旅行・地域

2021年8月28日 (土)

橘神社の絵葉書~戦前の千々石最後の絵葉書?

Img_0004 Img_0005_20210825202101

上の絵葉書は橘神社です。基本、今と同じ姿です。裏側の消印に「17.8.24」とあるので昭和17年8月2日に出された葉書です。なお、書面中「大東亜戦争は皇国の連続勝星・・・」と書いてあり、時代を感じさせます。

前にも書いたとおり絵葉書を集めていますが、島原半島で一番多いのが雲仙、次が小浜、次いで千々石と島原が同じくらい。ところが、橘神社が名所にもかかわらず、現在、これ一枚しか見つけられませんでした。


千々石には”千々石ホテル”という外人向けのホテルもありました。千々石に泊まり海岸で遊ぶ、千々石を拠点として小浜、雲仙に行ったようです。


絵葉書は訪れた所の記念として買っていきます。現在はスマホ、デジカメがあるので観光地の絵葉書はほとんど見受けられません。千々石の絵葉書は、ある時期から見受けられないようになったようです。これは、多分、雲仙鉄道と関係があるように思われます。


左は千々石の絵葉書で一番古い物。明治41年に使われています。右は雲仙鉄道の線路が見えません。カラー写真ということを考えれば、戦後のものです。

Photo_20210827190801 Photo_20210827190901

雲仙、千々石、雲仙鉄道に関し簡単にまとめてみました。

■1877年(明治10) 温泉(雲仙)、このころから九州各地より外国人の避暑、登山が増え始める。(湯けむりの記憶より)

■1883年(明治16) 小地獄に雲仙初の純洋式の「下田ホテル」を建てる。(他説あり・湯けむりの記憶より)
■1893年(明治26) 茂木~小浜間、不定期に蒸気船あり(?)。(ブログ・日記のようなものです)→こちらをクリック
■1899年(明治32) 茂木~小浜間、定期路線(?)(ブログ・日記のようなものです)
■1908年(明治41) 千々石千本松原の絵葉書。(上の絵葉書)
■1909年(明治42) 「雲仙案内」に”千々石ホテル”の宣伝掲載。(雲仙お山の情報館展示場に展示)→こちらをクリック
■1911年(明治44) 温泉(雲仙)、日本初の「県立温泉公園}。(湯けむりの記憶)
 乗合自動車、小浜~雲仙。
■1912年(大正元) 小浜村有志、自動車屋開業。小浜~雲仙、愛野、諌早、口之津。(湯けむりの記憶)
■1913年(大正2) 小浜~茂木に定期連絡船就航(湯けむりの記憶)。雲仙は避暑のロシア人が多く年間700名。        自動車屋「小浜自動車株式会社」へ。他に「温泉自動車株式会社」あり。
■1916年(大正5) 千々石~温泉(雲仙)間の自動車道路完成。 
■1923年(大正12) 温泉鉄道、愛野~千々石間開通。
■1927年(昭和2) 小浜鉄道、千々石~小浜間開通。
(雲仙鉄道が写り込んだ絵葉書が数点あり。)
■1934年(昭和9) 雲仙国立公園制定。 
■1983年(昭和13)  雲仙鉄道解散。
■1942年(昭和17)  橘神社の絵葉書。(上の絵葉書)

なお、岡山俊直氏の「雲仙温泉における明治期の歴史資料の特殊性とその活用」(→こちらをクリック)の中に1889年(明治22年)の長崎から雲仙に至る交通の事が書いてあります(North China Herard紙1889年9月28日号より紹介)。それによると・・・


1)長崎から千々石まで人力車、千々石から山道で雲仙

2)長崎から網場まで人力車、網場から船で千々石、船で小浜、小浜から山道で雲仙
3)長崎から網場まで陸路、網場から船で千々石、千々石から山道で雲仙

茂木~小浜への船便は時代、船会社に違いがあるようですが、以前にも紹介しましたが、千々石にも寄っていました。手前の矢印が福石様、向こうの船が茂木~小浜を結ぶ船。


Img_20171217_0005_2

ということを考えれば、千々石が雲仙、小浜へ至るポイントになっていることが分かります。

さて、どれほど外人客が多かったかというと、前にも書きましたが「島原鉄道100年史 」によれば「当時は夏ともなると、全国各地や中国の上海から避暑にやってくる外人客が多く、英語を話せなければ駅長がつとまらなかったというわけだ。同駅には当時の名残を示すように、朽ち果てた木製の洋式トイレがいまも残っている」(注:現在はありません)。


