平和

2019年8月 9日 (金)

令和元年 「長崎原爆の日」に

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以前、この写真を使った覚えもあるのですが、原爆に遭う前の長崎浦上天主堂です。当時、東洋一だと言われていたそうです。

私の生まれは長崎の繁華街の近くですが、小学校の時、浦上に引っ越してきました。当時は、少し整理ができていましたが、まだ瓦礫が積んであるのを覚えています。


私の母の父は、浦上に住む友人の葬式に出かけ原爆に遭いました。家族で捜しに行ったそうですが、女性は長崎駅で止められ、男性だけで捜しに行ったそうですが、遺骸は見つかりませんでした。


今いろいろと絵葉書を集めているのですが、教会の内部、多分ミサの感じがするのですが説明には「Interior aspect of Urakami church」としか記されていません。残念ながら2枚の写真は使用されていないので、消印で月日を確認することはできませんでした。


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ご覧のように教会内はカトリック信者の方で溢れています。この浦上地区はカトリックの方が多く、私の同級生にもカトリックの友人がたくさんいました。

教会に集う人は、浦上地区を中心に住んでいる方々だと思われます。ということは、この人々のほとんどが原爆で亡くなられたと思います。もちろん、カトリックで無い方も多数亡くなられていますが・・・

現在、アメリカ、ロシアをはじめ核兵器を保持している国々があります。つくづく、人類は何のために存在しているのか、暗澹たる気持ちに襲われます。




2018年8月 9日 (木)

「8月9日」

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昭和20年8月6日、広島に原爆が投下。そして、8月9日、今日、長崎に原爆が投下されました。

上の写真が戦前のカトリック浦上教会。下が、原爆を投下され倒壊した教会。

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広島の原爆ドームが保存をされているように、この教会遺構が残されることができなかったのかとは思うのですが・・・・

市議会では保存の決議がなされますが、最終的には、浦上天主堂とアメリカへの配慮を優先した当時の田川市長の意向があったみたいで、また、浦上天主堂再建の資金援助を、カトリック長崎司教・山口愛二郎氏が、アメリカに求め渡米しますが、米国側から条件として、天主堂遺構の撤去を求められたそうです。

詳しくはウィキペディアの「カトリック浦上教会」の中の「原爆遺構の保存問題」に詳しく書いてありますので、是非お読み下さい。→こちらをクリック

母方の祖父(おじいちゃん)もこの原爆で亡くなりました、私が生まれる前ですが・・・・アメリカの圧力に負けず、残すべきだったと毎年思っているのですが。

なにしろ、キリスト教の国がカトリック教会を破壊し、また、この地区には沢山のキリスト教の信者が住んでいた所です。



2017年3月20日 (月)

2017 「島原城 春うらら茶会・春うらら発表会」★”日米親善人形交流と島原”~島原市

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毎年書いていますが、私も、「島原親善人形の会」の会員で、少しご縁があるので、毎年紹介をさせていただいております。

少し前にも書きましたが、アメリカの子どもたちから、日米親善のため、12,700体の人形が送られて来ましたが、敵国の人形だという事で、ほとんど廃棄。全国で残されたのが約300体。長崎県では2体、愛知県では8体しか残っていないということです。

愛知県といえば、島原藩主松平家の発祥の地で、島原市と福知山市とは2014年交流協定を締結しました。

今年は、幸田町に残された、「グレース・エッサ」ちゃんと対面し、交流を深めることになったそうです。せっかくなら、ということで、幸田町の提案でクリアーケースを作ったそうですが、上の写真になります。下が会場に飾られた”リトルメリー”ちゃん(左側)と、幸田町の”グレース・エッサ”ちゃん(右側)。


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左が、島原での歓迎会の様子。右が、長崎からアメリカに送られた、答礼人形”長崎瓊子”ちゃん。

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”リトルメリー”ちゃんは、島原第一小学校で下の雛人形と一緒に箱に入れられていたそうですが、この雛人形、昭和10年度、昭和11年度、昭和12年度の女子補習科と高等2年生から送られたそうです。当時36円。

