「栗原玉葉」~文化について考える(書き直し)
思ひ出は芋の畑にあぜみちにとんぼ追ひたる古里の秋 玉葉
と書き始め、2時間ほどで書き上げたと思ったら、又もやPCの原稿が吹っ飛んで、書き直す気もおこらず、今日、書き直します。
昨日、調べ物があって、絵葉書を1000枚ほど探していたら、上の絵葉書が出てきました。「栗原玉葉」の絵です。
「栗原玉葉」といっても、専門家の方か、地元の人しか知らないと思いますが、生まれは、雲仙市吾妻町(旧、南高来郡吾妻町)。実家は酒造業でしたが、近隣の家の火事の巻き添えを食い、苦労しながら学業を続け、クリスチャンになっています。
各展覧会で入賞しながら、大正三第七回文部省展覧会に出品した、「さすらひ」が入選して画才を知られるようになります。
門下生は「銀葉會」と名づけて八十名にも及び、多くの女流作家を生み出したそうです。なお、東京の女性作家の創作グループ、「月曜会」は玉葉が中心になって誕生したそうですが、当時の女流画家のほとんどが入会したそうです。
「京都の松園・東京の玉葉」と並び称されたそうですが、四十歳で夭折。もうし少し長生きすれば、もっと有名になっていたと思います。
帰郷した折、知り合いに絵を描いてあげたそうです(ロハかどうかは知りませんが・・・・)。私の知り合いのお婆ちゃんが仲が良かったみたいで、玉葉の絵を一枚持っていましたが、話では、町内で何枚かあるという話です。
さて、千々石には釧雲泉(くしろうんせん)という放浪の画家がおり、千々石町がまだ町村合併前に、掛け軸、屏風などを買ったそうですが、今までに一回しかお披露目をしていません。
と、ここまでは良いのですが、2,3支所を建て替えるとき、内部に図書室を作るので、計画の懇談会があったので行ってみました。
現在、雲仙市には、常駐の管理人がいる資料館関係施設が、南串山町、小浜町、国見町の資料館(無い町もあります)で、あとは,、合併前に作った町レベルの資料館ばかりで、この間見てきたら展示品は、ここ十年ばかり前のものばかりでした。
本庁の隣のふれあい会館の一室に資料館(室?)を作る予定があるそうですが、「町レベル」にならないように願うばかりです。以前、資料館を見て歩いた人に聞くと、「どこも一緒、農機具ばかり」と言われたことがありましたが・・・・
さて、懇談会で、「栗原玉葉もいるし釧雲泉もいるし、少し展示するところを作る考えがないか」と質問すると、「ありません」。
「釧雲泉の作品を買っているはずだが、展示する予定は?」、「探しましたが、どこにあるか分かりませんでした」。
アナタ、何百万もするものが無くなったら警察ものですよ。で、次の日、こっそり別の人に聞いたら、「3階の倉庫にありますよ。」と。一体どうなっているのでしょう。もっとも、美術館みたいに、空調がしてある場所ではなく、十年近くそのままで、一体、中身はどうなっているのでしょう?
地方と言っても、探せば、文化に限らず優秀な人材がおり、それを探し、紹介していくのが地味ながら文化の発展、ひいては観光面の発達、発展につながっていくとは思うのです・・・島原半島は島原市、南島原市、雲仙市の3市から成り立っています。島原市、南島原市では、ジオパーク、世界遺産指定で必死になっていますが、雲仙市では・・・・・このままでは、雲仙市の文化はどうなっていくのでしょう・・・・・・?と書きながら、あれ?玉葉さんについては、以前書いた記憶があるな、と調べたたら以前書いていました。まあ、今回は視点が違うので、良いという事にして・・・ボケの始まりですね とにかく、地方文化を大切にしましょう。
はりつめしわれなりしかな昨日まで夕も朝も夢みるひまも 玉葉
(参考文献・引用:「山田町史」「吾妻町史」)
(参考文献・引用:「山田町史」「吾妻町史」)
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