キリシタン関係

2017年7月30日 (日)

「キリシタン禁制」の高札

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私の知人に何でも収集する癖を持ったのがおり、最近、郷土史関係に目覚めたらしいのですが、先日電話があり、「面白いものがあるよ。来ない。」という連絡で、「面白いもの」と言えば、当然「あれ」じゃないですか。

という事で、しっぽを振って、よだれを流し、走って行って「あれ、って、どこ、早く見せて」、「そこにあるじゃない」、と見せられたのが上の高札。

多少、気落ちはしたものの、私もこの方面に興味が無い、ものでは無いので、キリシタン禁止の高札だという事はわかりましたが、普通博物館でしかお目にかかれないもので、「どこで手に入れた?悪いことしたか、新聞には窃盗記事は載ってなかったな。」「ちゃんとした所からだよ」。という事だったのですが、少し新しく見えたので点検。


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屋根を打ち付けた釘ですが、今の丸釘ではありません。昔は鍛冶屋さんが釘を作っていたので、四角い釘になり、頭も四角か、曲げて作ってもあります。「L」を反対にした格好になります。丸く作るのは難しいからですが。

木になるのが、失礼、気になるのが屋根の一番上、吊す金具の釘ががなんとなく丸いのですが、きれいな丸ではなく、叩きつけて作った感じ。抜いてみないとよくわからないので、知人がいない時に抜いて調べる事に。


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裏の柱は釘で止めたものでは無く、ホゾを切ってはめ込んだもの。分からないのが、向かって左側の柱の二つの穴。釘を打ち込んだものではありません。何でしょう。片側だけです。

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下の写真は以前にも出しましたが、寛文元年(1661年)のキリシタン高札(「江戸時代のお触れ」~藤井譲治著・山川出版社より)。読み下し文があるので読めると思います。日本語です。

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下の本は、正徳元年(1711)に出された高札を書き写した版木本。縮尺がうまくいかなくゴメンチャイ ヾ(_ _*)ハンセイ・・・


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右から「ばてれん(司祭)の訴人 銀五百枚」「いるまん(修道士)の訴人 銀三百枚」「立ちかえり者の訴人 同断(おなじく)」「同宿(司祭等を手伝う者)並びに宗門(キリシタン)の訴人 銀百枚」。と、分かりやすく言えば密告の勧めで、賞金まで出ています。

さて、ここで、二つの高札を比べると、寛文の高札には、正徳の高札、「立ちかえへりの・・」がありません。

また、寛文の「伴天連の訴人」の賞金が、「銀三百枚」から、正徳では「銀五百枚」、いるまんが、「銀弐(二)百枚」から「銀三百枚」、同宿・・・が「銀五拾(50)枚」から「銀百枚」に増えています。

という事を考えると、寛文時代から正徳時代にかけて、「立ち返り」のものが多く、取り締まりがうまくいかなかったために、賞金を上げたことが推測できます。

下の高札は「島原城」に展示してあるもので、「天和二年(1682)」のもので、正徳の高札とほとんど同文です。

なお、説明版に「・・・・最も古いものと考えられる」と書いてありますが、残念ながら、寛文元年のものが、上のようにありました。

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なお、「江戸時代のお触れ」によると、高札は「・・・・年号の変わるたびに高札が書き改められ(中略)また文字の見えないものは書き改めることを命じることによって、キリシタン高札は大名領内にも幕府・公儀の高札として定着した。」とありますから、上の三枚の高札も、ひょっとしたら、かもしれません。

なお、江戸時代の高札は明治の政権交代で廃棄されますが、明治の太政官令により、再び禁教令の高札が立てられました。上の高札も明治まで立てられていたそうです。

知人は、この高札のほかにも、何枚か隠し持っているらしいのですが、また、遊びに行ったときに見せてもらうことに。

とにかく、酒は飲まない、女にもてない、タバコは吸わない、博打はしない、「金儲け三欠く術(義理を欠く、人情を欠く、恥をかく)」を実践している人間なので、お金はたんまり持っていて、いろいろなものを収集しているようなのですが、私も見習いたいものです。




2017年6月28日 (水)

本当は・・・


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某資料館に展示してある十字架です。

島原・天草一揆の舞台、原城の発掘調査で見つかったものです。これは、本格的な十字架ですが、原城に立て篭もった一揆勢が、火縄銃の鉛製弾丸から作った十字架も34点出土したそうです。


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さて、分かりやすく一番上の十字架、なんだか変だと思いませんか?穴の開いたところに紐を通し首にかけると・・・

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逆十字になります。

さて、この逆十字については、「日本キリシタン墓碑総覧(企画 南島原市教育委員会:編集 大石一久)」の論考集に、森脇あけみ氏が考察されているところですが、論文で長いので簡単に書くと。

