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2018年5月13日 - 2018年5月19日

2018年5月19日 (土)

「樂(らく)」~特集 島原半島

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いつものように、というより毎日ですが、本屋さんに行って、帰りがけ出口(入るときは、入口)をみると、少し特集コーナーが作ってあり、見ると「樂(らく)」という雑誌が置いてあり、知ってはいたのですが、普段は買ってなかったものの、見ると「島原半島」という文字が目に入り、またもや衝動買い。

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中の写真を見ると、いかにもドローンで撮ったな、という写真がありますが、角度を変えてみると、なかなか良いもんですね。普段見慣れた風景も、こんなだったかという新鮮な感じ。

中身は、最初が寺井邦夫氏のお話。
島原半島の地質にかけては、右にも左にも出る人はいません。で、最初の出だしが「島原半島は今も引き裂かれている」。ウチのカミサンと私と同じですね。

島原半島の始まりが早崎半島。知りませんでした。と、半島のでき方などを分かりやすく書いてあります。

その中で、千々石について「千々石断層のズレは千々石展望所から一望できます。」とまあ、ここまでは良いのですが、「活断層は今も落ち込みを続けていて、あと二十から三十万年もすれば、断層の南にある猿場山は沈降して島になるでしょう。」

下の写真、鳥居のむこうが「猿場山」。「日本沈没」という小説がありましたが(「日本以外全部沈没」というのもありましたが・・・・)、この山が島になるんですね。ということは、下の方は全部海になると言うことですが、怖いですね。

私、泳げないので、20~30万年後のために、スイミングスクールに通いますか。

続いて、雲仙の「湯守役 加藤家」の歴史について詳しく書いてあります。小浜の管理が本多家、雲仙の管理が加藤家になります。ここを読めば、雲仙の歴史がよく分かります。

あとは、「昔ながらの黒砂糖つくり」。「天草出身の田中丈右衛門が文化十四(1817)年にサトウキビの苗を持って口之津に移住し・・・」とは知りませんでした。

「蜜蜂」。「島原の子守みそ」。「花」。「茶畑」。「有明海」。「ハタ揚げ」。「雲仙ホテル」などの歴史、現在、頑張っている人の事が書いてあります。

最後が「かって島原の人たちが歩いた道(茂木~万才町」。樂右衛門さんと越中哲也さんの現地を見ながらの対談です。

昔から、長崎から島原半島に行くのには、長崎から峠を越え茂木から船に乗って行ってました。前から、わざわざ峠越えをして、なぜ茂木から船で行くのか、長崎港からなぜ行かないのか、不思議に思っていましたが、対談を読むと納得でしました。知りたい方は、本を買って読んで下さい。勉強になります。


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あと、世界遺産とか、原城とかありますが、限られたページ数で触れてはありませんでしたが、意外とコアな部分をついて、面白かった。

で、一番上の写真、雑誌と一緒に島原鉄道の応援のためか、島鉄グッズが並んでいて、私、島原鉄道さんに、いささかの恩義がありまして、3点ほど買って参りました。


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左は、ルーラーセット。小さい子どもが喜びそうですね。右は、「島原鉄道着 ♡鯉駅長のさっちゃん 幸せのラバーキーホルダー」。TVで先日放送していましたが、島原駅の駅長さん、「黄色の鯉」だそうです。島原市は「鯉の泳ぐ町」として有名です。島原鉄道も、「幸せの黄色いハンカチ」にあやかってか、黄色をシンボルカラーにしているようです。

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「パンツ」ではありません「パン2」です。前の部分、扉の絵がついていますが、開きません。ということは、女性が履いてもかまわないわけで、カミサンにあげようかなと思っていますが、これカミサンガ履いている姿を想像したら、一日愉快に過ごせました。アナタも、彼女に如何ですか。絶対に受けます。

もちろん、カミサンにあげたら怒られますよ、「また、こんなバカなものを」。ということで、私が履くことにしましたが、洗濯幾にいれて見つかったら、「アホ」と言われるだろうな。真面目で冗談が分からない人だから。


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2018年5月18日 (金)

「歴史に学ぶとは」~加来耕三著

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「神仏分離」、「廃藩置県」。この二つは分かったようで、分からないことがあり、ちょうど古本屋さんに置いてあったので買ってきました。

