キリシタン遺跡

2017年2月28日 (火)

「隠れキリシタン像」???

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以前、隠れキリシタンの像ではないかと言われている像を紹介しましたが、一番上が小浜の山の中にある像→
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もう一つが下の口之津の像→
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で、今年になって同じような像を見てきたので、ご紹介を。


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口之津町にある、神社の本殿裏の右手にありました。

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こちらも口之津町にある神社にあったものですが、風化するので、現在、保管しているもの。首が無いのは廃仏毀釈によるものだと思われます。この神社には、他にも首のない石仏がありました。


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3番目の像は同じく口之津町の神社の右手にありましたが、左手にも同じような石祠があり空で
、多分、盗られたか廃仏毀釈の時、壊されたかでしょうが、片方が完全無事というところを見ると、盗まれた可能性が高いみたいです。

向かって右に「平成六年八月二十七日建立」とあります。
祠は祠自体が神様と祀られるもの、神様を祀るために祠を作るものがありますが、前者は内部が浅く、「○○大神」とか「○○神」などと書いてありますが、この祠は内部が深く文字も見当たらないので、多分、石仏が祀ってあったものと思われます。ということを考えると、盗まれたような気がします。近所に、お年寄りを探したのですが、残念ながらみあたらず不明です。

なお、石仏がある石祠には、大正七年旧十月十日の文字がありましたが、この時に石仏がすでにあったのか、石仏も一緒に彫られたのかは不明です。

右の祠は、首が取れた石仏があった祠です。

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一番上の石仏は右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)みたいなのを持っているのを見ると、不動明王かと思われますが、専門ではないので・・・

どれにも「翼」がついているのがわかると思います。
こちら地方では「潜伏キリシタン(禁教時代にキリシタンを守った人)熱」が高く、何かというと「潜伏キリシタン」と結びつける傾向があり、「翼」は天使の「翼」ではないかと。

「翼」というと、天狗さんも翼があり、秋葉神にもあるので何とも言えません。郷土家の方に聞くと「分かりません」でした。この方面の研究は本格的には進んでおらず、まだまだ、「翼」を持った像があるようですが、全国的な分布、島原半島内における分布調査もされておらず、まだまだ謎の石仏です。



2015年9月19日 (土)

「サント・ドミンゴ教会跡」~長崎市

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サント・ドミンゴ教会跡ですが、桜町小学校の一部にあります。昔は勝山小学校

で、小学校の統廃合で、桜町小学校になり、その折、校舎の建て替えで、発掘調

査で発見されたもの。


さすが、長崎で保存状態はバッチリ。近くの図書館とか、歴史文化博物館には

時々行っているので、ここの事は知っていたのですが、少し時間があったので寄

てみました。


入口になりますが、横の注意書き、タバコに携帯電話にペットはダメよ、と、英語

中国語、韓国語。日本語では書いてありませんが、日本人はマナーがいいです

から、マナーが悪いところのために書いたのでしょう。

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この一体は、昔、大村藩がイエズス会に寄進したところで、

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         (「長崎観光ガイドブック」より)

ここらに、「サンフランシスコ教会跡」、「山のサンタマリア教会跡」等ありますが、

人家があるために、発掘はできません。青丸が、サント・ドミンゴ教会。


なお、一番左の赤丸が、「イエズス会本部」があった跡で、その後、奉行所西役

所、海軍伝習所になります。現在は、県庁が建っていますが、県庁は移転を決

めているため、建物を壊しますが、多分、出るものが出るヨ。かも知れません。

なにせ、イエズス会本部があったところですから。発掘調査は勿論やるでしょう。


この、教会は京泊(現鹿児島薩摩川内市)の教会を解体し、長崎に運び建設さ

れたものです。土地は村山等安が寄進しています。


村山等安は、秀吉の許しを
得て、長崎の御免地以外の直轄地の奉行となります

(長崎は「御免地」を「内町」それ以外を「外町」と言います)。


教会は禁教令のため、他の教会と同時に破壊されます。その後、代官となる
「末

次平蔵」がこの土地に代官屋敷を建てます。わずか5年の命の教会です。


この、村山等安(東安・東庵等もあり)、末次平蔵については、下記の本は小説

がらも、当時の長崎の様子を良く捉えていると思います。興味のある方は御一

読を。

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中の方も、よく保存され、

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井戸の跡ですが15基発見されたそうです。後の代官、高木屋敷時代に使わ