原城に籠城した人には、キリシタンを離れたもの、いわゆる「転び」、また、「転び」から再びキリシタンに戻った、「立帰り」の者がいたわけです(籠り軍全員がキリシタンというわけでありません)。

さて一方、イエスの弟子に聖ペテロがおり、天国の鍵を授けられるわけですが、最後の晩餐後、イエスはペテロが「鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言します。

イエスが連れていかれ、ペテロがその様子を陰から見ているとき、「イエスの弟子か?」と聞かれたとき、「違う」と否定し、それが再三問われ、再三否定をし、その後が鳴くわけで、いわば、キリストを裏切る感じになるわけです。

その後ペテロ改心し各地を巡回し、教えを説いていくわけですが、ネロ皇帝の迫害で捕まり、逆十字架にかけられ(さかさまの磔)処刑されます。

森脇氏は、「転び」「立帰り」につき、詳しく論述していますが、この部分は長いので省略をしますが、次のように記述しています。

「このように、当時島原や天草では、棄教し立帰ることを、ペドロの故事に重ね合わせていたことがわかる。ペドロはかってイエスを3度否認したものの痛悔し赦された。またペドロは、天国の鍵を持ち、ペドロが地上で赦す者は天上においても赦される。籠城中、棄教という大罪を痛悔していた一揆勢は、鶏が鳴く前に三度イエスを否認したペトロの心情に自らを重ね合わせたのではないだろうか。彼らは、痛悔の念と罪のゆるしを願う心をあらわすために、ペドロが殉教した『逆さ十字架』を作って、籠城中携帯したのではないだろうか。(後略)」

さて、資料館においては、一番上の写真のように展示してありますが、本当は・・・首から十字架を掛けた、ということを考えるなら、3番目の写真のように展示するのが正しい姿だと思うのですが・・・帰りがけ、受付のお嬢さんがあまりにも美しく、ついつい声をかけ、上司と相談して、逆に展示した方が良いのでは?と説明しつつ、美しい笑顔に送られ、資料館を後にしたのであります・・・

2017年2月28日 (火)

「隠れキリシタン像」???

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以前、隠れキリシタンの像ではないかと言われている像を紹介しましたが、一番上が小浜の山の中にある像→
記事はこちらをクリック 
もう一つが下の口之津の像→
記事はこちらをクリック

で、今年になって同じような像を見てきたので、ご紹介を。


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口之津町にある、神社の本殿裏の右手にありました。

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こちらも口之津町にある神社にあったものですが、風化するので、現在、保管しているもの。首が無いのは廃仏毀釈によるものだと思われます。この神社には、他にも首のない石仏がありました。


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3番目の像は同じく口之津町の神社の右手にありましたが、左手にも同じような石祠があり空で
、多分、盗られたか廃仏毀釈の時、壊されたかでしょうが、片方が完全無事というところを見ると、盗まれた可能性が高いみたいです。

向かって右に「平成六年八月二十七日建立」とあります。
祠は祠自体が神様と祀られるもの、神様を祀るために祠を作るものがありますが、前者は内部が浅く、「○○大神」とか「○○神」などと書いてありますが、この祠は内部が深く文字も見当たらないので、多分、石仏が祀ってあったものと思われます。ということを考えると、盗まれたような気がします。近所に、お年寄りを探したのですが、残念ながらみあたらず不明です。

なお、石仏がある石祠には、大正七年旧十月十日の文字がありましたが、この時に石仏がすでにあったのか、石仏も一緒に彫られたのかは不明です。

右の祠は、首が取れた石仏があった祠です。

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一番上の石仏は右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)みたいなのを持っているのを見ると、不動明王かと思われますが、専門ではないので・・・

どれにも「翼」がついているのがわかると思います。
こちら地方では「潜伏キリシタン(禁教時代にキリシタンを守った人)熱」が高く、何かというと「潜伏キリシタン」と結びつける傾向があり、「翼」は天使の「翼」ではないかと。

「翼」というと、天狗さんも翼があり、秋葉神にもあるので何とも言えません。郷土家の方に聞くと「分かりません」でした。この方面の研究は本格的には進んでおらず、まだまだ、「翼」を持った像があるようですが、全国的な分布、島原半島内における分布調査もされておらず、まだまだ謎の石仏です。



2017年2月21日 (火)

「原城落城のとき」~南島原市原城図書館&講演会「島原・天草一揆と『天下泰平』」

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2月15日より3月20日まで「原城落城のときー禁教・潜伏への道のりー」という事で、「南島原×西南学院大学博物館連携特別展」が開催。

合わせて、先週の土曜日、特別展関連公開講座「島原・天草一揆と『天下泰平』」という題で、熊本大学文学部付属永青文庫研究センター長・稲葉継陽氏の講演会が開催されました。