で、購入先が、なんと懐かしき、長崎市の「岡政」だそうです。
戦中から戦後にかけて、雛人形も飾られたことはなく、リトルメリーは同じ箱の中、新聞紙に包まれ眠っていたそうです。


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会場では、この間、「モリモリ広場茶道教室」の子供たちによる、「春うらら茶会」などありまして、私もご馳走になりましたが、お茶菓子とおいしいお茶を味わっていたら、写真を撮るのを忘れました。

この後、紙芝居での、「リトルメリー物語」の上演があり、島原第一小学校の生徒たちによる熱演でした。


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お!お母さんもガンバってますね。タブレットに、スマホ。

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最後に、「しまばら半島国際交流クラブ音楽部」の皆さんと一緒に、歌などを歌いましたが、お琴は今年が初めて。でもって、外人さんがバイオリンで参加していましたが、いい演奏でした。7歳からバイオリンをやってるそうで、プロを目指しているとか。

ところで、「春が来た」の歌を英語で一緒に歌いましたが、長年、「Spring has come,Spring has come」と思っていたら、「Springtime has come,Springtime has come」ということで、一つ良い勉強をしました。


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帰りがけ、玄関口で外人さんに話しかけたら、ちゃんと私の英語。通じるんですね。「I have a pen  I have an apple  Apple pen !・・・」。

平和を考えながら、「春うらら」の一日でした。
なお、展示は4月9日(日)までやっておりますので、是非お越しください。会場は、島原城内、「島原城観光復興記念館」です。





2016年1月21日 (木)

「津軽弁版★憲法第二章第九条第二項」~伊奈かっぺい

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なんとも素っ気ない表紙ですが、東北のシンガーソングライター・詩人の伊奈か

っぺいさんの本です。長崎では、ほとんど知られていないみたいですが・・・同名

で、CDも出ていますが中身はチト違うようです。2002年(平成14年)発売です

から、約14年前の出版になります。


「でったら」は津軽の方言で、「大きな」という意味です。前書きに、「今から35年

ほど前、大きな消しゴムを買いました。その大きな消ゴムにはー『大きな消しゴム

があれば大きな間違いを消す事が出来る』と印刷されていました。その通りだと

信じていました。『大きな消しゴム』つまり『大(でったら)だ消ゴム』です。


さて、現在、改憲問題が出ていますが第九条の改正に対しても、改正の意見が

段々と出て来ています。


現在、憲法に曲をつけ歌う方もおられるようですが、永六輔さんが、憲法をもっ

と分かりやすく書いたらどうだろう、と言っていた覚えがかすかにあるのですが・・

伊奈かっぺいさんは、その上をいき、方言で、憲法九条を津軽弁(多分)で書い

ています。


憲法第二章は「戦争の放棄」で、第九条第一項と第二項から成り立ちますが、

第二項だけ取り上げると、本文は・・・


「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国

交戦権は、これを認めない。」となっていますが、津軽弁では・・・( )内はルビ

ってありますが、ブログの文章ではルビが振れないので、( )内に書きます。


②(マルニ)斯様(こして)ちゃんと決定(き)めだ事(こど)だんだ由(はで)陸(りぐ)

だろうが海だろうが空コだろうが戦争(いくさ)サ使るんた武器(もの)ァ何んも所持

(も)だねぇ事(ごと)に為(す)べしやツ。

あ・・・忘えれば困(まいね)、由(はで)、もひとつ。

何ぁさて置ぎ、事程(なにが)左様(なんでも)他(ほが)の国ど戦争為(いくさす)

