旅行・地域

2020年7月 4日 (土)

二つの「千々石橋」~雲仙市千々石町

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某日、下の白黒の葉書を手に入れ、私、地場産ではないため、千々石生まれ、千々石育ちの、昔美人だったと思われる方に「これ、千々石橋?」と聞いたら「千々石橋は国道にある方でしょう」とのご返事。

上の写真、向こう側が国道にある橋。昔、雲仙鉄道が走っていた所です。手前の橋は、島原街道の道で、島原から田代原を通り千々石を通り森山町唐比に到る街道にかかっています。


一応、橋の名前を見てみると、上の国道の橋、「千々石橋」「竣工 昭和29年7月」。


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島原街道に架かる橋「千々石橋」「竣工 平成7年7月」。

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ということで、おかしいじゃありませんか。同じ町内に同じ橋の名前。

困るでしょう、「千々石橋の所で待っているよ」と約束をし、彼女が国道の橋、彼氏が旧街道の橋。すれ違いで「君の名は」(古いな~)の悲劇になるじゃないですか。もっとも、今は携帯があるので大丈夫でしょうが。私も、若いときに携帯があったら、もっと違う人生になっていたかなと、橋のたもとで思いました。

ということで、少し調べました。


下の左の写真は千々石町の”老人クラブ連合会”で作った「千々石町 懐かしいふるさと写真集」(平成4年刊)。説明には「大正12年 千々石橋渡り初め式(先頭は椿山家)」となっています。現在の橋は右の写真になり、架け替えたことは一目瞭然。


で、「千々石町郷土誌」(平成10年刊)によれば、「千々石橋」と「新千々石橋」の記載があり・・・


「千々石橋」、架設年月が昭和29年1月。即ち、国道に架かっている橋。

「新千々石橋」同じく平成7年8月(ママ)。街道に架かる橋。(多分、橋に書いてある7月が正解なのではないかと思うのですが・・・)。これでなんとなく納得?。

当然、「新千々石橋」が先に架かっているので「千々石橋」。国道筋が新しいので「新千々石橋」ではないかと思うのですが、理由は分かりません。


下の地図は「明治33年測図及び則図の縮尺昭和17年第2回修正則図及び及び修正則図の縮図同25年応急修正」です。

千々石橋あたりを拡大しました。


千々石町郷土誌には「大正12年温泉軽便鉄道(千々石~愛野)開通」。「大正15年 小浜鉄道(千々石~北村)開通」(ここら辺、多少の疑問あり)。となっており、温泉軽便鉄道の千々石駅は国道の「千々石橋」の愛野寄りにあり、小浜鉄道が着工されるまでは、国道の鉄橋はありません。

国道は雲仙鉄道(昭和8年温泉軽便鉄道と小浜鉄道が合併)が廃止されたのが昭和13年ですから、この後、鉄路が道路になり、鉄橋が橋になったのではないかと思われます。


地図の赤丸、上が国道の「千々石橋」。下の赤丸が街道の「千々石橋」。茶色の矢印が「国道」。緑の道路は片側が実線、片側が点線なので、「道幅2米以上の町村道」ですから昭和25年頃には、国道と町村道が混在していたことが分かります。 


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左が大正12年の橋の渡り初め。右が現在の橋。作り替えたのが分かります。

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下の絵葉書は時代が分かりませんが、裏をみたら英語で走り書きがありました。

この風景、千々石橋の近くにしかありません。大正12年の橋とは違うことが分かります。特に橋脚の所、木で作ったものだと思われます。上の方は木製なのか、土を固めたものかは分かりません。


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下は旧家から出てきた絵葉書で、年賀葉書に使っていて「明治41年1月1日」の日付があります。「千々石川畔ノ松並木」とありますから、この風景、千々石橋の近くだと思われます。

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現在の千々石川、橋の上から撮りましたが、松の様子など見ると、今も同じですね。

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明治42年の絵葉書、赤丸の所、何やら橋みたいなので拡大してみました。赤丸の所なんとなく、橋脚みたいな感じです。