ところが、国鉄を利用する場合、諫早駅で島原鉄道に乗り換え、愛野駅で雲仙鉄道へ乗り換え、小浜駅(肥前小濱駅)は小浜の温泉街から2㎞程度離れていて、歩くか、自動車を雇うという不便さ。昭和2年~7年まで、諌早~小浜まで直通の時期はありましたが。


バスなら長崎から直通ということもあって、温泉鉄道は昭和13年をもって廃止。


ということで、雲仙、小浜に行く場合、千々石に寄る必要も無く、そのため千々石を写した絵葉書が少なくなったのでは無いかと思うのですが。なお、大正時代の絵葉書は他にも見受けられます。


雲仙鉄道廃線後の絵葉書を探しているのですが、現在、最初の橘神社の絵葉書以外は見つかっていません。なお、橘神社は昭和15年に建立、絵葉書は昭和17年に使われているので、この絵葉書は橘神社建立直後に撮ったものと思われます。

ということで、この橘神社の絵葉書が戦前の千々石における最後の絵葉書ではないかと思われるのですが。


:「湯けむりの記憶」~西暦2000年(平成12年)記念:雲仙公園ビジタセンター運営協議会発行



2021年8月21日 (土)

原城=春城の名称について

3img Img_3355

江戸時代の街道絵図に「原城」のことを「春城」と書いてあるのを見かけます。

左は「大日本道中細見・三河屋鉄五郎版」。残念ながら年代は分かりませんが、赤の四角の所「春城」と書いてあります。

右は「大日本早引細見絵図・天保13年改版 絵圖屋庄八版」(1847年)。同じく「春城」と書いてあります。

「春城」の左側に「古城」と書いてありますが、有家町にある地区の名前です。

Im3340Img_333

まったく書いてないのもあります。左は、大日本早引道中版 天保八酉11月再版(1837年)。

右は、鳥飼市兵衛版 寛保四年大増補日本道中行程(1743年)。こちらは「古城」とありますが、有家町の古城ではなく、「原城」のことです。下の方に「ソクノ コモリタル 所(「所」はくずし字にて表記)」(賊の籠もりたる所)とあります。

以前、原城の名前は「原之城」「有馬城」「志自岐原城」「春城」「日暮城」とあり、これについて調べると書きましたが、やはり詳しくは分かりませんでした。で、一応調べた分で、今回は主に”春城”に絞ります。

⚫長崎県大百科事典には「有明海に面して東南に突き出た「ハルの島」といわれた岬を利用して築かれた平山城。(長崎新聞社発行)

⚫北肥戦誌(九州治乱記)には「抑々(そもそも)肥前國髙來島志自岐原。城主有馬越前入道随意齋仙岩と申すは・・・」。北肥戦記(別名『九州治乱記』)は、佐賀藩士馬渡俊継が正徳年間(7711~1716)に編纂。(青潮社・1995年発行)

⚫新編藩翰譜には「原の城は有馬家の旧領なりき、それへ賊徒の立て籠りしなり。但し、原の字は、はると云ふべし。西国の方言なりと云う。」。藩翰譜は新井白石が慶応5年(1600)~延宝8年(1680)の諸家337家の由来・事跡を書いた本。完成が元禄15年(1702)。
(新人物往来社・昭和52年発行)。

⚫佐野彌七左衛門覚書には「・・・原の城の名古来所の者春の城と申候へとも上使御下次原の城と何れも申候故所の者も原の城と申候事」。佐
野彌七左衛門は当時の島原領主松倉氏の家臣で、物頭を勤め、禄四百石を食む・・・(島原半島史・林銑吉著より)。