行為(だきゃ)、国民(わ)ぁ片意地(かだくら)に強情(ごじょぱ)てでも堪忍認無

由(カニさねはんで)なツ 念押(たな)ツ

※①②ー

津軽では(全国的にも)マルイチ、マルニと称(い)いますが、山形県人はイチマ

ル、ニマルと称います。片意地(かだくら)なまでに。


という事で、喋るのを長崎県人が聞くと分からないでしょうが、津軽の方には身近

に感じられると思い、憲法、法律、行政用語なども、身近な言葉を使ったほうが

馴染みがあり、ベターではないかと思ったりもします。


ちなみに、憲法九条については、昨日、週刊誌での大橋巨泉さんの事を書きまし

たが、「幸運な国になれなくても憲法九条をもつ『特殊な国』として世界に誇るべ

し」、「日本だけが持って来た最高の宝物は『憲法九条』だったはすだ。」というの

が正論だと思う者です。


お互いの宗教の違い、国の利益等で、きな臭い世界情勢ですが「でったらだ消ゴ

ム」があって、みんな消して、最初からやり直せたらと考えます。


(文引用:「でったらだ消しゴム」~伊奈かっぺい著より)




2015年7月20日 (月)

卑怯者の島~小林よしのり著

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小林よしのり氏といえば、「東大一直線」、「おぼちゃまくん」等で、超有名になり

したが(若い人は知らないか?)、「わしズム」、天皇の事、アイヌ問題、憲法改

等の発言で右翼なのかな、と思って調べたら、そんな単純に割り切れる人物

ではないようで・・・


昨日、本屋で上の本を見かけ、何となく気になり読んで見たら、舞台設定は「ペ

リュー島」。ペリリュー島といえば、今年、天皇陛下、美智子妃殿下がご訪問を

された所。二次大戦中激しい戦闘が行われ、旧日本軍が壊滅をした所でもあり

す。


「卑怯者の島」は、この前線で戦う兵士を描いていますが、まさに「悲惨」という字

が、甘ったらしく感じられるほどの、描写がしてあります。


この間、書いたように、ウチの父もビルマに行き、上陸寸前に船が撃沈され、一

晩中海に漂っていたとか、斥候に行っている間、部隊が襲撃され、ほとんど全滅

したとか、毎日、二十㎏の荷物を背負って二十㎞行軍したとか、捕虜になった時

の話等を、私が小学校の時、話をしてくれましたが、その程度で、その後は当時

の話はほとんどしませんでした。部隊がほとんど全滅する中、奇跡的に生きて帰

れた一人です。


3年ほど前に父が亡くなりましたが、少しばかりボケが始まり、よく、死んだ戦友

が夜に来て、と話していたので、何十年たっても、心のどこかに残っているもの

があるのだな、とは思いましたが・・・


この作品、読んで、どうも整理がつかないのですが、作者は「あとがき」で、こう

述べています。


「こ
れは反戦漫画でもないし、好戦漫画でもない。主張したいイデオロギーがあ

るわけではなく、ただ最も過酷な戦場での主人公の心理を追っていっただけであ

る。・・・・・日本の戦争映画やTVドラマは、主人公が反戦思想を持った立派な青

年で、妻や恋人とのメロドラマで泣かせることが多いので、わしとしては飽き足ら

ず、普通の青年が極限状況で卑怯と勇気の劇的な葛藤の中、戦う姿を描きたか

ったのだ。

 読者がどう感じるのかは自由であり、この作品については読者の感性に任せ

る。」


よく、近代戦争はハイテクだから、と言う人がいますが、イラク戦争をみても、最

後は地上での白兵戦になり、この漫画のような状況も生まれるかと思います。


もうすぐ8月を迎えるにあたって、ご一読を。なお、小林氏の考えは氏のブログを

是非お読みください。なお、昨日でしたか、TVで「安保法案」については、反対の

発言をしていました。


小林よしのり氏ブログ→こちらをクリック





2014年8月 9日 (土)

長崎・原爆の日に思う

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今日、8月9日は、長崎に原爆が落とされ、69年目でした。


