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2019年12月10日 (火)

「臨終」という事

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11月26日~30日まで、お寺から「ご正忌報恩講法座」との案内があったので、出かけてみました。お寺は浄土真宗西本願寺派になります。

「ご正忌報恩講」は親鸞の命日に関わる法要、「法座」は(意味はいろいろあるようですが)、仏法を説き聞かせる会になります。

お寺では、いろいろな時、説教師というのか布教師というのか、いつも講師の先生を迎えて法話があります。なかなか、いい話があるので出かけています。本来、26日から30日まで、朝座、晩座、毎日2回、通算10回のお話ですが、26日の朝座だけ聴聞をしました。さびいからですが・・・(^^;)

今回は、福岡のお寺からの講師で、話は分かりやすく、面白い中にも仏様の話をされ、よく理解できるものでした。井上ひさしさんの「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」という言葉どおりの法話でした。


以下、録音を取ってなかったので、うろ覚えの話になります。私の考えとチャンポンになっているところもありますが、骨子は以下のとおりです。なお、臨終に関しては各宗教・宗派で考え方が違うようですが・・・


この法話の中で「臨終とはなんですか?」という問いがあり「お医者さんが、脈をとってご臨終と言いますが、あれ間違いです」とのことで、「え!マジ」とは思いましたが、この言葉、一番上の「阿弥陀経」の一節「臨命終時」を簡略化して「臨終」。意味としては「命終わる時に臨み」ですから、まだ、「生きている時」のことになります。


では、私たちは、いつが「命終わる時」なのか、分かりませんね。私の経験で、学校の先生がテストの採点をしているとき、こたつの中で亡くなられた方を2名ばかり知っています。昼の運動会で元気よく走っていた奥さんが、夕方倒れ、くも膜下出血で亡くなりました。このような事は皆さんも多少なりとも経験があると思います。


言ってみれば、私たちも、いつ「命終わる時」に「臨んで」いるのかは分からないわけです。というより、
私たちは常に「臨終」、「命終わる時に臨み」という時間を生きているという事になります。

あとは阿弥陀仏の話に関係づけた話になってくるわけですが、長いので省略します。

で、確かに私たちは常に、いつ死ぬか分からない「臨終」に向き合って生きているわけですから、今、この生きている時間を大切にしなければと、いつもと違って真面目に考えました。


さて、この話を聞きながら思い出したのが、正岡子規の「病状六尺」の一文。


〇余はいままで禅宗の悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった(「青空文庫」より)。


「臨終」の時を、平気で生きることがどれだけ自分にできるのか・・・



 

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