれば、「・・彼らが有

海を通して、一衣帯水に肥後国に接し、同国における南朝の有力な支柱に気

を通ずることができる状況にあったと思われる。」という事のようです。


さて、「北肥戰誌(九州治乱記)」によると、千々石関係では「同三年(觀應三年・

北朝にて使用の年号・1352年)壬辰二月、探題一色入道獻、肥前國高來・彼杵

お宮方退治として、小俣少輔七郎氏連を差遣わす。氏連先づ彼杵へ打越え、矢

上の城入りて、高來の味方を相催すに、有馬・安富以下の武家方共、閏二月

十六日千々岩の津へ馳せまいる。氏連、同十七日千々岩へ陣を移し井(現愛

町野井)の城を攻め、又西郷次郎が杉峰城をせめて合し、三月二日、神代へ

打ち通るの時、西郷出会ひて相戰ふの間、安富深江孫三郎泰治等、散散合戦

し、西郷を追拂ひ、氏連暫く國府へ帰陣す。」とありますがイメージ的に捉えると

下のようになります。

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緑の矢印が有明海干拓の堤防。①が飯岳城、②が千々石海岸、少し右側に、島

原藩の郷倉があったところで、ここから船で島原まで年貢米等を運んでいまし

た。ここらあたりが「千々石の津」に当たるところでしょう、地名も「南船津」になり

ます。③が野井城があった愛野町、④が「三體地蔵尊」がある所、⑤が神代。④

と⑤の間に西郷氏の杉峰城があります。


上の地図、正確な場所が取れないので、大体の所で、あくまでイメージとして、と

らえてください。


なお、もう一ヵ所「應安(南北朝の時、北朝にて使用)六年癸丑(1373年)三日、

初、探題今川入 道了俊・太宰右衛門佐頼泰、彼杵軍へ發向し、伊佐早・宇木

(現在の諫早市有喜)の兩城を攻めけるに、城主伊佐早右近五郎・西郷藤三郎

やがて降参す。了俊・頼泰、その後高來へ打越え、七月七日、神代(現雲仙市国

見町神代)、大隅を攻め、九月六日、千々岩に至り濱手に於いて、宮方の輩と打

戰ひ、一戦に利を得柏崎に陣す。」とあります。(千々石岩は千々石の事です。)


