キリシタン関係

2020年8月22日 (土)

第6回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」~キリシタン禁制の高札

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今回で6回を迎えました。千々石関係の古絵はがき、島原・天草の乱の資料、アニメ・挿絵の原画、栗原玉葉、長崎関係の古地図と古絵はがき、そして今回が「キリシタン禁制の高札」。

キリシタン高札については、先日から書いているので、こちらを→クリック こちらも→クリック


高札はケースの外に出しているので、博物館の展示とは違い、間近に見られます。読み方、内容の説明も置いておりますので、ご利用を。


大きな高札場は浮世絵などにも登場しますが、上の右の絵図、南串山の古地図を見ると、庄屋さんの家の横に、「御高札」と描いてあります。なお、よく見ると石垣が組まれ、高札は柵の中に立てられています。


以前紹介しましたが、庄屋さんの古文書を読むと、出火のとき、最初に高札場、郷蔵を守るように書いてあり、高札がいかに重要なものであったかが理解できます。


コロナの影響で、人を集めるチラシをどうしようか考え、一ト月ばかり延ばしましたが、町内は来週の初め配布する予定です。

市外の方は場所が分からないとのことで、チラシの一番下に写真を入れました。
チラシはクリックすると拡大しますので、ご覧下さい。

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なかなか本物を間近に見られることはないので、是非のお越しを。10月末まで展示をする予定ですが、「きまぐれ」なので延期するかもデス。


2020年8月17日 (月)

「仙石秀久」と「長崎奉行」と「島原・天草一揆」~徒然なるままに

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以前、宮下英樹氏の仙石秀久についての作品にのことをよく書いていました。久しぶりに本屋さんに行ったら、並んでいたので思い出し、買って来ました。

先日より「キリシタン訴人の褒賞金」のことを書き、長崎奉行の長谷川権六について調べたのですが、その時、ついでに長崎奉行の一覧をみていると、長崎事典に、「第十一代奉行 仙石大和守久隆」となっており、仙石といえば珍しい名前で調べてみたら、千石秀久の7男さんでした。


奉行としては寛永十二年に榊原飛騨守と二人体制の奉行になります。わずか一年で馬場三郎左衛門と交代(長崎實録大成)。


長崎辞典では最後に「在任短期間で特記すべき事項なし。」とは書いてありますが、秀久さんの子どもさんなので調べてみると、實録大成の仙石久隆の所に、かの「金鍔次兵衛」さんの事が書いてありました。「金鍔次兵衛」については以前書いていました→こちらをクリック ついでに→こちらをクリック 。


「次兵衛ト云う邪宗門(中略)但此者平日金鍔ノ脇指ヲ指タル故、異名ヲ金鍔次兵衞ト云。同十四丁丑年六月訴人有テ召捕之。」ということは、仙石久孝さんが異動した後のことになりますが、気になるのが「訴人有テ」という所で、先日「訴人褒賞制」の事を書いたばかりですが、この「訴人」の方、莫大な褒賞金は貰えたのでしょうか?


これだけかと思って念のため「新訂 寛政重修諸家譜」(続群書類従完成會刊)を調べたら、下のような文が目に付きました。


(寛永)九年細川越中守忠利肥後國をたまふにより、十月十六日仰せをうけて板倉内膳正重昌に副て熊本に至る。


「板倉内膳重昌」といえば、「島原・天草の乱」で討ち死にした大将ですが、仙石久隆さん、城の引き渡しの時、板倉重昌の副史としてお供しているのですね。


さて、板倉重昌のことですが、「島原の乱とキリシタン」(五野井隆史著)より要約すれば、板倉重昌は一万五千石の小大名。重昌に付けられた石谷貞清は寛永十年に目付となり、上総・相模・甲斐三国のうち1500石を知行。


この、「知行の少ない両人の人選は、幕府が島原一揆を簡単に鎮圧できると楽観視していたことを示していた。」ということなのですが、板倉重昌が選ばれたのは「寛永九年に細川忠利・忠興が熊本城に、小笠原忠眞が小倉に配置換えの時、上使を命じられ城引渡しの役を務めた。このことが、彼の島原派遣決定の理由になったという(岡田章雄『天草四郎』)」。ということなのですが・・・仙石久隆を調べるついでに「寛政重修諸家譜」を見ると、板倉重昌について次のような事もかいてありました。


(寛永)九年肥後國熊本城を細川越中忠利に、同国八代を細川三齋(忠興)に、肥前國小倉の城を小笠原右近大夫忠眞に、同国中津城を小笠原信濃守長次に、同国高田城を松平丹後守重直に、豊後國杵築城を小笠原壹岐守忠知にたまふにより、十月十六日にかの國々におもむき、城引渡の役をつとむ。


