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2020年8月

2020年8月31日 (月)

千々石海岸の外人さん~絵葉書をよく見れば

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以前、千々石にあった「千々石ホテル」の事をかきました→こちらをクリック。

上は「千々石ホテル」発行の絵葉書集ですが、右は千々石ホテルの裏側みたいで、下に写っている石垣は現在もあります。


このホテルは上の表紙に見るように、外国人向けだということが分かります。千々石は海岸と松原が美しく、また、雲仙、小浜に行くにも便利で、外人が遊びに来ていたと言われています。


雲仙の絵葉書には外国人が写ったものが多く残されていますが、千々石の絵葉書などには外国人の姿が写されたものがありません。ただ、長崎歴史博物館にロシア人の雲仙、小浜等の旅行案内書があり、この中の千々石海岸風景に外国人(旅行案内の著者?)が写っているのがありましたが、掲載するには手続きが面倒なのでいつの日にか・・・


さて、千々石、小浜を中心に絵葉書を集めていますが、島原半島で絵葉書が多いのが雲仙、小浜、次いで、島原と千々石が同じ程度と、千々石の絵葉書が多いのが意外です。他の町村のものはほとんどありませんでした。


雲仙、小浜に行く途中なのでそのせいかなどとは思いますが、はやり、千々石は風光明媚で外国人が訪れていたせいかなどと思いはするのですが。


絵葉書が少し溜まってきたので、整理をしていたら下の絵葉書が目にとまり、一番上が千々石海岸、真ん中が雲仙絹笠山の測候所(いまはありません)、一番下が雲仙のゴルフ場。


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おやっと思って千々石海岸を拡大すると、外人さんですね。男性1名、女性3名。写真はクリックすると拡大しますが、特に女性の服装、帽子を見ると外人さんだと分かります。時代がいつなのかは判断できないのが残念ですが。いずれにしても、外国人が訪れていたことが分かります。

海岸の家は茅葺きになっています。右手の山は、釜山、猿葉山。遠くにみえるのが雲仙岳。


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古い絵葉書はよく見ると、いろんな発見があって楽しいものです。



2020年8月29日 (土)

「千々石の松原」と「長崎福田の千本木松原」~こんな間違いも!

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   (各写真はクリックするとハッキリと拡大します)

上の絵葉書は先日「二つの『千々石橋』」ということで紹介した物です。→こちらをクリック


下は裏側で「Bridge Chijiwa Japan」と英文で書いてあります。絵葉書として使ったかどうかは疑問なのですが。


絵葉書としては「日本の千々石の橋」ということで書いてもあり、風景も千々石川そのままでなので信じていたらですね。


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下のような絵葉書を見つけ、上の写真より下流で撮ったのか、と思って説明を見たら、なんと「長崎福田千本松原の景」となっているんで、ビックリしました(°0°)。

で、また、私、チョンボして間違えたかと思い何人かの人に聞いたら、「これ、千々石でしょう」という事だったので、よく比較すると特徴的なのが二本の松の傾き加減、橋の様子は一緒です。一緒の風景ということは分かります。


長崎の福田というと福田遊園地(正式名称:長崎遊園地)があったところで、小さい頃は2,3回遊びに行きましたが、「千本木松原」などは見たこともありませんでした。


しかし、心配は心配だったので、福田の地域センターに問い合わせると、歴史に詳しい方がいるので聞いてみますと、親切な対応をしていただきました。


2,3日後、連絡をいただき、福田にはこの風景はないとの事で、やはり「千々石」が正解でした。絵葉書屋さんの間違いでしょうが、こんな事もあるのですね。


あちらこちらの、史跡の看板の説明、町の歴史のパンフレット等々を見ると、時々間違いが見受けられます。皆さんも、ちゃんと書いてあるから正しい、とは思わないように。


この絵葉書も、私が手にして調べなかったら「福田」と思われ続けていたでしょう。


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現在、福田の千本松原の松は松食い虫で枯れてしまっているそうです。下の絵葉書はかっての「福田の千本松原」の風景に間違いないとの事でした。なんとも、良い風景ですね。

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2020年8月27日 (木)

「よく噛んで食べる/忘れられた究極の健康法」★齋藤滋著

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本棚をあせっていたら、上の本が出てきました。2005年発行の本で、かなり前になります。

当時、若い方の顎が細くなったとかで、食事の「咀嚼」(食べ物を噛む回数)が少なくなった影響ではないか、との話しだったかと思います。


確かに、昔の方と、若い方では顎の形が違っていますね。左は、私の写真です(と言いたいのですが・・・)。どちらが良いかは、個人の好みですが。


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咀嚼の回数が少なくなったのは、食事の内容のためだといわれました。当時「オカアサンヤスメ」「ハハキトク」と言う言葉が言われました。

「オカアサンヤスメ」は「オムレツ」「カレーライス」「サンドイッチ」「ヤキソバ」「スパゲティ」「メダマヤキ」の頭文字。


「ハハキトク」は「ハンバーグ」「ハムエッグ」「ギョウーザ」「トースト」「クリームシチュー」の頭文字。


いずれも、柔らかいものばかりで、咀嚼回数は少なく、顎の力はほとんどいりません。


この本に、各時代の食事内容、咀嚼回数が書いてあり、


★「弥生時代」(卑弥呼)~ハマグリの潮汁、アユの塩焼き、ナガイモの煮物、カワハギの干物、ノビル、クルミ、クリ、もち玄米のおこわなど。となっていて、卑弥呼さん意外と良い物食べていますね。