前にも書いたように、私の母方の父、私から見れば祖父になりますが、たまたま、原爆が

落ちた所に出かけ、亡くなりました(私はまだ生まれてなく、顔も知らないのですが)。


小学校の時、原爆が落ちた近くの、浦上に移り住んだので、原爆の後がまだ残り、被爆者

の方のお話も、直接聞く機会がたくさんありました。


さて、諫早の図書館に行った時、ちょうど「2014 原爆パネル展」をやっておりました。

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長崎の原爆資料館には、パネルだけでなく、実物も展示してあるのですが、わたしも小学

生の時、何回か見学に行ったことがあります。


左が、浦上天主堂。今でこそ建て替わり、沢山の観光客が訪れていますが、私が小学校

の時、浦上に移り住んだ頃は、安全のためでしょうか、壊されて、瓦礫で積んである状態で

した。これを、残すかどうか議論があったようですが、広島の原爆ドームと同じく、残すべき

だったでしょう。こちらは、キリスト教会ですから、訪れる外国人の信者の方がどう思うの

か?


右は、城山国民小学校。兒童1400名、先生31名、学徒報国隊員105名が亡くなってい

ます。

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左が80㎞離れた、瀬戸内海海上から撮った写真。右が、原爆後の中心地付近かな?私

の祖父も、多分この瓦礫の下で、亡くなっているのでしょうが・・・・

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この少年の写真、ネットで調べると、谷口稜瞱さんとか、山口仙二さんとか、少し混乱して

いるのですが、国連で、この写真を掲げて、「ノーモア・ヒロシマ・、ノーモア・ナガサキ、ノー

モア・ヒバクシャ」と訴えかけています。


谷口さんとは、二人でお話しをしたことがありますが、背中のケロイドと、手術のため皮膚

の皮が薄く、裂けやすいため、食事を腹一杯食べると、皮が張って、皮膚が裂けるので、食

事も、あまり沢山は食べられないと語っておられました。

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さて、現在、原爆教育に対し、「残酷な写真だ」「子供が嫌がっている」という話を聞いたこと

があり、これは多分、20代~30代の保護者の方の声でしょう。


また、原爆の「語り部」の方によると、修学旅行生に話しても、真剣に聞く子が少ないとか。


現在、右傾化の感じを強く受けます。戦争は「理論」とか、「思想」ではなく、まして、「残酷な

写真」「子供が嫌がっている」という話ではなく、上の写真のように「現実」なのです。いざと

なったら、あなたの目の前に広がる、「現実」なのです。


こんな話も聞いた事があります。

「原爆直後、私が小さい時、前から赤い袋を担いで、ヨロヨロして歩いて来る人がいた。な

にかと思って良く見たら、腹が裂け、腸がお腹からはみ出て、それを担いでいた・・・・」


一番上の写真は、原爆で焼け死んだ子の写真です。これが「現実」です。下に、こう書いて

ありました。



見てください

この子どもたちに

何の罪があるのでしょうか

すべての核保有国の指導者は

この写真をみるべきであります。

核兵器のもたらす現実を

直視すべきであります。

そして

あの日

この子らの前で起きたことを

知ってほしいのです。

この子たちの無言の叫びを

感じてほしいのです。

〔95年11月7日、国際司法裁判所に於ける伊藤一長 長崎市長の発言〕


今も、世界の各地で争いが起こり、一般市民の方が犠牲になっています。人類、何千年の

歴史で、どれだけの戦争が起こったことか。人間って、どこまで馬鹿な事をやれば、気が済

むのでしょう。


あえて、「残酷な写真」も載せました。これが「現実」だからです。前伊藤市長が言われたよ

うに「直視」して欲しいからです。

(写真:諫早図書館 2014原爆パネル展より)






2014年5月 6日 (火)

