信仰

2020年12月13日 (日)

「剱岳─線の記」★髙橋大輔著

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新田次郎の「劔岳ー点の記」を読まれた方、映画で見られた方は多いと思います。

未踏峰だと思われた剱岳に三角点を立てるべく、明治時代、
測量官・柴崎芳太郎氏が挑み登頂するも、山頂には錫杖と鉄剣が置かれていて、すでに登頂者がいた、という物語でした。

この「剱岳ー線の記」には、この錫杖と鉄剣を誰が置いたかを検証するノンフィクションです。著者
はロビンソン・クルーソーの居住地跡を発見した冒険家・髙橋大輔氏。

氏は下のような設問を設定し、謎に挑んでいきます。

「いつ」「誰が」「どのように(山頂をきわめたか)」「どの(ルートは)」「どこに(山頂のどこに錫杖頭と鉄剣を置いたのか)」「なぜ(山頂に立とうとしたのか)」

険しい山、今のようにルートも無く、装備も無い時代、何のためにという疑問は誰しも持ったことだと思います。


そのため、色々なルートを考え、また、剱岳に関する本(最後に参考図書が書いてあります)を調べ、土地に残る地名等を調べルートを設定し、地元の人、研究者の支援を得て、実際に5回剱岳に挑み謎に挑んでいきます。


あまり書くとネタばれになるので止めますが、初登攀した人物が、現代人のように「山があるから」「山が好きだから」登った、ということではなく、もっと深い意味があったことが書いてあります。


そして、このことが、平安時代に剱岳を開山した人物と柴崎芳太郎氏が明治期に剱岳に登頂し、そこに錫杖と刀剣を見つけた事が必然であり、この本の題が「剱岳ー点の記」ではなく「剱岳ー線の記」である事の意義が最後に書いてあります。


新田次郎氏の本に「槍ヶ岳開山」という本があり、槍ヶ岳に初登攀した修行僧・播隆について書いてあるそうですが、この人物も剱岳に初登攀した人物と同じような感じなので、この本、いつか読んでみようと思っています。


なお、剱岳に残された錫杖の杖頭、刀剣の写真(立山博物館所蔵)も載せてありますので、興味のある方はお読みください。




 

2020年6月 1日 (月)

諌早神社「アマビエさま」。その他。

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諌早神社に日本一の「アマエビさま」が奉納されたとかで、コロナが気になるのでお参りにいきました。

前にも書きましたが、諌早神社は雲仙の旧四面宮(現・温泉神社)の分社になります。


アマエビ様は体重ではなく、重量300㎏もあるそうです。説明版は下の通りです。クリックすると大きくなります。


これ、TVで放映されたとき、作ったのはあの人だなとピンと
きました。以前ブログでも紹介した、日本一のチェンーソーアートに輝いた「細麦(ささめむぎ)さくらや」さんのご主人でした。創作過程については→こちらをクリック

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社務所に行ってみたら、アマエビさまの型紙がおいてあり、いただいてきましたが、「諌早神社」のホームページでもダウンロードできるそうです。

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できあがりはこんな感じになります。諌早神社のホームページからです。

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で、ちょうど宮司さんがおられたので、以前から気になっていた陶器の鳥居があったのかどうか→こちらをクリック(最後の方にぼけた写真があります)を聞いたら、はやりあったとのことで、場所を尋ねたら旧社務所(?)から本殿(右の写真の奥の建物)に行くところにあったそうです。再建できないかとのお話でした。

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日はアマエビ様に参拝ができ。疑問に思っていたことが解決をし、佳き日でありました。

          アマエビに祈る神社の若葉かな sugikan



2020年4月15日 (水)

「四面宮ものがたり」

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昨日の長崎新聞。「『四面宮ものがたり』知って」と書いてあり、四面宮といえば、地元の温泉神社の事で、昔の人は今でも「おしめんさん」などと言っている方もいます。ということで、さっそく神社へ行っていただいてきました。

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パンフレットを作った理由として、四面宮の歴史などを紹介し、島原半島や諌早市の地域活性化などにつなげようと、県神社庁が作成をし「(各地の)神社のルーツを知り、郷土愛を育むことにつながれば」ということもあるようです。

なお、最近参拝者の減少、後継者不足の課題もあるということで、観光協会などと連携をし、「御朱印ツアーや島原半島の観光名所を絡めた神社巡りツアーを形にできれば。目指すところは一つのブーム化。神社へ来る人を増やし、地域振興や交流人口の増加を図る上で、パンフレットを最初の一手にしたい」ということだそうです。