展示は、古文書、絵図、キリシタン制札、隠し十字架等。その中でも、「四郎の首をとった男ー陳佐左衛門」の報告書。これについては、他の本にも書いてありますが、自筆の報告書になります。写真撮影はNGなので、文章を読むと

    覚
一 廿七日ニ二の丸東之塀うちニ付き、則塀を越
   申候、此証拠人谷助大夫にて御座候事、
一 廿八日ニ本丸ニ乗首を三つ打取申候、内一つ
   ハ四郎首にテ御座候、以上、右之通付、相違無御座候・・・・

という文面になります。

チラシの武者は「天草四郎」ですが、明治7年に製作された版画になります。ですから、あくまで想像図になりますが、目元涼しく、天草四郎といえば美男子という観念がありますが、例えば、歌舞伎の元祖「出雲阿国」も美女、と思われていますが、「當代記」を読むと「・・・・出雲國神女、名ハ国、但非好女」とあり、「いい女ではなかった」と。ですから、あまり固定観念にとらわれないことが大事ですね。もっとも、お国さんに振られた腹いせに「非好女」と書いたのかもしれませんが・・・・

さて、講演会は参考になり、前に書いたように、「鎌倉幕府は1192(いいくにつくろう)年」はすでに否定され、「聖徳太子」さえ、いなかったとの話もあるようで、私たちは何を習ったのだろうという感じです。

以前は「隠れキリシタン」と言っていましたが、現在は江戸時代の「潜伏キリシタン」。禁教が解かれてからも、祖先の教えを守り、教会に戻らなかった方を「隠れキリシタン」というのが定説になってきています。

同じように、前は「島原・天草の乱」と言っていましたが、現在は「島原・天草一揆」。「乱」は戦前の「皇国史観」の考えで、天皇を中心として反乱を起こしたものだそうです。

「一揆」という言葉自体も、その時代には使われてなく、戦国時代前後では形態が違うそうですが、「近代歴史学の研究上の概念に過ぎない。」だそうです。「強訴」「徒党」と呼ばれたそうです。

「一揆」の形態も戦国時代前後では違って、現代の研究では江戸時代の一揆が3700件認められるそうですが、年貢に関する訴状などを提出し、百姓方は武器は使用しなく、百姓が武器を使用しない限り、武家方も武器は使用しなかったそうです。

武器といえば、豊臣秀吉の刀狩がありますが、これも「豊臣秀吉の刀狩令は百姓の武器解除を実現せず、江戸時代の百姓は刀、鑓(やり)、鉄砲等の各種武器を所有しているのが当たり前であった事実(藤木久志『刀狩』)・・・」だったそうです。

その後も、「百姓からの大規模な武器没収政策が実施された形跡は、江戸時代を通じて、ただの一度もない事実である。それでも『今度のような一揆』は幕末までついに起きなかった。」ということです。

ですから、大規模に命をやり取りした一揆は「島原・天草一揆」が最後になるわけです。

話はまだあるのですが、到底書き尽くせないので、ここらでやめますが、「島原・天草一揆」には「百姓一揆説」、「キリシタン説」、「関ケ原残党説」等ありますが、話を聞きながら、固定観念を捨て、頭を空っぽにした状態から調べなおす必要があることを感じました。


(内容については講義、レジメを参考にしましたが、分かりにくかったと思います。
 あとは、自学自習で調べてください。くどいですが、固定概念を捨てて。)




2016年9月20日 (火)

「有馬の地の小浜で見出された聖なる十字架について」~雲仙市小浜町

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上の本は、一人の作者ではなく、複数の研究者が、「『文化交渉史の舞台』の問題点を見出し、アプローチをした論集である。」という本です。

この中に、山口敦子氏(三重大学人文学部准教授)の論文の中に、「ヨーロッパの図書館・文書館の長崎関係キリシタン資料」があり、海外の図書館・文書館には日本のキリシタン関係の古文書が多く残され、いま、徐々に公開されつつありますが、それについて言及したのもです。

その中で、「日本で奇跡的に出現した十字架」というのがあり、これについては、フロイスの「完訳フロイス日本史11」(中公文書・大村純忠・有馬信編Ⅲ第88章第三部三章)のなかで、詳しく書かれています。長いので、簡単に書くと、1589年の降臨祭の折、ミゲルというキリシタンに、父リアンが降臨祭のために薪を取ってくるように命じます。

ミゲルは木を切ってきて、薪にしようと真っ二つに割ったところ、「割られた部分が二つに分かれた時に、彼はその一つの中央部に半パネル以上の長さの十字架が見事に形作られているのを見たが、その樹木はもともと全体がきわめて白いのに、十字架の部分は赤と黒の中間色であった・・・割られた片方の部分に目をやった。すると、そこにも同じようにもう一つの十字架が刻みこまれているのを認めた・・・・」(フロイス日本史)という事です。

