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2018年2月

2018年2月28日 (水)

「『足裏アーチ』でひざと腰の痛みが消える」★川口雄一〈監修〉

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私のカワユイ膝っ小僧ですが、最近調子が悪く、痛くなって歩けない、歩けない。

医者にいっても「加齢ですね」と言われ、湿布をもらうだけなので、2,3年前買っていた湿布が余って、賞味期限はまだなので貼っています。

さて、今日の新聞を読んでいると、なんと、私が巻き爪の治療に通っている病院の理学療法士さんが、膝、腰に関する本を出しているのですね。直接には治療は受けていませんが・・・・

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でもってデスね。私、この本、持っていたのです。

それで、どれだけ良くなったかというと、私の悪い癖で、本は買ってきて読まない。と言うことで、まだ読んでないんです。本には、付録としてサポーターが付いています。

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ということで、今から本を読んで、明日から実践します(どうせ三日坊主)ので、今日はこれで終り。皆さんも、加齢には注意しましょう。古人いわく、「加齢は、だまって、忍び寄る」


2018年2月27日 (火)

「ヴァチカンと有馬」展★有馬キリシタン遺産記念館~あれ?この絵なに?

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先日から、南有馬町のキリシタン遺産記念館で、「世界遺産登録推進特別企画展『ヴァチカンと有馬』~長崎と天草地方の潜伏キリシタン関係遺産~」、という企画展をやっておりました。

世界登録遺産を目指しての企画展でしょうが、少し展示品が寂しかったかなという感じでした。世界遺産を目指すなら、もう少し目玉になるのが欲しかったかな?

で、その中で、下の展示品、「有馬・島原から送られた奉投書」と言うことで、説明によると「1619年、教皇パウルス5世は迫害に苦しむ日本人信徒に激励の手紙をだしました。
この書は、その返礼として島原半島の信者代表12名が署名をしローマへ送ったものです。(中略)信者の代表の一人であるパウロ内堀作右衛門は、かって日野江藩主であった有馬直純の旧臣で、寛永4年(1627)に雲仙地獄で最初に殉教を遂げた人です。」となっており、この書状を見ると、イヤに汚れているな、と思ったのですが、よくみると・・・・

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全面、色が塗ってあり、所々に絵が描いてあります。左は真ん中の所。枯葉みたいです。右も同じくの感じ。他に倒れそうな杭が描いてあったりで、なんとなく荒涼とした感じです。上の写真、赤丸はラテン語で書いてあります。

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一番気になったのが、下の写真の部分。日本の石垣なら、石を積んでいるはずなのですが、コンクリートで固めたような感じ。このため、自分だけかもしれませんが、なんとなく西洋画の印象を受けました。

この前、山田右衛門作(天正3年《1575》?~明暦3年《1657》)の事を書きましたが、山田右衛門作は、ポルトガル人に南蛮画を習い、有馬直純(慶長19年《1614》に日向延岡に移封)、松倉重政、松倉勝家に仕えていたそうです。

字が邪魔にならないように絵を描くというと、かなりの技量が無ければ描けないでしょう。

ガイドさんと話をしていると、上に書いたパウロ内堀ではないかと言うことですが、両方とも有馬直純に仕えていますから、ひょとしたら絵を習っていたのかもしれませんが、1,2年習ってもこの広さの紙に、字が邪魔にならないように下書きをするのは無理でしょう。残念ながら本物で無く写真のレプリカで、しかも、展示ケースの中ですから良く確認はできませんでした。

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で、家に帰って思い出したのが、大正3年初版、昭和2年に第3版が出版された、「増補・改訂 切支丹史料集~對外資料寶刊行會発行・永山時英著」。見てみると同じように、「元和三年のジュピレオに際し法王パオロ5世(パウルスの間違いか?)の下したる罪障全赦の喩文い對し元和七年長崎の信徒等の呈したる奉答書」

説明によると、「本書も亦十八圖(注:有馬・島原から送られた奉答書)と同じく一千六百十七(注:島原・有馬とは年が違うみたいですが、ママ)法王パウロ(ママ)五世が信徒に下したる喩文に対する奉答書にして、金泥にて模様を散らし描きしたる鳥子紙に認めあり、・・・」

と言うことで、本では白黒写真でよく分からなかったのですが、金泥で模様を描いているのですね。確かに島原・有馬の奉答書も良く見ると金泥みたいです。

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図柄が樹木だったり、右の赤丸印は船の感じで、長崎を現しているのでしょうか。

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ただ、長崎の分は日本画風に書かれています。

有馬・島原の奉答書の下書きの絵を描いたのは誰でしょう。なお、文はラテン語が入っていますから、この時代、当然ラテン語ができるのは神父さんに限られます。ガイドさんに質問すると、この時代、口之津に中浦ジュリアン(天正遣欧少年使節の一員、穴吊の刑にて殉死)が滞在していたそうですが、ひょっとしたら、と言うことでした。絵を描いたの中浦ジュリアンかな?