目次を見ると、「津波という語について」「松倉重政と島原の乱」「おかげ踊りの流行」とか興味を引くような文字が目に入って、その中に、「加来耕三」という名前があり、以前にも紹介したとおり、加来氏の講演会を聞きに行って、なかなか興味深い話だったので、何が書いてあるか読んで見ました。


この文章は連載物らしく、「歴史学講座(初級編)第3回 〔第一章〕 歴史に学ぶこと(その二)」となっており、最初に作家が講演会をやると良くない、ということが書いてあり、氏の恩師から、「あんまり講演を引き受けていると、そのうち書くのが億劫になるよ」と言われたそうです。

考えれば、講演はネタが一つあれば、昨日は福岡、今日は長崎、明日は京都と同じ講演をすれば、何を喋るか考えなくてもよく、一回の講演料は、コンビニのアルバイト料、一時間何百円とは違い、二時間くらい喋って数十万円でしょう、多分。

書くのは、特に歴史物は、調べるのに古文書を読んだり、図書館に調べに行ったりで、大変です。

で、講演会に行ったとき、「私は学生時代、歴史が苦手だったのですが」という言葉をよく聞かされるという事だそうです。

生徒、学生の時に歴史嫌いになる理由として、「学校教育における『歴史』は、極端にいえば、年号や人物名を暗記する~その一見厳しくみえて、その実、内容のない微温的ないい加減さが、歴史を学ぶことを面白くなくしてしまったのではないか。」と説明してますが、まったくその通り。私は苦手というより、大嫌いで、歴史の時間はお昼寝の時間にあてていました。

大人になれば、「『歴史好き』な経営者やビジネスマンと称される方の多くは”経営””戦略””戦術”といった色眼鏡を通してでなければ歴史を繙(ひもと)けていないのではあるまいか。」と書いていますが、確かに、歴史物には”合戦の経営戦略””人の動かし方”という事を書いた物が多いですね。

「西郷隆盛やあるいは大久保利通といったスケールの大きな人材を獲得するには、企業はどうすればよいのでしょうか?」と質問されたそうですが。

「西郷には幕末随一と謳われた、名君の島津斉彬という名伯楽があり、大久保はその西郷の盟友であった。これら時代屈指の先見性をもつ人物が、現在の一流企業に、はたして、面接官として存在するのであろうか。」「いくら歴史に学び、人材育成に気を配っても、幕末ですら学問が苦手であった西郷や大久保が、今日の学歴社会、一流大学指向の企業指向の企業風土になじめるものではあるまい。」と書き、大正中期に金子雪斎が述べた言葉を引用しています。

「もし維新前が今日であったら、大西郷は晩学で中学校卒業で中学卒業後力士志願で出羽の海の弟子となり、吉田松陰は大学生で思想問題をかじり、青い顔をして下宿の隅でくすぶり、木戸孝允は早稲田を卒業して満鉄の下級社員となり、藤田東湖は議員選挙で小山田信義と争い、大久保利通は法政大学でも卒業して、床波竹次郎にすがり内務省の属官になったかもしれない」(渡辺竜策『大陸浪人』)。

と書いていますが、西郷さんが相撲取りですか。でも、似合うかも、ですね。名横綱になったかな?

最後に加来氏は、「所詮、住んでいる世界が違うのである。それを同一視するところに、歴史に学ぼうとする者のレベルがあらわれているといってよい。」と結んでいます。

「時代が人を生み、人が歴史を作る。」ですか。



2018年5月16日 (水)

「そ・ろ・ば・ん」~あれ?