ということで、熊本、小倉のみならず、思ったより多くの九州の城の引渡役を務めたことが分かります。多分、このことが九州各藩の事情を良く知っているという事で、上使に選ばれた一番の理由だと思うのですが・・・


十四年十一月九日肥前國嶋原有馬の古城に、切支丹の賊徒盾籠ときこえしにより、誅伐の上使をうけたまわりて、有馬におもむき、十五年正月朔日賊徒等を惣攻のとき、原城出丸の塀際において討死す。年五十一。

なんとなく、徒然なるままに調べているうちに、仙石秀久→長崎奉行 仙石久隆→島原・天草一揆 板倉重昌と繋がり、歴史って面白いですね。



2020年8月15日 (土)

「島原の乱」と「京都遊廓島原」の希薄な関係&「コンビニぶらり!ラッキー3つ!!」

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以前より、島原・天草一揆の拠点「原城」の名前の由来・歴史を調べていたのですが、その折り、京都の遊廓「島原」の名前と島原の乱の「島原」とが関係あるというネットの情報があり、出典、根拠なども書いてなく、またネットデマかと思いつつも2冊ばかり本を読んでみました。

なお、こちら、島原・天草一揆の本場なので、数名の人にこの話をしても、知らないということでした。


「三大遊廓」。著者は”堀江宏樹”氏。作家・歴史エッセイスト。著書が「乙女の日本史」「乙女の日本史 文学篇」「女子のためのお江戸案内」等。


「地名で読む京の町(上)(下)」。著者は”守谷尅久”氏。主な経歴として、京都市史編纂所研究員、京都大学人文科研究所講師、京都市歴史資料館初代館長等。著作が「『花』が語る日本史」「京医師の歴史」「京都の祭り暦」「京都暮らしの大百科」等。


両氏が京都の「島原」について書いてある所だけ抜き書きします。


その前に、一応の歴史として、京都の遊郭は最初は天正17年、豊臣秀吉が認可して設けられ、場所は二条通りの寺町から柳馬場にかけて、二条柳町と呼ばれる。


二条城が築かれたため、二条通は大手筋と位置付けられ、遊郭が洛南の荒地六条通の新地町に移され、六条柳町・六条三筋町と呼ばれた遊郭で、「新屋敷」と呼ばれる。この地も東本願寺の寺内町で人口の密集のより再度の移転。


寛永17年、突如、洛北朱雀野への移転が命じられる。


森谷氏の書かれたものを抜粋しましたが、堀江氏の本では、もう少し内情が書かれています。なお、「突如、洛北朱雀野への移転が命じられる」がキーポイントになります。


堀江氏の本より・・・・・・

・・・板倉重宗(注:当時の京都所司代。なんと、島原・天草の乱で討ち死にした板倉重昌の兄。)によって指示された移転先は、京都の西端の「朱雀野」という、ずいぶんと鄙びた場所だったのです。さらにあまりに急な命令だったため、1641(寛永18)年の引越作業の騒動は、まるで「島原乱の如し」と話題になりました。
島原の正式地名は「西新屋敷」ですが、以降、島原遊郭と呼ばれるようになったのはこういう理由と経緯があったからです。

森谷氏の本より・・・・・・・

寛永17年(1640年:堀江氏の本では”寛永18年”)突如、洛北朱雀野への移転が命じられたのである。・・・・外周には土塀が設けられ・・・外界と隔絶されることになった。突如の移転命令による引っ越し騒ぎを、その数年前に勃発した島原の乱の混乱になぞらえて、「島原」と呼ぶようになったとか、堀に囲まれた新遊郭が島原城に似ていたからとも、たんに新地が島状になっていたからとも、命名の由来は例によって数説が伝えられている。

という事で、堀江氏は「島原・天草一揆」という説のみ、森谷氏は「・・・例によって数説が伝えられている。」と慎重な態度。多分、作家・エッセイストと学者という立場の違いでしょうが。大体の筋道は一緒です。

いずれの本も根拠、出典などが分からず、多分言い伝えなだけなのか、はっきりしないので「希薄な関係」にしました。

なお、遊郭の急な移転を命じたのが、島原・天草一揆で死んだ松倉重昌の兄重宗。この遊郭が「島原」と呼ばれるようになったというのには、なにか因縁めいたものを感じます。


森谷氏の本は「祇園 八坂神社ー栗飯にまつわる祇園祭、誹謗しあうおけらまつり・・・」など京都の各地についてのまじめな話です。


堀江氏の本は「遊女のヘアケア」「『つねる』と男は本気になる」「遊女が好んで用いた体〇」など面白い話が書いてあります。もちろん真面目なところもありますが・・・どちらの本を読むかは、自分の興味にあるほうを。


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今日、コンビニに行ったら、ラッキーなことが3つばかり。

「冷感マスク」については話ばかりで、こちら方面では実物は見たことがありませんでした。やっと、本物を手に入れることができました。一人一点だったので、明日、また買いに行く予定です。