なお、本によっては、一揆以前は城の名前は無かったと書いてあるのもあります。また「勝茂公(佐賀藩主)御年譜」によれば「有馬ノ古城原ノ城へ・・・」ともあります。長崎県事典では「ハル」」と書いてありますが、出典は不明。北肥戦記には「肥前國高來島志自岐原。城主・・・」とあるので、「志自岐原城」と考えられ無いこともない。

さて、島原半島に住んでいる方はお分かりですが、当地方では「原(はら)」のことを「はる」と発音するところもあります。「原」が一番最後につく時は「ばる」とも発音します「弘法原(こうぼうばる)」。「原」一字の小字がありますが、これは「はる」。千々石に「古賀原(こがばる)」がありますが、通称「原(はる)」。全部が「はる」ではなく、「はら」と読むのもあります、同じ小字でも「赤原(あかばる)」「塚原(つかはら)」。

ですから、藩翰譜には「西国の方言なり」とはありますが、一概に言えないのではないかと・・・PCで「はる」と打ち込んでも「原」ともでます。

神田千里氏の「島原の乱」には、「原城はもともと『はるのしろ』と呼ばれていたものが、島原の乱のために幕府の鎮圧軍がやってきた後、『はらのしろ』と呼ぶようになったと伝えてられる(『佐野弥七左衛門覚書』)」とあります。上に引用した内容と大体同じです。

佐野彌七左衛門は島原天草一揆に実際に参加をしているので、これが一番正確なのではないかと思います。


地図を見て、面白い事に原城の本城の「日野江城」がありません。


地図は乱後100年のものです。また、島原から遠く離れた江戸に「”春”城」ということで伝わっていたという事は、興味深いと思います。軍記物に「春城」の名称があり、それを写したものかと思い2~3冊見たのですが、ありませんでした。

下の絵、左は天草四郎の絵。書いたのは”月岡芳年、天保10年(1839)~明治25年(1892)。右は”豊原国周”、天保6年(1835)~明治37年(1900)。右上に”天草四郎時貞・尾上菊五郎”、左上に”千々輪五郎左エ門・市川團十郎”。乱後200年以上の絵になります。絵自体は、何となく奇異な感じですが、地図と同じく江戸という土地に武将、忠臣蔵かと思われる姿で描かれているのも面白いと思います。この絵は、国会図書館デジタルコレクションに所蔵されています。

Scan003_20210819201001 Photo_20210819201001

いつものごとく、まとまらない話になりましたが、他にも、原城の名前について書いてある本もあるので、又改めて分かりやすく書いてみたいと思います。


2021年8月14日 (土)

2021 橘神社「湯立祭」

0-p8100817

8月8日、橘神社で「湯立祭」が開催されました。去年に引き続きでしたが、この日は午後からの雨。雨に濡れながらの祭りでした。

ということで、当然火縄銃の演武はなかったのですが、寂しいので去年の写真を貼りました(一番上の写真です)。


本殿に向かって、神事。橘宮司さんは橘中佐のご子孫です。本物です。

1-p8081444 2-p8081424

肥前千々石鉄砲隊の皆さんですが、朝からは雨は降ってなかったので、山の中で練習をしたそうです。なにせ火縄銃なので本番では残念でした。

巫女さん、かなり若い方で、高校生かな?


3-p8081463 4-p8081475

橘神社の橘宮司さんの出番で、刀(多分、本物?)で邪気を払い(多分?)、火傷するくらいの熱湯(多分?)に手を入れ、見事、熱湯をはね上げました。

実は右の写真、私がボンヤリしていて撮り損ねたので、去年の写真デスm(_ _)m。


5-p8081484 6-p8100724

この祭、橘神社、御館山稲荷神社、小浜神社の三神社で開催しているようで、当日も3人の宮司さんが見えておられました。

そのうちの一人の宮司さんが、大釜の邪気払いのお湯を参拝者の皆さんに振りかけました。写真の白いのが、お湯です。すごい勢いでした。


7-p8081573 8-p8081590

神事が終わって、使った笹を小分けにして、”疫病退散”と書いた包みにくるんで全員に配布。私も、ありがたくいただき、玄関に飾りました。

9-081598 10-p8081615

コロナのせいであまり大々的に宣伝はしなかったのかな?とは思いますが、来年はコロナが終息して沢山の方に見ていただきたいと思います。


2021年6月27日 (日)

