「純忠(すみただ)」★日本で最初にキリシタン大名になった男~清涼院流水
作者は「清涼院流水」。かっこいい名前。
本屋さんに寄ったら置いてありました。キリシタンについて勉強すると、ズブズブになってしまうので、なるだけ避けたいのですが、島原半島は、昔、有馬家が収めていて、純忠は関係があるので、つい、買ってしましました。
純忠は大村の領主ですが、現在の南島原市北有馬町にある日野江(ひのえ)城主・有馬晴純入道仙岩の二男。長男は、晴信(のちキリシタンに転教)。
純忠は、大村城主・大村純前の所へ養子になりますが、純前には又八郎という実子がいて、これが純前の跡を次ぐべき所、肥前武雄の領主・後藤純前へ養子に送り込まれ、後藤貴明と名乗り、しつこく純忠を攻めつづめけます。これが、この本の一つの主題になります。
あと、家臣の反抗、佐賀の龍造寺、大友宗麟、当時、伊佐早(現諫早)の西郷氏等との争い、和合等々で話が続きます。
さて、ここでポルトガルから、キリシタン(面倒なので、キリシタンには巡察師とか宣教師とか祭司とか神父とか修道士とか同宿とかあるので、キリシタンで統一します)が良港を求め、横瀬浦に来ますが、大村郷村記、横瀬浦村には
「横瀬村往古の儀詳ならず、永禄五壬戌年、南蠻の商船始めて橫瀨浦に入津す、依って町屋を建、交易を始む、夫より五ヶ年の間此浦に来たる・・・」
となっており、同時に来たキリシタンと出会い、自らもキリシタンになります。が、同時に伊勢信仰をも持っていました。
さて、キリシタン大名は、当初、貿易により利益、又、鉄砲を特に欲したらしく、有馬晴信と龍造寺の戦いの時、巡察師ヴァリャーノは晴信のため、鉄砲の弾丸の材料の鉛、硝酸などを用意しています(フロイス「日本史」)。他の大名も、利益の為に入信したようで、キリシタンは自殺を禁じられていたので、斬首された小西行長、徳川家康による国外追放令を受け、マニラに行った高山右近、転教を拒んで行方不明になったと言われる結城弥平次などのキシタン大名は、まれだといえます。
さて、純忠はどうかというと、最初は利益を求め、後、領内の寺社は全部破壊をし、長崎(昔は大村領・寒村でした)を提供します。イエズス会本部は長崎県庁です。のち、奉行所西役所、海軍伝習所になります。なお、長崎は天領になります。
純忠の跡継ぎ喜前は最初キリシタンなるも、禁教令のため、法華宗に転教し、純忠が寺院を焼き尽くし、教会を建てますが、その教会を全部破壊しています。
さて、こうして戦いに明け暮れた純忠ですが、墓所がハッキリしておりません。大村家の墓所は現在は「本経寺」ですが、「大村郷村記」にも記載はありますが、松田毅一著「大村純忠伝」では結論を下のように書いています。
「確かなことは喜前は一六〇三年(慶長八年)から明らかに棄教者として振る舞い、一六〇五年(慶長一〇年)にはイエズス会を追放し、一六〇八年(慶長一三年)に本経寺を落成せしめたのであって、(注:純忠の遺骸はそれまで、法性寺、草場寺にあったと「大村郷村記」にあるそうです)純忠の遺骸は、その後五十六年を経て、本経寺に移されることとなった。当時既にキリシタン宗門は邪教として排斥されていたし、爾来二世紀に亘る迫害を思うならば、純忠の遺骸が鄭重に取り扱われるはずがなく、今日、大村家の廟として併記されるにとどまっていることは当然のことと言うべきであろう。
本経寺の過去帳には『天正十五丁亥五月十八日(四月十七日の誤)十八代純忠公円通院殿前戸部待即理仙日融大居士』とある。」
と言うことですが、小説の方は、遠藤周作の「沈黙」みたいに深刻ではないので、気楽に読めます。
(参考:引用文・「大村郷村記~藤野保編」、「大村純忠殿~松田毅一著」。「キリシタン伝来の地と神社と信仰~久保田和則著」、「長崎史の実像~外山幹夫著」、「大村市史」)
さて、ここでポルトガルから、キリシタン(面倒なので、キリシタンには巡察師とか宣教師とか祭司とか神父とか修道士とか同宿とかあるので、キリシタンで統一します)が良港を求め、横瀬浦に来ますが、大村郷村記、横瀬浦村には
「横瀬村往古の儀詳ならず、永禄五壬戌年、南蠻の商船始めて橫瀨浦に入津す、依って町屋を建、交易を始む、夫より五ヶ年の間此浦に来たる・・・」
となっており、同時に来たキリシタンと出会い、自らもキリシタンになります。が、同時に伊勢信仰をも持っていました。
さて、キリシタン大名は、当初、貿易により利益、又、鉄砲を特に欲したらしく、有馬晴信と龍造寺の戦いの時、巡察師ヴァリャーノは晴信のため、鉄砲の弾丸の材料の鉛、硝酸などを用意しています(フロイス「日本史」)。他の大名も、利益の為に入信したようで、キリシタンは自殺を禁じられていたので、斬首された小西行長、徳川家康による国外追放令を受け、マニラに行った高山右近、転教を拒んで行方不明になったと言われる結城弥平次などのキシタン大名は、まれだといえます。
さて、純忠はどうかというと、最初は利益を求め、後、領内の寺社は全部破壊をし、長崎(昔は大村領・寒村でした)を提供します。イエズス会本部は長崎県庁です。のち、奉行所西役所、海軍伝習所になります。なお、長崎は天領になります。
純忠の跡継ぎ喜前は最初キリシタンなるも、禁教令のため、法華宗に転教し、純忠が寺院を焼き尽くし、教会を建てますが、その教会を全部破壊しています。
さて、こうして戦いに明け暮れた純忠ですが、墓所がハッキリしておりません。大村家の墓所は現在は「本経寺」ですが、「大村郷村記」にも記載はありますが、松田毅一著「大村純忠伝」では結論を下のように書いています。
「確かなことは喜前は一六〇三年(慶長八年)から明らかに棄教者として振る舞い、一六〇五年(慶長一〇年)にはイエズス会を追放し、一六〇八年(慶長一三年)に本経寺を落成せしめたのであって、(注:純忠の遺骸はそれまで、法性寺、草場寺にあったと「大村郷村記」にあるそうです)純忠の遺骸は、その後五十六年を経て、本経寺に移されることとなった。当時既にキリシタン宗門は邪教として排斥されていたし、爾来二世紀に亘る迫害を思うならば、純忠の遺骸が鄭重に取り扱われるはずがなく、今日、大村家の廟として併記されるにとどまっていることは当然のことと言うべきであろう。
本経寺の過去帳には『天正十五丁亥五月十八日(四月十七日の誤)十八代純忠公円通院殿前戸部待即理仙日融大居士』とある。」
と言うことですが、小説の方は、遠藤周作の「沈黙」みたいに深刻ではないので、気楽に読めます。
(参考:引用文・「大村郷村記~藤野保編」、「大村純忠殿~松田毅一著」。「キリシタン伝来の地と神社と信仰~久保田和則著」、「長崎史の実像~外山幹夫著」、「大村市史」)
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