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2018年7月29日 - 2018年8月4日

2018年8月 4日 (土)

「平成30年度 第11回ちぢわふるさと夏祭り」~雲仙市千々石町

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今日は千々石の夏祭り、合わせて、虫除け、七夕祭り。
いつものとおり、茅の輪。何回も書きますが、ちゃんと回り方があります。


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以前は神社で実施していたのですが、会場が狭く、海岸近くの「福石公園」で開催。神様もこちらへご出張。神事やら、来賓紹介やらありまして、皆さん大好きな餅巻き。

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イベント前に、フリスビーの的あてとか、ラムネの早のみ。大人の方が意地になってましたが。

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今年からMCさんが変わって、長崎から来たとか。やはりプロですね。マイクの声の乗りも良く、グーで、可愛らしくて、浴衣がピッタリ。

「LINE交換しませんか?」と言ったかどうかは、皆さんのご想像にお任せを。私、こうみえても思いやりと、お金はタンと持っています。

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出店は、商工会とか、銀行とか、婦人会とか団体機関。全部ボランティアの手作りです。

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あいのんが来ていて、夏痩せしているなと思ったら、ベニアに描いた絵でした。スポットクーラー持ち込みとは考えたな。

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肥前千々石鉄砲隊、相変わらずカッコいいですね。ちなみに、千々石では男女差別は無く、この中にも2名ばかり女性が入っていました。

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第一小学校、1年生と2年生が「やってみよう」。3年生と4年生が「千々石っ子ソーラン2018」。

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5年生と6年生で「ミルクリミナ」。さすが上級生ともなれば気合いの入れ方が違います。

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第二小学校は「棚田へ行こう」。この歌、何回聴いても良いですね。離農が多くなって、荒れた田んぼが多くなってきています。後を継いで、棚田を守ってもらいたいものです。

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少子化時代ですが、下峰児童館の子供と保護者と先生全員で「打て打てGENKI太鼓」。

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婦人会、児童生徒、観客参加の「千々石音頭」。この、服目立ちますね。2014年の国体の幟旗を利用した手作りの衣装。さすが、倹約家のお母さん。

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ひまわりテレビのユニフォーム。雲仙イチゴ部会です。「ゆめのか」。美味しいですよ。一度ご賞味を。

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ついでに、祭りの小さな女の子、可愛い服が多いですね。私の娘も昔は、こんな感じでしたが・・・・

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「千々石中学校ソーラン」。ヒョッとしたら、小学校の時、踊り足りなかったか?
昨年から、ご登場のオカリナ演奏。澄んだ音が素敵でした。もう少し人数が増えれば良いのですが。

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確か今年初登場ですね。少林寺拳法。オリンピックを目指します。あ!失礼、少林寺拳法はオリンピックにはまだ入ってなかったか。

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千々石の「ちぢわ舞華連(まいかれん)」の「ダンシング・ヒーロー(盆踊り編)」。お隣、愛野町の「ヨッシャこい」。

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両町合同で、「《総踊り》どこいしょ」。見ていた女の子も、思わず踊っていました。

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と思っていたら、「あいのん」の乱入。相変わらずもてますね。

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今年のスペシャルイベントで、「中国変面ショー」。顔のかぶり物が、いつの間にやら、どんどん変わっていきます。TVでは見ますが、目の前で見ると、全然迫力があって違います。
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マスクをとると、意外と可愛い顔。この後「もってこーい」がかかり、再度登場しましたが、猛暑の中、この衣装で踊り、変面の演技をし、大変だったと思います

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昨年は3人で舞っていた「御神楽」ですが、「今年新入生、何人入部した」「6名です」。良かったですね。やはり人数が揃うと見ごたえがありました。

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会場を彩る七夕飾り、全部町内の子ども会が作ったものです。

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ということで、このあとカラオケがあったのですが、とにかく暑くて、おじさんにはここが限界で、会場をあとにしました。

ボランティの皆さんには猛暑の中、大変だったと思いますが、高齢者の方、子供も喜んで見ていました。来年も又楽しみにしています。




2018年8月 3日 (金)

「今日は短く『週刊現代』『週間ポスト』」

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毎日暑くてバテバテなので、「今日は短く『週刊現代』『週間ポスト』」です。

