雲仙市小浜町にあった「肥前温泉災記」について
3月1日まで、南島原市と西南学院大学博物館連携特別展が開催されたときのチラシです。
寛永14年(1637)の島原一揆、寛政4年(1792)眉山が崩壊し津波が起こった島原大変の貴重な資料が展示され、また、この一揆、災害に伴う慰霊碑が各所に建てられていますが、その拓本も展示されていました。
今日は、このチラシに使われた絵についてです。
この絵は「肥前温泉災記」に載っている絵です。下の絵がチラシに使われているのが分かると思います。実はこの絵は色がついているのですが・・・
チラシには「『肥前温泉災記』肥前島原松平文庫蔵」となっていますが、この資料、実は小浜町(現雲仙市小浜町)にあった古文書です。これが、島原の松平文庫に所蔵された経過がほとんど知られていないので、一応記録にしておきます。
この経過については、右の小冊子「肥前温泉災記の解説」に書かれています。なお。この小冊子には左の「肥前温泉災記」の読み下し文も付いていています。書いたのは、元小浜教育長(町村合併のため、小浜町最後の教育長になります)のT氏。
詳しく書けば長くなるので、概略を書いてみます。氏名はイニシャルのみにしてます。
T氏(以下T氏と標記)が教育長の昭和50年代後半、町内のKという食堂の経営者A氏がT氏を訪れ「肥前温泉災記」を持ってこられたそうです。T氏は小浜町の文化財だから大切にするようにと、一部コピーをされそうです(多分この頃、カラーコピーが役場に無かったのか、白黒のコピーです)。
その後、平成3年、雲仙の普賢岳に噴煙が上った頃、島原市長の代理として、島原市教育委員会社会教育係長K氏がA氏宅を訪れ、「お宅に保存されている『肥前温泉災記』は、島原市にとって重要な文化財です。是非、譲って下さいませんか」と言うことで、A氏が無償で提供されたそうです。
T氏は話を聞いて「私は『しまった。』と悔しがりました。私はA氏家の家宝として手放されないと思ったので当てがはずれてしまいました。」と書かれています。
その後、A氏の所には、当時の島原市長鐘ヶ江管一氏の感謝状と記念品が贈られたそうです。というような経過で、現在は島原図書館の二階にある松平文庫に所蔵されています。
なお「肥前温泉災記」の最後には次のように書かれています。
天保庚子(注:天保11年・1840)年春日借覧大原氏所蔵之書
謄写 三月四十五校原本謬誤多矣他日得善本校正 濱貞彛(?)
絵図 勝之助写
となっているので、この他に「善本」が別にあることが分かります。
なお、絵図の「勝之助」については、T氏が調べられたらしく「尾崎勝之助 千八百五年~定江戸詰 十三石二人扶持」と書かれています。
T氏は十年過ぎてから、松平文庫を訪れ「肥前温泉災記」を手に取ってみられたそうです。難しくて読めなかったそうですが、瑞穂町の郷土史家T先生を訪れた時、辞書などを紹介され、それから2年をかけ、右の「肥前温泉災記の解説」を書かれたそうです。読んでみて、大変な仕事だったことが分かります。
島原市がこの本の存在をどうして知ったのかは不明ですが、この古文書が残っていれば、雲仙市の貴重な資料になっていだろうと思えば残念な事です。
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