★「平安時代」(紫式部)~ブリとアワビの煮物、カブ汁、ダイコンのもろみ漬け、ご飯。
★「鎌倉時代」(源頼朝)~イワシの丸干し、梅干し、里芋とワカメのみそ汁、玄米のおこわ。
★「江戸時代初期」(徳川家康)~ハマグリの塩焼き、サトイモとゴボウなどの煮物、タイの塩焼き、カブのみそ汁、納豆、麦飯。
★「江戸時代後期」(徳川家定)~かまぼこ、白身魚の吸い物、カレイの煮物、カブとウリの漬物、豆腐のみそ汁、ご飯。
★「戦前」(昭和10年代の家庭食)~大豆のみそいため、たくわん、野菜のみそ汁、ニンジンとダイコンなどの煮物、麦飯。
★「現代」~コーンスープ、ハンバーグ、スパゲッティ、ポテトサラダ、プリン、パン。

以下は咀嚼回数と食事時間、食事のカロリー


★「弥生時代」(卑弥呼の時代)~3990回・51分・1302キロカロリー

★「平安時代」(紫式部の時代)~1366回・31分・1019キロカロリー
★「鎌倉時代」(源頼朝の時代)~2654回・29分・1131キロカロリー
★「江戸時代初期」(徳川家康の時代)~1465回・22分・1450キロカロリー
★「江戸時代後期」(徳川家定の時代)~1012回・15分・985キロカロリー
★「昭和10年代」(戦前の家庭食)~1420回・22分・840キロカロリー

★「現代」~620回・11分・2025キロカロリー
(「よく噛んで食べる・忘れられた究極の健康法」齋藤滋著より)

なお、弥生時代の食事は「魏志倭人伝」の記録を参考にし、咀嚼回数、食事時間は20歳代の学生に実際に食べてもらったそうです。


確かNHK「ためしてガッテン」だったかで、噛むことで唾液の分泌が良くなり、健康に良いという事を放送していた記憶があるのですが。


噛む回数については、食事の内容と共に、食べ方も影響していると思うのですが。
私たちの時代は「飯食うときは、しゃべるな」とか、学校の給食では「静かに食べなさい」といわれた記憶があります。現代、ニュースで学校給食の場面を見ると、4,5人ブループで会話を楽しみながら食べていますね。しゃべりながらでは、しっかり噛むこともできないと思うのですが。もっとも、最近はコロナの影響で、楽しく給食を食べる事も、しばらくの間はお預けになったみたいですが・・・・


楽しく食べるのが良いのか、健康を考えて食べるのが良いのかは各自の問題ですが、両方できる方法があれば良いのですが。


この本「噛んで心を守る」「噛んで脳を守る」「噛んで体を守る」「唾液は不良長寿の妙薬」「楽しんで『よく噛んで食べる』コツ」と言うことも書いてあります。少し古い本ですが、食べることは健康の基本の一つなので、興味のある方はご一読を。


2020年8月24日 (月)

「キマイラ15 魔宮変」~夢枕獏著&【おまけ】「ストリートビューカー」を見た(多分)

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最近、本を読まなくなりました、というより、読めなくなりました。

本を読んでいくと、目が疲れボケ気味になり、また、登場人物が頭に入らず、「山田太郎って出てくるけど、誰だっけ」と前のページを読み返すと、2
ページ前に出ていたり、です。「キマイラ」程度の厚さの本だったら、2時間もあれば読めたものを、結局、3日かかりました。

発行が2020年8月30日になっていますが、今日は8月24日。ママあることではありますが、暑いので、気にせずに・・・


前の「キマイラ14 望郷変」が2019年5月、1年3ヶ月ぶりの登場。で、読むと、忘れている、忘れている。最初に登場人物と多少の筋が書いてあるので、なんとなく思い出し、思いだし。


フォギェルと雲斎の対話に、アンドルッチャンという人物の事が出てきますが、この人物と九鬼麗一との戦い。真壁雲斎と宇名月典善との戦い(本人同士は”遊び”と言っていますが)。変貌を遂げた菊池良二とフィリードリッヒ・ボックの戦い。菊池良二の変貌には驚かされます。この部分読ませ所で、いつも、ワクワクします。


さらわれた織部深雪を救えたかにみえた九十九の前に現れた・・・・


一冊かかっても、深雪さん救われないのですね。かわいそう。


なお、「それは、赤須子の、三千年にわたる、慟哭の声であった。」というように、赤須子も現れます。


例の如く、作者の後書きですネ。

今年69歳だそうです。気力、体力的にも少し落ちてきたようですが、書く意欲は十分。ただし・・・

「キマイラ」だよ、「キマイラ」だよ。

ぼくが今、直面しているのは、かなりしんどいものだ。
「キマイラ」は今、完結に向かって進んでいるのだけれどー
どうなのよ、それ。
完結させてしまっていいのか。
終わらせてしまっていいのか。
(中略)
終わっていいのか、物語。
終わらないことこそを、物語作家は目指すべきなんじゃないのか。
・・・・・・・・・・・・・・

などと、グズグズ書いてはおります。夢枕獏を読んできた者としては、分かるのではありますが・・・


【おまけ】「キマイラ」の事が分からない方のために・・・「ストリートビューカー」を見た(多分)。


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コンビニの駐車場に変な車が停まっていました。多分、ストリートビューカーですね。この車が、通っていたらピースでも。全世界でアナタの姿が見られます。