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さて、問題なのがこの「千々石橋」という名称。

明治12年の「千々石村村史」には、「中島橋」「上町橋」「金谷下ノ橋」「同上ノ橋」「大門橋」との記載があり、後者の4つの橋は全然該当地区でなく、ただ、「中島橋」に「木造三等道ニ属ス 村ノ西北千々石川ノ下流二架ス 長九間幅壱丈水ノ深四尺海潮橋下に到ル」との記載があり、また、「千々石史談第三号」に郷土史家関良孝氏の書かれたものには、明治12年の千々石村村史を引用しながら「中島橋(千々石橋のこと・・・」との記載があり、「中島橋」が「千々石橋」であったかと思われます。なお、この橋は海からそう遠くないところにあり、「・・海潮橋下二到ル」とはピッタリします。


なお、「中島橋」の名称については、この川は「中島」という地区も通っており、「中島橋」というのも、うなずけるところです。

ということで、この橋は架け替えがあるとはいえ、明治12年には存在していたことが分かります。

「島原藩主 長崎監視の道」(島原殿さん道の会刊)に「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房を召して『長崎の事務を監察せよ』と命じました。忠房は参観の前後、長崎を巡視して直接その詳細を将軍に報告していました。」と書いてあり、この本の地図を見れば、松平忠房公はこの道を通っていたと思われます。

お殿様を駕籠から下ろし、川を渡らせるとは考えにくく、多分、江戸時代から橋があったのではないかと想像するのですが・・・

今日は多少お疲れ気味で、乱文でしたm(_ _)m。



2020年6月24日 (水)

6月23日「唐比ハス園」再訪~諫早市森山町唐比

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6月11日に土砂降りの中の「唐比ハス園」の状況を書きました。で、その後21日の日曜日に行ってみたら、天気もまあまあだったせいか、駐車場が満車、人が多く”三密”の状態だったので、昨日、平日に行きましたが、それでもかなりの人出。

ハスの花は立派に咲いていました。


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とは言っても、種類によっては右の写真のように、咲いていないところもあり。反抗しているのかな?

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左は地元”ひまわりTV”さん。取材中。右はスイレンを撮っている人。良いカメラですね。

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負けずに私も撮りましたが。なにせ、向こうは数十万、私のは現品処分品の1万円のデジカメ。かないはしませんが、しばしお楽しみを。

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スイレンの数は少ないとはいえ、楚々とした良い花ですね。

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今年の”唐比蓮祭り”はコロナの影響で中止になりました。なんとなく寂しい幟旗。

右は久しぶりに見ました。ミズスマシ。近くでは、おばちゃま方が「あ!オタマジャクシよ見て!」なんてはしゃいでいました。いま、メダカもオタマジャクシもミズスマシも近くで見る機会はないんですね。


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帰りがけ、「唐比温泉センター」に寄って見たら、取り壊しがほとんど終わっていました。ここ、雲仙を眺め、なかなか良いところなんですが・・・右の写真、左に台地みたいな所がありますが、断層です。この下を、温泉鉄道が通っていました。

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今度の土、日曜日は天気が良ければ、沢山の人が見に来るかと思いますが、多分、車は駐車場には停めきれないと思います。唐比は道がグルッと回っているので、ハス公園の反対側に少しは停められます。ここから、ハス公園までは歩いて5~10分程度なので、こちらに停めた方が良いかと・・・写真の広い所はバスの停留所なので、くれぐれも停めないように。

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2020年6月11日 (木)

6月11日「唐比湿地公園(唐比ハス園)」状況&「上井牟田ため池のオブジェ(諌早市森山町)」

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唐比ハス園。一ト月前に訪れたときは、ハスの葉の数も少なく、小さいので、暖冬異変のせいかなと思っていたのですが、先の日曜にいってみたら左の写真のように葉が大きくなり、花もボチボチ咲いていました。この日は、コロナの緊急事態宣言も緩んだせいか、結構な見物人。

今日、もう少し花が咲いてないか、大雨の中出かけました(バカですね)。ところが、右の写真の如くハス園は水没していました。


川沿いは歩けるので、いってみたら結構花も咲きかかり、ツボミが随分あがっていました。この分では、来週くらいは沢山咲いてくれるのかな?

