諌早神社に日本一の「アマエビさま」が奉納されたとかで、コロナが気になるのでお参りにいきました。
前にも書きましたが、諌早神社は雲仙の旧四面宮(現・温泉神社)の分社になります。
アマエビ様は体重ではなく、重量300㎏もあるそうです。説明版は下の通りです。クリックすると大きくなります。
これ、TVで放映されたとき、作ったのはあの人だなとピンときました。以前ブログでも紹介した、日本一のチェンーソーアートに輝いた「細麦(ささめむぎ)さくらや」さんのご主人でした。創作過程については→こちらをクリック
社務所に行ってみたら、アマエビさまの型紙がおいてあり、いただいてきましたが、「諌早神社」のホームページでもダウンロードできるそうです。
できあがりはこんな感じになります。諌早神社のホームページからです。
で、ちょうど宮司さんがおられたので、以前から気になっていた陶器の鳥居があったのかどうか→こちらをクリック(最後の方にぼけた写真があります)を聞いたら、はやりあったとのことで、場所を尋ねたら旧社務所(?)から本殿(右の写真の奥の建物)に行くところにあったそうです。再建できないかとのお話でした。
今日はアマエビ様に参拝ができ。疑問に思っていたことが解決をし、佳き日でありました。
アマエビに祈る神社の若葉かな sugikan
相変わらずの「リトルメリー」ちゃん。
毎年、ぶらっと行っているのですが、昨年は体調を崩し行くことができませんでした。今年は、病院に行く用もあり、寄ってみました。
この催し物の意義については以前にも書いているので→こちらをクリック
Wikipediaにも詳しく載っているので→こちらをクリック
入って見ると島原での”青い目の人形の歓迎会の様子”、各町村の学校での奇跡的に残された歓迎会の写真。これを見ると、いかに暖かい歓迎を受けたのかが分かります。
「青い目の人形」の本、記録など増えました。
今年はコロナウィルスの影響で”春うらら茶会”、青い目の人形に関する市民講座が中止になりましたが、紙芝居上演は29日の日曜日実施されたみたいです。
今年で17回を迎えたという事で、「自国第一主義」が流行っている現在、平和を願う人形を通しての交流があったこは、粘り強く伝えていってもらいたいと思います。
会場の前に見慣れないバスがあったのですが「しまばらん」という島原巡回バス。となりに普通バスがあり、運行しているのかと思ったら”Bus cafe”。後ろのキャラクターは島原の”しまばらん”。かな?
車内ですが、こんな感じ。お客さんもウェイトレスさんもいません。多分、隣の売店、食堂の方に言えばコーヒーなど淹れはくれるのでしょうが・・・車内には古い写真が展示されていましたが、これ、説明が欲しいナ。
帰りがけ見たら、キャンピングカーが停まっていて”島原城キャンピングカー お泊まり体験”と書いてあり、雨が降っていたので車内で写真を撮って、詳しくは見ませんでしたが、どうも、ここでキャンピングカーにお泊まりができるようでした。
”謎解きゲームに参加せよ”は島原城を中心にしたゲームかな?
以前、この写真を使った覚えもあるのですが、原爆に遭う前の長崎浦上天主堂です。当時、東洋一だと言われていたそうです。
私の生まれは長崎の繁華街の近くですが、小学校の時、浦上に引っ越してきました。当時は、少し整理ができていましたが、まだ瓦礫が積んであるのを覚えています。
私の母の父は、浦上に住む友人の葬式に出かけ原爆に遭いました。家族で捜しに行ったそうですが、女性は長崎駅で止められ、男性だけで捜しに行ったそうですが、遺骸は見つかりませんでした。
今いろいろと絵葉書を集めているのですが、教会の内部、多分ミサの感じがするのですが説明には「Interior aspect of Urakami church」としか記されていません。残念ながら2枚の写真は使用されていないので、消印で月日を確認することはできませんでした。
ご覧のように教会内はカトリック信者の方で溢れています。この浦上地区はカトリックの方が多く、私の同級生にもカトリックの友人がたくさんいました。
