日記・コラム・つぶやき

2019年2月19日 (火)

今年最大の「スパームーン」

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今日散歩していると、お近くの人に出会い「今日はスーパームーン」だよ、と言われました。

もう何回もブログにだしているので、どうしようかと思っていたら、先日「のび太の月面探査記」を紹介したばかりなので、ヒョッとした、のび太やドラえもんが見えないかなと思って写真を撮ってきました。

正確には、20日の0時54分が丁度満月なのだそうですが、まあ、そんな堅いことは言わないで・・・今日は空の状態が非常に悪く、多少雲がかかった状態でしたが、なんとか撮ってみました。

で、これ右のクレーターのところ、見えるんですね。ドラえもんやのび太くんたち。
見えないですか?それは、あなたの心が世俗の常識にまみれているからで、私のように純粋な心を持った人には見えるはずです。

さて、今回のスーパームーンは今年最大のスーパームーンだそうです。

9月14日の最小の満月と、今回の満月の大きさの違いがネットの「tenki.jp」に載っていたので興味のある方はごらんください。随分違います→こちらをクリック

つくづく見ていると、こんな大きなものが宙に浮かんでいるなんて、まさに神秘的ですね。



2019年2月 4日 (月)

「荒飛甚太夫」とは何者か?~千々石町温泉神社力石について

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千々石町「温泉神社(旧四面宮)」にある「力石」です。

以前は彫られた字も、もう少しはっきりしていたのですが、「力石」と中央に彫られた文字以外は摩耗しています。

がですね、ちゃんと調べた方がおり、四日市大学健康科学研究室、高橋愼助氏(2009年現在)の「九州・沖縄の力石」(他、全国の力石についての著作有り)の雲仙市のなかに

(2)温泉神社・千々石巳
①「奉納 力石 目方三百四十斤 東京相撲 荒飛甚大夫 明治十六年三月九日」  66㎝×37㎝×32㎝

となっています。

「千々石町郷土誌」には、「怪力無比『荒飛』」の話として、概略書くと。

時代不明。
子供の頃から、力持ち。皆にすすめられ江戸(東京)に上がり相撲取りに。グングン位も上がり、このままでは横綱大関を倒すのも、もうすぐだろうと噂に上がるようになり、これを聞いた横綱が無法者を雇って殺そうとしたところ、これを耳にした横綱宅の女中が、可愛そうに思って荒飛に知らせたそうです。

荒飛は怒り悲しみ、こんなつまらない世界にいても仕様が無いと千々石に帰って百姓になったそうです。

ある日、曲がりの浜から石を一つ持ち帰りお四面さん(現温泉神社)の前に置き、青年たちに持ち上げさせたが、誰一人持ち上げる者はいなかったそうです。
で、「この石はなお、お四面さんの社前にある。」ということで、上の写真の力石です。ということです。

この「荒飛」がどういう人物なのか興味があり、ベースボールマガジン社の「大相撲人物大辞典」(大相撲三百年のなかで、それぞれの時代の幕の内の力士のデーターが書いてあります)。これを読むと荒飛という力士が2名書いてあり、1名は

出身 千葉県市川市湊周辺
生年月日 安永八年
初土俵 寛政十年三月場所 幕内付出
入幕 寛政十年三月場所 幕内付出
最終場所 文化四年二月場所 

となっていますが、初場所がいきなり前頭付出ですから、実力はあったと見られたのでしょうが、その後の成績はあまりパッとしませんが、「荒飛の四股名は伊勢ノ海部屋の出世名として、代々受け継がれた」そうです。

もう一人の「荒飛甚太夫」は下のとおりです。

出身は栃木県、所属部屋は伊勢の海部屋。前の荒飛と一緒の部屋ですから、出世名を継いだわけですが、成績はパッとしません。

さて、こちらの荒飛は、初土俵が明治七年十二月場所、十両昇進が明治十五年、入幕が明治十七年。最終場所が明治十八年ですが、この年脱走。「これという戦歴もなく平凡な者であった」。「十八年の京都相撲で内幕であるが、その後は消息不明」ということです。

