「九州三大名遣欧使よりヴェネツィア政府に呈したる感謝状」
千々石町では郷土史に「千々石三先人」として、軍神「橘中佐」、放浪の画家「釧(くしろ)雲泉」、天正遣欧少年使節「千々石ミゲル」が載っており、昔は学校でも教えていたのですが(現在は分かりません)。
「橘中佐」は神社があり、「釧雲泉」の屏風絵、掛け軸あたりも町村合併のどさくさの折買ったみたいですが、合併後、十数年、一回お披露目をしたそうですが、訊いてみると、倉庫に保管しているとか。保温、保湿がある倉庫でなく、物置みたいな所だと思いますが。
さて、2,3年前だったか、「千々石ミゲル」を主人公にした劇を有志者でおこない、その余剰金で千々石ミゲルの看板を、公民館、橘公園に立てはいるのですが、某日、公民館でガールハントをしていると、初老のご夫婦が見えられ(前に、書いた気がするな)、「千々石ミゲルの生誕地って書いてありますが、何か展示物があるのですか?」
なにも無いんですね。公民館担当の女性が困ったような顔をしていて、これを見て、あ~いかんな、と思いました。
もちろん、千々石ミゲルに関しての現物はありません。で、まあ、個人でボツボツ、千々石ミゲルを中心に、島原半島、特に島原の乱の史料などを集め、切支丹制圧の高札なども集まったわけです。
ご存じのように、千々石ミゲルの墓とみられる墓所の発掘もこの夏行われ、多少なりとも、遺物が出てきましたが、あれも、多分、諫早に展示されるでしょう。何しろ、出土地点が諫早、おまけに、雲仙市には博物館らしきものがほとんどありません。
というところで、いろいろあせくっていたら、意外と写真資料としてはあるんですね。上の写真は。大正14年発行、昭和2年再版の、「切支丹史料集~対外史料宝鑑第壱輯」。これを見ていたら、ローマに派遣された四少年使節の文書があるんですね。上の写真です。「ヴァチカン法皇宮附属圖図書館蔵」となっています。
本は大正14年発行。現代と違って、交通も不便だし、よく、調べだしたものだと思います。説明文も詳しく書いてあります。
上の文書は、ヴェネチア市で大歓迎を受けたときの、4人の少年の感謝状です。
天地萬物之御作者、又其御子我々御扶計世主子之以・・・と書いてありますが、後は各自読んでください。日本語です。左の横文字はイタリヤ語だそうです。
なお、文書の下に花押と名前が書いてありますが、右から伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチの順になります。原文では、伊藤鈍滿所、千々石鈍彌解、原鈍丸知野、中浦鈍壽理安になっています。
さて、実は四少年使節が歓迎を受けたのは、各本に書いてありますが、まあ、私が宮中晩餐会に招かれた程度かと思いしや
(ヴァチカン法皇宮附属圖図書館蔵壁画)
題は「九州三大名遣歐使羅馬入府式の圖」となっていますが、こうして目でみると、すごいもので、先頭がどこか見えませんね。
ということで、ある程度の資料が集まったので、担当部署に、「どうする、一度見に来ない」と言ったら、議会だの選挙だの仕事が忙しいということで、3か月ばかりの間に、時間調整の電話が来ただけ。で、ですね、この後、役所がどう考えているのか分かりませんが、「ネットオークションにかけるよ」といったら見には来ました。
考えれば、島原半島の島原市、南島原市はかなりの資料を持っていて、これがほとんど無いのが「雲仙市」。自分では寄託をしようと思っているのですが。
さて、こちらも、なにやらかにやら忙しいので、3月まで待ってみて、動きがないなら、ネットオークションにかけるつもりです。多分、買値より20~30パーセントは儲かると思うので、そのほうがいいのですがネ。儲けた分で彼女と海外旅行でもしますか。
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