車を勝手に写真に撮って、ブログに載せて良いのか?
良いんです。私の家も勝手に撮影され、許可なくストリートビューに出され、全世界に知られてしまいました。



2020年8月22日 (土)

第6回「えんがわ・一畳のきまぐれ資料館」~キリシタン禁制の高札

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今回で6回を迎えました。千々石関係の古絵はがき、島原・天草の乱の資料、アニメ・挿絵の原画、栗原玉葉、長崎関係の古地図と古絵はがき、そして今回が「キリシタン禁制の高札」。

キリシタン高札については、先日から書いているので、こちらを→クリック こちらも→クリック


高札はケースの外に出しているので、博物館の展示とは違い、間近に見られます。読み方、内容の説明も置いておりますので、ご利用を。


大きな高札場は浮世絵などにも登場しますが、上の右の絵図、南串山の古地図を見ると、庄屋さんの家の横に、「御高札」と描いてあります。なお、よく見ると石垣が組まれ、高札は柵の中に立てられています。


以前紹介しましたが、庄屋さんの古文書を読むと、出火のとき、最初に高札場、郷蔵を守るように書いてあり、高札がいかに重要なものであったかが理解できます。


コロナの影響で、人を集めるチラシをどうしようか考え、一ト月ばかり延ばしましたが、町内は来週の初め配布する予定です。

市外の方は場所が分からないとのことで、チラシの一番下に写真を入れました。
チラシはクリックすると拡大しますので、ご覧下さい。

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なかなか本物を間近に見られることはないので、是非のお越しを。10月末まで展示をする予定ですが、「きまぐれ」なので延期するかもデス。


2020年8月20日 (木)

長崎県「小浜~雲仙」の登山道路~古写真より

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雲仙に車で登る道路は増えましたが、主な道路は島原、千々石(以前は狭い道でしたが、拡張して使う人も多くなりました)、そして、小浜から登る道路があります。

一応、小浜道路の関係あるところを書けば、


・慶応 3年(1867)4月29日イギリス人二人、茂木・小浜を経て雲仙登山、小地獄にて逮捕され長崎へ護送。

・明治22年(1895)小浜~温泉(うんぜん・雲仙)間登山車道建設が始まる。
・明治43年(1910)千々石水力発電所が発電を開始。小浜の町の夜に美観を添える。
・明治44年(1911)温泉、日本初「県立温泉(うんぜん)公園」として発足。
             温泉・小浜に電灯がともる。
             英国人ジョン・フィンドレー氏、スチュードベイカー(車名)にて温泉(雲仙)にくる。
             乗合自動車(5人乗り)も小浜~温泉(雲仙)間を走る。運賃一人20銭。
・大正11年(1922)小浜~温泉(雲仙)間にバス運行。
・大正15年(1026)小浜~温泉(雲仙)間の自動車道路が完成。
・昭和 9年(1934)雲仙が国立公園に指定。「温泉(うんぜん)公園」を「雲仙公園」に統一変更。

読んでみると、自動車道路が完成する前に、車は通っていたことが分かります。


上と下の絵葉書、似ているようで多少違いがあります。電柱の数、標識の内容。


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上の写真より、電柱が増えています。家の形、ガードレールは一緒かな、という感じ。

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標識を拡大したら、左は「Road to Unzen」のみ、右は「温泉公園」の文字が入っているので、明治44年以降だと分かります。 道路工事は明治22年に始まるので、一番上の写真は明治22年から、「県立温泉公園」に指定された明治44年の間かな、という気もするのですが・・・

右の写真、標柱の小さな看板の文字が全然分からす残念なのですが、縦に書かれた文字、多分「二十歳(才)以下の人は酒を飲んではなりません?????をお通り下さい」と読めるのですが、小浜は飲み屋さんが多かったので「二十歳以下の人は・・・」と書いたのかな?「????をお通り下さい」は、どこを通るのか気になるのですが・


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下の写真は、明治2年発行の「雲仙」(雲仙岳後援會発行)からの写真で、小浜~雲仙間の道路です。今は立派な道路になっていますが、昭和の初めの姿は舗装もなかったということですね。

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「雲仙お山の情報館」から提供していただいた写真です。時代は分かりませんが、戦後ですね。こんな洒落たバスもあったんですね。左はゴルフ場横。中の写真、真ん中の少し上に白っぽい所が見えますが、ゴルフ場と思われます。ということは、バスが走っているところは温泉街から仁田峠までの循環道路。右の写真は完全に循環道路。おっかない所を走っていたんですね。

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このバス、もったいないですね。今、レトロ時代、このバス復活させたら、絶対に評判になると思うのですが。

以上、「雲仙お山の情報館」写真。「湯けむりの記憶(西暦2000年・平成12年記念)」(雲仙市ビジターセンター協議会発行)。「小浜史談」(小浜町史談編集委員会刊)を参考にしました。




2020年8月17日 (月)

「仙石秀久」と「長崎奉行」と「島原・天草一揆」~徒然なるままに

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以前、宮下英樹氏の仙石秀久についての作品にのことをよく書いていました。久しぶりに本屋さんに行ったら、並んでいたので思い出し、買って来ました。

先日より「キリシタン訴人の褒賞金」のことを書き、長崎奉行の長谷川権六について調べたのですが、その時、ついでに長崎奉行の一覧をみていると、長崎事典に、「第十一代奉行 仙石大和守久隆」となっており、仙石といえば珍しい名前で調べてみたら、千石秀久の7男さんでした。