なお、山口氏よれば「バレト写本」にもあるそうで、調べてみると、「キリシタン研究 第七編」の「日本にて奇跡的に出現したるクルスの物語」として、

「ゼズスの御出世以来、一千五百八拾九年目 日本天正一七年霜月ゼズスの御誕生日なり。
その前の日、有馬修理の大夫晴信公ドン・ポロタジオの領内高来郡の中に小浜という所に、稀代不思議のこと出で来たり、その所に一人の老翁あり、その名をばレアンという、その翁にミゲルといふ二十歳の子あり、・・」と、フロイスの中身とほぼ一緒です。

なお、岡田章雄の研究によれば(キリシタンの奇蹟ー柿の木に現れた十字架ー)に、「この一五八九年の小浜での奇跡以降、一五九二年に大村喜前領福田、一六一一年に肥前大村郡村、一六一二年に長崎郊外、一六一三年に浦上、一六二六に大村で、小浜と同様に木の中から十字架が出現したという記録がある。」という事で調べたら、「キリシタン研究 第六鯿」、「ディエゴ・デ・サン・フランシスコの報告書」に

「・・・大村領で或る百姓が薪にするた木を割っていた時に、木の中心にタイトル(訳注・十字架にあるJ・N・R・Iの文字)のある二つの同じ十字架を発見した。その大部分が死・喪・悲しみを表わす黒色の十字架であり、残りの大部分は殉教の酷しさを表わす灰色で、一部は(その十字架を)与えられる人の勝利の徴しの白色であった。・・・」

で、その十字架です。川口氏によれば、「ところで、イエズス会ローマ文書蔵の
Jap.Sin文書の第23集に、この奇跡の十字架ではないかと思われる絵がある。」

「これが小浜で出現した十字架と同一のものかは分からないが、共通点は多い。・・・濃褐色の十字架を内蔵したした白木の断面であるように描かれているが、これはバトレ写本および『日本史』で描写された十字架とそれを内蔵する木の特徴と一致する。絵の下半分が失われているので十字架の縦木の長さは分からないがカルワリオ十字の横木(INRIの表徴)の長さが十字架本体の横木の半分の長さであるという『日本史』の記述とあっている。また、『aparcco em Japao」(Japaoの「a」の上には「~」が付きます。)とあり、これは「日本で出現したという意味だそうです。

上に薄く書かれた文字については上記の通り、「これが日本で出現した十字架を描いたものであることがわかる。」と説明してあります。


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      (「長崎東西文化交渉史の舞台」より)

さて、これが本当の奇蹟なのか、自然的なものなのか、人為的なものであるかは現物がないので謎ではありますが・・・・



2015年12月12日 (土)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の五(おしまい)

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長い文書なので、二つに分かれています。PC画面を、そのままコンパクトカメラ

