平和

2021年8月 9日 (月)

原爆で死んだ、僕のじいちゃん

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上の写真は私の母の父で、僕のじいちゃんになります。名前が「好藏」さん。

最近、母の実家の姪から、いろいろと出てきたという事で、写真や好藏さん宛の手紙を送ってきました。上の写真はそのうちの一枚です。


少し脱線して。今、”姪"と書きましたが、実はいとこの子どもで、姪では無いんですね。あれ?いとこの子の呼び方はナンだっけ、と調べると・・・以下、「元市民課職員」さんのブログがあって、こちらを参考にしています。なお、図もこちらのブログから引用しています。詳しくは→こちらをクリック


男の子の場合は「従兄弟違(いとこちがい)」「従甥(いとこおい・じゅうせい)」で、女の子の場合は「従姉妹違(いとこちがい)」「従姪(いとこちがい・じゅうめい)」。なお、まとめて呼ぶときは「従甥姪(じゅうおいめい・じゅうせいてつ)」だそうです。

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なお、結婚してフルメンバーになると下のようになるそうです。大変ですね(クリックするとハッキリと分かります)。

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さて、話しを元に戻して、好藏さん、明治34年5月9日生。戸籍で見ると、生まれたのが現南島原市の西有家町。父親の”福島市太郎”さんの相続の所に”年月日不詳相続”となっており”母”の所は空欄。古い手書きの戸籍では”不詳”ということで、多分これ以上は追えないかと思います。

写真をいろいろと見ていると、母の時代まではなんとか分かる人物もいますが、全然分からないという人もいます。皆さんもスマホで写真を撮っているかと思いますが、孫あたりになると「これ、誰?」という状態になるかと思いますので、記録はちゃんとしておいた方が良いかと思います。


さて、好藏さん、後に長崎では有名な薬屋を創業しますが、少し面白い方で、いずれこれもブロブに載せたいと思います。


で、今日が実は好藏さんの命日です。以前にも書いたかと思いますが、友達が亡くなり、昼から葬式のところ、朝から手伝いにいったそうです。場所が原爆地付近。原爆に遭い亡くなりました。戸籍の一番最後に・・・



「昭和貮拾年八月九日午前拾壱時長崎市山里町百二十六」



と一行あるのみでした。多分、原爆で亡くなられた何万の方の戸籍も同様かと。


翌日、子どもたちで探しに行ったそうですが、長崎駅前で女性は停められ、男性2名で探しに行ったそうですが、まったく分からなかったそうです。


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話変わって、上が父の父。名前が”留吉”さん。昔は子どもが多く、もうここらで”留め”にしようか、というので「留吉」。生まれが明治39年4月30日。鎌倉生まれです。で、どこで勉強したものやら、満州鉄道の技師として働き、かなりの給料を貰っていたそうです。私が生まれる前に亡くなっているので、写真でしか顔は知りません。

どういうわけか長崎に来て、酒屋とか宿屋をやっていたそうですが、生来の酒好き。只酒を振る舞い、財産をなくしたと父から聞いています。床の下には一升瓶がゴロゴロしていたそうです。帰りが遅いので、父が迎えに行ったら、ドブの中にハマっていたこともあるそうです。父が若いときに亡くなっています。


なお、父も酒が好きで、道に寝っ転がって友達と腕相撲もしていました。ということを見ているので、私は品良く、酒をいただいておりました。今はドクターストップで飲んでいませんが(-_-)。


現在、特に好藏さんの事を調べているので、戸籍謄本を読んでいますが、戸籍謄本なるものを初めて見たのが高校の時。私の生まれが「1月24日」、父と母の結婚届が同年の「1月3日」。どう考えても、おかしいでしょう。要するに私が生まれるので、慌てて婚姻届を出した、ということです。


この事を父と母に問い詰めると「昔は、ようあったことたい(昔は良くあったことだよ)」と誤魔化していましたが、なんとも杜撰な父と母でありました。私の杜撰な性格も父母譲りかと。

 

 

 

2020年8月 9日 (日)

2020.8.9 長崎原爆の日~一枚の絵はがき

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ここに一枚の絵はがきがあります(クリックすると拡大します)。

礼拝が終わったあとの浦上天主堂だと思われます。

左側が礼拝堂か?