いろいろ調べたのですが、この方面の研究は皆無でした。




2018年2月26日 (月)

「一汁一菜でよいという提案★土井善晴著」~料理、思いつくまま

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この本を買う予定では無かったのですが、ペラッとめくったところに、「家庭料理はおいしくなくてもいい」という言葉が目に入って、思わず買ってきました。

以前、「粗食」という言葉がはやりました。「粗食」は、どんなにうまくても、心がこもっていなくては、たんなる、「食べ物」。この本に書いてあるのは、「素食」、「質素」だけど心がこもった、「一汁一菜」について書いてあります。エッセイと、特に「一汁」についての作り方が書いてあります。

私たち、終戦後すぐ生まれた者はカロリーを取れば良いと言うような感じで食事をとり、現在はカロリーを取り過ぎるなと医者からいわれ、減量に励んでおりますが


奥様方は、毎日、何を作ろうか、おいしいものを、と頭を痛めていると思いますが、「よく母親の作る料理を『家族はなにも言ってくれない』と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だとおもいます」、と書いてあれば、何となく、心が楽になりますね。献立は、「一汁一菜」ですむなら、なお楽になります。

「一汁一菜」というと、「ご飯を中心として汁(みそしる)と菜(おかず)をそれぞれ一品をあわせた食事の型です。ただし、おかずは昔の庶民の暮らしではつかないことも多く、実際には『味噌汁』『ご飯』『漬物』(=汁飯香)だけで一汁一菜の型を担っていました。」ということです。

ご飯をおいしく炊くのは当たり前ですが、味噌汁については、以前「食育」の講演会で、「本当の味噌汁は、突き立てた箸が倒れないように、具を沢山入れること」と言われたことがありますが、この本の味噌汁の写真を見ると具だくさんです。

「『具』は何を入れても結構です。畑の野菜といわれる豆腐や油揚は大豆食品。ベーコンやハム、卵はタンパク質や脂資。野菜、きのこ、海藻は体調を整えるビタミンや食物繊維。・・・」と、まあ、なんでもありという感じで書いてあり、ベーコン入りの味噌汁は食べたことがないので、カミサンはまだ行方不明で、一人なので作ってみました。

ベーコン、人参、じゃがいも、しいたけ、白菜(これは始めから入れると、クタクタになるので、味噌を溶かす少し前に入れてください)。あとから、冷蔵庫をみると、タマネギとサツマイモが入っていて、残念。味噌は吾妻の添加物まったく無しのもの。私の義姉のところは、今でも自分の家で作っています。

で、注意をするのは、アクを取ること、私の料理の先生も、「料理はアク(悪)との戦いです!アクなき戦いです!」と言っていましたが、土井氏も、「和食の調理は濁りを嫌って、きれに澄むことが大事です。物事がうまくいけば『すみ(澄み)ました』といい、うまくいかなければ『すみ(澄み)ません』と謝ります。・・・」ということで、アクはこまめに取りましょう。とらなかったら、汁が濁り、味に雑味が混じります。


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と言うことで、具だくさんの一汁ができあがりで、これにご飯と香のものをつけて、夕の晩ご飯。おいしゅうございました。なお、体がいつもより軽い感じでした。

なお、お一人ご飯の時は食卓に並べるより、お盆を使った方が良いと言うことで使ってみたら、食卓は汚れないし、いっぺんに持ち運びできるし、便利でした。


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上の写真の「箸」ですね。私のが見当たらないので、カミサンのを使いましたが、ご覧の通り長さが違っています。ストレスが溜まって、かじっているのかな?悪いのは私ですが。

なお、この本、短い文で、いろいろなことが書いてありますので、暇なときに少しずつ読まれた方が良いかと思います。急いで読む本ではありません。食に関して考えながら読む本です。

なお、著者の土井善晴氏のおとうさんは、料理研究家の土井勝さんで、NHKの「今日の料理」に出演され、いつもニコニコと独特のしゃべりで良く見ていました。



2018年2月23日 (金)

ハッピーな日


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一昨日の女子カーリング、笑顔と「だよねー」の言葉が、いつもより少ないみたいで、おやっと思ったのですが・・・

一昨年、「雪見だい福」の事を書きましたが、昨年は残念ながら一つも見つからず、思ったとおり三ヶ月入院したり、いい年ではありませんでした。

で、今日コンビニにいったら、あるじゃありませんか。「雪見だい福」。「雪見だい福」、「雪見だいふく」、違いが分かりますね。この、「だい福」が実に少ないんですね。ことしは春先から見つけ。これを、見つけると幸運が来るとか。

「月も朧に白魚の篝も霞む春の空、冷えて風も微酔い(ほろよい)に心持ちよくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の雫(しずく)が濡れ手で粟、思いがけなく手に入る『雪見だい福』、ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし、豆沢山に一文の銭と違って『雪見だい福』、こいつぁ春から縁起がいいわえ」

と、今日は、「こいつぁ春から縁起がいいわえ」。カミサンは留守で、「雪見だい『福』」は見つけるし、ハッピーな日でした。

カーリングが始まっているので、今日はここまで。


2018年2月21日 (水)

「山田右衛門作」~島原・天草の乱、唯一の生き残り

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島原・天草一揆については、まだまだ不明な点が多く、原因、参加者、死者の数等も正確にはいまだ分からず、いろんな人が各種の説を発表しているので、2,3冊の本を読んだからといって、そのまま信じないように。後は自学自習で。

島原・天草一揆では、籠城軍が37,000人、幕府軍が124,000人、期間88日となっています(「口之津町史 郷土の歩み」より)。籠城側は一人残らず惨殺され、逃げ出した人間も山狩りをされ、殺されます。ただ一人、一揆側で生き残ったのが、「山田右衛門作」。

この乱の資料は多いものの、ほとんどというより、すべてが幕府軍の資料で、一揆軍の資料としては、この右衛門作の、「山田右衛門作口上覚書(熊本県資料中世三、川口文書」寛永15・3・29)」があるそうですが、この口上書については、「異本多し、各小異あり」と言うことです(原史料で綴る天草島原の乱」~鶴田倉造編集)。