力石に彫ってあるのが明治十六年、明治十六年はまだ荒飛は東京相撲にいます。

考えるに、同時代には同じ四股名を持った力士は無く、例えば、「白鵬」という四股名を持った力士は二人は居ません。と考えれば、明治16年には「荒飛」の四股名を持った力士は一名しかいないということです。

ということは、出身地が違い、横綱が殺そうと思うほど強くは無く、と言うことですが、「荒飛」とはこの力士ではなかったかと思うのですが。

で、なぜ、この「荒飛」が力石を奉納したのかが謎ですが、かなり高齢の方に聞いたところ、昔、巡業があったというで、多分こちらにも回ってきたのではないかと思われます。

なお、千々石で無くとも、時代は違いますが、隣町の小浜町は玉垣額之助という有名な力士を生んだところであり、小浜に大相撲が巡業したことは十分に考えられ、その折り、有名であった千々石の「温泉神社(旧四面宮)」に力石を奉納したとも考えられるところです。

ただ、大相撲の巡業の記録は全くないので、手がかりが無いのですが、下の「荒飛甚太夫」の記録と照らし合わせればピッタリだと思うのですが・・・・

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       (ベースマガジン社刊「大相撲人物大辞典」より

2019年1月30日 (水)

「涼を求めて冬の滝」~諫早市高来町轟の滝

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長崎では有名な「轟(とどろき)の滝」です。

夏、暑かったので、涼みに行こうかと思ったら、高来町のお兄ちゃんから、「夏休みは、人が多いから、止めた方がいいっすョ。夏休み明けがいいっすッ」といわれ、夏休みが終わったので行って見ました。

案内所はもちろん誰もいません。お茶屋さんも「営業中」だけど、誰もいません。もっとも、冬の寒い日、朝早く、誰も来ないのに開けているわけ無いっすョね。

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滝までの道は完備。ただ、帰りは上ってくるのを考えると、しんどい。木の間に滝の音と一緒に見える姿は風情がありますね。

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吉井勇さんが来られたのか、所々に短歌が。右の木の割れ目が気になりますね~。誰もいないから、といっても撫でたり触ったりのセクハラはしませんでした。

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気になる2枚の看板。
「水温が低いので、遊泳される際は十分にご注意ください。」
「”滝つぼ”では絶対に泳がないでください。 諫早市」
さて、泳いで良いのか悪いのか。こんな寒い日は泳ぐ気にはなりませんが・・・もっとも、私、泳げませんが・・・

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「耳なり岩」。気になりますね。歳で耳なりがしているのに、この上。
滝の近くまで歩道があって。

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道の最後のところ、なにやら足形があって、ここに立つと、左の赤丸印の岩の壁から滝の音が反響して、これは、素晴らしい音でした。思わす、時間を忘れ聞き惚れました。ここ、絶対に行くべきですね。

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他にも、滝はあるのですが、膝を痛めているので、この日は残念ながら、ここで引き返しました。

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滝に行く道のところにある「名水」の汲み場。

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見ていたら、入れ替わり立ち替わり、水汲みの人、多いですね。
ポリタンク10個ほど汲んでいたので、聞いたら長崎からだと。で、以前から尿結石があり、いろんな水を飲んだところ、ここの水を飲み始めたら、結石が出なくなったとのこと。

誰にでも効くのか、この方だけに合ったのかは分かりませんが・・・試してみたい方は、自己責任で・・・

私の方は、ペットボトルしか持ってなかったので、一応、入れて飲んだら思ったより暖かく、柔らかい感じの水でした。家に帰ってコーヒーに使ったら、なかなかのお味でした。

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ということで、この日は、滝に居たのはわたし一人で、大自然を一人占め。
ひとりぼっちで、寂しかったといえば寂しかった。こんどは、誰かと二人で・・・・



2019年1月19日 (土)

