「高札」の取扱について
昨年7月30日に、この高札「『キリシタン禁制』の高札」と言うことで、書きました。
昨日、M村の庄屋日記を読んでいると、(私は他人が読んでいるのを聞くだけですが・・・・)
「出火」の時にどうするか書いてあり
一 出火ノ折者(は)御高札場郷蔵(年貢米の一時保管倉)付近辺堅ク相守(あいまもり)其余ハ庄屋元へ懸付(かけつけ)火防き可申候・・・
と言うことで、一番先に守るのは、高札と郷蔵であり、高札がいかに大事にされていたかが分かります。
この高札は正徳元年ですから307年前になりますが、字があまりにも新しく、このことについては以前書きましたが、「江戸時代のお触れ(藤井穰治著)」によると
高札は「・・・・年号の変わるたびに高札が書き改められ(中略)また文字の見えないものは書き改めることを命じることによって、キリシタン高札は大名領内にも幕府・公儀の高札として定着した。」と書いてあり、書き直されたことも大いにあるわけです。
このことについては、島原藩飛び地領が豊前豊後国境にあり、島原半島では三万八千石、飛び地領で二万七千六百石、合わせて六万五千九百石余りになります。
この、飛び地領の橋津組大庄屋・本多政辰により政務のため編纂された「執睨録」に高札について以下の文章が見られました。
●御高札御墨入願之事
(略)
「右村々御高札場、風受強、其上木陰二御座候故、打雨ニ文字薄相成、難相分御座候間、何卒御墨入被成下候様出申候、此段相叶候様、宜被仰上可被下候、以上。」と言うことで、御代官宛に橋津左源太(庄屋)から願い出が出ています。
要するに、高札が雨風等にさらされ、文字が薄くなり、見やすいように墨入れをして良いかということを、奉行の許可をもらう願いです。
要するに、高札が雨風等にさらされ、文字が薄くなり、見やすいように墨入れをして良いかということを、奉行の許可をもらう願いです。
これらを読むと、高札がいかに大切だったものかということがよく分かります。現代の自治会の掲示版とはダンチですね。
参考:
「M村庄屋日記」「江戸時代のお触れ(藤井穰治)」「執睨録(別府大学附属博物館)」
« 2年ぶりの「雪見だい『福』」 | トップページ | いよいよ正月「橘神社大門松」完成★「観櫻火宴」のお知らせ »
「歴史」カテゴリの記事
- 「決算!忠臣蔵」「『忠臣蔵』の決算書」と「忠臣蔵外伝『忠義画像』を読む」(2019.12.03)
- 「橋の裏表(入口・出口)」(2019.11.13)
- 「光秀★沖方丁・池波正太郎・山田風太郎・新田次郎・植松三十里・山岡荘八著・細谷正充編」&「光秀の定理★垣根京介著」(2019.09.23)
- 「明智光秀五百年の孤独」宮崎正弘著~重箱の隅をつつくような事でスミマセン(2019.09.10)
- 「宮本武蔵」と「オリンピック」の微妙な関係・・・(2019.08.29)
コメント