キリシタン関係

2022年12月 6日 (火)

慶長より寛文に至る間 キリシタン宗門殉教者並に召捕の場所~「切支丹宗門の迫害と潜伏」(姉崎正治著)より

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先日、古文書研究会でキリシタンの話に及び、東北にもキリシタンがいたよね、という話になり、姉崎正治氏の本を思い出し、キリシタンの殉教者と召捕られた場所を見ると、確かに東北地方にも広くキリシタンの分布が確かめられます。

赤丸印は殉教者と召捕られた人間が多いところです。下の四角の所に地図の説明が書いてあるので、クリックしてみて下さい。地図が拡大します。


「殉教者と召捕られた」人間、場所が、こうしてみると、全国に広がり、宣教師の布教活動がいかに広い範囲で行なわれたのか分かると思います。


この本については、大正14年発行なので、その後、新しい資料なども出てきていると思いますが、大体の傾向は同じだと思います。


ただ、この地図は「慶長より寛文に至る間」となっていますが、慶長元年12月19日(1597年2月5日)に長崎で「二十六聖人の殉教」があっているので、長崎にも大きな○印が付くはずなのですが、付いていないので多少の疑問の点も
あります。

しかしながら、交通も不便な時代、全国各地を布教していたと言うことを考えれば凄いことだと思います。翻って、我が国のお坊様は・・・

2022年9月26日 (月)

千々石天満宮神送り★千々石ミゲル墓所調査

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先日、例年の通り「神送り」の神事が行われました。

以前にも紹介したとおり、この神社に祀られているのは菅原道真公、千々石ミゲルの父千々石大和守と家臣2名です。


この神社の上に釜蓋城があり、佐賀の龍造寺に攻められ千々石大和守は討ち死にをしますが、その間、千々石ミゲルは城を逃れる、という話になります。昨年、千々石ミゲル墓所発掘調査が行なわれ、テレビ、新聞等で報道をされました。


島原藩主松平忠房公は、島原半島の多くの社寺に寄付をしていますが、千々石では2カ所、天満宮に「壹石八斗四升」、四面宮(現千々石温泉神社)に「三石貳斗五升六合」。


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千々石ミゲル墓所発調査プロジェクトに多少寄付をしていたので、先日、お礼状と共に、調査の模様と解説が収録されたDVD、絵葉書、お菓子のクルスが届きました。報告の概要パンフレットは以前入手をしていました。

今回はクラウドファンディングで600万円の目標額を超えること10,400,000円が集まったそうで、興味を持たれている方が多いことが分かります。


今後の予定はプロジェクトチームの浅田代表によると「文化財保護法に定められた正式報告書作成に入り、今秋には発刊の予定です。」と言うことですが、多分、来年にずれ込むような感じです。


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2022年4月27日 (水)

千々石ミゲル清左衛門供養碑建立~雲仙市千々石町天満宮

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長崎県の方はTV、新聞等で報じられご存じだと思います。昨年夏、千々石ミゲルの墓所の最終の4次発掘調査が実施されました。

先日、千々石ミゲルの子孫、発掘調査に携わった方などが参集し、千々石の天満宮において、千々石ミゲル清左衛門供養碑建立式が行われました。
発案、発起人は第1次~4次発掘まで尽力された町田義博氏。

供養碑の一番上の文字、「千々石・ドン・ミゲル」は千々石ミゲルの自筆を彫ったものだそうです。


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建立場所は千々石ミゲルの父千々石大和守直員が祀られている天満宮拝殿の横。

右は、千々石ミゲルの墓発見に最初から尽力された大石一久先生。宮司は橘神社の橘宮司。橘中佐の子孫です。


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右の写真は千々石ミゲルの子孫の浅田昌彦氏。

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千々石ミゲルの碑が建立された意義。天満宮の歴史などを貼っておきます。

供養碑の土台はコンクリートで固められていますが、土台のなかに、墓が発掘された折発見された千々石ミゲルの遺骨の一部が納骨されています。


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千々石ミゲルの父、千々石大和守直員が龍造寺に討たれた後、数百年の時空を越え、父が祀られた神社に、千々石ミゲルの供養碑が建立され、遺骨の一部が納骨されたという事は、非常に意義が深いことだと思います。