教会に集う人は、浦上地区を中心に住んでいる方々だと思われます。ということは、この人々のほとんどが原爆で亡くなられたと思います。もちろん、カトリックで無い方も多数亡くなられていますが・・・
現在、アメリカ、ロシアをはじめ核兵器を保持している国々があります。つくづく、人類は何のために存在しているのか、暗澹たる気持ちに襲われます。
昭和20年8月6日、広島に原爆が投下。そして、8月9日、今日、長崎に原爆が投下されました。
上の写真が戦前のカトリック浦上教会。下が、原爆を投下され倒壊した教会。
広島の原爆ドームが保存をされているように、この教会遺構が残されることができなかったのかとは思うのですが・・・・
市議会では保存の決議がなされますが、最終的には、浦上天主堂とアメリカへの配慮を優先した当時の田川市長の意向があったみたいで、また、浦上天主堂再建の資金援助を、カトリック長崎司教・山口愛二郎氏が、アメリカに求め渡米しますが、米国側から条件として、天主堂遺構の撤去を求められたそうです。
詳しくはウィキペディアの「カトリック浦上教会」の中の「原爆遺構の保存問題」に詳しく書いてありますので、是非お読み下さい。→こちらをクリック
母方の祖父(おじいちゃん)もこの原爆で亡くなりました、私が生まれる前ですが・・・・アメリカの圧力に負けず、残すべきだったと毎年思っているのですが。
なにしろ、キリスト教の国がカトリック教会を破壊し、また、この地区には沢山のキリスト教の信者が住んでいた所です。
なんとも素っ気ない表紙ですが、東北のシンガーソングライター・詩人の伊奈か
っぺいさんの本です。長崎では、ほとんど知られていないみたいですが・・・同名
で、CDも出ていますが中身はチト違うようです。2002年(平成14年)発売です
から、約14年前の出版になります。
「でったら」は津軽の方言で、「大きな」という意味です。前書きに、「今から35年
ほど前、大きな消しゴムを買いました。その大きな消ゴムにはー『大きな消しゴム
があれば大きな間違いを消す事が出来る』と印刷されていました。その通りだと
信じていました。『大きな消しゴム』つまり『大(でったら)だ消ゴム』です。
さて、現在、改憲問題が出ていますが第九条の改正に対しても、改正の意見が
段々と出て来ています。
現在、憲法に曲をつけ歌う方もおられるようですが、永六輔さんが、憲法をもっ
と分かりやすく書いたらどうだろう、と言っていた覚えがかすかにあるのですが・・
伊奈かっぺいさんは、その上をいき、方言で、憲法九条を津軽弁(多分)で書い
ています。
憲法第二章は「戦争の放棄」で、第九条第一項と第二項から成り立ちますが、
第二項だけ取り上げると、本文は・・・
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の
交戦権は、これを認めない。」となっていますが、津軽弁では・・・( )内はルビが
振ってありますが、ブログの文章ではルビが振れないので、( )内に書きます。
②(マルニ)斯様(こして)ちゃんと決定(き)めだ事(こど)だんだ由(はで)陸(りぐ)
だろうが海だろうが空コだろうが戦争(いくさ)サ使るんた武器(もの)ァ何んも所持
(も)だねぇ事(ごと)に為(す)べしやツ。
あ・・・忘えれば困(まいね)、由(はで)、もひとつ。
何ぁさて置ぎ、事程(なにが)左様(なんでも)他(ほが)の国ど戦争為(いくさす)
行為(だきゃ)、国民(わ)ぁ片意地(かだくら)に強情(ごじょぱ)てでも堪忍認無
由(カニさねはんで)なツ 念押(たな)ツ
※①②ー
津軽では(全国的にも)マルイチ、マルニと称(い)いますが、山形県人はイチマ
ル、ニマルと称います。片意地(かだくら)なまでに。
という事で、喋るのを長崎県人が聞くと分からないでしょうが、津軽の方には身近
に感じられると思い、憲法、法律、行政用語なども、身近な言葉を使ったほうが
馴染みがあり、ベターではないかと思ったりもします。
