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2018年8月12日 - 2018年8月18日

2018年8月17日 (金)

三つの「諏訪神社」~長崎市・大村市・雲仙市

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上の写真は、長崎市の「諏訪神社」。

「諏訪神社」といっても、全国で25,000社あるということで、長崎県内にも何カ所かあるのですが、面倒なので調べてはいません。

先日、某郷土史の研究会で、長崎の諏訪神社は、小浜町の諏訪の池にある「諏訪神社」から勧請(かんじょう★神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること~Goo辞書より)をした、すなわち、こちらの方が本社だという意見があり、私としては長崎出身なので、それは、絶対無いと言うことで、論争をしました。

で、ついでに調べてみました。一番やっかいなのが、長崎の諏訪神社。諏訪神社のホームページを見ると。

長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かって長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社を、寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まりです。

ということで、どこから勧請したのかは書いてありません。

平成24年刊行の「長崎市史には、「諏訪神社の創建」と言うことで詳しく書いてありますが、勧請について下記のように書いてあります。

諏訪神社を長崎の地に創建した由緒については諸説あるが『長崎図志』(長崎県歴史文化博物館収蔵)などには、弘治年間(1555)領主長崎甚左衛門純景の弟織部亮為英が諏訪神社の分霊を京都より勧請、大窪山(風頭)の山麓、現在の長照寺(寺町)の山門付近に祀ったのがその初めという。とはなっていますが

「長崎實録大成」には、「長崎鎮守諏方(注;昔は諏訪でなく諏方が使われていたみたいで、かつ山町 文錦堂版 享和二壬戌年版~1803年の地図には、正一位諏方社となっています)神社、古昔何處ヨリノ勧請ト云ウ事詳ナラス。」となっております。

また、「長崎古今集覧巻之六」には・・・・「弘治中邑主長崎織部正平為英迎京師ヨリ勧請・・・」となっており

「長崎港草巻第十一」には「諏訪祠ハ𦾔東山之麓今長照寺ノ右ニアリ其通衛ヲ諏訪町トス古傳二弘治年中長崎織部助京師ヨリ迎エテコヽニ勧請ス・・・・」となっており、京都より勧請した線が強いのですが、諏訪神社は最初から現在地にあったのはないことが分かります。

さて、大村にも「諏訪神社」があり

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マピオンを見ていたら、神社の由来の説明がのせてあり

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この説明文は、「大村郷村記」「大村見聞集」を参照したらしく、「大村見聞集」には

往古大村池田の里に鎮座あり、是を長崎に勧請せし処、天正二年耶蘇徒破壊す、其後再興あり・・・・・とあります。

なお、「大村郷村記」には、「・・・傳曰、此諏訪大明神ハ往昔池田里二勧請最大社也、後此社長崎研屋町(注;磨屋町の誤りか)に勧請すと云・・・」とあります。

さて、問題の小浜町の「諏訪神社」ですが、現在、雲仙市小浜町になっていますが、昔は「北串村」です。


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上は現在の小浜の「諏訪神社」。下は昔の姿、明治二年の「神社明細調帳」から。

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現在、一番上の石祠の所に社殿が創建されています。外側に昭和二十七年、平成五年の改築記念の標柱、中に平成十三年増改築の寄付者の名札、平成三十年一月吉日と書かれた幕。

社殿の横には石祠があり、中には「諏訪大明神」。右に「弘化二(1845)己?九月吉日」。ただし、弘化二年は乙巳で、弘化は五年までで十干の「己」の年はないのですが、間違ったものか?左に「五穀成就村中安全」の文字。ただし、この石祠以前に、他の石祠があったのかは不明。

あと、敷地内に、御灯明の崩れたのがあり、文化十三年(1816年)、文政8歳(注:年・1825年)の文字。なお、絵図内の鳥居はありません。

ということで、長崎の「諏訪神社」の記録と比べれば、こちらの「諏訪神社」から勧請したとは考えにくいものです。

(追加)
「長崎県名大辞典」には「上池の松林に健御名方神を祀る諏訪神社があり、土地の人は諏訪神社(長崎市)の本社だというが確証はない」とあります。




2018年8月16日 (木)

「センゴク権兵衛★宮下英樹著」第12巻発売~私的にこれでおしまい

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「センゴク権兵衛」第12巻で、島津家は秀吉に降伏をし「九州征伐編 了」となります。