ですが、向こうの方を見ると、なんとなく花が見えない。今日は雨風が強く、ハスの花は雨風に弱いので散ったのか、ハスの種類によっては咲く時期が少しズレることもあるので、そのせいか?向こうまではいけないので、ハッキリしたことは言えませんが・・・

と言うことで、今月の下旬頃からが見頃かなという感じ。


ハス祭りが7月上旬に開催されるのですが、今年はコロナの影響で中止かな?と思って調べたら、諌早市のホームページに「7月上旬に開催を予定していた『第17回唐比ハス祭り』および『唐比ふれあい魚釣り大会』は新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、開催を中止することといたしました。」ということだそうで、残念なことでした。


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アジサイは本数が少ないとはいえ、しっかり咲いていました。

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話変わって、時々、登板していただく「諌早市森山町上井牟田」の「ため池のオブジェ(正式名称が無いようなので、私が勝手に付けた名前です)」。

その時期に話題のものを、ため池の真ん中の台に作っています。今回は多分コロナに関したものを作っているかな?ヒョッとしたら「アマビエ様」でないかと思っていたら、なんと「看護師」さんでした。


いま、医療関係の方が献身的にコロナと取り組み、それを応援する方が増えています。このような応援をみると嬉しいですね。国道から入ったところで、多少分かりにくいところですが、時間があったら、ご覧のほどを。


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2020年5月24日 (日)

「ネガからポジへ」~NEGAVIEW PROを使って見たら(小浜風景)

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今はデジタルで写真を撮るのでフィルムはいりませんが、昔は白黒写真の場合、フィルムを使い写真を撮り、ネガフィルムを印画紙に焼き付け、白黒反転させていました(カラーの場合は同じ手順のネガフイルム、そのまま色がでるリバーサルフイルムもあり)。

で、この度、雲仙・小浜の写真を数点手に入れましたが、これがガラスの乾式フィルム。ネガ・ポジを反転させる機器は持っているのですが、これ、35㎜フィルムしか使えず、私の入手したものは12㎝✕16㎝で、とうてい利用できません。


昔は卒業式の記念写真など撮るとき、カメラの大きな箱に黒布を被せ、乾板をセットして、「はい~、レンズの所から鳩が出ますよ、1,2,3」とやっていました。この頃は、「ピース」などの言葉はありません。


写真屋さんに持っていったのですが、今は昔の現像機が無いとかで、スキャンしたり、LEDビューアーを使いカメラで撮ったりしましたが面倒くさいので、何か無いかと探していたらYouTubeに、簡単にネガからポジへ変換できる「NEGAVIEW PRO」(カラーのネガでも利用できます)というAPPの紹介があって、便利そうなのでAPPストアーで、400円弱であったので入手しました。


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使い方は簡単で、ビュアーもしくはタブレットを利用して、画面を消し光度を最高に上げ、その上にネガをのせアプリを起動させ、スマホで撮ります。画面の調整もできます。

左がネガ、右がポジに直したところ。昔、フィルムで撮った写真、家に写真のネガが残ってい
ると、ちょっとチェックするのに便利です。パソコンに取り込めるので、データにすると永久保存版ができます。

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入手した写真板を3枚ほどポジ写真に直してみました。

一番上の写真、小浜の海岸の埋め立てです。小浜の湯元、本多西男氏が小浜の発展のため、自費を投じ明治28年に埋め立てを始めています。明治44年に埋立て五千坪が竣工(小浜町史談より)。


上の写真、向こう側が完成しているようなので、明治40年頃かなとは思いますが・・・


下の写真は堤防の所だと思いますが、旅館などの所はかなり整備されています。


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同じく堤防の所ですが、沖の大きな船、茂木から小浜へ通う客船ですね。多分。