たそうですが、代官屋敷の終わりと共に埋められたそうです。

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石畳み、これも5ヵ所ばかり見つかったそうです。土杭(どこう)と礎石跡。教会時

代の土杭の上に、末次代官屋敷の礎石が重なっています。

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地下室跡。ここから花十字紋の瓦等が発見されたそうですが、何の目的かハッ

キリしないそうです。当日は学芸員の方がいないので、ハッキリはしませんが、

受付の方の話では、穀物を貯蔵していたのではないかと。二列に並んだ排水

溝。

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あと、十字架とかメダイもあったのですが、目を引いたのが、花十字紋の瓦。

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これが、各種あって、なぜだかは不明だそうです。

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中を見て、この規模かと思ったら大違い。発掘中の航空写真ですが、黄色い所

学校校舎、赤い所が「資料館」、緑の所に井戸跡、柱穴等の造形物があるの

が分かります。


ただ、緑の所が、教会跡であるのか、代官屋敷跡であるのか、残念ながら、学芸

員の方がおられず、詳しい事は分かりませんでした。

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できれば、青い所も保存して欲しかったと思うのですが、長崎は土地がないか

ら、しかたありませんね。青い所は現在埋められグラウンドになって、子供たちが

遊んでいました。


なお、資料館の入場料は無料。駐車場は無いので、すぐ近くの「歴史文化博物

館」の駐車場へ入れた方が無難でしょう。


(参考・引用:「サント・ドミンゴ教会跡資料館」パンフレット・各説明版・「長崎観光

ガイド」より)




2014年10月 8日 (水)

マリア地蔵菩薩立像(通称マリア地蔵)~島原市指定有形文化財

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今日は、ゆっくり書こうかと思っていたら、TVで今から皆既月食とのこと。慌ててカメラを出

して、外へ出たら、もう始まりかけ。カメラをセッティングしようと思っても、暗くて、思ったよう

にいきませんでした。


さて、「マリア地蔵」。場所が分からなく、調べてみたら、島原市の山寺町の共同墓地内。

どこかで聞いたと思っていたら、以前紹介した、「まだれいなのキリシタン墓碑」がある所で

した。「まだれいなのキリシタン墓碑」より、奥に入ったところです。下の写真が「まだれいな

のキリシタン墓碑」です。

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上の写真、墓が混み合って、斜めからしか撮されません。しかも衣裳を着けていますが、本

来、正面はこのような感じです。

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(「島原市の文化財」~島原市教育委員会刊より)


昭和37年発行監修・宮崎康平氏の「キリシタン遺跡をたずねて」には、「厳しいキリシタン

禁令下マリア地蔵は250年間も堂々と野外に祀られ、原城の方を向いてひそかに立ち続

けていた」と記されています。(「島原の文化財」より)

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前と、後から見た写真ですが、確かに原城の方角を向いています。

「島原の文化財」によると、「台座の石柱にはクリスチャンネームとして、『浄金禅定門』『浄

英禅定尼』と読むといわれている。」と書いてあります。

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造立は寛永15年3月26日になっているそうで、島原・天草一揆の原城陥落が寛永15年2

月28日。約一月の違いです。


なお、ここの地区を三会と言いますが、島原の乱に加わった人数(研究者によって違いが

ありますが)、有家町郷土史によると、三会村の人口が当時1,970名、その中で、島原・

天草一揆に加わらなかった人数が656名。多くの人が一揆に加わった事が分かります。


地蔵の服装は16世紀頃からポルトガルを中心にヨーロッパで流行したファーンゲール様式

の聖衣だと思われるそうです。


同墓地に、「まだれいなのキリシタン墓碑」、少し離れた市役所の三会支所の近くに、

一石五輪塔」も見られますので、興味のある方はご覧下さい。



【おまけ】

皆既月食。電線はあるわ、車は通るわ、ナイターはつけてあるわ、家の灯りはあるわ、準備

はしていないわで、良く撮れませんでしたが、面白いナイターショーでした。でも、あの月、

どこから吊してあるんでしょう。学芸会の時は、舞台の天井から吊したのですが・・・・

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(参考・文・写真引用:「島原市の文化財」~島原市教育委員会刊より)



2014年9月17日 (水)

