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2021年8月

2021年8月31日 (火)

著作権の事など~図書館における著作物のコピーについて、注意してね。

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お盆の前、著作権につき多少疑問があったので、ここ半月ほど著作権につき勉強しています。面白い事例があるので、少し書いてみます。

図書館で本を一冊丸々コピー出来ないか依頼しても、もちろん断られます。どれくらい良いの?と聞くと、多分、半分くらいです。との返事をもらうかと思います。もちろん、著作者の権利の為です。


ところが、この「半分」は本の半分では無く、正確に言えば「著作物」の半分ということになります。


分かりやすく書くと、短編全集。赤川次郎さんとか宮部みゆきさんとか重松清さんとか伊坂幸太郎さんとか物部冬生さんとか、各々10ページ書いて、全部で50ページの本があったとしたら、各々の小説家が書いた作品の1/2ページ、5ページしかコピー出来ないという事です。赤川次郎さんの部分、5ページ分しかコピー出来ません。各々の作家も同様に5ページずつしかコピー出来ません。なお、”物部冬生”
さんは聞かない名前だと思います。私のペンネームで、まだ作品は書いておりません。いずれ本屋さんに並ぶので、その節はお買い求めを(^∧^)。

事典などにいたっては一項目が「著作物」に当たります。例えば「日本美男子事典」なるものがあったとして、土方歳三、織田信長、藤原業平、物部冬生の各項目が並んでいて”物部冬生”の項目をコピーして欲しいと思っても、物部冬生の項目の半分しかコピー出来ないということです。


これ、実際に裁判があり、図書館の利用者さんが、事典の一項目全部について複写を請求したところ、図書館から断られたので、図書館を相手取って裁判に訴えたそうです。

裁判の結果は、利用者が請求した部分は著作物の全部にあたるということで”その全部の複写を求めた原告(注:利用者)の申込みに対して承諾しなかった被告(注:図書館)の行為には違法性は無い”、ということで図書館の判断は正しいという裁判の結果になったそうです。



他に、図書館内でのデジカメ、スマホでの撮影、コピー代行業者、図書館内のコイン式コピー機、公民館図書室でのコピー、利用者が直接コピー機でコピーをして良いのか等々あります。


なお、著作権者の死後70年。無名、変名、団体名は公表70年経たものなどは著作権が切れるので全部コピーをしてもOKです。青空文庫も著作権の切れている作品です。


著作権は書物に限らず、建築、絵画、地図、映像、劇、舞踏等々にも及びます。音楽教室、カラオケの著作権をめぐってのトラブルは新聞、TVニュースにでたこともあります。


ということで、他人が考え発表した物を利用される方は一回チェックをされたほうが・・・

■私の素人の解釈もあるので、参考にしたのは・・・

・公益法人著作権情報センター~「ケーススタディ著作権3 図書館と著作権 黒澤節男著」

・同上 「図書館と著作権」
・骨董通り法律事務所~「図書館とコピーの(実は)複雑な関係~スマホで撮っちゃダメですか?~」というのも書いてあります。
・他、文化庁関係等々

 

2021年8月28日 (土)

橘神社の絵葉書~戦前の千々石最後の絵葉書?

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上の絵葉書は橘神社です。基本、今と同じ姿です。裏側の消印に「17.8.24」とあるので昭和17年8月2日に出された葉書です。なお、書面中「大東亜戦争は皇国の連続勝星・・・」と書いてあり、時代を感じさせます。

前にも書いたとおり絵葉書を集めていますが、島原半島で一番多いのが雲仙、次が小浜、次いで千々石と島原が同じくらい。ところが、橘神社が名所にもかかわらず、現在、これ一枚しか見つけられませんでした。


千々石には”千々石ホテル”という外人向けのホテルもありました。千々石に泊まり海岸で遊ぶ、千々石を拠点として小浜、雲仙に行ったようです。


絵葉書は訪れた所の記念として買っていきます。現在はスマホ、デジカメがあるので観光地の絵葉書はほとんど見受けられません。千々石の絵葉書は、ある時期から見受けられないようになったようです。これは、多分、雲仙鉄道と関係があるように思われます。