11巻で権兵衛は秀吉の命令も聞かず、島津家に戦いを挑みボロボロ。切腹は避けられたものの改易。

この後、権兵衛は高野山へ向かい、己を見直しますが、以前の家臣が権兵衛を慕って高野山へやってきます。

で、九州は下図のように分割されます。

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         (「センゴク権兵衛 12巻」より」)

これについては「(主だったもののみ)」と書いてあるので、(主だたなかったもの)は書いてありません。

で、矢印の「大村」と「有馬」の間に「伊佐早(現諫早市)があります。ここを収めていたのが「西郷氏」(主だたなかったもの)になりますが、出自は雲仙市瑞穂町の杉峰城主だといわれています。

この西郷氏は南朝方ですが、北朝の小俣氏連に攻められ落城しということですが、この西郷氏の子孫が伊佐早の西郷氏ではないかと言われています。この頃の記録ははっきりしていなく、詳細は不明です。

秀吉の九州平定というより、島津氏との戦いですが、この時、九州の諸侯に参加を命じますが、九州でただ一人、伊佐早の西郷氏が参加をしていません。理由は色々と言われています。

この間のことについて、西郷記(後年書かれたため、不正確な所があるそうですが)に以下のように書かれています。「諌早郷土館 解説シート (歴史編)」より引用すれば。

この節諌早の領主西郷純堯(すみたか)分国に在りながら終に出仕することなく、薩摩へ名代等も派遣することがなかった。

このとき龍造寺家晴(後の初代伊佐早家領主)の領地分けにつき、同じく西郷記に・・・・

大公様上方の御帰りの節暫く九州御滞在遊ばされ、申さるるには筑後一国龍造寺家晴へ下されるるとのこと、大国拝領の者、跡形先例のように禮物差し上げ、国を請けとるようにと浅野弾正殿より仰せ付けられたけれども、俄のことにて黄金黄金百枚が無く、御請合いはないものとするとのこと。これに依って右代地に伊佐早の領主西郷薩摩入りに自由なことをし、郡郷数代領しながら我が意を振った科は軽くはない。これに依って彼の者領地召し上げられ家晴に加扶されることとなった。

ということで、龍造寺家晴、本来なら筑後一国を貰いうけるところ、先例のようにお礼を差し出せと。ところが、急遽の事ととて黄金百枚が用意できず、このことはチャラにすると。

代わりに、秀吉の言うことを聞かなかった西郷氏の領地を取り上げ、お前の領地にせよ、との事ですが・・・・

もちろん、西郷氏すんなりと領土を渡すわけも無く、竜造氏と争い、破れてしまい、龍造寺信晴が入部をし領主となります。

この部分、諌早地方の方には大事な話なのですが、漫画には描かれていないので、私の方が長々と説明を書きました。

さて、センゴク権兵衛の物語はまだまだ続きますが、「九州征伐編」が終わったところで、「私的にこれでおしまい」にします。

なお、この後、秀吉の朝鮮遠征になるのですが、この理由、経過については面白く、知りたい方は本をお求め下さい。なお、井沢元彦氏の「「逆転の発想」の漫画版も描いてありますので、合わせて読めば面白いかと。




2018年8月15日 (水)

「阿波踊り(徳島市)」のこと

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以前、阿波踊りの昔の写真を紹介しましたが、別の写真もあったのでご照会を。

なお、写真の説明には「徳島之盆踊」になっていますが、この歴史についてはウィキペディアに書いてあるので、そちらを参照して下さい。→こちらをクリック

今年の阿波踊りは、一悶着ありました。前主催者の以前の赤字が4億になったことが発端になったとの事ですが、運営費が赤字になっても、観光客がドット来て、旅館、飲食店、お土産屋さんなど、民間はかなり潤うとは思うのですが、どちらが得か考えなくても分かること。

さて、ウィキペディアによれば「天正14年(1586年)、徳島城が竣工した際、当時の阿波之守・蜂須賀家政が城下に『城の完成祝いとして、好きに踊れ』という触を出したのが発祥というという説もある。」ということですが、あくまで「説もある。」ということです。