しっぽもひと役★永井隆博士~長崎市・松江市

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永井隆博士が書かれた、色紙です。


説明には

「この世になんの用事もないものが生かされてるはずがありません。

どんな病人でも、何かこの世において働くことができるから

いかされておるのでありましょう。私は、命の最後の一瞬まで、

いろいろ工夫して、何か働くことをみつけて働こうと思います。<如己堂随筆>より」


永井博士は、長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士

となります。この間、満州事変。中日事変にも軍医として参加をし、受洗をし、クリスチャン

になり、結婚をしています。


当時、結核患者が多く、「出勤してみると朝早くから患者待合室や受付は、息も苦しくなる

ほどの雑踏であった。」という状態で、医療器具も充分でなかったためか、「このまま数年

続けるなら、恐ろしい原爆病の起こることは、日食を予報するのと同じ確実さでわかってい

た、わかっていながら、相変わらず私は働きつづけた。」と言う状態だったそうです。


昭和20年6月に白血病とされ、余命3年の診断を受けますが、その三ヶ月のち、8月9日

に原爆が落とされ、大学病院内で大けがを負いますが、救護活動にあったっています。


二人の子どもは疎開して無事でしたが、妻、緑さんは、家屋の下敷きになり、そのまま火

に焼かれ、亡くなりますが、永井博士が家にもどり、緑さんの骨を拾って埋葬したのが、3

日後の8月12日だったそうです。

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(「長崎市永井隆記念館」展示写真より)。「原爆野を歩く永井隆(米軍撮影)」との説明書

きがあります。


この後、三山町木場で救護班を作り、巡回回診を行い、また、元の浦上に帰り、一坪のバ

ラックに住み、学会等で発表もしますが、昭和21年、病床に伏し、昭和23年如己堂が建

ち、そちらに移り住みます。「如己堂」とは、「己の如く隣人を愛せよ」との意味です。


中は見学できますが、二畳少しの広さ、裏に便所という家で、ここで、永井博士と二人の

子どもの生活が始まりますが、この家で、「長崎の鐘」「ロザリオの鐘」「いとし子よ」「この

子を残して」などを書き続けます。この時は、永井博士は、病床に伏したままです。

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この日も、修学旅行生が訪れていましたが、永井博士の精神が分かると良いのですが・・

左の赤く囲んだ所が、「如己堂」です。写真を撮ろうとしていたら、ボランティアガイドさんの

話も聞かずに、私の方にピースサインをするのがいて、どこの学校やら。

右の写真、「永井隆記念館」の建物ですが、この建物にも歴史があって、

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昭和25年、永井博士は家を増築し、戦後すさんだ子供たちのために、「うちら(長崎弁

で、私たち、の意味)の本箱」作りますが、国内外の博士の友人知人から多くの本が贈ら

れてきたそうです。

当時の看板。写真は、大勢集まっているところを見ると、開館の時か?

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当時の「うちらの文庫」に掲げてあったそうです。説明には、「誤解を生じかねない表現が

含まれていますが当時の状況や博士がこの「おきて」に込めた子どもたちへの願いを伝え

るために、展示することとしました。」と書いてありますが、これを読むと戦後当時の状況

が感じられると思います。

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その後、昭和27年「永井図書館」として建て替えられます。私も、この近くの山里小学校

に通い、帰宅の途中、良く寄ったところです。「如己堂」はその当時から、全く変わらない姿

でした。


この、「永井図書館」は、佐世保出身のブラジル在留邦人、宮崎隆榮氏が博士の所を訪

れ「うちらの本箱」を見て、図書館建設について話をし、昭和26年~27年にかけて、ブラ

ジル在留邦人、471人の寄附金1,747,188円と市費で建てられたそうです。


昭和44年に「長崎市立永井記念館」として改称。平成12年に「長崎市永井隆記念館」とし

て改称し全面改築。


昔は、一階の平屋建てだったのですが、いまは、一階が記念館、二階が図書室になって

います。図書室は、全く変わっていました。

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さて、実は、私、大きな間違いをしていて、永井博士は長崎生まれ、長崎育ちだと思ってい

たのですが、実は、島根県松江市苧町(おまち)で生まれ、父の医院開業のため、飯石郡

飯石町(現・雲南市三刀屋町に移り住んだそうです。


現在、雲南市にも「雲南市永井隆記念館」が建てられ、長崎の記念館とは姉妹館だそう

ですが、「如己堂」も、そのまま複製して建ててあるそうです。


さて、この際、永井博士の本を読んでみましたが、厳しく、真摯な中にもユーモアがあった

みたいで、「この子を残して」の中、「子らに向かってもらした言葉」に、次のような事が書い

てあります


■有名になるな!名前なんてものは、茶の間で、あめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけ

のもの。

■本を読んでいるときに来る見舞客は決まったように、「お退屈でしょう」と言う。日本人が

本を読むのは退屈なときだけかェ?