左は千々石の絵葉書で一番古い物。明治41年に使われています。右は雲仙鉄道の線路が見えません。カラー写真ということを考えれば、戦後のものです。

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雲仙、千々石、雲仙鉄道に関し簡単にまとめてみました。

■1877年(明治10) 温泉(雲仙)、このころから九州各地より外国人の避暑、登山が増え始める。(湯けむりの記憶より)

■1883年(明治16) 小地獄に雲仙初の純洋式の「下田ホテル」を建てる。(他説あり・湯けむりの記憶より)
■1893年(明治26) 茂木~小浜間、不定期に蒸気船あり(?)。(ブログ・日記のようなものです)→こちらをクリック
■1899年(明治32) 茂木~小浜間、定期路線(?)(ブログ・日記のようなものです)
■1908年(明治41) 千々石千本松原の絵葉書。(上の絵葉書)
■1909年(明治42) 「雲仙案内」に”千々石ホテル”の宣伝掲載。(雲仙お山の情報館展示場に展示)→こちらをクリック
■1911年(明治44) 温泉(雲仙)、日本初の「県立温泉公園}。(湯けむりの記憶)
 乗合自動車、小浜~雲仙。
■1912年(大正元) 小浜村有志、自動車屋開業。小浜~雲仙、愛野、諌早、口之津。(湯けむりの記憶)
■1913年(大正2) 小浜~茂木に定期連絡船就航(湯けむりの記憶)。雲仙は避暑のロシア人が多く年間700名。        自動車屋「小浜自動車株式会社」へ。他に「温泉自動車株式会社」あり。
■1916年(大正5) 千々石~温泉(雲仙)間の自動車道路完成。 
■1923年(大正12) 温泉鉄道、愛野~千々石間開通。
■1927年(昭和2) 小浜鉄道、千々石~小浜間開通。
(雲仙鉄道が写り込んだ絵葉書が数点あり。)
■1934年(昭和9) 雲仙国立公園制定。 
■1983年(昭和13)  雲仙鉄道解散。
■1942年(昭和17)  橘神社の絵葉書。(上の絵葉書)

なお、岡山俊直氏の「雲仙温泉における明治期の歴史資料の特殊性とその活用」(→こちらをクリック)の中に1889年(明治22年)の長崎から雲仙に至る交通の事が書いてあります(North China Herard紙1889年9月28日号より紹介)。それによると・・・


1)長崎から千々石まで人力車、千々石から山道で雲仙

2)長崎から網場まで人力車、網場から船で千々石、船で小浜、小浜から山道で雲仙
3)長崎から網場まで陸路、網場から船で千々石、千々石から山道で雲仙

茂木~小浜への船便は時代、船会社に違いがあるようですが、以前にも紹介しましたが、千々石にも寄っていました。手前の矢印が福石様、向こうの船が茂木~小浜を結ぶ船。


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ということを考えれば、千々石が雲仙、小浜へ至るポイントになっていることが分かります。

さて、どれほど外人客が多かったかというと、前にも書きましたが「島原鉄道100年史 」によれば「当時は夏ともなると、全国各地や中国の上海から避暑にやってくる外人客が多く、英語を話せなければ駅長がつとまらなかったというわけだ。同駅には当時の名残を示すように、朽ち果てた木製の洋式トイレがいまも残っている」(注:現在はありません)。


ところが、国鉄を利用する場合、諫早駅で島原鉄道に乗り換え、愛野駅で雲仙鉄道へ乗り換え、小浜駅(肥前小濱駅)は小浜の温泉街から2㎞程度離れていて、歩くか、自動車を雇うという不便さ。昭和2年~7年まで、諌早~小浜まで直通の時期はありましたが。


バスなら長崎から直通ということもあって、温泉鉄道は昭和13年をもって廃止。


ということで、雲仙、小浜に行く場合、千々石に寄る必要も無く、そのため千々石を写した絵葉書が少なくなったのでは無いかと思うのですが。なお、大正時代の絵葉書は他にも見受けられます。


雲仙鉄道廃線後の絵葉書を探しているのですが、現在、最初の橘神社の絵葉書以外は見つかっていません。なお、橘神社は昭和15年に建立、絵葉書は昭和17年に使われているので、この絵葉書は橘神社建立直後に撮ったものと思われます。

ということで、この橘神社の絵葉書が戦前の千々石における最後の絵葉書ではないかと思われるのですが。


:「湯けむりの記憶」~西暦2000年(平成12年)記念:雲仙公園ビジタセンター運営協議会発行



2021年8月24日 (火)