「ツアー」「ブーム」「地域振興」「交流人口の増加」などという言葉を聞けば、なんとなく観光名所を売り込むような感じ。「神社」の本質はどうしたのさ?という感じでですが・・・

私、ウォーキングの時、良く神社にお参りをしていますが、心静かにお参りをしているとき、ツアーのお客さんがドットきて「わ~すごいパワースポット」「心が洗われるわ~」「宝くじに当たるようにお参りしよう~」とか横でペチャクチャ騒がれる、とですね・・・


とはいっても、パンフレットを読むと実に分かりやすく紹介してあります。雲仙が山岳信仰で栄えたこと、中国に修行に渡るとき雲仙岳が「日本山」と呼ばれたこと、四面宮の誕生についてなど書かれてあります。


「四面宮ものがたり」が手に入らない方は、「shimengu-jinja.jp」で、あちらこちらをクリックすると、パンフレットがそのまま載っています→こちらをクリック


さて、ひとつ気にかかるのが、「四面信仰は島原半島を中心に広がっていきます。四面宮は、諌早市、雲仙市、島原市、南島原市、そして佐賀県にも次々に建立されていきました」というところで、四面宮は最初、島原半島の現南島原市の有家町、雲仙市の千々石町、吾妻町、諌早市に建立されました。


「大宝元年(701)には温泉神の分身末社として、山田神(吾妻町)、有江神(有家町)、千々石神(千々石町)、伊佐早神(諌早市)に勧請されたという。」(島原半島の歴史★松尾卓治監修)。


「『史籍集覧』『歴代鎮西要略』によれば大宝元年、(701)温泉山、温泉神社の分身末社として千々石、伊佐早(諌早)、山田、有江(有家)の神、四ヵ所勧請とある。」(有家町郷土誌)


とあり、「四面宮縁起」には「一宮東方・・・・二宮南方・・・・三宮西方・・・・四宮者(注:読みは「は」)北方」と言うように、雲仙の四面宮を中心に四つの末社があったことが分かります。「諌早市史」には「・・・・一の宮は千々石、二の宮は山田、三の宮は諌早、四の宮は有家であり、その神殿の方向は正しく各社共にその通りである」との記述があります。


ということで、「四面宮」の最初の四つの神社の場所を明記してほしかったと思います。


さて、神仏分離の関係で「四面宮」が「筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)」に変更されたのが明治三年。島原藩主の業績、出来事を書いた「深溝世紀」には次のように書いてあります。


明治三年の部分。「十四日、神佛の混淆するを判ちてこの号を改む。温泉山四面宮は、筑紫国魂神社と曰い、五社神明宮は、延宝神社と曰い、祇園牛頭天王は八雲神社と曰い、山王社は日枝神社と曰い・・・」というように各神社の名前もかなり変えられており、神社の本来の事を知りたいのなら、昔の名前を調べることが必要になります。


千々石の「温泉神社」の場合には、以前にも紹介しましたが、明治八年の「神社明細調帳」には「・・・本称四面宮祭木仏明治二己巳年旧島原藩除木仏改社号祭日九月十九日」とあり、現在の「温泉神社」は「四面宮」といい、神社に「木仏」が祭ってあり、「神社」に「仏」ですから、神仏混交の神社であったことが分かります。明治二年に仏様が除かれ社号が変えられています。

さて、谷文晁の「日本名山圖」をみていたら「雲仙岳」と書いてありました。この頃は普通「温泉(うんぜん)嶽」と呼んでいたのですが、谷文晁さん「うんぜん」と聞いたので「温泉」と書かずに「雲仙」と書いたのかな?