また、「江戸時代には、一揆につながるとの理由で阿波踊りが禁止されていた時期もあった。」らしく、なんとなく、市長さんが総踊りを中止したのを連想します。

なお、「民俗小辞典 神事と芸能~神田より子・俵木悟編・吉川弘文刊」によれば、「発祥は精霊踊りとされるが定かではない」とウィキペディアとは少し違いますが、要は発祥不明でしょう。

「精霊おどりが発展したぞめき踊り、各町で華やかさを競った組踊り、奇抜なパフォーマンスの俄(にわか)踊りがあったが、組踊りと俄踊りは幕末に衰退した。」ということで、今の阿波踊りより多種の踊りがあったことがうかがえます。

「明治期には良家の子女が振袖姿で三味線の腕前を披露して歩いた・・・」との記述がありますが、下の写真、確かに振袖姿の女性が写っています。多分この頃の写真だと思います。

その後、近代教育のため、姿を消し、大正期になると芸妓が中心になり、衣装も浴衣になり、名称も「徳島踊り」「阿波の(盂蘭)盆踊り」から「阿波踊り」に統一されたのも、この頃であったそうです。

一時衰退するも、昭和に入り御大典奉祝踊り(1928年、昭和3年)の盛況によって、観光資源としての阿波踊りの宣伝が始まり、戦後、神戸博覧会(1950年)へ招待されたことで「連」の結成が相次いだそうで、試行の末、現在のような姿になっていったそうです。

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下の写真は以前紹介したかと思いますが、何となく素朴な感じを受けます。


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阿波踊りといえば、全国の人が楽しみにしているイベントで、まだまだ混乱は続くようですが、昔の姿、歴史を辿りつつ以前のように全員一丸となり、活気ある「阿波踊り」になれば良いのですが・・・・



2018年8月13日 (月)

「諫早神社」の旧肥前鳥居~長崎県諫早市

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上が現在の諫早神社、丸印が鳥居になります。神社に多くある明神鳥居。

この鳥居が以前は肥前鳥居で、諫早水害の時、倒壊をしたそうです。この昔の鳥居の写真を捜していたのですが、やっと捜しあて、いつも見ていた「ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 諫早~諫早史談会編集」にありました。

諌早神社の鳥居があまりにも小さく写っていたので、気づきませんでした。
この鳥居については、「諌早街道を訪ねて~山崎諭著」に「昭和32年の水禍のため、最古といわれた鳥居を流失し・・・」また、「諌早市史~昭和33年刊」にも「・・・同型が西郷村(現雲仙市瑞穂町)の熊野神社(注:西郷八幡神社の誤り)に一基現存する。箱崎八幡宮の鳥居と共に、九州でも古い時代に属する鳥居である」とあります。

西郷八幡神社の肥前鳥居は、「雲仙市の文化財」には載せてありますが、この貴重な鳥居は市の文化財に指定はしてありません。

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諫早神社の旧鳥居と比べれば、まったくの同型だということがわかると思います。

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さて、以前にも紹介をしましたが、左が諫早公園の愛宕神社の鳥居ですが、「愛宕山の肥前鳥居」として、市の指定有形文化財になっています。

なお、鳥居の上側がふくれあがっているように見えますが、昔、鳥居の上に石を投げ上げると、良いことがあるという話があり、それで投げ上げて重なった石です(私も小さい頃やりました)。

諫早には昔3基ほどあったそうですが、諫早水害で倒壊し、いまはこの一基しか残っていないそうです。

右が国見町の熊野神社の鳥居。で、こうしてみると笠木(鳥居の一番上の部分)と島木(笠木の下の部分)が一体化しているのがわかると思います。肥前鳥居の一つの特徴です。

私見としては、熊野神社の鳥居も肥前鳥居だと思うのですが、連絡はしておきましたが、行政側は調査もなにもしていないみたいで、なんとも残念ですね。

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2018年8月12日 (日)

「ブログどころではない!」

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女子世界ソフトボール大会。第一戦から応援していますが、今日はダブルヘーダーで、上野選手が好投して勝ちましたが、わずか三時間半でアメリカとの決勝戦。1日おいての連投なら分かりますが、三時間半ですよ。これ、本気で応援しないわけにはいかないでしょう。ということで、今日は「ブログどころではない!」

ところで、TVのスポーツニュース、新聞での扱いが少ないですね。たしか、1,2回戦では、完ムシだった気がします。高校野球、プロ野球の扱いに比べると、男女差別ではないですか。ということで、今日はおしまい。応援に専念します。




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