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2021年3月21日 (日)

「山武士神社」の「宮崎九郎右衛門」について

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以前、日野江城の麓にある「山武士神社」の「千々石里正 宮崎九郎右衛門延髙」の名前が刻まれている石祠について書きました→こちらをクリック。

庄屋の名称については、時代、地方によって違いがあるようですが、「里正」「名主」「肝煎」が見受けられます。

この「宮崎九郎右衛門」についての手がかりが、下の「旧有田村庄屋 石橋家記録」にありました、有田村は南島原市有家町の蒲河名、山川名、尾上名にあたります。


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以前から書いているように「南串山村」の庄屋さんの古文書を読んでいますが、この中で「土黒(ひじくろ)」(雲仙市国見町の一部)の事が詳しく書かれている部分があります。南串山の庄屋さんと、土黒の庄屋さんとは仲が良かったと感じられます。

ザッと位置関係を書くと、上の青丸が土黒がある国見町、下の青丸が南串山。


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さて、この「石橋家記録」に次のような記録があります。「天保きのへ午年」、「甲午」ですから「天保5年・1834年」。

一 同年 五月十三日 妹 タマ 千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門 養娘二 いたし 同村 城台源次兵衛 倅へ嫁し申し候。


有田村庄屋さんの妹が、千々上村庄屋さんへ養女に行き、千々石の城台源次兵衛の息子に嫁にいった、ということですが、庄屋さんの養女が普通の家に嫁ぐはずもなく、庄屋の次が乙名になり、橘中佐の祖先は江戸時代「城台(城代)」を名乗って乙名であったとの記録もあり、ここらあたりがクサイと思っているのですが・・・


地図、上の赤丸が千々石、下の赤丸が有家町(有田がある所)。


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下が天保9年4月(1838)の記録。6月10日の所に「御 巡検使」の文字があるので、島原藩からの宗門改、年貢等の関係か?

「曽我亦左衛門」「近藤勘七郎」「大久保勘三郎」の名前があり、各々「北有馬村庄屋宅 御宿」「同村 願心寺 御宿」「南有馬村庄屋宅御宿」とあり、これが島原藩の役人。なお、北有馬は地図の赤線下線の所。


各々、多分世話役であったろう「亭主」「脇亭主」として名前が書かれてあり、「同村 願心寺 御宿」(願心寺は以前、天井絵で紹介→こちらをクリック)には・・・(写真はクリックするとハッキリ読めます)


「(亭主)千々石村庄屋 宮崎九郎右衛門」「脇亭主 同村 松尾三郎兵衛」と書かれており、わざわざ遠くの千々石から北有馬まで、手伝いに来ているわけですが、これで、北有馬の「山武士神社」の石祠と「宮崎九郎右衛門」とが結びつきました。

 
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地図を見ながら、庄屋さん同士、お近くでは無く、離れた庄屋さんが仲が良いとは面白いところです。

残念ながら、千々石の庄屋さんの子孫の方が古文書を全部焼いたとかで、こちらには記録がまったく残っていません。もし残っていたら庄屋さん同士の関係がもっと分かっていたものと思われるのですが。皆さんも、家にある古い文書は大切にして下さい。


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