さて、ここで、県の報告書では、「城主林田隠岐守は備えて飯岳の高地に陣を敷

いてこれを防いだ」とありますが、この「林田隠岐守」が誰であるか、千々石町誌

には載ってなく、吾妻町史には、二ヵ所ばかり書いてあり、「南北朝時代には(日

本城郭大系新人物往来社)、林田隠岐の名が見え、林田氏は南朝方に属した

為、しばしば北朝の進攻を受けている。」とあり、もう一ヵ所は「昭和八年刊行長

崎県庁内長崎県史談会発行『長崎県郷土誌』」に「文中二年(1373年)、九州探

題今川貞世の軍が島原半島に攻め入り神代山田(朝廷方)を攻略した時、千々

石村民は、神代山田軍に呼応して、千々石の戦を開いた、主将林田隠岐守は、

飯岳の丘陵に塞を備えて防いだが、遂に敗れた」と記してあるそうです。


で、「肥前有馬一族」には、「『藤原有馬世譜』一は、続いて峯・鬼塚・馬場・林田

の四氏を『有馬の四天王』と呼ぶが、彼等は始終有間(有馬)氏に従ったものとす

る。」とあります。が、「島原半島史~林銑吉著」の「藤原有馬世譜」の部分を読ん

で見たのですが分かりません。この林田が「林田隠岐守」なのか誰なのかは?で

す。


でもって、考えてみると、攻めてきたのは武家方であり、「林田隠岐守」が有馬家

の家臣なら、有馬家氏も武家方であり、同士討ちになるなと。


おかしな、と思いながら、「肥前有馬一族」読むと、「動乱当初有馬氏は北朝につ

いた。しかし、その後暦応元年(一三三八)十一月、肥後の菊池武重が力を得て

筑後に発向した。佐竹氏義以下の者は敗走した。この時有馬彦五郎入道は竹重

の南朝方に転じた」(『歴代鎮西要略』三)、とあり、これなら「林田隠岐守」が有馬

家の家臣で、千々石の防禦をまかされた可能性も十分に考えられるなと言う事

すが、残念ながら、資料がないので、詳細不明ですが。


もう一つ、大正七年発行の「千々石郷土誌」には、「千々石村飯岳ノ東方ニ丘陵

アリ郷民称シテ城山ト謂フ 往昔城塞ノアリシ所ニテ林田隠岐守ト云エル人城主

ナリシト云エドモ史蹟詳ナラズ・・・」とはありますが、有馬氏との関係は分かりま

せん。長崎県郷土誌、人物往来社さんは、これを参考に書いたのでは


なお、この時代、城が(山城でしょうが)必要となり、山田城、野井城等々が作ら

れ、千々石にも、野田城、飯岳城が作られたようです。


「吾妻町史」には、「南北朝の頃、度々侵攻した北朝に備えた防禦の山城、
そして

逃げ場ではなかったか。」と記してあり、たしかに、この山に登った時、急斜面ば

かりで大変でした。


後年になりますが「釜蓋城」が築かれ、佐賀の龍造寺が島原半島に侵攻し釜蓋

城は落城しますが、この頃のことを、ルイス・フロイスが次のように書いていま

す。


「有馬殿には小浜という城しか残されていなかったという事実を知らねばならな

い。それは隆信(注;龍造寺)が高来の支配者になるために押さえていた二つの

高来への入口の一つである千々石城に向き合ったところにあって、貧弱、かつ防

施設がほとんどない城である。」


千々石城は、もちろん「釜蓋城」のことですが、「飯岳城」の事が一言も記述がな

いところをみると、「飯岳城」は、吾妻町史に書いてあるように、「北朝に備えた防

禦の山城で、逃げ場だった」、言わば仮の山城ではなかったかと思えるのです

が・・・  

       (これでおしまい。長々と書きましたが、失礼致しました m(_ _)m )

2016年4月26日 (火)

2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事②~長崎県雲仙市吾妻町

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昨日の続きになりますが、この三体尊地蔵の左右に、たくさんのお地蔵さん、石

造物がありますが「吾妻町史」には、「籠堂には『三體地蔵』の石像や、修験道関

係の石造物が多数祀られている。」とあり、雲仙といえば昔は修験道者の修行の

場でもあり、雲仙の麓にも遺跡が所々見られるところですが、多分、右の前列が

そうではないかと思うのですが、祭りで、人が沢山いるので確認できませんでし

た。


前に来た時、気がつきませんでしたが、オッカナイ顔の狛犬さん。台の横に文字

らしきものが彫ってありましたが、残念ながら風化して読めません。

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この三體地蔵がある斜め前に、小さなお堂があり、こちらも、三體地蔵。

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ここから、20㍍ばかりの所にも、三體地蔵。

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なお、三體地蔵さんが祀られているお堂の横に、下のような場所があり、上は更

地になっていましたが、ここどう見ても、なにかあった後だなと思い、近くの爺様を

つかまえて聞いたところ、目の神様だったか?が祀られていたとか。

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ですから、このあたりに多くの地蔵さん、石造物があり、以前のブログ書いたよ