■決心は一生に一度しかするものでない。毎年元日に新しい決心をする人があるが、あ

れは儀式サ。

■こうして寝ておれば、悪い遊びもできないが、善いこともせぬものよ。

■買い被られるのは、胴上げされるようなものだ。いつ落とされるか、気が気じゃないよ。


さて、雲南市三刀町に「天満屋」というお菓子屋さんがあって、永井博士の「しっぽもひと

役」というお菓子を作っていて、「当年とって43歳!」と書いてありますから、43年作って

いるのでしょう。


この、ホームページの中に、「筒井茅乃」さん(永井博士の娘さん、結婚して名前がかわっ

ています。)が、「しっぽもひと役」について、当時の様子を書いておられます。長いので概

略を書くと


永井博士が墨で絵を描いて、「かやちゃん、これはどうね。」と聞かれ、見ると、一匹のぶ

たの絵だが、お尻がツルツルしていてなんともおかしい絵。


「おかしかー」と言うと、笑っている娘をうれしそうにみて、「おかしかやろ」と言って、ブタの

お尻にくるりとした線を入れ、「これでどうね」「うん今度はよか。」


それから「しっぽもひと役」と、ぶたの上の余白に書いたそうです。

永井博士は、「しっぽもひと役。ぶたのしっぽだってね、なかったらおかしいだろう。何の役

にもたっていないように見えるしっぽでも、本当はとても役にたっている、なくてはならない

もんなんだよ。」とやさしく説明してくれたそうです。原文はこちらを→クリック


私、好奇心だけは旺盛ですから、「天満屋」さんから、お菓子をすぐに取り寄せて見まし

た。

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可愛いぶたさんのお尻に、ちゃんと尻尾がついていました、尻尾がついていなかったら、

本当に、ツルツルして、「おかしか」ですね。


私の祖父も原爆で亡くなり、回りにも被爆者の方が、沢山いましたが、永井博士の事を考

えながら、しみじみと食べました。


追伸です、

この、浦上には、潜伏キリシタンの組織があり、指導者の頭を「帳方」とよび、他に「水方」

「聞役」等がありますが、この組織を作った初代の帳方が、孫左右衛門で、子孫が帳方を

継承し、7代目吉蔵のとき、浦上三番崩れ(キリシタンが発覚し、検挙されること)で、入

牢、獄死殉教をしたそうですが、この、「長崎市永井隆記念館」がその屋敷跡で、永井博

士の妻、「緑」さんは、吉蔵の子孫にあたるそうです。


注:館内撮影については「永井隆記念館」の了承を得ています。

参考・文引用「この子を残して~永井隆著」「如己堂随筆~同)」「娘よ、ここが長崎です~

筒井茅乃著」「長崎市永井隆記念巻パンフレット」、他説明版より。







2014年3月21日 (金)

2014 春うらら茶会★日米親善人形交流と島原’展~島原市島原城

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この話を書くのは、3回目になるのかな。きな臭い世界情勢だから、このような話を何回