「ウォーキングシューズ」の新調&足の測定について

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昨日、特定健診に行ってきました。

予定通り「太りすぎ」。体重オーバー14.6㎏。脂肪オーバー18,5㎏。

最後に美人のお医者さん(多分、マスクを付けていましたが・・・雰囲気的に・・・)の診断、ご指導。


「太りすぎですね。間食してますか?」
「しています。」
「どんなものを間食していますか?」
「チョコレートにケーキに饅頭にポテトチップにアイスクリームに・・・」
「全部止めましょう。代わりに、ミカンなどの果物なら良いでしょう。で、運動をして下さい。」
「酒も止めた、タバコも止めた、パチンコ、競艇は嫌い、楽しみが無いんですよ。」
「不●でもしたらいいでしょう」ということで、お医者さんの勧め従って今年は不●に務めることにして・・・・ということは、さておいて、確かに脂肪が多くて死亡しちゃなんにもなんないなと思い、家にあった、チョコレート、饅頭、アイス、ポテトチップス、キャラメル、ケーキを全部廃棄。

で、もう一つ「運動は毎日30分くらい、あまり一生懸命すると飽きますから。」ということで、一念発起して「ウオーキングシューズ」を購入に。

で、一番困るのが靴選びで、商品が沢山並んでいるので、どれにしようとウロウロすることが多く。と思っていたら、「足のサイズ測ります」との宣伝があり、試してみたら、上のチャート図。

意外なことに、左右の足の寸法が違い、左が249.1㎜、右が235.9㎜ですから、1㎝以上の違い。同じ日に生まれたのに、なんで違うんでしょう?ということで、左は左の寸法の靴、右は右の寸法の靴と2足買わなければいけないのですが、店員さん曰く「まあ、大きい方に合わせれば良いでしょう」。

あと、以前、ソールを作ったことがあるので、これも作ろうかと思ったら、かかとの傾斜角度がそんなにひどくないので、良いでしょうと。私が店主なら「作った方が良いでしょう」と売りつけるんですが・・・・

ということで、私、親指が巻き爪になっており、お医者さんから余り窮屈な靴は履かないように言われているので、その旨告げたら、何足かチョイスしてもらいました。

以前、安い●国製の靴で走ったら一発で腰を痛めた経験があるので、多少、お高い靴を求めました。先ほど履いて30分ほど歩いて来ましたが、なかなか調子が良いですね。古人曰く「靴と女房は新しい方が良い」。まったく、その通りだと実感をしました。

靴をお求めの時は、足の測定を試してはいかが。

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2019年1月14日 (月)

「『駕立場』の絵はがき、なんか変?」~解決編

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昨年、12月8日「『駕立場』の絵はがき、なんか変」ということで書きました。

12月8日のブログは→こちらをクリック 

要約すれば、昔は「温泉(うんぜん)」という表記が多く使われていたのですが、昭和9年に国立公園になったおり「雲仙(うんぜん)」が使われるようになりました。

「長崎新聞」は明治22年「長崎新報」として創刊、その後名前を変えますが、「長崎新聞」の名前を使ったのが昭和20年。ここのところ、長崎新聞のホームページは簡略化して書いてありますが、Wikipediaが詳しいので、→こちらをクリック

上の絵はがきでは 赤丸印の旗、右側に「長崎新聞主催」、上の方には、「温泉(うんぜん)」の字が読み取れます多分「温泉(うんぜん)嶽」だと思われます。下の方には「登山會」。

で、ここで疑問が出てきたわけで、文字使いに慎重な新聞社なら、年代を考えると「温泉」ではなく、当然「雲仙」(「長崎新聞」を名乗った昭和20年には、「雲仙」と表記されたわけですから)を使わなければいけないわけで、なぜ?「温泉」を使ったのか、と悩んだのですが、ここで下のようなコメントをいただきました。

この絵葉書は、なかなか貴重だと思います。この絵葉書は、明治42年に長崎新聞社が雲仙登山をした際の風景と思います。長崎新聞社は、この時の登山の様子を『温泉小浜案内記 : 登山紀念』という本にまとめています。
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001602655-00
その際の写真があったとは、オドロキです!