愛野ジャガイモ畑の「ヒマワリ」(雲仙市)&密な「唐比湿地(ハス)公園」(諌早市唐比)

Photo_20210627203501Photo_20210627203502
(写真はクリックすると拡大して見られます)

愛野のジャガイモ畑のヒマワリ。


全部ではないのですが、ジャガイモ畑の一角に、ヒマワリを植えている農家さんがあります。昨日通りかかったのですが、ヒマワリを写真で撮る方の車が沢山停めてあったので、今日、朝から寄ってみました。


ヒマワリの花は大きく、色が鮮やかで、こちらの心もなんとなく明るくなります。

ヒマワリは土地に良いとかで、終わったら畑にすき込みます。まだまだ先まで咲いているそうですから、ゆっくりご覧に来て下さい。なお、この道路は通る車が多いので、路肩に停めるときはご注意を。駐車場はありません。

ついでに、先日紹介した唐比のハス園に行ってみたら、ひどいこと。とにかく、車が半端ではなく、駐車場(といっても、狭い)は満杯、道路が一車線なので大渋滞。


以前私が紹介したように、公園の反対の道路が比較的空いて、少し歩きますが、こちらが良いとは思うのですが・・・


Photo_20210627203601 Photo_20210627212401

密ですね。はやり、来るなら平日の午前中ですね。仕事を持っている方は残念ですが。多分、お盆の少し前までは見られるとは思います。暇を見つけて、お越しのほどを。もっとも、枯れハスは枯れハスで、風情があるのですが。

Photo_20210627204301

2021年6月24日 (木)

2021「唐比湿地(ハス)公園」

P6241337

今日の長崎新聞を見ると「早咲きのハス 表情豊かに 諌早・唐比で見ごろ」と書いてあったので、出かけてみました。お近くだから。

行ってみると、おや?あまり咲いてないな、とは思いましたが、これ、品種によってまだの所、咲いているところがありました。だから「早咲きのハス」ですね


P6241204 P6241286
P6241285 P6241287

多分、新聞を読んだ方でしょうか、平日の午前中にもかかわらず、見学の方がたくさん訪れていました。

P6241316 P6241324

やはり、ハスの花は大きくて見ごたえがあります。

P6241242 P6241279

P6241282 P6241299

ですが、散るのも早い。なんとなく、世の無常を感じます。

P6241257 P6241278

花があるところ、カメラを構えた方が多いですね。非常に高価なカメラか、スマホの両極端に分かれます。私みたいな中途半端なカメラを持った方はいません。

P6241326 P6241293

右のかた、高齢者で良いカメラを持っていましたが、酸素ボンベを引いていました。お一人みたいで、大丈夫かな?

私もカメラでハスを写していたのですが、つくづく考えました。写真を撮っていると、良い写真を撮ろうと夢中になって「花は見れども、花を見ず」の状態ですね。


で、どうすれば良いかというと、メモ紙を持って、ジックリと花を見て、俳句などをひねるのが一番かと。来年のハス園の記事は写真無しで、ヘタな私の俳句でも、ズラズラと並べてみるのも一興かと・・・


P6241310 P6241333

帰りがけ「唐比温泉センター」の跡地に行ってみました。きれいに整地をしてあり、今から何が出来るんでしょう?2015年9月に閉館しましたが、こちらのこともブログに書いていました→こちらをクリック

ここって、「長崎県選定 新観光百選の地」でもあり、橘湾、雲仙が眺められ、良いところなのですが。お金を持っていれば、洒落たレストランでも作るのですがネ。


P6241343 P6241345

いつものローソン。「鬼滅の刃」で攻めていますね。「鬼滅の刃」の前は「ONE PIECE」、その前は「進撃の巨人」。で、「鬼滅の刃」の次が「呪術廻戦」ですか?