奉行としては寛永十二年に榊原飛騨守と二人体制の奉行になります。わずか一年で馬場三郎左衛門と交代(長崎實録大成)。


長崎辞典では最後に「在任短期間で特記すべき事項なし。」とは書いてありますが、秀久さんの子どもさんなので調べてみると、實録大成の仙石久隆の所に、かの「金鍔次兵衛」さんの事が書いてありました。「金鍔次兵衛」については以前書いていました→こちらをクリック ついでに→こちらをクリック 。


「次兵衛ト云う邪宗門(中略)但此者平日金鍔ノ脇指ヲ指タル故、異名ヲ金鍔次兵衞ト云。同十四丁丑年六月訴人有テ召捕之。」ということは、仙石久孝さんが異動した後のことになりますが、気になるのが「訴人有テ」という所で、先日「訴人褒賞制」の事を書いたばかりですが、この「訴人」の方、莫大な褒賞金は貰えたのでしょうか?


これだけかと思って念のため「新訂 寛政重修諸家譜」(続群書類従完成會刊)を調べたら、下のような文が目に付きました。


(寛永)九年細川越中守忠利肥後國をたまふにより、十月十六日仰せをうけて板倉内膳正重昌に副て熊本に至る。


「板倉内膳重昌」といえば、「島原・天草の乱」で討ち死にした大将ですが、仙石久隆さん、城の引き渡しの時、板倉重昌の副史としてお供しているのですね。


さて、板倉重昌のことですが、「島原の乱とキリシタン」(五野井隆史著)より要約すれば、板倉重昌は一万五千石の小大名。重昌に付けられた石谷貞清は寛永十年に目付となり、上総・相模・甲斐三国のうち1500石を知行。


この、「知行の少ない両人の人選は、幕府が島原一揆を簡単に鎮圧できると楽観視していたことを示していた。」ということなのですが、板倉重昌が選ばれたのは「寛永九年に細川忠利・忠興が熊本城に、小笠原忠眞が小倉に配置換えの時、上使を命じられ城引渡しの役を務めた。このことが、彼の島原派遣決定の理由になったという(岡田章雄『天草四郎』)」。ということなのですが・・・仙石久隆を調べるついでに「寛政重修諸家譜」を見ると、板倉重昌について次のような事もかいてありました。


(寛永)九年肥後國熊本城を細川越中忠利に、同国八代を細川三齋(忠興)に、肥前國小倉の城を小笠原右近大夫忠眞に、同国中津城を小笠原信濃守長次に、同国高田城を松平丹後守重直に、豊後國杵築城を小笠原壹岐守忠知にたまふにより、十月十六日にかの國々におもむき、城引渡の役をつとむ。


ということで、熊本、小倉のみならず、思ったより多くの九州の城の引渡役を務めたことが分かります。多分、このことが九州各藩の事情を良く知っているという事で、上使に選ばれた一番の理由だと思うのですが・・・


十四年十一月九日肥前國嶋原有馬の古城に、切支丹の賊徒盾籠ときこえしにより、誅伐の上使をうけたまわりて、有馬におもむき、十五年正月朔日賊徒等を惣攻のとき、原城出丸の塀際において討死す。年五十一。

なんとなく、徒然なるままに調べているうちに、仙石秀久→長崎奉行 仙石久隆→島原・天草一揆 板倉重昌と繋がり、歴史って面白いですね。



2020年8月15日 (土)

「島原の乱」と「京都遊廓島原」の希薄な関係&「コンビニぶらり!ラッキー3つ!!」

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以前より、島原・天草一揆の拠点「原城」の名前の由来・歴史を調べていたのですが、その折り、京都の遊廓「島原」の名前と島原の乱の「島原」とが関係あるというネットの情報があり、出典、根拠なども書いてなく、またネットデマかと思いつつも2冊ばかり本を読んでみました。

なお、こちら、島原・天草一揆の本場なので、数名の人にこの話をしても、知らないということでした。


「三大遊廓」。著者は”堀江宏樹”氏。作家・歴史エッセイスト。著書が「乙女の日本史」「乙女の日本史 文学篇」「女子のためのお江戸案内」等。


「地名で読む京の町(上)(下)」。著者は”守谷尅久”氏。主な経歴として、京都市史編纂所研究員、京都大学人文科研究所講師、京都市歴史資料館初代館長等。著作が「『花』が語る日本史」「京医師の歴史」「京都の祭り暦」「京都暮らしの大百科」等。


両氏が京都の「島原」について書いてある所だけ抜き書きします。


その前に、一応の歴史として、京都の遊郭は最初は天正17年、豊臣秀吉が認可して設けられ、場所は二条通りの寺町から柳馬場にかけて、二条柳町と呼ばれる。


二条城が築かれたため、二条通は大手筋と位置付けられ、遊郭が洛南の荒地六条通の新地町に移され、六条柳町・六条三筋町と呼ばれた遊郭で、「新屋敷」と呼ばれる。この地も東本願寺の寺内町で人口の密集のより再度の移転。


寛永17年、突如、洛北朱雀野への移転が命じられる。


森谷氏の書かれたものを抜粋しましたが、堀江氏の本では、もう少し内情が書かれています。なお、「突如、洛北朱雀野への移転が命じられる」がキーポイントになります。


堀江氏の本より・・・・・・

・・・板倉重宗(注:当時の京都所司代。なんと、島原・天草の乱で討ち死にした板倉重昌の兄。)によって指示された移転先は、京都の西端の「朱雀野」という、ずいぶんと鄙びた場所だったのです。さらにあまりに急な命令だったため、1641(寛永18)年の引越作業の騒動は、まるで「島原乱の如し」と話題になりました。
島原の正式地名は「西新屋敷」ですが、以降、島原遊郭と呼ばれるようになったのはこういう理由と経緯があったからです。