うに、このお堂は、吾妻の山田原というところにありますが、吾妻町史によれば、

「この地は、山田庄の交通要津にあたり、ここから道は放射状に拡がる。古

山田駅に通じる古道でもあり・・・」、とあり、交通の要所であった事が分かると思

います。


「山田駅」とは「島原半島の歴史~松尾卓次」によれば、「大和王権が全国をほ

ぼ統一すると天皇の勢力が強まり中央の豪族をまとめて政治の仕組みも整えて

いった。大化の改新の詔(646年)で政治の骨組みを整えていった。・・・・この時

代には駅が十八ヵ所置かれていて、肥前国府(佐賀県大和町)から出発して長

崎県側に入り、新分、船越(諫早市)、山田(吾妻町)、野取(千々石説と島原説

があり、島原説が有利)の駅へと続いていた。それぞれが駅馬五匹が常置してい

て、国の命令を伝えたり、租などの税を運ぶ道であった。」という事で、昔の交通

の要だった事が分かります。


なお、同書によれば、高来郡の中には九郷あり、「倭名類聚抄(わめいるいじゅう

しょう・平安時代中期に作られた辞書)」、「肥前国第百二十九」の所に、「山田

(也萬多) 新居(爾比井) 神代(加無之呂) 野取(乃止利)」と四ヵ所載ってお

り、それぞれに、「山田、伊古・伊福、神代、北島原(島原か千々石)に当てられ

よう。」とありますが、いずれにしても、この吾妻町の山田が昔の重要な地だとい

う事が分かると思います。


なお、他の郷については「肥前 有馬一族~外山幹夫著」によれば、「肥前風土

記」には前書いたように、九郷あるように書いてあり、「倭名類聚抄」には四ヵ所

しか書いてありませんが、「当時の状況に照らして、その記述を省略された可能

性が高い。」とあります。


さて以前、南北朝時代この古道を通り、千々石の飯岳城から行き来した事を少し

触れましたが、地元の事でもあり、少し疑問の事があるので、又明日。


なお、「三體地蔵尊祭り」は、毎年四月二十四日に開催されているので、特にお

餅を好きな方は、袋を用意してお越し下さい。時間は多分、12時半頃か、11時

半頃になります。ご心配の向きは、雲仙市役所の方へお問い合わせください。

多分、分かると思います。

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2016年4月25日 (月)

2016「三體地蔵尊祭り」&その他の事①~長崎県雲仙市吾妻町

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え~、今日はPCのご機嫌が非常に悪く、と言っても、悪名高きVISTAを、いまだ

に使っているわけで、速度が異常に遅く、何じゃ分からないエラーが出ておりまし

て、「三體地蔵尊祭り」について、前回気付かなかった事をけ加えたいと思ってい

たのですが、その分は明日にします。

繰り返し、同じ事を書くのは面倒臭いので、前回の分は→こちらをクリック


思えば、3年ほど前にこちらに伺ったのですが、2日前ほど、案内のチラシが新

聞広告に入っており、出かけて見ました。


「祭り」といっても、TVで放送しているような大きなものではなく、田舎
の素朴な祭

りですが、こんな所に日本人の心がうかがえる、と言う感じです。


チラシによれば、「祈祷師・五行満行僧 国見町国寺住職 宮崎泰寛上人」となっ

ていました。


上の写真のように、ズラリと地蔵さんが並んでいますが、真ん中が「三體地蔵尊」

様です。


祈祷の後は、一人一人に「お祓い」。待つ人がズラリ。

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例によって、餅まき。前回来た時もそうでしたが、「これでもか」、という感じで、餅

をまく事、まく事。

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また、拾う人もちゃんと、袋を用意して。私、袋を忘れたのでポケットに入るだけ

入れてきました。子どもも押しのけて、拾ってきました。

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その後、直会(なおらい)。儀式が終わったあと、関係者一同でお神酒、神様のお

え物などをいただきます。チラシには「御接待」と書いてあり、「御接待」なら、

参りしたものも入れるのですが、小心な私としては、横目で見て帰りました。結

なお料理が並んでおりました。

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段々と、こういう行事も簡素化されていくのでしょうが、何となく、寂しいニッポンに

なっていくような・・・

やはり、PCの具合が悪いようで、また明日。






2016年4月19日 (火)

吾妻町「岩戸神社」祭★もう一つの「岩戸神社」~長崎県雲仙市吾妻町

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先日、吾妻町の熊野神社を見に行った時、宮司さんに、「吾妻町にも岩戸神社が

あるの知ってますか?」と聞かれ、「岩戸神社」といえば瑞穂町の岩戸神社がパ

ワースポットとして有名で、吾妻にもある?と思っていたら、今日が祭日とかで、

出かけてみました。


場所は、愛野町~島原へのグリーンロードを走ると、「ふるさとふれあい館」と「雲

仙フラワーズステーション」が隣りあわせにあり、山の方向に上り道があり、イヤ

というほど走ると、「種苗管理センター雲仙農場」があり、写真の左側になりま

す。マル印の所に「岩戸渓流公園」の看板があり、右に曲がって、下り坂を下りる

と、鳥居があり、道を隔てたところに、駐車場、トイレ完備がされています。

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道は下の写真の感じで、昔は細い道らしかったのですが、公園化時に整備され

たという事のようだそうです。神社まで、15分程度、森林浴にはもってこいだと思

います(花粉症の方には気の毒ですが)。

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調べて見ると、県(国?)で「水源の森」という事業をやったらしく、入口の鳥居横

