「大波止に玉はあれども大砲なし」~長崎の七不思議
先日から、長崎の中華街、新地の事を調べようと「長崎實録大成」を読んでいたら「鉄之石火矢玉 一 大波止坂際に有之」とあり、これ、長崎の七不思議の一つで、ここに書かれている古絵葉書を持っていたのを思い出したので。
長崎の七不思議はー
①寺もないのに大徳寺 ②平地なところ丸山と ③古いお宮を若宮と ④桜もないのに桜馬場 ⑤北にあるのを西山と ⑥大波止に玉はあれども大砲なし ⑦シャンと立ったる松の木を下り松とは これで七不思議。 というものです。
さて、「長崎實録大成」に「右鉄玉の事諸ノ𦾔記に其説ヲ出サス」というところを見ると、これ以前には、文書として残っていないことが分かり「賤夫等の傳説に・・・」と言うことなので、伝説に伝えられているのみ、ということがうかがえます。
この本は長崎文献社から出版されいますが、入手しにくいので、そのまま写してみます。なお、校訂は丹羽漢吉氏、森永種夫氏です。写し間違いはご容赦のほどを。
鉄之石火矢玉 一 大波戸坂際に有之
廻リ五尺六寸程
右鉄玉の事諸ノ𦾔記二ソノ説ヲ出サス。賤夫等ノ傳説二、蠻人(ポルトガル?)我國ノ威ヲ顕サント彼國ヨリ持來レリト云。或ハ日本ヨリ蠻船ヲ可撃沈用意也ト云。又一説二島原一揆籠城ノ節、於彼地土中二穴ヲ堀リ抜キ、籃硝數百斤ヲ以テ此玉ヲ打出スへキ支度二鑄造セリト云。其説何レモ虚蕩ニシテ信用成難シ。暫ク其ノ概(おおむね)ヲ擧ル而耳(のみ)
ということです。
内容は①南蛮人が自分の威を示すため持ってきた ②日本が南蛮船を撃沈するため ③島原一揆の城(原城)を地中に穴を堀り(砲身として)、攻撃するため、ということです。ただ、いずれの説も信用できないが概ねの事を挙げる。というものです。
以下、丹羽漢吉氏著「史談切り抜き帳 第2巻」によれば、寛政4年4月21日に綿密な計測がなされ
1 火玉 周1.758m 重量554.7㎏
2 同台 高0.273m 0.712m
3 惣髙 0.788m
丹羽勘吉氏が鉄の比重を元に計算すると920㎏のはずが、554.7㎏しかないので中空か、又は。軽い金属を混ぜているかと思われたそうですが、時の市立博物館長の越中哲也氏によれば、中空になっているはずとのことで、鉄で出来ているとして計算すると、厚さは10㎝余りになるそうです。ですが、中空の玉をつくるには、当時、その技術と施設を考えれば大変なことだと思われます。なお、この玉を打ち出す大砲を考えると、巨大な砲身が必要だと思われ、当時の技術としては無理でしょう。
越中哲也氏が、なぜに玉が中空であったかを知っていたのかという疑問がありますが、多分、叩いてみたのではないかと推測しております。
さて、①②③説の中で、一番多く語られているのが③の島原一揆に関係するもの。これについては「長崎港草」「長崎名勝図絵」にもあるらしく、城(原城)の近くに穴を堀り、そこに玉と火薬を詰めて飛ばす、というもの。だそうですが、あの玉を飛ばすのにどれだけの火薬がいるのか、また、城近くから飛ばすというとは打ち上げになるので、無理。かえって、重箱山あたりからは城内が見え、打ち下ろす感じになるので、こちら方がベターだとは思うのですが。
諸説考えるに、どれも無理があるようで、はやり”謎は謎”のまま、ああだ、こうだ、と話しをするのが良策かとも。謎が解けると「長崎の六不思議」になり、七不思議という熟語はありますが、六不思議という熟語はなく、なんとなく、間が抜けた感じになるので、ここは事実が分かったとしても、知らんふりして「長崎の七不思議」にしておいた方が良いのでは。
余談ながら、玉の回りが五尺六寸ですが。花火で一番大きいのが四尺玉だそうです。外径120㎝、重さ420㎏、上がる高さ700~750m、お値段260万円。らしいです。
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