経済・政治・国際

2014年12月18日 (木)

「社会保障一覧表」~コンビニで見つけた本

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コンビニといえば、大体、若者が利用するところですが、上にあるような本が置いてありまし

た。社会保障といえば、私も、40代くらいまでは考えた事はなく、この本、コンビニで売れる

のかな?(表紙と裏表紙です)


先日、法事の席で、「取る時は、否応なくとるくせに」「もらいに行く時は、申請ばせんとい

かんとに」という話。


昨年、「日本年金機構」から、年金振込通知書が来まして、この中で、一昨年までなかっ

た、「介護保険料・12,900円」「個人住民税・4,500円」、合計17,400円が天引きで、

否応なく取られて」いました。これ、年金生活者には、大出費ですヨ。


なお、「介護保険料」は分かりますが、「個人住民税」とはなんぞや?「年金から特別徴収す

る保険料等について」でいろいろ書いてありましたが、これは説明無し。


なお、ハガキの最初には、「個人住民税が特別徴収されたことにより・・・・」と書いてありま

したが、「特別徴収」とは?「特別」なら一回限りか?数回続くのか?わけ分かんない。


さて、病気で病院に通っていて、医療費が重なっている方、一年で一定の額を超えると、

「医療費控除」の申告をすると、税金が還付されます。これが、「申告しないと」、当然貰え

るべきものが、貰えないという事です。


私の場合は昨年、6,820円還付されました。ただ、サラリーマンでも確定申告が必要なこ

と。確定申告書に医療費控除額に関する事項を記入し、領収書を添付して提出します。こ

のほか年末調整済みの源泉徴収票も添付。なお、該当するかどうかは、居住地の税務署

か役場、役所に聞けば分かります。(面倒臭いこと!)


さて、ここで腹が立つこと。ウチでは「雲仙市 市民窓口課 国民年金班」から、毎月、「医

療費のお知らせ」が来て、「受信者氏名」「受診区分(通院・薬局等)」「日数」「医療費総額」

「国民健康保険から支払った額」「窓口での負担額」「病院等名称」が書いてあります。


要は、国民保険の医療費を抑えるため、「あなたの医療費はこれだけかかっていますよ。」

ということを自覚させるためでしょうが・・・・


ここで、問題なのが、役所が個人の医療費を全部把握しているなら、医療費の控除をする

時、「領収書を添付して提出します」はいらないはず。PCで各部署繋がっている時代。まっ

たく、市民に無駄なことを押しつけている、としか思えません。要するに、時代遅れで、民間

では考えられません。


ついでに、この間、十八銀行から通知が来ました。昭和25年度の税制改革で、「所得法等

の一部を改正する法律」が成立しましたということで。ここからですが・・・


「これにより、平成28年1月以降、特定公社債等に対する課税方式が、上場株式等と同様

に税率20.315%(所得税 15.315%+地方税5%)申告分離課税方式に変便されるほ

か、特定公社債等の譲渡所得が非課税から課税扱いに変更となります。・・・・・」。これ、普

通の人、完全に、分かりますか?銀行員なら分かるでしょうが。


自民党が政権を取ったおかげで(野党がとっても一緒)、官僚がやり放題で、また、わけの

分からない制度を作るでしょうが、税金はきちんと納める(いらない公共事業、天下り、国会

議員の削減、消えた社会保険料、今回の選挙費用700億等ありますが・・・・)、その代わり

貰えるものは貰いましょう。


昨日の、放送で、生命保険料の申請が無いために、支払っていない保険料が、数億あると

か。あなたのお父さん、お母さんの保険料もひょっとしたら、数千万あるかも知れないので

もう一度、確認を。


なお、一番上の写真、裏表紙に、取り上げられている「社会保障」の項目がありますから、

該当が無いかどうか、お調べを・・・・・・・・・


今日は、何となく「立腹帳」になりました。


【お口直し】

この2,3日寒くて、雲仙岳に雪が積もっていました。元気なら、樹氷を見に行きたいのです

が・・・・

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2012年2月17日 (金)

ヘレン・ケラーと長崎そして雲仙②~雲仙編

1

ヘレン・ケラーの来日は昭和12年4月15日ですが、離日の8月10日まで、日本各地、朝

鮮、満州(当時)まで及び、全行程1万4000キロ、39都市を訪問、講演回数97回と言い

ます。

長崎での記念植樹の際「記念樹に寄せて」を書いた日が、5月29日。雲仙に着いたのが5

月30日。


泊まり先は雲仙ホテルですが、写真右の二人がヘレン・ケラーを日本に招聘した岩橋武夫

とその奥様でしょう。

2

その時の宿帳です。ヘレン・ケラーの自筆署名が分かると思います。下に書いてあるのが

秘書のポーリーの名前ですが、これから見るとイギリス人だったことが分かります。部屋は

同じく1号室です。


忙しい中でのほんのひとときの休息だったのでしょう。いかにもくつろいだ様子が写真でう

かがえます。

3

4

おばあさんから何か受け取っているみたいですが、ひょっとしたしたら温泉卵かな?


