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2017年6月12日 (月)

誰が?~雲仙市千々石町

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下の道、千々石の白津(しろつ)という所から飯岳(いだけ)という所に通じる道です(千々石以外の方には分からないと思いますがm(_ _)m)。

数年前、何回も通った道なのですが、久しぶりに行ってみると、きれいに工事した所があって、奥へと行く階段があって、あれ?こんなところあったのか?という事で行ってみると。


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石の上に石祠が二つ。一番上の写真見て分かる通り、大きな石を削っておまけに階段まで彫り込んであって、横の方にも階段の所まで登れるように石が削り込んであるんですね。これだけ岩を削るというと、機械を使わないと難しいのですが、削った所をみるとどうも手彫りの感じ。

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で、ちょうど下の方で田植えの準備をしている方がいたので訊ねると、昔からあったけれど、立ち木に隠れ見えなくなっており、この場所を町内の某建設会社さんが買い取って、整備をしたとか。

右の石祠は弘法さん。意外と丁寧な彫りをしてあります。


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左の仏様、頭を見るとすぐわかりますね。馬頭観音さまです。馬頭観音というと、街道筋に良く見られる、石仏です。

ということは、ここの道は昔街道であった可能性が高いということですが、先ほどの方に聞くと、今は舗装で広がっているけど、昔はテーラーがやっと通れる道であったとか。


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それで、思い出したのが、伊能忠敬の測量日記、下の地図は「島原藩主 長崎監視の道★長崎殿さん道の会発行」。(写真はここの場所とは関係ありません。別の場所です)

ここのところ、伊能忠敬日記には、「字白津(右二釜蓋城千々石大和守古城:注・この部分2行書き)字阿弥陀寺(小濱街坂近道阿里<有りの当て字>・ここも2行書き)」と書いてあます。


下の地図、上の黒い矢印の赤い線が、伊能忠敬一行が測量した道、下の黒の矢印が石祠があるところ。

赤の丸印が、伊能忠敬日記に書いてある「字白津」。この上の部分に「阿弥陀寺」があります(現在は何もありませんが、五輪の塔碑などが出土しています)。

確かにこの道を通っていくと、飯岳地区に出て、第二小学校付近を通り、蔦坂という峠に行きつき、峠を抜けると、小浜の入り口(千々石側から)山領地区にたどり着き、小浜の中心街へはあと一歩です。

まさに「小濱街坂近道阿里」はこの道であったことがわかります。なお、後日、郷土史家の方に尋ねたところ、ここに街道があったそうです。


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現在、大幅に道が変わっており、拡張、また、昔の道が使われなくなっており、知っている方も少なくなって、今調べておかなければとは思っているのですが・・・ひょっとしたら、あなたのお近くにも昔の街道があるかもですよ。調べていくと思わぬこともあり、面白いですよ。

でも、一体、誰がこんな手の込んだ物を作ったんでしょう。残念ながら、年代等が全く彫られておらず、調べられませんでした。

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