ちなみに、憲法九条については、昨日、週刊誌での大橋巨泉さんの事を書きまし
たが、「幸運な国になれなくても憲法九条をもつ『特殊な国』として世界に誇るべ
し」、「日本だけが持って来た最高の宝物は『憲法九条』だったはすだ。」というの
が正論だと思う者です。
お互いの宗教の違い、国の利益等で、きな臭い世界情勢ですが「でったらだ消ゴ
ム」があって、みんな消して、最初からやり直せたらと考えます。
(文引用:「でったらだ消しゴム」~伊奈かっぺい著より)
小林よしのり氏といえば、「東大一直線」、「おぼちゃまくん」等で、超有名になり
ましたが(若い人は知らないか?)、「わしズム」、天皇の事、アイヌ問題、憲法改
正等の発言で右翼なのかな、と思って調べたら、そんな単純に割り切れる人物
ではないようで・・・
昨日、本屋で上の本を見かけ、何となく気になり読んで見たら、舞台設定は「ペ
リリュー島」。ペリリュー島といえば、今年、天皇陛下、美智子妃殿下がご訪問を
された所。二次大戦中激しい戦闘が行われ、旧日本軍が壊滅をした所でもあり
ます。
「卑怯者の島」は、この前線で戦う兵士を描いていますが、まさに「悲惨」という字
が、甘ったらしく感じられるほどの、描写がしてあります。
この間、書いたように、ウチの父もビルマに行き、上陸寸前に船が撃沈され、一
晩中海に漂っていたとか、斥候に行っている間、部隊が襲撃され、ほとんど全滅
したとか、毎日、二十㎏の荷物を背負って二十㎞行軍したとか、捕虜になった時
の話等を、私が小学校の時、話をしてくれましたが、その程度で、その後は当時
の話はほとんどしませんでした。部隊がほとんど全滅する中、奇跡的に生きて帰
れた一人です。
3年ほど前に父が亡くなりましたが、少しばかりボケが始まり、よく、死んだ戦友
が夜に来て、と話していたので、何十年たっても、心のどこかに残っているもの
があるのだな、とは思いましたが・・・
この作品、読んで、どうも整理がつかないのですが、作者は「あとがき」で、こう
述べています。
「これは反戦漫画でもないし、好戦漫画でもない。主張したいイデオロギーがあ
るわけではなく、ただ最も過酷な戦場での主人公の心理を追っていっただけであ
る。・・・・・日本の戦争映画やTVドラマは、主人公が反戦思想を持った立派な青
年で、妻や恋人とのメロドラマで泣かせることが多いので、わしとしては飽き足ら
ず、普通の青年が極限状況で卑怯と勇気の劇的な葛藤の中、戦う姿を描きたか
ったのだ。
読者がどう感じるのかは自由であり、この作品については読者の感性に任せ
る。」
よく、近代戦争はハイテクだから、と言う人がいますが、イラク戦争をみても、最
後は地上での白兵戦になり、この漫画のような状況も生まれるかと思います。
もうすぐ8月を迎えるにあたって、ご一読を。なお、小林氏の考えは氏のブログを
是非お読みください。なお、昨日でしたか、TVで「安保法案」については、反対の
発言をしていました。
小林よしのり氏ブログ→こちらをクリック
今日、8月9日は、長崎に原爆が落とされ、69年目でした。
前にも書いたように、私の母方の父、私から見れば祖父になりますが、たまたま、原爆が
落ちた所に出かけ、亡くなりました(私はまだ生まれてなく、顔も知らないのですが)。
小学校の時、原爆が落ちた近くの、浦上に移り住んだので、原爆の後がまだ残り、被爆者
の方のお話も、直接聞く機会がたくさんありました。
さて、諫早の図書館に行った時、ちょうど「2014 原爆パネル展」をやっておりました。
長崎の原爆資料館には、パネルだけでなく、実物も展示してあるのですが、わたしも小学
生の時、何回か見学に行ったことがあります。
左が、浦上天主堂。今でこそ建て替わり、沢山の観光客が訪れていますが、私が小学校
の時、浦上に移り住んだ頃は、安全のためでしょうか、壊されて、瓦礫で積んである状態で
した。これを、残すかどうか議論があったようですが、広島の原爆ドームと同じく、残すべき
だったでしょう。こちらは、キリスト教会ですから、訪れる外国人の信者の方がどう思うの
か?
