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2017年9月30日 (土)

「児島(こじま)」へ~其の三

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「栄西」、普通は「えいさい」と読みますが、「建仁寺」のホームページには、「開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。」とあり、「栄西」は「ようさい」とも読むことが分かります。

このことについては、「栄西を訪ねて~芝村哲三著」に「栄西は、古来より『えいさい』と『ようさい』の二通り呼ばれている、『えいさい』は漢音の呼び方であり、『ようさい』は呉音の呼び方である。」と記されています。

この三冊の読んでみると、同様な事が書いてあり、建仁寺あたりに河原院という昔の仏閣に埋もれた梵鐘があり、それを掘り出し、建仁寺に持ってくるとき、あまり重いため動かず、栄西は、「私の名前を呼びながら引けば動く」と教え。「ええさい!ようさい!」と声を合わせて引くと動いたそうです。

なお、「室町時代の古い辞書『節用集』などには、(中略)建仁寺創建のとき木を曳くにあたり、『えいさい、ようさい』と開山の名を呼ばせたという伝説まで生まれている。」(「国立国会図書館レファレンス協同データーベース」より)とあります。

また、面白いことに、「栄西の道~千光燦著」の「東林寺(福岡市西区宮ノ浦)」の所には、「ここらへんの漁師たちは、沖で網を引くときは、ヨーサー、ヨーサ(栄西々々)といってあげるんです。禅師をしのぶ掛け声ですね」。といった記述もあります。いずれにしても、重たいものを運ぶための掛け声が、「えーさい、えーさい(よーさい・ちょうーさい)」という事が分かります。

さて、南串山の庄屋日記にも、「漁夫栄西の跡を慕ひ千載の今に至てかけ声申にエイサイト云うハ栄西ナアと申事ニテナアハ今ノ詞に云ヘハナイハイノ略語にて遍(あまねく)サマノなまり也栄西様といふ事也と享保年禄に有之候」。とあり前述の、「東林寺」と全く一緒です。(分かり部分もあるかと思いますが、目下編集中です。)

さて、栄西は本当に南串山に来たかというと、「栄西を訪ねて~芝村哲三著」には、次のように書いてあります。

諸先生の著書の中に、二度目の宗より帰国後、平戸で禅規をその後、「肥の前州(肥前)高来郡に智慧光寺を創建し、禅を広めた・・・・」。とあり、「智慧光寺」は「福智慧光寺」としたものもあるそうです。

原点を調べると、曹洞宗相国寺派本山の蔵本(現在は東京大学資料平編纂室蔵。)の「縷氷集」の中に、「あきらかに肥前の智慧光寺と記されてある。」そうで、「長崎県には、北高来郡、南高来郡(注:現在は町村合併のため名前は消失、本来の名前の由来を粗末にする、〇鹿な行政の仕業です)が広い範囲にわたり存在している。例の雲仙は(昔は仏教の聖地として栄えました)は南高来郡である。高来町と呼称する町も諌早の東にある。」と書かれています。

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長崎県の地図です。赤の矢印の内部が高来郡、今話題にしている南串山町の「児島」あたりが黒の矢印。地図は「国郡全図(ものしり・・・天保国郡全図で見る壊疽諸国より)」。今の地図とは逆になっているので、見にくいと思います。「茂木」は「母木」などと書かれています。

こうしてみると、広いもので、「栄西を訪ねて」の著者も「智慧光寺」の場所を探したそうですが、教育委員会、歴史学者、禅宗の各本山への紹介、寺院明細帳にもなかったそうです。

江戸期に消えた寺院もあり、資料を持っていたので探したのですが、ありませんでした。「栄西を訪ねて」の著者も、私たちが解読している、「馬場庄屋日誌」の事は知らないはずで、私たちも読み始めて初めて知った事実で、消去法でいくと、他の所には記述がない。「馬場庄屋日記」には記載がある、という事は、実際、栄西は南串山に来ていたのではないかと思われるのですが・・・・



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