「往来手形」について
「通行手形」「往来手形」「関所手形」など呼び方はイロイロとありますが、多少違いはあるようです。
上は、Googleで「通行手形」の画像を検索したもので、多いのが将棋の駒の形のもの。赤の矢印が古文書。将棋の駒形は見ると、全部、観光地の土産物です。江戸期における通行手形、往来手形、関所手形にはこの形のものは見当たりません。
下の本は往来手形等について書かれた本ですが、古文書についての事のみが書かれています。駒形のものについては、書かれてありません。
Googleの映像で青印は尼崎藩のものだそうですが、「御門通札」。尼崎城に入るため発行された通行証だそうです。他に「御厠通札」「夜行札」「御城内尿取札」などがあるそうですが、今、大きな会社に入るときなど首にぶら下げる証明書で、関所などで使う手形とは違っています。限られた目的のものです。
→こちらを参照
「札」については、職業鑑札などが残っています。
島原藩の資料を見ていくと「目籠札六角印焼印」「殺生札者(は)山形之焼印」などと書いてあり、「札」には色々な種類がある事が分かります。
下は、3枚の札の裏表ですが「通行手形」の文字が見えます。ただ、「天明(?)二壬寅年年限通行手形」とか書いてあるので、限定的なものだと思われます。
さて、Goggleの映像で「往来手形」で検索すると、下のような古文書が沢山見られます。下に一つだけあげておきます。翻刻は下記の通りですが、行替の時等、画面が乱れるのでベタ打ちしています。
往来手形之事
因州八上郡池田村佐平治申者宗門
禅宗當寺旦那二紛無御座候
依志願四国遍路罷出候間所々
御関所無相違御通し可被下候若又
日々行暮候節一宿等奉賴候猶又病死
仕候節者其所之御作法を以御取斗
可被下候其節此方江者不及御沙汰
依而往来手形一札如件
文化七年 因劦八上郡奥谷村
申ノ十月日 天佑寺(印)
国々御関所
御役人衆中村々在々
村々在々
御役人衆中
書いてある事は
①氏名
②どこの寺の檀家か
③旅の目的はなにか(この場合は四国遍路)
④関所を問題なく通して欲しい
⑤日暮れで困ったときは宿泊を頼みたい
⑥病死した時はその土地の作法で処理をして欲しい、その折りは、こちらには連絡不要
「江戸のパスポート」に実例が書いてあり・・・簡略して書けば
「すぎ」という女性が西国巡礼のため出国。途中仲間とはぐれ、足を痛めて困窮しているところを小田村の農民に保護される。
その後小屋を建て、養生したが回復せず、所持金も無かったため、自力では帰国できず国元への送還を願い出た。
小山田村では、藩役人に事情を記した届書きを提出し、許可を得て、宿場と村々をつないでの移送(町在継送)で送り返すことになった。
なお、国元への送還を認められたのは、往来手形を所持していたからであったそうです。「往来手形」の内容は上に書いている「往来手形」とほとんど同じ内容です。
江戸時代、「往来手形」について、ただ単に関所を通るときに使ったものだと思っていたのですが、このような事があったことは思っても無いことでした。なかなか、面白い仕組みです。
さて、往来手形、関所手形というと最初書いたように将棋の駒の形を思い出すのですが、誰が考えたんでしょう?「チコちゃんに叱られる!」では、観光土産の「ペナント」を考えた人の事が放送されました。きっと、この将棋の駒形の往来手形、関所手形は観光みやげに考えたと思うのですが・・・(-_-)。
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