「絵葉書」に偽りあり
この2,3日ハガキのことばかり書いていますが、面白のがあったので。
この位置から島原城址を撮った写真は珍しく、この城に入る坂は昔はなく、後で作ったものであり、下の城図の青丸印あたりになります。
二の丸と本丸を結ぶのは、赤丸印の廊下橋で、いざというときはここを切り落とせば敵は攻め込めません。ただし、本丸は孤立状態になるわけですが・・・
さて、絵葉書の説明です。
「島原名所」
森岳城址 春高楼の花の宴・・・・松平重政の築城にかゝり、三十三箇の櫓、七箇の城門を有したという大城であったが、島原の乱で炎上して今は濠祉のみ昔のなごりをとヾめている。
とはなっているのですが。間違いがありますね。築城したのは「松平重政」ではなく「松倉重政」。
「島原の乱で炎上」はしていません。もっとも、島原の乱のとき一揆軍が攻め寄せたのは本当で、「賊三千人は直ちに城にせまった。城兵出でて戦ったが高橋文衛門、堀久兵衛・・・は遂に戦死した。そこで城兵は城に入って之を禦いだ。賊は忽ち大手門(地図の赤の矢印)に肉薄して、門扉を破壊し之から攻め入ろうとした。城兵はこれと争ひ激戦數刻、賊徒の斃るゝ者數しれず遂に敗退した。」(郷土讀本 杜城の花~林銑吉著より)という事で、あわや、というところまでいったのですが、炎上はしていません。
多分、「島原・天草の乱」と一般的言うので、間違ったのでしょうが、島原の乱は南島原市南有馬町の「原城」が舞台です。
お城は明治までそのまま無事で、この前書いたように、民間に売られてスッポンポンになってしまいます。
いまでは、一般的に「島原城」と言っていますが、城の建てられたところが、「森岳」と言うところで、「森岳城」とも言われていました。
(「国立国会図書館蔵」・「『幻の廊下』復元プロジェクト」パンフレットより)
さて、説明に書いてあるように、「三十三箇の櫓、七箇の城門を有したという」と書いてありますが、本当かどうか、上の図面をクリックすると大きく拡大しますから、自分でお確かめを。
絵葉書は反対側に、「HAMADA YOKOHAMA」と書いてありますから、横浜の印刷屋さんあたりで作ったものだと思われます。
なお、明治9年に島原城天守閣取り壊し、昭和6年に本丸山側の道路取り付け、昭和35年に西の櫓復元、昭和39年に天守閣復元、昭和47年に巽櫓復元、昭和55年に丑寅櫓復元、時鐘復元、となっており、写真を見ると、道路取り付けだけしてあり、天守閣、櫓、また、現在の土産物屋さんなども全く見えないので、かなり前の写真かと思われます。
先に書いたように、この位置からの写真は珍しいのですが、説明はきちんと書いて欲しかったな、と思ったのではありました。
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