も、続けていく必要もあるでしょう。


リトルメリーさん。昭和2年、日米関係が悪化した時、日米の子どもの友好を願い、親日家

のシドニー・ギューリックさんが12,739体の人形を、日本の幼稚園、小学校等に贈りま

す。


今見れば、何でもない人形ですが、昭和2年。多分高価でもあったでしょうし、日本でも珍

しい洋人形、しかも、洋装でもあり、子どもたちは喜んだことでしょう。島原市でも、人形の

歓迎会が開かれています。


これに対し、日本からも答礼人形として47体、長崎からは「長崎瓊子(たまこ)」がアメリカ

に送られれました。


時は戦争になり、人形といえど敵国製。焼かれたり、こわされたりで、現在残っているの

が、全国で約300体、長崎県では2体しか残っていません。その一体が、リトルメリーさん

です。


どういうわけか、島原第一小学校の箱の中に、雛人形と共に眠っていたそうで、数十年を

経て、見つかって、それから、このイベントがおこなわれ、今年で10回目。


場所は、「御馬見所(おんうまみしょ)」。藩主松平公が藩士の訓練状況を見るのに使われ

た所。

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日米親善人形のことを、後世に残すために、紙芝居が作られ、利用してもらえるよう、各

公民館等に配布をしてあります。紙芝居の読み手は第一小学校の生徒さん。

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展示の様子。各地の人形の写真。

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紙芝居の後は、「島原城 春うらら茶会」ということで、お茶のお接待。接待役は、「森岳婦

人会茶道教室&もりもり広場茶道教室の子ども達」。はやり、子どもとはいえ、お茶をやっ

ている子は、立ち振る舞いが良いですね。学習塾よりも、こちらを習わせた方が良いので

は?

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さて、あとは、国際交流ということで、「しまばら半島国際交流クラブ」を中心に、みんなで

大合唱。メリーちゃんも一緒に。

昨年は、中国のハッスル女性の方が、中国語で「幸せなら手をたたこう」を指導したのです

が、今年は、お国の方に帰っているとのこと。ちょっと残念。愉快な女性だったのですが・・


なお、人形、資料関係の展示は、4月6日まで、島原城内の「島原城観光復興記念館」で

おこなっていますので、ご来場下さい。

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天気も良く、紙芝居も良くでき、歌も楽しく、お茶も旨く、帰りがけに崩壊した城壁の修復具

合をを見に行くと、修復したところ、色で分かると思います。3月までに出来るかと思ってい

たら、ざすが現代技術。

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天気も良いので、この後「芝桜公園」に寄って見ましたが、これは明日のお楽しみ・・・・に

なるかどうか。


2013年3月20日 (水)

2013 春うらら茶会~日米親善人形交流展 附録:島原芝桜公園(3月20日)

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さて、「幻の肥前鳥居」。少しばかり、新しい情報が入ったので、又、後日。今日は、春うらら

茶会があったので、そちらの方を。


昨年も、この、春うらら茶会~日米親善交流展(正式名称:~青い目の人形~リトル・メリ

ーと仲間たち ’日米親善人形交流と島原’展)のことを書きましたが、このような歴史があ

ったこと、忘れてはならないと思いますので、再度取り上げます。来年も取り上げるつもり

ですが・・


この人形は、戦前、親日家のギューリックさんが、日米友好のため、12,700体を日本の

子どもたちに送りました。

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各学校では、町内の小学生、幼稚園の生徒などを集め、写真の様な盛大な歓迎会を開い

たそうです。


残念な事に、戦争が始まり、敵の人形だということで、廃棄され、現在全国で300体、長崎

県ではわずか2体しか残っていません。


一番上の写真の人形は、島原第一小学校のリトル・メリーちゃん。戦後、小学校に残され

ていた箱を開けたら、雛人形と一緒にリトル・メリーちゃんが眠っていたそうです。

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この雛人形と一緒に、入れてあったそうですが、誰かが隠したのか?