オジ(イ)チャン、残念ながら、まったく分からないようになりました。小さいときは母から「マンガばかり読まないで、勉強しなさい」って言われていたのですが・・・


P6241362 P6241364

忘れていました、「唐比ハス祭り」は今年も中止です。



2021年5月29日 (土)

「篭立場」?「駕立場」?「籠立場」?雲仙市

1_20210529202801 Img_20210529_0002

上の絵葉書は、多分、明治の終りの頃のものだと思われます。雲仙市小浜町からお山雲仙の途中の「かご立場(たてば)」です。

説明に、左は「温泉(うんぜん)山中膓籠立場」。右は「駕立塲之全景」。実はこの場所が多少問題になっておりまして・・・


下が、現在一般に「かご立場」と紹介されている場所。端の方に、雲仙までこれに乗っていった、というレプリカが置いてあります。これは「駕立場」の表示があり、下の説明版に「小浜ライオンズクラブ20周年記念事業」とあります。


実は、この場所が上の絵葉書の場所なのかの問題があり、調べて大体わかったのですが、この件はまた詳しく書きます。


2_20210529202801 3_20210529202901

上の場所のすぐ近く、バス停と道路舗装の完成記念の碑と「かご立場」の看板があります。

4_20210529202901

左が島原バスの停留所「篭立場」。右は多分その筋の方が作ったと思われる「駕立場」の看板。

Img_2839 7_20210529202901

「籠立場」「駕立場」「篭立場」と三種類の言い方がありましたが、どれが正解でしょう。

「立場(たてば)」は、街道の途中、特に坂道など難所の所で、ひと休憩する所。ですから「籠」「駕」「篭」と違いを調べればいいという事になります。


辞書とか、ネットで調べてザックリ書くと、

「籠」は、竹や藤や針金など線状の物で編んだり組んだりした器物。
「駕」は、これ一字で「かご」の読みは無く、音読みで「ガ」、呉音、漢音で「カ」。意味は、馬の首にくびきを装着する、馬を車につなぐ、またがる、のる、馬車、車に乗る、というのもあるので、何となく近いようですが、一字で「かご」はありません。
「篭」は、土を入れて運ぶもっこ。物を入れる竹製の器等々。

それでは、何が正解なのサ・・・というと、辞書には「駕籠」、「乗物の一種」。ウイキペディアにも「駕籠」とあるので、これが正解だと思われます。


いつも、お世話になっている「近世風俗志(守貞謾稿)」(江戸時代の風俗史の基本文献)にも「駕籠」として「かごと訓ず。今川貞世が鹿苑義満の厳島での記に・・・」というのもありました。


で、結局、今の「かご立場」の標記は全部間違いということになります。多分ですね。


あちらこちらに看板が立っていて、どの場所が正解かというと、地区の方に聞いたところ、ここ一帯を「かご立場」ということで、どこに立ててもウソではないと言えますネ。


ということで、一番上写真は「かご立場の茶屋」というのが正解だと思うのですが、これについては、又、後日。

今日は、急いで書いたので間違いがあると思いますが、その時はm(_ _)m、ごめんネ。



2021年5月22日 (土)

ん?心霊写真?~雲仙・普賢岳鳩穴

Img_20210522_0002_20210522200001

「チコちゃんに叱られる」。いつも見て勉強をしております。五歳児とは思えない、チコちゃんの博学には感心をしております。

今回、”なんでこの世には 人の顔が次々と現れる"という問題がありました。
説明によれば「パレイドリア」現象というのだそうです。詳しくは、自学自習で。

前にも書いたとおり、現在、雲仙市の絵葉書を集めています。雲仙の絵葉書はウンザリするほどあるのですが、チコちゃんを見ていると、一枚の絵葉書を思い出し、この中に少し気になるな部分がありました。


上の写真は雲仙岳の「鳩穴」。説明には、「長崎縣雲仙公園 普賢岳昔日噴火鳩ノ穴 海抜四千八百尺(古湯油屋商店發行)」。


雲仙岳は江戸時代、平成時代と大きな噴火、火砕流を起こしました。平成の時、鳩穴は埋まってしまったという事です。現在、登山禁止の所で解除になったところもあり、心臓病と巻き爪がなければ、登って確かめたいところなのですが・・・・