「雲仙」「温泉」については、以前「温泉(うんぜん)から雲仙へ」で書いたので興味ある方は読んで下さい→こちらをクリック



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◆追記です。

「四面ものがたり」を入手するに当たり、→「こちらをクリック」と書きましたが、「リンク先がでない」というコメントをいただきました。「四面宮会」のホームページが変わっているようで、クリックすると「ページがみつかりませんでした」と出てきますが、右の方に「四面宮ものがたり」とありますから、それをクリックしたら出てきます。

このページの下に「この冊子のダウンローはこちらをクリックください。」とあるので、「クリック」のところをクリックすると、PDF版にて見られます。
もしくは、「四面宮会」で検索するとホームページがあるので、右の方に「四面宮会ホームページオープンしました 現在準備中です」とありますが、かまわずクリックすると「四面宮ホームページオープンしました」のページがあり、下の方に「四面宮ものがたり」とあるので、これをクリックするとみられます。なお、下にの方に「この冊子のダウンロードは・・・」とあるので、クリックすると、同様にPDFにて見られます。


2019年12月10日 (火)

「臨終」という事

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11月26日~30日まで、お寺から「ご正忌報恩講法座」との案内があったので、出かけてみました。お寺は浄土真宗西本願寺派になります。

「ご正忌報恩講」は親鸞の命日に関わる法要、「法座」は(意味はいろいろあるようですが)、仏法を説き聞かせる会になります。

お寺では、いろいろな時、説教師というのか布教師というのか、いつも講師の先生を迎えて法話があります。なかなか、いい話があるので出かけています。本来、26日から30日まで、朝座、晩座、毎日2回、通算10回のお話ですが、26日の朝座だけ聴聞をしました。さびいからですが・・・(^^;)

今回は、福岡のお寺からの講師で、話は分かりやすく、面白い中にも仏様の話をされ、よく理解できるものでした。井上ひさしさんの「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」という言葉どおりの法話でした。


以下、録音を取ってなかったので、うろ覚えの話になります。私の考えとチャンポンになっているところもありますが、骨子は以下のとおりです。なお、臨終に関しては各宗教・宗派で考え方が違うようですが・・・


この法話の中で「臨終とはなんですか?」という問いがあり「お医者さんが、脈をとってご臨終と言いますが、あれ間違いです」とのことで、「え!マジ」とは思いましたが、この言葉、一番上の「阿弥陀経」の一節「臨命終時」を簡略化して「臨終」。意味としては「命終わる時に臨み」ですから、まだ、「生きている時」のことになります。


では、私たちは、いつが「命終わる時」なのか、分かりませんね。私の経験で、学校の先生がテストの採点をしているとき、こたつの中で亡くなられた方を2名ばかり知っています。昼の運動会で元気よく走っていた奥さんが、夕方倒れ、くも膜下出血で亡くなりました。このような事は皆さんも多少なりとも経験があると思います。


言ってみれば、私たちも、いつ「命終わる時」に「臨んで」いるのかは分からないわけです。というより、
私たちは常に「臨終」、「命終わる時に臨み」という時間を生きているという事になります。

あとは阿弥陀仏の話に関係づけた話になってくるわけですが、長いので省略します。

で、確かに私たちは常に、いつ死ぬか分からない「臨終」に向き合って生きているわけですから、今、この生きている時間を大切にしなければと、いつもと違って真面目に考えました。


さて、この話を聞きながら思い出したのが、正岡子規の「病状六尺」の一文。


〇余はいままで禅宗の悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった(「青空文庫」より)。


「臨終」の時を、平気で生きることがどれだけ自分にできるのか・・・



 

2019年11月30日 (土)

「お寺の掲示版」★江田知昭著

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TV、ネット等で紹介されたので、ご存じの方も多いかと思います。お寺の掲示版に貼ってある言葉を集めた本です。発売が9月25日、11月15日で3刷ですから、売れている本です。

1年ほど前、お寺の掲示版のことが少し話題になった頃、ネットで一番始めに見た掲示版が下の「おまえも死ぬぞ」。とにかく、ぶったまげましたね。え~、お寺さんが、寺の前の掲示版にこんなこと書いて良いの~(?_?)

考えて見れば、私たちも冗談で「一回は死ぬちゃ」とか言いますが、無論本気ではありませんが、お寺の掲示版に「おまえも死ぬぞ」と言われれば、相手が葬式などを扱っているお坊さんだから、ドキッとしますね。


この本、掲示板の写真と共に、1~2頁、解説が入ります。


「おまえも死ぬぞ」については「釈尊の教えを伝えるとされる原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』の中では、『生まれた者が死なないということはあり得ない』(中村元訳『ブッダ悪魔との対話』、岩波文庫)。」と書いてあり、この釈尊の言葉をぶっちゃけて表現したものだということですね。


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      (「お寺の掲示版」より)

