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2018年5月14日 (月)

「松倉重政」と「筒井順慶」

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司馬遼太郎「島原・天草の諸道」の最初の所に「日本史の中で、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくなくない。」と書かれています。

身分相応の島原城を建て、キリシタンに対する残虐な扱い、その子、重勝の父親に劣らない圧政。

ただ、松倉重政は千々石の田畑が潮風で荒れて、難儀をしているということで、海岸に土手を築き、松を植えさせており、現在の海水浴場(昨年より閉鎖)あたりの長く続く松林になっており、また、大正15年の関善太郎著「雲仙小浜風光記」には、諏訪池について、次のような記述があります。かなり大きな池ですが、貯水地というよりは湖で、上池、中池、下池から成り立っています。

「・・・往昔、島原藩主豊後守(注;松倉重政)が、田甫(たんぼ)を養わんが為に川を穿ち谿水がをこゝに導いたそうな。」とあります。

さて、圧政をしいた松倉重政、善政をしいた松倉重政、二つの面がうかがえるわけですが、最初キリシタンにあまり厳しくなかったものの、家光(重臣との説もあり)にキリシタン取り締まりの甘さを叱責され、それから、厳しくなります。

もう一つ、「『図解50』合戦日本史~中井一水+加来耕三著」に「・・(島原・天草の乱は)幕府の重商主義が、鎖国政策に切りかわった瀬戸際に発生したからである。」とあり、朱印船から奉書船そして、鎖国になり、ルソンを占領し貿易で儲けようとした企てが全部パー。

重政は亡くなりますが、残された重勝、親父の借金が10万円程度なら、まあ大丈夫でしょうが、何億も抱えて、「鍋島家譜」に書いてあるように、父に似ず武を忘れ諸士(家臣)を愛ぜず、女色を好み酒に耽りて・・・というのは当たり前でしょう。やけのやんぱち、ですね。

住民に対する圧政を肯定するわけではありませんが、「『図解50』合戦日本史」には、重政のことを「幕府政策の犠牲者のひとり」と書いてあります。大きな時代の動きに流された一人だともいえるわけです。

なお、奈良五條市のホームページには「重政は城下町振興策として新町村を取り立て、諸役を免許して商売を行いやすくし、商人の結集を図りました。ここに五条市南和地域の中心として発展する基礎が形作られたのです。
 重政が島原で領民に苛政をを行ったために島原の乱につながったのは有名な話ですが、五条では、新町西方寺に頌徳碑が建ち、江戸時代には豊後さまとして祀られるほど、名君として崇められていたのです。」とあります。

話を元に戻して、「島原・天草の諸道」を読んでいると、「筒井順慶」の事が書かれてあり、「筒井順慶」と言えば、「筒井康隆」さん、ヒョッとしたら子孫では無いかとの事で本を書いていますが、調べた本が「多聞院日記」「訪憲記」「筒井家日記」「原本信長記」「稲葉家文書」等々、20冊程度、ほとんど古文書です。

「筒井順慶」には、3名の重臣がいて、「森志摩守(もりしまのかみ)」「島(嶋)右近」(後、石田三成から三顧の礼をもって迎えられます)」そして「松倉右近」。この「松倉右近」が「松倉重政」のお父さんになります。

筒井順慶のお父さん、筒井順昭は天文19年に亡くなり、このとき、順慶、わずか2歳。順昭が亡くなるとき、順慶があまりにも小さいので、亡くなったことをしばらく伏せておけ、ということで、自分にそっくりの木阿弥という人物を影武者にして、数年後(1年とか2年とか3年とか成人までとかあり、詳細不明)順昭の死を明らかにし、木阿弥はお払い箱。木阿弥は家に帰り元の身分に戻ったそうです。「元の木阿弥」という言葉はここから出たそうです(他にも諸説あり)。

さて、「筒井順慶」と言えば「洞ヶ峠の筒井順慶」。明智光秀が信長を討ち、秀吉と対峙したとき、洞ヶ峠で、どちらにしようかと悩んでいたとき、「少し見てた方が」と進言したのが、「松倉右近」といわれていますが・・・司馬遼太郎さんもそう書いています。

筒井康隆さん、洞ヶ峠まで出かけたそうですが、「洞ヶ峠レストラン」に入り、洞ヶ峠はどこか聞いたそうですが、主人曰く「頂上はここにあったんですが、わたしが切り崩してこのドライブ・インを建てました」「ここは筒井順慶が日和見をした名所です。もうすぐ順慶餅というのを出そうと思っています」と笑ったそうです。小説ですから、本当かどうかは分かりませんが。

それに対し筒井康隆氏は、「・・・つまり天正十年六月十日と十一日にこの洞ヶ峠にいたのは、実は筒井順慶が応援に駆けつけてくれるのを待っていたのは明智光秀だったからです。・・・・その時明智光秀がここに出陣していたという証拠は山ほどあります。『兼見卿』『多聞院日記』『蓮成院記録』『細川忠興軍功記』『続本朝通鑑』」

さて、筒井順慶は本当に洞ヶ峠をしたのか、分厚い「人名辞典」を調べたら、「本能寺の変後の山崎合戦に与力を逡巡、一方、羽柴秀吉に款を通ずるなどして郡山城に籠城したため『洞ヶ峠の順慶』などという嘲罵をこうむる。洞ヶ峠に陣して勝負を観望、秀吉軍に参じたというのは俗説である。・・・しょせん順慶は名族の御曹司的存在であり、しかも辛苦の末に大和を入手した。その大和を喪失するのを恐れたのが『洞ヶ峠順慶』の汚名をこうむった要因である。」

という事で「洞ヶ峠の順慶」はデタラメで、「もう少し状況を見ていたら」と言った、松倉重政の父、松倉右近の話もウソということで、まだまだ異論はあるのですが、歴史は間違っていることがあるので、よく調べることが必要ですね。と思いました。






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