■「安倍『三選』確実?自民党内で急浮上『石破リリーフ総理』説を追え!」
■「『安倍の跡取り』噂の甥っ子(27)が『僕の伝家の宝刀』意味深発言」

安倍首相には跡継ぎの子供がいないため、後継者として、2人の甥が考えられるそうですが、「アッキーがでる?」なんて文字も躍っています。

「安倍『三選』確実?そう思っているのは新聞だけ」。私も、そう思っているのですが、あれだけスキャンダル、証拠隠しがバレても、自民党員の方、安倍首相に一票を投じるのでしょうか?

■「猛暑の未来天気予報」

毎日、熱中症のニュースが流れています。南極(北極だったかな?)でも高温化が進んでいるみたいですが、海面が上がってきて「日本沈没」か?

ところで、沖縄の年間の真夏日は一年の半分だそうですが、日本の最高気温が毎日放送されますが、沖縄は出てきません。沖縄については森田正光氏が「非常に簡単な理由で、沖縄は海に囲まれている・・・・」という事だそうです。

「東京の44度に対して、那覇は5度も低く、41度の札幌より”涼しい”ことになる。」という事で、来年からの避暑は沖縄にしましょう。

■「その体調不良、猛暑ではなく薬のせいだった」

私も、現在、薬を10種類ばかり飲んでいますが、「こんなに飲んでいいの?」とは思っています。先日、薬の処方箋をみたら、副作用の多いこと。

「喉が詰まって食事がしづらい」とか「息苦しさが続いて眠れない」など13の症状と影響する薬が書いてあり、私の飲んでいる薬と照合すると、該当する薬はありませんでした。多少、一安心。

なお、「頭がボーッとしてやる気がでない」は薬のせいではなく、持って生まれた性格です。

■「医学界の『最大タブー』に迫る 製薬会社から謝礼を貰って原稿執筆する医者 350人全実名」

「患者は医者がもっとも自分に適した薬を選んでくれると思っている。あらゆる製薬会社の薬から公平に選んでいるに違いないと。だからこそ、医者と製薬会社の関係には、厳しい監視の目が必要なのだ。」とまさにその通りなのですが。

一時、製薬会社と医大の癒着が問題になりましたが、「製薬会社から謝礼を貰った医者」のリストで、一番貰っているのが、1917万9469円、2位が1673万7196円、その他50位まで実名等が書いてありますが、これだけ貰うことには疑問ですね。

■「内紛の日本ボクシング連盟 告発状と『日大のドン』親密写真」

昨日のTVのインタビューはひどかった。なにせ、まったくの反省は無し。横暴の一言でした。

また、今日あたりから「日大のドン」どころか、暴力団との関係が流れています。

アマチュアレスリング、日大アメリカンフットボール、アマチュアボクシングと少し問題が多いのではないと思いますが、反省の弁も釈然としませんでした。

数十年前、マラソンでオリンピックに出場した選手の話を聴きましたが、あの頃は全くのアマチュア精神で、遠征旅費も足りなく、駅前に立って自分で募金をした、という事でした。

■「徳島・阿波踊り踊り手たちが怒りの『ボイコット宣言』」

以前、昔の徳島の盆踊り(現阿波踊り)の写真を載せましたが、実に純朴なものでした。

どこの祭りも、大規模になってきているみたいですが、観光目当てが多いようで、地域密着の祭りを考える時期だとは思うのですが・・・

■「Tバック姿を大公開ローラの『爆走』に感謝!」

タレントのローラさんの「インスタグラム」の写真がすごくて「エロすぎると話題になっている。」そうですが、「インスタグラム」はどうしたら見られるのか、明日は若い方に教えてもらうつもりです。楽しみ。

■「『ひとりで とんかつを頬張る女』はなぜスケベなのか?」

ということで、明日はとんかつ屋さんに行くつもりです。


2018年8月 2日 (木)

今日は豪華「ウナギタレ豚丼」

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この暑さで、少しスタミナをつけようかと、ウナギを買いにいったら3ヶ月~4ヶ月前が2000円、先月が2500円に値上げ、そして今日が2800円。

