旅行・地域

2019年12月23日 (月)

上塩浜「クリスマス・イルミネーション」~雲仙市千々石町上塩浜自治会の皆さん

Photo_20191223194201

毎年、私たちの目を楽しませてくれる「上塩浜のクリスマス・イルミネーション」です。電気の光では無く、ローソクの炎の灯りですから暖かみが違います。なんとなく、ホットする灯りです。とはいえ、このローソク全部に火を付けていくのは大変です。

多分、昨日がオープニングだったのでしょうが、あいにくの風と雨。で、今日通りかかったら準備をしているらしく、夜に出かけたら見事に出来上がっていました。イルミネーションは明日までだそうですから、通りかかられた方はご観覧を。


いつものゆきだるまさん、1年間どこに隠れていたのでしょう。


Photo_20191223194202 Photo_20191223194203

こちらは今年のアイデア賞で、だるまさんの横の光のツリーとか、欄干に飾ってありましたが、ビールのジョッキーとか、ビールのピッチャーとか、コップとか、海苔のビンとかに絵を描き、ローソクの炎に照らしだされ特にきれいでした。ビールのジョッキが多いのでビックリしましたが、話を聞いたら料理屋さんの食器の入れ替えで、不要になったものを貰ってきたそうです。

右の写真は教会などのステンドガラスをイメージしたものとか。

 
Photo_20191223194301 Dsc_0182

干の上の飾られたもの。これ、ロマンティクな絵が描かれていました。右は多分、子どもたちが描いたものかな?

Photo_20191223194601 Photo_20191223194501

クリスマス以外にも、こどもの日、七夕の時にも川沿いに飾り付けをし楽しませてくれます。人の手もいり大変だと思いますが、上塩浜自治会の団結力を感じます。

「自治会不要論」もありますが、隣の人とも付き合いが薄くなってきた現代、このようなイベントを通じながら、人が集まり地域を作りあげていくことが必要だと思いました。



2019年12月16日 (月)

「浦上駅」が「長崎駅」???~「長崎駅」の変遷

Scan001Scan004

上の写真は「長崎駅開業110周年」の記念乗車券と共に配られたカバーです。一番後ろに、写真でいえば、一番左になりますが長崎駅の変遷が書いてあり、長崎駅に関係するところだけ抜き出してみます。

明治30年(1897)  7月22日 長与ー長崎間開通。長崎駅(現浦上駅)開業。

明治38年(1905)  4月 5日 浦上ー長崎間開通。現在地にて長崎駅開業。従来の長崎駅は浦上駅に改称。
大正 元年(1912) 10月21日 新駅舎(2代目駅舎)
昭和20年(1945)  8月 9日 原子爆弾投下により駅舎焼失。8月末(仮駅舎完成)まで防空壕等で執務。
昭和24年(1949)  3月 9日 新駅舎(3代目駅舎)完成。三角屋根の異国情緒漂う駅舎に。
昭和63年(1988) 11月22日 長崎駅リニューアル。
平成10年(1998) 11月17日 新駅舎(4代目駅舎)完成。
平成12年(2000)  9月21日 新ビルアミュプラザ長崎グランドオープン。
平成17年(2005)  4月 5日 長崎駅開業100周年。
平成27年(2015)  4月 5日 長崎駅開業110周年。

ということで、このカバーは2015年に発行されたものです。


駅舎の説明として、右のページ、左上から「初代 長崎駅」(この写真は長崎大学附属図書館蔵になっています)その下が、「2代目 長崎駅」、右に行って上が「3代目 長崎駅」、下が「4代目 長崎駅」。