地蔵像(大野村庄屋元地蔵)~島原市有明町

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見れば可愛いお地蔵様です。場所が分からず、この辺の人を捕まえて、島原の文化財の

写真を見せて、「こげんと、どこにあっか知らんね。」「ああ、中学校の入り口の○○さんのと

こたい」と、行ってみたらありました。高さ50センチ程度です。


島原地方には、潜伏(カクレ)キリシタンを研究する方が多く、これも、その一つです。「島原

の文化財」の冊子にしたがって説明すると。


まず、肩、肘、手先の流れが「ω」の字を形取ってあり、いわゆる、前にも書いた「ω地蔵」

になります。

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聖書ヨハネ黙示録に「われ(キリスト)はアルパ(α)なり、オメガ(ω)なり」という言葉があ

り、神と神の絶体の・無限性を示しているそうです。


足の部分が、四本あり、胴部に横線があり、棺、石棺を表しているとの解釈もあります。

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右の字は、「原イソ(事典等にも出ていません。異体字か?十(くるす)が組み合わさってい

ます。すなわち「ハライソ」と読む方もおり、「ハライソ【(ポルトガル)paraiso キリシタン用語

で、天国、楽園、パラダイス」です。


さて、

「有明町史」によれば、この場所は(有明中学校)は、「大野城の沿域は、有明中学校の一

である。整然とした城郭であったが、島原城築城時に、破却されて石垣等は取り壊され

が、空濠や土塁は現存している。」そうです。


この城主はキリシタンでもあり、中学校の入り口に説明版があったので参考に。



「有明町史(上)」によれば、「切支丹宣教師ペルショール・デ・モーラ師が神代城を布教し

て、大野村の大野城に立ち寄ったのは、天正16年のことであった。

モーラ師が、神代氏、大野氏の訪問は、有馬城主有馬晴信の要請にもとづくものか、ある

いはイエズス教会独自の布教によるものか、そのあたりは分からない。

大野山城は、モーラ師を温かく迎え、そして、山城は己自身と妻子共々、切支丹に入信し

た。」(注:フロイス「日本史」より)、とあります。

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なお、「ありあけの歴史と風土第8号」の宮本次人氏「島原地方のキリシタン研究Ⅳ」によれ

ば「・・・・・・この地蔵の作者であるキリシタン城主、大野氏、もしくはその家臣(同じく受洗し

ている)で庄屋となった出田家は、禁教令以後もキリシタン信仰を持ち続けたかくれキリシ

タンであり、・・・・」と推定しておられます。



島原半島の、北目、西目には潜伏(カクレ)切支丹は存在しなかった、という元来の定説が

ありますが、近年、そのその存在が少しづつ明らかになってきているようです。






2014年7月31日 (木)

「砂原キリシタン墓碑」~南島原市加津佐町&「十字紋」について

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数日前、有家町で講演会があり、帰りがけ時間が早かったので、海沿いの道を。

時々、気にはなっていたのですが、「砂原キリシタン墓碑」に寄ってみました。

看板の通り行くと、綺麗な松林と、砂浜。

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その松林の中に、風化しないように覆いがあって、二つの墓碑が並べて置いてありました。

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向かって左の墓碑は、風化して途中から割れていますが、右側の墓碑は、基壇の上に乗

せてあり、綺麗な花十字が彫りつけてあります。

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いつもお世話になっている、「日本キリシタン墓碑総覧」を読んでみたら、、片岡弥吉氏によ

れば、「今日附近に共同墓地のあることから考ふるに、ここが往事のキリシタン墓地であっ

たと推測される」(片岡弥吉著「長崎縣下發見キリシタン墓碑總覧」昭和17年刊)としている

そうです。


実際、砂浜を(砂丘)をキリシタン墓地として選定している事例は、南島原市の須崎墓地(加

津佐町)、白浜墓地(口之津町)、古川墓地(南有馬町)、須川墓地(西有家町)があり、この

地も、キリシタン墓地が形成され、17世紀初期に、キリシタン専用墓地として、開発された

可能性が高いということです。


なお、右の墓碑については、正面小口(花十字がある面)は整形され、小口裏面、両面も正

面に比べ粗面であり、花十字が上方に刻まているところから、地中にわずかながら埋めら

れて配置された可能性が高く、この墓碑を置いている基壇は、建碑当時からのものではな

いと思われるそうです。


左の墓碑については、風化破損が激しく、判別しにくいそうですが、十字紋等確認できず、

又、石材の玄武岩質堆積岩も、他のキリシタン伏碑では使用されておらず、本碑をキリシタ

ン伏碑と断定できる資料がなく、県指定ではあるものの本稿(キリシタン総覧)では、類例

資料としてあげておく、と書いてあります。(「日本キリシタン墓碑総覧」より)