森谷氏の本より・・・・・・・

寛永17年(1640年:堀江氏の本では”寛永18年”)突如、洛北朱雀野への移転が命じられたのである。・・・・外周には土塀が設けられ・・・外界と隔絶されることになった。突如の移転命令による引っ越し騒ぎを、その数年前に勃発した島原の乱の混乱になぞらえて、「島原」と呼ぶようになったとか、堀に囲まれた新遊郭が島原城に似ていたからとも、たんに新地が島状になっていたからとも、命名の由来は例によって数説が伝えられている。

という事で、堀江氏は「島原・天草一揆」という説のみ、森谷氏は「・・・例によって数説が伝えられている。」と慎重な態度。多分、作家・エッセイストと学者という立場の違いでしょうが。大体の筋道は一緒です。

いずれの本も根拠、出典などが分からず、多分言い伝えなだけなのか、はっきりしないので「希薄な関係」にしました。

なお、遊郭の急な移転を命じたのが、島原・天草一揆で死んだ松倉重昌の兄重宗。この遊郭が「島原」と呼ばれるようになったというのには、なにか因縁めいたものを感じます。


森谷氏の本は「祇園 八坂神社ー栗飯にまつわる祇園祭、誹謗しあうおけらまつり・・・」など京都の各地についてのまじめな話です。


堀江氏の本は「遊女のヘアケア」「『つねる』と男は本気になる」「遊女が好んで用いた体〇」など面白い話が書いてあります。もちろん真面目なところもありますが・・・どちらの本を読むかは、自分の興味にあるほうを。


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今日、コンビニに行ったら、ラッキーなことが3つばかり。

「冷感マスク」については話ばかりで、こちら方面では実物は見たことがありませんでした。やっと、本物を手に入れることができました。一人一点だったので、明日、また買いに行く予定です。


「キリンレモン 無糖」が置いてありました。今年は、炭酸水が流行っているようですが、私も炭酸水を愛飲しています。以前より、キリンレモンの「無糖」が発売され、社長さんが自信をもって宣伝していたのですが、こちらではついぞ見かけることが無く、田舎では・・・と無念な思いをしていたのですが、やっと入荷していました。お味ですか?もったいなくて、まだ飲んでおりません。


「食べマス」が置いてありましたミニオンの「ボブ」さんですね。あと2種類あるとかで、また、明日行ってみます。


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これで、一週間は幸せに暮らせます。今日は本当にラッキーな日でした。

大事なことを書き忘れていました。九州の片隅で起こった島原・天草一揆の事が京都まで伝わっていたという事は、この一揆がいかに大事件だったのかが分かります。以前、八代市立博物館、南島原市で天草・島原の乱の展示会があり、図録の題が「天草・島原の乱 徳川幕府を震撼とさせた120日」でした。まさに、その通りだったのでしょう。



2020年8月13日 (木)

「日本最古のラムネ」

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先日、某図書館に出かけ、喉が渇いていたので、図書館の中にカフェがあったなと思いだし、行ってみたらまだ開店前。で、ドアの前に上の写真のようにラムネが置いてあって「このラムネ、日本最古」と書いてあり、説明が書いてありました。下の通りです。


外国から伝えられ、日本で育ったラムネ。

(有)古田勝吉商店の初代古田勝次さんが居留地の外人さんから直接学んで作り出した「御手引ラムネ」140年たった今もがんばっています。
ラムネを飲んで世界の人がみんな仲良くありますようにとの思いで握手のマークを考えたんだって。さぞかしハイカラだったんだろうなぁ。


ということだそうです。ラムネ製造について調べたら、チコちゃん流に言えば「諸説ありますが・・・」という感じですが、「御手引ラムネ」でググるとイロイロな記事があって楽しいですよ。


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で、私、見たからには欲しくて「これ、ビンごともらえる?」「いいですよ」ということで2本ばかり買ってきました。

「ビン開けましょうか?」と聞かれましたが、家に帰るまで30分あまり。「そのままで」と返事したら「あかなかったら、またお持ちください」と親切なお言葉でした。


帰りがけ、ストアーにいったら、一番右が普通の市販のラムネ。左が、普通のペットボトルに入ったラムネがあったので、ついでに買って来ました。


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一番左のラムネ。キャップのシールをはずせば、玉を落とし込む部分が出てきます。で、本体の一番上のキャップを開ければ、玉と玉が出ないようにする部分が分かれるはずでしたが、ごらんのとおり、玉も一緒にくっついてきました。玉のないラムネは、サイダーの味でした。

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やはり、ラムネはこのビンの「くびれ」が最高ですね。ウチのカミサンの寸胴(ずんどう:人や動物の胴体が胸から腰にかけて起伏に乏しく、寸法的に変化に乏しい様子を指した日本語表現である。・・・Wikipediaより)に比べれば、なんと素晴らしい曲線か。思わず、なでたり、頬ずりをしました。

で、玉が良いですね。この「美」ともいえる珠玉の形。ラムネの魂、究極の美。私も2個は持っているのですが、比べるのは野暮ですね。


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小さいときは、この玉が邪魔でなかなか上手には飲めなかったのですが。やはり、苦労して飲んだラムネの味は忘れられません。これが、いつも上手に飲めるようになったとき、「大人になった」と思いました。