で、「長崎駅」がなぜ「浦上駅」かというと、このころ長崎駅の敷地は海の中でした。下の地図は長崎文献社から刊行された「長崎惣町復元図」。


この地図、昔の地図に、よく見ないと分からないぐらい薄く、現在の地図が重ねて書いてあります。


赤の〇印が「長崎駅」、緑の〇印が「ホテルニュー長崎」。「現長崎駅」は「浦上駅が長崎駅」といっていた頃は、まだ、埋め立て造成の最中でした。


Img_20191215_0001_20191216193301

で、長崎駅に関しては上の写真のほかに下のような写真等があります。

左は「ふるさとの思いで写真集 明治大正昭和 長崎」(越中哲也・白石和男共編★図書刊行社)。説明としては「長崎の鉄道は九州鉄道株式会社の手によって明治三八年四月五日開通し、この駅が長崎駅として現在地に建設された。そして、この駅舎は大正二年(注:大正元年の間違いか?)国鉄の手により改築された。」となっています。


右が、「長崎駅開業88周年記念」のオレンジカード。要するに「米寿」の記念です。


Photo_20191215195201 Photo_20191215195301

下は同時に発売された「長崎駅開業88周年記念自由席特急券」。真ん中に「祝 米寿」の文字。右下に説明文で「明治三八四月開業当時の長崎駅」。ということなら、この駅舎が2代目でいいのでは無いのか?一番上の写真にも載せてないのはなぜかと思って調べたら「長崎県事典・産業社会編★長崎文献社」に以下のように書いてありました。

「港湾埋め立て工事が完成した翌明治38年日露戦争に必要な軍需品輸送の円滑化のため臨湾延長線の設置が急がれ現長崎駅所在地に仮駅舎が設けられた。同年四月開業、ここが長崎駅となり従来の長崎駅を浦上駅と改めた。仮庁舎の長崎駅は大正元年十月二十一日、本庁舎(木造二階建て)竣工とともに新庁舎に移転、・・・」ということで、この建物はあくまで「仮庁舎」ということで、カットされていたという事です。でも、なんとなく、この駅舎の写真もったいないナ。


Img_5318

ということだったのですが、左の写真(長崎大学附属図書館蔵)が初代の駅舎になりますが、もう一枚、右の絵葉書「長崎停舎塲(場)」「Rallway Station at Nagasak」と書いてあります

多分現浦上駅(旧長崎駅)だと思うのですが、同じようでも屋根の違い、煙突の違い、柵の有無など違っており、どうなんでしょう?ただ、右の写真は「明治四十二年」のスタンプが押してあり、このころは「浦上駅」は「長崎駅」から「浦上駅」に改称されていたはずなのですが・・・昔の絵葉書にスタンプを押したということも考えられるのですが、これについては謎でした。


Scan005 Photo_20191215195401

各写真、ボケていますが、クリックするとはっきり見えます。


2019年10月17日 (木)

2019「白木峰のコスモス」(長崎県諫早市)10月16日状況

Dscf3081

そろそろ白木峰のコスモスも咲いている頃かなと思いつつも、朝からポツポツ雨が降っていたので、どうしようかと迷いながらも出かけてみました。


ここ2、3年、花付が悪かったり、花の直前に大雨で土が流されたりで、なんとなく期待もせず行ったのですが、なんと満開。きれいに咲いていたのでビックリしました。


ただ、残念だったのが雨が降り始めたこと。幼稚園の子どもも来ていたのですが、急いで帰っていました。帰りがけ、良い車が数台上ってきていたので、多分コスモス見物でしょう。


右の写真、一番先の部分、ここ2、3年この所の花が咲いてなかったのですが、今年は立派に咲いていました。


コスモスの花は10月一杯だという事ですが、今週の土曜、日曜が見頃だと思います。

今日のNHKのローカスニュースでは島原のコスモスを紹介していましたが、こちらは有明海、雲仙岳をバックに良い風景が眺められますよ。

Dscf3068 Dscf3058



2019年3月20日 (水)

幻の「稚児落としの滝」~雲仙市雲仙

Photo

地元では有名な「稚児落しの滝」です。雲仙~千々石に下りるところにありますが、近年大規模な道路工事が行われ、危険箇所という事で立ち入り禁止になっています。いまや、幻の滝です。

