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2017年6月25日 - 2017年7月1日

2017年7月 1日 (土)

7月1日は。

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7月1日は毎年書くように、「ところ天の日」です。全国的に普及しませんが weep

この、ところ天屋さん、7月1日から9月31日までのみが営業で、ほかはお休みになります。

7月1日に開店になると、あ~、一年たったなと思い、一年の早さを実感し、いつまで生きられるのだろうと考えます。

ということで、7月1日は私にとって、「ところ天の日」になります。俵万智さんにとって、7月6日が、「サラダ記念日」のように。

昨年と変わらない店内。レトロな扇風機。

で、レトロというと、最近またレコードが復活してきたようですが、私は伯父さんが持っていた手回し式蓄音機から、電蓄、ハイファイ、部屋の四隅にスピーカーを置いて立体感出す装置、CDと経験してきたわけですが、このレコード復活も一時的なものでしょう。若い方は飽きやすく、とにかく、レコードをかけるのは面倒臭いから。

小林秀雄の「蓄音機」、五味康祏の「いい音いい音楽」など読めば、先人が音と音楽に対してどう取り組んできたか、わかるから読んでみてね。

あ、それからレコードにはヒゲをつけないでね(これが分かる方は、昔、かなりレコードを聴いた方です)。

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いつものオバチャン。昨年と変わらないような感じ。
ラムネは、冷蔵庫でギンギンに冷やすのでなく、井戸とか、川とか、湧き水で冷やすのが一番。


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私の前にも、若い女性が食べに来て、買っている時に老夫妻が来店しましたが、皆さん開店するのを待っている感じでした。

ところてんは「心太」とも書き、食べると心が太く、豊かになります。夏は何といっても、ところてん。


2017年6月30日 (金)

和銅寺・竜造寺隆信の墓碑~諌早市高来町

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最近、海を隔てた高来町に興味を持ち、ちょいちょいお出かけをしておりますが、先日、「歴史の道・文化交流推進協議会」から、編集、発行ということで下のようなパンフレットが発行され、只のものなら、なんでも貰ってくる癖せがあるのですが、写真も多く、読むとわかりやすく、名前は以前から知っていたのですが、パンフレットにも取り上げてある、和銅寺に出かけてみました。

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和銅寺には多くの見るものもあり、矢印の所、「下馬」と彫ってあります。昔は馬に乗っていくのは、お侍さん、それも上級武士でしたが、ここで、「馬を降りろ」ということでしょう。お殿様も下馬されたと思います。

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説明版に書いてある通り、行基大僧正が彫られた十一面観音がご本尊だそうですが、50年に一度しか御開帳になられないそうで、ググってみたら、どうも平成20年5月18日に御開帳があったらしく、ですから次は平成70年(年号は変わっているでしょうが・・・私も、この世にいません)になります。

でもってどうしてもご覧になりたい方は→こちらをクリック


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見ていくと、いいですね。石造物がお好きな方にはたまりません。

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梵鐘ですが、片側は漢文ですが、もう片方は多分、梵字かな?全然読めません。

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お寺の本堂ですが、柱の所に仁王様が立っておられ・・・

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まあ、これがすごいのなんのって。このお姿、すごいですよ。ボロボロにもかかわらず、かえって風格と迫力があります。

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こちらが、「竜造寺の墓碑」になりますが。

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説明版です。竜造寺隆信については、いろいろな話が伝わっておりますが・・・

説明版には、居城須古→高来→諌早→神代と陸路を通ったように書いてあり、また、パンフレットの「多良海道を往く」には、「この和銅寺でおみくじを三度引いて、三度とも凶がでて、家臣が諫めたにも関わらず、出陣したというエピソードも残っている」そうです。

が、しかしですね。「高来町郷土史」の、「竜造寺隆信の戦士ー和銅寺の隆信伝説」の所。

「総勢五万七千騎。『信隆公御年譜』によると、「『同月十八日、竜王崎』(佐賀県杵島郡有明海)ヨリ兵船ノ纜(ともづな)ヲ被解』」とあるそうで、これ、「北肥戰誌」にも載っているそうで、調べてみると、「巻之廿八 高來軍竜造寺隆信の戦死の事」に「・・・中にも隆信・政家の佐賀勢は、竜王崎より纜を解き、同廿日に神代(注:対岸の島原半島)著船し・・・」とあります。

