原爆で死んだ、僕のじいちゃん
上の写真は私の母の父で、僕のじいちゃんになります。名前が「好藏」さん。
最近、母の実家の姪から、いろいろと出てきたという事で、写真や好藏さん宛の手紙を送ってきました。上の写真はそのうちの一枚です。
少し脱線して。今、”姪"と書きましたが、実はいとこの子どもで、姪では無いんですね。あれ?いとこの子の呼び方はナンだっけ、と調べると・・・以下、「元市民課職員」さんのブログがあって、こちらを参考にしています。なお、図もこちらのブログから引用しています。詳しくは→こちらをクリック
男の子の場合は「従兄弟違(いとこちがい)」「従甥(いとこおい・じゅうせい)」で、女の子の場合は「従姉妹違(いとこちがい)」「従姪(いとこちがい・じゅうめい)」。なお、まとめて呼ぶときは「従甥姪(じゅうおいめい・じゅうせいてつ)」だそうです。
なお、結婚してフルメンバーになると下のようになるそうです。大変ですね(クリックするとハッキリと分かります)。
さて、話しを元に戻して、好藏さん、明治34年5月9日生。戸籍で見ると、生まれたのが現南島原市の西有家町。父親の”福島市太郎”さんの相続の所に”年月日不詳相続”となっており”母”の所は空欄。古い手書きの戸籍では”不詳”ということで、多分これ以上は追えないかと思います。
写真をいろいろと見ていると、母の時代まではなんとか分かる人物もいますが、全然分からないという人もいます。皆さんもスマホで写真を撮っているかと思いますが、孫あたりになると「これ、誰?」という状態になるかと思いますので、記録はちゃんとしておいた方が良いかと思います。
さて、好藏さん、後に長崎では有名な薬屋を創業しますが、少し面白い方で、いずれこれもブロブに載せたいと思います。
で、今日が実は好藏さんの命日です。以前にも書いたかと思いますが、友達が亡くなり、昼から葬式のところ、朝から手伝いにいったそうです。場所が原爆地付近。原爆に遭い亡くなりました。戸籍の一番最後に・・・
「昭和貮拾年八月九日午前拾壱時長崎市山里町百二十六」
と一行あるのみでした。多分、原爆で亡くなられた何万の方の戸籍も同様かと。
翌日、子どもたちで探しに行ったそうですが、長崎駅前で女性は停められ、男性2名で探しに行ったそうですが、まったく分からなかったそうです。
話変わって、上が父の父。名前が”留吉”さん。昔は子どもが多く、もうここらで”留め”にしようか、というので「留吉」。生まれが明治39年4月30日。鎌倉生まれです。で、どこで勉強したものやら、満州鉄道の技師として働き、かなりの給料を貰っていたそうです。私が生まれる前に亡くなっているので、写真でしか顔は知りません。
どういうわけか長崎に来て、酒屋とか宿屋をやっていたそうですが、生来の酒好き。只酒を振る舞い、財産をなくしたと父から聞いています。床の下には一升瓶がゴロゴロしていたそうです。帰りが遅いので、父が迎えに行ったら、ドブの中にハマっていたこともあるそうです。父が若いときに亡くなっています。
なお、父も酒が好きで、道に寝っ転がって友達と腕相撲もしていました。ということを見ているので、私は品良く、酒をいただいておりました。今はドクターストップで飲んでいませんが(-_-)。
現在、特に好藏さんの事を調べているので、戸籍謄本を読んでいますが、戸籍謄本なるものを初めて見たのが高校の時。私の生まれが「1月24日」、父と母の結婚届が同年の「1月3日」。どう考えても、おかしいでしょう。要するに私が生まれるので、慌てて婚姻届を出した、ということです。
この事を父と母に問い詰めると「昔は、ようあったことたい(昔は良くあったことだよ)」と誤魔化していましたが、なんとも杜撰な父と母でありました。私の杜撰な性格も父母譲りかと。
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