さて、今日は「温故叢書 56号」の「雲仙と湯けむり」佐藤隆久氏(熊本第一ライオンズクラ

ブ)の文章をもとに書いていますが、ここからちょっとヘレン・ケラーのお茶目なことが書い

てありますからそのまま写してみます。


『雲仙ホテルで旅装を解いたヘレンは日本の温泉における「男女混浴」なる風習をすでに

同行の岩橋武夫さんから聞き及んでおり、温泉を自然に湧き出でる大地の恵みと考え、性

別を超えてくつろげる場所と解釈をしてそれを”実行”したのだ。そのとき、大浴場の中に

は、ヘレンと秘書のポーリーそして岩橋夫妻の姿があり、ヘレンは自らを「象」、ポーリーを

「アザラシ」と呼んで湯船の中を子供のように泳ぎ回ったという。そしてヘレンはこのニュー

スがアメリカに知れたら大変だといいながらも精いっぱい湯あみをたのしんだのであった。

いっぽう、岩橋は「神は完全に私に目隠しをなさっているから(注:岩橋氏も目が不自由で

した。)実におおらかな天国がそこにあった」とのちに述懐している。』

(あの、ヘレン・ケラーが混浴を!)



この文章については、佐藤隆久の(注)によれば、「本文のヘレン・ケラー」のエピソード及

び史実は、岩橋英幸著「青い鳥のうたーヘレンケラーと日本」(NHK出版社)からの引用で

あることを付記する。と書いておられます。この本、探したのですが、長崎県内の図書館に

はまったく無く、ネットでやっと見つけたら9,500円残念ながら断念しました。


しかし、この文章を読んでヘレン・ケラーの強い意志とは別の、底抜けに明るい一面がうか

がえると思います。ヘレン・ケラーが人々に愛された理由のひとつでしょう。


さて、ヘレン・ケラーは本土の全日程を終え(7月4日)、朝鮮、満州(当時)へ旅立とうとし

た時、盧溝橋を挟んで日中の戦争状態。

ヘレン・ケラーは釜山を経て、京城、奉天、大連と行きますが、ヘレン・ケラーのことが新聞

を飾ることもなく、その上、講演旅行中のヘレン・ケラーの一行がスパイだと言う噂も流れ、

大連を最後の終了地とし、8月10日横浜から帰国をしました。


この後、昭和23年に来日。このときは昨日書いたように、長崎の永井博士を訪問。

第3回目の来日は昭和30年。熱烈な歓迎を受けたそうです。


岩橋武夫氏の逝去が昭和29年、第3回目の来日の時は日本に来て泣き崩れたそうで

す。

秘書のポーリーは昭和35年逝去。ヘレン・ケラーは昭和43年6月1日逝去87歳でした。

ヘレン・ケラーのことはこの後も長く語り継がれ、人々に勇気を与えてくれるでしょう。



本日の写真提供、情報には「雲仙お山の情報館」のご協力をいただき深く感謝いたしま

す。

■写真・情報提供:雲仙お山の情報館

■文書参考・引用:社団法人温故学会第56号 佐藤隆久氏著「雲仙の湯けむり~ヘレ 

 ン・  ケラーーとニールス・ボーアー」から

  なお、このニールス・ボーアーのことも手に汗を握る面白いものですが、ヘレン・ケラーと

  は直接ないので割愛いたしました。

(追記)佐藤氏の文章ではヘレン・ケラーは、来日2日後の4月14日に塙保己一の曾孫、

          忠和氏と会われたそうです。 


                             

2012年2月16日 (木)