に看板が出ておりました、神社に向かう途中、狭いながらも、野外炊飯、キャンプ

ができるようになっていました。○印が、入口と神社です。

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で、途中鳥居などがありまして、明治か大正かと思ったら、なんと「文政十一戊子

年」と書いてあり、調べて見ると、「文政十一年」は「戊子」にあたります。なお、文

政十一年は、シーボルト事件が起こった年です。


改めて、文字を読んでみると、右の柱「奉建?石華表一基 三室氏子中 世話

人???」、世話人の名前は薄くて読めません。(華表は鳥居のこと)

左の柱が「文政十一年戊子年 四月吉?日」。下の方に「大宮司 錦戸参河 正

道」。


後で、吾妻町史を調べると、「熊野神社」の所に

「錦戸備前頭 藤原秀人 文政元年十月六日 帰幽」

「錦戸参河頭 藤原正道 嘉永五年八月十六日 帰幽」


「帰幽」は神道で、人が亡くなることを意味する言葉だそうですから、文政元年が

1804年、であとを藤原正道が継ぐということで、文政、天保、弘化、嘉永となり、

嘉永5年は1852年ですから、藤原正道時代の文政11年に作られた事が間違

い無い事が分かります。文政11年といえば、今から188年ほど前ですから、

この鳥居、かなり古い事が分かります。

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神社の少し手前で、倒れた木の株の所で、「今年はいるかな?」と話しているの

で、尋ねて見ると、「フクロウ」がこの株の穴の中にいるとか、で、狭い裂け目にカ

メラを突っ込んで、フラッシュを使ったら、○印の所、フクロウさんが、こちらを向

いて写っていました。

「フクロウ」は、「不苦労(くろうせず)」というくらいですから、今日はこれだけでも

ご利益がありました。

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神社に着くと、意外に広い空き地で、人が作った神殿は無く、崖に自然にできた

穴が神社になります。

で、右の写真ですが、左の矢印が表側、この表側から、右の方の穴へでる事が

でき、雰囲気的に、以前紹介した、赤岩神社、瑞穂の岩戸神社に似ており、修験

者の修行の場と言われておりましたから、ここも多分そうではないかと思い、穴を

くぐって「胎内くぐり」に使ったのではないかと思います。私見ですが。

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こちらが入口で、いつもは鉄扉で入れません。何やら気になる、石造物。五輪塔

の一部かな?

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中の写真です。普通は入って撮れませんが、「今日は良いでしょう」という事で撮

らせて頂きました。四体の石仏です。良く調べれば、年代なども彫ってあるかも知

れませんが、そこまでは言い出しきれませんでした。気の弱い私。

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神事に入りましたが、石の窪みの中での祝詞は、声が良く響き、神秘的で素晴ら

しく感動しました。私たち日本人は、自然に畏敬の念を持っていたという事がよく

分かるような神事でした。


下は、明治に作られた、「神社明細調帳」の写しです。祭神が書いてありますが、

水神さまの事です。

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           (「長崎歴史文化博物館」所蔵)

帰りにお札を頂きましたが、これは神棚ではなく、台所とか、井戸とか水に関係

のある所に飾って置いてくださいとの事でした。

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普通の神社も良いけれど、このような神社も自然に囲まれて良いですね。すがす

がしい一日でした。



2015年10月17日 (土)

2015 「温泉神社秋の大祭」~雲仙市千々石町

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今日は、千々石町の氏神様「温泉神社」の秋の大祭。千々石には、七つの名(み

う)があり、持ち回りで祭りを運営します。


最初に「大太鼓」「小太鼓:おっぱら」「鉦:チッカンカン」「謡:短い短歌」「ササラ:

竹踊り」の奉納踊りと、「いかがれ:赤ちゃんおんぶ」があり、その後、海岸の御旅

所まで、途中、奉納踊りを披露しながら行列巡行。


奉納踊りの様子です。以前は、子どもが多く、神殿前の広場は、いっぱいだった

そうでだったそうです。女の子の一年生が「鉦」を叩いていましたが、重くてもてな

いので、小さな鉦を使ったそうです。

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「ささら」

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「ささら」出演の皆さん、男子ですが、薄化粧。なんとなく、男にはもったいない

