日見の「腹切坂」~長崎市 その5
以前、日見の「腹切坂」の事を4回にわたって書きました。あの頃は、ブログを始めた頃で、文章が甘く、分かりにくい!と反省をしております。
腹切坂の第1回目の記事で、今年の4月下のようなコメントをいただきました。多分、長崎街道について詳しく調べている方だと思われます。多分→こちらをクリックの方だと思います。
腹切り坂のフェートン号由来についてコメントさせてください。
フェートン号事件は文化5年ですが、それより前の文化3年刊の『筑紫紀行』には「腹切り坂」という文字がでてきます。ですからありえません。もうひとつの作右衛門の件はありえるかもしれません。20年ほど前に、その御子孫の家に伺って、絵巻物を拝見しました。しかし、私は山の中腹を腹を切ったような道だから名付けられたと思います。腹切り坂の道は1998年以来2度通りましたが、現在移されている三基の石塔の基礎は残っています。https://misakimichi.com/archives/1762 道が半分崩れている場所があるので注意が必要です。私が1998年に見た時は教宗寺に安置してありました。
ということで、気になったので再度調べて見ました。
腹切坂がフェートン号事件と関係あると最初に紹介したのは、私が調べた範囲では、多分、永島正一氏だったと思われます。上の本「長崎街道」の最後に「長崎彼杵間街絵図」が載せてあり、これに、腹切り坂について書いてあるからだと思います。
上の〇印の所に腹切坂について書いてあり、以前に載せたことがあるのですが、読み落としがあったので、再度載せます。下の写真です。写真がハッキリしていないのを印刷しているので、なおさらボケています。
次のように書いてあります。
文化五年英船長崎に/来り当番佐賀藩/兵少うして撃攘する能わず長崎奉行は為/に責を負ふて自/刃し佐賀藩士亦/屠殺するものあり/此の坂の上に於いて/一佐賀藩士/自刃せしより/切腹坂の/名を得/たり(/は原文の行替の箇所)
フェートン号とは書いてありませんが、「英船」とも書いてあり、この記述については間違いなくフェートン号事件です。
なお、この絵図について永島正一氏は次のとおり説明をしています。
「長崎彼杵間街道絵図」という一巻がある。
昭和三年、七十一翁杉沢十一郎著とある。杉沢寿一郎さんは、安政七年(1856)矢上生まれ、同地に住んで、幕末から明治・大正・昭和に及ぶ目見聞録をまとめて数十巻、こんにち「矢上藍文庫」を遺しておられる。
大正十五年、日見トンネル開通の時、そのかみをしのび、長崎より嬉野にいたる明治維新前後の交通図を描かれた。
この図は、刊行されることなく秘蔵されたが、矢上村間の瀬名の人下井出島右衛門さんが経費を負担して刊行されたものである。刊行は田中隼人、福田忠昭、三浦実道のみなさんであった。
本図は、杉沢寿一郎さんであるが、これを改写したのは日本画古殿保雲さんであったという。(以下略)
腹切坂の話については、以前にも書きましたが、現在3説が見られます。①説明板のとおり、日見に平家の落人の末裔がいて、この中で作左衛門がという棒術に優れた者がいた。熊本藩の家臣某がこの名を聞き、帰郷の際一手試合を申し込むが負けて腹を切り、これを村人が憐れに思い葬った、という説。②上に書いた「フェートン号事件」説。③街道が山の中腹を横切っており、腹を切ったようにみえる(越中哲也氏説)。
ここではフェートン号事件を中心にしたいので、この点に絞ります。なお、この①②の説についてネット、本で紹介したのものがあるようですが、代表的なものとして、永島正一氏と松尾卓治氏著「長崎街道を行く」を紹介したいと思います。なお、ネット情報では①②の説を併記して書いているものが多いようですが、参考資料、根拠について書いたものはないようです。
永島正一氏は①説を最初に紹介し②を「異説腹切坂」ということで紹介しています。
松尾卓治氏は②説を最初に紹介し①を「別の話」としています。
上の絵図を書いた杉沢氏は1856年生まれ。フェートン号事件が1808年、と言うことを考えれば、フェートン号事件48年後に杉沢氏は生まれたということなので、実際に佐賀藩士が腹を切った事を目撃した人が、松沢氏に話したことは十分に考えられます。
ただ、そうすると腹切坂に建てられた「吉村忠右衛門藤原重道」と書かれた墓は誰なのさ、と言うことになります。なお、この墓から太い骨が出てきたことは前にも書いています。この墓の年号は元禄9(1696)年丙子3月になっています。フェートン号事件より昔です。なお、3つの石塔のうち、墓と見られるものはこれだけです。