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磯田道史氏の「武家の家計簿」。加賀藩御算用者 猪山家に残る古文書を基に「武家の家計簿」を書き、映画になっています。

で、一番最初の場面、そろばんが映されますが、あれ?なんか変。こんなそろばんあったっけ?良く見ると、上の玉が2つ、下の玉が5つ。


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で、面白いもので、「お宝鑑定団」を見ていると、上2つ、下5つのソロバンが出品され、これ、豊臣秀吉から拝領した、そろばんだそうですが、加うるに、玉の回りが銀で象眼され、小型でしたが、内で使うのでは無く、戦場で使われたり、築城の時、現場で使われたのではいかという事で「11,000,000円」

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2回あることは3回あるということで、「NHK歴史ヒストリア」をみていると、加賀百万石の前田利家のことを取り上げ、この前田利家が使っているのが、またもや同じそろばん。

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ということで、そろばんを集めてみました。下の赤丸印がボールペンですから、意外と大きいことがわかります。

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昭和10年に上が1つ玉、下が4つ玉が良いということで、小学校の教科書で指示され、現在のそろばんが普及したそうです。

私たちの時は、算数の時間にそろばんの授業があり、私たちも、このそろばんで教わりました。

私の父は、下が5つ玉を使っていましたが、某日、学校の先生等を交えた席で、「5つ玉の一番下の玉、なんに使うんですか?」と聞いたところ、誰も分かりませんでした。

そろばんをひっくり返した所、会社の名前とか、「贈」とか書いてあるので、お店の宣伝に使ったのかな?「十六銀行」もありますね。岐阜県です。長崎は「十八銀行」。


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下が、上が2つ玉、下が5つ玉のそろばん。

気がつかれた方がおられると思いますが、中国がこのソロバンを使い、土産などにも使っていますが、中国製は玉が丸ぽっくって、使いにくいですね。

なお、中国では一斤が十六両で(十六進法)で、こちらの方が使いやすいそうです。このそろばんが日本に入ってきたのでしょう。

詳しくはネットで「日本珠算連盟」で説明されていますので→こちらをクリック


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底の方をみたら、大きい方が「安政五年牛七月 長堀平蔵」、小さい方が「明治三十八年求之 日露戦争講和」と書かれています。

なお、大きい方には、「石合勺、町反畝分、厘毛」の文字が読み取れ、右、真ん中、左に分かれて書かれていますから、その部分で対応する計算をしたのでしょうが、なんか返って面倒くさいみたい。


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左は、伊能忠敬が使った機器が載せてある絵はがきですが、一番下の所、上が二つ玉のそろばんです。伊能忠敬もこのそろばんを使っていたことが分かります。

右の写真は、丁髷をしていますから、少なくとも明治初期でしょうが、大きなそろばんは、こんなようにすると使いやすいですね。

これを見ると、上が一つ玉ですから、上が一つ玉と二つ玉が混在していたと思われます。

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こんなそろばんもあり、どうやって使うのでしょう?シャープ製です。

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買ったそろばんはどうするか?そろばん塾でも始めるつもりです。





2018年5月14日 (月)

「松倉重政」と「筒井順慶」

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司馬遼太郎「島原・天草の諸道」の最初の所に「日本史の中で、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくなくない。」と書かれています。

身分相応の島原城を建て、キリシタンに対する残虐な扱い、その子、重勝の父親に劣らない圧政。

ただ、松倉重政は千々石の田畑が潮風で荒れて、難儀をしているということで、海岸に土手を築き、松を植えさせており、現在の海水浴場(昨年より閉鎖)あたりの長く続く松林になっており、また、大正15年の関善太郎著「雲仙小浜風光記」には、諏訪池について、次のような記述があります。かなり大きな池ですが、貯水地というよりは湖で、上池、中池、下池から成り立っています。

「・・・往昔、島原藩主豊後守(注;松倉重政)が、田甫(たんぼ)を養わんが為に川を穿ち谿水がをこゝに導いたそうな。」とあります。

さて、圧政をしいた松倉重政、善政をしいた松倉重政、二つの面がうかがえるわけですが、最初キリシタンにあまり厳しくなかったものの、家光(重臣との説もあり)にキリシタン取り締まりの甘さを叱責され、それから、厳しくなります。

もう一つ、「『図解50』合戦日本史~中井一水+加来耕三著」に「・・(島原・天草の乱は)幕府の重商主義が、鎖国政策に切りかわった瀬戸際に発生したからである。」とあり、朱印船から奉書船そして、鎖国になり、ルソンを占領し貿易で儲けようとした企てが全部パー。

重政は亡くなりますが、残された重勝、親父の借金が10万円程度なら、まあ大丈夫でしょうが、何億も抱えて、「鍋島家譜」に書いてあるように、父に似ず武を忘れ諸士(家臣)を愛ぜず、女色を好み酒に耽りて・・・というのは当たり前でしょう。やけのやんぱち、ですね。