な、とう男子も。ささらの棒も各地違うようですが、竹を二つに割って、ギザギ

ザをつけ、飾りをつけ、短い棒で擦り、音をだします。

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「いがかれ」。こちら方面では、子どもの事を「イガ」と言いますから、「あかちゃん

おんぶ」。昔は、男の人が一杯機嫌でやっていて、面白かったそうです。

その間、神社では神事。

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最後に、巫女さん、といっても当番名の女の子ですが・・・

最近、増えました。タブレットでの撮影。

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子どもの履きものですが、昔は「ワラジ」を履いていたとか。多分、今のように舗

装してなかったのでしょう。御旅所まで行くのに、足が痛かったそうです。ただ、こ

履き物では、カカトの部分が浮き上がり、やりにくいだろうな、と。


右は、宮司さんと、神官さんの履き物です。行儀のいい方は、履き物は反対にし

て上がりますが、それでは、神様に尻を向けることになり、失礼にあたるので、そ

のまま、上がっていいと、神社の総代さんから言われました。以前書きましたが。

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という事で、出発ですが。拝殿の入口が狭いので、御輿をだすのも、一仕事。賽

銭箱も、御旅所まで運びます。

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やっと出発。猿田彦さんもいます。

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日本一の「桃太郎」さん。女の子でしたが・・・

御神輿は、現在、台車に載せ引っ張っていきますが・・・

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昔は、神馬に御幣を載せ、御輿も担いでいたのですが・・・・

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途中、奉納踊りを披露しながら。

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昔は、御旅所まで写真を撮りながらついて行ったのですが、天気がよすぎ、歳の

せいか、ここらあたりまで付いて行くのが精一杯で、来年は、私が住んでいる名

の当番で、体力をつけなくちゃ!というところです。





2014年11月24日 (月)

「神迎え」~千々石町天満神社

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先日、9月23日に、神送りの神事を行いましたが、今日は、神様が帰ってこられる、神迎え

の神事。町内の、他地区にも神社があり、来週から他の神社も、神迎えの神事をするとか

で、少し早めにという事で、23日に実施。


以前は、泊まり込みでやっていたそうですが、現在、天満宮では、夜10時~12時程度まで

で終わります。


8時頃神主さんが来られ、いつもの通りの神事。奥の方に本殿がありますが、この階段の

上り下りにも作法があるとか。


この間も書きましたが、ステージでの太鼓も良いですが、祭りの太鼓、夜のひっそりした、

林に囲まれた神社の太鼓の音、良いですね。

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玉串奉奠。以前書きましたが、玉串の根元を右手の方に受け取りますますから、右(時計

方向に回して)方向に回し、根元を神様の方に向けるように置きます。あと、二礼二拍手一

礼で終わり。いきなり、神様の方に尻を向けないように、少し後に下がって、自分の席に。

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あとは、いろりを囲んで、「直来(なおらい)」(神様にお供えしたお神酒等をいただくこと)。

話が、はずみますね。昔は、お参りする人が多く、振る舞いに、カシワ飯(ニワトリの炊き込

みご飯)をお握りにして、接待していたそうですが、子どもたちも、それを目当てに、たくさん

来て、それが楽しみだったそうです。


現在は、大人だけで、少人数になりました。今、自治会長さんが頑張っていますが、地域の

コミュニティーなど言っていますが、少し希薄になっているのを感じます。役所の人間が、自

治会に入っていない馬と鹿もいるし・・・・


さて、「神送り」「神迎え」、私、少し考え違いをしておりまして、神様も、いつも同じ所におら

れるので、たまには息抜きで、出雲に集まって、どんちゃん騒ぎかと思ったら、山本健吉編

の「最新俳句歳時記 冬 」(最新といっても昭和47年 第一刷)を読んでいると、次の様に

書いてあります。


「・・・もともと神送りは、稲の収穫終了とともに山へ帰還する田の神を送る行事が根底にあ

り、翌年の春ふたたび来臨するまで留守になるのだから、不在期間も一ヵ月以上に及ぶ地

方もある。例えば新潟県米山の薬師は、十二月八日に立って四月八日にお帰りと言い、宮

城県の村々では、同じ十二月八日に立って二月八日にお帰りと言う。ただし、もっとも多い

のは九月三十日に立って十月三十日に帰る例で・・・」とあり、稲作と関係あるとは思いませ

んでした。


皆さん、十二時前にお開きになりましたが、神主さんに聞くと、神様が帰られるのが、夜の

十二時くらいだとかで、誰もいない、ガランとした神社にお帰りになるかと思えば、少し、心

痛むものでありました。


【おまけ】

神主さんの祝詞、良く聴くと大体分かるのですが、長崎の諏訪神社で「諏訪神社拝詞」とい

うのをいただき、4、5つ祓詞(はらえのことば)等が書いてあるので、あまり、お読みになっ

た事がないと思いますので、一番短い「祓詞」を写してみます。これ、神棚がある方は、神

棚を掃除して、大きな声で読んで見ると、気持ち良いでしょう。(私、やったことないので分

かりませんが・・・・)