「π」と「パイン」と「辞表」な私

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「π」と「パイン」と「辞表」の関係は完全にありません。まして、「な私」は、ふと書いただけです。

最近、ボケました。以前は鍵をここへ置いたよ、と確認すれば覚えていたのですが、現在、確認しても、あれ?鍵どこ?なら良いのですが、なにを探しているのかも分からない状態。


で、考えました。要するに、頭を鍛えないからダメなのだ!TVで、90歳だったかのおばあちゃんが、ボディビルで体を鍛えているCMをやっていますが、無理にでも、鍛えるのが大切かと。


で、3.1415926333・・・???でも強制的覚えようかと右の「π」という本を買ってみました。これ、πが1,000,000桁まで載っています。デタラメかと思ったら、作者の方、ちゃんとプログラムまで組んだそうです。

本が届いて、見たら、字が小さい。オマケに50ページ超。近視に老眼に乱視ではチトきつい。


ということで、探していたらπを書いた、左のマグカップがあったので買ってきました。毎日コーヒーを3杯、3度の食事のお茶、と使かうので、毎日6回見て覚える事ができ、ここ数日、一生懸命眺めて覚えています。
もっとも、なんでも三日坊主でなので、いつまで続くやら。.

下は「台湾パイナップル」。


ご存じのように、昨年、中国がイヤガラセで台湾からのパイナップルの輸入を禁止しました。これに対し、日本からの輸入がドット増えたそうです。私もこのニュースを知ってから、台湾パイナップルをずっと買い続けています。おかげで体調すこぶる好調です(個人的感想です)


値段が税込みで537円になっていますが、この日は大売り出しで、もっと安くで買えました。


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Twitterの話題です。

左のような辞職届けが紹介されているそうです。読んでみて、思わず吹き出しました。私も辞表は3回ほど書きましたが、早く知っていれば手本にして書いたものを。

真似して多くの方が書いているようです。右の方、随分教養があるみたいな感じです。


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で、下のように本職のお坊様が、この退職届を読経されていて、良いお声で堂々と読んでいるので、よく聴いてないと本物のお経と間違えます。

興味ある方は、Twitterで「退職届 写経」と検索を。面白いですよ。

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2021年8月21日 (土)

原城=春城の名称について

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江戸時代の街道絵図に「原城」のことを「春城」と書いてあるのを見かけます。

左は「大日本道中細見・三河屋鉄五郎版」。残念ながら年代は分かりませんが、赤の四角の所「春城」と書いてあります。

右は「大日本早引細見絵図・天保13年改版 絵圖屋庄八版」(1847年)。同じく「春城」と書いてあります。

「春城」の左側に「古城」と書いてありますが、有家町にある地区の名前です。

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まったく書いてないのもあります。左は、大日本早引道中版 天保八酉11月再版(1837年)。

右は、鳥飼市兵衛版 寛保四年大増補日本道中行程(1743年)。こちらは「古城」とありますが、有家町の古城ではなく、「原城」のことです。下の方に「ソクノ コモリタル 所(「所」はくずし字にて表記)」(賊の籠もりたる所)とあります。

以前、原城の名前は「原之城」「有馬城」「志自岐原城」「春城」「日暮城」とあり、これについて調べると書きましたが、やはり詳しくは分かりませんでした。で、一応調べた分で、今回は主に”春城”に絞ります。

⚫長崎県大百科事典には「有明海に面して東南に突き出た「ハルの島」といわれた岬を利用して築かれた平山城。(長崎新聞社発行)

⚫北肥戦誌(九州治乱記)には「抑々(そもそも)肥前國髙來島志自岐原。城主有馬越前入道随意齋仙岩と申すは・・・」。北肥戦記(別名『九州治乱記』)は、佐賀藩士馬渡俊継が正徳年間(7711~1716)に編纂。(青潮社・1995年発行)

⚫新編藩翰譜には「原の城は有馬家の旧領なりき、それへ賊徒の立て籠りしなり。但し、原の字は、はると云ふべし。西国の方言なりと云う。」。藩翰譜は新井白石が慶応5年(1600)~延宝8年(1680)の諸家337家の由来・事跡を書いた本。完成が元禄15年(1702)。
(新人物往来社・昭和52年発行)。