右は、城山国民小学校。兒童1400名、先生31名、学徒報国隊員105名が亡くなってい
ます。
左が80㎞離れた、瀬戸内海海上から撮った写真。右が、原爆後の中心地付近かな?私
の祖父も、多分この瓦礫の下で、亡くなっているのでしょうが・・・・
この少年の写真、ネットで調べると、谷口稜瞱さんとか、山口仙二さんとか、少し混乱して
いるのですが、国連で、この写真を掲げて、「ノーモア・ヒロシマ・、ノーモア・ナガサキ、ノー
モア・ヒバクシャ」と訴えかけています。
谷口さんとは、二人でお話しをしたことがありますが、背中のケロイドと、手術のため皮膚
の皮が薄く、裂けやすいため、食事を腹一杯食べると、皮が張って、皮膚が裂けるので、食
事も、あまり沢山は食べられないと語っておられました。
さて、現在、原爆教育に対し、「残酷な写真だ」「子供が嫌がっている」という話を聞いたこと
があり、これは多分、20代~30代の保護者の方の声でしょう。
また、原爆の「語り部」の方によると、修学旅行生に話しても、真剣に聞く子が少ないとか。
現在、右傾化の感じを強く受けます。戦争は「理論」とか、「思想」ではなく、まして、「残酷な
写真」「子供が嫌がっている」という話ではなく、上の写真のように「現実」なのです。いざと
なったら、あなたの目の前に広がる、「現実」なのです。
こんな話も聞いた事があります。
「原爆直後、私が小さい時、前から赤い袋を担いで、ヨロヨロして歩いて来る人がいた。な
にかと思って良く見たら、腹が裂け、腸がお腹からはみ出て、それを担いでいた・・・・」
一番上の写真は、原爆で焼け死んだ子の写真です。これが「現実」です。下に、こう書いて
ありました。
見てください
この子どもたちに
何の罪があるのでしょうか
すべての核保有国の指導者は
この写真をみるべきであります。
核兵器のもたらす現実を
直視すべきであります。
そして
あの日
この子らの前で起きたことを
知ってほしいのです。
この子たちの無言の叫びを
感じてほしいのです。
〔95年11月7日、国際司法裁判所に於ける伊藤一長 長崎市長の発言〕
今も、世界の各地で争いが起こり、一般市民の方が犠牲になっています。人類、何千年の
歴史で、どれだけの戦争が起こったことか。人間って、どこまで馬鹿な事をやれば、気が済
むのでしょう。
あえて、「残酷な写真」も載せました。これが「現実」だからです。前伊藤市長が言われたよ
うに「直視」して欲しいからです。
(写真:諫早図書館 2014原爆パネル展より)
永井隆博士が書かれた、色紙です。
説明には
「この世になんの用事もないものが生かされてるはずがありません。
どんな病人でも、何かこの世において働くことができるから
いかされておるのでありましょう。私は、命の最後の一瞬まで、
いろいろ工夫して、何か働くことをみつけて働こうと思います。<如己堂随筆>より」
永井博士は、長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士
となります。この間、満州事変。中日事変にも軍医として参加をし、受洗をし、クリスチャン
になり、結婚をしています。
当時、結核患者が多く、「出勤してみると朝早くから患者待合室や受付は、息も苦しくなる
ほどの雑踏であった。」という状態で、医療器具も充分でなかったためか、「このまま数年
続けるなら、恐ろしい原爆病の起こることは、日食を予報するのと同じ確実さでわかってい
た、わかっていながら、相変わらず私は働きつづけた。」と言う状態だったそうです。
昭和20年6月に白血病とされ、余命3年の診断を受けますが、その三ヶ月のち、8月9日
に原爆が落とされ、大学病院内で大けがを負いますが、救護活動にあったっています。
二人の子どもは疎開して無事でしたが、妻、緑さんは、家屋の下敷きになり、そのまま火
に焼かれ、亡くなりますが、永井博士が家にもどり、緑さんの骨を拾って埋葬したのが、3
日後の8月12日だったそうです。
(「長崎市永井隆記念館」展示写真より)。「原爆野を歩く永井隆(米軍撮影)」との説明書
きがあります。
この後、三山町木場で救護班を作り、巡回回診を行い、また、元の浦上に帰り、一坪のバ
ラックに住み、学会等で発表もしますが、昭和21年、病床に伏し、昭和23年如己堂が建
ち、そちらに移り住みます。「如己堂」とは、「己の如く隣人を愛せよ」との意味です。
中は見学できますが、二畳少しの広さ、裏に便所という家で、ここで、永井博士と二人の
子どもの生活が始まりますが、この家で、「長崎の鐘」「ロザリオの鐘」「いとし子よ」「この
子を残して」などを書き続けます。この時は、永井博士は、病床に伏したままです。
この日も、修学旅行生が訪れていましたが、永井博士の精神が分かると良いのですが・・
左の赤く囲んだ所が、「如己堂」です。写真を撮ろうとしていたら、ボランティアガイドさんの
話も聞かずに、私の方にピースサインをするのがいて、どこの学校やら。
右の写真、「永井隆記念館」の建物ですが、この建物にも歴史があって、
昭和25年、永井博士は家を増築し、戦後すさんだ子供たちのために、「うちら(長崎弁
で、私たち、の意味)の本箱」作りますが、国内外の博士の友人知人から多くの本が贈ら
れてきたそうです。
当時の看板。写真は、大勢集まっているところを見ると、開館の時か?