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オマケです。龍造寺に攻め落とされた釜蓋城の抜け穴?といわれているものです。



2021年9月18日 (土)

千々石ミゲル墓所調査プロジェクト報告~2021.9.18

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台風の影響で状況報告の日程変更があったみたいですが、遺骨の状況が判るのが16日になるという事で、この日、NCC文化放送のニュースで流れたそうです。なお「時間が経過すると上記のリンクから動画や記事が見られなく場合があります。」とあるので、放送をスクショしたが画面が上の写真です。12日の長崎新聞の写真よりハッキリしています。頭蓋骨もはっきりと判ります。

詳しくはNCCさんは→こちらをクリック

発掘プロジェクトは→こちらをクリック

なお、発掘プロジェクトのホームページでは第一次調査から今回の調査まで通しで見られ、特に前回の調査と比べれば面白いと思います。


今日、18日にも報告会がありましたが、これは多分お世話になった地元の方を主にした報告であったみたいです。


私が用事で行かれなかったので、知人から聞いた話を簡単に書いてみます。


ここには大きな墓碑が建っていましたが、土砂で流されたりしていたのが、今回の調査で最初の位置が判ったそうです。本来の位置は二つの墓の頭の所、真ん中あたりだそうです。お棺が埋められていたところは、適当では無く、計画的で最初から埋める場所を決めていたのではないかということで、その間、1メートルぐらいだそうです。この墓を作るには時間がかかるとのことです。

前回のお棺は長持ちを転用したものですが、今回は木棺だそうですがほとんど朽ちています。お棺の大きさは140✕40㎝。横を向き、膝を正座しているくらいまで曲げているとのことです。なお、前回は、ガラス玉などキリシタンの遺物を思わせる副葬品が出土しましたが、今回は何も出土しなかったとの事です。

なお、時間がかかるとは思いますが、詳しいことについては報告書が手に入るので、その折りにでも。


調査期間は10月8日までになっているので、お骨の下の方を多少発掘し、埋め戻しをするのかと思います。今回が最後の調査になり、今後は発掘調査はおこなわれません。

今後、遺骨の調査をし、諌早市に寄託するとのことです。「千々石ミゲル」だから、こちらに寄託して欲しいのですが、施設、人材とも不足ですね。



2021年7月 4日 (日)

「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト主催」講演会

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(写真はクリックすると、いささかハッキリ見えます)

千々石ミゲル墓所の第4次の発掘が、8月2日から始まります。


これに伴い、昨日は千々石町、今日は諌早で講演会が開催されました。調査は今回の調査が最終調査になるということです。

第一部の講演はプロジェクト代表で千々石ミゲルの子孫の浅田昌彦氏、プロジェクト調査統括の大石一久氏。第二部がお二人に加えて、発掘調査副担当の安楽勉氏、プロジェクト副代表の町田義博氏、同・井出光則氏。


浅田氏の話は千々石ミゲル、大村藩、そして、浅田家との関係のお話。大石氏の話は、伊木力にある墓所をなぜ千々石ミゲル夫妻の墓所と推定したかの根拠。これには、浅田家をどうして知ることが出来たのか、文献調査、地域の文化の特性なども交えての話でした。


なお、発掘に至るまでの経過、第1次、第2次、第3次の経過など詳しいことは「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」を参照→こちらをクリック


「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」には、千々石ミゲルの生涯、講演会で話された事も含んであり、この墓所が持つ意味なども書いてあるので、是非、お読みください。


今回の調査はクラウドファンディングで資金調達をしています。金額によって、お礼メール、概要パンフレット(PDF)等お礼があるそうですが、私の場合は「墓所調査結果報告(DVVD)」を入手したいのですが、これ30,000円でお高いようですが、「調査発掘直後のオンライン報告会」が入っていて、「発掘直後」とあるので、調査した日の発掘の様子、発掘品なども見られるのではないかと期待しつつ30,000円で協力をしようかと思っています。


申し込については「千々石ミゲル墓所プロジェクト」にも記載してあるので、興味のある方はご協賛を。なお、第3次調査の時は私も見学に行ったのですが、発掘を見られる場所が狭く、夏の暑い時期で大変でした。→こちらをクリック