⚫佐野彌七左衛門覚書には「・・・原の城の名古来所の者春の城と申候へとも上使御下次原の城と何れも申候故所の者も原の城と申候事」。佐
野彌七左衛門は当時の島原領主松倉氏の家臣で、物頭を勤め、禄四百石を食む・・・(島原半島史・林銑吉著より)。

なお、本によっては、一揆以前は城の名前は無かったと書いてあるのもあります。また「勝茂公(佐賀藩主)御年譜」によれば「有馬ノ古城原ノ城へ・・・」ともあります。長崎県事典では「ハル」」と書いてありますが、出典は不明。北肥戦記には「肥前國高來島志自岐原。城主・・・」とあるので、「志自岐原城」と考えられ無いこともない。

さて、島原半島に住んでいる方はお分かりですが、当地方では「原(はら)」のことを「はる」と発音するところもあります。「原」が一番最後につく時は「ばる」とも発音します「弘法原(こうぼうばる)」。「原」一字の小字がありますが、これは「はる」。千々石に「古賀原(こがばる)」がありますが、通称「原(はる)」。全部が「はる」ではなく、「はら」と読むのもあります、同じ小字でも「赤原(あかばる)」「塚原(つかはら)」。

ですから、藩翰譜には「西国の方言なり」とはありますが、一概に言えないのではないかと・・・PCで「はる」と打ち込んでも「原」ともでます。

神田千里氏の「島原の乱」には、「原城はもともと『はるのしろ』と呼ばれていたものが、島原の乱のために幕府の鎮圧軍がやってきた後、『はらのしろ』と呼ぶようになったと伝えてられる(『佐野弥七左衛門覚書』)」とあります。上に引用した内容と大体同じです。

佐野彌七左衛門は島原天草一揆に実際に参加をしているので、これが一番正確なのではないかと思います。


地図を見て、面白い事に原城の本城の「日野江城」がありません。


地図は乱後100年のものです。また、島原から遠く離れた江戸に「”春”城」ということで伝わっていたという事は、興味深いと思います。軍記物に「春城」の名称があり、それを写したものかと思い2~3冊見たのですが、ありませんでした。

下の絵、左は天草四郎の絵。書いたのは”月岡芳年、天保10年(1839)~明治25年(1892)。右は”豊原国周”、天保6年(1835)~明治37年(1900)。右上に”天草四郎時貞・尾上菊五郎”、左上に”千々輪五郎左エ門・市川團十郎”。乱後200年以上の絵になります。絵自体は、何となく奇異な感じですが、地図と同じく江戸という土地に武将、忠臣蔵かと思われる姿で描かれているのも面白いと思います。この絵は、国会図書館デジタルコレクションに所蔵されています。

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いつものごとく、まとまらない話になりましたが、他にも、原城の名前について書いてある本もあるので、又改めて分かりやすく書いてみたいと思います。


2021年8月17日 (火)

昭和のテレビと僕~夢で逢いましょう

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今月に入って、上の本を読んでいるとき、ジェリー尾藤さん、中嶋弘子さんと続けて訃報に接しました。

テレビが家に入ったのが、確か小学校4年生の時だったか。チャンネルは丸いガチャガチャと回すやつでした、もちろん白黒。長崎では、当時は長崎三菱造船の方が高給取りで、洗濯機、冷蔵庫、テレビと揃えるのは三菱造船の方でした。


三菱造船の方がテレビを買ったとき、近所中の人と見に行きました。私の友達の家だったので、夜遅くまでいて、今考えれば迷惑をかけました。


TVで、ざっと思えば、プロレス。ひょっこりひょうたん島。月光仮面~歌も口をついて出ます、どこの誰かは知らないけれど~。怪傑ハリマオ~まっかな太陽 燃えている ~、三橋美智也さんだったか?。ウルトラマンシリーズ。ディズニーのアニメは三菱ダイアモンド・アワーだったかな。ザ・ガードマン。ジェスチャー。私の秘密~髙橋圭三さんの”事実は小説より奇なりと申しまして・・・”、名調子でした。事件記者。太陽に吠えろ。名犬ラッシー。名犬リンチンチンというものありました。ローン・レンジャー~”ハイヨー・シルバー””白人嘘つき、インディアン嘘つかない”ですね。1964年の東京オリンピック。上皇上皇后陛下のご結婚のパレード、上皇后陛下、当時は”ミッチー”と言うニックネームで親しまれました。11PM。