さて、今は埋まってしまった鳩穴ですが、感のいい方は分かりますね。


Img_2807 Img_2808

写真の上の方、赤の矢印。顔が見えるでしょう。写真を左に回転して拡大すると。良く分かりますね。女性の顔です。

Img_20210522_0002-2 Img_20210522_0002

上の写真では、鳩穴の姿が若干分かりにくいので、別の写真を貼っておきます。人が穴の中で働いていて、穴の大きさが分かると思います。

Hatoana
              (雲仙お山の情報館提供)

さて、上の女性の顔が”パレイドリア現象”によるものか、本当の心霊写真であるのかは分かりませんが、アナタ、今晩、眠れますか?


2021年5月14日 (金)

2021年5月14日「火張山花公園(島原市)」「仁田峠(雲仙市)」「大村公園(大村市)」~3ヵ所巡り

1_20210514201301
(写真はクリックするとハッキリ見られます)

明日から雨と言うことで、島原の火張山花公園、雲仙の仁田峠に行ってみました。また、昨日は、大村公園を見てきたので状況報告など。


「火張山花公園」。以前は「しまばら芝桜公園」でしたが、土地と合わなかったのか、あまり良く育ちませでした。その後、隣の広場にコスモス等を植え評判になりました。で、こちらの方の広場にはポピーを植え、これは見事に咲いていました。


入り口の所、高さ20mの恐竜ではなく、50㎝ほどの置物。立派な看板で、詩が高城二三男氏、書が龍一郎氏。龍一郎氏は多分あの方の息子さんかと。


2_20210514201301 3_20210514201301

一番上の写真、雲に霞んでいるのが火砕流の平成新山。下の写真の山は寛政4年に崩れ落ち、津波が熊本県まで押し寄せ「島原大変・肥後迷惑」と言われる大惨事の原因を起こした「眉山」。花畑のお二人さん、楽しそうに写真を撮っていました。

4_20210514201401 5_20210514201501

ちゃんとカートも準備してあります。おみ足の悪い方はご利用を。多分有料だと思います。料金所の後ろの方ですね。秋にコスモスが咲き乱れます。

帰りがけ、受付で話しをしたら、満開の時が3,4日前だったとか。ここ、2日ほど雨が降ったので花が倒れたそうです。公園の方は今月23日~24日までだそうです。入ることはできると思いますが・・・花は、ですね・・・


7_20210514201501 8_20210514201501

雲仙仁田峠のツツジ。残念ながら一面の霧でした。天気が良かったらロープウェイに乗って、上からの写真を撮ろうと思ったのですが。

1_20210514201601 2_20210514201701

霧の中、一人旅の女性って魅力ありますね。前から見たら、かなりの、お歳でしたが・・・ロープウェイ近くの風景。

3_20210514201701 4_20210514201801

つぼみもありますが、花はかなり散っていました。右の看板ですね。長崎県は観光地なのですが、悲しくなります。文章もぶっきらぼうですね。

5_20210514201801 6_20210514201801

大村公園です。

1_20210514202001

昨日は大村の病院に行きました。検査だけですが、この一週間で三つの病院を回り、そのたび血を抜かれました。私の血管が細く、腕の中でカクレンボしているので採血しにくく、と云う事もありますが、看護師さん、検査技師さんにも採血の上手下手があり、打ち直しをしたところもあります。この病院の方は上手でした。見事一発で決めました。

大村公園の花菖蒲はまだでした。


2_20210514202001 3_20210514202101

とは言っても、ボチボチなところもあり。一番に開き始めているのが、最初の写真の所。インスタ映えするのは、この場所ですね。花菖蒲の手入れの最中でした。

なお、ここには江戸系、肥後系、伊勢系がありますが、それぞれの楽しみ方があり、これは以前紹介をしているので→こちらをクリック

やはり、花菖蒲は6
月になってからですね(^^;)。

4_20210514202101 5_20210514202201

ここの場所の石垣、好きなんですが、なんで、こんな所にトイレ作るんですか?観光地としてはセンスがないですね。


6_20210514202401 7_20210514202401

ということで、3ヵ所ばかり回りましたが、残念ながら、ここ2,3日は雨が続きそうです。仁田峠、火張山花公園も盛りが過ぎたようです。また、来年を待ちましょう。大村公園はもう少しの辛抱です。