多少気になる言葉を紹介すると(私にとって)・・・

■「難が無ければ無難な人生/難があれば苦難の人生/難あればこそ有り難し」


私にはカミサンという「難」があり、それを乗り越えてこそ、私の人間性が少しは向上していくと思えば、カミサンは私にとって「有り難い」存在なのです。と思いたいのですが・・・・・

■「大丈夫だよ/生きていけるよ」


住職さんが取り替えようとすると、門徒さんから戻してくれといわれて十年以上。確かに、誰かに言われると元気が出ますね。


■「風呂は湯加減/医者は匙加減/人生は手加減/わたしゃいい加減/さとりとは」


「さとり」とは難しいですね。円覚寺派管長の横田南峯老師曰く「『私は悟らぬものの代表です』と謙遜しながらもさとりとは何かと強いて言えば『間違いに気づくということだろうと思いますね』とおっしゃっていました。」だそうです。

さとりは、各宗派違いがありますが、上のように言ってもらえれば、なんとなく納得。

有名人の言葉を貼っているところもあり・・・


■「死はいつか来るものではなく、いつでも来るものなの」~樹木希林さん

樹木希林さんらしい言葉だとおもいます。

■「生きているだけで丸儲け」~明石家さんまさん


さんまさんの言葉に次のようなものもあるそうです。「人間生まれてきたときは裸。死ぬ時にパンツ一つはいていたら勝ちやないか」


■「これでいいのだ」~赤塚不二夫さん

「天才バカボン」のマンガの言葉ですが、「バカボンという名前は、『薄伽梵(ばぎゃぼん)』、つまりは仏に由来していると言われています。実は仏教を意識した漫画なのです、」という事だそうです。

と言うことで、不安定な時代、悩み多き人生、ご一読を。私のお寺の掲示版、なんて書いてるか明日行ってみようかな。




2019年2月25日 (月)

「羅漢寺の猿石(?)」~南島原市有家町湯川内

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有家町湯河内に「羅漢寺跡」というところがあります。

「有家町郷土誌」と「有家町内における文化財の調査」によると多少違いがあるのですが、はっきりしないところがあるので、ザックリ書いてみます。

数十年前聞いた話では、この道々に、上にあるような石造物点々とがあり、それを集めてここに祀ったとか。

「羅漢寺」と書いてありますが、
「有家町内における文化財の調査」では、このあたりに、密教寺院があったらしく、この一帯を「寺山」「寺屋敷」といい、出水で流されたらしく、その道場に安置されていた彫仏が発見されたそうです。

その、概要を聞いた北九州市の某お寺の住職が「石造物を羅漢と早呑み込みし、羅漢寺云々の語句を使用したことにはじまり、一部の土地の人々は、これを羅漢像と言い伝えたことに、間違いを引き起こした遠因があったのであり。」と言うことで、ここに「羅漢寺」というお寺があったのではありません。

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どう見ても、羅漢さんにはみえません。

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石像の実測図ですが、確かに羅漢さんではありません。

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     (「有家町内における文化財の調査」より)

この報告書の副題が「ー資料よりみた倭、韓交流史に対する提言の試みー」なっており、この事についても書いてありますが、長いので、いつものように省略。

この石造物は現在「猿石」といい、有家町の各地に点在していますが。「・・・・麓の村人たちが、キノサン参りと称して、豊穣を希求する登山参道の古道を探れば(かって登った古老による)蒲河から須川あたりの旧入江港を基点として、山川ー堀切ー湯河内を経て鮎帰滝に出、(中略)西北高岩山の裙に出、(中略)ここより高岩山に登り参詣するが、古代舟人にとっても、巨石崇拝、或いは航海の指標として尊崇されたことは、現地からみて、認めざるを得ない条件を持ち、仏教の文化がこれと結びついたことも、けだし当然である。」とあります。

少し古い絵葉書からですが、下が高岩山です。

雲仙といえば、昔は修道験者の修行の場所として有名でした。この修道験者の道標として、猿石が置かれたのではないかとの話もあります。

まだまだ、解明はなされてないようですが、多分、これだ、という結論は出そうもないのですが・・・

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羅漢寺跡に行くには、雲仙から島原に下る途中に俵石展望所があり、そこから有家に下る道があり、途中に「鮎帰の滝」の看板がありますから、そちらの道に入り、途中、滝に行く道がありますが、それを無視し直線します。で、途中、小さな分かれ道があります、それも無視して、まっすぐ進みます。そうすると、上の写真の所にでます。