「キリンレモン 無糖」が置いてありました。今年は、炭酸水が流行っているようですが、私も炭酸水を愛飲しています。以前より、キリンレモンの「無糖」が発売され、社長さんが自信をもって宣伝していたのですが、こちらではついぞ見かけることが無く、田舎では・・・と無念な思いをしていたのですが、やっと入荷していました。お味ですか?もったいなくて、まだ飲んでおりません。


「食べマス」が置いてありましたミニオンの「ボブ」さんですね。あと2種類あるとかで、また、明日行ってみます。


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これで、一週間は幸せに暮らせます。今日は本当にラッキーな日でした。

大事なことを書き忘れていました。九州の片隅で起こった島原・天草一揆の事が京都まで伝わっていたという事は、この一揆がいかに大事件だったのかが分かります。以前、八代市立博物館、南島原市で天草・島原の乱の展示会があり、図録の題が「天草・島原の乱 徳川幕府を震撼とさせた120日」でした。まさに、その通りだったのでしょう。



2020年8月 5日 (水)

「キリシタン訴人の報償金」と長崎の濃密な関係

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長崎の高札場風景。上は「長崎虫眼鏡」より。(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)

説明には


右之御制札

七串 桜町之辻
壱串 江戸町大波戸
弐串 おらんだ出島
三串 浦上村山王前
三串 長さきむら
四串 小せとむら

とありますが「串」の意味が分かりません。高札の数かと思ったのですが、「桜町」に7本は多すぎるような。


なお、下の図は「長崎名勝圖繪」(昭和6年発行・長崎史談會発行)より「出島」です。丸印のところが高札場だったと思われます。


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さて、話しが少し込み入ってきますが、「踏み絵を踏んだキリシタン」(安高啓明著・吉川弘文館発行)に下のように書いてありました。

キリシタン訴人褒賞の制札は、各地の主要高札場に掲げられた。長崎では、毎月一日から五日まで嘱託銀が置かれ、寛永三年には、銀三〇〇枚の現物が置かれている(「長崎実録大成」)。これが天和元年になると、五〇〇枚と増額して置かれるようになり、周辺三町から番人が配された。


ということで、ほんまに現物を置いたのかと思い「長崎實録大成」を読んで見ると(下書きと、ブロブにアップしたとき行がズレるのでベタで書きます。)


御高札並嘱託銀

一 慶長ノ頃ヨリ大波戸地内二御高札塲ヲ建置ル。寛永三年(1626)切支丹訴人為嘱託銀三百枚被掛之。(嘱託銀三百枚とあるは百枚の誤りかの・・・の注有り)
一 延實八年(1680)八月豊後町掛リ水溜リノ所二土石ヲ埋メ、左右垣ヲ埋メ、左右石垣ヲ築、御高札塲被引移之。
柵内 入二間二尺寸 長六間四尺二寸
但晝番一名  夜番三人宛相勤シム
一 天和元年(1682)嘱託銀二百枚相增、都合五百枚ト成ル。(以下略)

ということで、年代などを合わせると「踏み絵を踏んだキリシタン」が「長崎實録大成」を参考にしたことが分かります。


ここで「嘱託銀」というのがよく理解できないので、Wikipediaで調べると


嘱託銀(しょくたくぎん、そくたくぎん)は、江戸幕府が犯罪に関する密告を奨励するために出した報償金制度である。特にキリシタン取締りのために出された物(訴人報償制、そにんほうしょうせい)が知られており、これに限定する場合もある。


とあります、が、「概要」の所を読んで、エ~!ホンマかいなと思いました。以下の通りです。


1618年(注:元和4年)頃、長崎奉行を務めた長谷川権六がキリシタン弾圧のため市中に銀の延棒30枚を掲げてキリシタンや宣教者の密告を奨励したといわれている。1626年(注:寛永3年)に銀100枚へと増加された。これは長谷川独自の政策であったが、島原の乱後の1633年(注:寛永10年)鎖国令制定の際に江戸幕府においても正式に採用されて全国に広がる。(以下略)


ということで、長崎が「キリシタン訴訟人の報償金制度」のルーツということになります。


参考文献として「重松一義『嘱託銀』(『国史大事典7』、吉川弘文館、1986)」「清水紘一『嘱託銀』(『日本歴史大事典2』、小学館、2000年」「『日本史総合辞典』東京書籍 林陸朗 村上直 髙橋正彦 鳥海靖 1991年11月10日初版発行」と3冊の本があげられていました。ということは、このWikipediaの説明を書いた人は原典を読んだものではなく、3冊の事典、辞典を孫引きしたことが分かり、調べついでに3冊の本を読んでみました。