■祓 詞(はらへのことば)(神社及神棚の前で奉唱)

掛(かけ)まくも畏(かしこ)き 伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ) 筑紫(つくし)の日向

(ひむか)の橘小戸阿波岐原(たちばなのをどのあはぎはら)に禊祓給(みそぎはらへたま)

ひし時に 生坐(なりま)せる祓戸大神等(はらへどのおほかみたち) 諸々の禍事罪穢有

(まがごとつみけがれあ)らむをば 祓給(はらへたま)ひ清給(きよめたま)へと申(まを)す

事を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す


※天満宮については、以前書いているので→こちらをクリック






2014年11月21日 (金)

蛇踊?龍踊?竜踊? その2

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さて、「蛇踊」が「龍踊」になった経過ですが、「長崎伝統文化振興会」の方によると、県外の

方が「蛇踊」を「じゃおどり」ではなく、「へびおどり」と読む人があるという事で、関係する人

が集まって「蛇踊」を「龍踊」にしたと聞いている、とのことで、昭和32年からは「蛇踊り」から

「龍踊」に変更されています。


なお、調べてみると、ネットのホームページ、「龍招宝」→「龍踊の基礎知識」の中にも、同

様のことが書かれてあります。→こちらをクリック


土肥原弘久氏の本にも、「なお、昭和32年(1957)が『龍踊』に改められた。」と書いてあり

ます。こちらには、理由は書かれてありません。


下の二冊の本に、「くんち」の踊町と奉納踊りが書いてあったので、調べて見ると

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■「長崎くんち考」。昭和20年以降の奉納踊の記録しか載っていませんが・・・

・昭和23年 本籠町  蛇踊

・昭和24年 本籠町  蛇踊

・昭和25年 諏訪町  蛇踊

・昭和26年 本紙屋町  龍踊   (現在、本紙屋町は麹屋町に含まれる。)

・昭和27年 諏訪町  蛇踊

・昭和29年 本籠町  蛇踊

・昭和30年 諏訪町  蛇踊

・昭和32年 諏訪町  龍踊

・昭和33年 諏訪町  龍踊

・昭和37年 本籠町  龍踊

これ以後はすべて「龍踊」です。昭和26年、本紙屋町が「龍踊」になっていますが、これは?

■「資料呈上」

これには「初めに一言」が書いてあり。


「龍船は、蛇船が多いのですがあえて龍船にしました。しかし、龍踊りは昭和32年以前は蛇

踊としました。文化史的にとらえると夫々の時代の標記に従うべきだったかも知れません。

単純明快にしないと全体像が掴みにくいだろうと配慮したつもりです。」との言葉がありま

す。


こちらは、「長崎年表」という事で、元和9年(1623)から、古い分は、分かる部分、部分だ

けですが、書かれています。関係ある所だけ書くと

・昭和23年 本籠町  蛇踊

・昭和24年 本籠町  蛇踊

・昭和25年 諏訪町  蛇踊

・昭和26年 本紙屋町 龍踊り (ただし「本紙屋町、蛇踊を田結村に依頼」の記あり。)