さて、十字紋の事を。いつものように長くなりますが、十字紋が刻んであるというと、すぐに

キリシタン、特に潜伏キリシタンに結びつける方が多いのですが、そう簡単なものではなさ

そうで、松田毅一著「キリシタン研究 第二部論攷第三章 キリシタン宗門と十字の記号」

に詳しく書いてあります。


多くの十字架の図が描いてありますが、最初に「十の字の記号は太古から世界各地に存

在しているので、その起源は明らかではない。十字は、生命、日輪、神聖等、種々の表徴と

もなり、蒸餅の異名ともなった。」と書いてあり、「蒸餅(じょうへいと十字」については、何だ

ろうと思っていたら、「とらや」のホームページに書いてありました。


「十字とは蒸餅のことで、饅頭の異名だと、江戸時代の図説百科事典『和漢三才図会」にあ

るそうで、「食べやすくするために、蒸した餅の上を十文字に切り裂いたからだといいま

す。」と書いてあるのでさっそく、「国立国会図書館デジタルコレクション」(これ、誰でも見

れます。)を見ると、饅頭の絵が描いてあって、その下に「饅頭」と書いてあり、その下に「十

字」と書いてありました。これ、キリシタンとは関係ナイデスね。

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          (「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


横道にそれましたが、松田氏が収集した十字紋です。全部載せきれないので、ほんの一部

を。

松田氏の説明によれば、左が「ヨーロッパ・キリスト教界の十字。

右が「キリシタン墓碑の十字。「砂原キリシタン墓碑」と同じ花十字が見られます。

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「日本紋章の十字」

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この中に、島津一門の紋がありますが、これについては、「十字紋は、島津氏に代表され

るものであるが、その意義については定説がない。島津氏の十字紋もキリスト教と関係が

あるという説があるが、その家紋は、フランシスコ・ザビエルの来朝以前からのものである

から、その点は否定される。十字紋を一種の呪符として用いる風習は、支那伝来のもの

で、日本では全国各地で古くからおこなわれている。十字符は、また太古から各民族のもと

で用いられ、世界普遍のものであり、その関係、性質を究め尽くすことは容易ではない。」と

松田毅一氏は述べられています。


こうしてみると、単なる十字紋があったからといって、簡単にキリシタンと関係ある、とはい

えないみたいですね。

(参考・文・写真引用:「日本キリシタン墓碑総覧」「キリシタン研究 第二部論攷編~松田毅

 一著」「国立国会図書館デジタルライブラリー」「とらやホームページ」より)











2014年6月11日 (水)

隠し十字入地蔵・即非筆の書「高岳山」及び同扁額~島原市青雲寺

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お地蔵さんが、潜伏キリシタンの信仰の対象として、細工をされ、作られるのは、あちらこち

らで、見聞される所です。私の家の近くにも、三体ばかり「キリシタン地蔵」といわれるもの

があります。


島原の青雲寺にも、あるということで、用事のついでに、寄ってみました。山門を入っても、

標柱と説明版はあるのですが、場所が良く分からず、右側を見たら、祠があり、その横にあ

りました。ガラスのケースに入れてありました。

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この地蔵さんの後ろ側、十字紋がはっきりと刻まれています。

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地蔵さんの前面は石がもろいせいか、かなり崩れていた感じです。説明版です。

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ここは、寺の土地の中でもあり、地蔵さんが、最初からここにあったのか、他から移設してき

たのか、書いてありません。どうだったのでしょう。


この寺にはもう一つ、明(中国)の即非の書と扁額があります。説明版を見ていただいた方

が早いので。

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山門の扁額と、書です

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      (「島原市の文化財」~島原市教育委員会刊より)