最近では、ペットボトルに入った飲み物ばかりで、キリンレモンの瓶入りも今年で廃止になるそうですって。


今日はカミサンがいないので、ラムネを思い切り飲むことができました(ラムネは糖分が入っているので、飲んでいるのを見られると叱られます)。

余談ですが、ラムネを飲みながら、又もや”坂口安吾”の「ラムネ氏のこと」を思い出しました。いつもの事なのですが・・・



2020年8月11日 (火)

橘神社「夏詣」&「湯立祭」

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橘神社で「湯立祭」があるとかで、お近くだから出かけてみました。

御手洗(みたらし)。花が浮かべてあり、「花手水」というらしく、とてもきれいでした。いつもの地元「ひまわりTV」さん。


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「夏詣」の文字。「夏詣」は東京浅草神社が発祥だそうです。一年の初めは「初詣」。後の半年を無事過ごせるように「夏詣」を始めたそうです。詳しくは、こちらをクリック→「浅草神社」

「夏詣」は長崎県では「御館山稲荷神社」、「小浜神社」、「橘神社」で実施しているそうです。「橘神社」は今年が初めてだそうです。


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最初に、神事があり祝詞など、続いて「湯立祭」。
最初に巫女さんのお神楽。お湯の所と、四隅で神楽舞。

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続いて、橘神社の宮司さんが刀を持って、お湯の所で、えぃ!やっ!と気合いを入れて、次に、最初の写真のようにお湯に手を入れるというより、掻き出すという感じで、すごかった。続いて竹の大きな御幣で勢いよく、お湯をかき回す!かき回す!写真に見るように、お湯があふれ出て・・・すごい迫力。

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次に、多分、他の神社の宮司さんだと思われますが、笹の付いた竹で、お湯を、見ている方に湯滴がかかるように、勢いよく振りかけます。この湯滴を浴びると無業息災、コロナ退散になり、私もたっぷりと浴びてきました。
 
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心配された雨は降らずにすみ、「肥前千々石鉄砲隊」の奉納演武。コロナ退散の祈りも込め・・・空砲とはいえ、いつものようにすごい轟音と煙幕。

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最後に、湯立神楽につかった竹の笹をいただきました。今日のメンバーの皆様。

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ということで、予定されていた、ミニコンサート、出店は中止になったものの、皆さんの無病息災、悪病退散を願う「夏詣」「湯立祭」は素晴らしいものでした。また、来年も開催されると思います。日程は橘神社のホームページ、Facebookなどでご確認のほどを。来年はお越しのほどを。


2020年8月 9日 (日)

2020.8.9 長崎原爆の日~一枚の絵はがき

Img_20200808_0003

ここに一枚の絵はがきがあります(クリックすると拡大します)。

礼拝が終わったあとの浦上天主堂だと思われます。

左側が礼拝堂か?

見ると全部が子どもたちです。今の子どもと違って、ピースなどもせず写真機の方を見つめています。


みんな、しっかりした、澄んだ目をしています。

よく見ると、手を組んだ祈りの姿の子どももいます。

子どもたちは、今でいえば、小学校の中~高学年かな?

原爆が投下されたのが、昭和20年(1945年)8月9
日。

浦上地区には沢山のキリスト教信者の方が住んでいました。


この絵葉書を見ていると、大人になった、この子どものたちの何人が犠牲になったのか・・・



2020年8月 7日 (金)

「ためしてガッテン」試してみたら~夜間頻尿

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なんと色白で、スンナリした足でしょう(^o^)!

7月15日の「ためしてガッテン」。「朝までぐっすり快眠!夜、トイレに起きないための新秘策」という内容でした。


私も1年ほど前から、夜中に2~4回ほどトイレに起きることが続き、朝から(昼も)なんとなくスッキリしないことがあり、頭がボンヤリという日が続いていたのですが・・・


ちょうど夜間頻尿に関する番組なので、見てみました。


夜間頻尿の尿は膀胱に溜まるのではなく、ふくらはぎに溜まるのだそうです(O_O)。


で、それを防ぐには、弾性ソックス(男性ソックスではありません)を履くことが有効だそうです。一番左のハイソックスタイプが良いということで、ドラッグストアに行ったら、置いてあったので買ってきました。最初は慣れないだろうと、少しゆるめのLタイプ。両足で1,980円。


朝から夕方まで履くのが良いそうですが、最近は暑さが厳しくなってきたので、適当に履いたり、脱いだりしていますが。


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それと、足を15㎝程度に上げて、約30分間。あまり、夜遅くだと逆効果だそうです。夕方までに。落語が一席30~40分程度なのでYouTubeで聞きながら。なにも無ければ眠ってしまいます。

Photo_20200807162002  

で、結果として、この3週間ほど夜間2~3時に起きたのが2,3回。朝5時頃にトイレに行きますが、お医者さんに言ったら「その時間はもう朝だから、関係ない」。

ということで、以前ほど頭もボンヤリしなくなりました。個人によって効果は違うと思いますが、私の場合は効果があったみたいで、皆様も、夜間頻尿で苦しんでおられる方はお試しを。糖尿病、心臓病がある方はお医者さんに相談をして、ということだそうです。


なお、詳しくは→「ためしてガッテン」をクリック




2020年8月 5日 (水)

「キリシタン訴人の報償金」と長崎の濃密な関係

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長崎の高札場風景。上は「長崎虫眼鏡」より。(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)