「国史大辞典7」には


しょくたくぎん 嘱託銀 江戸時代、切支丹(伴天連)禁令強化の一手段として用いられた伴天連訴人奨励のための懸賞金。そくたく・嘱託銀とも呼び記される。寛永三年(1626)長崎ではじめて行われ、同十年の鎖国令により全国へ拡大適用。訴人へ銀百枚と増額。同十五年以降は鎖国令と別に、諸国高札場に伴天連訴人には銀二百枚を与える旨の高札が掲げ、その徹底が図られた。


とあり、参考図書が「新村出『日本吉利支丹文化史』『新村出全集6』」「海老沢有道『日本キリシタン史』」「清水紘一『キリシタン訴人制度について』(キリシタン研究 19)」。本当はこちらの参考図書まで読まないといけないのですが、図書館にも置いて無いのでパス。


「日本史歴史大事典2」には~「そくたくぎん」にて標記。主なところだけ書き抜きます。


嘱託銀 そくたくぎん 犯罪密告奨励のための報償銀。・・・キリシタン摘発時の報償銀が最高額であった。同褒賞銀制度の起源は一六一八年(元和元年)頃、長崎奉行長谷川権六によって市中の要所に延棒が陳列され、同地の潜伏する宣教師の密告が奨励された。・・・島原・天草一揆後諸国のキリシタン根絶に乗り出した幕府により、全国令として布達(1641年)。


参考文献として「清水紘一『訴人褒賞制について』(キリシタン研究第十九輯)


「日本史総合辞典」~この辞典は分野別に分けて書かれてあり「キリスト教の禁止と島原の乱」に「訴人報償制」として記載。


訴人報償制〔そにんほうしょうせい〕 ・・・密告人に対しては報奨金を与える政策をとった。元和4年(1618)長崎で初めて開始されたと考えられ、島原の乱のち全国的に適用されるようになった。・・・(参考文献記載なし)


この長谷川権六については「長崎事典」に次のように書かれています。


長谷川権六郎守直(はせがわごんろくろうもりなお) 生没年出自共に不詳。4代目奉行。・・・長崎奉行に存在した時期も慶長十九年十二月~寛永三年(長崎奉行歴代略譜)。元和元年(1615)~寛永二年二年(1625)「長崎実録大成」。また、元和二年(1616)(柳営補任)など不同である。寛政重修書家譜には、長谷川権六らしき人物は全く記載がなく見当たらない。


なお、〈事績〉としてキリシタンと関係ある所を書けば「①宗門人別帳をつくる。」とあり、あとキリシタン教徒を処刑したとあるばかりで、キリシタン訴人報償については記載なし。


さて、先日ネットで論文を拾ったのですが、残念ながら、著者等を記録してなく、「キリシタン高札が最初に建てられたのは寛三年であった」と書いてあり、注の所に「『長崎叢書』増補長崎略史下巻七百頁所携寛永3年の条」と書いてありますが、これ、最初の「長崎実録大成」に書かれてある、「寛永三年(1626)キリシタン訴人・・・」と年代がピッタリ合うという事で、多分、このことだと思われます。


さて、長谷川権六の次の奉行は「永野河内守」で「長崎實録大成」には就任が「寛永三丙寅(1626)」になっており、長谷川権六には寛永3年の記載もあるので、ひょっとして、月までは分かりませんが、この年に「水野河内守」と交代した可能性もあります。


ただ、「長崎實録大成」の「永野河内守」に「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之。」との記載があり、初めに引用した「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之」と同じで、多分、「長谷川権六」と書かれているのは「水野河内守」ではないかと思ったりするのですが・・・


いずれにしても、「キリシタン訴人報償金制」「キリシタン禁制の高札」は長崎が発祥の地で濃密な関係があったような・・・長崎の歴史書は多く、また、出版されていないのもあので、不明な点は多くありますが、論文をいろいろ読むと、最後にこう書かれているのが多いようです「今後の研究を待ちたい」。私も、今後の研究を待ちたいと思います。


最後に、この褒賞金についてですが、銀300枚とか、200枚とか書かれていますが、江戸時代、貨幣は変動相場制、また、比較を大工の手間賃にするのか、米価にするのかなど一概にはいえませんが、ネット検索すると「3,400万」とか「3,500万」とか書かれたものがあり、とにかく、当時では想像できない金額だと思われます。


この、報賞金が払われたかどうかは、探してみましたが見当たらなく、ただ一つ「長崎剳記」に次のように書かれていました。


一 明暦三年(1657)酉十月十一日二、大村ノ百姓、長崎

     酒屋町ノ池尻理左衛門所ニテ、大村二切支丹宗門ノ
     者出来候由、申候。理左衛門、御奉行黒川与兵衛(注:16代長崎奉行)二申上、
   銀十三貫目、為御褒美被下候事。