ということで、現場に行って見学をするのも大変なので、興味ある皆様は「発掘調査直後のオンライン報告会」が見られる30,000円コースをお進めいたします。


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なお、大石氏の話では、あまり期待されると、でない、という事もあるので、過度の期待はしないように、ということでした。



2021年2月24日 (水)

島原「具雑煮」起源への多少の疑問

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具雑煮。ですね。島原の郷土料理で農林水産省選定の郷土料理百選にも選ばれているそうです。

中の具材が白菜、おモチ、鶏肉、卵焼き、春菊、焼き穴子等々たくさん入っているので「具雑煮」とか。正月、ハレの日にも食べているそうです。島原市内の食堂でも供されています。


もっとも、長崎市内でも雑煮には具は沢山入っていて、「長崎事典」では「長崎雑煮」として紹介されています。主なところを書いてみると


「菜」「鰤」「餅」の三種類が基本。清汁は鰹節、昆布、椎茸、酒しお、薄口醤油。具は五種、七種、九種、十三種。丸餅は焼いて、塩魚は鰤、アラ、鯛のどれか、かまぼこは紅白二種類、海老かまぼこは自家製、鶏団子は韓国渡りの鶴の身、鴨、雉子で自家製。これに里芋、筍、くわい、椎茸、結び昆布、干しナマコ、唐人菜を用いるのが特徴。ということで、これは、上高八重子著「ながさき・あまから」に載っているそうです。


面白いのが、菜をのせて名(菜)をあげる、食べないで名(菜)を残す、という縁起もあるそうです。


ただ、これは昔の旧家の話しではないかと思います。ウチの母も良い家のお嬢さんではありましたが、確かに、”これでもか”というほど具材は入れておりましたが、これほどではありませんでした。


閑話休題。某日、オクサマが二日ほど留守だったので、昼ご飯は面倒臭いのでお店に行ってみたら、冷凍の具雑煮とレンチンの具雑煮があったので買ってきて食しました。冷凍は具材が少なく、白菜も少々煮すぎかな?という感じ。レンチンは意外と具材も入っていて、焼いたお餅も3個ほどで、まあまあかな。


で、冷凍具雑煮の裏に具雑煮の説明が書いてあり、これ、ネットで調べると具雑煮の元祖、島原市の「姫松屋」さんの具雑煮の説明もほぼ同じで、他にも、島原市の観光情報、しまばらの観光案内、旅する長崎学、農林水産省も同じような書き方でしたが、読んで見ると、なんとなく???何ですね。


紹介してあるものの概略は


・江戸時代に起こった島原の乱に(具雑煮が)由来

・天草四郎率いる3万7千の一揆軍が、幕府軍との攻防の末、原城へと籠城
・その際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、山や海から様々な材料を集めて雑煮を作り、栄養をとりながら約3ヶ月も戦った

ということで、代表として、元祖「姫松屋」の説明は→こちらをクリック


ここで、違和感にとらわれたのが、「餅」という文字、「山や海から様々な具材を集めて」という表現。


原城に籠もった人数については、古文書、現代の研究者でいろいろあるようです。逃げ出した者もあるようで、一揆の初めと、落城の時では違っているということは言えると思います。寛政15年2月17日、岡山藩聞書には「原城篭城の人数は二万四千八百人という」。まあ、計算がやりやすいように大負けに負けて、2万人としてみます。


一揆の初期の頃は、一揆軍は籠城を覚悟していたのか、島原あたりから米を運んだ記録もあり、最初は食べ物はある程度あったと思われます。


ですが、具雑煮の説明に「餅」を、とありますが、一日何食食べたのかは分かりませんが、籠城を決め、食べ物の心配もあり、城の中で畑仕事をするわけでもなく、仮に一日一食だとして、餅を1個づつ食べたとしても、1日2万個。10日で20万個、30日で600万個、3ヶ月で1,800万個。毎日、餅を食べるわけでもないとして、半分でも3ヶ月間で900万個。こんな大量な餅を持ち込める訳では無いでしょう。


山や海から材料を集めたともありますが


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赤丸印が天草四郎が立て籠もっている本丸。このように囲まれた中で、山や海から2万人もの材料を集められるのか?もちろん海には幕府軍の船がいます。山と言えば野草、海と言えば魚と海藻。はたして、2万人の人間の「栄養をとりながら」という事が可能なのか。