でもって、ウナギは高いので豚さんで我慢しましたが、なんとしても、ウナギが食べたいので、タレだけはウナギのタレを買ってきました。

材料はタレと豚肉。豚肉には塩、コショウはしません、ウナギも塩、コショウはしません。ここは同じです。

フライパンで炒めれば早いのですが、せめて気分だけでもということで、ウナギと同じように焼きました。強火の遠火ですね。

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焼きながら、タレをつけること3,4回。匂いだけはウナギの蒲焼きです。

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できあがりは一番上の写真。少し寂しいので、煮卵を添えてみました。梅干しがありますが、ウナギでなく豚肉なので、食い合わせは心配ありません。

なお、ウナギタレ豚丼をのせているお盆は、平ザルに紙をはり柿渋を塗った、一閑(貫)張りで、私が作ったものです。

さて、お味ですね、美味しかったですが、はやりウナギの方が美味ですね。




2018年8月 1日 (水)

「慶巌寺の山門」について~長崎県諫早市

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先日、お箏の六段と慶巌寺のことを書きましたが、ふと思い出したことがあるので。実は、この山門、このお寺を作った時に作ったのではありません。

下は諌早神社(旧名・四面宮)。じつは、この山門はここにあったのです。

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行って見たら、神社に向かって左側、神社の老朽化のため建て直しみたいで、右側には立派な庭園があったそうですが、それも復元するようです。

この新神社を建てるところ、以前は空き地でした。明治2年の神社明細帳調をみると、何か建物があるような図面でした。

諌早神社の由来が書いた看板がありましたが、赤線のところ、「明治時代の神仏判然令により、並祀していた荘厳寺は分離されることとなり、本尊などは近くの寺院に移設。その際に、社名を四面宮(注:しめんぐう)から『諌早神社』と改称した。」ということで、諌早神社の中に荘厳寺が並祀されていたことが分かります。

「諌早を歩く~山口八郎著」には「明治元年の神仏分離令によって、荘厳寺は廃され、本尊の阿弥陀三尊像は安勝寺に、総ケヤキ造りの山門は慶巌寺に、お寺の什器類は、行基ゆかりの竹崎観音寺に移されました。寺の境内にあった諸石仏は、𡧃都墓地の入り口に移し並べてあります。」と書いてあります。

なお、四面宮の本社は雲仙の温泉神社。四面宮は、千々石、吾妻町、有家町、そしてここ、諌早神社が四面宮ですが、現在、諌早以外は「温泉神社」と改名をしています。

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こちらは、山門を裏から見たところ。

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下は、旧諫早市郷土館の「解説シート(歴史編)」に載っている慶厳寺の説明です。

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この荘厳寺の山門については「高城の史蹟~山口祐造著・諌早高城会発行」に詳しく書いてあり、要略すると、荘厳寺は諌早家の始祖龍造寺家晴公が入部して四面宮の神殿、拝殿を改築し、さらに祈祷寺として荘厳寺を建立したので荘厳寺は四面宮の神宮寺となり、家晴公は寺領米として、毎年二十七石を給したそうです。

前に書いたように荘厳寺は解体されますが、山門だけは残っていて、山門だけ残しているのも不自然だということで、山門も壊そうとしたところ、慶厳寺でこのことを聞き、話し合い、慶厳寺へ解体移築したのが、明治27年11月。

両側の仁王像を解体修理したところ、「延宝三年(1675年)、京都柳馬場二条上寺町、大仏師法橋康祐作」と墨書いてあったそうです。

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良い木鼻ですね。

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両脇の欄間彫刻は浜辺の老松と打寄せる波を象り、日本様式。楼門の柱は丸柱で、禅寺の四角柱のような雄々しさはなく、優しい風情を湛えているそうです。

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どうにもわからないのが、山門の入り口のすぐ上の彫り物。

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上側は諌早家の家紋「上り藤」。下が、お猿さんみたいなのですが、なにか意味があるのでしょうが、調べましたが分かりませんでした。

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慶厳寺の駐車場には磨崖仏が彫ってありますが、ひょっと見ると数字が彫ってあって、「32.7,25」。何だろうと、思ったら、昭和32年の諌早大水害の日。
死者、行方不明539名、負傷者1,476名、家屋破損2,221戸・・・被害総額、当時約87億円(現時点に換算すると415億円)