さて、この寺の参道には、ずらっと石仏が並んでいて、圧巻でした。

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青雲寺は曹洞宗で、禅宗のお寺です。


なお、青雲寺は、加藤清正臣下の庄林隼人が叔父、青雲真高居士の菩提を弔うため慶長

6年(1601)に肥後熊本に建立したそうです。


開山は一峰玄鉄和尚。庄林家が政変により没落。縁あって、島原に移転。当初は杉谷杉

山寺跡にあったそうですが、松倉重政から現在地に土地を賜り、玄鉄和尚自ら山野を開墾

し、青雲寺を再興したそうです。堂宇の完成は寛永5年(1628)。(広報しまばら平成25年

3月号~「ふるさと発見」より)




2014年6月 6日 (金)

島原「IHS」キリシタン墓碑~島原市

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やっと、という事で、見ることができました。


この墓碑は、個人のお宅の中にあり、二回ほど訪ねて行ったのですが、二回とも留守。一

応、外から標柱、看板は見えるようにしてはあるのですが・・・・・前は、行ったのは、冬でし

たから、草は生えてませんでした。

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多分、この看板の下あたりにあると思い、玄関のピンポーンを押し、「ごめん下さい」と大声

で言いながら、それとなく看板のあたりを見たのですが、無い。


今日、三回目。三度目の正直だと思って、ピンポーン、大声で「ごめん下さい、ごめん下さ

い」。又もや留守。庭を見ても、それらしきものは、はやり無し。


ヤケになって、「ごめん下さい」と言い続けながら(黙ってウロウロしては、泥棒と間違われ

るから)、裏に回ったら、ありました。感動の一瞬ですね。


さて、この墓碑の価値は、正面小口面(正面向かって左側)に「IHS」の文字が彫り込まれて

いること。

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「H」の横棒の所に縦線が入っていますが、「日本キリシタン墓碑総覧」によれば、熊本県天

草市正覚寺等で、同様なものが見られ、下の左側に見られるように「H」の上に、罪標十字

架(干十字)が、刻印されていた可能性が高いと書かれています。


また、この「IHS」を刻んだものとしては、全国で、十基ほどしか確認されていないそうです。

この、墓碑は、このお宅の横の排水側面工事中に排水溝の底から発見されたそうです。


上が欠けているのは、禁教時代に破壊され、また上面が抉られているのは、手水鉢等に転

用するため、後世に作りなおし、その後、廃棄され、側溝などの石垣に使われたのではな

いかと思われる、という事だそうです。

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  (左は天草の正覚寺墓碑~「日本キリシタン墓碑総覧より)


この文様は、右の「イエズス会」の紋章とほぼ同じで、イエスズ会のものと考えられます。


「IHS」とは、ギリシャ文字でのイエズス(イエスのこと)、「IHΣOYΣ(IESUS)」の最初の文字

をとったもの。イエズスの名の略号。または、「Iesus Hominum Salvator」(ラテン語:人類の

救主なるイエズス)の略語だと言われています。(キリスト教百科事典:ヘンデル代理店エン

デルレ書店刊より)

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なお、文字が彫られているのは、正面左の小口のみです。この、「IHS」の文字を刻んだも

のは、長崎県では唯一のものだそうです。


「日本キリシタン墓碑総覧」によれば、全長が60㎝で、非常に短いという事で、子供用の墓

碑の可能性があるということです。


この墓碑は、個人宅内にあるので、許可を得てからにして下さい。多分、土、日曜日なら、

おられると思います。私の真似はしないように。


【おまけ】海岸近くを散歩していたら、見慣れない、きれいな花が咲いていました。おばあさ

んが手入れをしていたので、花の名前を聞くと、北九州の母の所からもらってきて、名前は

知らないとのことでした。

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(参考・文引用:「日本キリシタン墓碑総覧~南島原市教育委員会企画・大石一久編集」

 「島原市の文化財~島原市教育委員会発行」 説明版 より)





2014年4月30日 (水)

茂無田キリシタン墓碑★基壇付き伏碑~雲仙市小浜町

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久しぶりの、キリシタン墓碑の紹介です。墓碑は、雲仙市小浜町の茂無田の共同墓地内