一揆の終盤になりますが、「島原日記」、一揆軍の生け捕りにされた者の言葉「・・・城内二兵糧無御御座候由申候」。又、「嶋原天草日記」には「・・・伊豆守・左門令而使割賊之腹、其腹中有青蒼之物、依粮末困乏而食麦葉歟」とあり、一揆軍の腹を割いたところ青蒼のものがあったので、麦の葉を食べていたことが分かります。


ということを読むと、一揆軍は餓死同様だった事がわかります。


嶋原・天草の乱については、まだまだ諸説あるようです。一揆に加わった者もキリシタン、関ヶ原の戦い後の浪人等々あるようですが、島原藩主松倉親子の圧政で追い詰められた農民の抵抗だったのが一番の原因だたと思います。


原城に籠もった一揆軍は山田右衛門(やまだえもさく)一人を残して、一人残らず殺されたと言われています。


餓死寸前まで原城に籠もり、最後まで圧政に対して戦った人々に対し、「・・・栄養を取りながら約3ヶ月間も戦った」という表現には、いささか疑問を持ちました。

(参考文献「原史料で綴る 天草島原の乱
」「天草四郎と島原の乱」鶴田倉造編・著)



2020年8月22日 (土)

第6回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」~キリシタン禁制の高札

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今回で6回を迎えました。千々石関係の古絵はがき、島原・天草の乱の資料、アニメ・挿絵の原画、栗原玉葉、長崎関係の古地図と古絵はがき、そして今回が「キリシタン禁制の高札」。

キリシタン高札については、先日から書いているので、こちらを→クリック こちらも→クリック


高札はケースの外に出しているので、博物館の展示とは違い、間近に見られます。読み方、内容の説明も置いておりますので、ご利用を。


大きな高札場は浮世絵などにも登場しますが、上の右の絵図、南串山の古地図を見ると、庄屋さんの家の横に、「御高札」と描いてあります。なお、よく見ると石垣が組まれ、高札は柵の中に立てられています。


以前紹介しましたが、庄屋さんの古文書を読むと、出火のとき、最初に高札場、郷蔵を守るように書いてあり、高札がいかに重要なものであったかが理解できます。


コロナの影響で、人を集めるチラシをどうしようか考え、一ト月ばかり延ばしましたが、町内は来週の初め配布する予定です。

市外の方は場所が分からないとのことで、チラシの一番下に写真を入れました。
チラシはクリックすると拡大しますので、ご覧下さい。

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なかなか本物を間近に見られることはないので、是非のお越しを。10月末まで展示をする予定ですが、「きまぐれ」なので延期するかもデス。


2020年8月17日 (月)

「仙石秀久」と「長崎奉行」と「島原・天草一揆」~徒然なるままに

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以前、宮下英樹氏の仙石秀久についての作品にのことをよく書いていました。久しぶりに本屋さんに行ったら、並んでいたので思い出し、買って来ました。

先日より「キリシタン訴人の褒賞金」のことを書き、長崎奉行の長谷川権六について調べたのですが、その時、ついでに長崎奉行の一覧をみていると、長崎事典に、「第十一代奉行 仙石大和守久隆」となっており、仙石といえば珍しい名前で調べてみたら、千石秀久の7男さんでした。


奉行としては寛永十二年に榊原飛騨守と二人体制の奉行になります。わずか一年で馬場三郎左衛門と交代(長崎實録大成)。


長崎辞典では最後に「在任短期間で特記すべき事項なし。」とは書いてありますが、秀久さんの子どもさんなので調べてみると、實録大成の仙石久隆の所に、かの「金鍔次兵衛」さんの事が書いてありました。「金鍔次兵衛」については以前書いていました→こちらをクリック ついでに→こちらをクリック 。


「次兵衛ト云う邪宗門(中略)但此者平日金鍔ノ脇指ヲ指タル故、異名ヲ金鍔次兵衞ト云。同十四丁丑年六月訴人有テ召捕之。」ということは、仙石久孝さんが異動した後のことになりますが、気になるのが「訴人有テ」という所で、先日「訴人褒賞制」の事を書いたばかりですが、この「訴人」の方、莫大な褒賞金は貰えたのでしょうか?