撮っているので、見にくいと思いますが、バチカンにある「口之津連判状」で

す。


あちらこちら調べること一カ月あまりでしたが、ある日、ネットで調べていると、「N

T DATA」の所に、「バチカン教皇庁デジタルアーカイビング」というのがあり、

こちらを→クリック


バチカン教皇庁図書館の約3000冊の手書き文献を、4年間でデジタル化する

ためNTTデーターが参加しているそうで、将来的には約8万冊、約4千万ページ

をデジタル化するそうです。その一部が現在ネットで公開され、その中に、この連

判状が公開されています。


クリックした後、上の方に「代表的な文献」がありますからクリックすると、9つば

かりの文書が出ています。「口之津のキリシタン教徒の連判状」がありますから、

それをクリックし、「閲覧する」をクリックすると、表紙から中身まで、上の写真の

ようにみることができ、拡大、縮小出来ますから、文字の細部まで見る事が

き、また、裏側から見た部分も見る事が出来ます。


あちらこちら、クリックしまく
ると、他の文書も沢山見られますが、日本のものは、

まだ、数点しかありません。


さて、この中に、この連判状が何故バチカンにあるかも書いてあり、解説を読む

と実にあっけないものでした。


「3段からなる封と署名付きの文書(かな、アルファベットでそれぞれ名を表記し、

さらに日本氏名を記載)。

折りたたまれた文書の中には、密着した一葉(22.9×211㎜)のドイツ語の翻訳が

あり、「J.loseph Dahlman S.J. 8 nov, 1923 with the collaboration of

Prof.Anesaki」とサインされている。

この連判状はイタリア人の学者かつ収集家および通訳、後に20世紀初頭の在

中国イタリア領事にもなるCav.Giuseppe Ros(1888-1948)によって京都の古物商

から購入された。そして彼の手によりローマ教皇の中国使節団である司祭

Celos Constantiniにもたらされた。その後、図書館かバチカン秘密文書館に保

存されていたが、1923年6月4日にバチカン図書館に納入された。

日本では、1614年徳川幕府の将軍がキリスト教信仰を禁止し、17世紀中頃か

ら250年の間キリスト教徒は自らの信仰を秘匿することを強いられた。この文章

は、最初の迫害(1597年の日本の26聖人の殉教死)の後、日本キリスト教徒

の信念を表している。」


ということで、この連判状が古物商経由でバチカンに行ったとは、夢にも考えて

なく、あぜんとしたものでした。


なお、松田毅一氏「キリシタン研究 第二部論攷編」によれば、松田毅一氏がこ

れを見たのが、1960年。「イエズス会員ダールマン氏の添え書きがあり、姉

教授の協力を得たとか、本年来訪された新村出教授が完訳されることを期待

る、と記されていたので」、日本の学会で発表がされたと思い込んで、すぐに返

却されたそうです。


なお、1970年にヴァチカン図書館を訪れた際、本書の閲覧と、写真版を入手し

たという事です。なお、「ダールマン氏によるドイツ語の解釈は誤って居り・・・」と

書いてあります。


こちらが、公開されている「ダールマン氏」の添え書きでしょうが、

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良く見ると、一番下の方に、新村とか、姉崎の文字が見え、ダールマン氏の署名

があり、「8 nov.1923」これが、解説にある「密着した一葉」で間違いないでしょ

う。

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良く見ると「42」、「Kuchinohsu」の文字が読め、口之津の連判状の42名の事な

かな?ドイツ語、全然読めません。

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さて、この公開された文書を拡大して見ていって、気になるのが

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筆頭に書かれた人名ですが、「まん所 Mancio 峯彦兵衛」。


普通、連判状などには、上位の者から書いていくのですが、○印の所、最初は

食いかなと思ったのですが、ここには印影があるはずなのですが・・・全部虫

の所を見ていったのですが、このような形の虫食いはなく、何となく人為的

なもを感じます。


さて、今回で「口之津連判状」を終わりますが、私が興味を持ったのは、なぜ、こ

の連判状がバチカンにあるかということでしたが、これは解決。ただ、何のために

写真版にし、マリア観音の中に入れてあったのかは謎のまま残りました。

                            
                             (「口之津連判状」おしまい)






2015年12月11日 (金)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の四

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「口之津連判状(キリシタン文書)」については、其の三まで書きましたが、「有馬

キリシタン記念館」で見るだけでは、納得できない所もあり、「口之津民俗資料

館」の館長さんに、お話しを伺いに出かけましたが、この資料館、館長さんの説

明が分かりやすく、面白いのでひっきりなしの見学者で、伺った日は朝から4組

もの団体が来所されたそうです。


で、新聞を読みながら不思議に思ったのが、新聞記事の「展示品の『マリア観音

像』(高さ19㌢)内に連判状の縮小コピーを発見。・・・」とあり、この「コピー」にひ

っかかりがあり、連判状の「書写」を発見なら分かるのですが、コピーとはなんぞ

や?と観音像を見にいったら、観音像の中に入っていた連判状の縮小版が、上

の写真のように展示してありました・・・「書写」なら分かるのですが、まったく本物

の縮小です。ただ、「ネガ」状態ですが。とにかく、ビックリしました。


本来は下のような大きさなのですが・・・この画像、YouT
ubeでも見られます。

館長さんの話によれば、観音像を振ってみたところ、カラカラと音がしたので、中

を出したところ、この写真版が出来たそうです。


で、コピー機は最近出来たばかりだし、はやり写真版でしょうが、慶長時代まで

かタイムマシーンで行って撮ったのかなと、そんなことはないし。

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なお、マリア観音の出所は、根井浄氏の「浄土僧のキリシタン改宗施策~嶽南

風土記 NO16」によれば、「口之津歴史資料民俗資料館にマリア観音像を寄

贈されたのは長崎市在住のT氏。元々T氏の父親が古物商から購入されたもの

という、2008年1月17日付『西日本新聞』長崎版、2008年1月16日付『島原

新聞』(参照)。」となっており、館長さんも詳しいいきさつは聞かなかったという事

でした。(注:名前はイニシャルにしました)