この、おみくじ三度の凶、明智光秀と一緒ですね。明智光秀も本能寺に向かう前に、愛宕権現堂でおみくじを引いて、三度、「凶」が出たそうです。

「三」という数字は、世界中好かれているようで、「三匹の子豚」「三年寝太郎」「三本の矢」「三匹のおっさん」「三匹のやぎのがらがらどん」。どうしてでしょう?
前にも書きましたが、「白雪姫」も三度殺されています。毒リンゴでいっぺんに殺したのは、ウォルト・ディズニーというおじさんでした。


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パンフレットに「和銅寺を下った所に、山伏が彫られた貴重な石碑を見ることができる。(中略)どこかユーモラスな雰囲気も漂う・・・・・」と書いてあって、探しましたが、多分下の石碑かな?ただし、「山伏」は彫られていませんでしたが・・・何か特別な石碑の感じもしましたが・・・間違っていたら、ゴメンチャイ m(_ _)m

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2017年6月28日 (水)

本当は・・・


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某資料館に展示してある十字架です。

島原・天草一揆の舞台、原城の発掘調査で見つかったものです。これは、本格的な十字架ですが、原城に立て篭もった一揆勢が、火縄銃の鉛製弾丸から作った十字架も34点出土したそうです。


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さて、分かりやすく一番上の十字架、なんだか変だと思いませんか?穴の開いたところに紐を通し首にかけると・・・

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逆十字になります。

さて、この逆十字については、「日本キリシタン墓碑総覧(企画 南島原市教育委員会:編集 大石一久)」の論考集に、森脇あけみ氏が考察されているところですが、論文で長いので簡単に書くと。

原城に籠城した人には、キリシタンを離れたもの、いわゆる「転び」、また、「転び」から再びキリシタンに戻った、「立帰り」の者がいたわけです(籠り軍全員がキリシタンというわけでありません)。

さて一方、イエスの弟子に聖ペテロがおり、天国の鍵を授けられるわけですが、最後の晩餐後、イエスはペテロが「鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言します。

イエスが連れていかれ、ペテロがその様子を陰から見ているとき、「イエスの弟子か?」と聞かれたとき、「違う」と否定し、それが再三問われ、再三否定をし、その後が鳴くわけで、いわば、キリストを裏切る感じになるわけです。

その後ペテロ改心し各地を巡回し、教えを説いていくわけですが、ネロ皇帝の迫害で捕まり、逆十字架にかけられ(さかさまの磔)処刑されます。

森脇氏は、「転び」「立帰り」につき、詳しく論述していますが、この部分は長いので省略をしますが、次のように記述しています。

「このように、当時島原や天草では、棄教し立帰ることを、ペドロの故事に重ね合わせていたことがわかる。ペドロはかってイエスを3度否認したものの痛悔し赦された。またペドロは、天国の鍵を持ち、ペドロが地上で赦す者は天上においても赦される。籠城中、棄教という大罪を痛悔していた一揆勢は、鶏が鳴く前に三度イエスを否認したペトロの心情に自らを重ね合わせたのではないだろうか。彼らは、痛悔の念と罪のゆるしを願う心をあらわすために、ペドロが殉教した『逆さ十字架』を作って、籠城中携帯したのではないだろうか。(後略)」

さて、資料館においては、一番上の写真のように展示してありますが、本当は・・・首から十字架を掛けた、ということを考えるなら、3番目の写真のように展示するのが正しい姿だと思うのですが・・・帰りがけ、受付のお嬢さんがあまりにも美しく、ついつい声をかけ、上司と相談して、逆に展示した方が良いのでは?と説明しつつ、美しい笑顔に送られ、資料館を後にしたのであります・・・

2017年6月26日 (月)

島原藩旧士族・大村へ

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「記念碑」は記念碑ですが、なんの記念碑か知る人はほとんどいないかと思います。

場所は、大村市民病院の裏手で、前もってグーグルアースで調べたら、ありましたが、何年か前の写真で、新築のアパートなど建っていてアルカナ?とは心配したのですが、ありました。

以下の話は島原関係の本には載っておらず、「大村史話 続編1」に載っていたもので、長いので多少、省略したものになるかとは思います。

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明治維新、当然のことながら武家階級は全部クビ、今でいえばリストラされるわけですが、島原藩においては、旧島原藩主が東京へ引き上げる前、旧士族に対し下賜金を下されたそうです。

が、生活費に使っては無くなってしまう、ということで旧士族の授産、興業の経営主体として恒産会社を作ったそうです。

事業としては、官有地払い下げによる開墾、牧馬、牧羊等々を行ったそうですが、このような中、大村への24戸の送出も会社事業の一つであったそうです。
移住したのが、鉄砲丁(ちょう・町ではありません)の24戸、明治24年のことだったそうです。