ヘレンケラーと長崎そして雲仙①~長崎編

3

私の所に、故あってヘレンケラーの3枚の生の写真があります。ヘレンケラーについて

は、伝記の本、映画、舞台などでご存じだと思います。三重の障害苦を乗り越えた女性で

す。ヘレンケラーは、昭和12年、昭和23年、昭和30年に来日しています。


上の写真は、昭和12に年に来日した時、長崎の盲学校で月桂樹の記念植樹をしていると

ころです。帽子を被った方がヘレンケラーです。ヘレン・ケラー57歳の時です。

下の写真は、長崎の盲学校(当時の山里地区・現長崎市時津町へ移転)の校舎前での歓

迎式でしょう。

当時の盲学校は、浦上天主堂、神学校のすぐに近くにありました。

2

ヘレン・ケラーが日本に来た理由は2つあるようです。少し長くなりますが。

ひとつは、岩橋武夫氏の要請。この方は、早稲田大学時代に失明。ふたたび関西学院文

学部英文学科に入学。エジンバラ大学に留学し学位を受け、関西学院大学専門部・英文

学部の講師となり、大阪盲人協会の会長に就任。1934年カナダからメキシコにいたる講

演旅行の際にヘレン・ケラーを訪問。日本へ来日し障害者支援を要請したそうです。

その後、ライトハウスを設立、日本盲人会連合を結成し会長に就任しております。


さて、もう一つの理由は塙保己一の生国を訪れたかったといいます。

塙保己一は、江戸時代の総検校、目が不自由ながら「群書類従」「続群書類従」の編集

者。(高校の時、日本史で習ったはず。思い出して。)

余談になりますが、この「群書類従」版木に彫られますが、版木を彫る際20×20字に統

一したそうで、これが現在の原稿用紙の様式の基になったそうです。


ヘレン・ケラーと橘保己一の関係ですが、塙保己一の偉業を継承すると共に、「群書類従」

版木の保管と活用を図るために設立された学術団体「温故学会」があるのですが、その団

体から刊行した本があり、その中に載っており、以下に要約です。

突如して電話を発明した、グラハム・ベルが出てくるのですが。


ベルの家系は祖父の頃から、口のきけないひとを教育するという研究者だったのですが、

明治9年、のちに東京音楽大学や東京盲聾学校の校長を務めた伊沢修二が青年時代留

学をし、グラハム・ベルの所へ行って聾・唖の教育について話を聞いたそうです。その時、

日本にも塙保己一という目が不自由な学者がいたという話をしたそうです。

その後、ベルの所にヘレン・ケラーの両親が訪れ、その時、塙保己一のことをお手本として

励まし、助言をしたそうです。これをヘレン・ケラーは聞いて育ったようです。


ヘレンケラーが来日したのは昭和12年4月15日ポリー・トンプソン(のちに秘書、先生の

サリバンは前年に逝去しています。)と共に横浜に到着。この後、、新宿御苑の観桜会で

昭和天皇に拝謁し、その後も多忙なスケジュールをこなします。しかし、4月26日には「温

故学会」を訪問しています。塙保己一の銅像、愛用の机に触れ、通訳を経て「私はこども

のころ、母から塙保己一をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日先生の像に触

れることができたことは、日本訪問に於ける最も有意義なことと思います。

先生の手垢のしみたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えま

した。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう。」といっています。

いかに、塙保己一に憧れたが分かるでしょう。こののち、8月10日離日するまで各地で多

忙なスケジュールを過ごします。

3

ヘレンケラーの月桂樹を記念植樹したときの言葉です。



月桂樹に詠みて

樹にそへて

この木が日の光

雨の恵みをうけ

みごとに成長して

その蔭のもと

教へ兒たる目しひ耳しひが

健やかなる人生を歩むよう

またこの蔭がよき働き手に

憩ひと力を與へる

源となるよう私は願ってやみません

昭和12年5月29日 ヘレン・ケラー



この月桂樹は残念ながら原爆の被害を受け焼け焦げてしまったようです。

Photo_4

原爆で吹き飛ばされた校舎です。多分写真左の庇のあるあたりにヘレン・ケラーが立って

いて歓迎式があったのでしょう。当時この校舎は軍用工場として使われ、生徒は疎開をし

ていて無事だったそうです。

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原爆落下当時の浦上天主堂です。私も小学校に上がるとき、ここから1キロの所に引っ越

しをし、一部はそのままにしてあった瓦礫のところで遊んだものです。今は立派に建て変わ

っていますが、人類の愚行としてこのまま残しておいておくべきではなかったでしょうか。


昭和23年再来日したとき、ここから数百メートル離れたところの、如己堂の永井博士を訪

れています。盲学校あたりを通ったはずですが、どんな気持ちだったのでしょうか?

原爆が落ちていなかったら、あの月桂樹はどれだけ大きく育っていたでしょう。



あしたは、雲仙でのヘレン・ケラーのちょっとしたお茶目ぶりを。


参考:社団法人温故学会刊「温故叢書 第56号」 他各ブログより)


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