右衛門作の人生の概略につては、下記の説明版に書いてありますので、参考に。

さて、あの混乱する中で、右衛門作がどのように助かったかは、次のとおり書いてあります。読み下し文ですが。

右衛門作は幕府軍と通じて、それがバレ、一揆軍にとらえられますが、「拙者女房子共ハ廿七日本丸大手の枡形に而きられ申候、拙者儀者しはられ罷居候を、小笠原右近殿内衆見出、きり候を、右衛門作儀者、左衛門左殿(注:有馬直純。キリシタン大名有馬晴信の跡継ぎ。)より被下候矢文を見せ候故、命をたすけられ、いけとりにめしつれられ候・・・」と言うことで命をとりとめたわけです。

この日は、運が良かったのか、ブラブラしていたら近所の年配の方に出会い、いろいろ聞くくことができました。

上の写真の説明板の下の石が、右衛門作の慰霊碑、墓ではありません。右衛門作の屋敷はここにあったそうです。

説明板ですが、簡単すぎるみたいな感じ。なお、この土地は地主さんがかわり、土地をかさ上げしているそうです。写真では分かりませんが、後ろの方に土砂崩れ用のコンクリートの壁があり、本来はもっと出っ張っていて、工事で随分削ったらしく、近所の風景が昔とは変わっているそうです。


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案内板には、「与茂作川」と書いてあって、山田右衛門作を地元では、こうよんでいたのでしょうか。

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何となく、落ち着く風景ですね。この歳になると。右は五輪塔か宝篋印塔の先っぽか。

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最初の所から歩くこと、10~15分。説明版と標柱の間、赤丸のところ。

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見るとなんとなく、湧水が出ている感じ。ここの水を使い、与茂作が絵を描いたので、「与茂作川」と言われるようになったそうです。

なお、ここの道は上まであるそうですが、昔は、だいたい、ここらあたりまでが道だったということです。

昔は、ここの水を使い、お茶やコーヒーを淹れていたそうですが、ごらんの通り、役所さんがコンクリーで固め、そのため、ここの水を使わなくなったそうです。

おかげで、荒れて、近所の方が落ち葉などの清掃をしているそうですが、役所は何もしてくれない、などといっていました。折々、ここを訪れる人があるそうなのですが・・・説明版も汚れていますね。


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「山田右衛門作」の説明版。クリックすると、多少大きくなります。右の上は、子供が作った説明版、下は、ジオパークの説明。なんか、取ってつけた感じ。もう少し何とかならないのかと思いました。

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右衛門作の慰霊碑のところ。ひょっと見ると、今は廃線になった、島原鉄道南目線の線路跡。


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山田右衛門が書いたといわれる「天草四郎陣中旗」。ジャンヌダルクの旗、十字軍の旗とともに、世界の三大聖(軍)旗といわれています。

熊本県本渡市天草キリシタン館所蔵です。いつも飾ってあるのは、レプリカで、本物の展示は、平成30年は3月1日から7日までだそうです。


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2018年2月19日 (月)

「週刊ポスト」はインフルエンザかな?

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子どもと孫がインフルエンザ。本屋さんに行くと、「週刊現代」だけが並んでいて、ひょっとしたら、「『週刊ポスト』はインフルエンザかな?」ということで、今週は「週刊現代」のみで。

■「秋篠宮一家の家族会議」

週刊現代のみならず、他の週刊誌、ネットで情報が、出るところまで、でたようですが、TVではまだ出ません。どうなるかは、御一家ならず、宮内庁、官邸まで巻き込んでいるようですが、「身体検査」が甘かったようで・・・私も、カミサンに身体検査をされましたが、「まあまあでしょう」と言うことでした(子どもには分からない話)。

■「『膀胱リセット』トレーニング」

歳を取ると、オシッコのきれが悪くなったり、夜、何回もトイレに行ったり、トイレから出ようと思ったら、又、尿意がきたり、立ち上がろうとしたら、少し出たりと、まあ、お医者さんから言わせれば、例の「加齢」なんでしょうが。男性の場合は、前立腺肥大、過活動膀胱が多いらしいのですが。

「尿道は『揉んで振る』が正解」とか、運動の仕方が書いてありますので、実践してください。

「○○○ベーションは前立腺に悪影響?」と書いてありますが、「1ヵ月の回数が21回以上の男性は、4~5回の男性に比べて発症のリスクが約2割少ないというデーターがある」というそうですから、カミサンにかくれて、○○○べーションに励みましょう。

■「激変!『少子化日本の大学』」

これ、大変です。

①「まもなく誰でも入れるようになります 早慶も無試験で『はい、合格』」
②「東大入るのもこんなに簡単、でも就職はできません」
③「MARCH(明治・青学・立教・中央・法政)」に行く意味って何?」
④「「大学『全入』時代に難関私立中学校を目指してどうなるの」
⑤「一流の採用担当者が明かす『英語だできるだけの帰国子女は要りません』
⑥「大学院なんか進んだら、人生終わりです」

と、若い方は、どうすれば良いの!でしょうが、我々、職を辞め、「就職」を考えなくて良い世代で、リカレント教育を望む方、「東大に入るのもこんなに簡単」ですから、常々、本格的に学びたい事をお持ちの方はチャンスですよ。

