三つの「諏訪神社」~長崎市・大村市・雲仙市
上の写真は、長崎市の「諏訪神社」。
「諏訪神社」といっても、全国で25,000社あるということで、長崎県内にも何カ所かあるのですが、面倒なので調べてはいません。
先日、某郷土史の研究会で、長崎の諏訪神社は、小浜町の諏訪の池にある「諏訪神社」から勧請(かんじょう★神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること~Goo辞書より)をした、すなわち、こちらの方が本社だという意見があり、私としては長崎出身なので、それは、絶対無いと言うことで、論争をしました。
で、ついでに調べてみました。一番やっかいなのが、長崎の諏訪神社。諏訪神社のホームページを見ると。
長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かって長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社を、寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まりです。
ということで、どこから勧請したのかは書いてありません。
平成24年刊行の「長崎市史には、「諏訪神社の創建」と言うことで詳しく書いてありますが、勧請について下記のように書いてあります。
諏訪神社を長崎の地に創建した由緒については諸説あるが『長崎図志』(長崎県歴史文化博物館収蔵)などには、弘治年間(1555)領主長崎甚左衛門純景の弟織部亮為英が諏訪神社の分霊を京都より勧請、大窪山(風頭)の山麓、現在の長照寺(寺町)の山門付近に祀ったのがその初めという。とはなっていますが
「長崎實録大成」には、「長崎鎮守諏方(注;昔は諏訪でなく諏方が使われていたみたいで、かつ山町 文錦堂版 享和二壬戌年版~1803年の地図には、正一位諏方社となっています)神社、古昔何處ヨリノ勧請ト云ウ事詳ナラス。」となっております。
また、「長崎古今集覧巻之六」には・・・・「弘治中邑主長崎織部正平為英迎京師ヨリ勧請・・・」となっており
「長崎港草巻第十一」には「諏訪祠ハ𦾔東山之麓今長照寺ノ右ニアリ其通衛ヲ諏訪町トス古傳二弘治年中長崎織部助京師ヨリ迎エテコヽニ勧請ス・・・・」となっており、京都より勧請した線が強いのですが、諏訪神社は最初から現在地にあったのはないことが分かります。
さて、大村にも「諏訪神社」があり
マピオンを見ていたら、神社の由来の説明がのせてあり
この説明文は、「大村郷村記」「大村見聞集」を参照したらしく、「大村見聞集」には
往古大村池田の里に鎮座あり、是を長崎に勧請せし処、天正二年耶蘇徒破壊す、其後再興あり・・・・・とあります。
なお、「大村郷村記」には、「・・・傳曰、此諏訪大明神ハ往昔池田里二勧請最大社也、後此社長崎研屋町(注;磨屋町の誤りか)に勧請すと云・・・」とあります。
さて、問題の小浜町の「諏訪神社」ですが、現在、雲仙市小浜町になっていますが、昔は「北串村」です。
上は現在の小浜の「諏訪神社」。下は昔の姿、明治二年の「神社明細調帳」から。
現在、一番上の石祠の所に社殿が創建されています。外側に昭和二十七年、平成五年の改築記念の標柱、中に平成十三年増改築の寄付者の名札、平成三十年一月吉日と書かれた幕。
社殿の横には石祠があり、中には「諏訪大明神」。右に「弘化二(1845)己?九月吉日」。ただし、弘化二年は乙巳で、弘化は五年までで十干の「己」の年はないのですが、間違ったものか?左に「五穀成就村中安全」の文字。ただし、この石祠以前に、他の石祠があったのかは不明。
あと、敷地内に、御灯明の崩れたのがあり、文化十三年(1816年)、文政8歳(注:年・1825年)の文字。なお、絵図内の鳥居はありません。
ということで、長崎の「諏訪神社」の記録と比べれば、こちらの「諏訪神社」から勧請したとは考えにくいものです。
(追加)
「長崎県名大辞典」には「上池の松林に健御名方神を祀る諏訪神社があり、土地の人は諏訪神社(長崎市)の本社だというが確証はない」とあります。
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コメント
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はじめまして。
少し気になる記事だったので、調べてみました。
そもそも、信濃の諏訪大社は927年にまとめられた神名帳によると『南方刀美神社』と記載されていたらしい。『諏訪大社』と改称したのは最近らしいです。
諏訪神社の御祭神である『建御名方命』は712年に編纂された古事記には名前があるそうです。
大昔のことはわかりませんが、雲仙市の諏訪神社を産土神社として大切にし、土地の繁栄のために頑張ってきたのであれば、もし、本当に始まりが雲仙市の諏訪神社なのだとするなら専門家が見れば、わかる何かが残っているはず。
おそらく、無い。
・・諏訪の池の近くには日本最大級の縄文時代末期の遺跡『原山ドルメン』があります。
その辺を誇りに思って、生き方を見つめなおされた方がいいのかもしれません。
投稿: | 2021年5月 3日 (月) 22時13分
名無し様
コメントありがとうございます。コメントの文脈が多少分かりにくいのですが・・・(^^;)。
「(多分、「長崎の諏訪神社が」、でしょうか?)本当に始まりが雲仙市の諏訪神社・・・」とありますが、ブログの長崎の諏訪神社に関する所を読んでいただければ、「小浜」「北串」「諏訪の池」の文字がないので、これはまったくの間違いになります。熟読のほどを。
「雲仙市の諏訪神社を産土神として・・・」とありますが、小浜の諏訪神社は「雲仙市」の産土神ではありません。「雲仙市」は7ヶ町合併の市で、各町には、産土神・氏神様が祀られています。「雲仙市の諏訪神社を産土神として・・・」の表現は誤解を生むので、避けて下さい。
なお、コメントの中で「らしい」が多いですね。これでは、調べようがありません。就中「・・・専門家が見れば、わかる何かが残っているはず。 おそらく、無い。」にいたっては、あるのか、無いのか分かりません。後半は独り言でしょうか?
「『諏訪大社』と改称したのは最近らしいです。」と書いておられますが、年代がハッキリしないことには、長崎・雲仙市小浜の諏訪神社との年代比較ができません。神社の名前については、ご存じの通り明治時代の神仏分離、南方熊楠が強烈に反対した神社合祀の件もあり、慎重に調べる必要もあります。
「原山ドルメン」については、北有馬町に勤務し、子ども会などを連れてキャンプをしたことがあります。古代の地で夜空を見ながら眠りました。拙文ですが、昔、少し記事にしています→http://himahima1.cocolog-nifty.com/in/2011/08/post-7a4a.html
「生き方を見つめなおされた方がいいのかもしれません。」→自分の生き方は、自分で考えています。
投稿: sugikan | 2021年5月 4日 (火) 19時20分