随分高いところに書いてあって多分、水害時の水位が刻んであるのでしょう。災害の大きさが分かります。

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お世話になった本
「高城の史蹟~山口祐造著・高城会発行」「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 諌早~諌早史談会編著者」「諌早を歩く~山口八郎著」「諌早史談~田中為市著」「諌早郷土館開設シート(歴史編)」「諌早市史~昭和33年発行」



2018年7月30日 (月)

「深溝世紀」に見る潜伏キリシタン

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「深溝世紀」。「ふこうずせいき」と読みます。

で、これが何かというと、「深溝世紀 現代語訳 巻四 孝公(家忠)編 上 島原図書館・郷土史を学ぶ会」の「『深溝世紀』解題」として、郷土史家の松尾卓次先生が次のように書かれています。

「藩政奉還によって島原藩が消滅することになったので、歴代藩主の業績や藩内外の出来事をまとめて、後世へ伝えることにした。
そこで島原藩庁は明治三年に編集局を設置して、藩校稽古館教授・渡部政弼(太平)を主任に選び、その編集事業にとりかかった。藩日記や家譜など書記録を元に作業を進め、家中にも呼び掛けて旧記の提出を求めるなど精力的に務め、明治五,六ごろには一応終了している。島原藩主はかって深溝松平氏と称していたことから、書名を「深溝世紀」となずけた。」という事で、全二五巻、一五冊にまとめられています。

上は「深溝世紀 巻十七巻 靖公」。「靖公」は「松平忠憑(ただより)」。明和八年~文政二年(1771~1819年)。

キリシタンは、江戸時代に密かにキリスト教を信仰する人を「潜伏キリシタン」。明治になり、信仰が自由になり、教会に戻れるものを祖先からの教えで、自分たちだけでキリシタン信仰を守っている方を、立場によって違いますが、「かくれキリシタン」「隠れキリシタン」といいます。

禁教時代、隠れてキリスト教を信仰し、バレた場合は、一般的に拷問、死罪など思い出すのですが、上の本を読んでいると、次のような記述がありました。

原文は漢文ですが、読み下し文に直してあります。

「天草郡大江等三村の民(餘の二村の名は不詳)密かに天主教(注:キリスト教)を奉ず。幕府公事方勘定奉行(松平兵庫頭)をして命を伝えて之を検治せしむ。公(注:松平忠憑)即ち吏を遣わして其の民を捕まえて糾明せしむ。皆曰く、『我が輩は祖考の遺言に遵いて之を奉ずるのみ。敢て他心あるに有るに非ざるなり』と。公其の愚昧にして法禁を犯すを憐み、其の状を上申するに寛典を乞う。之を聴(ゆる)す。因って其の祭る所の天守像を収め、各々をして改心して旦那寺の宗法を守らしめ、更めて影踏(注:踏み絵)を命じて復た其の罪を問わず。

ということで、潜伏キリシタンにも関わらず、祖先からの遺言で、それを守って他心はない。という事で、これを「憐み」、天守像(キリストの像)を捨て、旦那寺(キリシタンで無いという証拠に、各寺に属し、家族全員の名前、年齢を地方によって違いますが、「宗門改帳」に書き、また、普通、年一回、踏み絵をします)に属し、改めて踏み絵をし、その罪を問わなかった。ということで、こんなこともあるのだなと、改めて感じた次第です。

ただ、転びキリシタンの場合は誓詞に血判を押させ、キリシタン切支丹類族帳に記載され、男性は6代(7代と記されているものもあり)、女性の場合は3代まで監視され、年2回の届け出、踏み絵が義務づけられ、転びキリシタン当人は、火葬されていたのですが、そこまで許されたのかどうか、この文章だけでは判断がつきませんでした。



2018年7月29日 (日)

「六段・八橋検校作曲」~諌早に修行に来たのか?キリスト教音楽の影響は?