と考えれば切りがありませんが、前に何回か書きましたが「夢であいましょう」は特に記憶に残る番組でした。夜10時頃の番組だったので、普通は両親から寝るように言われていましたが、この番組だけは一緒に見ました。当時は番組の録画などは無く、全部ブッツケ本番。


永六輔さん、渥美清さん、坂本スミ子さん、中村八大さん、田辺靖雄さん、EHエリックさん、九重祐三子さん、岡田眞澄さん、坂本九さん、当時ジャズが好きだったので、松本英彦さん、アイ・ジョージさん、谷幹一さん、相良直美さんと・・・。


この番組の中で”今月の歌”というのがありました。一番有名になったのが坂本九さんの”上を向いて歩こう”。NHK宛に返信用封筒を入れて送れば、楽譜がいただけました。もちろん、私もいただきました。作詞が永六輔さん、作曲が中村八大さん、歌が坂本九さんで、6+8=9、なんてやってました。ジェーリ尾藤さんの”遠くへ行きたい”、今も歌われています。


番組に出演した方が段々と、というよりほとんどの方が亡くなりました。今月に入り、ジェリー尾藤さん、中島弘子さんの訃報。坂本スミ子さんも今年の1月に亡くなられたようです。中島さんは「中島」「中嶋」と二通りあるようですが、結婚して「中嶋」離婚をして「中島」になったようです。

中島弘子さんの訃報の記事は、ジェリー尾藤さんの記事に比べれば、実にヒッソリしたものでした。

中島弘子さんは、私の女性の美の基準となるもので、私のカミサンも中嶋弘子さん似の美人です、と、一応書いておこう(^_^)v。


後年、東京で仕事をして、丸の内方面をウロウロしており、中島さんの洋装のお店も丸の内にあったので、よく覗きましたが残念ならお姿を拝見することはできませんでした。

上の本に書いてある名前の方、全部亡くなられました。知った方が段々少なくなってきて、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」という本の題が切実に感じられるようになってきました。


2021年8月14日 (土)

2021 橘神社「湯立祭」

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8月8日、橘神社で「湯立祭」が開催されました。去年に引き続きでしたが、この日は午後からの雨。雨に濡れながらの祭りでした。

ということで、当然火縄銃の演武はなかったのですが、寂しいので去年の写真を貼りました(一番上の写真です)。


本殿に向かって、神事。橘宮司さんは橘中佐のご子孫です。本物です。

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肥前千々石鉄砲隊の皆さんですが、朝からは雨は降ってなかったので、山の中で練習をしたそうです。なにせ火縄銃なので本番では残念でした。

巫女さん、かなり若い方で、高校生かな?


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橘神社の橘宮司さんの出番で、刀(多分、本物?)で邪気を払い(多分?)、火傷するくらいの熱湯(多分?)に手を入れ、見事、熱湯をはね上げました。

実は右の写真、私がボンヤリしていて撮り損ねたので、去年の写真デスm(_ _)m。


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この祭、橘神社、御館山稲荷神社、小浜神社の三神社で開催しているようで、当日も3人の宮司さんが見えておられました。

そのうちの一人の宮司さんが、大釜の邪気払いのお湯を参拝者の皆さんに振りかけました。写真の白いのが、お湯です。すごい勢いでした。


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神事が終わって、使った笹を小分けにして、”疫病退散”と書いた包みにくるんで全員に配布。私も、ありがたくいただき、玄関に飾りました。

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コロナのせいであまり大々的に宣伝はしなかったのかな?とは思いますが、来年はコロナが終息して沢山の方に見ていただきたいと思います。


2021年8月 9日 (月)

原爆で死んだ、僕のじいちゃん

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上の写真は私の母の父で、僕のじいちゃんになります。名前が「好藏」さん。

最近、母の実家の姪から、いろいろと出てきたという事で、写真や好藏さん宛の手紙を送ってきました。上の写真はそのうちの一枚です。


少し脱線して。今、”姪"と書きましたが、実はいとこの子どもで、姪では無いんですね。あれ?いとこの子の呼び方はナンだっけ、と調べると・・・以下、「元市民課職員」さんのブログがあって、こちらを参考にしています。なお、図もこちらのブログから引用しています。詳しくは→こちらをクリック


