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2017年11月17日 (金)

「群れるな」~寺山修司

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寺山修司の第一作品集が1957年発行の「われに5月を」、寺山修は1983年、47歳で亡くなっています。

上は本の表紙の写真です。寺山修司死後、2年目の1985年に再刊された、「われに5月を」の表紙の写真です。「表紙写真・八王子市、高尾霊園高乗寺・粟津潔・寺山修司墓碑」となっています。

いつもの本屋さんをうろうろしていると、下の本が新刊書の所に置いてあり、いつものように衝動買い。本は、寺山修司のエッセーからのアンソロジーです。

墓碑は本の形になっていますが、寺山修司には、「書を捨てよ、町へ出よう」という本があり、このことについて「ぼくの『書を捨てよ、町へ出よう』ということばは『書を読むな』ではなく、『書を捨てよ』であることに留意しておく必要があります。・・・・僕は、知識を軽蔑しているのではなく、知識による支配を否定しようとしているのです。」と述べています。


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寺山修司を読むようになったのは高校時代からでしたが、きっかけは何だったのか思い出せません。

特に、エーリッヒ・ケストナーに「抒情的人生処方詩集」というのがあり、「自信がぐらついたら」の処方として、それにふさわしい詩が載せてあります。寺山修司はそれを真似し、「人生処方詩集」(アンソロジー)を出していますが、それが気に入り、擦り切れるまで読んだ覚えがあります。

擦り切れた分は、降る雪のように私の心に積もっていったのですが、あれから50年経ってしまい、いつの間にか、溶けてしまったようです。

が、寺山修司というと、頭の中にはまだ寺山修司の作品が残っているようです。
修司は中学校時代から俳句をはじめ、

車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて
流すべき流燈われの胸照らす
便所より青空見えて啄木忌
林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき
方言悲し菫に語りおよぶとき

寺山修司は最後まで、方言が抜けませんでした。石川啄木と同様に最後まで故郷から抜けることができなかったのでしょう。「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみのなかにそを聞きに行く」

寺山修司は大学時代から短歌に移っていきます

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
一粒の向日葵の種蒔きしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
吊るされて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフを初めて読みき
タバコくさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

この後、ラジオドラマ、演劇、映画と活躍をしていくわけです。残念ながら、若くして亡くなり、私ははるかに長生きをしました。が、人生は量より質ですね。

なお、この新しい「われに5月を」の左右の裏表紙に、代表的な俳句と短歌が載せてあります。

目つむりいても吾を統ぶ五月の鷹
マッチ擦るつかの間の海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

寺山修司は亡くなる前、また、俳句をやりたいと言っていたそうです。
ふと思い出すと、あの時代、「孤立を求め、連帯を恐れず」といった言葉が流行ったと思います。本の表紙どうり、「群れるな」です。

長くなりますが、私の好きな詩を


【空の星を数えて老いていく】

空には全部で いくつの星があるのだろうか?
少年は 数えてみようと思いました
しかし 数えても数えても 星はなくなりません
少年が 空の星を数えはじめてから終わるまで
幾世代かが過ぎ 戦争があり
人は愛し そして死んでゆきました
空の星を数えているうちに
大人になってしまった少年
それは悲しい ぼくの父です
その子のぼくもまた 父のあとを引き受けて空の星を
数えつづけて 老いてゆくでしょう


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