もっとも、田村淳さんは、「青学」をスベリましたが・・・・

■「安倍首相の『朝日』批判で『記者クラブ』記者たちが『愛玩犬』にならぬ事を願う!」

「日本新聞協会加盟の大手新聞や全国ネットのテレビ局」は公権力から、経済的便宜を受けているそうですが、年間110億円の税金が、「記者クラブ」の運営費として使われ、朝日、毎日、読売の3大紙を集計すると、1社あたり年間5億になるそうです。

これだけのエサを貰えば、犬もおとなしくなるでしょう。

■「アルマーニ校長『銀座らしさ』って、そういうこと?」

銀座にある泰明小学校ですね。私事ながら、この学校から5分程度の会社に勤めていました。

ウチの近くは、農作業服ばかりで、今度は、アルマーニでも着て家庭菜園でも。

■「死ぬまで『快便』 健康で長生きしたいなら『流す前』にお読みください。

最近、腸の重要性が言われてきました。食べ物も、日本人には、日本流の食べ物が良いとかで、見直しがされてきているようです。

ウンチには、「色」「におい」「硬さ」を注意することが必要だそうです。

現在、出せば、洗ってくれて、乾かしてくれて、自分のウンチを見る機会が少なくなったようです。

はやり、自分で拭いて、色をみて、においをかいで、血が付いてないかどうかをチックする事が必要だと思うのですが・・・・・

■グラビアですね。「『霊長類史上、最高のカラダ』を見よ!」

とは書いてありますが、見合い写真を見て、見合いをしたら随分違っていたりして、「最高のカラダ」の実物はどうなんでしょう?



2018年2月16日 (金)

「巻き爪の治療」その後&その他の事

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昨日は、バレンタインデー。私もこの歳でも、多少あちらこちらからいただき物をしたのですが、家に帰ったら、いつもの悪友がきていて、勝手に食い散らし、ガチャガチャ。

今日は、以前書いたように、巻き爪のテープを使った治療が上手くいかなかったので、ワイヤーで引っ張っていたのですが、爪が割れワイヤーがとれてしまったので、つけかえに病院まで。

話を聞くと、爪が割れやすい体質だとかで、これがだめなら別の方法を考えましょうと・・・

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左が治療前、完全に巻いています。右が治療3週間目。巻いていたのが、開いている様子が分かると思います。まったく痛みはありません。多少、違和感はあります。巻き爪の方の参考までに。皆さんも、あまり深爪はしないように。

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少し見づらい写真ばかり並べましたが、今日はでなく、今日もですね、カミサンが行方不明なので、一人で外食へ。久しぶりに唐比(からこ)の「COZY」さんへ。

いつもは、まぜまぜご飯プレートを頼むのですが、今日は、目先をかえて、あたたかスープとオープンサンドプレートを。

サラダと、野菜スープと、野菜たっぷりのオープンサンドで、右を見ても、左を見ても、真ん中を見ても、野菜だらけで、明日のウ○チが楽しみです。多少○秘気味なので・・・余計な話ですが、お野菜の葉物の値段、高いですね。買いに行ったら、びっくりしました。

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天井が高いのは良いですね。気分まで晴れ晴れしてきます。外を見れば、ボチボチ梅のツボミもふくらみ始め・・・

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お客さんも、結構一杯で、皆さん、アベックばかりで、恋しちゃならない、妻帯者、やけのやんぱち石投げた。と、昔の歌を思い出しました。皆様も、不倫問題で週刊文春に載らないように注意しませう。



2018年2月15日 (木)

分かりやすい「原城の図」

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島原方面に観光来られた方は、島原・天草の乱の舞台、原城に寄られた事とと思います。

ただ、行ってみても、大阪城とか島原城とか、他のお城みたいに天守閣も、大手門もなく、掲示板はあっても、どこがここやら、といった経験を持った方がおられると思います。

上は、当時の幕府と一揆方の陣図です。

で、朝日百科「歴史を読みなおす15 城と合戦★長篠の戦いと島原の乱」(朝日新聞社刊)という本を読んでると、下のような図がありました。あくまで、現地と上の陣図などを参考にした、イメージ図でしょうが、これがあると、「今ここだよ」、「向こうに見えている丘がここ」と簡単に説明で知ると思います。

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図の中には場所の名前が書いてありませんが、右下のところ、細かいところは省いてありますが、大まかな場所の名前が書いてあり、これは視覚的に訴えるのに、便利な図でした。

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いろんな名所で、図面が描いてある所がありますが、ほとんどが平面図で、地元の方ならすぐ分かるのですが、始めて行ったところは分かりにくく、立体的な看板があったら、イメージ的に便利だなと思った次第です。

ただ、あくまでイメージイラストなので、一番上の陣図と比べれば、上の図の方が、歴史的重みがあるとは思いましたが・・・・・



2018年2月14日 (水)

「純忠(すみただ)」★日本で最初にキリシタン大名になった男~清涼院流水

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作者は「清涼院流水」。かっこいい名前。

本屋さんに寄ったら置いてありました。キリシタンについて勉強すると、ズブズブになってしまうので、なるだけ避けたいのですが、島原半島は、昔、有馬家が収めていて、純忠は関係があるので、つい、買ってしましました。