2021年5月 8日 (土)

「千々石海岸」「小浜海岸」の昔の姿~古絵葉書より

Photo_20210508195101 Photo_20210508195102
(各写真はクリックすると拡大します)

最近は古絵はがきに凝っていて、また、2枚ばかり絵葉書を入手しました。右側は以前紹介したかと思いますが、千々石にあった、外人向けの旅館「千々石ホテル」が作った絵葉書です。

左側が新らしく手に入れた写真。「硫黄くさき雲の去来や湯町やど」と俳句などが書いてあります。


絵葉書の向こうの海岸に崖が見えますが、「千々石断層」。この、海岸線の所を汽車が走っていました。現在は道路が通っていますが、近年でも、台風などが来ると石が転げ落ちてきて、通行不可。多分、鉄道も通れなかったことがあったかと思われますが、この鉄道については記録がほとんどありません。


下の写真が現在の千々石海岸。まったく、違った姿になっています。


さて、絵葉書の裏に文が書いてあって、多少面白いので・・・


「北高来郡 諌早村」。おや?諌早は「北高来郡」だっけ、と思って調べたら→こちらをクリック。で、間違いありませんね。番地の書き方が「北高来郡 諌早村」って、これで届く時代があったんですね。

赤線の部分、「温泉は雨計で」とありますが、「温泉は雨ばかりで」と読みます。「伊勢屋尓投宿」の「尓」は「に」。「伊勢屋に投宿」です。古文書には良く出てくる表現です。

消印の日付を見ると最初の数字が「7」ですが、大正か昭和は不明です。郵便切手が趣味の方は、切手と消印を見ると分かると思うのですが。


Photo_20210508195103 Photo_20210509144601

下の左が今回入手した小浜海岸の絵葉書。右は以前手に入れたもの。

青の矢印左側が茂木からの客船。比べれば左の船が古いことは一目瞭然。昔、小浜には船を横付けする桟橋がないので、船を沖に停め、お客さんを小舟で運んでいました。右の青の矢印。


一番下の左の絵葉書、以前紹介をした「一角楼」(現浜観ホテル)。赤の丸が排水溝だと思われます。三つの写真を比べれば排水溝の位置、形は同じです。ということから、上の2点の写真、赤の矢印が「一角楼」だと思われます。


左の写真の消印が「2」となっており、海岸線がきれいに整備されているのを見ると昭和初期かと思われます。


Photo_20210508201301  Photo_20210508201302

右が「一角楼」。現在の商店街通りになります。

写真、絵葉書で一番難しいのが年代の推定。絵葉書は使用済みなら大体分かるのですが・・・現在、千々石の絵葉書の整理をしていますが、小浜はその後整理をしていきたいと思います。整理が出来たら紹介をいたします。


Photo_20210508195801 Img_20210508_0008



2021年4月23日 (金)

「別所ダム・鴛鴦(おしどり)の池」について~雲仙市雲仙

Photo_20210422202501

上はダムカードで、国交省と独立行政法人水資源機構で作成されているものらしく、ダムを訪問した方に配布しているそうです。大きさはクレジットカードの大きさ。長崎では各地の振興局で配布になっているみたいです→こちらをクリック。

各写真・図はクリックすると拡大します。

このダムカードは雲仙にある2020年4月の「別所ダム」の航空写真になります。ダム建設当時の知事が「鴛鴦(おしどり)の池」と名付けたので、昔から「池」と思っている方もいるようですが・・・赤丸の所にダムがあります。

雲仙は昔、修験道のメッカで中心が満妙寺。「行基」が温泉(うんぜん)山大乗院満妙寺を開山したと言われています。本寺が満妙寺になるので、別所は多少離れているので「別所」の地名になったのではないかと(多分)。


