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2017年3月25日 (土)

十三仏~その弐(で終了)

Dsc_0062

さて、昨日は「十三仏」について説明をしました。今日は、この板碑に書いてある文字の事です。一番上の方、右側に「奉彫」、左側に「十三佛」。写真でも多少見えるかと思います。

で、この板碑の左右の枠の所に文字が彫ってあるのですが、良く分かるところ、苔、風化などで分からない所があり、左側「平頼實」は分かると思います。右側の最初の文字「者」は分かりますが、下がほとんど分からない。

あちらこちら本を探すと、この文字を読んだ方が2,3人いて、書いてありましたが、微妙に違う所があり、実物を確認しながら、大体こんなところかなというのが下の文字(「奉彫」と「十三佛」は省きます)。

右側
「右志趣者為預修願在安全後生善処良因者也」

左側。
「明応十年辛酉林鐘上潮悉日 治部少輔平頼実敬白」

という事になるのですが、右の「右志趣者為預修」ですから「みぎこころざしのおもむきはよしゅうのため」でしょう、多分。

ここで、「預修」が出てきますが、手っ取り早く、ネットで調べると"世界大百科事典内の預修の言及"として、「生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を祈って仏事を営むことをいう。〈逆〉は〈預〉と同義で預(よ)修ともいう。」

と書いてあり、返って縁起がいいという事で、今も死ぬ前に葬式をあげたり、自分の墓を作ったりする方がありますが、この板碑は生前に作られた、生前供養の碑だということが分かります。なお、下記に書いているように、明応時代前後は激動の時代で、いつ死ぬかわからないので、前もって逆修をしたのかもしれません。

なお、「願在安全後生善処良因者也」が良く分かりませんが、多分「在安全後生善処良因を願う者なり」かと思います。

なお、参考にした本が、当用漢字で書いてあり、本来は旧字で書いてあります。当たり前ですが・・・

さて、左側「明応十年辛酉林鐘上潮悉日 治部少輔平頼実敬白」

「明応十年辛酉
(1501・文亀元年にあたります)」この年は「辛(かのと)酉(とり)」です。今から516年ほど前になます。

「応仁の乱」が応仁元年(1467)から文明9年(1477)。「明応の政変」が明応2年(1493)。織田信長が生まれたのが、天文3年(1534)ですから、明応10年というと、戦国時代の初めにあたります。

千々石も田舎なれど、「北肥戦誌(九州治乱記)」などを読むと、南北朝時代に北朝側が千々石を拠点とし、有明海側の南朝の西郷氏、神代氏、諫早の宇木(宇喜)城等と戦い、竜造寺も千々石に押し入り、また、有馬氏とも手を結び、「国乗遺文」を読むと、「・・・千々石主計ト称ス千々石ニ務ス、其子淡路(注;千々石淡路)嗣ナク晴純公(注;有馬晴純)御三男ヲ以テ養子トナス是ヲ右衛門直員(なおかず)ト云・・・・」などとも書かれ、千々石は、結構、戦の拠点だったことが伺えます。

「林鐘」は「陰暦6月の異称」、「上潮」は、そのまま「あげしお」、「悉日」はよく、鳥居などに、「三月吉日」などと書かれている、「吉日」のような感じにあたるのではないかと思います。辞書等には載ってませんでした。

「治部少輔」は、平安時代の官職名で、「冶部省」に属し、「・・・雅楽、僧尼、山稜、および外交のことをも掌り、雅楽・玄蕃・諸稜の三寮をしたのである。」という役所であり、「少輔」は「従五位下」であり、この位以上のものを持つものが貴族とされています(新訂 官職要解~和田英松著・所功校訂:講談社学術文庫)。

この時代、貴族の官位なども崩れており、専門の方に聞いたら、自分に重きをなすため、自分でつけたのではないかと・・・

次に、「平頼實」で、こちら方面の本を調べたら、「平」姓なるものはあまり見当たらず、「肥前有馬一族(外山幹夫著・新人物往来社)」にだけ載せてあり、「有間氏が平氏を用いていることは、平安末の在地領主として、平家に服さざるを得なかったことによるものであろう。」と記され、ここのところ、もう少し調べないとよく分かりません。

以上延々と書いてきましたが、間違い、お気づきの点はコメントにてお知らせください。


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実はこの家、家主さんが変わってリニューアルしているのですが、建っている時は普通の家でしたが、外壁を取り除くと、意外と大きな棟木で普通の家とは違うな、という感じでした。

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ここの近所の方から、あの石碑は前に住んでいる人が持ってきたとか、大門橋の近くから持ってきたという話は聞いていたのですが、80年ばかり前、こちらへ移って来たという方から話を聞いたら、次のような話でした。

この建物は百年ほど前、千々石の小倉地区からそのまま持ってきた家で、その時、石碑も一緒に持ってきたとの事でした。

小倉地区方面、以前にブログで紹介しましたが、阿弥陀寺という寺があった所ですが(いまはまったくありません)、畑を耕すと五輪の塔が多く出てきています。

なお、ここから数百メートルの所に「大門(だいもん)橋」があり、「だいもん」といえば、「おおもん」のことで「大手門」に通じるところがあり、こちら方面に、釜蓋城の大手門があったとも考えられます。

これも、以前書きましたが、「伊能忠敬測量日記」に「字白津右に釜蓋城千々石大和守古城 字阿弥陀寺」と書いてあります。

この地域が、他の所と多少違うな、と感じられる話です。

話を石碑に戻すと、この石碑、なんと小さな川に橋として架けられていたそうです。いまでは、罰当たりが!と言われそうですが、廃仏毀釈の時代、顔を削がれ、橋代わりにすることを、なんとも思わなかった時代の姿が伺われます。

それで、家を移す時、もったいないからと、一緒に持ってきたらしいのです。

Img_1378_3 Photo

以上書いてきたように、この石碑は、3人の話が合致することから、最初からこの場所にあったのではないことが分かると思います。

Img_1382

説明版、その他の本にも、寺の中心部に十三仏が最初から建てられているように書いてありますが、良く調べること、大切ですね。




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コメント

こんにちわ!
歴史の深い所にお住まいなのですね。
生前にお墓をなど、ちらーと、知っているだけなのですが、やはり、そう言うことは、昔から、あったのですね。

それにしても、顔を削いだ石碑だなんて、敦煌の仏様と同じですね。

信仰って、何だろうと思うこのごろですが、人間って勝手ですねー!

畑から、石碑も…うーーーん!と、
うなっちゃいます。

もっとも、奈良に住んでおりましたので、埋蔵には慣れているところもありますが^ ^

楽しみに拝見させて頂いております。

あ!
バスのお船!
びっくりです。
乗っていた方、さぞかし、キャー!
だったでしょうね。 ^_^

歴史が深いのは、どこの町もだと思います。
お住いの町名の由来なども調べれば、思いがつかない事があるかも。
地元の、図書館、公民館図書室などに郷土誌が置いてあると思いますので、御一読を。

島原半島を支配していた、有馬晴信はキリシタン大名で、半島の寺院等をかなり破壊しています。

バスは私も乗りましたが、結構、面白いですよ。バスは各地を回っているので、近くに来たときは、是非ご乗車を。

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