「稚児落とし」については、3説ほどあり。


雲仙は修験道者の修行の場所として有名であり、別所と札の原に合わせて1000もの僧坊があったと言われています。もっとも、一人で暮らし修行する小さな僧坊も多かったと思いますが。


で、ある日、片方の稚児がもう一つの場所のお稚児さんが飼っている「白雀」を貸せと、もちろん断りますが、喧嘩になり、誤って白雀が死んでしまい、大騒動。子供の喧嘩に大人が出るというにのに似ていますが・・・これに、別所と札の原の僧が出て来て大騒乱。寺に放火する者などもおり刀、槍などを持ちだして、大殺傷事件。


これを聞いた、当時島原半島を治めていた有馬氏、兵を派遣し原因は稚児にあったということで、全坊の稚児を集めて、滝の上から稚児を突き落として殺した、ということで「稚児落としの滝」。


もう一説は、このころキリシタンが口之津に入港。島原半島を治めていた有馬氏は洗礼を受け、キリシタンになり、雲仙の僧もキリスト教に影響を受ける者もおり、この僧と仏教を守ろうとする僧の争いだという説もあり。


上の両者混合の説もあります。


もう一説は裏話として語られてはいたのですが、杉村廣太氏の「温泉(うんぜん)岳を繞(めぐ)りて」に次のようにはっきりと書いてあります。大正13年の本です。


「・・・或時別所の坊さんと札の原の坊さんとの間に、稚児に関する一種の恋愛問題から争いが出来て、法衣の上に甲冑を掛け、数珠の手に剣戟を持って仏徒にあるまじき大闘争をやった所から、国主有馬候が家臣を派し鎮定したが、その時禍根を断つためにと、闘争の原因になった稚児共を、この滝布に突落して殺したというので、それから此名が付けられたのである。」


以上、誠にザックリ紹介ですが、書けばきりがないのでご了承を。


さて、この本の作者の方は事情通らしく、雲仙岳の所に「田代原(たしろばる)」というところがあり、そこについて・・・


「・・・この田代原は、長崎県の新しい計画で、池の原(現雲仙ゴルフ場)より更に大規模のゴルフ場をつくろうというので、選定された場所である。・・」とあり、この話を聞のは初めてで、調べる必要があるような・・・


上の写真ですが、人物が写っています。外人です。雲仙には沢山の外国客がきており、以前書いたように、雲仙に向かう汽車の乗換駅「愛野駅」では、駅長さんは英語が喋れないと務まれなかったそうです。また、昭和初めの県議会でも、雲仙のホテルは外人向けだけではなく、日本人向けの宿泊施設を作ったらどうかとの質問も出ています。(以前書いたかな?)


さて、道路が拡張され雲仙まで行くのに随分便利になりました。しかし、そのため「稚児落としの滝」は見られなくなり、「幻の滝」になりました。便利になるのが良いのか、そのために、歴史を秘めた史跡を無くしても良いのか・・・どちらでしょう?





2019年3月 7日 (木)

「プール」があったげな~国立雲仙公園

Img_20190306_0001

雲仙のプールです。

雲仙にはテニスコート、ゴルフ場等々がありますが、絵はがき、写真集を集めているうち、「雲仙プール」という絵はがきがあり、「雲仙」といえば「雲仙」しかなく、プールというのは初めてで、一応場所を探してみました。もちろん、現在は影も形もありません。

下は、テニスコートと児童公園。児童公園もよく場所が分かりません。


Img_4844_2 Img_4845

テニスコートはまだまだ元気。テニスコート前、現在「新湯ポンプ中継所」。昔、弓道場があったそうです。

Photo_3 Photo_4

ゴルフ場ですが、「東洋一のゴルフ場」。良く見ると、牛さんが寝ていたり、馬さんが草を食べたりしています。なんと、のんびりしたことか!表には昭和7年のスタンプが押されていました。