純忠は大村の領主ですが、現在の南島原市北有馬町にある日野江(ひのえ)城主・有馬晴純入道仙岩の二男。長男は、晴信(のちキリシタンに転教)。

純忠は、大村城主・大村純前の所へ養子になりますが、純前には又八郎という実子がいて、これが純前の跡を次ぐべき所、肥前武雄の領主・後藤純前へ養子に送り込まれ、後藤貴明と名乗り、しつこく純忠を攻めつづめけます。これが、この本の一つの主題になります。

あと、家臣の反抗、佐賀の龍造寺、大友宗麟、当時、伊佐早(現諫早)の西郷氏等との争い、和合等々で話が続きます。

さて、ここでポルトガルから、キリシタン(面倒なので、キリシタンには巡察師とか宣教師とか祭司とか神父とか修道士とか同宿とかあるので、キリシタンで統一します)が良港を求め、横瀬浦に来ますが、大村郷村記、横瀬浦村には

「横瀬村往古の儀詳ならず、永禄五壬戌年、南蠻の商船始めて橫瀨浦に入津す、依って町屋を建、交易を始む、夫より五ヶ年の間此浦に来たる・・・」

となっており、同時に来たキリシタンと出会い、自らもキリシタンになります。が、同時に伊勢信仰をも持っていました。

さて、キリシタン大名は、当初、貿易により利益、又、鉄砲を特に欲したらしく、有馬晴信と龍造寺の戦いの時、巡察師ヴァリャーノは晴信のため、鉄砲の弾丸の材料の鉛、硝酸などを用意しています(フロイス「日本史」)。他の大名も、利益の為に入信したようで、キリシタンは自殺を禁じられていたので、斬首された小西行長、徳川家康による国外追放令を受け、マニラに行った高山右近、転教を拒んで行方不明になったと言われる結城弥平次などのキシタン大名は、まれだといえます。

さて、純忠はどうかというと、最初は利益を求め、後、領内の寺社は全部破壊をし、長崎(昔は大村領・寒村でした)を提供します。イエズス会本部は長崎県庁です。のち、奉行所西役所、海軍伝習所になります。なお、長崎は天領になります。

純忠の跡継ぎ喜前は最初キリシタンなるも、禁教令のため、法華宗に転教し、純忠が寺院を焼き尽くし、教会を建てますが、その教会を全部破壊しています。

さて、こうして戦いに明け暮れた純忠ですが、墓所がハッキリしておりません。大村家の墓所は現在は「本経寺」ですが、「大村郷村記」にも記載はありますが、松田毅一著「大村純忠伝」では結論を下のように書いています。

「確かなことは喜前は一六〇三年(慶長八年)から明らかに棄教者として振る舞い、一六〇五年(慶長一〇年)にはイエズス会を追放し、一六〇八年(慶長一三年)に本経寺を落成せしめたのであって、(注:純忠の遺骸はそれまで、法性寺、草場寺にあったと「大村郷村記」にあるそうです)純忠の遺骸は、その後五十六年を経て、本経寺に移されることとなった。当時既にキリシタン宗門は邪教として排斥されていたし、爾来二世紀に亘る迫害を思うならば、純忠の遺骸が鄭重に取り扱われるはずがなく、今日、大村家の廟として併記されるにとどまっていることは当然のことと言うべきであろう。
本経寺の過去帳には『天正十五丁亥五月十八日(四月十七日の誤)十八代純忠公円通院殿前戸部待即理仙日融大居士』とある。」

と言うことですが、小説の方は、遠藤周作の「沈黙」みたいに深刻ではないので、気楽に読めます。


(参考:引用文・「大村郷村記~藤野保編」、「大村純忠殿~松田毅一著」。「キリシタン伝来の地と神社と信仰~久保田和則著」、「長崎史の実像~外山幹夫著」、「大村市史」)




2018年2月11日 (日)

「広辞苑」VS「『広辞苑』の罠★水野靖夫著」&その他

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「広辞苑」の第七版になります。発行は、「2018年1月12日」。感想を、と思ったのですが、この厚さ。読み終わるまで今日までかかりました 

以前買ったのが第三版、で、もうそろそろ買い直そうかと思い、買いました(前のはろくすっぽ使いませんでしたが、最近、古文書関係で必要なので)。

三冊分冊になったのもありましたが、値段の関係から、こちらの方をチョイスしました、が、年寄りには重い。といっても、最近スマホで安直に調べていますが、やはり辞書で調べると、調べたい字の隣に思わぬ言葉があったりして、面白く、やはり言葉は辞書で調べるのが一番。最近、学校でもタブレットを使うようですが、どうなのかな?

以前、「明解さんの謎」、「辞書になった男」、「明解物語」、「船を編む」、「裏読み・深読み・国語辞書」などを読み、辞書作りの大変さ、面白さを知り、本屋さんに行ってみると、「『広辞苑』の罠」というのが置いてあり、思わず衝動買いで、読んで見たら、なんか変。「明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず周辺アジア諸国とも近代的な国際関係を樹立仕ようとした。・・・・・『広辞苑』には『征韓論』『征韓論論争』に見出しは見当たらず、『征韓論政変』が載っている。・・・」

と、本の見出しを見たら、「第一章 日本と朝鮮との近代関係」、「第二章 日本とシナとの近代関係史」、「第三章 日本とロシア・ソ連との近代関係史」・・・・・と、「広辞苑」の解説を借りて、史観を書いたもの。

右があれば左があり、上があれば下がありと、私は是々非々の立場をとっておりますが、この本を読むなら、いろいろな「史観論」を書いた本を読んだ方がましだな、と思いました。なお、この本、発行日が「2013年12月10日」です。