さて、これから少し複雑になるのですが、根井氏の同書によれば、「昭和47

(1972年)、松田毅一博士が当時の島原歴史懇話会(会長宮﨑康平氏)の

催で講演されたおり(私も出席)、懇話会の皆さんに提供されたものと思われ

写真の複製とも思われる。」とあり、寄贈されたのが008年頃、口之津の館

さんが発見されたのが2008年。


ということになれば、松田毅一氏が長崎かどこかで見たのか、もう一つ考えら

るのは、同コピーが複数あったのか?これ以上は、残念ながら追い切れませ

でした。


いずれにせよ、長崎で写真撮影所を開業したのが上野彦馬で、これが文久2年

(1862年)ですから、この写真版はそれ以降のものだといえますが、誰が、何の

ために写真を撮り、マリア観音像のなかにいれたのか、いろいろ推理は出来るで

しょうが、謎のままでした。


さて、この連判状、この一通だけではなく、「イエズス会日本報告書 第Ⅱ期3

巻」、「1613年(慶長18年)長崎発信、ジョアン・ロドゥリーゲスのイエズス会総

長宛、1612年、日本年報」、「口之津の司祭館について」の所に、「・・・さらには

自らの生命を棄てても我らのイエズス・キリストの信仰は捨てないでいることを認

めた。この覚悟をたしかなものとするために、一枚の紙にすべての者が署名をし

た。最初は聖母マリアの兄弟会の信徒であった六十六名。またその他の者も一

人残らずこうして署名をし名簿を保管して、そのような試練の時が来れば、殿お

よび吟味役たちに見せることにした」。


また、同書、第二期第2巻、「セバスティアン・ヴィエイラのイエズス会総長宛、

1613年度(慶長18年)・日本年報」、「有馬およびその他、高来の地域にお

ける布教について」の所、「・・・聖ヨゼフの庇護のもと、ある信心組(コンパニア)

作られ、そこで誓いがたてられ、歯を抜かれようと、爪をはがされようと、どん

に残酷な拷問にたえなければならなくとも、燃えさかる炎のに投げ込まれると

ても、信仰も守り続けることが約束された。その内容を私はここに明確に記し

た。彼らが一つ一つそれらを認め、誓約文の中に盛り込んでいったからであ

る。」


また、同書に「彼らは、イエズスを裏切ることはしないという誓いを、墨でなく、指

から出した血によって各自、書き記したのであった。」


「信心組にまだ入ってなかった四十名の者は誓いを定め、自らの血をもって署名

し、イエズスの愛のために生命を捨てるつもりであることを率直に示した。」


とあり、「口之津連判状」の他に、これに類するものが、複数作られたことが分か

ると思います。


で、これらは読んで見ると、バチカンに送るためのものではなく、自分たちの信心

の確認のための連判状だということが分かると思います。


では、なぜ、「口之津連判状」だけが、バチカンにあったのか。答えは意外なとこ

ろから分かったのですが、手品の種明かしと一緒で、「な~んだ」になるので、種

明かしは、次回に。とにかく、これ分かるのに一カ月ばかりかかりましたから。

                                       (以下、次号)








2015年12月 9日 (水)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の三

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前日の写真と同じで、申し訳ないのですが、赤丸の所、「常土(浄土宗)のちやう

老」と書いてありますが、これが幡随意上人のことですが、幡随意については、

下の機関誌に、根井浄氏(元龍谷大学教授)が「浄土僧のキリシタン改宗施策ー

運誉上人から幡隋意上人へー」、「有馬 島原に派遣された幡隋意上人『幡隋

意上人諸国行傳』」に詳しく書かれています。


読まれたい方は、南島原市教育委員会に問合わせれば、事務局を教えて貰え

と思いますので、興味のある方は一読を。

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さて、幡隋意上人の成果について根井氏は「また文化八年(1811)年鷹矢純芳

『国乗遺聞』(巻五)は、やや潤色性があるとはいえ、北有馬日野江にあった観

寺(浄土宗寺院につき『白道寺縁起』に伝くとして幡隋意上人の動向を次のよ

に伝えるとして、長文なので、関係ある所だけをかくと


「我カ黨ヲ窮地セシムル者ハ、幡隋意ナリト恨ヲ上人ニ結ビ、数十人鉄砲ヲ提

ヘ来テ、道場ヲ囲ミ師ヲ害セント欲ス・・・」、と闘争ががおこなわれたみたいです

が、その後、幡隋意上人は「闘諍ハ僧門ノ業ニアラズ」という事で、「端座シテ合

掌ヲシテ十念ス」という事で、「此時邪徒等鉾ヲ倒(さかさ)ニシテ着座シ説法ヲ聴

聞シテヨリ、皆悪心ヲ翻シ、此宗ニ和シケルトソ・・・」と上手くいったようですが。


「耶蘇天誅記」によれば

「郡中所々ニ於テ、数日説法アリケレトモ、耶蘇ノ先入更ニ不転故ニ信心聴聞ノ

者無リシカハ、和尚モ恍惚果テ申サレケルハ・・・」とこちらは、失敗したように書

いてあります。


また、「肥前国有馬古老物語」には

「左衛門佐殿(有馬直純ー根井註)関東より幡随和尚という碩徳を申請、嶋中の

人員を集め、十七日説法談義成され候共、一人も信心聴聞する者これ無し故、

和尚仰せられ候は、何事を教化いたし候ても役たたず」と書かれているそうで

す。(根井浄氏~浄土僧のキリシタン改教施策・嶽南風土記より)