にあります。


行かれる方は、少し分かりにくいので、ネットで検索すると、地図が出てきますから、それ

を頼りに、近所の方に尋ねた方がベターかと思います。


私もちょうど通りがかりの、近所の方に尋ねたので、すぐに分かりました、とは言っても、

道を行くと、少し写真では分かりにくいのですが、猪が入らないように、柵が張ってあり、私

の短い足では、跨ぐこともできず、針金をはずして入りました(もちろん後は元どうりにし

て)。


あと、上の広い道から入る方法もあるようなのですが、ここまで下る道があるかどうか、責

任は持てません。あと、この道を少し行くと、矢印の所、小さな共同墓地があります。

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この中に、キリシタン墓地があるのですが、一番上の写真で見られるように、方形の石積

みの基壇の中央、板碑の後に祀ってあります。横から見たところ。

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正面から見た板碑で、この後にキリシタン墓碑があります。

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あと、「日本キリシタン墓碑総覧~企画・南島原教育委員会 編集・大石一久著」に添って

書けば、この前の板碑。拓本では「天保十五年辰年/○(月輪)□□□□者無縁先|祖

代々各位/二月十一日 造立」と陰刻され、「無縁先祖代々各位」の霊を供養するために

造立した趣旨が読み取れるそうです。


なお、墓碑は現在地より、上方の土地を切り開いた際出て来たもので、それを現在位置

に移したものだそうです。


「小浜町郷土史を語る会編『茂無田キリシタン墓碑調査報告書~昭和51年』」によれば、

板碑の紀年碑をもとに、天保15年に移し、墓碑の移設に関係して自然石板碑が建立さ

れたとしてあるそうです。


なお、日本キリシタン墓碑総覧によれば、「本墓碑は、一間四方の方形積石基盤の中央

に立てられた自然石(略)の背後に接するように横置きで配置されており、単なる放置では

なく、そこに意識的な配列がうかがえる・・・・」とあり、「これらの各点を考慮すると、本墓碑

の移設に関して方形積石基壇を築き、その中央に天保15年銘の『無縁先祖代々各位』

のための供養塔を立て、その背後に本墓碑を意識的に配置したものと思われる。・・・」と

あります。


この基壇と墓碑本体が一体化した伏碑は、五基確認されているそうですが、この墓碑が

一番大きなものだそうです。

(伏碑本体) 小口横幅36,5  背高32,4  全長89,2

(基壇) 横幅57,0 背高(中央15,3  右側11,0  左側10,8)

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ゴールデンウィークですが、こちらは、毎日がゴールデンウィーク。ご近所からもらった花

も、気付かないうちに咲いていました

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(文引用:、「日本キリシタン墓碑総覧~企画・南島原教育委員会 編集・大石一久著」)


2014年2月24日 (月)

潜伏キリシタン地蔵?~雲仙市瑞穂町

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一昨日、瑞穂町の八幡神社で、T氏と偶然お会いし、話をしていると、興味あるものがある

と言われ、わざわざ連れていただいたことを、書きましたが、この場所です。


石仏の前は、少し凹地になっており、通りかかった、おじいさんがT氏を知っているらしく、

話を聞くと、この場所に以前水が湧いており、水神様として祀ってある事のことでした。


さて、島原半島はキリシタンの遺跡が多く、学術的に証明されている物、議論があるもの

等、種々さまざまです。


そのうちの一つに、A(アルパ)型キリシタン地蔵、ω(オメガ)型地蔵があります。

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(島原半島のキリシタン文化・かくれ切支丹の遺物と遺跡~島旗半島かくれ切支丹研会)


腕の形、全体の形を見ると、「ω」と「A」の形に似ています。

この「A」と「ω」については、「ヨハネ黙示録第1章の8」に「今いまし、昔いまし、やがて来

たるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、わたしはアルパであり、オメガであ

る」。要するに、神が世界の全てであると言う事でしょう。


さて、先ほどの地蔵さん、まさに腕の所をみると、「ω地蔵」。

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潜伏キリシタンの遺物については、私の立場は、肯定派でもなく、否定派でもないのです

が、ただ、これが島原半島独自のものか、全国的なものか、分布範囲など学術的研究も

なく、ただ、思い込みだけでは、なんとも言えないと思うのですが・・・・


なお、ヨハネ黙示録は、「ウィキペディア」によれば、「『黙示録(ヨハネ黙示録)』はキリスト

教徒の間でも、その解釈と聖典への受け入れをめぐって多くの議論を呼びおこしてきた書

物である。今日では歴史的教会では聖典と認められている。」とあり、果たして、このような

難解な教えが、キリスト教未開発の、昔の日本において教えられていたのか?