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あと十数枚残っているのですが、場所が特定できないので、そのうち調べに行こうかと思っていますが、小浜は近年も埋め立てがされており、なかなか難しいですね。

なお、写真板は保管が悪かったのか、ごらんの通りカビがはえたり、幕面が裂けたりで保管が大変です。


2020年4月15日 (水)

「四面宮ものがたり」

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昨日の長崎新聞。「『四面宮ものがたり』知って」と書いてあり、四面宮といえば、地元の温泉神社の事で、昔の人は今でも「おしめんさん」などと言っている方もいます。ということで、さっそく神社へ行っていただいてきました。

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パンフレットを作った理由として、四面宮の歴史などを紹介し、島原半島や諌早市の地域活性化などにつなげようと、県神社庁が作成をし「(各地の)神社のルーツを知り、郷土愛を育むことにつながれば」ということもあるようです。

なお、最近参拝者の減少、後継者不足の課題もあるということで、観光協会などと連携をし、「御朱印ツアーや島原半島の観光名所を絡めた神社巡りツアーを形にできれば。目指すところは一つのブーム化。神社へ来る人を増やし、地域振興や交流人口の増加を図る上で、パンフレットを最初の一手にしたい」ということだそうです。


「ツアー」「ブーム」「地域振興」「交流人口の増加」などという言葉を聞けば、なんとなく観光名所を売り込むような感じ。「神社」の本質はどうしたのさ?という感じでですが・・・

私、ウォーキングの時、良く神社にお参りをしていますが、心静かにお参りをしているとき、ツアーのお客さんがドットきて「わ~すごいパワースポット」「心が洗われるわ~」「宝くじに当たるようにお参りしよう~」とか横でペチャクチャ騒がれる、とですね・・・


とはいっても、パンフレットを読むと実に分かりやすく紹介してあります。雲仙が山岳信仰で栄えたこと、中国に修行に渡るとき雲仙岳が「日本山」と呼ばれたこと、四面宮の誕生についてなど書かれてあります。


「四面宮ものがたり」が手に入らない方は、「shimengu-jinja.jp」で、あちらこちらをクリックすると、パンフレットがそのまま載っています→こちらをクリック


さて、ひとつ気にかかるのが、「四面信仰は島原半島を中心に広がっていきます。四面宮は、諌早市、雲仙市、島原市、南島原市、そして佐賀県にも次々に建立されていきました」というところで、四面宮は最初、島原半島の現南島原市の有家町、雲仙市の千々石町、吾妻町、諌早市に建立されました。


「大宝元年(701)には温泉神の分身末社として、山田神(吾妻町)、有江神(有家町)、千々石神(千々石町)、伊佐早神(諌早市)に勧請されたという。」(島原半島の歴史★松尾卓治監修)。


「『史籍集覧』『歴代鎮西要略』によれば大宝元年、(701)温泉山、温泉神社の分身末社として千々石、伊佐早(諌早)、山田、有江(有家)の神、四ヵ所勧請とある。」(有家町郷土誌)


とあり、「四面宮縁起」には「一宮東方・・・・二宮南方・・・・三宮西方・・・・四宮者(注:読みは「は」)北方」と言うように、雲仙の四面宮を中心に四つの末社があったことが分かります。「諌早市史」には「・・・・一の宮は千々石、二の宮は山田、三の宮は諌早、四の宮は有家であり、その神殿の方向は正しく各社共にその通りである」との記述があります。


ということで、「四面宮」の最初の四つの神社の場所を明記してほしかったと思います。


さて、神仏分離の関係で「四面宮」が「筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)」に変更されたのが明治三年。島原藩主の業績、出来事を書いた「深溝世紀」には次のように書いてあります。


