「深溝世紀」に見る潜伏キリシタン
「深溝世紀」。「ふこうずせいき」と読みます。
で、これが何かというと、「深溝世紀 現代語訳 巻四 孝公(家忠)編 上 島原図書館・郷土史を学ぶ会」の「『深溝世紀』解題」として、郷土史家の松尾卓次先生が次のように書かれています。
「藩政奉還によって島原藩が消滅することになったので、歴代藩主の業績や藩内外の出来事をまとめて、後世へ伝えることにした。
そこで島原藩庁は明治三年に編集局を設置して、藩校稽古館教授・渡部政弼(太平)を主任に選び、その編集事業にとりかかった。藩日記や家譜など書記録を元に作業を進め、家中にも呼び掛けて旧記の提出を求めるなど精力的に務め、明治五,六ごろには一応終了している。島原藩主はかって深溝松平氏と称していたことから、書名を「深溝世紀」となずけた。」という事で、全二五巻、一五冊にまとめられています。
上は「深溝世紀 巻十七巻 靖公」。「靖公」は「松平忠憑(ただより)」。明和八年~文政二年(1771~1819年)。
キリシタンは、江戸時代に密かにキリスト教を信仰する人を「潜伏キリシタン」。明治になり、信仰が自由になり、教会に戻れるものを祖先からの教えで、自分たちだけでキリシタン信仰を守っている方を、立場によって違いますが、「かくれキリシタン」「隠れキリシタン」といいます。
禁教時代、隠れてキリスト教を信仰し、バレた場合は、一般的に拷問、死罪など思い出すのですが、上の本を読んでいると、次のような記述がありました。
原文は漢文ですが、読み下し文に直してあります。
「天草郡大江等三村の民(餘の二村の名は不詳)密かに天主教(注:キリスト教)を奉ず。幕府公事方勘定奉行(松平兵庫頭)をして命を伝えて之を検治せしむ。公(注:松平忠憑)即ち吏を遣わして其の民を捕まえて糾明せしむ。皆曰く、『我が輩は祖考の遺言に遵いて之を奉ずるのみ。敢て他心あるに有るに非ざるなり』と。公其の愚昧にして法禁を犯すを憐み、其の状を上申するに寛典を乞う。之を聴(ゆる)す。因って其の祭る所の天守像を収め、各々をして改心して旦那寺の宗法を守らしめ、更めて影踏(注:踏み絵)を命じて復た其の罪を問わず。
ということで、潜伏キリシタンにも関わらず、祖先からの遺言で、それを守って他心はない。という事で、これを「憐み」、天主像(キリストの像)を捨て、旦那寺(キリシタンで無いという証拠に、各寺に属し、家族全員の名前、年齢を地方によって違いますが、「宗門改帳」に書き、また、普通、年一回、踏み絵をします)に属し、改めて踏み絵をし、その罪を問わなかった。ということで、こんなこともあるのだなと、改めて感じた次第です。
ただ、転びキリシタンの場合は誓詞に血判を押させ、キリシタン切支丹類族帳に記載され、男性は6代(7代と記されているものもあり)、女性の場合は3代まで監視され、年2回の届け出、踏み絵が義務づけられ、転びキリシタン当人は、火葬されていたのですが、そこまで許されたのかどうか、この文章だけでは判断がつきませんでした。
最近のコメント