見ると全部が子どもたちです。今の子どもと違って、ピースなどもせず写真機の方を見つめています。


みんな、しっかりした、澄んだ目をしています。

よく見ると、手を組んだ祈りの姿の子どももいます。

子どもたちは、今でいえば、小学校の中~高学年かな?

原爆が投下されたのが、昭和20年(1945年)8月9
日。

浦上地区には沢山のキリスト教信者の方が住んでいました。


この絵葉書を見ていると、大人になった、この子どものたちの何人が犠牲になったのか・・・



2020年6月 1日 (月)

諌早神社「アマビエさま」。その他。

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諌早神社に日本一の「アマエビさま」が奉納されたとかで、コロナが気になるのでお参りにいきました。

前にも書きましたが、諌早神社は雲仙の旧四面宮(現・温泉神社)の分社になります。


アマエビ様は体重ではなく、重量300㎏もあるそうです。説明版は下の通りです。クリックすると大きくなります。


これ、TVで放映されたとき、作ったのはあの人だなとピンと
きました。以前ブログでも紹介した、日本一のチェンーソーアートに輝いた「細麦(ささめむぎ)さくらや」さんのご主人でした。創作過程については→こちらをクリック

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社務所に行ってみたら、アマエビさまの型紙がおいてあり、いただいてきましたが、「諌早神社」のホームページでもダウンロードできるそうです。

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できあがりはこんな感じになります。諌早神社のホームページからです。

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で、ちょうど宮司さんがおられたので、以前から気になっていた陶器の鳥居があったのかどうか→こちらをクリック(最後の方にぼけた写真があります)を聞いたら、はやりあったとのことで、場所を尋ねたら旧社務所(?)から本殿(右の写真の奥の建物)に行くところにあったそうです。再建できないかとのお話でした。

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日はアマエビ様に参拝ができ。疑問に思っていたことが解決をし、佳き日でありました。

          アマエビに祈る神社の若葉かな sugikan



2020年3月31日 (火)

2020「~;青い目の人形~リトルメリーと仲間たち”~『日米親善人形交流と島原展』~」&島原城内の2,3の事

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相変わらずの「リトルメリー」ちゃん。

毎年、ぶらっと行っているのですが、昨年は体調を崩し行くことができませんでした。今年は、病院に行く用もあり、寄ってみました。

この催し物の意義については以前にも書いているので→こちらをクリック

Wikipediaにも詳しく載っているので→こちらをクリック

入って見ると島原での”青い目の人形の歓迎会の様子”、各町村の学校での奇跡的に残された歓迎会の写真。これを見ると、いかに暖かい歓迎を受けたのかが分かります。

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「青い目の人形」の本、記録など増えました。

今年はコロナウィルスの影響で”春うらら茶会”、青い目の人形に関する市民講座が中止になりましたが、紙芝居上演は29日の日曜日実施されたみたいです。


今年で17回を迎えたという事で、「自国第一主義」が流行っている現在、平和を願う人形を通しての交流があったこは、粘り強く伝えていってもらいたいと思います。


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会場の前に見慣れないバスがあったのですが「しまばらん」という島原巡回バス。となりに普通バスがあり、運行しているのかと思ったら”Bus cafe”。後ろのキャラクターは島原の”しまばらん”。かな?

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車内ですが、こんな感じ。お客さんもウェイトレスさんもいません。多分、隣の売店、食堂の方に言えばコーヒーなど淹れはくれるのでしょうが・・・車内には古い写真が展示されていましたが、これ、説明が欲しいナ。

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帰りがけ見たら、キャンピングカーが停まっていて”島原城キャンピングカー お泊まり体験”と書いてあり、雨が降っていたので車内で写真を撮って、詳しくは見ませんでしたが、どうも、ここでキャンピングカーにお泊まりができるようでした。

”謎解きゲームに参加せよ”は島原城を中心にしたゲームかな?