なお、道が狭いです。舗装はしてありますが、リーンカーン・コンチネンタルなどの車は避けた方が良いでしょう。ベンツなどの高級車も避けたが良いと思います。運転のヘタな方、狭い道を運転すると、息苦しくなる方も避けた方が良いと思います。

なお、羅漢寺あとから、上の国道に抜けるそうですが、地元の方にきいたら、Uターンしたほうがベターだと言うことでした。Uターンする場所は、すぐ先にあります。

しかし、この苔むした石造物、いつまで見ても飽きませんでした。


参考書・「有家町郷土誌」「有家町の文化財報告 有家町における文化財の分布調査 ー資料よりみた倭、韓交流史に対する提言の試みー」より

2017年6月12日 (月)

誰が?~雲仙市千々石町

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下の道、千々石の白津(しろつ)という所から飯岳(いだけ)という所に通じる道です(千々石以外の方には分からないと思いますがm(_ _)m)。

数年前、何回も通った道なのですが、久しぶりに行ってみると、きれいに工事した所があって、奥へと行く階段があって、あれ?こんなところあったのか?という事で行ってみると。


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石の上に石祠が二つ。一番上の写真見て分かる通り、大きな石を削っておまけに階段まで彫り込んであって、横の方にも階段の所まで登れるように石が削り込んであるんですね。これだけ岩を削るというと、機械を使わないと難しいのですが、削った所をみるとどうも手彫りの感じ。

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で、ちょうど下の方で田植えの準備をしている方がいたので訊ねると、昔からあったけれど、立ち木に隠れ見えなくなっており、この場所を町内の某建設会社さんが買い取って、整備をしたとか。

右の石祠は弘法さん。意外と丁寧な彫りをしてあります。


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左の仏様、頭を見るとすぐわかりますね。馬頭観音さまです。馬頭観音というと、街道筋に良く見られる、石仏です。

ということは、ここの道は昔街道であった可能性が高いということですが、先ほどの方に聞くと、今は舗装で広がっているけど、昔はテーラーがやっと通れる道であったとか。


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それで、思い出したのが、伊能忠敬の測量日記、下の地図は「島原藩主 長崎監視の道★長崎殿さん道の会発行」。(写真はここの場所とは関係ありません。別の場所です)

ここのところ、伊能忠敬日記には、「字白津(右二釜蓋城千々石大和守古城:注・この部分2行書き)字阿弥陀寺(小濱街坂近道阿里<有りの当て字>・ここも2行書き)」と書いてあます。


下の地図、上の黒い矢印の赤い線が、伊能忠敬一行が測量した道、下の黒の矢印が石祠があるところ。

赤の丸印が、伊能忠敬日記に書いてある「字白津」。この上の部分に「阿弥陀寺」があります(現在は何もありませんが、五輪の塔碑などが出土しています)。

確かにこの道を通っていくと、飯岳地区に出て、第二小学校付近を通り、蔦坂という峠に行きつき、峠を抜けると、小浜の入り口(千々石側から)山領地区にたどり着き、小浜の中心街へはあと一歩です。

まさに「小濱街坂近道阿里」はこの道であったことがわかります。なお、後日、郷土史家の方に尋ねたところ、ここに街道があったそうです。


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現在、大幅に道が変わっており、拡張、また、昔の道が使われなくなっており、知っている方も少なくなって、今調べておかなければとは思っているのですが・・・ひょっとしたら、あなたのお近くにも昔の街道があるかもですよ。調べていくと思わぬこともあり、面白いですよ。

でも、一体、誰がこんな手の込んだ物を作ったんでしょう。残念ながら、年代等が全く彫られておらず、調べられませんでした。

2016年8月25日 (木)

「めくってみれば・・・」~お地蔵さん祭★ぱーと3

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先日から、地蔵さん祭りのことばかり書いていますが、元来、8月24日に水神様に感謝をする祭りであったとか。前に書いたように、勤めなどの関係で、日にちを各地で調整しているみたいです。

ここは、名称として、「柳原水源」といって、小字が柳原となっていますから、ここから取った名称みたいですが、テントには「水分地蔵尊」などと書かれているのではありますが、明治の神社明細帳を調べると、どうも「出口(いでぐち)神社」と言っていたらしく、


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小字図を調べてみると、青の丸印が橘神社、茶色の丸印が第一小学校。小学校を出て、向かって少し右側に行くと、「柳原水源」がありますが、少し後ろ側、茶色の丸印が、柳原で、かなり微妙なところ。祭神は「弥津波能賣命(みづはのめのかみ)」で、水神様です。

ただ、このあたりの道は、昔は狭く、バスを通すにあたりかなり拡張したとか。
で、地区の境目も変わったことも考えられ、今日も某地区の境目の事を、近くのお店の方と話していると、道が境目だったが、いつのまにか変わってしまって、という事もあり、はたして、ここが昔は「出口」であったのか、「柳原」であったのか?