松尾卓治氏は本の中で佐賀藩士が佐賀に報告に向かった事に触れ「・・・早田助平たち17名は、佐嘉領矢上に入ったこの坂で追い腹を切ったという。それで、この坂を腹切り坂というそうだ」とあります。
松尾卓治氏は「佐嘉領矢上に入ったこの坂で・・・」とありますが、この三つの石塔があった元の場所は天領・長崎の地です。腹を切ったところは藩境石「佐嘉領」の向こう側(佐賀藩)と書いてあるので矛盾をかんじます。
さてコメントに「筑紫紀行」とあるので、チェックしてみました。
「筑紫紀行」については、国立国会図書館デジタルコレクション→「筑紫紀行」で検索して、柳田国男校の本にあります。654頁、337コマの真ん中あたり。
この紀行文、著者は菱屋平七(吉田重房)。序文に菱屋兵名で書いてあって、年号は享和7年(1802)、後序は吉田重房名で、年号は文化丙寅9月(1806)。656頁、337コマの真ん中あたり。後序に「享和中、余西遊於長崎・・・」とあるので、旅をしたのは享和年間になります。
・・・領地境の印、南は佐賀鐐、北は御公領なるよしなり。二丁計(ばかり)坂を登れば腹切坂の峠なり。三丁計下れば日見村。・・・
と言うことで、コメントにいただいた通り、フェートン号事件以前に「腹切坂」の地名があるのが分かります。
ただ、この紀行文、例えば「領地境の印(藩境石)」など、以外と細かく書いてあり、腹切坂の三本の石碑などがあれば書いてあっても良さそうなのですが、多少気になります。
と言うことで、越中哲也さんの「腹を切ったという伝説がいくつかあるんですよ。」というのが妥当な感じがします。
なお、佐賀県史(昭和37年刊)には、フェートン号事件のことについては書いてありますが、「腹切坂」については記述はありませんでした。
以上、又もやクダクダと分かりにくい文を書いてしまいました、反省m(_ _)m。
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コメント
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4月2日にコメントさせていただいた入江です。
私は伊能忠敬の長崎市測量http://www6.cncm.ne.jp/~fab4wings/indexと、伊能測量による長崎県内の街道https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/fb4wing/のホームページは作成しましたがブログはやっておりません。長崎街道については20年以上前に伊能測量の道をできるだけ忠実に歩きながら調査しました。お近くの千々石街道も歩きましたが、国見町の山間部は消えてしまっている部分もあり苦労しました。
私の先祖は千々石村に江戸期から明治中期まで住んでいました。戸籍に住所は書いてあるのですが、現在の千々石町のどこなのかは不明なままです。
松尾卓治先生は研究仲間です。近いうちに一緒に伊能特別大図島原半島の南半分を現存しているので発表できるかもしれません。北半分は現在不明です。
みさき道人さんは友達です。非常に残念ながら亡くなられました。腹切り坂の墓石の基礎も私のすすめで写真撮影していただきました。
投稿: 入江 正利 | 2021年8月31日 (火) 16時37分
ホームページは以前より参考にしております。なお、松尾先生の所には時々お伺いをしております。
国見の山間部というと、魚荒川~赤岩神社・田代原間だと思います。今はブログが消えましたが、写真で紹介したのを見たことがあります。また、私の知人で青少年の体験施設に勤めていた方が踏査しておりますが、難路だったことは聞いております。赤岩神社の下、赤姫神社から絹笠山への道があるとかで探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。
現在、南串山古文書研究会に属していますが、伊能図とは別の道の往還があり、松倉重政が通り、堤を築かせたり兜を脱いで置いたという兜石の話があるのですが、この道が途中分断され、史談会で調べているところです。松尾先生の”長崎街道を行く”にも書かれていますが、苦労されたみたいです。
島原半島の南目の道については、詳しいものがなく楽しみにしています。なお、写真なども付けてあったら分かりやすくてありがたいのですが。
先日、ひょんな所で”作右衛門”さんのご子孫と会いました。時間が無かったので、また後日ということで分かれましたが。千々石の住所については、雲仙市役所千々石支所に聞けば分かると思います。
投稿: sugikan | 2021年9月 1日 (水) 22時16分