男の子の場合は「従兄弟違(いとこちがい)」「従甥(いとこおい・じゅうせい)」で、女の子の場合は「従姉妹違(いとこちがい)」「従姪(いとこちがい・じゅうめい)」。なお、まとめて呼ぶときは「従甥姪(じゅうおいめい・じゅうせいてつ)」だそうです。

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なお、結婚してフルメンバーになると下のようになるそうです。大変ですね(クリックするとハッキリと分かります)。

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さて、話しを元に戻して、好藏さん、明治34年5月9日生。戸籍で見ると、生まれたのが現南島原市の西有家町。父親の”福島市太郎”さんの相続の所に”年月日不詳相続”となっており”母”の所は空欄。古い手書きの戸籍では”不詳”ということで、多分これ以上は追えないかと思います。

写真をいろいろと見ていると、母の時代まではなんとか分かる人物もいますが、全然分からないという人もいます。皆さんもスマホで写真を撮っているかと思いますが、孫あたりになると「これ、誰?」という状態になるかと思いますので、記録はちゃんとしておいた方が良いかと思います。


さて、好藏さん、後に長崎では有名な薬屋を創業しますが、少し面白い方で、いずれこれもブロブに載せたいと思います。


で、今日が実は好藏さんの命日です。以前にも書いたかと思いますが、友達が亡くなり、昼から葬式のところ、朝から手伝いにいったそうです。場所が原爆地付近。原爆に遭い亡くなりました。戸籍の一番最後に・・・



「昭和貮拾年八月九日午前拾壱時長崎市山里町百二十六」



と一行あるのみでした。多分、原爆で亡くなられた何万の方の戸籍も同様かと。


翌日、子どもたちで探しに行ったそうですが、長崎駅前で女性は停められ、男性2名で探しに行ったそうですが、まったく分からなかったそうです。


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話変わって、上が父の父。名前が”留吉”さん。昔は子どもが多く、もうここらで”留め”にしようか、というので「留吉」。生まれが明治39年4月30日。鎌倉生まれです。で、どこで勉強したものやら、満州鉄道の技師として働き、かなりの給料を貰っていたそうです。私が生まれる前に亡くなっているので、写真でしか顔は知りません。

どういうわけか長崎に来て、酒屋とか宿屋をやっていたそうですが、生来の酒好き。只酒を振る舞い、財産をなくしたと父から聞いています。床の下には一升瓶がゴロゴロしていたそうです。帰りが遅いので、父が迎えに行ったら、ドブの中にハマっていたこともあるそうです。父が若いときに亡くなっています。


なお、父も酒が好きで、道に寝っ転がって友達と腕相撲もしていました。ということを見ているので、私は品良く、酒をいただいておりました。今はドクターストップで飲んでいませんが(-_-)。


現在、特に好藏さんの事を調べているので、戸籍謄本を読んでいますが、戸籍謄本なるものを初めて見たのが高校の時。私の生まれが「1月24日」、父と母の結婚届が同年の「1月3日」。どう考えても、おかしいでしょう。要するに私が生まれるので、慌てて婚姻届を出した、ということです。


この事を父と母に問い詰めると「昔は、ようあったことたい(昔は良くあったことだよ)」と誤魔化していましたが、なんとも杜撰な父と母でありました。私の杜撰な性格も父母譲りかと。

 

 

 

2021年8月 7日 (土)

「星落ちて、なお★澤田瞳子著」「牧野富太郎★(文)清水洋美・(絵)里見和彦」「あんなに あんなに★ヨシタケシンスケ」~本を3冊ばかり

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最近は長い小説、字が小さい小説、登場人物が多い小説は避けるようになりました。根気が無くなり、目が悪くなり、記憶力が衰えたせいで、要するに歳を取ったという事です。

某日、いつもの本屋さんにいったら「星おちて、なお」という小説が置いてあり、「暁斎」という字が目につきました。ヒョッとしたらと思ってページをめくると「河鍋暁斎(かわなべきょうさい)」の娘の話でした。いつだったかこのブログでも河鍋暁斎の絵の事を書いていました(→こちらをクリック)、ということで、なにかのご縁かとも思い買ってきました。