とはいえ、コロナの出口が見えなく、観光客が少なくなった今日、人を寄せるは大変だと思いますが頑張って欲しいと思います。

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2019年8月 9日 (金)

令和元年 「長崎原爆の日」に

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以前、この写真を使った覚えもあるのですが、原爆に遭う前の長崎浦上天主堂です。当時、東洋一だと言われていたそうです。

私の生まれは長崎の繁華街の近くですが、小学校の時、浦上に引っ越してきました。当時は、少し整理ができていましたが、まだ瓦礫が積んであるのを覚えています。


私の母の父は、浦上に住む友人の葬式に出かけ原爆に遭いました。家族で捜しに行ったそうですが、女性は長崎駅で止められ、男性だけで捜しに行ったそうですが、遺骸は見つかりませんでした。


今いろいろと絵葉書を集めているのですが、教会の内部、多分ミサの感じがするのですが説明には「Interior aspect of Urakami church」としか記されていません。残念ながら2枚の写真は使用されていないので、消印で月日を確認することはできませんでした。


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ご覧のように教会内はカトリック信者の方で溢れています。この浦上地区はカトリックの方が多く、私の同級生にもカトリックの友人がたくさんいました。

教会に集う人は、浦上地区を中心に住んでいる方々だと思われます。ということは、この人々のほとんどが原爆で亡くなられたと思います。もちろん、カトリックで無い方も多数亡くなられていますが・・・

現在、アメリカ、ロシアをはじめ核兵器を保持している国々があります。つくづく、人類は何のために存在しているのか、暗澹たる気持ちに襲われます。




2018年8月 9日 (木)

「8月9日」

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昭和20年8月6日、広島に原爆が投下。そして、8月9日、今日、長崎に原爆が投下されました。

上の写真が戦前のカトリック浦上教会。下が、原爆を投下され倒壊した教会。

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広島の原爆ドームが保存をされているように、この教会遺構が残されることができなかったのかとは思うのですが・・・・

市議会では保存の決議がなされますが、最終的には、浦上天主堂とアメリカへの配慮を優先した当時の田川市長の意向があったみたいで、また、浦上天主堂再建の資金援助を、カトリック長崎司教・山口愛二郎氏が、アメリカに求め渡米しますが、米国側から条件として、天主堂遺構の撤去を求められたそうです。

詳しくはウィキペディアの「カトリック浦上教会」の中の「原爆遺構の保存問題」に詳しく書いてありますので、是非お読み下さい。→こちらをクリック

母方の祖父(おじいちゃん)もこの原爆で亡くなりました、私が生まれる前ですが・・・・アメリカの圧力に負けず、残すべきだったと毎年思っているのですが。

なにしろ、キリスト教の国がカトリック教会を破壊し、また、この地区には沢山のキリスト教の信者が住んでいた所です。



2017年3月20日 (月)

2017 「島原城 春うらら茶会・春うらら発表会」★”日米親善人形交流と島原”~島原市

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毎年書いていますが、私も、「島原親善人形の会」の会員で、少しご縁があるので、毎年紹介をさせていただいております。

少し前にも書きましたが、アメリカの子どもたちから、日米親善のため、12,700体の人形が送られて来ましたが、敵国の人形だという事で、ほとんど廃棄。全国で残されたのが約300体。長崎県では2体、愛知県では8体しか残っていないということです。

愛知県といえば、島原藩主松平家の発祥の地で、島原市と福知山市とは2014年交流協定を締結しました。

今年は、幸田町に残された、「グレース・エッサ」ちゃんと対面し、交流を深めることになったそうです。せっかくなら、ということで、幸田町の提案でクリアーケースを作ったそうですが、上の写真になります。下が会場に飾られた”リトルメリー”ちゃん(左側)と、幸田町の”グレース・エッサ”ちゃん(右側)。