この地には700の僧坊があり、瀬戸石原に300の僧坊があったと言われています。なお、瀬戸石原は島原藩主松平氏が制札を立てていたので「札の原」とも呼ばれています。


「小浜史談」によれば、この「別所」は「4万坪の平地であって各所に水が湧き水田になっていた。」という所です。この平地の中に「加持川」が流れていました。「加持祈祷」の「加持」なので、僧坊があったとの話しに通じています。別所ダムはこの加持川をせき止め水を溜めたところです。


下の左の写真「別所ヨリ數ノ子山ヲ望ム」と書いてあるので、水につかる前の姿だと思われます。右は「札の原」。


Photo_20210422202502 Photo_20210422202503

以前、この別所に「プール」があったことは紹介をしました→こちらをクリック

調べてみると他に「バンガロー」などもあったみたいで、下に旅館の案内図などを2つばかり載せました。


左の図、一番左の矢印が千々石へ通じる道。真ん中の矢印「プール」があり、緑の丸印、昔の「東洋館旅館」になります。

右の図、一番左の矢印と隣の矢印が「千々石」への道。上の矢印「プール」と「雲仙釣魚場」と書いてあります。赤の丸印「雲仙バンガロオ」です。下線の部分が「別所」と書いてあります。

Photo_20210422202601 Photo_20210422203001

下が「雲仙バンガロオ」のパンフレット。

以前から、この別所を通っていた「加持川」の写真を探していたのですが、このパンフレットの緑の囲んだ部分、どう見ても「川」ですね。たぶんこれが「加持川」だと思われます。

右の下の写真、案内図には「雲仙釣魚場」となっていますが、案内には「鱒の釣堀(バンガロオ樹林地内)」となっていますが「鱒」なんかを養殖なんかしていたんでしょうか?川にいたとは考えられないのですが・・・


なお、「雲仙小濱自動車會社 直營」と書いてありますが、小浜町史談によると「大正元年小浜有志数名の共同で自動車屋が始まった。」とあり、翌年、本多親宗(小浜湯大夫)氏が社長となり株式會社に、昭和10年に「雲仙小濱自動車株式會社」に改名。ということで、このバンガローができたのは昭和10年以降になります。

Photo_20210422203101 Photo_20210422203102

下は以前紹介した「古地図散歩」から。

一番上は現在の写真。真ん中は1961年~1969年の航空写真。一番下は上と真ん中の写真を重ねた写真。


赤い矢印が「雲仙浄化センター」。緑の矢印が千々石への道。


A

赤い矢印が「雲仙プール」。緑の矢印が「浄化センター」があるところ(この頃はまだありません)。茶色の矢印に道が見えます。多分、これが昔の道で、青印のところに直線の道が見えますが、多分、バンガローが出来たときに整備されたのではと思われます。あくまで、個人的な意見ですが。

Photo_20210422203201

下が上の2枚の写真を重ねたところ。上の赤い矢印がプール。こうしてみれば、今のダムのどこにプールがあるか分かります。下の矢印が「雲仙浄化センター」。と言うことで、現在、バンガローと直線道路はダムの中です。

Photo_20210422203301

なお、別所ダムの下に「稚児落しの滝」がありますが、これについては→こちらをクリック ついでにこちらもクリック

下の2枚の写真は千々石に通じる道から古湯方面を撮った写真で、左は絵葉書、右は長崎県発行の「国立公園『雲仙』指定50周年記念 雲仙の歴史」に載っている写真です。


なお、矢印の山の稜線を比べれば同じ山だと分かります。右の写真は左の場所からカメラを左に向けたことが分かります。ただ、写真を撮った場所、時代が一緒かどうか分からないので一概には比べられません。


Photo_20210422212501 13_20210422212601

・ダムの竣工/完成年度については資料により、1965~1969年、1963年~1968年、1961~1968年とバラつきがあります。

参考資料

・小浜町史談~小浜町
・千々石町郷土誌~千々石町
・国立公園「雲仙」指定50周年記念 雲仙の歴史~長崎県
・湯けむりの記憶~雲仙公園ビジターセンター運営協議会
・DAMーDATA(ダムカード)


より以前の記事一覧

フォト
2021年9月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

ブログランク参加中ポチしてね(^o^)

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