という事で、報奨金は払われていたようです。この「銀13貫目」がいくらになるのかは、調べてみてください。


以前にも、高札の事を書きましたが、庄屋さんの書いたものに出火の時には高札場を守れという事が最初に書いてあり、高札はそれほど大切だったことが分かります。


下は、庄屋さんの所にあった絵地図ですが、大きな赤丸のところ。赤の矢印が庄屋さん宅、すぐ横に「御高札」と書いてあり、周りは柵に囲まれています。多分、各地の庄屋宅の所にもあったと思われます。


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長々とまとまらないまま書きました。この件に関しては、長崎の歴史を書いた本を読み解かなければいけないのですが、今回はこれにて一応終了。多分、誤字、脱字も多いと思われますが、お許しあれm(__)m。

 


2020年8月 2日 (日)

「切支丹禁制高札」を読む

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「高札」については以前2回ほど書きました。

1→こちらをクリック
2→こちらをクリック

今回、「気まぐれ資料館」に展示をするので、内容説明のため読んでみました。多少、間違いもありますがお許しあれ。

なお、上の写真、下の説明文とも、クリックするとはっきり見えます。


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意味は概略ですが


キリシタン(注:切支丹・吉利支丹・きり志たん・貴哩志丹、時代により色々な表現があります)は従来から禁止されている
不審な者があれば申し出でよ
褒美として

バテレン(司祭・神父)を訴えた者には 銀500枚

イルマン(修道士)を訴えた者には 銀300枚
キリシタンに立ち帰った者を訴えた者には 同じく(銀300枚)
同宿(教会の世話人)・キリシタンの者を訴えた者には 銀100枚

を与える


隠して他の者より分かった場合には、名主(庄屋)、5人組まで共に罪に問われる



他の人より訴えられ、バレた場合は名主、5人組まで罰せられるとは、厳しい。


さて、報償金の額を現代のお金に直すのは難しく、江戸時代、価格の変動があり、比較として大工の手間賃にするか、米の値段にするかで違いもあり、ということですがネットで検索すると「銀500枚は3,500万」「銀500枚は3,400万」「銀1枚は160gの重さで、これは庶民の約1ヶ月分の賃金に相当し、非常に高額な賞金である事が分かります」などと書いてありました。


なお、高札場は各村にもありましたが、下の絵は都会の高札場。左は三代目広重の「東京三十六景  日本橋御高札」。右は作者、場所不明。

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次回は、キリシタンを訴えたときの報償金と長崎の密接な関係を。多分。・・・夏バテしてなかったら・・・



2019年5月30日 (木)

「ボーッと生きてんじゃねえーよ!」★天正遺欧少年使節

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先日、カーラジオをなにげに聞いていたら、「天正遺欧少年使節」のことを話していました。

ラジオの電波が悪く(田舎だから、電波が届きません)きれぎれですが、多分、講師の方、アナウンサー(男性)?、ゲストorアナウンザー(女性)?の3名。


で、講師の方が、「昔、西欧に行った天正少年使節の名前、知っている?」と女性の方に尋ねたら・・・


「・・・え~・・・あ!天草四郎!」


思わず、ラジオに向かって「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と叫んでしまいました。


で、冷静に考えてみると、私が千々石に住み、千々石出身の千々石ミゲルが天正少年使節の一員であるから、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルティノ、千々石ミゲルと名前が出てくるのですが・・・


まあ、何をいっても同じで、興味の無い方は知らないのかなと思い、世の中こんなものかと諦めました。


え!あなたも、名前を知らない?失礼しました m(_ _)m。



2018年7月30日 (月)

「深溝世紀」に見る潜伏キリシタン

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「深溝世紀」。「ふこうずせいき」と読みます。

で、これが何かというと、「深溝世紀 現代語訳 巻四 孝公(家忠)編 上 島原図書館・郷土史を学ぶ会」の「『深溝世紀』解題」として、郷土史家の松尾卓次先生が次のように書かれています。

「藩政奉還によって島原藩が消滅することになったので、歴代藩主の業績や藩内外の出来事をまとめて、後世へ伝えることにした。
そこで島原藩庁は明治三年に編集局を設置して、藩校稽古館教授・渡部政弼(太平)を主任に選び、その編集事業にとりかかった。藩日記や家譜など書記録を元に作業を進め、家中にも呼び掛けて旧記の提出を求めるなど精力的に務め、明治五,六ごろには一応終了している。島原藩主はかって深溝松平氏と称していたことから、書名を「深溝世紀」となずけた。」という事で、全二五巻、一五冊にまとめられています。