住民に対する圧政を肯定するわけではありませんが、「『図解50』合戦日本史」には、重政のことを「幕府政策の犠牲者のひとり」と書いてあります。大きな時代の動きに流された一人だともいえるわけです。

なお、奈良五條市のホームページには「重政は城下町振興策として新町村を取り立て、諸役を免許して商売を行いやすくし、商人の結集を図りました。ここに五条市南和地域の中心として発展する基礎が形作られたのです。
 重政が島原で領民に苛政をを行ったために島原の乱につながったのは有名な話ですが、五条では、新町西方寺に頌徳碑が建ち、江戸時代には豊後さまとして祀られるほど、名君として崇められていたのです。」とあります。

話を元に戻して、「島原・天草の諸道」を読んでいると、「筒井順慶」の事が書かれてあり、「筒井順慶」と言えば、「筒井康隆」さん、ヒョッとしたら子孫では無いかとの事で本を書いていますが、調べた本が「多聞院日記」「訪憲記」「筒井家日記」「原本信長記」「稲葉家文書」等々、20冊程度、ほとんど古文書です。

「筒井順慶」には、3名の重臣がいて、「森志摩守(もりしまのかみ)」「島(嶋)右近」(後、石田三成から三顧の礼をもって迎えられます)」そして「松倉右近」。この「松倉右近」が「松倉重政」のお父さんになります。

筒井順慶のお父さん、筒井順昭は天文19年に亡くなり、このとき、順慶、わずか2歳。順昭が亡くなるとき、順慶があまりにも小さいので、亡くなったことをしばらく伏せておけ、ということで、自分にそっくりの木阿弥という人物を影武者にして、数年後(1年とか2年とか3年とか成人までとかあり、詳細不明)順昭の死を明らかにし、木阿弥はお払い箱。木阿弥は家に帰り元の身分に戻ったそうです。「元の木阿弥」という言葉はここから出たそうです(他にも諸説あり)。

さて、「筒井順慶」と言えば「洞ヶ峠の筒井順慶」。明智光秀が信長を討ち、秀吉と対峙したとき、洞ヶ峠で、どちらにしようかと悩んでいたとき、「少し見てた方が」と進言したのが、「松倉右近」といわれていますが・・・司馬遼太郎さんもそう書いています。

筒井康隆さん、洞ヶ峠まで出かけたそうですが、「洞ヶ峠レストラン」に入り、洞ヶ峠はどこか聞いたそうですが、主人曰く「頂上はここにあったんですが、わたしが切り崩してこのドライブ・インを建てました」「ここは筒井順慶が日和見をした名所です。もうすぐ順慶餅というのを出そうと思っています」と笑ったそうです。小説ですから、本当かどうかは分かりませんが。

それに対し筒井康隆氏は、「・・・つまり天正十年六月十日と十一日にこの洞ヶ峠にいたのは、実は筒井順慶が応援に駆けつけてくれるのを待っていたのは明智光秀だったからです。・・・・その時明智光秀がここに出陣していたという証拠は山ほどあります。『兼見卿』『多聞院日記』『蓮成院記録』『細川忠興軍功記』『続本朝通鑑』」

さて、筒井順慶は本当に洞ヶ峠をしたのか、分厚い「人名辞典」を調べたら、「本能寺の変後の山崎合戦に与力を逡巡、一方、羽柴秀吉に款を通ずるなどして郡山城に籠城したため『洞ヶ峠の順慶』などという嘲罵をこうむる。洞ヶ峠に陣して勝負を観望、秀吉軍に参じたというのは俗説である。・・・しょせん順慶は名族の御曹司的存在であり、しかも辛苦の末に大和を入手した。その大和を喪失するのを恐れたのが『洞ヶ峠順慶』の汚名をこうむった要因である。」

という事で「洞ヶ峠の順慶」はデタラメで、「もう少し状況を見ていたら」と言った、松倉重政の父、松倉右近の話もウソということで、まだまだ異論はあるのですが、歴史は間違っていることがあるので、よく調べることが必要ですね。と思いました。






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