« 「クラフトボス ラテ」飲んで「週刊ポスト」「週刊現代」 | トップページ | 島原藩旧士族・大村へ »

2017年6月25日 (日)

六部塔・六部さん~諌早市飯盛町

Photo

暇なときに時々出して読む本です。面白ようなところがあったら、見に行きます。

Img_20170624_0001

長崎市は江戸時代天領であり、上記の本の前書きに、「将軍綱吉は寛文九年(1669)七月二十六日松平忠房(注:島原藩主)を召して『長崎の事務を監督せよ』と命じた。忠房は参観の前後、長崎を巡視してその詳細を将軍に報告しました。
この長崎監務は家格として受けつがれ、松平忠雄は三十八年年間に50回余に及んでおります。(深溝世紀では、「長崎を監視す」となっています)。」とあり、この本は、そのお殿様が通った道筋が書いてありますが、同時に、伊能忠敬が測量をして辿った道でもあり、勝海舟、坂本龍馬が島原から長崎まで急ぎ旅をした道でもあります。
Photo_4 Img_20170624_0003

先日、何気に見ていると、飯盛町に六部塔があるとかで、地図と当時の地図を見比べても、そう分かりにくくはなさそうなので、気楽に出かけたのありますが。甘かった。

説明には、こう書いてあります。

「六部さん」
この六部さんを建て替えるため(上の写真)の石を運ぶ途中、早坂の道があまりにも急なため、ここまで運びきれず、坂の脇に建ててしまったといわれている(下の写真)。

囲(注;圍が正解みたいなのですが・・)地区から牧野に通じる旧道の坂を登りつめた早坂(六部坂)の山中に六部塔がある。

本の写真でみると、六部さんは畑の中、六部塔の説明には(道路道下南下の10m先)とまあ、すぐに見つかるだろうと思ったら、畑の中には何もなし、でもう片方の六部塔の方へ行っても全然わからず。聞こうにも畑には誰もいず、という状態で、役場あたりで聞くか、とは思ったのですが、飯盛町は諌早市と合併で役所と支所間の異動があり、最近は地元の人があまりいなく(雲仙市も同じく)行っても同じだろうなと、〇Aの方が地元の方が多いのではと思って、たずねて行ったら全然でした。

ということで、日を改めて行ってよく見たら、「竜馬が歩いた道」の立て札があるじゃありませんか。要するに、道は間違ってない。

ふと、横をみると、らしき石があるじゃありませんか。で、本の写真と比べると少し違っている感じ。

Photo_6 Photo_7

確認すべく、ウロウロ車で回っていると畑仕事のおばあさんがおられ、本を出して聞いてみたら、これがビンゴで、自分の畑を整地した時、畑の中にあって邪魔だから、脇に移したとの事で、ここで間違いありませんでした。

なお、もう一人、おばあさんとあったので、立ち話をしたら、比丘尼さんか巡礼の女性が行き倒れになって、弔ったとか。

とにかく、最近あちらこちらで地元の方と話をしても、食い違うところがあり、複数の方の確認が必要だと感じた次第です。

なお、石碑には文字なども彫ってなく、あとで見た六部塔とは違い、自然石の感じが強く、比丘尼さんか巡礼さんを弔ったという話が正解なのではという感じでした・・・本を書いた方が、誰から確認したのかですが。

なお、本の出版が平成13年ですから、土地の形が写真とは違っているはずですね。


2

もう片方の六部塔を探しても、これがまったく分からず、一時間ほどウロウロしていたら、おじいさんと言うには若く、おじさんと言うには歳をとってる方の軽トラックが通りかかったので、聞いてみたら、昔旧道を使っていた時、見たことがあるとかで、場所を聞いたら少し上のカーブの所から入ったところだとか。

でもって、別れようか思ったら、「暇だから、連れて行くよ」。これが、実は非常に助かり、とにかく左の写真、大きな道は近年できた道で、矢印が旧道だとか。

入っていくと、これが本当に旧道で、お殿様とか、伊能忠敬とか、勝海舟とか、坂本龍馬が通った道かと思うほど荒れておりました。

話では、昔は一年に1.2回、草払いをしてきれいにしていたとか。テーラー程度なら通れたそうですが、今は使わないので、この状態。


Dsc_0776 Photo_8

少しばかり行くと、ありました。こんなところに、という感じですが・・・

3 Photo_9

「六十六部」についてですが、手元の郷土史辞典では

「六部(ろくぶ)」
六十六部の略。日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経1部ずつ納めることから、この名が起こった。(中略)鎌倉~江戸時代に起こってきたもので、江戸時代にはきわめて盛んとなった。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(中略)六十六部の場合は、宗教専門家が、宗教の過程で人の没後をの菩提をとむらうところに真意があったので、
巡礼ほどには街道での一般人の接待はなかった。むしろ江戸時代中期より売僧や贋僧の物貰いにまちがえられるものが多くなった。

とはありますが、「江戸の用語辞典(時代小説のお供に)」では

「六十六部」

六十六の経典をを全国の国分寺などに納めて廻る僧侶の事でございます。江戸後期にはほとんどが偽物で、お布施をもらう【物乞(ものごい)】でございました「六部」とも申します。

とありますが、「比丘尼」にしても、ネットの「大辞林」では➀では「出家して定めの戒を受け正式に僧となった女子。尼僧。尼。びくにん。」とはなっていますが、④では「江戸時代、尼僧姿の下級の売春婦。びくにん」となっており、出雲のお国の歌舞伎も、あとで真似をする「遊女歌舞伎」になり、売春に関係することになり、この「六十六部」さんも、時代とともに性格が変わってきたのではないかと思います。

2_2

さて、この「六十六部塔」、裏ですね、見逃しましたが、「飯盛町郷土史」によれば、「寛政寅年」と彫ってあり、ということは「寛政六年(甲寅)」、1794年で今から223年前の「六十六部塔」になります。

中央には、「奉納大乗妙典六十六部是廻国之塚近江住浄心」。

下の方に12名ばかりの名前が彫ってあり、この石塔を立てた地元の人かと思ったら、「大坂」「備後」「若狭」「丹後」「大串」などが見え、名前も「是心」「閍入」「?禅」など行者らしき名前も見えますが、「藤兵衛」「太七」「杢兵衛」などの一般人とおぼしき名前も見え、この12名、果たしてどうな関係だったのでしょう。

さて、このような貴重なもの、このまま山の中に眠らせておいていいのでしょうか?諌早市さん。といっても、役所の中で、文化面が一番弱い部署ですから、言っても無駄かな 

« 「クラフトボス ラテ」飲んで「週刊ポスト」「週刊現代」 | トップページ | 島原藩旧士族・大村へ »

史跡」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 六部塔・六部さん~諌早市飯盛町:

« 「クラフトボス ラテ」飲んで「週刊ポスト」「週刊現代」 | トップページ | 島原藩旧士族・大村へ »

フォト
2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

ブログランク参加中ポチしてね(^o^)

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