上は「深溝世紀 巻十七巻 靖公」。「靖公」は「松平忠憑(ただより)」。明和八年~文政二年(1771~1819年)。

キリシタンは、江戸時代に密かにキリスト教を信仰する人を「潜伏キリシタン」。明治になり、信仰が自由になり、教会に戻れるものを祖先からの教えで、自分たちだけでキリシタン信仰を守っている方を、立場によって違いますが、「かくれキリシタン」「隠れキリシタン」といいます。

禁教時代、隠れてキリスト教を信仰し、バレた場合は、一般的に拷問、死罪など思い出すのですが、上の本を読んでいると、次のような記述がありました。

原文は漢文ですが、読み下し文に直してあります。

「天草郡大江等三村の民(餘の二村の名は不詳)密かに天主教(注:キリスト教)を奉ず。幕府公事方勘定奉行(松平兵庫頭)をして命を伝えて之を検治せしむ。公(注:松平忠憑)即ち吏を遣わして其の民を捕まえて糾明せしむ。皆曰く、『我が輩は祖考の遺言に遵いて之を奉ずるのみ。敢て他心あるに有るに非ざるなり』と。公其の愚昧にして法禁を犯すを憐み、其の状を上申するに寛典を乞う。之を聴(ゆる)す。因って其の祭る所の天守像を収め、各々をして改心して旦那寺の宗法を守らしめ、更めて影踏(注:踏み絵)を命じて復た其の罪を問わず。

ということで、潜伏キリシタンにも関わらず、祖先からの遺言で、それを守って他心はない。という事で、これを「憐み」、天主像(キリストの像)を捨て、旦那寺(キリシタンで無いという証拠に、各寺に属し、家族全員の名前、年齢を地方によって違いますが、「宗門改帳」に書き、また、普通、年一回、踏み絵をします)に属し、改めて踏み絵をし、その罪を問わなかった。ということで、こんなこともあるのだなと、改めて感じた次第です。

ただ、転びキリシタンの場合は誓詞に血判を押させ、キリシタン切支丹類族帳に記載され、男性は6代(7代と記されているものもあり)、女性の場合は3代まで監視され、年2回の届け出、踏み絵が義務づけられ、転びキリシタン当人は、火葬されていたのですが、そこまで許されたのかどうか、この文章だけでは判断がつきませんでした。



2018年6月16日 (土)

「かくれキリシタン・カクレキリシタン・隠れきりしたん」


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6月24日~7月4日に開催される、ユネスコの世界遺産会で「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」が指定を受けるような風向きです。確か以前は「長崎の教会群とキリシタン遺産」といっていたようですが、イコモスの勧告で構成を変えた記憶があります。

島原方面は、外海、生月、五島等と違い、はっきりした、かくれキリシタンの「組」がありませんが、禁教後、島原南目の有馬地方、西目の千々石からもバチカンあて、まだキリシタンとして、教えを守っているとの文書が出ているので、形態は分かりませんが、かくれキリシタンがいたことは想像できるところです。

さて、キリシタンの伝来、キリシタン時代、禁教時代と調べていくと泥沼にはまり込みそうなので、できるだけ避けているのですが・・・・

上の3冊の本、「かくれキリシタンの実像★宮崎賢太郎著」は以前から持っていたのですが、まだ読んでおりません。新しいのが「かくれキリシタンの起源★中園成生著」。一番新しいのが「消された信仰★広野真嗣著」。で、この本が意外と売れているらしく。

 

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いつもの本屋さんの入り口に積んであり、見ていると意外に売れてますね。

さて、宮崎氏と中園氏の意見は分かれており、端的にいうと、表紙、本の帯に書かれておりますが、宮崎氏は「弾圧に耐え信仰を守ってきたとされる〈隠れキリシタン〉が、大切にきたものはキリスト教ではなかった・・・・」との立場です。

「カクレキリシタンは自分たちがキリシタンであることを隠すために、仏教徒や神道の氏子を装って隠れているのではなく、カクレキリシタンの神様を誰かに見せたりすれば災い(タタリ)があるかもしれないとか、拝んでも効き目がなくなることを恐れ隠しているのです。厳密にいえば、彼らはキリシタンではなく、ご神体を他人には見せない『隠しキリシタン』であるというのが本当の姿なのです。」と、本の中では書いています。

さて、中園氏の本は500頁弱あるので、まだ読んでいませんが、本の帯には「従来の『殉教しなかった弱き者』『教義を理解せず勝手に信仰を変容させた無知な信者』『弾圧を避けて辺鄙な離島に隠れた貧しい民』といったステレオタイプ的な捉え方を否定する。

 

かくれキリシタン信者は本来、為政者の法に逆らうことで弾圧を受ける危険を負いながら、仏教や神道との併存という形の中で、キリシタンの信仰形態を継続させる事を自ら選択した強い人である。」と、宮崎氏とは反対の立場をとっています。