これだけかと思って念のため「新訂 寛政重修諸家譜」(続群書類従完成會刊)を調べたら、下のような文が目に付きました。


(寛永)九年細川越中守忠利肥後國をたまふにより、十月十六日仰せをうけて板倉内膳正重昌に副て熊本に至る。


「板倉内膳重昌」といえば、「島原・天草の乱」で討ち死にした大将ですが、仙石久隆さん、城の引き渡しの時、板倉重昌の副史としてお供しているのですね。


さて、板倉重昌のことですが、「島原の乱とキリシタン」(五野井隆史著)より要約すれば、板倉重昌は一万五千石の小大名。重昌に付けられた石谷貞清は寛永十年に目付となり、上総・相模・甲斐三国のうち1500石を知行。


この、「知行の少ない両人の人選は、幕府が島原一揆を簡単に鎮圧できると楽観視していたことを示していた。」ということなのですが、板倉重昌が選ばれたのは「寛永九年に細川忠利・忠興が熊本城に、小笠原忠眞が小倉に配置換えの時、上使を命じられ城引渡しの役を務めた。このことが、彼の島原派遣決定の理由になったという(岡田章雄『天草四郎』)」。ということなのですが・・・仙石久隆を調べるついでに「寛政重修諸家譜」を見ると、板倉重昌について次のような事もかいてありました。


(寛永)九年肥後國熊本城を細川越中忠利に、同国八代を細川三齋(忠興)に、肥前國小倉の城を小笠原右近大夫忠眞に、同国中津城を小笠原信濃守長次に、同国高田城を松平丹後守重直に、豊後國杵築城を小笠原壹岐守忠知にたまふにより、十月十六日にかの國々におもむき、城引渡の役をつとむ。


ということで、熊本、小倉のみならず、思ったより多くの九州の城の引渡役を務めたことが分かります。多分、このことが九州各藩の事情を良く知っているという事で、上使に選ばれた一番の理由だと思うのですが・・・


十四年十一月九日肥前國嶋原有馬の古城に、切支丹の賊徒盾籠ときこえしにより、誅伐の上使をうけたまわりて、有馬におもむき、十五年正月朔日賊徒等を惣攻のとき、原城出丸の塀際において討死す。年五十一。

なんとなく、徒然なるままに調べているうちに、仙石秀久→長崎奉行 仙石久隆→島原・天草一揆 板倉重昌と繋がり、歴史って面白いですね。



2020年8月15日 (土)

「島原の乱」と「京都遊廓島原」の希薄な関係&「コンビニぶらり!ラッキー3つ!!」

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以前より、島原・天草一揆の拠点「原城」の名前の由来・歴史を調べていたのですが、その折り、京都の遊廓「島原」の名前と島原の乱の「島原」とが関係あるというネットの情報があり、出典、根拠なども書いてなく、またネットデマかと思いつつも2冊ばかり本を読んでみました。

なお、こちら、島原・天草一揆の本場なので、数名の人にこの話をしても、知らないということでした。


「三大遊廓」。著者は”堀江宏樹”氏。作家・歴史エッセイスト。著書が「乙女の日本史」「乙女の日本史 文学篇」「女子のためのお江戸案内」等。


「地名で読む京の町(上)(下)」。著者は”守谷尅久”氏。主な経歴として、京都市史編纂所研究員、京都大学人文科研究所講師、京都市歴史資料館初代館長等。著作が「『花』が語る日本史」「京医師の歴史」「京都の祭り暦」「京都暮らしの大百科」等。


両氏が京都の「島原」について書いてある所だけ抜き書きします。


その前に、一応の歴史として、京都の遊郭は最初は天正17年、豊臣秀吉が認可して設けられ、場所は二条通りの寺町から柳馬場にかけて、二条柳町と呼ばれる。


二条城が築かれたため、二条通は大手筋と位置付けられ、遊郭が洛南の荒地六条通の新地町に移され、六条柳町・六条三筋町と呼ばれた遊郭で、「新屋敷」と呼ばれる。この地も東本願寺の寺内町で人口の密集のより再度の移転。