アメリカから送られた人形に対し、日本からも、子どもたちから募金し、47体を送ったそう

ですが、その一体が「長崎瓊子(たまこ)」。長崎代表です。

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ニューヨーク州ロチェスター市科学博物館に、どういうわけか、「ミス青森」という名で保管さ

れていたそうですが、これが長崎から代表して送られた答礼人形、「長崎瓊子」ということ

が73年ぶりに確認できたそうです。


この、日米親善人形交流展、全部「島原親善人形の会」の会員の手で運営されています。

(私も、事務局長の美貌にひかれ入っていますが・・・・)。10年目を迎えましたが、今度、

島原の小学校の郷土関係の、副読本に取り上げられるそうです。素晴らしい、歩みです。


イベントも少し組まれていて。

天気が良ければ、外の御馬見所で開催されたのですが、雨が降り、天気が悪かったので、

島原城内の復興記念館の中で。お客さんも結構多く、「森岳婦人会茶道教室&モリモリ広

場茶道教室の子どもたち」のお茶の接待。第一小学校生徒による紙芝居、、「リトルメリー

ものがたり」。ひかわ学童おひさまクラブによる合唱。島原半島国際交流クラブによる、み

んなで歌おう。

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雨を吹き飛ばす楽しさでした。


帰りに、島原城のお堀を見たら桜が満開。お城に桜、良いですね。

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さて、島原の芝桜公園。昨年より、根が張ってきたみたいです。花は、少し咲き始めている

ところで、まだまだ時間がかかりそうです。

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暖かくなったと思ったら、明日からはまたポチ寒くなりそう。老いの身には辛いですね。

皆さんも今晩はポチ暖かくして、お休みを。

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2012年8月 9日 (木)

2012 長崎原爆の日~北村西望の言葉

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今日、8月9日は長崎に原爆が落とされた日で、長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典が開

催されました。


去年も書いたように、母方の父が、友人の葬式の手伝いに朝から出かけ、被爆をしまし

た。兄弟で捜しにいき、女性は長崎駅から先へは立入禁止で入れなかったそうですが、

伯父2人で行ったそうですが、跡形も無かったそうです。


長崎で育ったので、その時の悲惨な話は、小さいときから聞いたり、見たりしていました。

腹が裂け腸が出て、引きずりながら歩いて人がいたこと、実際にケロイドの跡を見せてく

れた方もいました。水を求めながら死んでいった人々の話・・・


さて、福島県の原発のことですが、直後は、福島ナンバーの車が通るのを阻止していたニ

ュースも流れ、非常に悲しい思いをしたものでした。


数十年前、東京で就職試験を受けたとき「あなたの両親は被爆者ですか」と聞かれ、何の

ために聞かれたのか知りませんが、何ともいえない気持ちになったものです。合格通知は

来ましたが、こちらからお断りしました。


今、福島の瓦礫をどうするか、問題になっています。子供の影響が心配だと、各地で反対

運動が起こっています。反対運動を見ていると、反対のための反対にしかみえず、本当の

議論がなされているのでしょうか?(政府の一貫しない発言も問題なのですが)

もっと同じ日本人としてどうしたら良いのか、考える必要はないのでしょうか?



反対しているあなたの子供が、大きくなって、福島の子供と結婚したいと言ったらあなたは

どうするのでしょう?被爆者ということで、結婚に関する悲劇は嫌と言うほど聞いていま

す。

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今日は会場には入れないかなと言うことで、昨日出かけてお参りをしてきましたが、記念

写真を撮る団体が並んで笑いあいながら、次から次へと撮影。この記念像、作られたとき

は、色々批判もあったのですが・・・・


さて、平和祈念像の裏に、この像を造った、北村西望の言葉が刻んであります。

多分、裏まで来て読まれる方はいないと思いますので、紹介します。北村西望の平和を祈

る気持ち、そして力強い決意、意気込みが述べられています。

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平和祈念像作者の言葉


あの悪夢のような戦争

身の毛もよだつ凄惨悲惨

肉親を人の子を

かえり見るさえ耐えがたい愼情

誰が平和を祈らずにいられよう

茲に全世界平和運動の先駆として

此平和祈念像が誕生しました

山の如き聖哲それは逞しい男性の健康美

全長三十尺

右手は原爆を示し左手は平和を

顔は戦争犠牲者の冥福を祈る

異人種を超越した人間

時に佛時に神

長崎始まって最大の英断と情熱

今や人類最高の希望の象徴

     昭和30年 春日 北村西望





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