〈おことわり〉のところを読んだら、「各項目の囲みは、『広辞苑』の最新版である第六版の見出し語とその解説である。」と書いてありますが、最新版は第七版で、本を書くなら「第七版」のを書くべきでしょう。多分、第七版が評判になっているので、売れ残り(2013年に第一版しか出ていません)の便乗発売でしょう。私みたいに、早とちりする人間がいるから。

なお、小さいことを書きますが、「『ソウル』というのは戦後の呼称である。『江戸』を『東京』と呼ぶであろうか。」と書いてありますが、「ソウル」は通称です。正確には、「ソウル特別市」。ですから、「『ソウル特別市、通称ソウル』というのは・・・」と書かないと、間違いになります。途中で、この本読むのは止めました。時間の無駄。

話変わって、昔、銀座の会社に勤務していた頃、外人さんに道を聞かれることが多く、英語は全然だめなので(九州語は薩摩語以外はペラペラに喋れます)できるだけ目をそらして歩いていました(猿と一緒ですね、出会ったら目を合わせないように)。

あの頃は「ソニービル」が世界的に有名で、聞かれるのは、「ソニービル」、「帝国ホテル」、「郵便局」。これくらいなら分かるので、むこうですよ、と教えていましたが、他の所を聞かれると言葉が全然分からないので、「あっち」。どうせ、二度と会うこともないし。

下は、明治5年の「西洋画引節用集」。「禮ノ部」は「『れ』のところになります」。「れ」のあとが「そ」になっていますが、語順は「いろは」の順。

「ウヲッチ」は「袂(たもと)時計」。「懐中時計」ではありません。これから、「袂時計」といいませう。

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こうやって見ていくと、絵など入ってあきませんね。

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表紙を開けたところ、「洋婦人幼稚教育之図」と書いてありますが、私には、これで十分。


2018年2月 9日 (金)

第12回「雲仙市美術展覧会」~雲仙市吾妻町吾妻ふるさと会館


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今日から12日(月)まで、雲仙市美術展が開催されたので、少し覗いて見ました。

挨拶はとにかく良かった。短くて。あれ、長いとうんざりするし、心に響かないし、覚えきれないし。ちょうど良い長さでした。

ところでですね。最近、テープカット、卒業式、成人式、選挙活動など見ていると、皆さん白手袋をしてらっしゃいますが、あれ、何のため?白手袋をしなければならないほど、皆さんの手が汚いのかな?

式が終わると、上の写真、右下の写真のように、各部門、解説がありますが、先生方、ポイントを押さえ、私のようなド素人にも分かるように、お話がありました。漠然と見より良いですね。

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どこかと思ったら、千々石から小浜の汽車道のトンネルですね。この狭さ、昔の汽車の大きさでは無く、小ささが分かります。なお、車で通るときはご注意を。3ナンバー同士はギリギリです。時々はバスも通って、お手上げです。

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猫人気に押され始めたワンちゃん。右は、どこかで見た所なのですが、看板のレトロなこと。

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書道はまったく分かりません。読み方は横に書いてありますが・・・

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昨年、新聞などで話題になった、「千々石ミゲル墓所発掘調査パネル展」。時間が早かったせいか、誰もいませんでしたが、墓所発掘が時系列でよく分かるように展示してあります。

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プロ方か、セミプロの方か、はたまた高校生かよく分かりませんが、

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よく、ここまで書き込んだものです。

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こちらも、良くできたデザインで、デザインは初期と違って、随分うまくなりました。

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と、鑑賞しながら、やはり写真にせよ絵画にせよ、女性モデルのが一番良いですね。とにかく、モデルさんは美人を使うから。

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ウチのカミサンも美人なら、モデルにして洋画でも描くのですがネ。

残念な事に、雲仙市には、きちんとした美術館、博物館がありません。今回の会場も、ふるさと会館のホールでした。どうかしたときは体育館、公民館を使いました。

雲仙市にも、釧雲泉とか、栗原玉葉とかいて、今日の市展も良いのがたくさん出品されているのですが。小さくとも良いので、欲しいですね。まあ、田舎だから要らないという、議員さんとか、行政上部の考えかな。



2018年2月 7日 (水)

「やっぱり『週刊現代』『週刊ポスト』」

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「週刊ポスト」も「週刊現代」も飽きたので、今年は、「週刊文春」と「週刊新潮」に変えようと思ったのですが、文春は「文春砲」で不倫報道ばかり、新潮は少しばかりお堅すぎ。と言うことで、「やっぱり『週刊現代』『週刊ポスト』」

■「寿影」~新しい「遺影」のかたち

人が亡くなって、遺族の方は葬儀の準備で大変です。小さな事ですが、「あれ?遺影の写真ないの」、と結構アルバムなどひっくりまえします。

某老人会では、総会の時、1年に一回、一人一人の写真を撮っているそうですが、こうすれば便利ですね。

ウチの時は、写真は撮ってあるとのことで、安心していたら、これが若いときの写真。やはり、毎年、撮っておくべきですね。禿げてた人の写真が、髪がふさふさしていたりして。

8名ばかりの有名人が写してありますが、全員ピースをしていますが、もう少し、らしい写真が欲しいですね。私としては、ヘミングウェイが厚手のセーターを着て、少し斜め上を見つめている写真が好きですね。いかにも「ヘミングウェイ」という感じです。

私ですか、キャバクラで女の子に囲まれている写真があるので、それを使うつもりですが、カミサンは使わないだろうな。皆さんも、自分にふさわしい写真を1年に一回はいかが。

■「何歳」から始めるべきか?