明治三年の部分。「十四日、神佛の混淆するを判ちてこの号を改む。温泉山四面宮は、筑紫国魂神社と曰い、五社神明宮は、延宝神社と曰い、祇園牛頭天王は八雲神社と曰い、山王社は日枝神社と曰い・・・」というように各神社の名前もかなり変えられており、神社の本来の事を知りたいのなら、昔の名前を調べることが必要になります。


千々石の「温泉神社」の場合には、以前にも紹介しましたが、明治八年の「神社明細調帳」には「・・・本称四面宮祭木仏明治二己巳年旧島原藩除木仏改社号祭日九月十九日」とあり、現在の「温泉神社」は「四面宮」といい、神社に「木仏」が祭ってあり、「神社」に「仏」ですから、神仏混交の神社であったことが分かります。明治二年に仏様が除かれ社号が変えられています。

さて、谷文晁の「日本名山圖」をみていたら「雲仙岳」と書いてありました。この頃は普通「温泉(うんぜん)嶽」と呼んでいたのですが、谷文晁さん「うんぜん」と聞いたので「温泉」と書かずに「雲仙」と書いたのかな?

「雲仙」「温泉」については、以前「温泉(うんぜん)から雲仙へ」で書いたので興味ある方は読んで下さい→こちらをクリック



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2020年3月31日 (火)

2020「~;青い目の人形~リトルメリーと仲間たち”~『日米親善人形交流と島原展』~」&島原城内の2,3の事

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相変わらずの「リトルメリー」ちゃん。

毎年、ぶらっと行っているのですが、昨年は体調を崩し行くことができませんでした。今年は、病院に行く用もあり、寄ってみました。

この催し物の意義については以前にも書いているので→こちらをクリック

Wikipediaにも詳しく載っているので→こちらをクリック

入って見ると島原での”青い目の人形の歓迎会の様子”、各町村の学校での奇跡的に残された歓迎会の写真。これを見ると、いかに暖かい歓迎を受けたのかが分かります。

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「青い目の人形」の本、記録など増えました。

今年はコロナウィルスの影響で”春うらら茶会”、青い目の人形に関する市民講座が中止になりましたが、紙芝居上演は29日の日曜日実施されたみたいです。


今年で17回を迎えたという事で、「自国第一主義」が流行っている現在、平和を願う人形を通しての交流があったこは、粘り強く伝えていってもらいたいと思います。


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会場の前に見慣れないバスがあったのですが「しまばらん」という島原巡回バス。となりに普通バスがあり、運行しているのかと思ったら”Bus cafe”。後ろのキャラクターは島原の”しまばらん”。かな?

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車内ですが、こんな感じ。お客さんもウェイトレスさんもいません。多分、隣の売店、食堂の方に言えばコーヒーなど淹れはくれるのでしょうが・・・車内には古い写真が展示されていましたが、これ、説明が欲しいナ。

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帰りがけ見たら、キャンピングカーが停まっていて”島原城キャンピングカー お泊まり体験”と書いてあり、雨が降っていたので車内で写真を撮って、詳しくは見ませんでしたが、どうも、ここでキャンピングカーにお泊まりができるようでした。

”謎解きゲームに参加せよ”は島原城を中心にしたゲームかな?

とはいえ、コロナの出口が見えなく、観光客が少なくなった今日、人を寄せるは大変だと思いますが頑張って欲しいと思います。

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2020年3月 7日 (土)

雲仙市小浜町にあった「肥前温泉災記」について

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3月1日まで、南島原市と西南学院大学博物館連携特別展が開催されたときのチラシです。

寛永14年(1637)の島原一揆、寛政4年(1792)眉山が崩壊し津波が起こった島原大変の貴重な資料が展示され、また、この一揆、災害に伴う慰霊碑が各所に建てられていますが、その拓本も展示されていました。


今日は、このチラシに使われた絵についてです。


この絵は「肥前温泉災記」に載っている絵です。下の絵がチラシに使われているのが分かると思います。実はこの絵は色がついているのですが・・・


チラシには「『肥前温泉災記』肥前島原松平文庫蔵」となっていますが、この資料、実は小浜町(現雲仙市小浜町)にあった古文書です。これが、島原の松平文庫に所蔵された経過がほとんど知られていないので、一応記録にしておきます。