絵師の娘で同じ道を辿ったのは、葛飾北斎の娘、葛飾応為がいます。こちらも、以前紹介をしていました→こちらをクリック


河鍋暁斎については知っている人は知っている、知らない人は知らない、というところがあります(当たり前ですが)。「広重って知ってる?」「知ってる」、「北斎って知ってる?」「知ってる」、「暁斎って知ってる?」「誰、それ」というのが当たり前の反応のようです。私たちの教科書には載っていませんでした。


右は暁斎の展覧会があったときの図録だと思われますが、表紙を見るとオドロオドロしい絵、美人画等並んでいます。「その手に描けぬものなし」とあるとおり、図録を見ながらつくづく思いました。


本の中身については説明が長くなるので、各自買うか、図書館などで借りて読んで下さい。切れの良い文体は、内容にピッタリで、その時代の雰囲気が良く出ています。


さて、本を読んでいると、本市吾妻町出身の栗原玉葉の事が書いてありました。お嬢さんみたいな感じで書いてあったので、吾妻の方が読んだら少し異論があるかな、という感じでした。玉葉の絵の師、寺崎広業にも触れてありましたが、辛辣な書き方でした。

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中学生の読書コンクールの課題図書の本です。牧野富太郎氏の名前は以前から知っていたのですが、中学生向きのやさしく書いてある本なので、改めて読んでみることにしました。「牧野富太郎」は植物学者。ご存じ無い方は→こちらをクリック

右は牧野富太郎氏の写真です。蝶ネクタイまでしますね。この写真と”はじめに”に書いてある、写真の説明を読めば、牧野富太郎氏の人となりが分かるかと思います。



「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎は、植物採集に行くときに、いつもこんな格好で出かけました。きちんとした服装は植物への尊敬の気持ちのあらわれで、満面の笑顔は、大好きな植物に会えるのがうれしくてたまらないからです。



今の子どもの希望する職業はユーチューバーとか、ゲーマーとからしいですね。スケボーの子がオリンピックで優勝したので、スケートボード教室に入門する子どもがドット増えたそうです。牧野富太郎氏は小さいときから植物が好きで、死ぬまで植物の事を研究しています。

なんとなく、おじ(い)さん、今の子どもたちを見ると淋しいですよね。まあ、時代が違うし、「昔が良かったはずが無い」、とかいう本もありましたが。


小学校でタブレットを使う授業が始まるようです。理科ではタブレットの画面を見ながら、植物の勉強をすると思いますが、牧野富太郎氏の本を読みながら、効果がある授業なのかな?とは思いました。


と、書けばきりが無いのですが、なにを言っても老いの繰り言で、私も「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という歳になったという事です。


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これ読んで涙が出ました。人生が終わりかけた方にはよく分かる。自分も同じだったと。

ということですが、作者のヨシタケしんすけさん1973年生まれで48歳です。まだまだお若いのに、こんな絵本が良く書けたと思います。感性の豊かな方ですね。


今日の千々石の風景です。なぜか、ありふれた風景に感動するようになりました。まあ、結局は歳をとったという事ですね。最近はしみじみとそう思います。

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読み返してみて、文章が支離滅裂で、歳取った、というのが多いですね。

夏バテで、くたばっているせいかと思います
m(_ _)m。気持ちとしては、もう一発〇〇でもしてみようかと企てているのですが。〇〇ですか?ここじゃ書けませんヨ(^_^)。


2021年8月 4日 (水)

メチャクチャ~ネットの観光案内

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旅行に行かれるとき、ネットなどで地域の情報を調べることもあると思います。

多少の間違いはあるとは思いますが、先日、調べているとメチャクチャなのがありました。
上の左。千々石の案内です。


1の所が町の写真 2の所が町の歴史、風景などの説明 3の所が名所等の写真 4が名所の名称 5が名所の説明


千々石の場合はお寺が「恵照寺」ではなく「専照寺」。まあ、「恵」と「専」で間違ったのかなとは思いますが、お寺の名前なので、注意すべきでしょう。


右は島原市の案内。


1,2はあっています。3の写真の所、全部千々石です。なお、3段目と4段目の写真は同じ専照寺。4の名所の説明、島原には原城(日暮城)はありません。「島原教会堂の説明」は「沖田畷」の説明と一緒。


