「島原藩 江戸屋敷」はどこだ?~古地図って面白い!
島原藩中屋敷が慶応大学の一部になっている、ということは以前から聞いてはいたのですが、それなら、上屋敷と下屋敷はどこなのさ、と思っていたら、下の「寛正 新刻 毎月改正」という地図を手に入れました。1789年、今から約200年以上のものになります。
この地図で、場所を探そうとしても、昔のくずし字で細かいところはとても無理。
ということで、元禄九年𦾔版、萬延元年新版のレプリカの地図を手に入れたら、断然見やすく、こちらを利用。
矢印の赤が江戸城、右へ行って上屋敷、中屋敷、下屋敷。見ての通り、段々、お城からは遠ざかります。
あと、島原市発行の、島原藩正史の「深溝世紀(ふこうずせいき)」。島原藩は松平家ですが、松平家といっても色々あり、島原藩は「深溝松平家」になります。
島原藩松平家は前期と後期になりますが、後期は最初の忠恕(ただひろ)公の官位が「従五位下 大和守」ですが、後は「従五位下 主殿頭(とのものかみ)」になります。
その「深溝世紀 巻二十一 紹公 巻二十二 哀公」の最後の頁に載っていた、切絵図。これは、「(株)人文社刊 『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』」より、転載されたものだそうですが、大変助かりましたが、部分の絵図なので、江戸全体から見るとどこなのか、これには苦労しました。
上屋敷です。「重ね扇」は島原藩松平家の家紋。矢印は「数寄屋橋」のように読めましたが自信はありません。
意外と江戸城に近いですね。江戸城の近くには親藩、譜代大名などを配置。見ていくと「松平」が多いのですが、徳川家康も以前は「松平」を名乗っています。
中屋敷です。「松平主殿」が分かると思います。
なお、一番上の写真、右手の長い塀が「中屋敷」。政府に接収された後、慶応義塾に払い下げられ、現在の三田キャンパスになります。
萬延の地図でみると「松平とのも」が分かると思います。矢印は「つなさか(綱坂)」。「渡辺綱」がこのあたりで生まれたそうです。「渡辺綱」は→こちらを参照
一番苦労したのが下屋敷。「切絵図」と比較しましたが、多少違ったところもあり、といっても、地図の年代が違い、江戸には火事が多かったというのが原因かな?
さて、上屋敷、下屋敷の写真を探しましたが残念でした。
なお、上屋敷は明治大学の前身明治法律大学が、明治14年に上屋敷で開校をしております。丸印が「明治大学発祥の地」。矢印が「数寄屋橋」。GoogleEarthから借用しました。
右の地図「泉岳寺」。泉岳寺といえば四十七士の墓所があるところ。下の方、ルーペで見ると「義士墓」のような感じに読めました。
と、三日ばかりかかって、ルーペ片手に地図を読んでいきましたが、その他、いろいろ気づきがあって面白いものでした。皆様も機会がありましたら、見て下さい。
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TOKです。お久しぶりです。
面白いiPadのAPPを紹介します。「大江戸古今めぐり」です。
1840年辺りの江戸の地図と現代の地図をスライドバーで行き来で来ます。松平 忠精(まつだいら ただきよ)の時代です。
上屋敷、中屋敷、下屋敷とも見つけました。
上屋敷は、有楽町で会いましょうの数寄屋橋、中屋敷は、慶應義塾大学の三田キャンパス、下屋敷は、目黒駅西口北のビジネス街ですね。
投稿: TOK | 2018年5月27日 (日) 18時02分
お久しぶりです。
貴重な情報ありがとうございます。なかなか面白いAPPですね。
実は、島原藩江戸屋敷については時代的に変遷があり、熊本大学・大学院、宮城大学女子大学院、筑波大学大学院、福井工業大学、文部科学省合同で「深溝松平藩の屋敷地の変遷と屋敷指図」という論文があり、永田町、常磐橋、桜田、神田橋、浅草、渋谷、田町等の変遷も書いてあり、京、大坂の屋敷も触れてありましたが、全部書くと煩雑になるので、避けました。
地図の時代の変遷を追っていくと分かるとは思うのですが・・・・
投稿: sugikan | 2018年5月28日 (月) 22時57分