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この経過については、右の小冊子「肥前温泉災記の解説」に書かれています。なお。この小冊子には左の「肥前温泉災記」の読み下し文も付いていています。書いたのは、元小浜教育長(町村合併のため、小浜町最後の教育長になります)のT氏。

詳しく書けば長くなるので、概略を書いてみます。氏名はイニシャルのみにしてます。


T氏(以下T氏と標記)が教育長の昭和50年代後半、町内のKという食堂の経営者A氏がT氏を訪れ「肥前温泉災記」を持ってこられたそうです。T氏は小浜町の文化財だから大切にするようにと、一部コピーをされそうです(多分この頃、カラーコピーが役場に無かったのか、白黒のコピーです)。


その後、平成3年、雲仙の普賢岳に噴煙が上った頃、島原市長の代理として、島原市教育委員会社会教育係長K氏がA氏宅を訪れ、「お宅に保存されている『肥前温泉災記』は、島原市にとって重要な文化財です。是非、譲って下さいませんか」と言うことで、A氏が無償で提供されたそうです。


T氏は話を聞いて「私は『しまった。』と悔しがりました。私はA氏家の家宝として手放されないと思ったので当てがはずれてしまいました。」と書かれています。


その後、A氏の所には、当時の島原市長鐘ヶ江管一氏の感謝状と記念品が贈られたそうです。
というような経過で、現在は島原図書館の二階にある松平文庫に所蔵されています。

なお「肥前温泉災記」の最後には次のように書かれています。

天保庚子(注:天保11年・1840)年春日借覧大原氏所蔵之書
謄写 三月四十五校原本謬誤多矣他日得善本校正 濱貞彛(?)
絵図 勝之助写

となっているので、この他に「善本」が別にあることが分かります。

なお、絵図の「勝之助」については、T氏が調べられたらしく「尾崎勝之助 千八百五年~定江戸詰 十三石二人扶持」と書かれています。

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T氏は十年過ぎてから、松平文庫を訪れ「肥前温泉災記」を手に取ってみられたそうです。難しくて読めなかったそうですが、瑞穂町の郷土史家T先生を訪れた時、辞書などを紹介され、それから2年をかけ、右の「肥前温泉災記の解説」を書かれたそうです。読んでみて、大変な仕事だったことが分かります。

島原市がこの本の存在をどうして知ったのかは不明ですが、この古文書が残っていれば、雲仙市の貴重な資料になっていだろうと思えば残念な事です。



2020年2月 8日 (土)

「天守閣はありません」~KTN・【ローマへ渡った天正少年~千々石ミゲルの選んだ道】

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1月2日、KTN(テレビ長崎)で天正少年遺欧使節を扱った放映がありました。特に「千々石ミゲル」に焦点をあて「ローマへ渡った天正少年~千々石ミゲルの選んだ道」という番組でした。

多分、昨年「千々石ミゲルの墓所」とみられる土地が発掘調査をされ、遺物、骨などが見つかり、新聞、テレビなどで大きく紹介をされたからだと思われます。千々石町の隣町の方が、千々石ミゲルなんて知らない、といわれる現在、このような形で放映されたことは、喜ばしい事でした。また、内容も分かりやすく、天正少年遺欧使節の入門とも言えるものでした。

ただですね、上の映像が流れたとき、二人の女性が次のように話をしていました。

「着いた、ここが釜蓋城(かまぶたじょう)だ」
「ここで千々石ミゲルが生まれたのか」
「城って聞いたから立派な建物かと想像していたけれど、残っているのは、これだけなんだ」
「うん、これは、今、復元して展望台になっているんだけど、この釜蓋城は建てられてから8年で落城したんだって」