さて、西洋の記録は、探してみたら、レオン・パジェステの「日本切支丹宗門

史 上巻」、第十五章、1613年(慶長18年)の所「左衛門佐(注:有馬直純、有

馬晴信の子)は、やがて浄土宗の佛僧『幡随院』を政廳から連れて来た。彼は、

この佛僧に領内の住民を堕落させる任に當らせた。然し、一人として地獄の手

先の説教を聽きに來るものはなく、子供等は往來に來ると彼を馬鹿にするので

あった。・・・」


なお、パジェステは1814年(文化11年)生まれであり、この事を実際に見たこと

もなく、原典は?と思ったら、あれと、あれしかないんで、あれとは「イエズス会報

告書」か、神父の書簡類ですが、調べると、「十六・七世紀 イエズス会日本報告

第Ⅱ期・第2巻」、「六 セバスティアン・ヴィエイラのイエズス会長宛、一六一

年度・日本年報」の所に、「(有馬)ドン・ミゲル(直純)が政庁から連れて来た

僧(幡随意上人)の到来に生じたこと」のなかに


「・・・殿は皆が説教を聞きに行くように命じた。そしてたとえ何人かが(その命令

を)実行するために彼(の説教)を聞きに行ったとしても、それはその仏僧の愚か

な言葉を聞くためというよりも、(路傍では子供たちがしていたことだが)かれをか

らかい冷やかすためであった。・・・」


という事で、ほとんど同文で、特に子供の表現に関しては、ほぼ、「イエズス会日

本報告書」を参考にしたことが分かります。


で、幡随意和尚の努力は、あまり効果が無かったようで、もっとも、イエズ
ス会日

本報告書は、宗教的対立する宗教ですから、これは割り引く必要があります

が・・・・

                            (まだまだ続く、以下次号)








2015年12月 8日 (火)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の二

5_3

上の文書は、なぜ連判状が書かれたかの最後の決意の部分です。



今度常土のちやう老

下向ニ突而組中ニさまたけ

出申来者十類一命可

棒覚悟候この為証拠

てうすは阿てれひいりよす

ひりつさんと三ッのへるさう

な御方をたてまつり候仍候而

各件候

       右の人数四十二人

慶長拾八年      口津

 三月廿二日      備中

(松田毅一解読による)



「常土」は「浄土(宗)」、「ちやう老」は「長老」、「てうす」は「デウス」、「は阿てれ」

は「バアテレ・父なる神」、「ひいりよ」は「ヒーリコ・世に現れた聖なる子、キリス

ト」、「すひりさんと」は「スピリッサント・信仰に経験に顕示された聖なる精霊」、

「へるそうな」は、「知恵と意思を備えた独立を備えた独立の主体者に殉教を誓っ

ている。」。(根井浄氏~嶽南風土記16号)

要するに三位一体の事を言っているのでしょう・・・・と思います。


五野井隆史氏(東京大学名誉教授)によれば、有馬直純が江戸に発ったのが

1613年1月(慶長18年)、帰領したのが同年6月。「将軍秀忠に命によって浄

土宗の碩学幡随意上人も有馬に下向した。これは長崎奉行長谷川が人選した

ようである(モレホン前掲書)。前期『日本年報』は、直純が一仏僧を帯同して領

主のきりしたん教界を破壊するためにきた、という。・・・・注目すべきことは、江戸

神田の新知恩住職幡随意の下向が直純の参府後まもなく決定し、そのことが早

速有馬に伝えられ、口之津のコンフラリアの組もすぐに対応して、全員一命を捧

げて殉教することを決意したことだ。」


なお、東京大学「大日本資料 第十二編の九」の慶長十七年三月二十一日の所

に(訂正増補 日本西教史下第十四章)の部分に幡随意のことが書いてあり、

多分、「日本西教史」は、ジオン・クラセ著、太政官翻訳係のものだと思います。


「幕府、耶蘇教ヲ禁ジ、所司代板倉勝重ニ命ジテ、京都ノ耶蘇寺院ヲ毀タシメ、

又、旗下ノ士等の耶蘇教ヲ奉ズルモノヲ罰ス、尋デ、肥前日野江城城主有馬直

純、長崎奉行長谷川藤廣ニ令シテ、ソノ教徒ヲ禁壓セシメ、マタ、僧幡随意ヲ有

馬ニ遣シテ、教徒ヲ誨諭セシム」とあります。


また、藤原有馬家世譜には(島原半島史上巻~林銑吉著より)

「同(慶長)十八年癸丑六月、駿府より、有馬日野江城へ帰りたまふ、・・・此時

台命に依て、浄土の碩学幡随上人、九月有馬へ下向ありて、道場を設て、耶蘇

の愚民を化度し、従はざる者は公武威を以て、此を成敗し、封内頗平治す・・・」


このほかにも幡随意については、各種の資料に書かれているのですが、慶長十

七年であったり、慶長十八年に有馬に来たと書いてありますが、いずれにしても

の時代、慶長十八年三月には連判状が書かれたという事は、情報が如何に

かったのか伺えるところです。キリシタンの情報網があったのかな?