ということで、下にURLが書いてあったのでクリックしてみたら「国立国会図書館サーチ」のページでそこから、「温泉小浜案内記・登山紀念」をプリントアウトして読んだら、小浜、雲仙までの交通案内、観光案内が書いてあり、当時の様子が良く分かります。

ほかに、旅館案内、その他商店の案内が書いてあり、日本語、英語、ロシア語と3部に分かれてありました。多分、別々の本だと思いますが、実物が見られないので定かではありません。

ところで、本を見ていると、一番上の絵ハガキと同じ写真があり、他にも数枚、他の絵はがきで見た写真があるので、多分、長崎新聞から絵はがきとして出したものと思います。

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さて、この案内書、後ろの奥付を見ると初版が「明治42年」ということは、長崎新聞はこの頃、明治22年に「長崎新報」、明治43年に「長崎日日新報社」、明治44年に「長崎日日新聞」と改題しています。なお、案内書の中にはちゃんと「長崎新聞」の名前の宣伝が入っています。

ヒョッとしたら、一時的に名前を変えたかな、とは思ったのですが、その記録はまったくありません。

結局、悩んだ末、聞いた方が早いなと。長崎新聞社に電話したら、カワユイ女の子が(声は、顔は分かりませんが)出て、昔の話なので、分からないのか、2回ほど話して結局「総務課」に繋ぎます。だと。結局3回同じ話をすることになりましたが・・・


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担当者も詳しく分からないのか調べてみますということで、しばらくして返事の電話があり、「長崎新聞は明治38年1月から昭和10年8月までありましたが、本社とは関係の無い会社です」と言うことでした。

私は猜疑心が強く、ねちっこい性格なので確認はできないかと思っていたら、ふと「長崎事典」を思い出し、「歴史編」を調べたら以下のように書いてありました。

長崎新聞(ながさきしんぶん)

明治38年(1905)1月18日創刊。中川観秀、中川平兵衛、岩永八之丞、前田多三郎ら。現長崎新聞とは関係ない。憲政同志会系。昭和10年(1935)廃刊。

ということで、現長崎新聞社総務課の方の話と同じで、この案内書が明治42年発行ですから、この頃は「雲仙」は「温泉」と言っていたので、旗に書いてある「長崎新聞主催」「温泉」というのは、至極当たり前の事だと言うことで、一件落着。

と思っていたら、もう一つ「長崎新聞」というのがあり、下記の通りです。

長崎新聞(ながさきしんぶん)
明治6年(1873)1月、本木昌造が松田源五郎、西道仙、池原日南などの学識経験者を同士として発行。・・・同年11月廃刊。次に本木昌造と交友の厚かった本田実が明治8年(1875)に同題号で復刊した。・・・明治9年(1876)1月、「西海新聞」に改題した。

ということで、「長崎新聞」という題字は、明治6年の本木昌造発行、明治38年の憲政同志会系の長崎新聞、現長崎新聞と3回、別々の関係ない会社で発行されたという事です。

これにて、一件落着。です。

なお、本のコピーは「国立国会図書館デジタルコレクション」から。
また、情報をいただきました、「
 ncc1701b」さんには感謝です。ありがとうございました。


2018年12月26日 (水)

私としたことが

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この年の暮れ。ドジをしました。

朝から、座ろうと思っていたら、靴下が少し分厚かったせいか、フローリングの床で滑り横にあったゴミ箱の角にゴツン。

痛みは、そうなっかたものの、耳たぶから血が出ているようなので、カミサンに見せたら(昔、看護師さん)キズが深そうだから、すぐに病院へ行けだって。

で、すぐに医者にいったら、耳たぶが随分切れていて、もうすぐで、千切れていたかもしれないだって。急いで、麻酔の注射して縫ってもらいました。生まれて初めて縫ったので、緊張しました・・・

体育の成績は小学校から3ばかりでしたが(筆記があったので・・)、あれは、走ったり、飛んだりのテストで、体のバランスのテストは無く、体のバランスには自信があったのですが、はやり歳ですね。自信は吹っ飛びました。足、膝もかなり弱っていますね。

なお、縫った痛みは少々あるものの思ったよりも軽いものでした。

年末に向け大掃除など忙しい中、特に高齢の方は昔の体力などを過信して、無理されないように。もっとも、私はこれを口実に大掃除は全部パスするつもりですが・・「耳が痛くて動けない!」

少し余談になります、「下町ロケット・最終回」、高視聴率をとったみたいですが、あれ、最終回でなく、お正月の特別編が本当の最終回になります。逆転に次ぐ逆転です。早く知りたい方は本をお読み下さい。

2018年12月12日 (水)

「私は武士の娘です!」

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「美女」という言葉がピッタリ。なんと、女性のオーラが溢れていることか!