寛永17年、突如、洛北朱雀野への移転が命じられる。


森谷氏の書かれたものを抜粋しましたが、堀江氏の本では、もう少し内情が書かれています。なお、「突如、洛北朱雀野への移転が命じられる」がキーポイントになります。


堀江氏の本より・・・・・・

・・・板倉重宗(注:当時の京都所司代。なんと、島原・天草の乱で討ち死にした板倉重昌の兄。)によって指示された移転先は、京都の西端の「朱雀野」という、ずいぶんと鄙びた場所だったのです。さらにあまりに急な命令だったため、1641(寛永18)年の引越作業の騒動は、まるで「島原乱の如し」と話題になりました。
島原の正式地名は「西新屋敷」ですが、以降、島原遊郭と呼ばれるようになったのはこういう理由と経緯があったからです。

森谷氏の本より・・・・・・・

寛永17年(1640年:堀江氏の本では”寛永18年”)突如、洛北朱雀野への移転が命じられたのである。・・・・外周には土塀が設けられ・・・外界と隔絶されることになった。突如の移転命令による引っ越し騒ぎを、その数年前に勃発した島原の乱の混乱になぞらえて、「島原」と呼ぶようになったとか、堀に囲まれた新遊郭が島原城に似ていたからとも、たんに新地が島状になっていたからとも、命名の由来は例によって数説が伝えられている。

という事で、堀江氏は「島原・天草一揆」という説のみ、森谷氏は「・・・例によって数説が伝えられている。」と慎重な態度。多分、作家・エッセイストと学者という立場の違いでしょうが。大体の筋道は一緒です。

いずれの本も根拠、出典などが分からず、多分言い伝えなだけなのか、はっきりしないので「希薄な関係」にしました。

なお、遊郭の急な移転を命じたのが、島原・天草一揆で死んだ松倉重昌の兄重宗。この遊郭が「島原」と呼ばれるようになったというのには、なにか因縁めいたものを感じます。


森谷氏の本は「祇園 八坂神社ー栗飯にまつわる祇園祭、誹謗しあうおけらまつり・・・」など京都の各地についてのまじめな話です。


堀江氏の本は「遊女のヘアケア」「『つねる』と男は本気になる」「遊女が好んで用いた体〇」など面白い話が書いてあります。もちろん真面目なところもありますが・・・どちらの本を読むかは、自分の興味にあるほうを。


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今日、コンビニに行ったら、ラッキーなことが3つばかり。

「冷感マスク」については話ばかりで、こちら方面では実物は見たことがありませんでした。やっと、本物を手に入れることができました。一人一点だったので、明日、また買いに行く予定です。


「キリンレモン 無糖」が置いてありました。今年は、炭酸水が流行っているようですが、私も炭酸水を愛飲しています。以前より、キリンレモンの「無糖」が発売され、社長さんが自信をもって宣伝していたのですが、こちらではついぞ見かけることが無く、田舎では・・・と無念な思いをしていたのですが、やっと入荷していました。お味ですか?もったいなくて、まだ飲んでおりません。


「食べマス」が置いてありましたミニオンの「ボブ」さんですね。あと2種類あるとかで、また、明日行ってみます。


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これで、一週間は幸せに暮らせます。今日は本当にラッキーな日でした。

大事なことを書き忘れていました。九州の片隅で起こった島原・天草一揆の事が京都まで伝わっていたという事は、この一揆がいかに大事件だったのかが分かります。以前、八代市立博物館、南島原市で天草・島原の乱の展示会があり、図録の題が「天草・島原の乱 徳川幕府を震撼とさせた120日」でした。まさに、その通りだったのでしょう。



2020年8月 5日 (水)

「キリシタン訴人の報償金」と長崎の濃密な関係

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長崎の高札場風景。上は「長崎虫眼鏡」より。(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)

説明には


右之御制札

七串 桜町之辻
壱串 江戸町大波戸
弐串 おらんだ出島
三串 浦上村山王前
三串 長さきむら
四串 小せとむら

とありますが「串」の意味が分かりません。高札の数かと思ったのですが、「桜町」に7本は多すぎるような。


なお、下の図は「長崎名勝圖繪」(昭和6年発行・長崎史談會発行)より「出島」です。丸印のところが高札場だったと思われます。


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さて、話しが少し込み入ってきますが、「踏み絵を踏んだキリシタン」(安高啓明著・吉川弘文館発行)に下のように書いてありました。