「年金~65歳か70歳かで『1100万円もちがう』」、もっとも、70歳以上まで生きていればですが、なお、70歳までは無給か安いアルバイト賃金ですから、それを計算に入れてください。

■「ビットコインで荒稼ぎする”胴元”たちの素性」

この方面、全然分かりません。砂上の楼閣という感じがあるのですが。関係ない話なので、スルー。

■「書評からですが、本の題は『ローカリズム』宣言」

作者は、二十余年の教師を勤め、文部省の指導による高等教育崩壊を現場で実感。その後、大学を退任し神戸に「凱風塾(合気道場)」を開き、同時に300人の「相互扶助活動」のハブともなっているそうです。

〈人口爆発による地球の生態学的環境の劣化、エネルギー、食糧、医療資源、教育資源、すべての不足によって起きる暴力的な争奪や紛争を回避するために人類が処方した「答え」が少子化なのです。・・・ならば私たちはそれに従って、ローカルな集合体を「小商い」で維持して、成長なき「定住社会」をおだやかに生きるほかはない〉。

〈(日本にあるのは)深い森と豊かな水だ。また、「古い」と軽視されつづけた「村」のありかただ。そこには談合があり協力があった〉。

と言われれば、「少子化」なんぞ、怖くない。

■「同じく書評ですが、京極夏彦氏の『ヒトごろし』」

土方歳三が主人公らしいのですが、いつもの本屋さんにあったので買おうと思ったら、あまりの厚さにビビって、パス。

■「新登場バレンタインジャンボ宝くじ 運気絶好調のシャンシャン売り場10」

と10カ所ばかり書いてありますが、九州では、「日南タイヨーCC(宮崎市日南市星倉)」だけなので、これも私には関係なし。お好きな方はお出かけを。

■「子や孫に教えてあげたい『普通に幸せ』な会社50」

北海道拓殖銀行等々、大きな会社が潰れています。「普通」が一番。

■「『知らなかった』ではすまない それは立派な犯罪です」

「指定日の前日にゴミを捨てる~5年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金」、「偽名を作って宿泊は?~旅行業違反」、不倫旅行の時は、ちゃんと本名をきちんと書きましょう。もちろん、お相手もですが。「自宅で嫁や娘の風呂をのぞく~軽犯罪法1条23項」、「酔っ払ってタクシーに乗り、嘔吐する~損害賠償」です、とまあ、いろいろありますから、ご注意を。

■「グラビア」ですが、今回は、「こちら側からハサミ等で丁重に開封してください」が多く、手が疲れました。

下の写真は、QRコードが付いていて、読み取ると、脱いだりなんかします。ちなみに、35歳と52歳の方です。

もう片方の週刊誌にもQRコード付きですが、こちらは、お若い方ばかりです。お好きな方を。


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2018年2月 5日 (月)

「ここは、どこ?」~雲仙市小浜町

 
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「ここどこ?なに?」と言われても、難しいですね。

実は、「ハンネの屋敷跡」になります。ここ、昔、話を聞いていたので5,6回行って捜しましたが、全然分かりませんでした。

とにかく、小浜高校近くだということで、左のような藪まで入ったのですが、分かりませんでした。で、知っている人に聞いて、行ってみても分かりません。しかたがないので、ご近所の方に聞いて、やっとわかりました。

右の写真の赤の矢印の所、木の中におぼれていました。

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かき分けてみると、お!出てきましたね。「昭和五十六年一月 小浜町教育委員会 ハンネの屋敷跡」。これじゃ、探してもわかるはずがない。

ご近所の方と話をしていると、「せっかくなら、分かりやすい標示すればいいのにネ」

このハンネについては「髙来郡(たかきぐん)小浜村由来記」について書いてあり、ただ、原本ではなく、写本で、表紙には「弘化四年(1847年)丁(ひのと)未の年十二月中旬書写 社役当村院跡七代目法師 覚五院実相坊宥元(直人行元)」となっていますが、これを読み下したものがあったので、読んでみると下のように書いてあります。長いので、肝心なところだけ。

「慶長十九年(1614年)に、イルマン(修道士)北村(地名)居住致し、耶蘇教を勧める。元泉(光泉寺の弟子)五十四才にて、邪教と目をつけ申し候につき、与ヱ門(村役)が召し取り、御公儀へ訴えつかまつる。
御上使、山口駿河の守様が御来駕、与ヱ門へ御ほうび、その時鉄砲給わり候。・・・以下略」

と書いてあり、この場所今は開けていますが、当時は山領に続く細い道だったのでしょう。

さて、このことは、「髙来郡小浜由来記」、「小浜史談」には同じように書いてありますが、小浜の「史跡巡り」には、「・・・ハンネは甘藷(かんしょ・サツマイモ)作りをすすめるなどして住民は崇拝していた。」と書かれていますが、この話はどこから出てきたのでしょう?由来記には、ハンネも甘藷も出てきません。

キリシタンの禁教については、多種説があり、細かく言えば難しいのですが、本格的に厳しくなったのが、江戸時代で、寛永14~15年(1637~1638年)、島原・天草の乱に恐怖した幕府は、このころ、まだ、締まりが甘かったものの、島原藩主・松倉重政が家光(重臣との話もあり)から、厳しく叱責され、取り締まりを強化したということです。