オジサマ族、オバサマ族の方は良くご存じのことだと思います。特に、オジサマ族はグラビア、写真集、映画などを見ながら、オカズにしてお世話になったことと思います(私もですが)。

今やNHK朝ドラ「まんぷく」のなかで「私は武士の娘です!」でコミカルな演技をしている松坂慶子さんです。

生まれは1952年。上の写真は1980年の写真ですから、28歳。一番良いときですね。

今や、下の写真のようになりましたが、やはり昔の面影は多少残っています。

若いときは、きわどい演技もしていたのですが、私のブログは上品が売り物なので、載せません。当時の写真集はまだ持っていますが・・・


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松坂慶子さんがどんな凄い女優だったのかは→こちらをクリック

一番上の写真は1980年8月(昭和55年)号の「PLAYBOY(日本版)」より。
下の写真は、朝ドラ「まんぷく」より。

2018年12月 8日 (土)

「駕立場」の絵はがき、なんか変?

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小浜町から雲仙に至る途中「駕立場」があります。

「おばま 史跡巡り観光ガイド」によると、「健保3年(1213)有馬経澄から貴純、そして晴信、直純までの有馬時代399年と、その後に移封された松平氏等藩主が小浜に来る途中の休息所であったと言われている。・・・・藩主の休息所だったということよりも、むしろ明治時代の登山時のチェアーかごの休息所であったことであろう。」と書いてありますが、地理的に見て、多分後者の方でしょう。

なお、「チェアーかご」は下のようなものですが、小浜~雲仙までかついで登るのは大変ですよ。

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       (「2005年 小浜町80周年記念誌」より)


現在の「駕立場」風景ですが、車の休息所になっていますが、昔はお茶屋さんがあったそうです。

左の写真の赤丸印のところ、右の写真のように「駕立場」のバス停と案内版が立ててあります。

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多分、上の写真、皆さんがくつろいでいるところが、左のあたりだと思われます。右の道は多分「笹之辻」に通じるかと思われます。

以前、昔の道を辿った方によると、小浜温泉→道前→鬢串→笹之辻→駕立場までは細い道を行けたそうです。

右の写真は、雲仙方面を見た写真ですが、植林が茂り、昔の面影はありません。

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        (青の矢印は現在の車の道路)

さて、ここで気になったのが、後ろの旗。

縦に「長崎新聞主催」。上の方が「温」の字と来れば後は「泉」。その後は「岳」か「山」かでしょう。下の方は「登山會」。

で、以前書いたとおり、普通、雲仙は昔は「温泉(うんぜん)」と言われていました。「雲仙」の表記もありますが(温州ミカンは「うんしゅうミカン」ともよび「温泉」が「うんぜん」と読んでも不思議はないのですが)・・・一般的に「温泉」が「雲仙」に変わったのが、昭和9年、「温泉公園」から「国立雲仙公園」に変わったときになります(もっとも、現在も文化庁管轄、特別名勝として「温泉岳(うんぜんだけ)の名前は残っています。地図にも記載してあります)。

話変わって、長崎新聞は明治22年(1889)に「長崎新報」として発足、色々あって昭和20年(1945)に「長崎新聞」へ、ところが戦後、昭和21年(1946)に「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保時事新聞」「新島原新聞」に解体。

昭和34年(1959)に新長崎民友新聞社と合併して、「長崎新聞社」が発足、同年「長崎新聞」に改題となります。詳しくは→こちらをクリック

ですから、「長崎新聞」と名乗ったのは、昭和20年と昭和34年以降と言うことになります。

雲仙を目指して登るといえば、普通、雲仙岳の一番高い普賢岳(現在は平成新山が一番高い山になりました)を目指すのが普通です。「登山會」といえば、当然普賢岳登山でしょう。

先ほどから書いているように、普通「雲仙」というようになったのが、昭和9年。
「長崎新聞」の名前が用いられたのが、昭和20年、昭和34年になります。ですから、この旗は「雲仙」と書かなければならないのですが・・・・まさか、天下の大新聞(長崎では)が、雲仙の名称が数十年前に変わったのに「雲仙」を「温泉」と書くはずはないのですが、この旗には????でした。