これには2人の立場もあるかとおもいます。以下は私見になりますが。

宮崎氏は、長崎のミッションスクール、純心大学で教鞭をとられ、自らもクリスチャンです。

キリスト教は一神教の宗教で他の神様は認めていません。まして、カクレキリシタンのように、他の宗教と習合することは、認められる立場にはありません。

中園氏は、平戸市生月町博物館・島の館学芸員で、いつも、かくれキリシタンの方とのつきあいがあり、上に書いたような見解を持ったものだと思われます。

さて、「消された信仰」の広野真嗣氏は、あまり熱心なキリシタンではないものの、ジャーナリストで、生月町に何回も通いながら調査をしています。
どちらかというと、中園氏寄りですが、宮崎氏と中園氏の理論もよく書いてあり、最初読むなら、こちらの本がお薦めです。

面白いことに両者について「興味深いことに、かくれキリシタンの祈りの文言の解釈をめぐって、双方とも”現代人の発想”から離れることを求める。・・・」と書いてあり、後は上に書いたように、両者のスタンスの違いだと思います。

「消された信仰」には、そのほか、なぜ生月町が登録遺産に入らなかったのか、県の姿勢、イコモスの方針、また、宮崎氏へのインタビューとその感想など、分かりやすく書いてあります。

さて、遺産として登録されるのは良いことなのか。長崎の大浦天主堂は有名ですが、いつも観光客で一杯です。「信徒のためには大浦教会という別の御堂が近所に建てられており、大浦天主堂を教会として使うのは、極めて限られた記念行事のときのみだ。」と、庇を貸して母屋を取られる、ですね。

また、経済効果も期待されますが、「たしかに、経済効果はわかりやすい。2007年に登録された岩見銀山(島根県)では登録前年に40万人だったが観光客が登録翌年には81万人に増加した。2014年の富岡製糸場(群馬県)の場合はじつに前年比4倍増の133万に上がった(ただし、石見銀山は6年後の2013年以降減少に転じ、2016年は31万人と登録前水準に戻った。富岡製糸場はわずか2年後の16年には80万人に減少している)。」ということで、長崎は離島・天草まで遠距離を含みますから、どうなるんでしょう。

「かくれキリシタン」「カクレキリシタン」「隠れキリシタン」。各立場によって表現が違うようです。自由に教会に戻れるものを、戻らないので、「はなれキリシタン」という人もいますが・・・・

私は、浄土真宗で、阿弥陀如来を頼みとし、同行二人(どうぎょうににん)を信じ、産土神、氏神には数日に一度お参りをし、クリスマスにはドンチャン騒ぎをしますが、いいじゃありませんか。愛する人はカミサンだけなので、信じる神様、仏様はたくさんいても。



2018年5月21日 (月)

「漫画で読む長崎キリシタン史 夢日記」~西岡由香著

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「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が「世界文化登録遺産」になる感じで、教会の写真集とか、教会、キリシタンに関する本が随分増えてきたような気がします。

上の本は、平戸、橫瀨浦、島原半島、有馬、大村、外海、長崎等の歴史、ポイントなどを描きながら、フロイス、天正遣欧使節、有馬晴信、セミナリオ、中浦ジュリアン、島原の乱、ヴァリニアーノの事に触れ、漫画とはいえ要領よくまとめてあります。入門書としては適当かなと思いました。著者をみると、長崎大学非常勤講師になっており、参考図書などみると、よく調べた事が納得できます。多少、ロマンチックかなと思うところもありますが・・・読んで損はありません。

さて、以下は、思いつくままの私見になりますが。

島原半島では、原城のみが候補地になっていますが、上の本を読めば分かるとおり、口之津、日野江城(日之枝城)が、キリシタンの歴史としては重要なポイントになるのですが、「文化遺産」は多分「物」、特に目立った「物」が無いと候補地にはならないようで、口之津にはこれといった遺産もなく、日野江城にいたっては、各ブログを読んでいると「何も無かった」とよく書いてありますが、キリシタンについては、「点」でなく「ストーリー」として見なければ本当の理解はできないと思うのですが・・・・


なお、遠藤周作さんの「日本紀行『埋もれた古城』と『切支丹の里』」を読むと、久しぶりに訪れた島原半島の俗化を嘆きつつ、特に原城については以下の通り書いています。

昔日のいかにも原城らしい荒涼とした風景が俗悪な十字架やアスファルトによる公園化で、すっかりこわされているのだ、話をきくと国体があった時、ここにお偉い方がこられるので、城の道もアスファルトにしたのだという。いい加減にしろという気持ちである。こういうものの保存の仕方に市や県庁の連中だけの趣味にふりまわされてはたまらない。・・・・