説明には


右之御制札

七串 桜町之辻
壱串 江戸町大波戸
弐串 おらんだ出島
三串 浦上村山王前
三串 長さきむら
四串 小せとむら

とありますが「串」の意味が分かりません。高札の数かと思ったのですが、「桜町」に7本は多すぎるような。


なお、下の図は「長崎名勝圖繪」(昭和6年発行・長崎史談會発行)より「出島」です。丸印のところが高札場だったと思われます。


Photo_20200803192501

さて、話しが少し込み入ってきますが、「踏み絵を踏んだキリシタン」(安高啓明著・吉川弘文館発行)に下のように書いてありました。

キリシタン訴人褒賞の制札は、各地の主要高札場に掲げられた。長崎では、毎月一日から五日まで嘱託銀が置かれ、寛永三年には、銀三〇〇枚の現物が置かれている(「長崎実録大成」)。これが天和元年になると、五〇〇枚と増額して置かれるようになり、周辺三町から番人が配された。


ということで、ほんまに現物を置いたのかと思い「長崎實録大成」を読んで見ると(下書きと、ブロブにアップしたとき行がズレるのでベタで書きます。)


御高札並嘱託銀

一 慶長ノ頃ヨリ大波戸地内二御高札塲ヲ建置ル。寛永三年(1626)切支丹訴人為嘱託銀三百枚被掛之。(嘱託銀三百枚とあるは百枚の誤りかの・・・の注有り)
一 延實八年(1680)八月豊後町掛リ水溜リノ所二土石ヲ埋メ、左右垣ヲ埋メ、左右石垣ヲ築、御高札塲被引移之。
柵内 入二間二尺寸 長六間四尺二寸
但晝番一名  夜番三人宛相勤シム
一 天和元年(1682)嘱託銀二百枚相增、都合五百枚ト成ル。(以下略)

ということで、年代などを合わせると「踏み絵を踏んだキリシタン」が「長崎實録大成」を参考にしたことが分かります。


ここで「嘱託銀」というのがよく理解できないので、Wikipediaで調べると


嘱託銀(しょくたくぎん、そくたくぎん)は、江戸幕府が犯罪に関する密告を奨励するために出した報償金制度である。特にキリシタン取締りのために出された物(訴人報償制、そにんほうしょうせい)が知られており、これに限定する場合もある。


とあります、が、「概要」の所を読んで、エ~!ホンマかいなと思いました。以下の通りです。


1618年(注:元和4年)頃、長崎奉行を務めた長谷川権六がキリシタン弾圧のため市中に銀の延棒30枚を掲げてキリシタンや宣教者の密告を奨励したといわれている。1626年(注:寛永3年)に銀100枚へと増加された。これは長谷川独自の政策であったが、島原の乱後の1633年(注:寛永10年)鎖国令制定の際に江戸幕府においても正式に採用されて全国に広がる。(以下略)


ということで、長崎が「キリシタン訴訟人の報償金制度」のルーツということになります。


参考文献として「重松一義『嘱託銀』(『国史大事典7』、吉川弘文館、1986)」「清水紘一『嘱託銀』(『日本歴史大事典2』、小学館、2000年」「『日本史総合辞典』東京書籍 林陸朗 村上直 髙橋正彦 鳥海靖 1991年11月10日初版発行」と3冊の本があげられていました。ということは、このWikipediaの説明を書いた人は原典を読んだものではなく、3冊の事典、辞典を孫引きしたことが分かり、調べついでに3冊の本を読んでみました。


「国史大辞典7」には


しょくたくぎん 嘱託銀 江戸時代、切支丹(伴天連)禁令強化の一手段として用いられた伴天連訴人奨励のための懸賞金。そくたく・嘱託銀とも呼び記される。寛永三年(1626)長崎ではじめて行われ、同十年の鎖国令により全国へ拡大適用。訴人へ銀百枚と増額。同十五年以降は鎖国令と別に、諸国高札場に伴天連訴人には銀二百枚を与える旨の高札が掲げ、その徹底が図られた。


とあり、参考図書が「新村出『日本吉利支丹文化史』『新村出全集6』」「海老沢有道『日本キリシタン史』」「清水紘一『キリシタン訴人制度について』(キリシタン研究 19)」。本当はこちらの参考図書まで読まないといけないのですが、図書館にも置いて無いのでパス。


「日本史歴史大事典2」には~「そくたくぎん」にて標記。主なところだけ書き抜きます。


嘱託銀 そくたくぎん 犯罪密告奨励のための報償銀。・・・キリシタン摘発時の報償銀が最高額であった。同褒賞銀制度の起源は一六一八年(元和元年)頃、長崎奉行長谷川権六によって市中の要所に延棒が陳列され、同地の潜伏する宣教師の密告が奨励された。・・・島原・天草一揆後諸国のキリシタン根絶に乗り出した幕府により、全国令として布達(1641年)。


参考文献として「清水紘一『訴人褒賞制について』(キリシタン研究第十九輯)


「日本史総合辞典」~この辞典は分野別に分けて書かれてあり「キリスト教の禁止と島原の乱」に「訴人報償制」として記載。


訴人報償制〔そにんほうしょうせい〕 ・・・密告人に対しては報奨金を与える政策をとった。元和4年(1618)長崎で初めて開始されたと考えられ、島原の乱のち全国的に適用されるようになった。・・・(参考文献記載なし)


