歴史を語る「絵葉書」~雲仙市千々石川
最近、又、千々石川の写真を入手しました。集まりかかれば集まるもんですが。
下から二段目の絵葉書は下流から撮ったものですが、上の写真は上流から撮ったものです。 飛び石が上流(手前)と下流(向こう側)に見えます。
現在、上流の飛び石は大きいものの、途中から切れてしまっています。下流側の飛び石は、見えはするものの、よく見ないと分からない感じです(以前紹介したかな?)。
一番上の写真の飛び石と飛び石の間が近いので、現場に行ってみたら意外と近い事が分かります。上が上流の、下が下流の飛び石。
一番上の写真、家の屋根が瓦なので近い時代ではないかと思われます。
現在、古文書研究会に入って勉強をしていますが、南串山の庄屋さんの文書(もんじょ)に、山が串のよう見えるから、「串山」という名前が付けられたなど書いてあります。もし、この文書がなかったら「串山」の名前の謂われが分かったかどうか、2~300年前の文書です。
以前書いたとおり、下の一番右の葉書は明治41年の年賀状に使われたものですから、それ以前の風景ものだとおもわれます。左の2枚の写真も明治時代だと推察されます。
明治45年が109年前。人生100年時代、100年はあっという間です。
この絵葉書が残っていなかったら、このような橋が架かっていたことは分からなかったと思います。昔を知り、今を伝えていくことが必要だと思うのです。絵葉書に歴史ありです。
【追記】
忘れていました。上流の飛び石の写真を撮っていたら、婆様がいたので話しを聞いたら、この飛び石を渡ったところに祭りの御旅所があり、祭りの行列はこの飛び石を渡って行ったそうです。
ホンマかいなと思って、カミサンにきいたら「渡ったよ」と、で、もう一人50年配の女性に聞いたら「私も渡ったよ、小さいとき渡りきれなくて、川に落ちたけど」と言う話しでした。
祭りの参加人数は昔に比べれば、少なくなったそうですが、下のように沢山のひとがいますが、本当に渡ったんですかね。
いつ頃まで渡っていたのか詳しくは分かりませんでした。
当然、他人が知っていると思っても、話しをしてくれないと分かりません。今の子どもは、この飛び石の事も知らないと思います。
昔を知る方も段々と亡くなっています。今の時代、記憶より、何らかの形で記録を残す、話しを伝えていく事が必要だとつくづく感じました。
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