「肥前國高来郡之内三拾三箇村壹分四拾間之圖」に見る論地について
先日、古文書研究会で勉強していると、上のような文書(もんじょ)がありました。下手な字で薄く書いてあるのは私が書いたもので、無視して下さい。
元禄八亥年北有馬村より当村
野方境論合候間御裁許
概略書くと、元禄八年、北有馬村より野方(高地などの開墾したところ・高台の耕作に適しないところ【大辞林】)の境につき論合(論じ合うこと・論争)があったが、代官所(多分)より裁許(申し出の是非を判断して許可を与える)があった。
以前、小浜から南串山を通り雲仙に至る所に「論所原」という場所があることを書きました→こちらをクリック
昔は土地の境がハッキリせず、村と村でどちらのものか論争しています。上の古文書はそういうことが書かれています。
古文書を読んで、島原半島にどれくらいの「論所」の地があったのか、少し興味があるので調べてみました。
下は文久3年に書かれた絵図です。「肥前國高来郡之内三拾三箇村壹分四拾間之圖」です。白いところは佐賀藩飛び地、佐賀藩神代領。島原藩の領地ではありません。なお、地図の現物は旧家にあり、どのような事情か複製(印刷物)がでていて、公的な所で2ヵ所、数人の個人所有があるようです。ブログに載せているのは印刷物なので、文字が分かりにくいと思います。
黄色い付箋を貼ったところが「論地」。ほとんど山間地で土地の境が分かりにくかったものと思われます。
古文書の南串山と北有馬の「論地」は赤の矢印のところ。今の論所原に当たります(多分間違いありません)。
左がその部分を拡大したもの「北有馬村・南串山村・論地」が分かると思います。
右は「田代原」。島原~千々石に至る街道の途中にあります。ここは千々石村と土黒(ひじくろ)村、土黒村と多比良(たいら)村の論地が見られます。なお、千々石においては郷土誌等、この論地の事はまったく書いてありません。
もう少し見てみると山田村と野井村。現在の吾妻町と愛野町になります。
右は沢山あるので、書きませんが山間部ですね。
千々石の場合、この論地については、まったく分かりません。というより、庄屋さんの子孫の方が、家に残されているものを全部廃棄をしたらしいのです。ただ、千々石の庄屋さんが、論地について書いたかは不明ですが。
南串山の場合は、庄屋さんの子孫の方が古文書を保管され、家を解くとき郷土史研究会に寄贈され、それを古文書研究会で解読をし、論地のいきさつが解決に至るまで分かるわけです。地図と照らし合わせれば場所も分かります。
現在、古い家の建て替えの時、古文書が出てきても読めないから燃やした、という話しを聞くことがあります。ですが、上に書いたように貴重なものがあります。現在、島原半島3市には学芸員が勤務しているので、持ち込めば読んでもらえると思います。ぜひ、昔のものは簡単に廃棄をしないように。
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