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左が、島原での歓迎会の様子。右が、長崎からアメリカに送られた、答礼人形”長崎瓊子”ちゃん。

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”リトルメリー”ちゃんは、島原第一小学校で下の雛人形と一緒に箱に入れられていたそうですが、この雛人形、昭和10年度、昭和11年度、昭和12年度の女子補習科と高等2年生から送られたそうです。当時36円。

で、購入先が、なんと懐かしき、長崎市の「岡政」だそうです。
戦中から戦後にかけて、雛人形も飾られたことはなく、リトルメリーは同じ箱の中、新聞紙に包まれ眠っていたそうです。


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会場では、この間、「モリモリ広場茶道教室」の子供たちによる、「春うらら茶会」などありまして、私もご馳走になりましたが、お茶菓子とおいしいお茶を味わっていたら、写真を撮るのを忘れました。

この後、紙芝居での、「リトルメリー物語」の上演があり、島原第一小学校の生徒たちによる熱演でした。


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お!お母さんもガンバってますね。タブレットに、スマホ。

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最後に、「しまばら半島国際交流クラブ音楽部」の皆さんと一緒に、歌などを歌いましたが、お琴は今年が初めて。でもって、外人さんがバイオリンで参加していましたが、いい演奏でした。7歳からバイオリンをやってるそうで、プロを目指しているとか。

ところで、「春が来た」の歌を英語で一緒に歌いましたが、長年、「Spring has come,Spring has come」と思っていたら、「Springtime has come,Springtime has come」ということで、一つ良い勉強をしました。


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帰りがけ、玄関口で外人さんに話しかけたら、ちゃんと私の英語。通じるんですね。「I have a pen  I have an apple  Apple pen !・・・」。

平和を考えながら、「春うらら」の一日でした。
なお、展示は4月9日(日)までやっておりますので、是非お越しください。会場は、島原城内、「島原城観光復興記念館」です。





2016年1月21日 (木)

「津軽弁版★憲法第二章第九条第二項」~伊奈かっぺい

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なんとも素っ気ない表紙ですが、東北のシンガーソングライター・詩人の伊奈か

っぺいさんの本です。長崎では、ほとんど知られていないみたいですが・・・同名

で、CDも出ていますが中身はチト違うようです。2002年(平成14年)発売です

から、約14年前の出版になります。


「でったら」は津軽の方言で、「大きな」という意味です。前書きに、「今から35年

ほど前、大きな消しゴムを買いました。その大きな消ゴムにはー『大きな消しゴム

があれば大きな間違いを消す事が出来る』と印刷されていました。その通りだと

信じていました。『大きな消しゴム』つまり『大(でったら)だ消ゴム』です。


さて、現在、改憲問題が出ていますが第九条の改正に対しても、改正の意見が

段々と出て来ています。


現在、憲法に曲をつけ歌う方もおられるようですが、永六輔さんが、憲法をもっ

と分かりやすく書いたらどうだろう、と言っていた覚えがかすかにあるのですが・・

伊奈かっぺいさんは、その上をいき、方言で、憲法九条を津軽弁(多分)で書い

ています。


憲法第二章は「戦争の放棄」で、第九条第一項と第二項から成り立ちますが、

第二項だけ取り上げると、本文は・・・


「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国

交戦権は、これを認めない。」となっていますが、津軽弁では・・・( )内はルビ

ってありますが、ブログの文章ではルビが振れないので、( )内に書きます。


②(マルニ)斯様(こして)ちゃんと決定(き)めだ事(こど)だんだ由(はで)陸(りぐ)

だろうが海だろうが空コだろうが戦争(いくさ)サ使るんた武器(もの)ァ何んも所持

(も)だねぇ事(ごと)に為(す)べしやツ。

あ・・・忘えれば困(まいね)、由(はで)、もひとつ。

何ぁさて置ぎ、事程(なにが)左様(なんでも)他(ほが)の国ど戦争為(いくさす)