キリシタン訴人褒賞の制札は、各地の主要高札場に掲げられた。長崎では、毎月一日から五日まで嘱託銀が置かれ、寛永三年には、銀三〇〇枚の現物が置かれている(「長崎実録大成」)。これが天和元年になると、五〇〇枚と増額して置かれるようになり、周辺三町から番人が配された。


ということで、ほんまに現物を置いたのかと思い「長崎實録大成」を読んで見ると(下書きと、ブロブにアップしたとき行がズレるのでベタで書きます。)


御高札並嘱託銀

一 慶長ノ頃ヨリ大波戸地内二御高札塲ヲ建置ル。寛永三年(1626)切支丹訴人為嘱託銀三百枚被掛之。(嘱託銀三百枚とあるは百枚の誤りかの・・・の注有り)
一 延實八年(1680)八月豊後町掛リ水溜リノ所二土石ヲ埋メ、左右垣ヲ埋メ、左右石垣ヲ築、御高札塲被引移之。
柵内 入二間二尺寸 長六間四尺二寸
但晝番一名  夜番三人宛相勤シム
一 天和元年(1682)嘱託銀二百枚相增、都合五百枚ト成ル。(以下略)

ということで、年代などを合わせると「踏み絵を踏んだキリシタン」が「長崎實録大成」を参考にしたことが分かります。


ここで「嘱託銀」というのがよく理解できないので、Wikipediaで調べると


嘱託銀(しょくたくぎん、そくたくぎん)は、江戸幕府が犯罪に関する密告を奨励するために出した報償金制度である。特にキリシタン取締りのために出された物(訴人報償制、そにんほうしょうせい)が知られており、これに限定する場合もある。


とあります、が、「概要」の所を読んで、エ~!ホンマかいなと思いました。以下の通りです。


1618年(注:元和4年)頃、長崎奉行を務めた長谷川権六がキリシタン弾圧のため市中に銀の延棒30枚を掲げてキリシタンや宣教者の密告を奨励したといわれている。1626年(注:寛永3年)に銀100枚へと増加された。これは長谷川独自の政策であったが、島原の乱後の1633年(注:寛永10年)鎖国令制定の際に江戸幕府においても正式に採用されて全国に広がる。(以下略)


ということで、長崎が「キリシタン訴訟人の報償金制度」のルーツということになります。


参考文献として「重松一義『嘱託銀』(『国史大事典7』、吉川弘文館、1986)」「清水紘一『嘱託銀』(『日本歴史大事典2』、小学館、2000年」「『日本史総合辞典』東京書籍 林陸朗 村上直 髙橋正彦 鳥海靖 1991年11月10日初版発行」と3冊の本があげられていました。ということは、このWikipediaの説明を書いた人は原典を読んだものではなく、3冊の事典、辞典を孫引きしたことが分かり、調べついでに3冊の本を読んでみました。


「国史大辞典7」には


しょくたくぎん 嘱託銀 江戸時代、切支丹(伴天連)禁令強化の一手段として用いられた伴天連訴人奨励のための懸賞金。そくたく・嘱託銀とも呼び記される。寛永三年(1626)長崎ではじめて行われ、同十年の鎖国令により全国へ拡大適用。訴人へ銀百枚と増額。同十五年以降は鎖国令と別に、諸国高札場に伴天連訴人には銀二百枚を与える旨の高札が掲げ、その徹底が図られた。


とあり、参考図書が「新村出『日本吉利支丹文化史』『新村出全集6』」「海老沢有道『日本キリシタン史』」「清水紘一『キリシタン訴人制度について』(キリシタン研究 19)」。本当はこちらの参考図書まで読まないといけないのですが、図書館にも置いて無いのでパス。


「日本史歴史大事典2」には~「そくたくぎん」にて標記。主なところだけ書き抜きます。


嘱託銀 そくたくぎん 犯罪密告奨励のための報償銀。・・・キリシタン摘発時の報償銀が最高額であった。同褒賞銀制度の起源は一六一八年(元和元年)頃、長崎奉行長谷川権六によって市中の要所に延棒が陳列され、同地の潜伏する宣教師の密告が奨励された。・・・島原・天草一揆後諸国のキリシタン根絶に乗り出した幕府により、全国令として布達(1641年)。