この長谷川権六については「長崎事典」に次のように書かれています。


長谷川権六郎守直(はせがわごんろくろうもりなお) 生没年出自共に不詳。4代目奉行。・・・長崎奉行に存在した時期も慶長十九年十二月~寛永三年(長崎奉行歴代略譜)。元和元年(1615)~寛永二年二年(1625)「長崎実録大成」。また、元和二年(1616)(柳営補任)など不同である。寛政重修書家譜には、長谷川権六らしき人物は全く記載がなく見当たらない。


なお、〈事績〉としてキリシタンと関係ある所を書けば「①宗門人別帳をつくる。」とあり、あとキリシタン教徒を処刑したとあるばかりで、キリシタン訴人報償については記載なし。


さて、先日ネットで論文を拾ったのですが、残念ながら、著者等を記録してなく、「キリシタン高札が最初に建てられたのは寛三年であった」と書いてあり、注の所に「『長崎叢書』増補長崎略史下巻七百頁所携寛永3年の条」と書いてありますが、これ、最初の「長崎実録大成」に書かれてある、「寛永三年(1626)キリシタン訴人・・・」と年代がピッタリ合うという事で、多分、このことだと思われます。


さて、長谷川権六の次の奉行は「永野河内守」で「長崎實録大成」には就任が「寛永三丙寅(1626)」になっており、長谷川権六には寛永3年の記載もあるので、ひょっとして、月までは分かりませんが、この年に「水野河内守」と交代した可能性もあります。


ただ、「長崎實録大成」の「永野河内守」に「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之。」との記載があり、初めに引用した「一 今年切支丹訴人嘱託銀三百枚被掛之」と同じで、多分、「長谷川権六」と書かれているのは「水野河内守」ではないかと思ったりするのですが・・・


いずれにしても、「キリシタン訴人報償金制」「キリシタン禁制の高札」は長崎が発祥の地で濃密な関係があったような・・・長崎の歴史書は多く、また、出版されていないのもあので、不明な点は多くありますが、論文をいろいろ読むと、最後にこう書かれているのが多いようです「今後の研究を待ちたい」。私も、今後の研究を待ちたいと思います。


最後に、この褒賞金についてですが、銀300枚とか、200枚とか書かれていますが、江戸時代、貨幣は変動相場制、また、比較を大工の手間賃にするのか、米価にするのかなど一概にはいえませんが、ネット検索すると「3,400万」とか「3,500万」とか書かれたものがあり、とにかく、当時では想像できない金額だと思われます。


この、報賞金が払われたかどうかは、探してみましたが見当たらなく、ただ一つ「長崎剳記」に次のように書かれていました。


一 明暦三年(1657)酉十月十一日二、大村ノ百姓、長崎

     酒屋町ノ池尻理左衛門所ニテ、大村二切支丹宗門ノ
     者出来候由、申候。理左衛門、御奉行黒川与兵衛(注:16代長崎奉行)二申上、
   銀十三貫目、為御褒美被下候事。

という事で、報奨金は払われていたようです。この「銀13貫目」がいくらになるのかは、調べてみてください。


以前にも、高札の事を書きましたが、庄屋さんの書いたものに出火の時には高札場を守れという事が最初に書いてあり、高札はそれほど大切だったことが分かります。


下は、庄屋さんの所にあった絵地図ですが、大きな赤丸のところ。赤の矢印が庄屋さん宅、すぐ横に「御高札」と書いてあり、周りは柵に囲まれています。多分、各地の庄屋宅の所にもあったと思われます。


Img_20200803_0001 

長々とまとまらないまま書きました。この件に関しては、長崎の歴史を書いた本を読み解かなければいけないのですが、今回はこれにて一応終了。多分、誤字、脱字も多いと思われますが、お許しあれm(__)m。

 


2020年8月 2日 (日)

「切支丹禁制高札」を読む

P7280356

「高札」については以前2回ほど書きました。

1→こちらをクリック
2→こちらをクリック

今回、「気まぐれ資料館」に展示をするので、内容説明のため読んでみました。多少、間違いもありますがお許しあれ。

なお、上の写真、下の説明文とも、クリックするとはっきり見えます。


Img_20200802_0001


意味は概略ですが


キリシタン(注:切支丹・吉利支丹・きり志たん・貴哩志丹、時代により色々な表現があります)は従来から禁止されている
不審な者があれば申し出でよ
褒美として

バテレン(司祭・神父)を訴えた者には 銀500枚

イルマン(修道士)を訴えた者には 銀300枚
キリシタンに立ち帰った者を訴えた者には 同じく(銀300枚)
同宿(教会の世話人)・キリシタンの者を訴えた者には 銀100枚

を与える


隠して他の者より分かった場合には、名主(庄屋)、5人組まで共に罪に問われる



他の人より訴えられ、バレた場合は名主、5人組まで罰せられるとは、厳しい。


さて、報償金の額を現代のお金に直すのは難しく、江戸時代、価格の変動があり、比較として大工の手間賃にするか、米の値段にするかで違いもあり、ということですがネットで検索すると「銀500枚は3,500万」「銀500枚は3,400万」「銀1枚は160gの重さで、これは庶民の約1ヶ月分の賃金に相当し、非常に高額な賞金である事が分かります」などと書いてありました。


なお、高札場は各村にもありましたが、下の絵は都会の高札場。左は三代目広重の「東京三十六景  日本橋御高札」。右は作者、場所不明。

Img_20200801_0002 P7310573

次回は、キリシタンを訴えたときの報償金と長崎の密接な関係を。多分。・・・夏バテしてなかったら・・・



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