行為(だきゃ)、国民(わ)ぁ片意地(かだくら)に強情(ごじょぱ)てでも堪忍認無

由(カニさねはんで)なツ 念押(たな)ツ

※①②ー

津軽では(全国的にも)マルイチ、マルニと称(い)いますが、山形県人はイチマ

ル、ニマルと称います。片意地(かだくら)なまでに。


という事で、喋るのを長崎県人が聞くと分からないでしょうが、津軽の方には身近

に感じられると思い、憲法、法律、行政用語なども、身近な言葉を使ったほうが

馴染みがあり、ベターではないかと思ったりもします。


ちなみに、憲法九条については、昨日、週刊誌での大橋巨泉さんの事を書きまし

たが、「幸運な国になれなくても憲法九条をもつ『特殊な国』として世界に誇るべ

し」、「日本だけが持って来た最高の宝物は『憲法九条』だったはすだ。」というの

が正論だと思う者です。


お互いの宗教の違い、国の利益等で、きな臭い世界情勢ですが「でったらだ消ゴ

ム」があって、みんな消して、最初からやり直せたらと考えます。


(文引用:「でったらだ消しゴム」~伊奈かっぺい著より)




2015年7月20日 (月)

卑怯者の島~小林よしのり著

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小林よしのり氏といえば、「東大一直線」、「おぼちゃまくん」等で、超有名になり

したが(若い人は知らないか?)、「わしズム」、天皇の事、アイヌ問題、憲法改

等の発言で右翼なのかな、と思って調べたら、そんな単純に割り切れる人物

ではないようで・・・


昨日、本屋で上の本を見かけ、何となく気になり読んで見たら、舞台設定は「ペ

リュー島」。ペリリュー島といえば、今年、天皇陛下、美智子妃殿下がご訪問を

された所。二次大戦中激しい戦闘が行われ、旧日本軍が壊滅をした所でもあり

す。


「卑怯者の島」は、この前線で戦う兵士を描いていますが、まさに「悲惨」という字

が、甘ったらしく感じられるほどの、描写がしてあります。


この間、書いたように、ウチの父もビルマに行き、上陸寸前に船が撃沈され、一

晩中海に漂っていたとか、斥候に行っている間、部隊が襲撃され、ほとんど全滅

したとか、毎日、二十㎏の荷物を背負って二十㎞行軍したとか、捕虜になった時

の話等を、私が小学校の時、話をしてくれましたが、その程度で、その後は当時

の話はほとんどしませんでした。部隊がほとんど全滅する中、奇跡的に生きて帰

れた一人です。


3年ほど前に父が亡くなりましたが、少しばかりボケが始まり、よく、死んだ戦友

が夜に来て、と話していたので、何十年たっても、心のどこかに残っているもの

があるのだな、とは思いましたが・・・


この作品、読んで、どうも整理がつかないのですが、作者は「あとがき」で、こう

述べています。


「こ
れは反戦漫画でもないし、好戦漫画でもない。主張したいイデオロギーがあ

るわけではなく、ただ最も過酷な戦場での主人公の心理を追っていっただけであ

る。・・・・・日本の戦争映画やTVドラマは、主人公が反戦思想を持った立派な青

年で、妻や恋人とのメロドラマで泣かせることが多いので、わしとしては飽き足ら

ず、普通の青年が極限状況で卑怯と勇気の劇的な葛藤の中、戦う姿を描きたか

ったのだ。

 読者がどう感じるのかは自由であり、この作品については読者の感性に任せ

る。」


よく、近代戦争はハイテクだから、と言う人がいますが、イラク戦争をみても、最

後は地上での白兵戦になり、この漫画のような状況も生まれるかと思います。


もうすぐ8月を迎えるにあたって、ご一読を。なお、小林氏の考えは氏のブログを

是非お読みください。なお、昨日でしたか、TVで「安保法案」については、反対の

発言をしていました。


小林よしのり氏ブログ→こちらをクリック





2014年8月 9日 (土)