参考文献として「清水紘一『訴人褒賞制について』(キリシタン研究第十九輯)


「日本史総合辞典」~この辞典は分野別に分けて書かれてあり「キリスト教の禁止と島原の乱」に「訴人報償制」として記載。


訴人報償制〔そにんほうしょうせい〕 ・・・密告人に対しては報奨金を与える政策をとった。元和4年(1618)長崎で初めて開始されたと考えられ、島原の乱のち全国的に適用されるようになった。・・・(参考文献記載なし)


この長谷川権六については「長崎事典」に次のように書かれています。


長谷川権六郎守直(はせがわごんろくろうもりなお) 生没年出自共に不詳。4代目奉行。・・・長崎奉行に存在した時期も慶長十九年十二月~寛永三年(長崎奉行歴代略譜)。元和元年(1615)~寛永二年二年(1625)「長崎実録大成」。また、元和二年(1616)(柳営補任)など不同である。寛政重修書家譜には、長谷川権六らしき人物は全く記載がなく見当たらない。


なお、〈事績〉としてキリシタンと関係ある所を書けば「①宗門人別帳をつくる。」とあり、あとキリシタン教徒を処刑したとあるばかりで、キリシタン訴人報償については記載なし。


さて、先日ネットで論文を拾ったのですが、残念ながら、著者等を記録してなく、「キリシタン高札が最初に建てられたのは寛三年であった」と書いてあり、注の所に「『長崎叢書』増補長崎略史下巻七百頁所携寛永3年の条」と書いてありますが、これ、最初の「長崎実録大成」に書かれてある、「寛永三年(1626)キリシタン訴人・・・」と年代がピッタリ合うという事で、多分、このことだと思われます。


さて、長谷川権六の次の奉行は「永野河内守」で「長崎實録大成」には就任が「寛永三丙寅(1626)」になっており、長谷川権六には寛永3年の記載もあるので、ひょっとして、月までは分かりませんが、この年に「水野河内守」と交代した可能性もあります。


ただ、「長崎實録大成」の「永野河内守」に「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之。」との記載があり、初めに引用した「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之」と同じで、多分、「長谷川権六」と書かれているのは「水野河内守」ではないかと思ったりするのですが・・・


いずれにしても、「キリシタン訴人報償金制」「キリシタン禁制の高札」は長崎が発祥の地で濃密な関係があったような・・・長崎の歴史書は多く、また、出版されていないのもあので、不明な点は多くありますが、論文をいろいろ読むと、最後にこう書かれているのが多いようです「今後の研究を待ちたい」。私も、今後の研究を待ちたいと思います。


最後に、この褒賞金についてですが、銀300枚とか、200枚とか書かれていますが、江戸時代、貨幣は変動相場制、また、比較を大工の手間賃にするのか、米価にするのかなど一概にはいえませんが、ネット検索すると「3,400万」とか「3,500万」とか書かれたものがあり、とにかく、当時では想像できない金額だと思われます。


この、報賞金が払われたかどうかは、探してみましたが見当たらなく、ただ一つ「長崎剳記」に次のように書かれていました。


一 明暦三年(1657)酉十月十一日二、大村ノ百姓、長崎

     酒屋町ノ池尻理左衛門所ニテ、大村二切支丹宗門ノ
     者出来候由、申候。理左衛門、御奉行黒川与兵衛(注:16代長崎奉行)二申上、
   銀十三貫目、為御褒美被下候事。

という事で、報奨金は払われていたようです。この「銀13貫目」がいくらになるのかは、調べてみてください。


以前にも、高札の事を書きましたが、庄屋さんの書いたものに出火の時には高札場を守れという事が最初に書いてあり、高札はそれほど大切だったことが分かります。


下は、庄屋さんの所にあった絵地図ですが、大きな赤丸のところ。赤の矢印が庄屋さん宅、すぐ横に「御高札」と書いてあり、周りは柵に囲まれています。多分、各地の庄屋宅の所にもあったと思われます。


Img_20200803_0001 

長々とまとまらないまま書きました。この件に関しては、長崎の歴史を書いた本を読み解かなければいけないのですが、今回はこれにて一応終了。多分、誤字、脱字も多いと思われますが、お許しあれm(__)m。

 


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