参考です、宮崎県瑞厳寺にある、十一面千手観音菩薩。

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(「仏像の基本」~枻(えい)出版社より)


見方によっては、腕の所「ω」に見えませんか?この方面、まだまだ、研究の余地があり

そうですね。


さて、もう一カ所案内していただきました。

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これが、キリシタン地蔵かどうか、私の目では分かりませんが、横の所。

写真では、分かりにくいのですが、左右で少し違っていましたが、読みやすい方で書くと、

向かって右には「寛正二十年 釈現○ 壬四月八日」と読めました。


最初は「寛政」の当て字かと思ったのですが、「寛正(かんしょう)」という年号はありまし

たが、1461年~1466年。寛正7年2月には文政に改元していますから、「寛正二十年」

という年は無いということで、これは、どう考えたら良いんでしょう。悩んでいます。

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実は、この後、もう一カ所連絡があったので、一人で行って写真を撮ってきて、整理してい

たら、間違って消してしまいました。機会があったら、又。

瑞穂町のTさんには、仕事中にかかわらず、お世話になりました。感謝いたします。



2013年10月23日 (水)

西田平キリシタン墓碑&潜伏キリシタン(隠れキリシタン)墓碑?~南島原市北有馬町

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先日、日野江城の発掘調査を見学した折、日野江城から、1㎞ばかり行ったところの、西

田平キリシタン墓碑を訪れてみました。長崎県の文化財指定になっています。


きれいに成形された墓碑で、

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回りには、前面、上部、背面に縁取りがしてあり、この形式はこの墓碑だけだそうです。


前面には、見事な花十字

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背面には、文字が陰刻で刻んであり、

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写真では、分かりにくいと思いますが、「慶長拾伍年 流しや 生年 二十才 拾一月十七

日」と掘ってあるそうです。


「日本キリシタン墓碑総覧」には

「伝承として『ジョロウの墓』とされており・・・・・墓碑が「寝ているので昔から女郎の墓」と言

われたそうだが、発見に関わった北有馬村尋常高等小学校校長八木次朗氏は『身分の

高い女官『女﨟』のことだろう」と解釈されている・・・・・同じく新村出氏も「上﨟様」と解釈さ

れたことを受け、松田毅一氏は『場所柄、日野江城の有馬家に由緒のある人の墓であろ

う』としている」と書かれています。


また、同書によると、この地は、中世石塔など近世以前の墓碑形成を示す遺品・遺蹟など

が確認されないことから、当初はキリシタン専用墓碑として形成された可能性があるという

ことです。


なお、ここは、北有馬町西田平(中屋敷)という所ですが、現場の説明版には、「天正15年

はキリシタン大名有馬晴信の代で11月はその子、直純が先婦人を別離、徳川家康の曽

孫女、国姫を妻に迎えた月であることに思いを馳せたい。

なお、中屋敷は有馬家の中屋敷跡を指し、流しやの流は「る」の替字である。」と記されて

います。


さて、帰ろうかと思い、この上の段を見ると、

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いわゆる、塚墓、あるいは、この形のものとして、斗升墓、トーマス墓と云われるものがあ

りますが、ここで見るとは、おまけに、見るのは初めてで、ビックリしました。なお前面に

Dscf4450_2

上部は分かりませんでしたが、「辰」と書いてあるようですから、年号を表す文字でしょう

が、その後に「年」の代わりに「天」の文字。いわゆる。「天年号」といわれるものです。


塚墓、また、年号に「天」と言う文字が使われていると、潜伏キリシタン(現在は、江戸時代

の禁教時代、信仰を守った方を、潜伏キリシタン、キリシタン禁教がとかれても、密かに

自分たちで信仰した方を、隠れキリシタンと区別して研究されています)を研究されている

郷土史家の方は、潜伏キリシタンと結びつけて考えておられます。


潜伏キリシタンの遺跡については、識別が非常に難しく、明らかに、キリシタンと分かって

ては処罰があるし、まったくキリシタンの物と分からなくては意味が無いし、いろんな議論

があるところです。私も、これには悩み多き青年というところです。

(参考・文引用:「日本キリシタン墓碑総覧~企画・南島原市教育委員会 監修・大石一久

「有明の歴史と風土」・現場説明版より)




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