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この絵はがきの写真に「小濱大黒天商店」と書いてあります。

下の地図は貴重な資料で、今は無い旅館なども記載されており、観光協会発行になっているので、聞きに行ったら初めて見たという事でした。

で、小浜生まれ、小浜育ちの高齢者の方に尋ねたら、昭和20年後半から昭和30年前半だろうと言うことでしたが、 お目当ての「小濱大黒天商会」は残念ながら、ありませんでした。もし、現存していたら聞きにいこうと思っていたのですが。

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2018年11月24日 (土)

「橘神社大門松」作り始まる&「天満宮神迎え」

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昨日、橘神社の近くを通っていたら大門松の作り始めの第一日目でした。お払いは神社の方で済ませ、さっそくの作業です。

聴いてみたら、大門松の完成竣工式は、まだ決まっていないようでしたが、昨年が12月23日でした。詳しくは社務所までお問い合わせを。

作っているのはボランティアの方々で、大変だと思いますが、大門松を楽しみに見にこられる方が大勢おられるので、頑張っていただきたいと思います。

昨年の、完成竣工式です。

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さて、夜は「天満宮」の神迎えで、 出雲大社より神様が戻ってこられるのでみんなでお迎えを。昨日はウチの神社だけでしたが、神主さんの話では今日は2ヵ所で神迎えだそうです


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神様が戻ってこられるのが遅い時間なので、それまで、何やらかにやら喋っている時間が楽しいですね。古老の方から昔話を聞きながら、勉強になりました。

神事の後、直来(なおらい)ですが、差し入れで、参加の方から五島のキビナゴ。ウチでガスや電気で焼いてお皿で食べるのではなく、炭火で焼きながら食べると、全然旨さが違いますネ。

最近は近所づきあいが薄れてきていると言われますが、こんな集まりも楽しいです。

さて、神様が帰ってこられるとき、風がまったく無かったのに、突如旗がバタバタとなったりします。「神様が帰ってこらしたばい」。

昨年は、電気の明かりと提灯の明かりが、ふと暗くなり、神様が帰ってこられた感じでした。宮司さんに聴くと、はやり他の所でも同じような事があるとの事。

今年は、話をしているとき、背中に冷たいながらも清らかな感じの風が感じられ、あ~、帰ってこられたな、と感じたものでした。


2018年11月22日 (木)

煙をあげて汽車は走る~「温泉鉄道」古絵はがきより

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少し悩みながら・・・


上の絵はがきは、以前「温泉鉄道」について、しつこく書いたので覚えているのですが、少し前、下の絵はがきを入手し、これ、ブログにアップしたのかな?記憶がなく、悩んでいます。

なにせ、最近はボケて、「メシはまだか」「あら、食べたばかりでしょう」てな具合。

知ってても知らないふりをするのが大人で、もし、下の絵はがきをアップしていて覚えている方は、知らないふりをしましょう。

上の絵はがきは良く見かけますが、下の写真は少し違って、上の丸印には煙を吐いて汽車が走っているのが見えます。汽車を大きく写した写真は何点かありますが、このような感じで汽車が写っているのは、これ一枚だと思います。

もうひとつ、矢印の所が旧道で、現在、この旧道の上に国道が走っており、当然この時代の写真には写っていません。鉄道が廃止され、この跡に国道が作られています。

下の丸印はコンクリート製のガードレールです。現在も愛野の峠から少し下りた、お土産屋さんの展望所からも見えます。


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上の写真の汽車とガードレールを拡大したものです。ちっこい汽車が分かると思います。


絵はがきは使用されており、日付は昭和4年12月15日。温泉鉄道が廃止されたのが昭和13年(1939)8月15日ですから、廃止の約10年前の絵はがきだということが分かります。


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只今、千々石を中心に、古写真、古絵はがきの収集をしていますが、古写真の方はほとんど絶望的です。考えて見れば、昔はカメラが高価で、とてもじゃないけど買えるものではなく、まして興味がない時代だったでしょう。


先日、古写真、絵はがきを扱っている方に聴いたら、千々石の絵はがきは少ないとのことでしたが、じっくり見ていくと思わぬものが写っていたりして、面白いですね。


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