Photo_6

さて、「雲仙プール」ですが、観光パンフレット、旅館の案内地図を調べると、大体「別所」の付近だと思われるのですが、ピンポイントでは分かりませせん。

で、地元のことは地元の人へと。詳しい人に聞いたら、現在の別所ダムにあったそうで、自分も泳いでいたということでしたが、どちらかというと外人向けのプールだったそうです。

ここは、修験道者が修行をしたところで、300坊があったという所で、「加持川」が流れていました。「加持祈祷」の「加持」ですから、仏教と関係していた所だということがわかります。

この加持川の水を利用してプールが作られたと思われます。なお、この横の所、外人向けのバンガローなどがあったそうです。

なお、加持川をせき止め、1961年にダム作りに着工、1970年に完成をしています。当然、プールはダムの底です。


Img_20190306_0004_3
Img_20190306_0005_3

上の写真に似ている所から撮りましたが、上の写真はこのダムの底から撮っているので、風景としては多少違っています。

なお、ダムの水が干上がったときには、かすかに見えることがあるそうです。何十年かに一回ということだそうですが・・・


Photo_5

この別所ダム、「おしどりの池」という別名があり、昔はおしどりをよく見かけたのですが、最近は、あまり見かけなくなりました。ひょっとしたら、離婚したのかな?


2019年3月 4日 (月)

変わる風景~千々石海岸

Photo_2

上は千々石海岸の写真。赤丸印は「福石様」。絵はがきですが、使用されていないため、年代ははっきりしませんが、家の屋根は、べらり(標準語で全部)茅葺きです。

これ、どこらあたりかなと思い、地元の知人に聞いたら、あそこじゃない、と言うことで、あそこへ行ってみたら、ピンポイントでは分からず、ここら辺だろうと思って撮った写真が下。

赤丸印が「福石様」向こう側の海岸は大体同じですが、手前の海岸は道路ができ、公園ができ、防波堤ができ、こんなにも違ってきたのかと思いました。

昔が良かったとは思いませんが、なんとなく寂しい思いでした。

Photo_4

思えば、私のカミサンも昔はあんなに可愛かったのに、今では、すっかり変わってしまいましたm(_ _)m・・・今でも、それなりには可愛いのですが・・・・(この部分失言につき、全部抹消します。)

2019年2月25日 (月)

「羅漢寺の猿石(?)」~南島原市有家町湯川内

Dsc_0536_2

有家町湯河内に「羅漢寺跡」というところがあります。

「有家町郷土誌」と「有家町内における文化財の調査」によると多少違いがあるのですが、はっきりしないところがあるので、ザックリ書いてみます。

数十年前聞いた話では、この道々に、上にあるような石造物点々とがあり、それを集めてここに祀ったとか。

「羅漢寺」と書いてありますが、
「有家町内における文化財の調査」では、このあたりに、密教寺院があったらしく、この一帯を「寺山」「寺屋敷」といい、出水で流されたらしく、その道場に安置されていた彫仏が発見されたそうです。

その、概要を聞いた北九州市の某お寺の住職が「石造物を羅漢と早呑み込みし、羅漢寺云々の語句を使用したことにはじまり、一部の土地の人々は、これを羅漢像と言い伝えたことに、間違いを引き起こした遠因があったのであり。」と言うことで、ここに「羅漢寺」というお寺があったのではありません。

Dsc_0520_2

どう見ても、羅漢さんにはみえません。

Dsc_0526_2

石像の実測図ですが、確かに羅漢さんではありません。

Img_20190225_0001

     (「有家町内における文化財の調査」より)

この報告書の副題が「ー資料よりみた倭、韓交流史に対する提言の試みー」なっており、この事についても書いてありますが、長いので、いつものように省略。

この石造物は現在「猿石」といい、有家町の各地に点在していますが。「・・・・麓の村人たちが、キノサン参りと称して、豊穣を希求する登山参道の古道を探れば(かって登った古老による)蒲河から須川あたりの旧入江港を基点として、山川ー堀切ー湯河内を経て鮎帰滝に出、(中略)西北高岩山の裙に出、(中略)ここより高岩山に登り参詣するが、古代舟人にとっても、巨石崇拝、或いは航海の指標として尊崇されたことは、現地からみて、認めざるを得ない条件を持ち、仏教の文化がこれと結びついたことも、けだし当然である。」とあります。

