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2020年4月20日 (月)

「島原藩江戸屋敷」~下屋敷(?)について・其の一

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以前「島原藩江戸屋敷はどこだ?」(→こちらをクリック)ということで紹介をしましたが、別件で調べ直していると、特に下屋敷について面白い事があったので、2、3回に分けて書いてみます。

上の写真はWikipedia「島原藩」に載っていた写真。左は数寄屋橋門と書いてありますが、昔の江戸の絵図を見ると、数寄屋橋門のすぐ左に「島原藩上屋敷」があるので、多分大きな屋根がそうなのではないかと推測できます。島原藩江戸屋敷は明治大学の前身「明治大学法律学校」として使われましたが、数寄屋橋公園の近くに「明治大学発祥の地」として記念碑が建てられています。左の写真の大きな建物は旧日劇。(下の写真はGoggleEarthより)


上の右の写真は「旧島原藩邸中屋敷黒門」となっていますが、島原藩中屋敷は慶応大学三田キャンバスになります。なお、「慶應義塾百年史」328ページには中に入ったところの写真が載っています。


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で、本論ですが、この下屋敷について「江戸名所図絵」の「千代が崎」のところに、島原藩主松平候の名前が見え、説明文は以下の通りです(ちくま学芸文庫・新訂江戸名所図会3より)。

千代が崎 
渋谷宮益町より、目黒長泉律院へ行く道の傍ら、芝生の岡を言ふ。佳景の地にして永峯に属せり。絶景観というは、松平主殿候の別荘の号にして、閑寂無為自然にその地に応ず。(注:下線は私が引いたもの、「主殿(とのも)」は島原藩主松平公の官職名)


下が千代が崎の図。


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上の図、右上の説明文です。

千代が崎
 行人坂の北、永峯松平主殿候別荘の後ろ、中目黒の方へ少し下るところなり。初め鑓が崎といひしを、後に千代が崎と改められしといふ。主殿候構いの旧邸にして池の傍らに衣掛け松といふあるは、新田義興の室、義興矢口の渡しにて最後のことを聞きかなしみに絶えず、この池に身を投ぐるといへり。絶景観といへるもこの別荘の号なりとぞ。


下が萬延元年の江戸図より、該当のところの図。「松平ともの」は「松平主殿」。


島原藩といえば「六公四民」。年貢の六割が藩に取られ、四割が自分の取り分。いってみれば6割が税金で取られていました。で、お殿様は優雅に暮らされていたことが分かります。


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目黒区のネットで「目黒の地名 千代が崎」ということで紹介されています(→こちらをクリック)。少しく気になるところもあるので・・・

「・・・また千代が崎には、こんなエピソードも残されている『松平主殿頭の屋敷内に三基の異様な灯ろうががあった。この灯ろうは大正15年に大聖院(名黒区目黒三丁目1地番)に移されたのだが、それが十字架をした切支丹灯ろうであることがわかり、この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになった』のである。・・・」


「切支丹灯ろう」は「織部灯ろう」のことで、この灯ろうはキリシタンとは関係ありません。「風間書房刊『キリシタン研究・第二部論攷篇 松田毅一著』の中の「第四章 織部灯籠とキリシタン宗門」において、織部灯籠がなぜキリシタン灯籠といわれ始めたのかが詳しく書かれています。目黒区のネットの記事、早く直したほうが良いのではないかと思うのですが。


閑話休題。

江戸時代の地図を何枚か眺め、ネットで調べ裏付けを取ると、あと二つばかり、おや?っと思ったことがあり、現在調査中なので、後日、またネ<(_ _)>。




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