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諌早の本明川沿い、眼鏡橋の反対にある慶巌寺です。大きな石碑には「八橋検校 六段発祥地」と書いてあります。

諌早のホームページに「六段まつり」として、次のように書いてあります。

箏曲「六段の調」を作曲した現代箏曲の開祖・八橋検校(やつはしけんぎょう)と、その恩師である慶巌寺第四代住職・玄恕上人(げんにょしょうにん)の遺徳を偲び、三曲愛好者の芸術発展を願って開催されています。」

なお、「諌早史談~田中為市著」「諌早を歩く~山口八郎著」にも大体同じようなことが書いてあり、八橋検校については、私も昔からその様に信じていたのですが・・・

「六段」について、ご存じない方は、お正月のTVなどを見ていれば必ず流れている曲で、聴けば、ああ、この曲かと分かります。

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某日、上の本を見つけたので読んでみました。十三の謎は多いので二つばかり。

検校とは、釣谷氏によれば、「ここで、本書の主役八橋検校の『検校』という言葉の意味について少し詳しくお話したい。
近世まで存在した男性盲人のための保護・総括組織のことを『当道』という。本来は文字どうり『自分たちの芸能』をいう意味で学芸、芸妓の専門家の組織であった。(中略)その職名は下から座頭(ざとう)・勾当(こうとう)・別当(べっとう)・検校(四官・しかん)といい、そのなかがさらに十六階七十三刻みに分かられていた(後略)」ということで、大変な組織で、一番上の検校になるまでには、才能のみならず、お金もかかったようで、この本に詳しく書いてあるので読んで下さい。

なお、八橋検校は三味線の名手として有名だったそうですが、江戸に下向して、筑紫善導寺の法水に筑紫箏を学んだ後、筑紫箏の名手として有名だった、諌早慶巌寺・
玄恕上人に学びにいったことになっており、根拠として「琴曲抄」があるそうですが・・・

「ここで重要なのは、筑紫琵琶は女性や盲人に教えることを禁じたため、わずかに文人の間で細々とおこなわれてきたということである。
いくら遠く目の届かない江戸においてとはいえ、法水が盲人である八橋に教えたのは異例といえる。(中略)現に、のちに有名になる八橋が筑紫箏を学んだということから、八橋が諌早まで出向いて玄恕に教えを乞うたという記事(「琴曲抄」)がある。その文章をもとに、慶巌寺の山門前には諌早三曲会により昭和29年に立派な『六段発祥の地』の碑が建てられている。(中略)しかし、移動が不便な当時に盲人がはるか諌早まで出向いたということは事実とは考えにくいと、ある研究者は述べており筑紫箏側でも否定している。八橋が、師(注;三味線)のもとを離れ法水から学んだとなれば、筑紫箏にとっては正当とはみなされない。そうししたことから作られた記録ではないかと想像される。」

ということですが、「事実はわからないが、こうして各地で八橋を顕彰する気持ちが示されるのはうれしく、大歓迎である。」とまとめています。

さて、八橋検校は諌早へ来たのか、来なかったのか、どちらでしょう?


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ここに一枚のCDがあります。「箏曲『六段』とグレゴリア聖歌『クレド』」。

「グレゴリア聖歌『クレド』」が数曲歌われ、その後、「六段」との合奏がありますが、これが不思議に合うのですが、詳しくは釣谷氏の本とCDについているライナーノーツを読んで下さい。

西欧音楽が日本音楽に影響を与えたということで、信じられないかもしれませんが、禁教前は西欧人も意外とフランクに出歩いてみたいで、洛中洛外図屏風(舟木本・国宝)などを見ていると、外人さんが、ウロついているのが見られます。

なお、お国歌舞伎についても、キリスト教イエズス会で行っていた、イエズス会劇の影響があるとの研究があり、歌舞伎の権威の河竹登志夫氏等が指摘をし、丸谷才一氏が「男もの女もの」の中の「出雲のお国」に分かりやすく書いてあります。

ですから、西欧音楽が日本音楽に影響を与えたということは、可能性がない、とは一概にいえないと思います。


なお、釣谷氏もこのCDを聞いたものか、「私も《六段の調》とクレドの比較演奏を聴いたことがある。しかし、一度聴いただけでは、かんたんにこの説を肯定も否定もできない。」と書いていますが、私は、あ~これも有りだなとは思いました。



 

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