「ここは、どこ?」~雲仙市小浜町
「ここどこ?なに?」と言われても、難しいですね。
実は、「ハンネの屋敷跡」になります。ここ、昔、話を聞いていたので5,6回行って捜しましたが、全然分かりませんでした。
とにかく、小浜高校近くだということで、左のような藪まで入ったのですが、分かりませんでした。で、知っている人に聞いて、行ってみても分かりません。しかたがないので、ご近所の方に聞いて、やっとわかりました。
右の写真の赤の矢印の所、木の中におぼれていました。
かき分けてみると、お!出てきましたね。「昭和五十六年一月 小浜町教育委員会 ハンネの屋敷跡」。これじゃ、探してもわかるはずがない。
ご近所の方と話をしていると、「せっかくなら、分かりやすい標示すればいいのにネ」
このハンネについては「髙来郡(たかきぐん)小浜村由来記」について書いてあり、ただ、原本ではなく、写本で、表紙には「弘化四年(1847年)丁(ひのと)未の年十二月中旬書写 社役当村院跡七代目法師 覚五院実相坊宥元(直人行元)」となっていますが、これを読み下したものがあったので、読んでみると下のように書いてあります。長いので、肝心なところだけ。
「慶長十九年(1614年)に、イルマン(修道士)北村(地名)居住致し、耶蘇教を勧める。元泉(光泉寺の弟子)五十四才にて、邪教と目をつけ申し候につき、与ヱ門(村役)が召し取り、御公儀へ訴えつかまつる。
御上使、山口駿河の守様が御来駕、与ヱ門へ御ほうび、その時鉄砲給わり候。・・・以下略」
と書いてあり、この場所今は開けていますが、当時は山領に続く細い道だったのでしょう。
さて、このことは、「髙来郡小浜由来記」、「小浜史談」には同じように書いてありますが、小浜の「史跡巡り」には、「・・・ハンネは甘藷(かんしょ・サツマイモ)作りをすすめるなどして住民は崇拝していた。」と書かれていますが、この話はどこから出てきたのでしょう?由来記には、ハンネも甘藷も出てきません。
さて、このことは、「髙来郡小浜由来記」、「小浜史談」には同じように書いてありますが、小浜の「史跡巡り」には、「・・・ハンネは甘藷(かんしょ・サツマイモ)作りをすすめるなどして住民は崇拝していた。」と書かれていますが、この話はどこから出てきたのでしょう?由来記には、ハンネも甘藷も出てきません。
キリシタンの禁教については、多種説があり、細かく言えば難しいのですが、本格的に厳しくなったのが、江戸時代で、寛永14~15年(1637~1638年)、島原・天草の乱に恐怖した幕府は、このころ、まだ、締まりが甘かったものの、島原藩主・松倉重政が家光(重臣との話もあり)から、厳しく叱責され、取り締まりを強化したということです。
とまあ読んでみて、「ハンネ」「甘藷作り」は「小浜由来記」には載ってなく、どこからこの話が出てきたのか、知りたいものです。
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