「島原藩」と「大塩平八郎の乱」

「長崎は今日も雨だった・・・」ということで、することもなく、カミサンは同窓会(毎年開催)で留守。コンビニの弁当を買ってきたら、やることもないので、久しぶりに「深溝(ふこうず)世紀」を眺めていたら、「大塩平八郎」の字が目につき、読んでみました。
島原藩は、藩主が、有馬家、天領府、松倉家、高力家、松平家(前期)、戸田家、松平家(後期)と変わるわけですが、松平家は先祖をたどると徳川家と共通の祖になります。
松平家は十八家あるそうですが、深溝松平家はそのひとつです。
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明治を迎え廃藩置県になり、島原藩は消失をするわけですが、歴代の藩主の事をまとめ、後世に伝えることを計画したわけですが、明治3年~5,6年にかけてまとめ、「深溝世紀」と名付けたそうです。全25巻、15冊、別巻にまとめられています。
さて、上の「文公」(松平中侯・ただこれ・寛正11(1799)~天保11年(1840))の所、八年、丁酉(ひのと・とり)とかいてありますから、天保八年の出来事になります。
天保といって思い出すのが、天保の大飢饉。民衆の救済のため、大坂(当時は大坂、後、大阪)奉行の元与力大塩平八郎が立ち上がります、詳しくは→こちらをクリック
さて、「深溝世紀」では次のように書かれています。
大坂の邸使報ず(大坂には島原藩の蔵屋敷がありました)「本月十九日、大坂に大火あり、町奉行組與力(与力)大塩平八郎親子、尞友及び同心・村民を誘いて大熕を発し、火を縦(はな)ちて乱を造る。・・・・」、あと長いので省略。
で、島原藩は
「二日(三月か?)、大坂より変を報ずる書島原に至るや、老臣公行途に在るを慮り議して中小姓・徒歩等を使わして之を邀えしむ。六日公大坂騒乱するを以て掃討に従う衛士を増す。」
となっており、大塩平八郎の乱のため、まだ、世情騒然の時期でしょう、「十一日公西帰す(三月)」になっているので、江戸から島原に帰城の途中か前かに乱が起こったと思われます。歴史というのは、思わぬ出会いもあるもので・・・・
という事で、この「深溝世紀」、読んでみると興味深いことが書いてあります。現在、全巻は手に入りませんが・・・・
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