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昨日、通りかかるとお祭りをやっており、一番上の写真、赤の矢印のところ、一番上に梵字が彫ってあり、下の方は前掛けがしてあって、どんなになっているのか分かりません。

で、隠れているものは見たい。でしょう。ペロンと出ているものなら、そんなにも興味はありませんが、とにかく、隠れているものはどうしても見たい。スカートまくりと一緒ですね。

最近は、勝手にめくっていると、セクハラとか、ストーカーとか言われますが、通りかかった時が、ちょうど片付けているところで、さりげなく、「めくってもいいですか?」、「ああ、いいですよ」。という事で、めくってみたら、


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むかって左側が左の写真になりますが、梵語はこの間書いた通り「カ」。「地蔵菩薩」をあらわすという事で、下の方にちゃんと「地蔵菩薩」と書いてあります。

右側には「天明六丙(ひのえ)午」(1786年)、左側に「十二月吉日」。230年前になります。

石祠が文化10年(1813年)ですから、それより27年前になります。地蔵菩薩というと、人の形をしている思っていたら、このような形のお地蔵さんもあるのですね。初めて見ました。

なお、この横の道は、伊能忠敬一行が、文化9年(1812年)11月11日に、島原から、千々石まで一日で測量をし、宮崎庄屋に宿泊していますから、この湧き水も見ていったと思われます。飲んでいったかどうかは分かりませんが・・・





2016年8月23日 (火)

「本願寺伝道院法話会」

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最近、樹木葬とか散骨とか流行っているそうで、金がある方は、ロケットでお骨(といってもごく少量)を宇宙に打ち上げる商売も出てきたそうです。私も若い時はほぼ無宗教と言ってよく、福岡の中洲の川あたりに、散骨してもらえないかと思っていたのですが、年取ってくると、だんだん考え方が変わってきて、これでいいんだろうかと。

事情があり、長崎のお寺から、こちらの方へ墓を移し、ついでに、こちらの寺の檀家になったのですが、春・秋の彼岸等の時、あちらこちらから講師を招き法座などを行い、聴きに行くといいお話が聴け、できるだけ行くようにしております。

今回、お寺より「本願寺伝道院法話会」なるチラシが回ってきて、初めて聞く名前なので、読んでみると、本願寺に伝道院という所があり、浄土真宗の教えを伝えるため、4月から9月の100日間全寮制で研修をおこない、布教使としての養成をはかり、その一環として、全国のお寺を回って、布教(説教)の実演をしているとか。

お寺さんも初めて引き受けるとかで、話を聞く人が少なくてはどうかなと思い、ちょうど今日はヒマ(病院へ行くとき以外は、いつもヒマ)なので、出かけてみると、暑さにもかかわらず、本堂は満席。

最初に30分程度、「正信偈」を唱えましたが、あれ、指揮者もいないのに意外と合うもので、なんとなく、「グレゴリアン・チャント」の響きを思い出しましたが・・・

あと、研修生の法話が2名、一人が15分の受け持ちですが、その前に、お寺の方より注意があり、私も研修でお話をしたことがありますが、慣れないこととて、非常に緊張し、お聞きしている方が黙って聞いていると、なおさら緊張するので、分っても分からなくても、できれば相槌をいただければ、と。

横道にそれれば、私も以前、あちらこちらで喋る商売(催眠商法ではありません)をしていたことがあり、特に、老人クラブの方など、なにを若僧がと、そっぽを向かれる方があり、これ、ほとんど男性。逆に、何を言ってもうなずいて、笑われる方がおられ、これ、ほとんど女性。

この時、あ~女性のほうが長生きできるのが当たり前だと思ったのであります。笑う健康法もあり、うなずいて首を動かすと、血行が良くなります。ですから、皆さんも、分かっても分からなくても、笑ってうなずきながらお話は聞きましょう。