当時の「うちらの文庫」に掲げてあったそうです。説明には、「誤解を生じかねない表現が
含まれていますが当時の状況や博士がこの「おきて」に込めた子どもたちへの願いを伝え
るために、展示することとしました。」と書いてありますが、これを読むと戦後当時の状況
が感じられると思います。
その後、昭和27年「永井図書館」として建て替えられます。私も、この近くの山里小学校
に通い、帰宅の途中、良く寄ったところです。「如己堂」はその当時から、全く変わらない姿
でした。
この、「永井図書館」は、佐世保出身のブラジル在留邦人、宮崎隆榮氏が博士の所を訪
れ「うちらの本箱」を見て、図書館建設について話をし、昭和26年~27年にかけて、ブラ
ジル在留邦人、471人の寄附金1,747,188円と市費で建てられたそうです。
昭和44年に「長崎市立永井記念館」として改称。平成12年に「長崎市永井隆記念館」とし
て改称し全面改築。
昔は、一階の平屋建てだったのですが、いまは、一階が記念館、二階が図書室になって
います。図書室は、全く変わっていました。
さて、実は、私、大きな間違いをしていて、永井博士は長崎生まれ、長崎育ちだと思ってい
たのですが、実は、島根県松江市苧町(おまち)で生まれ、父の医院開業のため、飯石郡
飯石町(現・雲南市三刀屋町に移り住んだそうです。
現在、雲南市にも「雲南市永井隆記念館」が建てられ、長崎の記念館とは姉妹館だそう
ですが、「如己堂」も、そのまま複製して建ててあるそうです。
さて、この際、永井博士の本を読んでみましたが、厳しく、真摯な中にもユーモアがあった
みたいで、「この子を残して」の中、「子らに向かってもらした言葉」に、次のような事が書い
てあります
■有名になるな!名前なんてものは、茶の間で、あめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけ
のもの。
■本を読んでいるときに来る見舞客は決まったように、「お退屈でしょう」と言う。日本人が
本を読むのは退屈なときだけかェ?
■決心は一生に一度しかするものでない。毎年元日に新しい決心をする人があるが、あ
れは儀式サ。
■こうして寝ておれば、悪い遊びもできないが、善いこともせぬものよ。
■買い被られるのは、胴上げされるようなものだ。いつ落とされるか、気が気じゃないよ。
さて、雲南市三刀町に「天満屋」というお菓子屋さんがあって、永井博士の「しっぽもひと
役」というお菓子を作っていて、「当年とって43歳!」と書いてありますから、43年作って
いるのでしょう。
この、ホームページの中に、「筒井茅乃」さん(永井博士の娘さん、結婚して名前がかわっ
ています。)が、「しっぽもひと役」について、当時の様子を書いておられます。長いので概
略を書くと
永井博士が墨で絵を描いて、「かやちゃん、これはどうね。」と聞かれ、見ると、一匹のぶ
たの絵だが、お尻がツルツルしていてなんともおかしい絵。
「おかしかー」と言うと、笑っている娘をうれしそうにみて、「おかしかやろ」と言って、ブタの
お尻にくるりとした線を入れ、「これでどうね」「うん今度はよか。」
それから「しっぽもひと役」と、ぶたの上の余白に書いたそうです。
永井博士は、「しっぽもひと役。ぶたのしっぽだってね、なかったらおかしいだろう。何の役
にもたっていないように見えるしっぽでも、本当はとても役にたっている、なくてはならない
もんなんだよ。」とやさしく説明してくれたそうです。原文はこちらを→クリック
私、好奇心だけは旺盛ですから、「天満屋」さんから、お菓子をすぐに取り寄せて見まし
た。
可愛いぶたさんのお尻に、ちゃんと尻尾がついていました、尻尾がついていなかったら、
本当に、ツルツルして、「おかしか」ですね。
私の祖父も原爆で亡くなり、回りにも被爆者の方が、沢山いましたが、永井博士の事を考
えながら、しみじみと食べました。
追伸です、
この、浦上には、潜伏キリシタンの組織があり、指導者の頭を「帳方」とよび、他に「水方」
「聞役」等がありますが、この組織を作った初代の帳方が、孫左右衛門で、子孫が帳方を
継承し、7代目吉蔵のとき、浦上三番崩れ(キリシタンが発覚し、検挙されること)で、入
牢、獄死殉教をしたそうですが、この、「長崎市永井隆記念館」がその屋敷跡で、永井博
士の妻、「緑」さんは、吉蔵の子孫にあたるそうです。
注:館内撮影については「永井隆記念館」の了承を得ています。
参考・文引用「この子を残して~永井隆著」「如己堂随筆~同)」「娘よ、ここが長崎です~
筒井茅乃著」「長崎市永井隆記念巻パンフレット」、他説明版より。
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