少し古い絵葉書からですが、下が高岩山です。

雲仙といえば、昔は修道験者の修行の場所として有名でした。この修道験者の道標として、猿石が置かれたのではないかとの話もあります。

まだまだ、解明はなされてないようですが、多分、これだ、という結論は出そうもないのですが・・・

Img_20190225_0002

羅漢寺跡に行くには、雲仙から島原に下る途中に俵石展望所があり、そこから有家に下る道があり、途中に「鮎帰の滝」の看板がありますから、そちらの道に入り、途中、滝に行く道がありますが、それを無視し直線します。で、途中、小さな分かれ道があります、それも無視して、まっすぐ進みます。そうすると、上の写真の所にでます。

なお、道が狭いです。舗装はしてありますが、リーンカーン・コンチネンタルなどの車は避けた方が良いでしょう。ベンツなどの高級車も避けたが良いと思います。運転のヘタな方、狭い道を運転すると、息苦しくなる方も避けた方が良いと思います。

なお、羅漢寺あとから、上の国道に抜けるそうですが、地元の方にきいたら、Uターンしたほうがベターだと言うことでした。Uターンする場所は、すぐ先にあります。

しかし、この苔むした石造物、いつまで見ても飽きませんでした。


参考書・「有家町郷土誌」「有家町の文化財報告 有家町における文化財の分布調査 ー資料よりみた倭、韓交流史に対する提言の試みー」より

2019年2月 7日 (木)

千々石に寄港した客船。

Img_20181018_0017_3

Img_20180417_0018_3

上の写真も下の写真も、千々石海岸から撮ったものです。

上の写真は海岸付近の「福石様」の所です。船が写っていますが、漁船で無いことは分かると思います。このころ、千々石では写真に見るとおり小舟ばかりでした。

この船は茂木航路の客船です。

下の写真は小浜方面を撮った写真ですが、同じように船が見えますが、これも、小舟にしては大きく、煙が見えます。これも、客船です。

昔、千々石、小浜、雲仙に遊びに訪れた方が多く(外人さんも)、千々石では「千々石ホテル」を利用し、小浜、雲仙方面にも行ってたとか。

さて、本当に千々石に客船が寄港していたかというと、下は長崎新聞社(現在の長崎新聞社とは関係ありません)明治42年発刊の「温泉(うんぜん)小浜案内記」~中川観秀著です。

赤い線の所「千々石」とあり、寄港地を見ると「千々石→唐比→有喜→江の浦→茂木」となっています。

Img_20190203_0001

なお、下図は昭和2年雲仙岳後援會(長崎縣廳内)より発刊の「雲仙」。これを見れば、茂木から直接小浜に行く航路、茂木から橘湾沿いの各地に寄港していることが分かります。

大正15年発刊「雲仙小濱風光記」(関善太郎著)には、陸路、海路、複数書いてありますが、千々石関係は・・・

三角際崎→天草島5,6ヵ所→茂木港において陸路長崎より来たれる客を乗せ→江の浦→有喜→唐比→千々石→小浜、と書いてあります。

多分、汽船会社、時代によって寄港地が違っているのかとも思いますが・・・・

Img_20190203_0002

さて、千々石に客船を停める桟橋があったかというと、現在、海が埋め立てられて分かりませんが、漁船を停める所はたくさんあったとか。

なお、茂木から千々石へ汽船に乗って嫁入りした、おばあちゃんがいるとかで、現在、聞き取りにいってもらっています。

下は、茂木港ですが、ちゃんと客船が停められる桟橋があります。

Img_20190207_0001

下は、小浜港ですが桟橋はありません。
客船と、丸印の所には階段が見えます。小浜では、沖に客船を停め小舟でお客さんを運んでいたそうです。なお、階段の上の建物が、船の待合室かと思われます。