この釜蓋城、天守閣があるような城ではありません。あの時代、天守閣を持った城といえば、島原半島では日野江城、原城くらいでしょう。島原城はまだ後世の城です。

釜蓋城といっても、当時としては山城だったと思われます。

長崎県で城郭調査をしましたが、この釜蓋城は上の方がグラウンドになっていたためか、調査がされませんでした。調査があれば、どのような規模のものか分かったと思いますが、残念な所でした。

さて、二人の会話の中で「復元して展望台になっているんだけど」のセリフがありますが、「復元」とは「もとにかえすこと。元の位置・形態に戻すこと。」(広辞苑)であり、もともと無かったものを復元できるわけはありません。

KTNが何を根拠に台本を書いたのか分かりませんが、テレビ放送で多くの人が見ているので、ここに天守閣を持った城があったと誤解される恐れがあり、もっと調べて欲しかったと残念な思いでした。

もっとも、天守閣を模した展望台はグラウンドができたとき建てられたものですが、この様なところに「天守閣」とおぼしき展望台を建てたのが、問題なのですが・・・

皆様も釜蓋城に天守閣があったとは思われないように。



2020年2月 4日 (火)

「大日本長崎道之尾私立大遊園」はあったのか?なかったのか?

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              (写真はクリックすると拡大します。多分。)

左は「大日本長崎道之尾私立大遊園」の絵図。右は絵図に付いていた「一大遊園設立に就き御披露(以下「御披露」と略)」の小冊子とそれを入れた袋。

「御披露」には、造営の目的などが書いてあり・・・旧漢字ですが新漢字で書きます。


・・・今より八九年前日本軍艦軍人数百名運動の為弊舎へ御来臨の折珍しき好地なれど惜しい哉庭園の場所狭しと仰せ聞けら候が某(それがし)に取って発念の初機にて熟々愚行致候・・・・」てなことで一念発起、庭園を造ろう、ということになるらしいのですが・・・


後ろに「施設遊園 萬象園約款」というのがあり、12条から成り立っていますが・・


第一条 長崎県西彼杵郡長與村(注:長与村)字道ノ尾施設遊園ヲ完全二成就シ及ビ維持スルノ補助トシテ義援金ヲ募集シ其ノ義捐ヲ為シタル紳士ヲ本園ノ会員ト為シ優遇スルモノトスル。


文面からすると、公園を完成するために義捐金を集め、賛同する方は会員として優遇するという事になります。なお、後の条項も読むと会員に対する優遇措置について書いてあります。


さて、この遊園については平成6年3月31日発行の「長与町郷土誌 上巻」に「かっての名勝地『道の尾公園と温泉旅館、萬象園』」という事で載せてあり、要点だけ書くと


「道の尾温泉前」停留所すぐ近くの道の尾温泉浴場から「東側のま近なところに小高い丘があるが、ここがかっての『道の尾公園』と呼ばれ一般に親しまれたところである。また、そのふもとに「萬象園」という立派な庭園を備えた料亭兼温泉旅館があった。」


萬象園を建てたのは「吉田吉平」氏。吉田氏は古くから語り継がれた温泉鉱泉を探し求め、明治初年に発見。翌2年に「萬象園」を創業したそうです。


これが有名になり、訪れる客が相次いだそうですが、道幅も狭いため、個人出費で腰弁当で道路の拡張に采配をふるったそうです。吉田氏はアイディアマンで、庭園畳20枚ほどの”日本地図”を作り、鉄道の小旗を立て、模型の汽車を作らせ、これが好評で大繁盛。明治時代という事を考えれば、うなずけるところです。なお、ロシア入港のロシア人将校の姿も見られたそうです。


「御披露」に書いてある「日本軍艦軍人数百名」と書いてあるのはこの頃だと推察されますが、「御披露」に書いてあるように「場所が狭い」といわれたので、と思われますが、「明治23年頃から『道の尾公園』の造成に着手」です。「披露」の発行が明治25年12月になっているので、途中から義捐金を募ったことが分かります。