少し、島原の話へ移すと「島原城の話(渋江鉄郎著)」によると、「上新丁(うわじんちょう)、下新丁(したじんちょう)、中ノ丁、古丁、下の丁を総称して鉄砲丁という。(中略)全部ではないが鉄砲を扱う歩兵階級が多く住居を与えられていたことも、それ以前からあった鉄砲丁の名のおごりである。(中略)松平氏の島原藩臣は、ほとんど祖先は三河(愛知県)出身であったので商家や農家とはおのずから言葉が違っていた。家中(城内)ことばと鉄砲丁言葉にも僅かな違いがあった。(中略)三河武士は『一徹者』が通り名になっていた。手に負えないほどの頑固さであったため他人にも迷惑をかけ他人から嫌われるものもいた。」とあります(現在はそのような事はありません)。

横道ついでに、島原には「江戸丁(ちょう)」というところがあり、これ、〇〇銀座の名前のところがあちらこちらあるので、この手かなと思ったら大違いで、島原藩の藩邸は江戸にもあり、江戸藩邸勤めの藩士もクビになるわけで、島原に帰る途中、肥後豊後(島原藩の飛び地領)に廻されたものもあったそうですが、「島原に帰って人々に住居を与えたところを江戸から来たので『江戸丁』という。」ということだそうです。

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さて、この大村へ移住した鉄砲丁の方は、苦労と努力があったそうですが、移住後40年目、記念碑の建立の16年後太平洋戦争が勃発、昭和16年海軍航空隊の大村設置が始まり、その敷地内に島原郷集落の土地が含まれていたため、接収され分散移転を余儀なくされたそうです。

「記念碑」の裏に次のように書かれています。

明治拾四年旧肥前島原藩二恒産会社設立スルヤ、我ノ父祖貮拾四名同会社ノ勧メニヨリ、同二十年閏四月一日此ノ地ヲ撰ビテ移住シ 爾来協力同心萬難ヲ排シ歳ヲ経ルコト將ニ四十年當時ノ父祖ノ労苦ヲ追想シ報恩ノ為メ此ノ碑ヲ建ツ

なお、その左の方に、「上ヨリ家順」として、名前が彫ってありましたが、「大村史話」に、当時の家の並びが載せてあり、最初が寺田家、永野家、尾崎家・・・・というように,そのままでした。


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                (「大村史話」より)

この話は、島原などでもあまり知られていなく、大村市民病院(国立の方ではありません)の真裏にあり、すぐにわかりますから機会があったら見てください。


【参考・引用:「大村史談続編1(大村史談会編)」「島原城の話(渋江鉄郎著)】




2017年6月25日 (日)

六部塔・六部さん~諌早市飯盛町

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暇なときに時々出して読む本です。面白ようなところがあったら、見に行きます。

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長崎市は江戸時代天領であり、上記の本の前書きに、「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房(注:島原藩主)を召して『長崎の事務を監督せよ』と命じた。忠房は参観の前後、長崎を巡視してその詳細を将軍に報告しました。
この長崎監務は家格として受けつがれ、松平忠雄は三十八年年間に50回余に及んでおります。(深溝世紀では、「長崎を監視す」となっています)。」とあり、この本は、そのお殿様が通った道筋が書いてありますが、同時に、伊能忠敬が測量をして辿った道でもあり、勝海舟、坂本龍馬が島原から長崎まで急ぎ旅をした道でもあります。
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先日、何気に見ていると、飯盛町に六部塔があるとかで、地図と当時の地図を見比べても、そう分かりにくくはなさそうなので、気楽に出かけたのありますが。甘かった。

説明には、こう書いてあります。

「六部さん」
この六部さんを建て替えるため(上の写真)の石を運ぶ途中、早坂の道があまりにも急なため、ここまで運びきれず、坂の脇に建ててしまったといわれている(下の写真)。

囲(注;圍が正解みたいなのですが・・)地区から牧野に通じる旧道の坂を登りつめた早坂(六部坂)の山中に六部塔がある。

本の写真でみると、六部さんは畑の中、六部塔の説明には(道路道下南下の10m先)とまあ、すぐに見つかるだろうと思ったら、畑の中には何もなし、でもう片方の六部塔の方へ行っても全然わからず。聞こうにも畑には誰もいず、という状態で、役場あたりで聞くか、とは思ったのですが、飯盛町は諌早市と合併で役所と支所間の異動があり、最近は地元の人があまりいなく(雲仙市も同じく)行っても同じだろうなと、〇Aの方が地元の方が多いのではと思って、たずねて行ったら全然でした。

