「ヴァチカンと有馬」展★有馬キリシタン遺産記念館~あれ?この絵なに?
先日から、南有馬町のキリシタン遺産記念館で、「世界遺産登録推進特別企画展『ヴァチカンと有馬』~長崎と天草地方の潜伏キリシタン関係遺産~」、という企画展をやっておりました。
世界登録遺産を目指しての企画展でしょうが、少し展示品が寂しかったかなという感じでした。世界遺産を目指すなら、もう少し目玉になるのが欲しかったかな?
で、その中で、下の展示品、「有馬・島原から送られた奉投書」と言うことで、説明によると「1619年、教皇パウルス5世は迫害に苦しむ日本人信徒に激励の手紙をだしました。
この書は、その返礼として島原半島の信者代表12名が署名をしローマへ送ったものです。(中略)信者の代表の一人であるパウロ内堀作右衛門は、かって日野江藩主であった有馬直純の旧臣で、寛永4年(1627)に雲仙地獄で最初に殉教を遂げた人です。」となっており、この書状を見ると、イヤに汚れているな、と思ったのですが、よくみると・・・・
全面、色が塗ってあり、所々に絵が描いてあります。左は真ん中の所。枯葉みたいです。右も同じくの感じ。他に倒れそうな杭が描いてあったりで、なんとなく荒涼とした感じです。上の写真、赤丸はラテン語で書いてあります。
一番気になったのが、下の写真の部分。日本の石垣なら、石を積んでいるはずなのですが、コンクリートで固めたような感じ。このため、自分だけかもしれませんが、なんとなく西洋画の印象を受けました。
この前、山田右衛門作(天正3年《1575》?~明暦3年《1657》)の事を書きましたが、山田右衛門作は、ポルトガル人に南蛮画を習い、有馬直純(慶長19年《1614》に日向延岡に移封)、松倉重政、松倉勝家に仕えていたそうです。
字が邪魔にならないように絵を描くというと、かなりの技量が無ければ描けないでしょう。
ガイドさんと話をしていると、上に書いたパウロ内堀ではないかと言うことですが、両方とも有馬直純に仕えていますから、ひょとしたら絵を習っていたのかもしれませんが、1,2年習ってもこの広さの紙に、字が邪魔にならないように下書きをするのは無理でしょう。残念ながら本物で無く写真のレプリカで、しかも、展示ケースの中ですから良く確認はできませんでした。
で、家に帰って思い出したのが、大正3年初版、昭和2年に第3版が出版された、「増補・改訂 切支丹史料集~對外資料寶刊行會発行・永山時英著」。見てみると同じように、「元和三年のジュピレオに際し法王パオロ5世(パウルスの間違いか?)の下したる罪障全赦の喩文い對し元和七年長崎の信徒等の呈したる奉答書」
説明によると、「本書も亦十八圖(注:有馬・島原から送られた奉答書)と同じく一千六百十七(注:島原・有馬とは年が違うみたいですが、ママ)法王パウロ(ママ)五世が信徒に下したる喩文に対する奉答書にして、金泥にて模様を散らし描きしたる鳥子紙に認めあり、・・・」
と言うことで、本では白黒写真でよく分からなかったのですが、金泥で模様を描いているのですね。確かに島原・有馬の奉答書も良く見ると金泥みたいです。
図柄が樹木だったり、右の赤丸印は船の感じで、長崎を現しているのでしょうか。
ただ、長崎の分は日本画風に書かれています。
有馬・島原の奉答書の下書きの絵を描いたのは誰でしょう。なお、文はラテン語が入っていますから、この時代、当然ラテン語ができるのは神父さんに限られます。ガイドさんに質問すると、この時代、口之津に中浦ジュリアン(天正遣欧少年使節の一員、穴吊の刑にて殉死)が滞在していたそうですが、ひょっとしたら、と言うことでした。絵を描いたの中浦ジュリアンかな?
いろいろ調べたのですが、この方面の研究は皆無でした。
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