5年後に完成し、にぎわったそうですが、公園の広さが約三万平方メートル、東京ドームの建築面積が46,755㎡、グラウンドが13,000㎡という事を考えると、明治時代、個人が作った遊園だったことを考えると、いかに広かったが分かります。


ただ、第2次大戦中、萬象園は三菱の寮となり、戦後、公園も荒れ旅館も廃業。公園跡には忠霊碑、温泉碑などが淋しく残っているそうです。


吉田氏が見つけた鉱泉は、この地に温泉浴場があり利用されているそうです。


なお、「ながよふるさとカルタ」に「道ノ尾の 温泉王は 吉兵衛さん」というのがあり、説明に・・・


今から百年以上も昔の明治二年、道ノ尾に吉田吉平という人がいて、この人が温泉を掘り当てました。何年かすると、鉄道が通るようになり、道ノ尾にも駅ができました。でも、まだ思うようにお客さんが集まりません。なぜなら、駅から温泉まで八百メートルもあり、馬車などが通るような道が出来ていなかったからです。そこで、吉平さんは、お金をだして道路を造りました。そして、道の王様と呼ばれるようになりました。


さて、本当に上のような壮大な遊園があったのかどうかは疑問ですが、鉱泉を掘り当て、広い敷地に遊園を作った男がいたことは事実でしょう。写真を探しましたが、残念ながらでした。体調が良ければ行ってはみたいのですが・・・


以下、余談ですが、この図が長崎市立図書館にあるそうです。フェースブックに「微かに明治14年と読めます」と書いてありますが、正確には「明治廿四年十月十六日印刷」が正解です。


また、某ブログに、雲仙を描いた吉田初三郎とくらべ、「『大日本長崎道之尾私立大遊園』図がいかに稚拙でかつ誇大な妄想図であるかが分かります」と書いてありますが、上に書いたことを考えれば一概に「稚拙」で「誇大」で「妄想図」でないことが分かります。多分、調べずに書いたのでしょうが、ネットではこのような無責任な記事が多く、困ります。「ネットの情報要注意」ですネ。自分でちゃんと調べて裏付けを取りましょう。


(参考:「大日本長崎道之尾私立大遊園」「一大遊園設立に就き御披露」「長与郷土史 上巻」「長与町ホームページ:ながよふるさと『かるた』」)





2019年12月23日 (月)

上塩浜「クリスマス・イルミネーション」~雲仙市千々石町上塩浜自治会の皆さん

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毎年、私たちの目を楽しませてくれる「上塩浜のクリスマス・イルミネーション」です。電気の光では無く、ローソクの炎の灯りですから暖かみが違います。なんとなく、ホットする灯りです。とはいえ、このローソク全部に火を付けていくのは大変です。

多分、昨日がオープニングだったのでしょうが、あいにくの風と雨。で、今日通りかかったら準備をしているらしく、夜に出かけたら見事に出来上がっていました。イルミネーションは明日までだそうですから、通りかかられた方はご観覧を。


いつものゆきだるまさん、1年間どこに隠れていたのでしょう。


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こちらは今年のアイデア賞で、だるまさんの横の光のツリーとか、欄干に飾ってありましたが、ビールのジョッキーとか、ビールのピッチャーとか、コップとか、海苔のビンとかに絵を描き、ローソクの炎に照らしだされ特にきれいでした。ビールのジョッキが多いのでビックリしましたが、話を聞いたら料理屋さんの食器の入れ替えで、不要になったものを貰ってきたそうです。

右の写真は教会などのステンドガラスをイメージしたものとか。

 
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干の上の飾られたもの。これ、ロマンティクな絵が描かれていました。右は多分、子どもたちが描いたものかな?

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クリスマス以外にも、こどもの日、七夕の時にも川沿いに飾り付けをし楽しませてくれます。人の手もいり大変だと思いますが、上塩浜自治会の団結力を感じます。

「自治会不要論」もありますが、隣の人とも付き合いが薄くなってきた現代、このようなイベントを通じながら、人が集まり地域を作りあげていくことが必要だと思いました。



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