千々石も小浜と同じく、沖に客船を停め、小舟でお客さんを運んだものと思われます。

Img_20190207_0002_2

2019年1月30日 (水)

「涼を求めて冬の滝」~諫早市高来町轟の滝

Photo_2

長崎では有名な「轟(とどろき)の滝」です。

夏、暑かったので、涼みに行こうかと思ったら、高来町のお兄ちゃんから、「夏休みは、人が多いから、止めた方がいいっすョ。夏休み明けがいいっすッ」といわれ、夏休みが終わったので行って見ました。

案内所はもちろん誰もいません。お茶屋さんも「営業中」だけど、誰もいません。もっとも、冬の寒い日、朝早く、誰も来ないのに開けているわけ無いっすョね。

Dsc_0366_3 Dsc_0429_2

滝までの道は完備。ただ、帰りは上ってくるのを考えると、しんどい。木の間に滝の音と一緒に見える姿は風情がありますね。

Dsc_0371 2_2

吉井勇さんが来られたのか、所々に短歌が。右の木の割れ目が気になりますね~。誰もいないから、といっても撫でたり触ったりのセクハラはしませんでした。

Dsc_0370 Dsc_0434_2

気になる2枚の看板。
「水温が低いので、遊泳される際は十分にご注意ください。」
「”滝つぼ”では絶対に泳がないでください。 諫早市」
さて、泳いで良いのか悪いのか。こんな寒い日は泳ぐ気にはなりませんが・・・もっとも、私、泳げませんが・・・

Dsc_0424 Dsc_0376_2

「耳なり岩」。気になりますね。歳で耳なりがしているのに、この上。
滝の近くまで歩道があって。

Dsc_0396_2 Dsc_0389_2

道の最後のところ、なにやら足形があって、ここに立つと、左の赤丸印の岩の壁から滝の音が反響して、これは、素晴らしい音でした。思わす、時間を忘れ聞き惚れました。ここ、絶対に行くべきですね。

Dsc_0385_2 Dsc_0386

他にも、滝はあるのですが、膝を痛めているので、この日は残念ながら、ここで引き返しました。

Photo_4

滝に行く道のところにある「名水」の汲み場。

3_2

見ていたら、入れ替わり立ち替わり、水汲みの人、多いですね。
ポリタンク10個ほど汲んでいたので、聞いたら長崎からだと。で、以前から尿結石があり、いろんな水を飲んだところ、ここの水を飲み始めたら、結石が出なくなったとのこと。

誰にでも効くのか、この方だけに合ったのかは分かりませんが・・・試してみたい方は、自己責任で・・・

私の方は、ペットボトルしか持ってなかったので、一応、入れて飲んだら思ったより暖かく、柔らかい感じの水でした。家に帰ってコーヒーに使ったら、なかなかのお味でした。

Dsc_0442_2 Dsc_0445_2

ということで、この日は、滝に居たのはわたし一人で、大自然を一人占め。
ひとりぼっちで、寂しかったといえば寂しかった。こんどは、誰かと二人で・・・・



2019年1月14日 (月)

「『駕立場』の絵はがき、なんか変?」~解決編

Img_20181207_0001_2

昨年、12月8日「『駕立場』の絵はがき、なんか変」ということで書きました。

12月8日のブログは→こちらをクリック 

要約すれば、昔は「温泉(うんぜん)」という表記が多く使われていたのですが、昭和9年に国立公園になったおり「雲仙(うんぜん)」が使われるようになりました。

「長崎新聞」は明治22年「長崎新報」として創刊、その後名前を変えますが、「長崎新聞」の名前を使ったのが昭和20年。ここのところ、長崎新聞のホームページは簡略化して書いてありますが、Wikipediaが詳しいので、→こちらをクリック

上の絵はがきでは 赤丸印の旗、右側に「長崎新聞主催」、上の方には、「温泉(うんぜん)」の字が読み取れます多分「温泉(うんぜん)嶽」だと思われます。下の方には「登山會」。