さて、この幡随意の活躍がどうだったのかは次号にて。

                                  (以下次号)

 


2015年12月 7日 (月)

「口之津連判状(キリシタン文書)」覚書 其の一

1

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(「キリシタン研究・第二部論攷編~松田毅一著・口絵より・風間書店刊)


口之津のキリシタン42名が弾圧の中で書いた「口之津連判状」です。この文書

について調べてみると面白く、全体像は分からないものの、いずれまた調べるこ

ととし、一応分かったことを自分なりに「覚書」とし、書いてみることにしました。


なお、「連判状」は「口之津民俗資料館」と「有馬キリシタン遺産資料記念館」に

展示がしてあります。


上の写真のネガみたいのは、松田毅一氏が書いた、「キリシタン研究・第二部論

攷編」の口絵に載っていたもので、本物は新聞に載っているようなもので、縦

20㎝、横1m60程度の横に広いものです。

Photo

口之津民俗資料館に展示されたいきさつについては、新聞記事を要約すると、

資料館の館長さんが「マリア観音像」(高さ19㎝)をY氏から寄贈され、その中に

連判状の縮小コピーを発見。

松田毅一氏の著書に「バチカン図書館」で1960年、この実物を見たとあるのを

確認し、関係者を通し、バチカン図書館から複写画像と展示許可をもらったもの

だそうです。


ただ、本物の撮影はバチカンとの協定でNGです。上の写真は、その連判状の

しになります。これについても、後で述べます。


口之津資料館はお客さんがいつも多く、有馬キリシタン遺産資料館が静かに見

られるので、二回ほど行ってみました。実物(写真版)と一番上に載せている、ネ

ガ状のものは筆跡等、全く一緒のものでした。


連判状の中身は、最初の行に「組中 れん判」、その後、一番上に「洗礼名」。そ

の下に印影、竹を切って押印した○印が、3~4ヵ所。その下に洗礼名のポル

ガル語。この文字は、筆でなく、多分ペン字でしょうが、かなり、習熟した感じが

あります。五枚の紙をつなげ、赤○印が契印で4ヵ所。最後に、信仰を守って

いくとの決意の文章。


これを見ている時に、ふと、二つの疑問が湧いたのですが、一つは、この文書が

バチカン図書館にあるということで、日本からローマに送った文書で、信仰を守る

という文書が、コーロス徴収文書、コリャード徴収文書(これについては千々石に

も関係あり、調べている途中なので、後日紹介します)があります。

Img_20151206_0001

  (近代初期日本関係 南蛮資料の研究~松田毅一著)

上が「コーロス徴収文書、コリャード徴収文書」で、上の2段になっているのが、

大村からの文書ですが、右に(長いので写真が切れていますが)日本の状況、

信仰を守る旨等の事が書いてあります。この形式は、すべて一緒です。


「御主てうす乃御名誉の為又何国にても真の証拠阿らハれん為に左乃理を書記

す者也

一 此以前の事は不申及而内府様日本乃き里志たんたあてに対しへるせきさん

を・・・・・・」(近世初期日本関係南蛮資料の研究~松田毅一著)と文章が続き、

その後、署名、印か花押が続きます。


この、「口之津連判状」では、いきなり名前から始まり、最後に決意をする経過が

書いてあり、形式が違っています。


最初に「組中」となっており、普通は「ロザリオ組中」、「周防国岩国きりしたん」、

「有馬組中」等、どこかに書いてあるのですが、これについては、根井浄氏(元龍

谷大学教授)が、「連判の『組中』とは初期キリシタン信者の組織を示唆してお

り・・」と書いています。
   


さて、もう一点、あれ!と思ったのが、筆跡が非常に似た部分があること。

1 2 3

「るいす」(Lisu)という洗礼名が3名ほどあります。この「連判状」の筆跡につい

ては、根井浄氏によると、「・・・筆跡の鑑定はできないものの、個々一人ひとりに

よる署名とは考えがたい。清書された感じがあり・・・」(嶽南風土記16号~有家

史談会刊)とあります。


氏名については、42名中、姓と名があるのが35名、名のみが7名と、ある程度

上部の者と思われます。 

                                  (以下次回)


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