私の所に、故あってヘレンケラーの3枚の生の写真があります。ヘレンケラーについて
は、伝記の本、映画、舞台などでご存じだと思います。三重の障害苦を乗り越えた女性で
す。ヘレンケラーは、昭和12年、昭和23年、昭和30年に来日しています。
上の写真は、昭和12に年に来日した時、長崎の盲学校で月桂樹の記念植樹をしていると
ころです。帽子を被った方がヘレンケラーです。ヘレン・ケラー57歳の時です。
下の写真は、長崎の盲学校(当時の山里地区・現長崎市時津町へ移転)の校舎前での歓
迎式でしょう。
当時の盲学校は、浦上天主堂、神学校のすぐに近くにありました。
ヘレン・ケラーが日本に来た理由は2つあるようです。少し長くなりますが。
ひとつは、岩橋武夫氏の要請。この方は、早稲田大学時代に失明。ふたたび関西学院文
学部英文学科に入学。エジンバラ大学に留学し学位を受け、関西学院大学専門部・英文
学部の講師となり、大阪盲人協会の会長に就任。1934年カナダからメキシコにいたる講
演旅行の際にヘレン・ケラーを訪問。日本へ来日し障害者支援を要請したそうです。
その後、ライトハウスを設立、日本盲人会連合を結成し会長に就任しております。
さて、もう一つの理由は塙保己一の生国を訪れたかったといいます。
塙保己一は、江戸時代の総検校、目が不自由ながら「群書類従」「続群書類従」の編集
者。(高校の時、日本史で習ったはず。思い出して。)
余談になりますが、この「群書類従」版木に彫られますが、版木を彫る際20×20字に統
一したそうで、これが現在の原稿用紙の様式の基になったそうです。
ヘレン・ケラーと橘保己一の関係ですが、塙保己一の偉業を継承すると共に、「群書類従」
版木の保管と活用を図るために設立された学術団体「温故学会」があるのですが、その団
体から刊行した本があり、その中に載っており、以下に要約です。
突如して電話を発明した、グラハム・ベルが出てくるのですが。
ベルの家系は祖父の頃から、口のきけないひとを教育するという研究者だったのですが、
明治9年、のちに東京音楽大学や東京盲聾学校の校長を務めた伊沢修二が青年時代留
学をし、グラハム・ベルの所へ行って聾・唖の教育について話を聞いたそうです。その時、
日本にも塙保己一という目が不自由な学者がいたという話をしたそうです。
その後、ベルの所にヘレン・ケラーの両親が訪れ、その時、塙保己一のことをお手本として
励まし、助言をしたそうです。これをヘレン・ケラーは聞いて育ったようです。
ヘレンケラーが来日したのは昭和12年4月15日ポリー・トンプソン(のちに秘書、先生の
サリバンは前年に逝去しています。)と共に横浜に到着。この後、、新宿御苑の観桜会で
昭和天皇に拝謁し、その後も多忙なスケジュールをこなします。しかし、4月26日には「温
故学会」を訪問しています。塙保己一の銅像、愛用の机に触れ、通訳を経て「私はこども
のころ、母から塙保己一をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日先生の像に触
れることができたことは、日本訪問に於ける最も有意義なことと思います。
先生の手垢のしみたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えま
した。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう。」といっています。
いかに、塙保己一に憧れたが分かるでしょう。こののち、8月10日離日するまで各地で多
忙なスケジュールを過ごします。
ヘレンケラーの月桂樹を記念植樹したときの言葉です。
月桂樹に詠みて
樹にそへて
この木が日の光
雨の恵みをうけ
みごとに成長して
その蔭のもと
教へ兒たる目しひ耳しひが
健やかなる人生を歩むよう
またこの蔭がよき働き手に
憩ひと力を與へる
源となるよう私は願ってやみません
昭和12年5月29日 ヘレン・ケラー
この月桂樹は残念ながら原爆の被害を受け焼け焦げてしまったようです。
原爆で吹き飛ばされた校舎です。多分写真左の庇のあるあたりにヘレン・ケラーが立って
いて歓迎式があったのでしょう。当時この校舎は軍用工場として使われ、生徒は疎開をし
ていて無事だったそうです。
原爆落下当時の浦上天主堂です。私も小学校に上がるとき、ここから1キロの所に引っ越
しをし、一部はそのままにしてあった瓦礫のところで遊んだものです。今は立派に建て変わ
っていますが、人類の愚行としてこのまま残しておいておくべきではなかったでしょうか。
昭和23年再来日したとき、ここから数百メートル離れたところの、如己堂の永井博士を訪
れています。盲学校あたりを通ったはずですが、どんな気持ちだったのでしょうか?
原爆が落ちていなかったら、あの月桂樹はどれだけ大きく育っていたでしょう。
あしたは、雲仙でのヘレン・ケラーのちょっとしたお茶目ぶりを。
参考:社団法人温故学会刊「温故叢書 第56号」 他各ブログより)
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