・昭和27年 諏訪町  蛇踊

・昭和29年 本籠町  蛇踊

・昭和30年 諏訪町  蛇踊

・昭和32年 諏訪町  龍踊

・昭和33年 諏訪町  龍踊

・昭和37年 本籠町  龍踊

これ以降、すべて「龍踊」です。


越中哲也氏は、下の本で次の様に述べています。


「諏訪町の町名は諏訪神社が長崎に創立された、寛永初年(1624ー)頃に、町名がつけ

られたと考える。

諏訪神社の神意をお使いする物は白蛇であるとしていることにより、この町の奉納踊りは

蛇踊(じゃおどり)を出している。それは、町名の諏訪町と白蛇とを、うまく、関係づけている

からである。

戦後、本来は蛇踊と書くべき文字を、龍踊と書くように改めたので、諏訪町と蛇踊との関係

がわかりにくくなっている。

又、この町の龍踊は籠町と共に、県の無形民俗文化財(注:現在は、国の重要無形民俗文

化財)として、『長崎くんちの奉納踊』)に指定されている。」


又、土肥原弘久「長崎くんち」にも、「奉納踊は、もとは本踊であったが、町名が諏訪神社に

ゆかりがあり、また諏訪神社の「おつかい」が白蛇という伝説があることから、明治19年

(1886)に、本籠町「蛇踊」の伝をうけて、白蛇の「蛇踊(じゃおどり)」を初めて奉納してい

る。」との記事があり、また、


「籠町」の所で、「龍踊」として、「籠町(本籠町)」は、長崎くんちで龍踊(じゃおどり)を奉納す

る4つの踊町の中で最も古く、龍踊の同本家とされる踊町である。」と書かれています。

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なお、永島正一氏の「続・長崎ものしり手帳」には、「龍(じゃ)踊り」として書いてありました

が、内容の名称は「ジャ踊」にしてあり、少し逃げたのかな?


「本籠町(現在の籠(かご)町」から明治時代に、諏訪町に伝わり、諏訪町もまたジャ踊りを

奉納踊りとした。

その後、滑石(なめし)町に伝わり滑石ジャ踊りも有名である。」と書いてあり、滑石は「郷く

んち」を実施しているところです。

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さて、「龍踊」の標記が、特に国の方では「竜」になっているのか?考えられるのは「龍」は

人名漢字のみにあり、「竜」が常用漢字のためか?


しかし、「龍踊」は、長崎くんちの固有名詞であり、人名と同じ考えで、地元で使っている「龍

踊」を尊重して、「龍踊(じゃおどり)」を使っても良いのではないかと、思うのですが・・・


問題です「龍」「竜」を何と読みますか?「じゃ」ではありません。漢字事典をあれこれ調べた

のですが、「じゃ」では載っていません。「りゅう」です。


漢字の読み取りで、「竜」「龍」を「じゃ」と読んだのでは、地元の長崎大学に合格しても、東

京大学には入れません。


これ、想像するに、「蛇踊」を「龍踊」に変えた時、「ありゃ、どっから見ても『龍』じゃろう、

『龍踊』にしたら、どげん?」

「したら、何と読ますごとすうか?」「今まで『じゃおどり』と言うとったけん、そんままで、良か

ったい」と、長崎人の、おおらかさと言うか、心の広さで決まったのではないか、と思うので

すが、・・・・あくまで、私見ですが・・・・wobbly


ただ、この話し合いが、誰が、どこで、どんな経過で決まったのかは、どこにも載っていませ

んでした。


しかし、しつこいようですが、「国」が、「じゃ」とは読みのない「竜」を「竜踊(たつおどり)」で

なく、「じゃおどり」とするのは、なにか変な感じがするのですが・・・・


祭りの演し物は、各当番町で演し物が違いますから、「龍踊」が見られるのは、予定表を見

ると、平成27年の諏訪町、平成28年の筑後町、平成31年の籠町になっています。


なお、下のような本もありますので、来年来られる方は、何か本を読んで、下知識を持って

見られたほうが、一層興味が湧くとおもいます。


【追記】

今日、「郷(さと)くんち」について、ブログ、「正しい休日の過ごし方」の「心づくし」さんから情

報をいただき、「長崎ブラブラ・・・・観光客が行かない長崎」の「郷くんち」の所に書いており

ます、という事で、読んで見たら、詳しく書いてありましたので、そちらをご覧下さい。


いつも、情報をいただき、ありがとうございます。この場をおかりして  o(_ _)oペコッ 。


「郷くんち」の詳しくは→①こちらと ②こちらをクリックしてください。


さて、いろいろ書きましたが、①「蛇踊」を「龍踊」としたのは、誰か、また、その経過 ②「龍

踊」を、なぜ「じゃおどり」と読むようにしたのか、以上2点ににつき、詳細をご存じの方は、

コメント欄に書いていただければ、幸いなのですが・・・・これにて「龍踊」終了。

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