谷文晁「日本名山圖會」より「雲仙」の地名について
谷文晁「日本名山圖會」より「雲仙岳」。赤丸の所「雲仙 在肥前州高来郡」。
雲仙岳を大きく捉えた絵だとは思いますが、船の人物など小さな所も良く書き込まれています。
谷文晁は文化元年「名山圖譜」を刊行し、その後文化九年「日本名山圖會」として刊行、ベストセラーになったそうです。
この図はシーボルトの「NIPPN」にも影響を与えたらしく、宮崎克則氏の「シーボルト『NIPPON』の山々と谷文晁『名山図譜』」として、論文が書かれており、シーボルトの「NIPPON」に描かれた絵と谷文晁の絵とを比較してありますが、ほとんど模写といってもいいようです。→こちらをクリック
なお、谷文晁が実際に山を見て描いたかについては「『日本名山図』にみる谷文晁の名山観」という論文があり、結論として「⑴文晁は自分の目で見た独自の名山を選定した ⑵文晁は山の構図を重視して名山と評価した事がわかり、山を風景として見るという文晁の名山感が明らかになった」としてあります。→こちらをクリック
上の風景は、島原の海からの風景だと思われます。下の絵図は、文化10年長崎勝山町文錦堂から刊行された「九州九カ國之繪圖」です。
青の丸印が「島原」、白い線が海路になり「熊本」と結ばれいます。ですから、谷文晁はこの海路を辿ったと思われます。勝海舟、坂本龍馬が外国船の下関攻撃を回避するため長崎に来たときも、この海路を利用しています。
さて、昔は「雲仙」は一般的に「温泉(うんぜん)」と表現していました。このことについては以前「温泉(うんぜん)から雲仙(うんぜん)へ」ということで書き、谷文晁の絵の絵もその折り紹介をしました。
下は天保時代の街道図。左が「本間屋」と書いてあり、江戸と大阪の住所が入っています。右が「奈良大佛前 繪圖屋庄八」とあります。どちらとも「雲仙」を「温泉」と書いてあります。
余談ですが、右の地図、右の矢印「春城」と書いてありますが、島原一揆の舞台「原城」。以前、原城の名前について書きました。大体のことは分かったのですが、あと一歩で、いずれ書きたいと思っています。
左の矢印「談合シマ」。一揆軍が話し合いをしたという「談合島」。
で、以前からの疑問で谷文晁が「温泉(うんぜん)」をなぜ「雲仙(うんぜん)」と書いたのか?いろいろ考えた末、以下のような事を考えてみました。
谷文晁はもちろん地元の人間では無い。ということは「温泉」と書いて「うんぜん」と読むのは知らない。弟子と来たかどうかは不明だが、地元の案内人がいたことは十分に考えられる。
案内人が温泉岳を「文晁先生、あれが『うんぜん』バイ」と説明をし、その折り「うんぜん」という言葉を「温泉」と教えたなら問題は無いが、言葉だけだったら「温泉(うんぜん)」を「雲仙(うんぜん)」と受け取ったと考えられる。で、「温泉岳」を「雲仙岳」と書いた。
という事が考えられませんか(-_-)?あくまで私見ですが、これが正解だと私は信じているのですが・・(^_^)v。
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