とまあ読んでみて、「ハンネ」「甘藷作り」は「小浜由来記」には載ってなく、どこからこの話が出てきたのか、知りたいものです。

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さて、標柱ですね。いまは、小浜町教育委員会は町村合併でありません。「雲仙市小浜町支所」はありますが。教育委員会は本庁に「雲仙市教育委員会」があるだけです。しかも、標柱は昭和56年になっています。

最近、「雲仙市の文化財」なるパンフレットができましたが、この話については全く触れてありませんでした。「消えゆく文化財」が増えゆく今日、残念なことです。



2018年2月 3日 (土)

「乃木大将少年時代家庭の景」

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お父さんが、子どもを叱って、お母さんもそれを聞いている図。

少年は、「乃木希典」。今頃、こんな風景は見られなくなりました。できれば、わたしも、やってみたいのですが、うちは家内が説教をして、愚息子と愚私が黙ってきいているわけですが・・・

乃木希典については私も、司馬遼太郎「坂の上の雲」しか読んで無く、乃木希典は無能扱いをされていました。これには賛否両論あり、司馬遼太郎と言えば、「竜馬(司馬遼太郎では『龍馬』ではなく『竜馬』)が行く」があまりにも有名なため、その影響か、乃木希典は無能だという評価が信じられているようです。

これは、「司馬遼太郎史観」に影響されたもので、これには、福田恆存等々の反論があります。詳しくは→こちらをクリック

なお、「乃木坂」も乃木希典にちなんだもので、「乃木坂46」も、ソニー・ミュージックエンタテイメントのある、「SEM乃木坂ビル」の名前にちなんでいます。ですから、乃木希典と乃木坂46も密接な関係があります。

上の写真ですが、父親は長州藩支藩長府藩馬周り八十石ですから、まあまあの収入でしょう。さて、写真を見て、鴨居に弓がと陣笠が置いてありますから、弓方ですね。

お父さんの右の方には刀が置いてありますが、えらく長刀ですね。
後ろの、長持ちには、鎧、兜かな?脇差しまで差していますが、「昔の父は強かった」。見習いたいものですが・・・あこがれる写真ではありますが、乃木希典少年時代、このような写真を撮るわけでも無く、多分、銅版画では無いかと思います。なお、発行は、東京中央区乃木會です。

乃木希典は明治天皇が亡くなられた後をおって、妻とともに自決をしています。ですから、上の写真の少年は享年64歳で亡くなっています。


(参考・文引用:Wikipedia)


2018年2月 1日 (木)

「柳川屋」~斎藤茂吉、泊まりし旅館


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最近は、小浜(長崎の小浜で、隣町)で調べる事があり、数日間通っていますが、「小浜町史談」に、斎藤茂吉が来たことのエピソードが書いてあったので、要約してご紹介を。

斎藤茂吉は、大正6年から、官立長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)に精神科教授として勤務しています。

大正9年に喉の病気にかかり、赤彦のすすめにより雲仙へ転地療養をしています。赤彦は翌日、用事のために東京に帰ります。

この道に立ちてぞ思ふ赤彦は はや山越しになりつらぬか    茂吉

8月14日、雲仙が肌寒くなったので、長崎に帰り、30日、佐賀県の唐津に行き、9月30日古湯温泉(雲仙)に移っています。

10月3日長崎に帰った茂吉は諏訪神社の祭り「くんち」の騒がしさをのがれ、11月西浦上木場郷に移りますが、ランプと料理の粗末さから、15日に、小浜の柳川旅館に5日滞在をしています。上の写真です。

初日、お手伝いさんをよび、夜具を太陽にあてさせたそうですが、さすが、お医者さんらしい潔癖さ。

茂吉は、お手伝いさんにポチ(心づけ)を渡したところ、ほかのお手伝いさんからもお礼をいわれ、調べたところ、ポチはお手伝いさん、みんなで分けるということで、茂吉は前に渡したポチを取り返し、それに幾倍の金額を改めて渡したそうですが、その時のお手伝いさん、「たいそうヨカ先生じゃたばってん、変っちょらすところがあったですね。」と言ったそうです。

小浜、雲仙(当時は「温泉」と書いて「うんぜん」と呼んでいましたが)には、外国客が多くかったそうです。

ひょろ高き外人ひとり時の間に われを追い越す口笛吹きつゝ    茂吉

さて、茂吉は散歩帰り浴衣の片肌抜きで歩いて小浜警察所(当時は、旧道の商店街)を通っていると、外国人が多く来ているので、みっともないので、道を通らないよう注意されたそうですが、巡査は新聞で茂吉を知っており、署長に報告。茂吉は受付に一円を1枚おいて、外に出ると、諸肌脱いで旅館に帰ったそうです。

当時の、軽犯罪法は片肌脱ぎで街路を歩くと50銭の罰金、両肌(もろはだ)のときは、一円の罰金、ですから、茂吉は罰金の前払いをしたということです。

茂吉は大正3年に結婚し(養子)になっていますが、夫婦仲は悪く、恐妻家でしたから、遠く離れた長崎で、羽を伸ばしたかったのだ思います(ウチに似ているので、気持ちはよく分かります)。

ここに来て落日(いりひ)を見るを常とせり 海の落日も忘れざるべし    茂吉

上の歌の石碑は、小浜町支所の近く「夕日の広場」に設置されています。少し歩いたところに、ロハの足湯がありますので、是非お越しください。

(※柳川屋は現在の伊勢屋旅館にあたるようです。文は「小浜町史談」より要略しました)

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