下の左。1は千々石の風景。2は伊王島。1と2は違っています。3の所の写真は全部千々石。4はあっているみたいですが、5の説明の所、全部千々石です。


右は諌早市の紹介かな?とは思いますが、1と2の所、千々石です。3の所の写真、全部千々石です。4の名称は合っているので、諌早を紹介しようと思っているみたいです。5の説明は全部千々石。


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どんな訳か、千々石がほとんど絡んでいます。

一応、ネット主に注意しようかとも思ったのですが、ネットの連絡先が分からなかったので、ブログに書いてみました。皆様もネットで案内を調べるときはご注意を。


なお、この観光案内は→こちらをクリック。 詳しく見られます。左の町名をクリックして下さい。まったく、メチャクチャな案内でした。




2021年8月 1日 (日)

雲仙も暑かった ( ̄。 ̄;)

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昨日は暑かったので涼もうと思って雲仙まで出かけました。ですが、暑かった。もう少し上の仁田峠まで行けば涼しいとは思うのですが。

上の左の写真、現在の姿です。赤丸が温泉神社の鳥居。赤の矢印が湯煎餅の「遠江屋(とうとうみや)」さん。車が停まっているところが有料駐車場。


右の写真、バスが止まっていますが島鉄(島原鉄道)バスの発着所。後ろの建物が多分待合所だと思われます。現在はなくなり駐車場になっています。バスを見るとボンネットバスでは無いので1960~1970年以降か?左の矢印の方向に温泉神社の鳥居があります。


下が、昭和9年以前の姿。赤丸が温泉神社の鳥居。左の緑の矢印の所、何やら山門みたいな感じがします。なお、ここらあたりが現在の有料駐車場。現在、この左手の方に満妙寺の釈迦堂があります。


緑の矢印の後ろが空き地、畑ですが、右の写真では庭になっているので、こちらが左より新しい風景。


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満妙寺へ上がる階段。一番上の左の写真はこの階段の上から撮ったものです。左に島鉄バスのバス停。

右は写真集「雲仙」(雲仙岳後援會刊)に掲載されたもの。なんとか情報館で聞いたところ、左の階段の所ではないか、ということですが詳細は不明。


どう見ても、寺院みたいな感じですが看板は「自動車切符発売所」。多分、昔の満妙寺かな?

看板には、会社名が「小浜自動車株式会社」。行き先がローマ字で、小浜、千々石、諌早、長崎、島原。なお「BUS OR HIRE」と書いてあります。小浜自動車はハイヤーも持っていて営業をしていました。

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見て、ビックリしました。以前は左のような姿(GoogleEarthより)で、山門に「雲仙山 満妙寺」「開山 大宝元年」と書いてあったのですが、現在は水道施設工事中、発注者が雲仙市。あと、どうするんでしょう?

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遠江屋」さん。今では、手焼きで煎餅を焼くのは、ここだけになってしまいました。赤丸、煎餅の種をいれて挟んで焼きますが、この時、種が多少溢れ、煎餅の耳ですね。この部分が美味しいのです。通はここを好みます。

昔は、ここだけ切り取って売っていたのですが、今は焼き立てで耳付きを売っていました。これって絶品ですよ。行かれるときは電話で確認を。

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お盆前ですね。駕籠立て場の所、舗装工事をした記念碑です。少し前までは草に覆われていたのですが、ピカピカのツルツルになっていました。普段から、きれいにしてもらいたいものです。

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下の写真は「雲仙」に載っていた写真ですが、「寄氣塲茶屋(よけばちゃや)展望」となっていて写真の右下、かすかに藁屋根が見えます。

以前から場所が気になっていたのですが、雲仙~千々石の道をよく見ていったら、こちらでした。とはいっても、道路は拡張工事で、以前とはかなり違って道がくねっていて、上の道路、下の道路でも同じような風景になるのでピンポイントでは分かりません。


この道に、一軒ポツンと家があったのはあったのですが・・・


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ということで、雲仙も暑く涼めませんでしたが、久しぶりの雲仙でした。

思い出したので。先日、雲仙でオクサマ関係の兄弟会をしました。雲仙市のナンチャラキャンペーンを利用し、一万円の補助があったみたいで、手出し1000円くらい。結構なお料理でした。全員下戸で(私はドクターストップ)大の大人5名でビール一本ですみました。もちろん”ノンアルコールビール”でした(^_^)。

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