で、ここで疑問が出てきたわけで、文字使いに慎重な新聞社なら、年代を考えると「温泉」ではなく、当然「雲仙」(「長崎新聞」を名乗った昭和20年には、「雲仙」と表記されたわけですから)を使わなければいけないわけで、なぜ?「温泉」を使ったのか、と悩んだのですが、ここで下のようなコメントをいただきました。

この絵葉書は、なかなか貴重だと思います。この絵葉書は、明治42年に長崎新聞社が雲仙登山をした際の風景と思います。長崎新聞社は、この時の登山の様子を『温泉小浜案内記 : 登山紀念』という本にまとめています。
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001602655-00
その際の写真があったとは、オドロキです!

ということで、下にURLが書いてあったのでクリックしてみたら「国立国会図書館サーチ」のページでそこから、「温泉小浜案内記・登山紀念」をプリントアウトして読んだら、小浜、雲仙までの交通案内、観光案内が書いてあり、当時の様子が良く分かります。

ほかに、旅館案内、その他商店の案内が書いてあり、日本語、英語、ロシア語と3部に分かれてありました。多分、別々の本だと思いますが、実物が見られないので定かではありません。

ところで、本を見ていると、一番上の絵ハガキと同じ写真があり、他にも数枚、他の絵はがきで見た写真があるので、多分、長崎新聞から絵はがきとして出したものと思います。

Img_20190112_0005

さて、この案内書、後ろの奥付を見ると初版が「明治42年」ということは、長崎新聞はこの頃、明治22年に「長崎新報」、明治43年に「長崎日日新報社」、明治44年に「長崎日日新聞」と改題しています。なお、案内書の中にはちゃんと「長崎新聞」の名前の宣伝が入っています。

ヒョッとしたら、一時的に名前を変えたかな、とは思ったのですが、その記録はまったくありません。

結局、悩んだ末、聞いた方が早いなと。長崎新聞社に電話したら、カワユイ女の子が(声は、顔は分かりませんが)出て、昔の話なので、分からないのか、2回ほど話して結局「総務課」に繋ぎます。だと。結局3回同じ話をすることになりましたが・・・


Img_20190112_0001_2

担当者も詳しく分からないのか調べてみますということで、しばらくして返事の電話があり、「長崎新聞は明治38年1月から昭和10年8月までありましたが、本社とは関係の無い会社です」と言うことでした。

私は猜疑心が強く、ねちっこい性格なので確認はできないかと思っていたら、ふと「長崎事典」を思い出し、「歴史編」を調べたら以下のように書いてありました。

長崎新聞(ながさきしんぶん)

明治38年(1905)1月18日創刊。中川観秀、中川平兵衛、岩永八之丞、前田多三郎ら。現長崎新聞とは関係ない。憲政同志会系。昭和10年(1935)廃刊。

ということで、現長崎新聞社総務課の方の話と同じで、この案内書が明治42年発行ですから、この頃は「雲仙」は「温泉」と言っていたので、旗に書いてある「長崎新聞主催」「温泉」というのは、至極当たり前の事だと言うことで、一件落着。

と思っていたら、もう一つ「長崎新聞」というのがあり、下記の通りです。

長崎新聞(ながさきしんぶん)
明治6年(1873)1月、本木昌造が松田源五郎、西道仙、池原日南などの学識経験者を同士として発行。・・・同年11月廃刊。次に本木昌造と交友の厚かった本田実が明治8年(1875)に同題号で復刊した。・・・明治9年(1876)1月、「西海新聞」に改題した。

ということで、「長崎新聞」という題字は、明治6年の本木昌造発行、明治38年の憲政同志会系の長崎新聞、現長崎新聞と3回、別々の関係ない会社で発行されたという事です。

これにて、一件落着。です。

なお、本のコピーは「国立国会図書館デジタルコレクション」から。
また、情報をいただきました、「
 ncc1701b」さんには感謝です。ありがとうございました。


より以前の記事一覧

フォト
2020年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