ということで、世界文化遺産登録になったら、どう整備をするのかですね。

なお、原城も漠然と行っただけでは、なにがなにやらで、単なる「観光」、という感じになると思います。現在、原城にはワンコインのガイドさんがいて、説明をしてくれます。

数年前、本丸で簡単な調査をしておりましたが、良く見ると「白骨」と「弾」が出てきており、観光に来た皆さんの足下にも、まだ乱に参加されたされた方の白骨が埋もれているかもしれません。行かれた折には、是非ガイドさんの話を聞きながら、「観光気分」では無く、敬虔な気持ちをもって、見学を。

先日の新聞に「神聖な教会 観光地化に疑問」という投稿も載っておりました。また、「軍艦島(端島)」も世界遺産登録になりましたが、考えれば、閉山して数十年、そのまま、ほっぱらかしにありましたが、廃墟ブームとともに見直され、世界遺産登録になったわけで、長崎市も修復等、今後どうするか、悩んでいるようすです。

長崎は産業が少なく、観光に頼ら無ければならないのですが、遺産登録後の問題をどうするか、本当に生かす方法を考える必要があるのですが、各市のトップの話を聞いていると、何となく観光客が集まれば、という感じをうけます。

さて、もう一つ、実は私は反キリシタンです。このことは、世界的にキリシタン史の歴史を見れば分かることなのですが、これはいずれ取り上げます。



2018年4月28日 (土)

こんな所に「肥前狛犬」さん&玉峯寺&岩戸山での出来事

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久しぶりの、「肥前狛犬」さんです。数ヶ月前行ったのですが、写真を見ると、全然写ってなかったので、先日、写真を撮りにいってきました。

普通なら、「肥前狛犬」の居所は教えないのがお約束なのですが、ここは、セキュリティーがしっかりしているので、場所は書きます。「口之津歴史民俗資料館・海の資料館」です。

資料館に調べものをしに行った折、館長さんとしばらく話をしていたら、話、「肥前狛犬」に到り、「あ~、ウチにもありますよ」。

うそ~、私、ここには5,6回訪れているのですが、見たことありません。で、「館長さん、どこに?」

と、案内されたのが、中庭の恵比寿神社。「え~、無いじゃないですか」、「玉垣の裏です」。ということで見たら本当にありました。玉垣の裏、玉垣が邪魔で気づきませんでした。はやり、なんでも良く見ること必要ですね。

あ~、本当にカワユイですね。週刊○○誌の綴じ込み付録に写真を載せたいくらいの可愛さ。可愛く見えない?アナタの審美眼が無いだけの話です。多分、初期のものだと思います。

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残念な事に、右側だから「阿吽(あうん)」の「阿」さんですが、崩れてしまっていました。

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さて、この近くに「玉峯寺」というのがあり、よく、「口之津教会跡」と言われていますが、ここのお寺の住職、太玄興正氏が口之津について書かれた本が7,8冊あり、館長さんに本を紹介されました。

そのうちの一冊、「口之津の郷土史 拾遺」と言うのがあり、その中に「玉峯寺は教会跡には建てられいない」という一文があり、読んでみると、教会について書かれた書籍の分析、実際の土地との比較ということで、故・結城了吾氏(長崎の元26聖人記念館長)も、「教会は東大屋の墓地下であり、小聖堂は口之津公園内の高台に間違いないと比定された。」そうですが。ここのところ、興味があるので、いずれ訪れて見ようかと思います。

さて、下の写真、フロイスの「日本史」で有名な所です。右が「岩戸山」。右が「女島」。


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領主・有馬晴信の時代、晴信はキリシタンになり、島原半島内の寺院を破壊しています。仏僧は、岩戸山の洞窟に仏像を隠していますが、司祭、修道士等が、それを見つけに行きますが、フロイスは、次のように書いています。

祠は、仏僧たちが各地の寺院からもたらしてそこに隠匿していた種々の仏像でほとんどいっぱいになっていた。いずれも不思議な形をしたものばかりであったが、実に丹念に、かつ絶妙に造られていて、この種のものではそれ以上のものは考えられないほどであった。・・・・だが、彼らは仕事を早めるためにそれらに火をつけた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。・・・折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役立った。・・・・

さて、「口之津歴史民俗博物館」。多分、島原半島の博物館では一番充実をしていると思います。今日から連休で、車の渋滞、人で溢れるような所より、この様なところで、一日じっくりと過ごすのが良いとは思うのですが・・・海の香りでオゾンが一杯で、子ども連れなら、教科書に載っている実際のものも見られると思います。

ウチのかみさんですね、日帰りバス観光でどこかに行くそうですが、予定を見たら、あちらこちらウロウロするばかりで、せっかくなら、一ヵ所でじっくりしたほうが良いとは思うのですが。あの人、どうせ、私の言うことは聞かないし・・・私?家でじっくりするつもりです。

(参考・文引用:「口之津の郷土史 拾遺★太玄正氏著」「完訳フロイス 日本史★中公文庫版)



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