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2020年4月23日 (木)

「島原藩江戸屋敷」~下屋敷(?)について・其の二★ちょっと脱線

Photo_20200423202001

く下屋敷のことについて書きたいのですが、資料と地図の整理がついていないので、今日は”ちょっと脱線”します。

上の図は以前「島原藩江戸屋敷はどこだ」に使いましたが、少し付け加えがあるので・・・


赤の丸印が島原藩のお殿様の上屋敷。「松平とのも」と書いてありますが、正式には「松平主殿頭(まつだいらとのものかみ)」。

数寄屋橋を渡ったところに、何やら四角なところがあります。城には真っ直ぐは入られないように、門のところに枡形といって四角に囲んだ所があり、ここで、攻め入った兵は曲がりながら攻め入るので混乱をし、上から矢を放ったり投石をします。数寄屋橋を渡ったところの四角には、これに属するものだと思われます。江戸城の橋を見ると、渡った所全部にこの四角いのが描かれていました。青の丸印「南町奉行所」です。たぶん、桜吹雪のオジチャンの勤務先です。この頃はいたのかどうかは不明ですが・・・

さて、島原藩松平家は「深溝松平家」になり、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つで、松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となります(Wikipediaより)。


下図、江戸城の近くだけを撮して見ましたが(萬延元年版の江戸図)、「松平」(紋所があるのが上屋敷・上屋敷だけ印を付けました)というのが多いのに気づきます。今まで、これ全部、島原藩松平氏と一緒の徳川家のご親戚かと思っていたのですが、江戸屋敷を調べるに当たり数冊本を読んでいたら、「重ね地図で読み解く大名屋敷の謎・歴史探訪家 竹内正浩著(宝島社新書)」に次のように書いてありました。


江戸周辺の大名のほとんどが、親藩・御家門もしくは譜代大名だった。有力な外様大名は徳川家と縁組みを交し、松平姓を賜っていた。明治になると、松平姓を捨て、本姓に復帰した旧大名家も多く、また歴史の教科書でも、毛利や薩摩といった姓で掲載されているため違和感を覚えるが、江戸期の大名は「松平」だらけでだったのである。たとえば毛利家は松平大膳太夫、島津は松平薩摩守、前田家は松平加賀守といった具合である。


ということで、なぜ「松平」が多いかという謎が分かりました。城から離れた所にも「松平」の文字があります。


Photo_20200423202401

徳川家康は、松平竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と名前が変わるわけです。いくら有力な外様大名で縁組みを交わしたとは言え「徳川」姓は名乗れないので、松平姓を名乗ったのだとは思います。私の考えですが。

さて、以前から「松平」から「徳川」に変えたのは、なぜかと考えてはいたのですが、今日、本屋さんに下のような本が置いてあり、1500円+税で、年金生活で金は無く、本を買ってくるとカミサンから「又、買って来て!!」と怒られるのを予感しつつ、マンガ本だという事もあり(近頃は目がかすんで活字は読みにくい)買って来たら、これがビンゴで「松平」から「徳川」に変えた経緯が書いてありました。まだ全部読んでいませんが、次の通りです。


「中国では前の王朝を滅ぼして新たに皇帝になった者が何人かいるが、皇帝たちは『徳があった』ことになっている。徳があったからこそ天下がとれた。天がそれを祝福したと考える。徳川家康は朱子学の考えが分かっていて、松平から改姓する際に、『徳』川と名乗ったんだ。」


という事で、これにて一件落着。


Img_20200423_0001

とは思うのですが、改名の経過はWikipediaの「徳川家康」の所に書いてあるので合わせて、ご参照下さい。

さて、「下屋敷(?)」まで、資料集めがはかどらず、結論までどれくらいかかるかは不明ですが、お付き合いのほどを<(_ _)>。



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