ということで、日を改めて行ってよく見たら、「竜馬が歩いた道」の立て札があるじゃありませんか。要するに、道は間違ってない。

ふと、横をみると、らしき石があるじゃありませんか。で、本の写真と比べると少し違っている感じ。

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確認すべく、ウロウロ車で回っていると畑仕事のおばあさんがおられ、本を出して聞いてみたら、これがビンゴで、自分の畑を整地した時、畑の中にあって邪魔だから、脇に移したとの事で、ここで間違いありませんでした。

なお、もう一人、おばあさんとあったので、立ち話をしたら、比丘尼さんか巡礼の女性が行き倒れになって、弔ったとか。

とにかく、最近あちらこちらで地元の方と話をしても、食い違うところがあり、複数の方の確認が必要だと感じた次第です。

なお、石碑には文字なども彫ってなく、あとで見た六部塔とは違い、自然石の感じが強く、比丘尼さんか巡礼さんを弔ったという話が正解なのではという感じでした・・・本を書いた方が、誰から確認したのかですが。

なお、本の出版が平成13年ですから、土地の形が写真とは違っているはずですね。


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もう片方の六部塔を探しても、これがまったく分からず、一時間ほどウロウロしていたら、おじいさんと言うには若く、おじさんと言うには歳をとってる方の軽トラックが通りかかったので、聞いてみたら、昔旧道を使っていた時、見たことがあるとかで、場所を聞いたら少し上のカーブの所から入ったところだとか。

でもって、別れようか思ったら、「暇だから、連れて行くよ」。これが、実は非常に助かり、とにかく左の写真、大きな道は近年できた道で、矢印が旧道だとか。

入っていくと、これが本当に旧道で、お殿様とか、伊能忠敬とか、勝海舟とか、坂本龍馬が通った道かと思うほど荒れておりました。

話では、昔は一年に1.2回、草払いをしてきれいにしていたとか。テーラー程度なら通れたそうですが、今は使わないので、この状態。


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少しばかり行くと、ありました。こんなところに、という感じですが・・・

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「六十六部」についてですが、手元の郷土史辞典では

「六部(ろくぶ)」
六十六部の略。日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経1部ずつ納めることから、この名が起こった。(中略)鎌倉~江戸時代に起こってきたもので、江戸時代にはきわめて盛んとなった。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(中略)六十六部の場合は、宗教専門家が、宗教の過程で人の没後をの菩提をとむらうところに真意があったので、
巡礼ほどには街道での一般人の接待はなかった。むしろ江戸時代中期より売僧や贋僧の物貰いにまちがえられるものが多くなった。

とはありますが、「江戸の用語辞典(時代小説のお供に)」では

「六十六部」

六十六の経典をを全国の国分寺などに納めて廻る僧侶の事でございます。江戸後期にはほとんどが偽物で、お布施をもらう【物乞(ものごい)】でございました「六部」とも申します。

とありますが、「比丘尼」にしても、ネットの「大辞林」では➀では「出家して定めの戒を受け正式に僧となった女子。尼僧。尼。びくにん。」とはなっていますが、④では「江戸時代、尼僧姿の下級の売春婦。びくにん」となっており、出雲のお国の歌舞伎も、あとで真似をする「遊女歌舞伎」になり、売春に関係することになり、この「六十六部」さんも、時代とともに性格が変わってきたのではないかと思います。

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さて、この「六十六部塔」、裏ですね、見逃しましたが、「飯盛町郷土史」によれば、「寛政寅年」と彫ってあり、ということは「寛政六年(甲寅)」、1794年で今から223年前の「六十六部塔」になります。

中央には、「奉納大乗妙典六十六部是廻国之塚近江住浄心」。

下の方に12名ばかりの名前が彫ってあり、この石塔を立てた地元の人かと思ったら、「大坂」「備後」「若狭」「丹後」「大串」などが見え、名前も「是心」「閍入」「?禅」など行者らしき名前も見えますが、「藤兵衛」「太七」「杢兵衛」などの一般人とおぼしき名前も見え、この12名、果たしてどうな関係だったのでしょう。

さて、このような貴重なもの、このまま山の中に眠らせておいていいのでしょうか?諌早市さん。といっても、役所の中で、文化面が一番弱い部署ですから、言っても無駄かな weep

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