長崎・原爆の日に思う

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今日、8月9日は、長崎に原爆が落とされ、69年目でした。


前にも書いたように、私の母方の父、私から見れば祖父になりますが、たまたま、原爆が

落ちた所に出かけ、亡くなりました(私はまだ生まれてなく、顔も知らないのですが)。


小学校の時、原爆が落ちた近くの、浦上に移り住んだので、原爆の後がまだ残り、被爆者

の方のお話も、直接聞く機会がたくさんありました。


さて、諫早の図書館に行った時、ちょうど「2014 原爆パネル展」をやっておりました。

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長崎の原爆資料館には、パネルだけでなく、実物も展示してあるのですが、わたしも小学

生の時、何回か見学に行ったことがあります。


左が、浦上天主堂。今でこそ建て替わり、沢山の観光客が訪れていますが、私が小学校

の時、浦上に移り住んだ頃は、安全のためでしょうか、壊されて、瓦礫で積んである状態で

した。これを、残すかどうか議論があったようですが、広島の原爆ドームと同じく、残すべき

だったでしょう。こちらは、キリスト教会ですから、訪れる外国人の信者の方がどう思うの

か?


右は、城山国民小学校。兒童1400名、先生31名、学徒報国隊員105名が亡くなってい

ます。

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左が80㎞離れた、瀬戸内海海上から撮った写真。右が、原爆後の中心地付近かな?私

の祖父も、多分この瓦礫の下で、亡くなっているのでしょうが・・・・

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この少年の写真、ネットで調べると、谷口稜瞱さんとか、山口仙二さんとか、少し混乱して

いるのですが、国連で、この写真を掲げて、「ノーモア・ヒロシマ・、ノーモア・ナガサキ、ノー

モア・ヒバクシャ」と訴えかけています。


谷口さんとは、二人でお話しをしたことがありますが、背中のケロイドと、手術のため皮膚

の皮が薄く、裂けやすいため、食事を腹一杯食べると、皮が張って、皮膚が裂けるので、食

事も、あまり沢山は食べられないと語っておられました。

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さて、現在、原爆教育に対し、「残酷な写真だ」「子供が嫌がっている」という話を聞いたこと

があり、これは多分、20代~30代の保護者の方の声でしょう。


また、原爆の「語り部」の方によると、修学旅行生に話しても、真剣に聞く子が少ないとか。


現在、右傾化の感じを強く受けます。戦争は「理論」とか、「思想」ではなく、まして、「残酷な

写真」「子供が嫌がっている」という話ではなく、上の写真のように「現実」なのです。いざと

なったら、あなたの目の前に広がる、「現実」なのです。


こんな話も聞いた事があります。

「原爆直後、私が小さい時、前から赤い袋を担いで、ヨロヨロして歩いて来る人がいた。な

にかと思って良く見たら、腹が裂け、腸がお腹からはみ出て、それを担いでいた・・・・」


一番上の写真は、原爆で焼け死んだ子の写真です。これが「現実」です。下に、こう書いて

ありました。



見てください

この子どもたちに

何の罪があるのでしょうか

すべての核保有国の指導者は

この写真をみるべきであります。

核兵器のもたらす現実を

直視すべきであります。

そして

あの日

この子らの前で起きたことを

知ってほしいのです。

この子たちの無言の叫びを

感じてほしいのです。

〔95年11月7日、国際司法裁判所に於ける伊藤一長 長崎市長の発言〕


今も、世界の各地で争いが起こり、一般市民の方が犠牲になっています。人類、何千年の

歴史で、どれだけの戦争が起こったことか。人間って、どこまで馬鹿な事をやれば、気が済

むのでしょう。


あえて、「残酷な写真」も載せました。これが「現実」だからです。前伊藤市長が言われたよ

うに「直視」して欲しいからです。

(写真:諫早図書館 2014原爆パネル展より)






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