さて、研修生が3名で、順番に2名ずつ話すとか。両方とも30代前後だと思いますが、お一人が女性で、以前、病院でリハビリの仕事をされ、その時の体験から阿弥陀様のお話をされ、もうひと方は男性で、尊敬していた従兄が交通事故で亡くなられたことから、仏様の話をされましたが緊張していたせいか、少し固さは感じられましたが、ご自分の体験からの話で、なかなか、説得力のある話でした。15分は少し短いかなという感じ。

その後、指導講師のお話がありましたが、さすが、というところでした。「病気と薬はどちらが先か」、「医者と病気はどちらが先か」。「私たちがいるから、阿弥陀様がおられる」と、分かりやすい例えですね。

下の写真は、研修生の方ですが、私より美男と美女だったので、お顔のほうはカットしました。


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他のお寺でも話をしていたところ、最近では少子化のせいか、無縁墓などが多くなり、墓の管理なども支障をきたしているとか。また、若い人が、お寺離れをして維持もだんだん難しくなってきているとか。

親鸞さんの教えは、なかなか難しいところがありますが、何回もお話を聴けば薄皮が取れるみたいに、少しづつ理解できてきます。

最近「親鸞」を書かれた、五木寛之氏も佛教関係の大学院に通われたそうですですが、こちらの研修生は、5時半起床、お勤め、勉強、宿題で、睡眠時間が、3、4時間ぐらいだとかで、体力の関係から、45歳までしか研修生にはなれないそうです。皆様も機会があったら、ご聴聞を。





2016年7月16日 (土)

「日本の地獄と雲仙地獄」★講師 根井浄・元龍谷大学教授~第191回 コレジヨ市民文化講座

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今日は、南島原市有家町の「コレジヨ市民講座」で、毎月一回、今回で191回ですから、随分長く続いています。

南島原市は、日野江城、島原・天草の乱の原城、キリシタン墓碑等を含んでいるのか、皆さん熱心で今日は椅子、机、資料なども用意した分が足りず、事務局の方は大変そうでした。

講師は元龍谷大学教授・根井浄氏。演題が「日本の地獄と雲仙地獄」。最初は十界曼荼羅の地獄の説明。

上の虹の形に見えるのが人が生まれて、死ぬまでの図で、真ん中あたりに閻魔大王などが見え、下の方に地獄があります。

昔は、この図を、「熊野比丘尼」が各地に持って回って、説明し、戦国時代、熊野三山の財政難を助けたそうです。現在、この史実を活用しようと、「熊野絵解き図」制作プロジェクを、地元の方、各種団体が共同で推進しているとのことです。(和歌山県ホームページより)


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多分、昔も右のようにして解説していたのでしょう。

さて、雲仙地獄にも「肥前國高来郡嶋原温泉山之図」があり、現在5種類ほど確認されているそうです。


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話には聞いていたのですが、縦型の図があり、これが一番古いのではという話ですが、現在、東京国立博物館所蔵になっています。コピーですが、見たのは初めてでした。

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この図を、根井先生は半年ばかりかけて、解読されたそうですが、地名、地獄の名称が書いてあり、珍しいのでは、「立きゝじごく」、「かじやじごく」、「めしたきじごく」、「きょうだいじごく」、「酒やじごく」、「ときやじごく」などある中に、「たかのぶとう塔跡」なるものがあり、「おばま 史跡ガイド」によれば、「竜造寺隆信」の墓の紹介がしてあり、多分、「たかのぶとう塔跡」は、竜造寺の墓ではないかと思うのですが、「遺骨は分骨され雲仙にも葬られたという。」ですから、本物かどうかは不明です。なお地図には「千々石道」の文字も見えます。

当時は満明寺一乗院が雲仙地獄を支配、管理していたとかで、「温泉(うんぜん)山起立書」に「他所人又ハ六部其外、御領内ゟ弟子又ハ手習子供差出、案内可遣申候」とあるそうで、一乗院が地獄の案内権をもっていた、という事だそうです。多分、上の図は今でいえば、案内パンフレットかな?

知らないこと、見落としていたことなど多くの事が聞け、はやり専門家の話は聞くものだと思った一日でした。

(参考・文引用・写真引用
:「根井先生講義資料」・「地獄絵図『熊野観心十界曼荼羅』絵解台本~方丈堂出版刊」・「嶽南風土記 23号~有家史談会刊」・「おばま 史跡めぐりガイド」・「日本百景と土産物~平凡社刊」・「和歌山県ホームページ」)







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